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⇒ [105] 中つ巻(綏靖天皇~開化天皇4) |
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2015.07.14(tue) [106] 中つ巻(綏靖天皇~開化天皇5)〔孝安天皇〕 ▼▲ |
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大倭帶日子國押人命坐葛城室之秋津嶋宮治天下也
此天皇娶姪忍鹿比賣命 生御子大吉備諸進命次大倭根子日子賦斗邇命【二柱 自賦下三字以音】 故大倭根子日子賦斗邇命者治天下也 天皇御年壹佰貳拾參歲御陵在玉手岡上也 大倭帯日子国押人(おほやまとたらしひこくにおし)の命(みこと)、葛城(かつらき)の室(むろ)之(の)秋津嶋(あきつしま)の宮(みや)に坐(ま)し天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 此の天皇(すめらみこと)姪(めひ)忍鹿比売(おしかひめ)の命を娶(めあは)せ、生(あ)れましし御子(みこ)、大吉備(おほきび)の諸進(もろす)の命、次に大倭根子日子賦斗邇(おほやまとねこひこふとに)の命【二(ふた)柱なり。賦自(よ)り下(しもつかた)三字(みじ)音(こゑ)を以ゐる。】 故(かれ)大倭根子日子賦斗邇の命者(は)天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 天皇の御年(みとし)は壱佰弐拾参歳(ももとせあまりはたとせあまりみとせ)、御陵(みささき)は玉手(たまて)の岡上(をかのへ)に在り[也]。 大倭帯日子国押人命(おおやまとたらしひこくにおしのみこと)は、葛城(かつらき)の室(むろ)の秋津嶋(あきつしま)宮にいらっしゃり、天下を治められました。 この天皇は姪の忍鹿比売命(おしかひめのみこと)を娶り、皇子(みこ)大吉備(おおきび)の諸進命(もろすのみこと)、次に大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと)の二柱を生みなされました。
天皇は御年百二十三歳にて、御陵は玉手(たまて)の岡の上にあります。 【大倭帯日子国押人命】 おほやまとたらしひこくにおしひと。書紀では日本足彦国押人天皇。孝安天皇。 《""おほ"やまと"》
「やまとの国」は『倭名類聚抄』では「大和【於保夜萬止】」とあるように、「おほやまと」である。 さらに次の段、孝霊天皇には「意富夜麻登玖邇阿礼比売」(おほやまとくにあれひめ)が出てくること、 及び、孝霊・孝元両天皇は「大日本」と書くことから、「大倭」は「おほやまと」と訓まれた。ただ、「やまと」を「大倭」と記すこともあったと思われる。 問題は、孝安天皇だけ「日本」から「大」を外したことである。日本足彦国押人天皇の名は複数回出てくるので、筆写ミスによる脱落ではない。 この不統一は気まぐれではなく、何らかの意味があると思われる。 「おほやまと」は地名であるが、その用法は、①大和の国の一部地域、②いわゆる大和の国(後の律令国)、③葦原中国の三通りがある。 天皇名につける場合は①~③のどれにも解釈が可能である。書紀では「日本」が使われるが、国号「日本」の開始は、書紀の編纂が最初に命じられた天武天皇10年(681年)ごろ※とされる。 書紀では、「やまと」の表記は「日本」に統一されている。 何れにしても、天皇名に冠せた「おほやまと」は形式的な美称である。 ※…天武紀下「令記定帝紀及上古諸事」。 敢えて「大倭垂」に「おほ」を付けずに訓むとどうなるか。その場合は「帯」と結合して「やまとたらし」となり、「天から降りて葦原中国を治めた」という意味が発生する。 書紀ではその意味を意識して、孝安天皇だけ「大倭」を「やまと」と訓んだように思われる。 《押人》 神武紀で、兄磯城は攻めてくる神武天皇を「天圧神(あめのおしかみ)」と表現した(第99回)。 それから類推すると、「押人」の名は「この地に押してきた」歴史を暗示するものと読み取ることができる。 前項と併せて考えれば、「倭に降りてきた神の子孫〔=天孫族〕が葛城郡の室の地に押してきた」という意味となる。 前回、掖上地域の独立氏族の存在を考古学の成果から推定したが、記紀編纂期には、この地に独立氏族がいたことが記憶に残っていたようだ。 かゑしね(孝昭天皇)は、地付きの神の名前であろう。しかし天孫族はこの独立氏族をそのままでは置かず、乗り込んで支配下に置いた。それを、「倭垂彦押人」の名が表現している。 宮殿名「秋津島」は葦原中国のことかも知れない(次項)。 このように記は、かしゑね(地付きの神)・押人(押してきた勢力)の2代の名をもって、掖上の独立氏族を支配下に置いたストーリーを描いている。 【葛城室之秋津嶋宮】 宮山古墳の後円部の縁の、八幡神社内に石碑がある。孝安天皇自体が伝説であるから、その場所に宮殿があったとするのは、空想に過ぎない。 しかし前回孝昭天皇の段で、古墳時代の初期にこの地に独立勢力がいたと考えた。 宮山古墳は大王級の前方後円墳で、背後の巨勢丘陵には有数の古墳群があるから、恐らく弥生時代から、ことによるとそれ以前から信仰の地であったと思われる。 その伝統は、独立氏族の時期も、天孫族に統合された後も変わることはなかったであろう。 従って、神殿あるいは氏族の長の邸宅がこの辺りにあり、 その伝承によって「秋津嶋宮」が葛城国の室の地にあったと、記に書かれたのかも知れない。 《室》 写真は、「玉手丘上陵(孝安天皇陵)」の南から掖上方面を見たものである。ちょうど、左手奥に巨勢丘陵を見通すことができる。 巨勢丘陵にもまた、降臨神話があったのではないかと想像させるものがある。ここに多数の古墳が築かれたのは、死後ここから天に還るとする発想があったように思われる。 柿本人麻呂の歌に、天から神降りして地上を治めた神の子孫の天皇は、死して再び高天原の磐座の戸を開いて神上がると歌われる。 〔(万)0167 天雲之 八重雲別而 神下 …(中略)… 天原 石門乎開 神上 あまくもの やへくもわきて かむくだし…(飛鳥浄御原宮にて統治した天武天皇は亡くなり)…あまのはら いはとをひらき かむあがり〕 《秋津嶋宮》 神武天皇はほほみの丘に登って国見し、葦原中国に別名「秋津島」を与えた(第101回)。 秋津島は、もともと葛城の狭い範囲の地名だとする説もあるが、ここでは前項のように「秋津島宮=葦原中国の主の宮」の意味を込めたように思われる。 というのは、内陸なので「島」がついた地名は考えにくく、「秋津島」は国土全体を概念的に指すと考えられるからである。 この地に進出した天孫族においては、降臨伝説で天から降り立ったのは室の山であった。 「秋津嶋宮」が、宮山古墳の位置だと決めて石碑を建てたのは明治時代以降であるが、この地を攻めた天孫族が最初に拠点を築いたのは室であろうかと思われる。 <倭名類聚抄>釈名云兄弟之女為姪徒結反爾雅云所謂昆弟之子為姪是也一云弟之女為姪【和名米比】 〔釈名に云はく兄弟の女(むすめ)を姪〈徒結反〔発音表記:テツ〕〉とす。爾雅に云はく所謂(いはゆる)昆弟〔=兄弟〕の子を姪とすはこれなり。 ある云はく弟の女(むすめ)を姪とす。【和名めひ】〕</和名抄> つまり、姪の意味は兄弟の女・兄弟の子・弟の女の三通りが挙げられている。ここでは文脈から兄(天押帯日子命)の女を意味する。 【妃】 妃は兄の女なので、同族内の婚姻である。書紀の一書では、前代に続いて磯城県主葉江の閨閥から出る。 また別の一書では十市の県主の女である。 【大吉備諸進命】 次代の孝霊天皇の子は、何人かが吉備に進出する。記では大吉備諸進命を含め、二代にわたっているが。但し、書紀ではこの王は存在しない。 『氏族家系大辞典』によれば、中央勢力が西国に発展する段階で吉備は要地なので、 「第一に此の御代、大吉備諸進命の派遣となり、次いで〔次の孝霊の御代に〕両吉備津日子の派遣となりたるが如し。 但し史缺けて事蹟伝はらず、惜しむべきのみ。」と書いている。 即ち、同辞典の著作者、太田亮氏は吉備を制圧するのは大きな努力が必要だから、二代に渡って波状的に進出したと見て、記の説を採用している。 このように氏は、孝安・孝霊の代の系図については、記をベースとして書紀を当てはめているが、その裔については書紀を採用している。 この問題については、次回の孝霊天皇の段で詳しく検討する。 『延喜式』諸陵寮には、 「玉手丘上陵。室秋津嶋宮御宇孝安天皇。在大和国葛上郡。兆域東西六町南北六町。守戸五烟。」と記録されるが、その後伝承は絶え所在地は不明となる。 江戸時代の『五畿内志』(享保19年(1734年)完成、正式名は『日本輿地通志畿内部』) の「巻十六 大和国之六 葛上郡」の項に、 「玉手丘上陵 孝安天皇○玉手村陵南有二天神祠一小冢二在二邑中一。 〔玉手村の陵。南に天神の祠が2宇、村内に小さな塚が2基ある。〕=返り点は原文。」 これが幕末に認定され、現在宮内庁が管理する玉手の陵と見られる。「修陵」は慶応元年(1865年)に竣工し、事実上自然丘陵を円墳状に整える作業だったと言われている。 『五畿内志』に「玉手村の陵」と書かれるということは、それ以前から玉手村は存在していた訳である。おそらく記紀編纂期から一貫してこの辺りは「玉手」だったと思われる。 《玉手丘上陵探訪》 JR和歌山線の玉手駅の辺りから、南へ玉手に向かう(右図)。 ①玉手駅東の踏切越しに、玉手丘が見える。 ②踏切を越え、三叉路の左の道を南下し、橋を渡ると五叉路となる。 五叉路のうち、左から2番目の道を進むと、住宅の間を通り、右折すると陵への登り口に着く。五叉路のうち左から3番目の道は、枝が頭上に伸びた散歩道で、登り口に向かう。 ③登り口から石段を登ると急に視界が開け、マチュ・ピチュを連想させるような拝所が見える。拝所は他の天皇陵と同様、明治以後に整備したものであるが、 その石組みは群を抜いて雄大で美しい(右下の写真)。 陵墓治定の妥当性はともかくとして、ここは信仰の山としての雰囲気が漂う場所である。 その空気が、拝所の設計者にインスピレーションを呼び起こしたと思われる。 『五畿内志』によれば、江戸時代に2宇の祠があった。 ここからは、前述したように室の山(巨勢山古墳群の丘陵)を望むことができる。記紀で玉手の岡と書かれた場所が、古代からの信仰の丘であった可能性は高い。 《俯瞰写真》 秋津嶋宮と玉手丘上陵の比定地の位置関係を見る。 航空写真を撮った時点では、京奈和自動車道は工事中である。 【書紀】 第六目次 《孝安天皇》
