古事記をそのまま読む サイト内検索
《トップ》 目次など 《関連ページ》 魏志倭人伝をそのまま読む

[101]  中つ巻(神武天皇6)

2015.05.24(日) [102] 中つ巻(綏靖天皇~開化天皇1)〔綏靖天皇〕 
神沼河耳命坐葛城高岡宮治天下也
此天皇娶師木縣主之祖河俣毘賣 生御子師木津日子玉手見命【一柱】
天皇御年肆拾伍歲御陵在衝田岡也

神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)、葛城(かつらぎ)の高岡宮(たかをかのみや)に坐(ま)し天下(あめのした)を治(をさめたまふ)[也]。
此の天皇(すめらみこと)、師木(しき)の県主(あがたぬし)之(の)祖(をや)河俣毘売(かはまたびめ)を娶(めあは)し、生(あ)れましし御子(みこ)、師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)【一柱(ひとはしら)なり】。
天皇の御年(みとし)肆拾伍歳(よそちあまりいつとせ)にて、御陵(みささき)衝田岡(つきたのをか)に在り[也]。


 神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)は、葛城(かつらぎ)の高岡宮(たかおかぐう)にまし、天下を治められました。
 この天皇は、師木の県主(あがたぬし)の祖、河俣毘売(かはまたびめ)を娶り、生まれた皇子(みこ)は、師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)の一柱です。
 天皇の御年(みとし)四十五歳にして、御陵(みささき)は衝田(つきた)の岡にあります。


【河俣毘売】
 「~女」(~のむすめ)という表現ではなく、自身が「県主の祖」という表現になっている。 これは、かつて大国主が八千矛神となって求婚した沼河比売自身が、高志の国の女王であった(第64回など)のと同類型で、 古代の氏族に女王制があったことをの名残と見られる。
 弥生時代には女王が埋葬されたと見られる遺跡もあり、例えば平原(ひらばる)遺跡1号墓(福岡県糸島市、弥生時代後期)については、 副葬品に武器が少なく装身具が多いので女性だと見られている。
 但し、書紀では「川派媛(かはまたひめ)は磯城県主のむすめである」という常識的な位置づけに改められる。 書紀では「ある部族を女王が支配する」表現を嫌う傾向がある。ただし、神功皇后は例外である。
 なお、氏族名「師木県主」は「師木津日子」の名に関連して用いられたと思われる。

【県主】
 あがたぬし。<wikipedia要約>国造や伴造の「ミヤツコ」よりも古い「ヌシ」の称号をもつから、3~4世紀に成立した</wikipedia>と言われる。 魏志倭人伝の伊都国の官「爾支」は、「ぬし」だと言われている。

【葛城の高岡宮】2015年9月21日加筆
 高岡宮は、倭名類聚抄の「葛上郡 高宮【多加美也たかみや」にあったと考えられている。 葛上郡は、ほぼ現在の御所市の区域に一致する。 高宮郡は現代の地名に直接的に残っていないので、比定地の決定は難しい。葛上郡には「日置・高宮・牟婁・桑原・上鳥・下鳥・太坂・楢原【奈良波良】・神戸・餘戸」があるが、地名が残るのは現在の大字「室」(牟婁)、 江戸時代の楢原村・鳥井戸村ぐらいである。
 『五畿内志』(1734年)には、葛上郡の【古蹟】の項に「高丘宮 森脇村 綏靖天皇都葛城是謂高丘宮○倶有古歌」とあり、 明治以後、森脇村内に推定した位置に「綏靖天皇葛城高丘宮趾」碑が建てられた。
 高丘・高宮に近い名称を探すと、『延喜式』神名帳に、「葛上郡十七座/高天彦神社」がある。よみ〔たかまひこ〕は、高(たか)+天(あま)のひこである。
 また、御所市南端の金剛山中腹の遺跡は、「高宮廃寺跡」と呼ばれる。
 五畿内志は森脇村が高宮郡にあったとするが、実際には高宮郡の範囲ははっきりしない。どちらかと言えば、高天彦神社や高宮廃寺跡を含む葛上郡南西部の方がありそうに思える。