母(みはは)は、世襲足媛(よそたらしひめ)と曰ひ、尾張(をはり)の連(むらじ)の遠祖(とほつおや)、瀛津世襲(をきつよそ)之(の)妹(いも)也(なり)。 天皇、観松彦香殖稲天皇の六十八年(むそとせあまりやとせ)春(はる)正月(むつき)を以ちて、立たして皇太子(ひつぎのみこ)と為(し)たまひき。 八十三年(やそとせあまりみとせ)秋(あき)八月(はつき)、観松彦香殖稲天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 元年(はじめのとし、ひととせ)春正月(むつき)乙酉朔辛卯(きのととりをつきたちとしてかのとうのひ)〔7日〕、皇太子(ひつぎのみこ)天皇の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。 秋(あき)八月(はつき)辛巳朔(かのとみのつきたち)、皇后(おほきさき)を尊(たふと)びて皇太后(おほきさき)と曰(たた)へたまふ。是年(このとし)[也]、太歳(たいさい、ふととし)己丑(つちのえうし)。 二年(ふたとせ)冬(ふゆ)十月(かみなづき)、[於]室(むろ)の地(ところ)に都(みやこ)を遷(うつ)したまひて、是(これ)秋津嶋(あきつしま)の宮と謂ふ。 二十六年(はたとせあまりむとせ)春二月(きさらぎ)己丑朔壬寅(つちのとうしをつきたちとしみづのえとらのひ)〔14日〕、姪(めひ)押媛(おしひめ)を立たして皇后(おほきさき)と為(し)たまふ。
一云(あるにいはく)、十市(とほち)の県主五十坂彦(いさかひこ)の女(むすめ)五十坂媛(いさかひめ)といふ[也]。 后(のち)、大日本根子彦太瓊(おほやまとねこひこふとに)天皇(すめらみこと)を生みたまふ。 三十八年(みそとせあまりやとせ)秋八月(はつき)丙子(ひのえね)朔己丑(つちのとうし)〔14日〕、観松彦香殖稲天皇を[于]掖上(わきのかみ)の博多(はかた)の山上(やまのへ)の陵(みささき)に葬(はぶ)りたまふ。 七十六年(ななそとせあまりむとせ)春正月(むつき)己巳(つちのとみ)朔癸酉(みづのととり)〔5日〕、大日本根子彦太瓊尊を立たし、皇太子と為(し)たまふ、年(みとし)は廿六(はたちあまりむつ)。 百二年(ももとせあまりふたとせ)春正月戊戌(つちのえいぬ)朔丙午(ひのえうま)〔9日〕、天皇崩ず。 《孝霊天皇》
《暦》 朔日は6回出てくるが、何れも神武天皇で仮定した暦と矛盾しない(参照)。 まとめ 宮を置いたとされる地は、掖上の南方の室である。そして、陵は北方の玉手の丘である。これらの位置関係は、この地にやってきた天孫族が、南から北に向かって独立氏族を征圧していった経過を物語るように思える。 この地にやってきた天孫族は当然降臨神話を持ってきたが、この一族はその降臨の地を巨勢丘陵にしたのかも知れない。民族が移住するとき、信仰の山は現地で改めて見つけられるものである。 巨勢山古墳群の存在は、この地が天と地を繋ぐ回廊と考えられたのではないかと思わせる。 天孫族によるこの地の制圧は、神武天皇紀(即位前)で高尾張邑の土蜘蛛を誅殺する話として描かれている(第99回)。 また、臍見長柄丘岬が長柄神社(御所市)の場所だとすれば、これも該当する。 だから、神武紀に掖上の独立氏族の制圧が書かれてはいるが、孝昭紀から孝安紀においてはこの経過は書かれず、表面的な皇位の継承が書かれるのみである。 なお玉手の丘は弥生時代以前から信仰の対象で、その信仰は独立氏族から制圧した天孫族へと引き継がれたのだろう。それを受け、記において天皇陵のひとつと定められたと思われる。従って、江戸時代の陵墓の推定は、この陵に関しては妥当性がある。 |
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2015.07.29(wed) [107] 中つ巻(綏靖天皇~開化天皇6)〔孝霊天皇〕 ▼▲ |
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大倭根子日子賦斗邇命坐黑田廬戸宮治天下也
此天皇娶十市縣主之祖大目之女名細比賣命 生御子大倭根子日子國玖琉命【一柱玖琉二字以音】 大倭根子日子賦斗邇(おほやまとねこひこふとに)の命(みこと)黒田(くるた)の廬戸宮(いほとのみや)に坐し天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 此の天皇(すめらのみこと)十市(とほち)の県主(あがたぬし)之(の)祖(おや)大目(おほめ)之(の)女(むすめ)、名は細比売(ほそひめ、くはしひめ)の命を娶(めあは)せ、 生(あ)れましし御子(みこ)、大倭根子日子国玖琉(おほやまとねこひこくにくる)の命【一柱(ひとはしら)なり。「玖琉」の二字(ふたじ)音(こゑ)を以ゐる。】 又娶春日之千千速眞若比賣 生御子千千速比賣命【一柱】 又(また)、春日(かすか)之(の)千千速真若比売(ちちはやまわかひめ)を娶せ、 生(あ)れましし御子、千千速比売(ちちはやひめ)の命【一柱なり。】 又娶意富夜麻登玖邇阿禮比賣命 生御子夜麻登登母母曾毘賣命 次日子刺肩別命 次比古伊佐勢理毘古命亦名大吉備津日子命 次倭飛羽矢若屋比賣【四柱】 又、意富夜麻登玖邇阿礼比売(おほやまとくにあれひめ)の命を娶せ、 生(あ)れましし御子、夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)の命、 次に日子刺肩別(ひこさしかたわけ)の命、 次に比古伊佐勢理毘古(ひこいさせりびこ)の命、亦名(またのな)は大吉備津日子(おほきびつひこ)の命、 次に倭飛羽矢若屋比売(やまととびはやわかやひめ)【四柱(よはしら)なり。】 又娶其阿禮比賣命之弟蠅伊呂杼 生御子日子寤間命 次若日子建吉備津日子命【二柱】 此天皇之御子等幷八柱【男王五女王三】 又、其(そ)の阿礼比売(あれひめ)の命之(の)弟(おと)蠅伊呂杼(はへいろど)を娶せ、 生(あ)れましし御子、日子寤間(ひこさめま)の命、 次に若日子建吉備津日子(わかひこたけきびつひこ)の命【二柱(ふたはしら)なり。】 此の天皇之(の)御子等(ら)并(あは)せ八柱(やはしら)【男王(をのきみ)五(いつはしら)女王(めのきみ)三(みはしら)】なり。 故大倭根子日子國玖琉命者治天下也 故(かれ)、大倭根子日子国玖琉(おほやまとねこひこくにくる)の命者(は)天下を治(をさ)めたまふ[也]。
『倭名類聚抄』には、「城下【之岐乃之毛】郡 黒田【久留多】」 かつて城下郡にあった黒田村は、明治22年(1889年)に合併により都村に、さらに1956年合併により田原本町の北部地域となる。 近畿日本鉄道田原本線の駅名に「黒田」があり、「孝霊神社(廬戸神社)」がある。また、法楽寺に「廬戸宮趾伝承地」の碑がある。 田原本町の大字唐古から鍵にかけて唐古・鍵遺跡がある。同遺跡は弥生時代の環濠集落で、多様な遺物が出土し<田原本町のページ>近畿地域の盟主的な集落と考えられている。</田原本町> 《独立氏族の可能性》 孝昭天皇の段で、その地域に存在した独立氏族の伝説が反映されている可能性を見た。孝霊天皇の記述にも同じような特徴があることが注目される。
②両方とも、神武紀において制圧した地域である。 ③天皇の皇子が、子孫に遠隔地に枝族をもつ有力氏族の祖である。 皇后の細比売は、十市県主、大目の女。書紀では細媛という名は共通だが、磯城県主の女とする(さらに、別説が2つ添えられている)。 意富夜麻登玖邇阿礼比売・蠅伊呂杼姉妹は、安寧天皇(第3代)の皇子、師木津彦の孫であった(第103回)。 「おほやまとくに」は「大倭国」である。その冠が娘夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)に引き継がれることから、これは単なる美称とは言い切れず、狭義のやまと地域に関係が深いことを示している。 書紀では、蠅いろねの別名は倭国香媛で、倭迹々日百襲姫と共に「日本」ではなく「倭」を用いている。 記の「国阿礼比売」が「国香媛」に変わった理由を深読みすると面白い。「国有れ」は国の始まりを期待する言葉で、それに応えるのが大王級の陵墓を残した倭迹々日百襲姫だと読み取り得るからである。 書紀では、倭迹々日百襲姫が初代の大王であったことを匂わせる名前が、嫌われたのかも知れない。 「はへ」一族については、書紀一書では孝昭・孝安両天皇の妃が磯城県主葉江の女とされ、これで三代に亘って外戚として磯城の豪族が存在感を示す。 式上郡はやまと地域を含む。狭義のやまと地域は三輪山の西・南の山麓で、最初期の大和古墳群にあたる。 【夜麻登登母母曽毘売】 やまととももそひめ。書紀では倭迹々日百襲姫(やまとととひももそひめ)で、記のみにある妹の倭飛羽矢若屋比売(やまととびはやわかやひめ)の「飛」が、名前に混ざっている。 そのためか、日を濁音「び」としている例がある。ネットで検索をかけると、ひ:88%、び:12%である。 書紀では、倭迹々日百襲姫は崇神紀において、①崇神天皇に、神懸って助言する。②大物主が蛇に化身したことに気づかなかったことをきっかけに死に到り、大市の箸墓に葬られる。 記では、名が出てくるのみで、物語はない。 箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないかという説があり、邪馬台国九州説・畿内説に絡んで議論が盛んである。 【男王五柱、女王三柱、併せて八柱】 天照と須佐之男の間の男女の子の数と同じ組み合わせ(第46回)で、3・5・8という三大吉数の揃い踏みである。 書紀では男王4柱、女王2柱で吉数は特に気にしていない。 【於針間氷河之前居忌瓮而針間為道口】 宣長の『古事記伝』には「氷河は物に見えず、今此名は存らぬか、国人に尋ぬべし」と書き、その追究をあっさり諦めている。 播磨国の大きな川は、加古川である。その河口付近で、上古には岬(「前(さき)」)であったと思われる地形を探すと、日岡山がそれらしく見える。 日岡山について調べると、宮内庁によって景行天皇の皇后、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおほいらつめ)命の陵に指定されている。 記では「針間之伊那毘能大郎女〔郎女=いらつめは、女を敬愛して呼ぶ語〕」と現し、若建吉備津日子の女である。 一方、加古川の源流は兵庫県丹波市にある。丹波市は<倭名類聚抄>丹波国 氷上【比加三】郡</和名抄>に一致する。 氷河が、「氷にある川」を意味するのなら、「前(さき)」は岬ではなく上流から見て「下流」という意味であろう。 忌瓮(いはひへ)については、万葉集に分かり易い歌がある。 (万)3927 久佐麻久良 多妣由久吉美乎 佐伎久安礼等 伊波比倍須恵都 安我登許能敝尓 くさまくら たびゆくきみを さきくあれと いはひへすゑつ あがとこのべに この歌は、越中国に赴任する大伴家持を坂上の郎女(いらつめ)が別れを惜しみつつ送り出したときの歌で、 旅立つ家持のために、自分の床の辺に忌瓮を据えようと歌ったもの。旅に出るときは忌瓮=神聖な瓶(かめ)には神酒などを入れて据え置くことで、無事を祈ったのであろう。 大吉備津日子命と若建吉備津日子命は、氷川のさきで忌瓮を据える儀式を行った後、播磨口から吉備の征圧に向かったのである。 《先住族を滅ぼしたか》 吉備の八十猛(やそたける)を「誅した」とは書かず、「言向和」(交渉によって従わせ、平定する)と書いている点が注目される。先住の諸族を、基本的に交渉によってまとめて味方につけたと読める。 実は、吉備には一貫して有力な氏族がいたのではないだろうか。 《「欠史八代」の例外》 綏靖天皇から開化天皇までの事跡を欠く中で、この一文だけは例外である。初期大和政権の成立期に、吉備国の存在が大きかったことを示している。 【吉備系の氏族】 孝霊天皇の子は九氏族の祖とされるが、それぞれ次の表のように特定することができる。本貫地は吉備国で、その支族が越の国、駿河、国東半島に分布している。
『姓氏家系大辞典』が、「稚武彦の子孫、吉備武彦は日本武尊の東夷征伐に従軍し…」とする件は、以下を指す。 景行天皇紀「天皇、則命吉備武彦与大伴武日連、令従日本武尊。〔天皇、吉備武彦と大伴武日連に命じ、日本武尊に従わせた。〕」 そして、日本武尊は「分道、遣吉備武彦於越国、令監察其地形嶮易及人民順不。〔道を分かち、吉備武彦を越の国に遣わし、その地形が険しいか易いか、人民が従うか否かを観察させた。〕」 これが、記の「日子刺肩別命は角鹿〔=敦賀〕海直の祖である」の内容だと見られる。しかし、新撰姓氏録及び書紀は、吉備武彦は日子刺肩別命ではなく稚武彦命の子孫だとしている。 この点を同辞典は「記は、他の書と流れを異とする」と書く。 この件に関する同辞典の解説はなかなか読み取りにくいが、要約すると、 ①日子刺肩別命は、若建吉備津彦命(若武彦)と同一神であるが、誤って別神とした。〔つまり、もともと蠅いろ弟の子若武彦の別名だったのを、別神扱いして蠅いろ姉の子としてしまった。〕 ②吉備津彦の解釈は、 「吉備津彦は二か所に出てくる。即ちア蠅いろねの子(大吉備津彦)、イ若武彦命の子孫。吉備津彦はもともと個人名ではなく、原始的姓氏と見るべきで〔「肩書のようなもの」の意か〕、両方とも「吉備津彦」である。 ただ、そのうち代表的なものを選ぶとすれば、『新撰姓氏録』により、若武彦命の子とするのが穏当である。」 ③記では大吉備津彦・若建吉備津彦が相携えて吉備を制圧したが、吉備の諸族が総じて若建吉備津彦を祖としている点については、 「大吉備津彦の子孫は早く絶えしものなるべし。此に反して若建吉備津彦の子孫は大いに栄えて、上古から中古に亘りて、第一流の大族たるもの尠〔=少な〕からず。 故に吉備氏族と云ふも、主として此の皇子〔=若建吉備津彦〕の裔〔すえ〕なるを知るべし。」と解釈している。 このように同辞典では、記・紀・新撰姓氏録などを統一的に理解しようとして苦心している。 しかし実際のところは、記編纂の時点ではまだ、吉備系の祖について多様な伝説が存在していたと想像される。 特に記は、大・若のついた両「吉備彦」については上道臣・下道臣を割り当て、形を整えたと見られる。 それらが次第に整理されていき、新撰姓氏録の段階で定式化されたと思われる。 その過程で、各氏の祖は若建吉備津彦に収斂していく。 記で若建吉備津彦を祖とするのは、唯一吉備下道臣であった(記の「若日子建吉備津彦」は書紀の「稚武彦」と同一だと思われる)。 その後、吉備下道臣は恐らく吉備系支族を束ねる立場だったために、配下の諸族の祖は若建吉備津彦に統一された。 このようにして「日子刺肩別命は…の祖である」は否定されたが、記述自体はそのまま残っている。 記は民衆の中では相変わらず根強く読まれたと想像されるが、平安中期の官僚の世界では書紀がバイブルであり、記は既に歴史的文献と見做されていたようである。 また、最終的に否定されたとは言え、記に日子刺肩別・比古伊佐勢理毘古・日子寤間など様々な名前が出て来ること自体が、古代吉備氏族が大族であったことを物語っている。 【片岡馬坂上陵】 《延喜式諸陵寮》 片丘馬坂陵 黒田廬戸宮御宇孝霊天皇。在大和国葛下郡。兆域東西五町。南北五町。守戸五烟。 《五畿内志巻十七・大和国葛下郡》 孝霊天皇○在二大寺村馬脊坂東山中一陵畔有二冢二一。〔畔=傍ら。返り点は原文〕 《王寺村・馬ヶ脊城》 明治22年葛下郡藤井村・王寺村の区域をもって王寺村成立、後に王寺町となる。 王寺の名は、聖徳太子が建立した放光寺(片岡王寺、元々の所在地は王寺小学校付近)に由来する。
また、『家紋World―片岡氏』のサイトの研究によれば、 ある系図において、藤原不比等を祖とし綱利の代に「片岡氏を号す」とし、 別の系図では中臣片岡連五百千麻呂を祖とする。 片岡城(別名下牧城)の城跡は、北葛城郡上牧町にある。 「馬ヶ脊城」は片岡城の支城の一つで現存していたが、住宅地開発のため開平された。それに先立ち、王寺町教育委員会は2008年に発掘調査を行った。 1300年代に「片岡」の名が文献に見え、現実に城が残るから、記紀の「片岡・片丘」がこの地を指したのは間違いない。 『五畿内志』は、片岡の地の大寺村馬脊坂を、記紀の「馬坂」として、 その東側の丘を「片岡馬坂上陵」と決定したようである。 【吉備国と大和との関わり】 《楯築墳丘墓》 吉備には、後に前方後円墳に発展したという説もある大墳丘がある(岡山県倉敷市矢部)。 それは楯築(たてつき)弥生墳丘墓と言い、弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に造営され、強大な首長の墓であったと考えられている。 寸法は、直径43m、円丘の高さ5m、突起部まで合わせると全長80m。 木棺木槨の二重棺は、円丘部の中央を掘り下げて収められていた。 中央を掘り下げる点は、前方後円墳(前期)の竪穴式石室と共通である。 二重棺であったことに関して、魏志倭人伝には「有棺無槨〔倭国の埋葬は一般に一重棺であった〕」と書かれている。 また、初期の前方後円墳である黒塚古墳(柳本町)は、丸太を縦割りして繰り抜き一重の棺(割竹形木棺)とし、多数の平たい石で覆われている(石槨)。 楯築墳丘墓では箱形木棺の二重棺になっている。箱型木棺は弥生時代に一般的であった。 出現期の大王墓規模の前方後円墳、箸墓古墳の石室・棺を詳しく調べ、楯築墳丘墓と比較すれば弥生墳丘墓と前方後円墳との関係がより明瞭になるだろう。 しかし箸墓古墳は宮内庁によって管理され、研究者のためには2013年に僅かに周辺部の観察の機会が与えられた程度で、学術調査は基本的に禁止されている。 楯築墳丘墓の二重棺は排水を配慮した構造を備え、よく精製された良質の水銀朱が大量に使用されていたと言う。 黒塚古墳でも、木棺の位置に水銀朱が明瞭に残っていた。 なお、墳丘平坦面の端や突出部に追加の埋葬があったことも分っている。 さらに高さ1.12mの特殊器台が発掘されていて、その上に特殊壺を載せて墳頂部で儀礼が行われたと見られる。 この特殊器台・特殊壺はその文様から見て、初期前方後円墳の円筒埴輪に連続的に移行するという。