【磯城地域の統合】
 記では、河俣毘売は磯城の古代女王だと読める。また、書紀の「一(ある)曰く」には、糸織媛は「春日県主のむすめ」とあり、春日は添上郡である。 王がその地の女王または王の女を娶ることを氏族の統合の象徴として表した例としては、大国主が高志の沼河比売を娶った話がある。 それに準えれば、神沼河耳命が、磯城あるいは層富の地域を統合したとする古い伝承が見えてくる。

綏靖~開化
第二代 綏靖天皇(一)
    綏靖天皇(二)
第三代 安寧天皇
第四代 懿徳天皇
第五代 孝昭天皇
第六代 孝安天皇
第七代 孝霊天皇
第八代 孝元天皇
第九代 開化天皇
【書紀】
第二(二)目次 《綏靖天皇(二)》
元年春正月壬申朔己卯、神渟名川耳尊、卽天皇位。
都葛城、是謂高丘宮。尊皇后曰皇太后。是年也、太歲庚辰。
二年春正月、立五十鈴依媛爲皇后。
【一書云、磯城縣主女川派媛。
一書云、春日縣主大日諸女絲織媛也。】
卽天皇之姨也。后生磯城津彥玉手看天皇。
四年夏四月、神八井耳命薨。卽葬于畝傍山北。
廿五年春正月壬午朔戊子、立皇子磯城津彥玉手看尊、爲皇太子。
卅三年夏五月、天皇不豫。
癸酉、崩。時年八十四。
甲子朔癸酉 元年(はじめのとし)春正月(むつき)壬申(みづのえさる)を朔(つきたち)とし己卯(つちのとうのひ)、神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)、天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。
葛城(かつらき)に都(みやこ)したまひて、是(これ)高丘宮(たかをかのみや)と謂(い)ふ。
皇后(おほきさき)を尊(たふと)びて皇太后(おほきさき)と曰(たた)ふ。是の年[也]、太歳(おほとし)庚辰(かのえたつ)。
二年(ふたとせ)春正月、五十鈴依媛(いすずよりひめ)を立たし皇后(おほみさき)と為(し)たまふ。
【一書(あるふみ)は磯城(しき)の県主(あがたぬし)の女(むすめ)川派媛(かはまたひめ)と云ひ、
一書に春日(かすが)の県主(あがたぬし)の大日諸(おほひもろ)の女(むすめ)糸織媛(いとよりひめ)と云ふ也(なり)。】
即ち天皇之(の)姨(みおば)[也]なり。后(きさき)、磯城津彦玉手看(しきつひこたまてみ)の天皇(すめらみこと)を生みたまふ。
四年(よとせ)夏四月(うづき)、神八井耳命(かむやゐみみのみこと)薨(こうじ、みまかり)て、即ち[于]畝傍山(うねびのやま)の北に葬(はぶ)りたまふ。
二十五年(はたちあまりいつとせ)春正月壬午(みづのえうま)を朔(つきたち)として戊子(つちのえねのひ)〔七日〕、皇子(みこ)磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと)を立たし、皇太子(ひつぎのみこ)と為(し)たまふ。
…(古訓)ははかたのをは、いもしうとめ。
春日…[地名] かすが。(倭名類聚抄)添上郡 春日【加須加】
不予(豫)…①楽しまない。②予期しないこと。③天子や、身分の高い人の病気。
三十三年(みそちあまりみとせ)夏五月(さつき)〔甲子朔〕、天皇不豫(ふよとなりたまふ、やみたまふ)。
癸酉(みづのととりのひ)〔十日〕、崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。時に年(よはひ)八十四(やそつあまりよとせ)。

《大意》
 元年正月8日、神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)、天皇に即位しました。葛城(かつらぎ)を都とし、これを高丘宮(たかおかのみや)と言います。皇后は、皇太后と尊称されました。この年は、太歳庚辰(かのえたつ)です。
 二年正月、五十鈴依媛(いすずよりひめ)を皇后に立てました。【一書によれば、磯城の県主(あがたぬし)の娘、川派媛(かわまたひめ)、あるいは春日(かすが)の県主(あがたぬし)大日諸(おほひもろ)の女(むすめ)糸織媛(いとよりひめ)とも言われます。】
 即ち神日本磐余彦天皇の姨上を皇后とし、磯城津彦玉手看(しきつひこたまてみ)天皇を生みなされました。
 四年四月、神八井耳命(かむやいみみのみこと)薨去(こうきょ)し、畝傍山(うねびのやま)の北に葬られました。
 二十五年正月7日、皇子(みこ)磯城津彦玉手看尊(しきつひこたまてみのみこと)を、皇太子にされました。
 三十三年五月、天皇は不予〔病〕となられ、 十日、崩御されました。時に八十四歳でした。