《吉備系が孝霊天皇の皇子の末裔とされること》 素戔嗚は、天照に抗ったが、系図上は天照の弟である。 このように「A族がB族に服従すると、後世A族をB族の根元近くに接ぎ木した系図が造られる」法則がある。 吉備族の出自にこれを適用すすれば、天孫族は古代吉備族を統合したことになる。 前項で見たように、楯築墳丘墓のような双方円形墳が前方後円墳に連続的に移行したとすれば、古代吉備族が天孫族に服従するとともに、その文化が大和政権の初期に持ち込まれたことになる。 《倭迹々日百襲姫の出自》 前方後円墳出現期(3世紀中葉)の箸墓古墳には、政権黎明期の女王が葬られたと思われる。前方後円墳が双方中円墳の発展形だとすれば、女王の出自は吉備系氏族となる。 書紀によれば、箸墓古墳に葬られたのは倭迹々日百襲姫である。大和の地に縁のある百襲姫が、同時に吉備系氏族の祖の兄弟とされるのは、この歴史を暗示しているかも知れない。 《吉備系氏族》 このように、天孫族は古代吉備族の文化を引き継いでいると見られるが、 だからと言って古代吉備族が直接大和政権になったとするのも難しい。それは、吉備系諸族が天孫族の傍系と位置づけられているからである。 もし吉備族=天孫族なら、吉備族が別個の氏族として書かれることは有り得ない。 やはり、吉備氏族は一貫して独立性を保っていたと考えざるを得ない。 次に、東征の歴史も併せて考えてみる。 東征の途上に吉備を通ったのだから、古代吉備族との間でひと悶着があったはずである。 記では神武天皇は、安芸に7年、吉備に8年留まっている。書紀では吉備の国に3年留まり、一気に天下取りをするための準備を整えたとする。 この経過から考えられるケースとしては、まず次の2つが考えられる。 ①しばらく吉備に留まっていた天孫族が、実は古代吉備族の本体だった。 そして主力は、畿内に移動する。しかし一部の勢力が吉備に残り、それが後の吉備系の氏族となった。 ②天孫族は吉備の沿岸部にしばらく留まったが、先住の古代吉備族に勝利することができず、しばらく後に畿内に移動した。 《吉備の女王を天孫族が推戴した?》 あるいは、次のように古代吉備族の一部が天孫族に合流した可能性もある。これは、近藤義郎氏の提唱した説に近い。 ③古代吉備族と、天孫族は相互に独立の存在であったが、諸族の統一にあたって吉備族の女王を共立した。 吉備族の女王は並はずれたカリスマだったが、一方で大和の地の天孫族は諸族の中で最も強大であった。 倭国大乱を集結させるための話し合いの結果、都は大和に置き、女王を吉備から迎え入れた。その墳墓は、当然女王の出身の吉備国から持ち込まれ、その様式が元になり前方後円墳が成立した。 以後、大王の墳墓、あるいは各地の支配下の王の墳墓として定着した。 この筋書きなら、古代吉備族がその後も独立氏族として残ったのは当然のこととなる。 そしてこの説なら、
ただ、東征の途上天孫族が吉備に滞在したとき、何があったのかという問題はまだ未解決である。 《大吉備彦・若吉備彦》 さて、大吉備彦・若吉備彦による吉備国制圧はどのように考えればよいのだろうか。 その理解のしかたは、 A系図を成立させるための、全くのフィクションである。 B実際に制圧しようとして進出した歴史がある。 が考えられる。 記でこの地に2神が制圧にでかけたという記述自体が、吉備に強力な独立勢力があったことを暗示すると見るべきであろう。 だとすれば、上記②と本項Bの組み合わせが妥当である。 その後、③のように倭国大乱終結のために吉備族出身の女王を招いて推戴した。 吉備族が天孫族から分岐した系図が造られたのは、後に吉備氏族が天孫族に完全に服属した後であろう。 【磯城の独立氏族と吉備族の関係】 前述したように、「おほやまとねこひこふとに」の名はこの地の独立氏族を表すのではないかと考えた。それでは、この独立氏族と吉備族との関係はどうなっているのだろう。 恐らくは、磯城の独立氏族は吉備の古代氏族とは無関係であろう。 妃は3人あり、そのうち千千速真若比売は磯城の独立氏族に、阿礼比売・蠅伊呂杼姉妹が吉備系氏族に割り振られていることからも、もともと別々の事柄であったのをこの代に集約したのかも知れない。 これまでの多氏・和邇氏と同様に、吉備氏系にも天孫の世継ぎの系図から分岐した地位を与えるため、初期の天皇にそれぞれを割り振ったと見られる。神武天皇からは多氏、孝昭天皇からは和邇氏、そして孝霊天皇からは吉備氏が派生することにした。 現実の歴史には、その事実は存在しないだろう。ただ、神武天皇を除く孝昭・孝霊天皇はもともとローカルな独立氏族としての存在を暗示するので、そこに目をつけて天孫族外の大氏族の祖とされたのかも知れない。 【書紀】 第七目次 《孝霊天皇》
母(みはは)は押媛(おしひめ)と曰(い)ひて、蓋(けだし)天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)の命(みこと)之(の)女(むすめ)なる乎(や)。 天皇、日本足彦国押人天皇の七十六年(ななとせあまりむとせ)春正月(むつき)を以ちて、立たし皇太子(ひつぎのみこ)と為(な)りたまふ。 百二年(ももとせあまりふたとせ)春正月(むつき)、日本足彦国押人天皇崩ず。 秋九月(ながつき)甲午(きのえうま)を朔(つきたち)とし丙午(ひのえね)〔十三日〕、日本足彦国押人天皇を[于]玉手(たまで)の丘上(をかのへ)の陵(みささき)に葬(はぶ)りたまふ。 冬十二月(しはす)癸亥(みづのとゐ)朔丙寅(ひのえとら)、皇太子[於]黒田(くるた)に都を遷(うつ)したまひ、是を廬戸(いほと)の宮と謂ふ。 元年(はじめのとし)春正月(むつき)壬辰(みづのえたつ)朔癸卯(みづのとう)〔十二日〕、太子(ひつぎのみこ)天皇の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。 皇后(おほきさき)を尊(たふと)びて皇太后(おほきさき)と曰(たた)ふ。是年[也]、太歳(たいさい、ふととし)辛未(かのとひつじ)。 二年(ふたとせ)春二月(きさらぎ)丙辰(ひのえたつ)朔丙寅(ひのえとら)〔十一日〕、細媛(ほそひめ、くはしひめ)の命を立たし、皇后(おほきさき)と為したまひ、 【一云(あるにいはく)、春日千乳早山香媛(かすかのちちはやまかひめ)。一云、十市県主(とほちのあがたぬし)等(ら)の祖(おや)の女(むすめ)真舌媛(ましたひめ)也(なり)。】 后(きさき)大日本根子彦国牽(おほやまとねこひこくにくる)の天皇を生みたまふ。
亦(また)絚某弟(はへいろど)を妃とし、彦狭嶋(ひこさしま)の命・稚武彦(わかたけひこ)の命を生みたまふ。 弟(おと)稚武彦の命、是吉備(きび)の臣(おみ)之(の)始めの祖(おや)也(なり)。 三十六年(みそとせあまりむとせ)春正月(むつき)己亥(つちのと)の朔〔一日〕、彦国牽(ひこくにくる)の尊を立たし、皇太子(ひつぎのみこ)と為(し)たまふ。 七十六年(ななそとせあまりむとせ)春二月(きさらき)丙午(ひのえうま)朔癸丑(みづのとうし)〔八日〕、天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 《孝元天皇》
六年(むとせ)秋九月(ながつき)戊戌(つちのえいぬ)朔癸卯(みづのえう)、大日本根子彦太瓊天皇を[于]片丘馬坂(かたをかのむまさか)の陵(みささき)に葬(はぶ)りたまふ。 《蓋》 蓋しは、「恐らく」の意。前段で挙げた、妃についての別説の存在を含みとする表現であろう。 《絚某姉・絚某弟》 絚(縆の異体字)は「糸を張る」意味。(古訓)くむ、つな、のふ〔伸ぶ〕。など。 ネット上には「紐」に置き換えた例も見る。紐の古訓は、ひほ〔ひぼ〕、ひも、むすふ〔むすぶ〕。 何れも「はへ」とは訓まないが、記の「蠅伊呂杼」の訓み「はへいろど」に、書紀では「絚某弟」の字を宛てたと思われる。 《暦》 朔日は6回出てくるが、何れも神武天皇で仮定した暦と矛盾しない(参考資料)。 まとめ 徳川家康が征夷大将軍になるために系図を創作して、源氏を名乗ったのは有名な話である。 有力な豪族が台頭したとき、その必要に応じて勢力に見合う祖を定めたのは、古代からの習いであろう。 中国でも、例えば春秋戦国時代にライバルであった呉・越は、呉は夏の少康の庶子無余を祖とし、越は周朝の先王、古公亶父の子、太伯・虞仲を祖とする。 これらも伝説であることは明らかである(資料参照)。 吉備氏族の祖の決定についても、古事記以来しばらく揺れがあった。記の記述のように、先住豪族を崇神天皇以前に実際に天孫族の支配下に置いたかどうかは不明である が、初期大和政権の命運を握るような大勢力が吉備にあったと思われる。 さて、ここで初めて倭迹々日百襲姫が登場する。吉備系の兄弟と血縁が近い点が注目される。 姫が葬られたのは、前方後円墳出現期の巨大古墳の箸墓古墳だと伝わる。記が吉備族に多くの字数を割く裏には、吉備から女王が大和にやってきたという古い伝説の存在があるかも知れない。 しかし、倭迹々日百襲姫は結局天皇になれなかった。政権のスタートは天孫族・吉備族を中心とする連合政権であり、 女王を「共立」したがそれは天孫族にとっては不本意なことで、やがて徐々に天孫族が比重を高めた結果、やっと自らの大王を取り戻したのだろう。その不満が記憶に残っていたので、倭迹々日百襲姫の扱いを取るに足らないものにした。 その一方で前方後円墳という埋葬の形態は、後の自前の大王にも引き継がれた。 また、女王の「鬼道」も太陽信仰として残り、後の天照信仰に繋がったのかも知れない。 |
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2015.08.25(tue) [108] 中つ巻(綏靖天皇~開化天皇7)〔孝元天皇〕 ▼▲ |
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大倭根子日子國玖琉命坐輕之堺原宮 治天下也
此天皇娶穗積臣等之祖內色許男命【色許二字以音下效此】妹內色許賣命 生御子大毘古命 次少名日子建猪心命 次若倭根子日子大毘毘命【三柱】 大倭根子日子国玖琉命(おほやまとねこひこくにくるのみこと)軽(かる)之(の)堺原宮(さかひのはらのみや)に坐(ま)し天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。 此の天皇(すめらみこと)穂積臣(ほづみのおみ)等(ら)之(の)祖(おや)内色許男命(うつしこをのみこと)【色許(しこ)の二字(ふたじ)音(こゑ)を以ゐる。下(しも)此(これ)に効(なら)ふ。】の妹(いも)内色許売命(うつしこめのみこと)を娶(めあは)せ、 生(あ)れましし御子(みこ)、大毘古命(おほびこのみこと)、次に少名日子建猪心命(すくなひこたけゐこころのみこと)、次に若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおほびびのみこと)【三柱(みはしら)なり。】 又娶內色許男命之女伊迦賀色許賣命 生御子比古布都押之信命【自比至都以音】 又娶河內青玉之女名波邇夜須毘賣 生御子建波邇夜須毘古命【一柱】 此天皇之御子等幷五柱 又、内色許男命之(の)女(むすめ)伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)を娶せ、 生(あ)れましし御子は、比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)【比自(よ)り都至(まで)音を以ゐる。】なり。 又、河内青玉(かふちのあをたま)之女(むすめ)、名は波邇夜須毘売(はにやすびめ)を娶し、 生(あ)れましし御子、建波邇夜須毘古命(たけはにやすびこのみこと)【一柱なり。】 此の天皇之御子等并(あは)せ五柱(いつはしら)なり。 故若倭根子日子大毘毘命者治天下也 其兄大毘古命之子建沼河別命者【阿倍臣等之祖】 次比古伊那許士別命【自比至士六字以音 此者膳臣之祖也】 故(かれ)、若倭根子日子大毘毘命(わかやまとねこひこおほびびのみこと)者(は)天下を治めたまふ[也]。 其の兄、大毘古命之(の)子(みこ)、建沼河別命(たけぬまかはわけ)者(は)【阿倍臣(あべのおみ)等(ら)之祖(おや)、】 次に比古伊那許士別命(ひこいなこしわけのみこと)、【比自り士至(まで)六字(むじ)音を以ゐる。此(こ)者(は)膳臣(かしはでのおみ)之祖(おや)也(なり)。】 比古布都押之信命 娶尾張連等之祖意富那毘之妹葛城之高千那毘賣【那毘二字以音】 生子味師內宿禰【此者山代內臣之祖也】 又娶木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣 生子建內宿禰 比古布都押之信命、尾張連(おはりのむらじ)等之祖(おや)意富那毘(おほなび)之妹(いも)葛城之高千那毘売(かつらぎのたかちなびめ)【那毘の二字音を以ゐる。】を娶せ、 生(あれましし)子、味師内宿祢(うましうつのすくね)、【此者(こは)山代内臣(やましろうちのおみ)之(の)祖(おや)也(なり)。】 又、木国造(きのくにのみやつこ)之祖(おや)宇豆比古(うづひこ)之妹(いも)山下影日売(やましたかげひめ)を娶せ、 生れましし子は、建内宿祢(たけのうちのすくね)なり。
此建內宿禰之子幷九【男七女二】
「孝元天皇軽境原宮趾」碑が、牟佐坐神社(むさにますじんじゃ、橿原市見瀬町718)の参道にある。 同社は墳丘を思わせる高台の上にあるが、特に墳丘であるとは言われていない。 同社は江戸時代初期まで、榊原(境原)天神と称されていた。 また、『延喜式』神名帳には、高市郡内の式内社に「牟佐坐神社」が書かれる。 《牟佐坐神社》 境内に掲示された由緒沿革に、「日本書紀天武天皇紀は安康天皇の御世牟佐村(現見瀬町) 村主 青の経営であった。…」とある。 その出典を探ると、『和州五郡神社神名帳大略注解』(室町時代、1446)に「安康天皇、呉使主(くれのおみ)青に勅して牟佐村主と為す」とあると言う。 さらに書紀によると、 ① 青は、雄略天皇によってしばしば呉に派遣された(実際には雄略天皇の時代は宋だが、呉は恐らく地域を指す)。 例えば、「十二年夏四月丙子朔己卯、身狹村主青与檜隈民使博徳、出使于呉。」〔身狹(むさ)の村主(すぐり)青(あを)と檜隈民使(ひぐまのたみのつかひ)博徳(はかとこ)、呉に出でしむ〕など。 ② 天武天皇即位前紀によれば、軍が金綱井に滞在した時、高市県主許梅に憑いた神が「名事代主神。又身狹社所居、名生霊神者也。」〔名は事代主神、亦の名は身狹社に居る生霊神(いくみたまのかみ)である〕と名乗る。 当社が「牟佐坐神社」と見做されるようになったのは、 大和志(『日本輿地通志畿内部』享保20(1735)~21年)―大和国之十四高市郡で、 「牟佐坐神社 …○在二三瀬村一今称二境原天神一 天武紀所レ謂生雷神即此」 〔三瀬村にあり、今に境原天神と称す。天武紀に謂ふところの生雷神即ちこれなり。〕 と認定されたことによると考えられる。「生雷神」は、天武紀の「生霊神」の誤記であろうが、誤った名称のまま祭神となっている。 《孝元天皇軽境原宮趾》 裏面に、「大正四年十一月 奈良縣教育會建之」とある。江戸時代後期から戦前まで、復古主義的な風潮の下、神武紀を中心とした書紀の研究が推進されたのは、しばしば述べているところである。 孝元天皇の顕彰碑の建立も、その流れであろう。 ここが孝元天皇の宮と考えられたのは、牟佐坐神社の以前の名称「境原天神」によるものと思われる。 地名軽については、懿徳天皇の回(第104回【軽】)で詳しく調べた。 これまでの各回と同様、前後の系図を示した。原文に書かれた血縁は、この系図に尽きる。訳文を読むのに比べても、はるかに分かり易い。 【木国造之祖】 記では、宇豆比古を紀伊国の国造の祖としている。また、書紀では景行天皇紀で、紀の直(あたひ)、菟道彦(うぢひこ)とする。 紀の国造については、さまざまな異説がある。 《珍彦》 書紀には、菟道彦とは別に「珍彦(うづひこ)」が出てくる。 珍彦は速吸門で水先案内人を務め、椎根津彦の名を与えられた(第96回)。 また、神武天皇による畿内制定後の論功行賞で、「珍彦為倭国造」〔大和の国造に任ずる〕(第101回)とある。 『国造本記』では、「橿原朝御世、以椎根津彥命、初為大倭國造。大倭、考云和名抄所見城上郡大和即是也」として神武紀の記載を採用し、その地を「大和国城上(式上)郡大和郷」と解釈している。 即ち、「うづひこ」は記では紀伊国造だが、書紀では大和国造である。 《天道根命》 紀の国造の祖は、天道根命(あめのみちねのみこと)だとする伝説もある。この神は記紀には出てこない。 『国造本記』は、紀伊国造は『天神本紀』の「神皇産霊尊の第二子、天道根命」と『新選姓氏録』の「神魂命の五世の孫」の二説を引用し、これらは「相矛盾す」と述べている。 天道根命については、日前神宮・国懸神宮(和歌山市秋月365)の御由緒に、石凝姥命(いしこりどめのみこと)が造った鏡が同神宮に奉祀され、 神武東征後、天道根命がこの地で紀伊国造に任命されたとある。 <wikipediaより>国造が廃された後も、日前神宮・国懸神宮の宮司が「紀伊国造」を称している。現在の当主は第82代の紀俊明氏である。</wikipedia> 石凝姥命に、天岩戸を開けさせるために天照の姿を刻んだ鏡を製作させ、その鏡が後に紀伊国の日前に祀られた話は、書紀〈是後素戔嗚尊之爲行也甚無状態〉の段一書1(天照大神の天岩戸閉じ籠り事件)にある (第49回)。 姓氏家系大辞典(以後〈大辞典〉)に、紀伊国造職補任からの引用がある。『紀伊国造職補任考』は本居宣長が『紀国造系譜』を研究して著した書である。 曰く、