《尊皇后曰皇太后》
 〔皇后(おほきさき)を尊(たふと)び皇太后(おほきさき)と曰(たた)ふ。〕
時代別上代先代の皇后をもオホキサキと称する。「皇后・大后」は皇后を、「太后・皇太后」は皇太后を指し、その用字に区別があるようである。</時代別上代>
 訓は皇后、皇太后ともに「おほきさき」だから、漢字表記を意識しないと意味は伝わらない。
《姨》
<倭名類聚抄>
姨 母之姉妹
従母 母之姉妹【母方乃乎波】

</倭名類聚抄>
 この倭名類聚抄の記述から、五十鈴依媛は神日本磐余彦天皇(神武天皇)の母、媛蹈韛五十鈴媛命と姉妹であることになる。 なおこの説明は、別説の川派媛、絲織媛には該当しないと思われる。
《不予》
 岩波文庫版では「みやまひしたまふ」と訓むが、天子の身に起こったことに直接「病」と言うのを憚り、「不予〔予期せざること〕」と表現するのであるから、「みやまひ(御病)」は不適切である。
《癸酉》
 次の安寧天皇の即位は癸丑、即ち甲子から50年目であるのに対して、癸酉は甲子から10年目で、太歳だとすれば全く年が合わない。 岩波文庫版では日付だと解釈している。つまり「五月」の次にあるべき「○○朔○○」が脱落したと判断したのである。 この脱落は、書紀が未完稿であることの現れの一つである。日本で1872年まで使用されていた太陽太陰暦について研究した書に『日本暦日原典』(内田正男、著)があり、 同書によれば日本における暦の採用は、6世紀頃に伝えられた元嘉暦が最初である。
 その暦法のしくみ基づいてエクセルを使って計算してみたところ、神武朝・綏靖朝の日付にすべて合う範囲が見つかった。(研究報告:『神武・綏靖の日付に元嘉暦を適用する試み』)
 その範囲から外挿すると綏靖天皇33年は壬子年で、その5月の朔日は甲子であった。その場合、癸酉は10日となる。

【いわゆる「欠史八代」】
 第二代綏靖天皇~第九代開化天皇は、事跡の記述がなく系図のみなので「欠史八代」と呼ばれる。 歴史学者津田左右吉は1939年までに、中哀天皇までの13代を「欠史」としたが、現代では崇神天皇以後は実在したとして、「欠史八代」が定説となっている。
<木全清博『歴史教科書』
 最初の国定教科書は1904年にスタートした。 民間版の検定歴史教科書には、考古学的事実から始める日本歴史の叙述(神谷由道編『高等小学歴史』1891年など) が主流となりつつあったが、国定では「天照大神」を歴史の出発点とした。神話と史実の混同 という非合理的な歴史教育が、この後の半世紀の間の歴史教科書でつづくこととなった。

 第二次大戦前は日本書紀を歴史として教えてきたこと(右記)から、戦後それを否定する潮流の中でその非実在性が強調されることになった。
 しかし厳密に読むとこの8代は、その和風諡号、地名、姻戚自体が意味をもつことが分かる。 また、事跡を書かなかった理由自体も研究対象であるはずだ。
《なぜこの八代が書かれたか》
 ただ、この部分がほぼ系図のみであることも確かである。単純な父子継承であることも、第10代以後と大きく異なる。 古代天皇は基本的に、兄弟あるいは親戚関係による継承である。 継体天皇に至っては、血のつながりは5代前(応神天皇)に遡り、事実上系統は断絶している。 これらのことから、最初の8代は、創作されたものと考えられている。
 それでは、その「8代の挿入」にはどのような意味があるのだろう。
 神武紀には、即位は辛酉(しんゆう、かのととり)年と書いてある。中国の讖緯説によれば辛酉は革命の年と言われ、それに倣ったと言われる。 その通りであろうが、辛酉は60年毎に何回も巡ってくるので、8代合計の424年〔書紀による〕の理由にはならない。 ※しんいせつ…漢代以後の神秘思想。自然界の現象によって人事百般を予測した。 日本へは飛鳥時代ごろに伝わり,のちの陰陽道の中に受け継がれた。
 次に考えたのは、記では神武天皇はまだ神話の続きなので、歴史が始まる崇神天皇との間に断絶を設けるためという理由である。要するに餡子(あんこ)を挟んだのである。 それでもなぜ8代なのか、なぜそのような名前なのか、なぜその長さなのかは、やはり謎である。
立太子前天皇
最終年