天道根命は書紀で神武天皇に随行して働いた道臣命と名前が類似する。また論功行賞で大和国造に任じられたのは珍彦である。天道根命は、この両者が混合した感がある。 なお、もともとの書紀一書では、石凝姥が鏡に天照像を彫刻する際に用いた道具が日矛だったはずだが、「日矛鏡」という鏡になったのは伝承の過程で起った変形である。 《出雲系3神》 天道根命とは別に、紀伊国造は出雲系3神を祀ったという言い伝えもある。 <Wikipedia>『先代旧事本紀』地祇本紀に紀伊国造は五十猛命、大屋姫命、抓津姫命の所謂伊太祁曽三神を祀る</wikipedia>と書く。 伊太祁曽三神については、書紀の「是時素戔嗚尊自天而降到於出雲国簸之川上」の段一書五に「素戔鳴尊之子、号曰五十猛命、妹大屋津姫命、次枛津姫命。凡此三神、亦能分布木種、即奉渡於紀伊國也」 とある。 つまり書紀には「日像鏡・日矛を祀る」「太祁曽三神を祀る」の両方が、別々の場所に記載されている。 《紀国造》 記紀に登場しない「天道根命」を紀伊の国の祖とするところに、この地域の独自性が現れている。大和国の隣の国なのだが。 この国の独自性については、神武東征の際も、牟婁から上陸を試みた痕跡が、現地の言い伝えあるいは神社の名に残っていないことに注目した。 《紀伊国の祖》 天道根命を祖とする紀伊国造家は、記の編者に初期天皇からの接続を申請せず、独自に神皇産霊尊を祖としたことが注目される。 ここで想起されるのは、神皇産霊尊は一度殺された大国主を生き返らせ、また子の少彦名命を大国主を助けるために派遣したことである。 ここからは、天孫族と一線を画し、出雲と繋がってようにも思われるが、後述するように天道根命勢力は出雲系三神を追放する。 《木臣》 一方、紀臣は、武内宿祢―木角宿祢を祖とし、朝臣を賜っている(後述)。紀臣は、石川臣と同祖とされるので、遡れば蘇我氏と同祖である。 紀臣は、紀伊国造とは別系統と見られる。 現在の奈良県生駒郡平群町上庄に「平群坐紀氏(へぐりにますきのうじ)神社」がある。この地は古く、「平群県紀里(へぐりあがたきのさと)」と呼ばれたという。 『田中卓著作集2』に引用された「紀氏家牒」に、「家大倭国平群県紀里」とある。「家牒」は『古語拾遺』(806)に「国史家牒」なる語句が収録され、この時代の流行語だったらしい(佐伯有清:北海道大論文1983)とされるので、『紀氏家牒』が書かれたのは平安時代だと思われる。 地域的に武内宿祢系諸族の本貫(蘇我、平群、葛城、巨勢)に含まれるので、妥当だろうと思われる。 しかし、系図の出発点にいる山下影日売が「木国造之祖」と書かれる以上、やはり木臣の先祖は紀国にあり、後に平群郡に移住したことによって「紀の里」という地名ができたとするのが、自然な読み方である。 〈大辞典〉の紀氏の項は、14ページに亘る大論文である。それによると紀伊国には、次の諸族があったとする。 ①五十猛神など3神を斎く、出雲系の氏族。②紀国に先住の豪族で、神武によって誅された名草戸畔(なくさのとべ)。③紀国造の祖、天道根命。日前国懸を斎く。 ④紀臣。武内宿祢の子木角宿祢の裔。 これらの相互関係について、②は①と同一でこの地に威を振るい、③が①(=②)を誅することによって神武から国造の地位を賜ったとする。 しかし、氏は「③は記紀にはなく、後世の仮冒(=偽称)で、実は②と同系統かも知れない」 とも提案するが、当面は「猶ほ考ふべく、今暫く旧説に従はん。」としている。 なお、〈大辞典〉は、④の紀臣については別系統として、菟道彦の女・影媛(記では、宇豆比古の妹・山下影日売)―武内宿祢を継ぎ、蘇我、平群、葛城、巨勢と並び古代の大族で、平安朝までその余勢を維持したとする。 《ミニ「国譲り」》 伊太祁曽神社と日前宮は両方とも名草郡にあり、女王名草戸部は神武天皇に抵抗し、神武天皇の兄五瀬命の陵がある竈山神社も名草郡にある。 伊太祁曽神社の社伝によれば、<wikipedia>元々この地に伊太祁曽神社があったが、紀伊国における国譲りの結果、日前神・国懸神が土地を手に入れ、伊太祁曽神社は現在地に遷座した</wikipedia>という。 同神社の御由緒によれば、日前宮が旧伊太祁曽神社にご鎮座したのは垂仁天皇16年で、伊太祁曽神社は押し出される形で「亥の森」という所に鎮座し、和銅6年(713)になって、そこから500mほど離れた現在の社地に移ったとある。 「紀伊国における国譲り」という表現の出所は不明であるが、この表現には伊太祁曽三神は出雲系だとする自覚が感じられる。 《紀伊国の謎》 以上のように、紀伊国の祖として名草戸部、伊太祁曽三神、天道根命、木臣などが乱立する。 これら相互の関係をすっきり理解するのはなかなか難しい。そこで、取り敢えず次の2つの立場を掲げ、その下で整理してみたい。 A これらはすべて想像の産物である。従って、どのような言い伝えも共存し得る。 B 各族とも実在し、モザイク状に住み分けていた。 Aと考えられる理由は、紀伊国は森林に覆われた神秘的な世界で、さまざまな氏族の神がいたと思われることである。 だとすれば、伊太祁曽三神の話も、天道根命も、五瀬命を葬った話も、もともと相互に無関係に存在し得る。想像だから、紀伊国造の祖は何人いてもよい。 しかし、出雲からの紀伊への移民は神話ではなく、実際の出来事であった可能性がある。その根拠は「熊野」や「須佐」という地名を出雲から紀伊に持ってきたこと(第69回【紀一書六(その2)】)や、大国主神話でしばしば紀国が舞台になることなどである。 Bに立つ場合のポイントは、伊太祁曽の御由緒に載るミニ国譲りである。 この事件は、後から来た天孫族が大神宮を乗っ取り、伊太祁曽三神を追放し、日前神・国懸神を祀ったと解釈できる。そのとき、当然緊張関係が生じたであろう。 日像鏡は天照の天岩戸立て籠もりへの対応策として作られたもので、その性格は伊勢神宮の八咫鏡と同じである。従って、鏡の信仰を重んじる天孫族の一部が、古墳時代初期に名草郡に移ってきたと考えられる。 先住の出雲族は、天孫族に押されて三神を抱えて退去し、隠れて祀った。それが後に晴れて公認され、三神のために改めて神宮が造営されたのが和銅6年であった。 このようにストーリーを組み立てると、基本はBだが、後に生まれたと見られるさまざまな神話については整合性がないのでAだろう。 さて、肝心の建内宿祢の祖であるが、紀伊国出身だとして、出雲系と天孫系のどちらだろうか。前述のように「建」をかつて天孫族と対立した印とすれば、出雲系、あるいは名草戸部の裔とした方が自然である。 そして、名草郡から紀ノ川沿いに上流へ移動し、宇智郡から大和国に入り、葛上郡・高市郡・平群郡で建内宿祢系の諸族が展開する。 真福寺本には、筆写者以外の筆跡による書き込みがある(右図)。 A:其文注云味師内宿祢日本紀甘美内宿祢 B:武内宿祢為孝元天皇孫事 A,Bの筆跡は同一と認められる。 最初に書かれたのはBで、「建内宿祢」の傍に「孝元天皇の孫、武内宿祢のことである。」とある。 建内宿祢は記では孝元天皇の孫とされ、書紀の「曾孫」と食い違う。そのためか、記では武内宿祢は孝元天皇の孫であると注意喚起する。 更に文注Aを書き加えられた。曰く、「味師内宿祢」は、書紀の「甘美内宿祢」のことである。 「甘し」は「うまし」だが、マ行の前の「ウ」が「ム」になるのは、倭名類聚抄に「馬(和名無萬)」などの例がある。 真福寺本は南北朝時代の1371~1372年に筆写されたものなので、カナ文字は既に成立していた。 書紀において甘美内宿祢は応神天皇紀に登場し、武内宿祢の弟である。甘美内宿祢は天皇に讒言し、兄武内宿祢を殺させようとしたが、計略がばれて逆に武内宿祢に殺されるところであった。 しかし、天皇は甘美内宿祢を釈放した。この話には武内宿祢の偽物が名乗り出て代わりに自死したり、言い分の相違を正すために盟神探湯(くがたち)が出てきたりしてなかなか面白いが、精読は別の機会に譲る。 記では味師内宿祢を建内宿祢の異母兄弟とするが、書紀では単に「弟」とするのみである。 しかし、味師内宿祢は紀直(きのあたい)の祖の地位を賜ったと書かれ、一方景行天皇紀には武内宿祢の母影媛の父菟道彦は「紀直の遠祖」と書かれるので、甘美内宿祢の母は影媛または影媛の姉妹となる。 さて、おなじ固有名詞に対して記紀で使う漢字が違うのは通常のことだが、ここにだけ特に注釈があるのは不思議である。おそらく真福寺に集う学者の間で、この箇所の解釈が特別に議論になったのであろう。 【内色許売命・伊迦賀色許売命・波邇夜須毘売】 「内」は、書紀で「欝」と書くように「うつ」と読み習わされているが、もともとは「うち」であろう。地名としては『倭名類聚抄』に「大和国 宇智郡」がある。 「伊賀」は伊賀の国、またその中の伊賀郡がある。 「しこめ」は「醜女」で、かつて醜女は黄泉の国で伊弉諾尊を追った鬼の名である。 一方、大国主神の別名のひとつが「葦原色許男(あしはらのしこを)」である(第55回)。 このように、「醜(しこ)」はしばしば神聖なものに転化する(力士の四股名もその例)。類似する事例として、書紀の一書では天岩戸閉じ籠り事件で、鏡についた疵も霊験あらたかなものとなった(第50回一書2)。 埴安(はにやす)については、第99回〈20〉に地名譚があり、香具山の西の辺りだと考えられる。 父の「河内の青玉」という名と組み合わせると、河内の氏族から媛が高市郡にやってきたことになる。 何れも、かつてそれぞれの土地の豪族との間に交流があり、時には統合したことを示すと思われる。 【宿禰】 八色の姓が制定されたとき、真人、朝臣に次いで上から3番目に「宿禰」が定められた。 また、記紀では天皇初期の時代に、尊称あるいは尊敬の意をこめた人名として用いられている。 建内(武内)宿禰の7人の男子のうち5人も「宿禰」を称している。 宿祢は孝元天皇の項で初めて、かつ大量に現れる。もともと宿祢は、武内宿祢を祖とする一族が称した原始的姓(かばね)であったと見られる。 その語源は、「すくね」=「助く」+「(親しみを込めた接尾語)ね」だろうか。