開始年天皇
最終年
没年齢
前代年齢間隔太歳計算上明示
神武天皇15歳辛酉5876年127歳
綏靖天皇42年76年79庚辰1784歳
安寧天皇25年33癸丑5038年57歳
懿德天皇11年16歳38年38辛卯2834年77歳
孝昭天皇22年18歳34年35丙寅383年113歳
孝安天皇68年20歳83年83己丑26102年137歳
孝靈天皇76年26歳102年102辛未876年128歳
孝元天皇36年19歳76年76丁亥2457年116歳
開化天皇22年16歳57年57甲申2160年111歳115歳
《424年間》
 ことによると、424年は実年数かも知れないので、まずその可能性を考えてみる。 第43回で「初国知ろし召す」崇神天皇の実際の崩御は、西暦318年だったと推定した。 崇神天皇の在位期間68年を併せて遡らせると、綏靖天皇の即位は前200年ごろとなる。 有名な漢委奴国王印で知られる倭奴国への印綬の授与は、後漢書に記載があり後57年のことである。 だから、前200~後300年の区間の中ごろに、倭国を代表した国は奴国で、その範囲は恐らく北九州程度であった。 また倭国大乱(後述)の前は、日本海王国が倭国の中心だったかも知れないが、その場合は大国主=神武天皇という不思議なことになってしまう。 物証のある歴史としては、前方後円墳は3世紀半ばから始まり、畿内中心の全国規模の政権は、その頃漸く出現したと思われる。
 従って、この424年間に、北九州から東海地方あたりまで包含する強力な政権があったとは考えられない。
《各王朝の期間と所在地》
 しかし「東征」自体は全くのフィクションとは言えず、2世紀ごろ河内湾口で大戦闘が複数回あった可能性を考察した(第96回)。 そこで、2世紀から3世紀前半の100年ほどの期間に注目する。
 まず、第2代~第9代の在位期間を個別に見ると、34~102年である。 それらの王朝の所在地の中には、現在の地名から見て一定の根拠のある場所も含まれる。全体として 畝傍山周辺、葛城、磯城、層富に分散しているが、初期政権の纏向・柳本古墳群の地は含まれない。
漢風諱 古事記(諱)(宮)(没年)(陵) 日本書紀(諱)(宮)(没年)(陵)
神武天皇 神倭伊波礼毘古(かむやまといはれびこ)天皇畝火之白檮原宮137歳畝火山之北方白檮尾上 神日本磐余彦天皇畝傍之橿原127歳畝傍山東北
綏靖天皇 神沼河耳(かむぬなかはみみ)命葛城高岡宮*145歳衝田岡(つきたのをか) 神渟名川耳天皇葛城・高丘宮84歳桃花鳥田(つきた)丘上
安寧天皇 師木津日子玉手見(しきつひこたまてみ)命片塩浮穴宮*249歳畝火山之美富登(みほと) 磯城津彦玉手看天皇片塩・浮孔宮57歳畝傍山南御陰井上
懿德天皇 大倭日子鉏友(おほやまとひこすきとも)命軽之境岡宮*345歳畝火山之真名子谷上(まなこのたにのへ) 大日本彦耜友天皇軽地・曲峡宮77歳畝傍山南繊沙谿上(まなこのたにのへ)
孝昭天皇 御真津日子訶恵志泥(みまつひこかゑしね)命葛城掖上(わきのかみ)*493歳掖上博多山上 観松彦香殖稲天皇掖上・池心宮113歳掖上博多山上
孝安天皇 大倭帯日子国押人(おほやまとたらしひこくにおしひと)命葛城(むろ)之秋津嶋宮*5123歳玉手岡上(たまでのをかのへ) 日本足彦国押人天皇室地・秋津嶋宮137歳玉手丘上
孝靈天皇 大倭根子日子賦斗邇(おほやまとねこひこふとに)命黒田廬戸(いほと)*6106歳片岡馬坂上 大日本根子彦太瓊天皇黒田・廬戸宮128歳片丘馬坂
孝元天皇 大倭根子日子国玖琉(おほやまとねこひこくにくる)命軽之堺原宮*357歳剣池之中岡上 大日本根子彦国牽天皇軽・境原宮116歳剣池嶋上
開化天皇 若倭根子日子大毘毘(わかやまとねこひこおほびび)命春日之伊邪河宮*763歳伊邪河之坂上 稚日本根子彦大日々天皇春日地・率川宮115歳春日率川坂本
*1…(倭名類聚抄)葛上郡 高宮【多加美也】。 
*2…片塩浮穴宮は、諸説あるが決定的ではない。
*3…橿原市大軽町周辺と伝承される。 
*4…神武紀・推古紀・持統紀・履中紀に地名「掖上」。〔明治22、本間村など7村を掖上村に統合〕
*5…(倭名類聚抄)葛上郡 牟婁。葛上郡に室村。〔明治22、秋津村に統合〕
*6…(倭名類聚抄)城下郡 黒田【久留多】。城下郡に黒田村。〔明治22、都村に統合〕
*7…(倭名類聚抄)添上郡 春日【加須加】。
《「34~102年間」の持つ意味》
 ここで想起されるのが、中国の歴史書に書かれた倭国大乱である。『魏書』(三国志)、『後漢書』から大乱の記述を拾い出してみる。
魏書其国本亦以男子為王 住七八十年 倭国乱相攻伐 〔その国もとは男子を以て王と為し七八十年とどまり、倭国乱れ相攻伐すること歴年〕
隋書桓霊之間 其国大乱 逓相攻伐 歴年無主 〔桓(帝)・霊(帝)の間、其の国大乱、逓(たがいに)相(あい)攻伐し、歴年主無し〕 *桓帝(後漢11代) 146~167。 *霊帝(後漢12代) 168~189。
 魏志によれば、景初2年(238年)(同3年説もある)に、卑弥呼が送った使者を魏皇帝が拝謁した。その少し前に畿内を中心とする 全国規模の国家(とは言っても北九州~東海地方ぐらいだろう)が成立したと見られる。それは、その頃から「前方後円墳」が統一された墳墓形式として、急速に各地に広まったからである。 以上から、倭国大乱は大体130年開始、200年終了だと思われる。
 ということは、8代合計の424年よりも、個別の年数34~102年間の方に意味がありそうである。これが倭国大乱の期間を反映しているのではないか。 8代とされた王朝は、倭国大乱の時期に畿内の各地に同時期に並立していて、それらが統合された後に三輪山の西で統一政権が始まったと考えてみよう。 つまり、もともと水平に位置した8王朝を垂直に積み上げ、直線的な系図にしたとしてみる。
 このように仮定すると、説明がつく事柄がいくつかある。
 書紀で神武が3方面に片軍(かたいくさ)を同時にくりだしたという記述である。それに葛城の土蜘蛛を制圧した記述を含め、その方面は葛城、層富(添)、磯城下である。
 神武天皇紀によれば、[添上郡]層富県・波哆丘岬の新城戸畔、[天理市]和珥坂下の居勢祝、[御所市]臍見長柄丘岬の猪祝、[葛城]土蜘蛛をそれぞれ征圧した。 このように、神武が平定したとされる地域は、8王朝の分布と重なるのである(右地図)。
 【河俣毘売】の項で述べたように河俣毘売、糸織媛など各地の女王との婚姻はそれぞれの種族の征圧を意味する。
 8王朝を一本線の系図にしたのは、戦闘と統合の歴史のひとつの表現である。 各代の事跡を書かなかった理由も、ここにある。 というのは、その内容は互いに戦った歴史なので、とても書けなかったのである。
 また、この時代は各種族が環濠集落を築き防衛を固めた、抗争の時代にあたる。
《奈良県の環濠集落》
 環濠集落は、周囲に堀をめぐらした集落である。弥生時代の環濠集落は深く掘削された環濠に先を尖らせた杭を立て、防御的な性格があったという。 奈良県では唐古・鍵遺跡が有名である。また大和郡山市稗田町の環濠集落は、現存している。
 弥生時代後期である3世紀前半までは、大和平野には環濠集落を拠点として、多数の氏族が割拠していたと考えられる。 ただ、完全に環濠集落が独立していたのではなく、いくつかが連合してひとつの氏族を形成し、氏族同士で争っていたのではないかと想像される。
《8氏相互の親近感》
 しかし互いに戦ったとは言え、それは決して相手の絶滅まで突き進む絶対的敵対ではなく、何かのきっかけによって、和睦して統合することができた。魏志倭人伝に書かれた「女王を共立す」とは、このような氏族間の関係を表しているのかもしれない。 そうでなければ、互いの祖が一本の系図に繋がれることなどありえない。戦いは、本質的に同一種族内の内輪もめだったのである。
 対照的に、畿内に先着していた饒速日命は天皇の系列に入れられなかったので、傍流だったことになる。
 ここで東征に戻り、改めてその実相を探る。九州の諸族は、実際には氏族毎に、時をずらして畿内にやってきたと思われる。 そして到着後は、それぞれ別々に居住地を定め、互いに抗争が始まった。それまで移動経路においても、先住の出雲族等との戦いがあったのだろう。これが、倭国大乱の実相ではないかと想像される。
 8氏の祖の名が記されたということは、各氏族がある時期まで派閥として残存していたはずである。 そうでなければ、8族の王の名は残らない。そしてある時点で系図が垂直に合成されたと考えられる。 その系図が記に書かれたのは、氏族の統合の一環であろう。結局氏族ごとが別々にもっていた祖を、互いに共通の祖としたのである。 それぞれの王が在位したとされた期間は、各氏族の伝説に伝わる長さかも知れない。