もともと朝廷を身近で支えたことに由来するか。 【建内宿祢】 《寿命》 記では、建内宿祢は成務天皇のとき大臣となり、最後の登場は仁徳天皇のときである。 成務天皇の崩は、太歳乙卯、仁徳天皇の崩は、太歳丁卯となっている。元々はそれぞれ西暦355年、422年であったと推定した (第43回【神功皇后の時代】)。 それによれば、建内宿祢の活動期間は50年程度になる。 一方、書紀では、武内宿祢は景行天皇3年に生まれ、最終の記事は継体天皇6年である。 機械的に西暦に置き換えると、 <wikipedia>『上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧』:景行天皇3年=西暦73年。継体天皇:継体天皇6年=西暦512年。</wikipedia> (いずれ精査する予定)で、439年以上生きたことになり、初期天皇の寿命をも凌駕する。 従って、書紀に於いては武内宿祢は完全に神話上の人物である。 第43回で述べたように、中哀天皇と応神天皇との間に神功皇后を挿入し、 書紀では神功皇后を魏志倭人伝の時代に合わせるために、中哀天皇以前を120年(太歳2廻り)遡らせたと見られる。それも武内宿祢の寿命を引き延ばした一因かも知れない。 もともとは記の原形における成務天皇から仁徳天皇の人で、モデルとなる人物が実在した可能性がある。 と言うのは、宿祢は八色の姓制定の後に、遡って登場人物に後付されたものかも知れないが、 それにしては数が多い(記で24名)ので、宿祢を姓とする一族が実際に存在していたと考える方が妥当だからである。 《陵墓》 葛城の大字室にある宮山古墳は、<wikipedia>古来「室大墓(むろのおおはか)」と称され、武内宿禰の墓とする伝があった</wikipedia>が、同古墳の築造時期は5世紀はじめとされ、時期が合わない。 築造時期から見て子の葛城襲津彦だという説もあるが、5世紀に臣下の立場で大王クラスの規模の墳墓を造ることが、果たして許されたであろうか。 ただ、この地に室大墓が武内宿祢のものだという伝承があること自体は、葛城が武内宿祢の本貫であったことを裏付ける。 《名の由来》 「建(たけ)」は、武力の人として振る舞うとき、名に被せられる(須佐之男⇒建須佐之男など)。 「内」は大和国宇智郡か。ここでは内色許売、宇豆比古の名が出て来た。母山下影日売の兄が宇豆比古だから、建内宿祢もその出身地を示すか。 建内宿祢は高市郡の諸族の祖となるので、高市郡に移動したのだろうか。武市(たけち)も建内と発音が似ている。 また、宇豆比古も紀国出身と書かれるので、一族の移動経路、紀国→宇智郡→葛上郡→高市郡が浮かび上がる。 【末裔の諸族】
上記の諸資料から推定される本貫を、地図上に項目番号で示した(右図)。地図の境界は律令国である。 移動したと考えられる氏族もあるが、各氏について主要な個所一か所のみを載せた。 対象の多くは大和国葛上郡・高市郡に集中しているので、その地域は別図を起し、推定地を赤丸で示した。 推定地とした根拠は、倭名類聚抄の郷名、江戸時代の村名、それらの伝統を引くと思われる現在の大字名、縁があると思われる式内社の比定地、これまでに知られている研究成果などである。 それでも詰め切れなかったものは、郡のところにカッコ書きで示した。 【的臣】 的は、いくはと訓む。〈大辞典〉に「倭名類聚抄では『和名萬斗』だが、新撰字鏡には『的【倭人姓、由久皮】〔倭人のかばね、ゆくは〕』とユクハの訓を残す。」とあるように、 「いくは」は「まと」よりも古い時代の言葉だと思われる。 〈大辞典〉では「的(いくは)」は地名とも職能集団とも考えられるとした上で、次の成り立ちを紹介している。 《姓氏家系大辞典(要約)》 仁徳天皇12年に、高麗国から鉄楯・鉄的を献上された。多くの者が射抜こうとしたがならず、唯一盾人宿祢だけが射抜いたので、褒められて的(いくは)戸田宿祢の名を賜った。 後の17年、新羅が朝貢しないので、的戸田宿祢等を派遣して朝貢させた。これは的戸田宿祢の新羅征伐は高麗好太王碑に、 「もともと高麗に属した新羅を、辛卯年に倭国が渡海し百済新羅等を破って臣民とした」と書かれたことに対応する。 その戦功により、的戸田宿祢は播磨国の部民「的部」を賜った。 《仁徳天皇紀12年》 上記の出典を書紀に探す。 「十二年秋七月辛未朔癸酉、高麗國貢鐵盾・鐵的。八月庚子朔己酉、饗高麗客於朝。 是日、集群臣及百寮、令射高麗所獻之鐵盾的、諸人不得射通的、唯的臣祖盾人宿禰射鐵的而通焉、 時高麗客等見之、畏其射之勝工、共起以拜朝。明日、美盾人宿禰而賜名曰的戸田宿禰」 〔12年7月3日高麗国は鉄盾・鉄的を献上。8月10日高麗の客人を朝廷で饗応。 この日、群臣と百寮を集め、高麗の献じた鉄盾的を射させたが、だれも的を射通せぬ中、唯一盾人宿祢が鉄的を射通した。 その時、高麗の客人はこれを見て、其の射術が鉄の工作技術に勝ったのを驚き恐れ、みな立ち上がって朝廷に敬礼した。 翌日、盾人宿祢を麗しみ、的戸田宿祢の名を賜った。〕 この記述で興味深いのは、仁徳天皇の時代、鉄を高麗に依存していたことと、高麗に対して強い対抗意識を持っていたところである。 《同17年》 「十七年、新羅不朝貢。秋九月、遣的臣祖砥田宿禰・小泊瀬造祖賢遺臣而問闕貢之事。 於是、新羅人懼之乃貢獻、調絹一千四百六十匹、及種々雜物、幷八十艘。」 〔17年、新羅朝貢せず。9月、的臣の祖・砥田(=戸田)宿祢、小泊瀬造の祖・賢遺臣(さかのこりのおみ)を遣わし、貢物を闕(=欠)いたことを問責した。 ここに、新羅の人は、憚り貢献し、絹1460匹(ひつ)はじめ種々の雑物、併せて船80隻を調えた。〕 《応神天皇16年》 〈大辞典〉には記述がないが、応神天皇にも、的戸田宿祢が登場する。 応神天皇14年に百済から弓月君(ゆづきのきみ)が帰化し、それに同行する予定の120県の民を迎えに葛城襲津彦を派遣したが、新羅に妨害されて加羅国に留め置かれていた。 そこで16年に平群木菟宿祢と的戸田宿祢に精兵を預けて加羅に派遣し、新羅国境で威嚇すると、新羅王は弓月の民と襲津彦を開放し、連れ帰ることができた。 原文:八月、遣平群木菟宿禰・的戸田宿禰於加羅、仍授精兵詔之曰「襲津彥久之不還、必由新羅之拒而滯之。汝等急往之擊新羅、披其道路。」於是木菟宿禰等、進精兵、莅于新羅之境。新羅王、愕之服其罪。乃率弓月之人夫、與襲津彥共來焉。 〔8月、平群木菟宿祢と的戸田宿祢を加羅に派遣し、精兵を授け、詔(みことのり)した。 「襲津彦が久しく還らないのは、必ず新羅が拒み滞留させているからだろう。汝ら急ぎ往き新羅を撃ち、その道を披(ひら)け」 ここに木菟宿祢らは、精兵を進め、新羅の境に莅(のぞ)み、新羅王、愕(おどろ)きその罪に服す。すなわち弓月の人夫を率い、襲津彦と共に来ることができた。〕 加羅は朝鮮半島の東南岸にある国で、魏志倭人伝に「狗邪(くや)韓国」の名で出てくる。 応神天皇は仁徳天皇の先代だから、整合性を保つためには、的戸田宿祢の名を遡って用いていると解釈しなければならない。 葛城襲津彦は上記「葛城長江曽都毘古」の項24で、武内宿祢の男子と書かれる。 《解釈》 以上の資料を繋ぎ合わせると、武内宿祢の子・襲津彦を百済に派遣したが、新羅によって加羅で足止されていたところを、襲津彦の子らによって救出された。 襲津彦の子は後に、高麗の献じた鉄盾鉄的をただ一人射ち抜き、的戸田宿祢の名を与えられた。後に新羅に攻め入って高麗の支配蚊から奪い返す武功を挙げ、〈大辞典〉によれば播磨国にも領地を与えられる。 〈大辞典〉は的氏を葛城氏の大族としているが、その根拠は記の「葛城長江曽都毘古を祖とする」によると思われる。 新撰姓氏録に、山城国・河内国・和泉国と3氏があるのは、畿内に大きく勢力を伸ばしたことを物語る。 これだけ広汎に分布すると本貫地の判断が難しくなるが、祖を葛城襲津彦とすることにより、発祥地は葛城のどこかであろう。 しかし、天武天皇13年の朝臣姓授与に的氏は含まれず、新撰姓氏録でも「臣」のままである。 古来、対新羅戦で活躍した伝統ある氏族だが、天武朝の頃には衰退し、後に再び盛り返したということであろうか。 【蘇我氏の盛衰】 蘇我稲目(そがのいなめ、系図では蘇我石川宿祢から5代目)は、その2人の女を欽明天皇(29代)に嫁がせ、外戚として威光を示す。 稲目の後、馬子(うまこ)・蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)の三代が続き、これに反感を持った中大兄皇子・中臣鎌子が乙巳の変(645)を起こし、入鹿は殺され蝦夷は自殺する。 しかし、その後も蘇我馬子の孫、蘇我赤兄(あかえ)・連子(むらじこ)が一定の勢力を保つ。 赤兄と、弟・蘇我果安(はたやす)は壬申の乱(672)で大友皇子側について敗れたが、 連子の子・宮麻呂(みやまろ)が天武天皇に取り立てられ、改めて石川朝臣の姓氏が与えられた。 〈大辞典〉から該当部分を抜粋すると、乙巳の変は「稲目、大連の大伴、物部氏と共に朝政を与る。 其の子馬子、父に次いで大臣となり、敏達、用明、推古諸朝に歴任す。その間に物部氏を亡ぼし、朝政を檀にし、遂に大逆を行うに至る。 其の子蝦夷、孫の入鹿、舒明、皇極の両朝に仕えしが、悪逆・馬子に越えたり。遂に皇極天皇の四年六月、父子共に誅に服す。」 壬申の乱以後は「赤兄は壬申の時、近江朝にありしを以って、天武朝の元年八月配流されて、この氏・大いに衰ふ。 かくて武内宿祢以来の大臣家も勢威・地に堕ちぬ。