まとめ
 2015年5月20日に、淡路島から銅鐸が7個発見されたと報じられた。淡路島は、九州方面から瀬戸内海を通ってやってきた古代人の到着地であることから、まだ大量の銅鐸があるだろうと予想されている。
淡路島は、伊邪那岐・伊邪那美が最初に生んだ島である(第35回)。以後四国、隠岐、九州…の順である。 弥生時代において、淡路島は文化の結集地であったことが伺われる。九州から畿内への人々の移動は、「東遷」に限らず、繰り返されていたのであろう。
 これまで検討してきたことから、改めて「神武東征神話」を生みだした背景をまとめると、
 出発点は阿蘇周辺で、古くはポリネシア、インドネシアに及ぶ海洋民族であった。 これは、釣り針喪失譚、地名"aso"の由来がポリネシア方面との繋がりを示唆すること。また、「多臣」が阿蘇近く、瀬戸内海沿岸から選ばれていることから推察した。
 東遷は、氏族毎に波状的に行われた。 饒速日命の先着がそれを物語っている。また、畿内に移動した後も、氏族同士の戦いが続いた。
 河内湾からの上陸に、弥生時代後期の当地の地理が描かれている(第96回)。  これは1~2世紀頃、この地に西から王がやってきて、激しい戦闘を繰り返し血が海を染めた記憶が伝説になって残っていることを示す。
 このような民族の記憶を素材として、畿内での建国物語が一人の英雄譚として結実した。そして彼を「神聖な倭の国の謂れの男=神倭伊波礼毘古」と名付けたのである。 歴史的事実と、記の物語との間の距離感は、概ねこの程度であろうと思われる。 また、神倭伊波礼毘古の僅か2代前は水中で呼吸ができるとする神話世代であり、神倭伊波礼毘古はまだまだ神話の色合いが濃い。何しろ畿内の地にはまだ尾の生えた人がいて、天下を治めたときに平定した相手は「荒ぶる」である。
 このようにして、民族の古い記憶がこの仮想の人物に集約され古事記に載った。ところが、その瞬間から新しい歴史、即ち「神武天皇」の現実感をどんどん増強していく歴史が始まった(前回【はつくにしろしめす】の項など)。 書紀が神武事跡に割り付けた日付には、暦法が厳密に適用されている(関連資料)。そのことが逆に、神武業績を恣意的に潤色したことを物語っている。 神倭伊波礼毘古から神武天皇への質的変化の歴史は、その影響が明治以後の国家体制の構築まで及ぶので、研究が深められるべきである。
《出雲国制圧はいつか》
 依然として残された謎は、日本海王国からの支配権奪取の時期である。大国主からの国譲りがこれだけ強調して書かれたのだから、出雲地方の制圧は事実であろう。 そして、魏志倭人伝を読めば、卑弥呼の3世紀初頭には解決済である。出雲国風土記には、大国主が攻め込まれて宮殿に戻り楯で防御を固めたという記事がある(第63回《楯縫郡》)から、軍事行動はあったであろう。 また、智頭街道に天照が出現した神話があるので、智頭街道は主要な進軍路の一つであろう。ただ、まだ畿内が統一されていない段階では最終的な制圧は難しいだろう。
 以上を総合すると、出雲を制圧したのは倭国大乱の終わりに近い時期にしぼられる。ただ、その時期は記紀・出雲風土記の記述や、考古学的資料からは見えてこない。