されど其の後連子の裔、石川氏を称し、奈良期を通じて、猶ほ未だ二流を下らず。 連は、天智紀三年条に『蘇我連大臣・薨ず』と見え、赤兄は天武前紀元年八月条に『左大臣蘇我臣赤兄』と見ゆるにより、当時猶ほ蘇我氏を称せしなり。 連の子宮麻呂は、和銅六年〔712年〕紀に『石川朝臣宮麻呂薨ず。近江朝大臣連子の第五男也』とあるにより、此の人より石川氏となれるが如し。」とある。 壬申の乱に勝利して浄御原朝を立てた後、天武天皇13年(684年)に授与した朝臣52氏の中に蘇我氏の名はなく、石川氏となっているのは当然である。 記の編纂時期は680~712年だから、その経過は正しく反映される。蘇我氏は戦犯なので、反逆への関与が薄かった者に当主を継がせ、さらに改氏させたと見られる。 しかし、世間ではまだ蘇我の名が一般的だったので、蘇我+石川=蘇賀石河宿祢という名前になったと思われる。 だから、この名は上古から伝わったものではなく、後の歴史経過を踏まえて作られたものである。 【建内宿祢の七男子の名】 初めの五男子の名は、「A(地名)+B(故事)+宿祢」の構造をしている。 Aは、波多・巨勢(許勢)・平群・紀(木)・久米(以上は倭名類聚抄に記載あり)、蘇賀である。 Bは、前項の「石川」には蘇我氏が断罪された歴史を示すことから、何らかの故事を反映している可能性がある。例えば、八代(やしろ)は「社」で、ゆかりのある地名か。 また角は、一時周防国の都努に留まった故事を示すか。しかし、蘇賀石河宿祢以外については確かなことは分らない。 何れにせよ、ここでは高市郡出身の諸族をいくつかのグループにまとめ、それぞれの謂れを五男子の名に込めたように思われる。従って、これらは古代から伝わる名ではなく、記を書いた時点で架空の名を想定してその下に諸族を割り振ったものである。 その他の二男子は二女子の次にあることから、後から氏族のグループを追加登録したと思われる。 葛城長江曽都毘古は「葛城郡の長江」にいた「そつひこ」、また若子宿祢は人物の性質を表したものであろう。 書紀には「劔池嶋上陵」。 延喜式:劔池嶋上陵軽境原宮御宇孝元天皇。在大和国高市郡。兆域東西二町。南北一町。守戸五烟。 五畿内志:大和国高市郡 【陵墓】劔池島上陵 孝元天皇○在二石河村劔池南一俗呼二中山冢一陵畔圓丘六 【山川】劔ノ池 在二石川村一廣四百畝許〔畝(せ)は面積の単位(=30歩。明治時代は99㎡)、許=およそ〕 石川村…畝傍村、大軽村などとともに明治22年に白橿村になった。 剣池は、現在の地図では石川池と表記される。明治29年(1896)に農業用溜池として拡張され、もともとは拡張した部分のみを石川池と呼んだと言う(『橿原日記』)。 『五畿内志』によれば、「陵畔円丘六」つまり、周囲に倍塚が6基あるという。地形図を照合すると、周囲に小山がいくつかある(右図の△印)。 「畔(ほとり)」が、上山古墳・丸山古墳まで含むのか、あるいはかつての円丘が宅地開発のために削られたのかは分からない。 植山古墳は、<wikipedia>改葬される前の、推古天皇とその子息竹田皇子の合葬墓であった古墳ではないかと言われている</wikipedia> 剣池は前方後円墳の周濠のようにも見える。記紀はこの墳墓を孝元天皇陵と認定し「剣池の中の岡」「剣池の嶋の上の陵」と呼んだと見られる。 この墳丘は、もともと前方後円墳1基と円墳2基からなり、中山塚1~3号墳と名付けられている。 それらは文久の修陵(江戸時代)のとき、ひとつの大きな陵墓に作り変えられた。 応神天皇紀11年10月に、「作二剣池・軽池・鹿垣池・厩坂池一。」とある。 従って、剣池は応神朝になってから潅漑用に作られた池で、陵とは無関係である。従って「劔池嶋上陵」の名は上古のものではなく、記紀編纂期にその景色から名づけられたものである。 【書紀】 第八目次 《孝元天皇》
母細媛(ほそひめ)の命と曰(い)ひたまひ、磯城(しき)の県主(あがたぬし)大目(おほめ)之(の)女(むすめ)也(なり)。 天皇、大日本根子彦太瓊天皇の卅六年(みそとせあまりむとせ)春正月(むつき)を以ちて、立たして為皇太子(ひつぎのみこにしたまふ)、年(みとし)十九(とつあまりここのつ)。 七十六年(ななそとせあまりむとせ)春二月(きさらぎ)、大日本根子彦太瓊天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 元年(はじめのとし)春正月(むつき)辛未(かのえひつじ)を朔(つきたち)とし甲申(きのえさる)のひ〔15日〕、太子(ひつぎのみこ)天皇の位(くらゐ)に即(つ)く。 皇后(おほきさき)を尊(たふと)び皇太后(おほきさき)と曰(とな)ふ。是の年[也]、太歳(ふととし)丁亥(ひのとゐ)。 四年(よとせ)春三月(やよひ)甲申(きのえさる)朔甲午(きのえうま)〔11日〕、[於]軽地(かるのところ)に都を遷(うつ)し、是(これ)を境原宮(さかひのはらのみや)と謂(い)ふ。 六年(むとせ)秋九月(ながつき)戊戌(つちのえいぬ)朔癸卯(みづのとう)〔6日〕、大日本根子彦太瓊天皇[于]片丘(かたをか)の馬坂(うむさか)の陵(みささぎ)に葬(はぶ)りたまふ。 七年(ななとせ)春二月(きさらぎ)丙寅(ひのえとら)朔丁卯(ひのとう)〔2日〕、欝色謎命(うつしこのみこと)を立たし皇后(おほきさき)と為(し)たまふ。 后(おほきさき)二男(ふたはしらのをのこ)と一女(ひとはしらのめのこ)を生みたまひ、 第一(ひとはしらめ)は大彦命(おほひこのみこと)と曰(なづ)け、 第二(ふたはしらめ)は稚日本根子彦大日々天皇(わかやまとねこひこおほひびすめらみこと)と曰(なづ)け、 第三(みはしらめ)は倭迹々姫命(やまとととひめのみこと)と曰(なづ)く。 【一云(あるいはく)、天皇の母弟(いろど)少彦男心命(すくなひこをこころのみこと)也(なり)。】 伊香色謎命(いかしこめのみこと)を妃(きさき)とし、 彦太忍信命(ひこふとおしまことのみこと)を生みたまふ。 次に河内(かふち)の青玉繋(あをたましげ)の女(むすめ)埴安媛(はにやすひめ)を妃とし、 武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)を生むたまふ。 兄大彦命、是(これ)阿倍(あべ)の臣(おみ)・膳(かしはで)の臣・阿閉(あへ)の臣・狭々城山(ささきやま)の君・筑紫(つくし)の国造(くにのみやつこ)・越(こし)の国造・伊賀(いが)の臣、凡(おほよそ)七(なな)族(やから)之(の)始めの祖(おや)なり[也]。 彦太忍信命、是(これ)武内宿祢(たけのうちのすくね)之(の)祖父(おほち)なり[也]。 廿二年(はたとせあまりふたとせ)春正月(むつき)己巳(つちのとみ)朔壬午(みづのえうま)〔14日〕、稚日本根子彦大日々尊(わかやまとねこひこおほひびのみこと)を立たして、皇太子(ひつぎのみこ)と為(し)たまふ、年(みとし)は十六(とちあまりむつ)。 五十七年(いそとせあまりななとせ)秋九月(ながつき)壬申(みづのえさる)を朔(つきたち)として癸酉(みづのととり)〔2日〕、大日本根子彦牽天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 《開化天皇》
《景行天皇》 書紀では、竹内宿禰の出生は〈景行天皇紀〉に載り、彦太忍信命―屋主忍男武雄心命―武内宿祢。記では比古布都押之信命―建内宿祢。〔系図参照〕
《母弟》 いろど(同母の弟)を表すと思われる。 《暦》 朔日は6回出てくるが、神武天皇で仮定した暦から、四年春三月甲申朔で初めて不一致を生じた(参照)。 まとめ 国玖琉(くにくる)天皇の名は、前代の根子日子賦斗邇(ねこひこふとに)で表される土着の勢力を制圧したことを物語ると推測した。 しかし、実質的にはこの天皇を借りて、武内宿祢を祖とする一大勢力の系譜を述べる部分になっている。 武内宿祢に始まる氏族群の分布を見ると、大和国葛上郡・高市郡が発祥の地で、そこから河内・近江・越前に進出した経過が見て取れる。中には筑前・周防に移った氏族もある。 国玖琉天皇の宮と陵が再び軽の地とされるのは、この武内宿祢の地域に引きずられたものであろう。 武内宿祢の裔には中世以後まで栄えた氏族もあり、神話の世界から現実的存在となり、書紀にも様々な逸話が載るようになる。 これまで述べたように、武内宿祢のルーツは宇智郡にあり、「建」がつくことから、当初は独立氏族として天孫族と対立していた可能性もある。 さらにその祖を辿ると、紀伊国に行きつく。武内宿祢系の氏族には「木臣」もあることや、祖の宇豆比古が木国造の祖であることから、神々の郷の名草郡から紀ノ川を上って宇智郡から大和国に入ったとする想像も可能である。 その紀伊国は神秘のベールに包まれ、様々な種族の神の郷であったようだ。 その中でおぼろげながら見えてきたのは、日前宮の天孫族と、伊太祁曽神社の出雲族による長年のにらみ合いである。それは、和銅6年にやっと和解したらしい。 その背景に、天武天皇が天孫系と出雲系の間に残る溝を埋めようとして、その結果記の編纂が進めるなどの動きがあったように思われる。 しかし、それ以外の名草戸部と以後の諸族との関係や武内宿祢の実際の出自などは、なかなか見えてこない。 |
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⇒ [109] 上つ巻(綏靖天皇~開化天皇8) |