2015.05.29(金) [103] 中つ巻(綏靖天皇~開化天皇2)〔安寧天皇〕 
師木津日子玉手見命坐片鹽浮穴宮治天下也
此天皇娶河俣毘賣之兄縣主波延之女阿久斗比賣
生御子常根津日子伊呂泥命【自伊下三字以音】
次大倭日子鉏友命 次師木津日子命
此天皇之御子等幷三柱之中 大倭日子鉏友命者治天下也

師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)片塩(かたしほ)の浮穴(うきあな)の宮に坐(ま)し天下(あめのした)を治(をさめたまふ)也(なり)。
此の天皇、河俣毘売(かはまたひめ)之(の)兄(せ)県主(あがたぬし)波延(はえ)之(の)女(むすめ)阿久斗比売(あくとひめ)を娶(めあは)し、
生(あ)れましし御子(みこ)、常根津日子伊呂泥(とねつひこいろね)の命(みこと)【「伊」自(よ)り下三字(みじ)音(こゑ)を以ゐる。】、
次に大倭日子鉏友(おほやまとひこすきとも)の命、次に師木津日子(しきつひこ)の命なり。
此の天皇(すめらみこと)之御子(みこ)等(ら)并(あは)せて三柱(みはしら)之中(うち)、大倭日子鉏友命者(は)天下を治めたまふ[也]。


次師木津日子命之子二王坐
一子孫者【伊賀須知之稻置那婆理之稻置三野之稻置之祖】
一子和知都美命者 坐淡道之御井宮 故此王有二女
兄名蠅伊呂泥亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命 弟名蠅伊呂杼也

次に師木津日子命之(の)子、二王(ふたはしらのみこ)坐(ま)し、
一子孫(ひとりのすゑ)者(は)【伊賀(いが)の須知(すち)之(の)稲置(いなき)、那婆理(なばり)之(の)稲置(いなき)、三野(みの)之稲置之(の)祖(みおや)】。
一子(ひとりのみこ)和知都美(わちつみ)の命者(は)、淡道(あはぢ)之(の)御井(みゐ)の宮(みや)に坐(ま)し、故(かれ)此の王(みこ)二女(ふたりのむすめ)有り、
兄(いろね)の名(な)は蝿伊呂泥(はへいろね)、亦名(またのな)は意富夜麻登久邇阿礼比売命(おほやまとくにあれひめのみこと)、弟(いろど)の名は蝿伊呂杼(はへいろど)となづく[也]。


天皇御年肆拾玖歲 御陵在畝火山之美富登也

天皇の御年(みとし)四十九歳(よそとせあまりここのとせ)、御陵(みささき)は畝火山(うねびのやま)之(の)美富登(みほと)に在り[也]。


 師木津日子玉手見命(しきつひこたまてみのみこと)は片塩(かたしお)の浮穴(うきあな)宮を御座所とされ天下を治めました。
 この天皇は、河俣毘売(かわまたひめ)の兄の県主(あがたぬし)波延(はえ)の息女、阿久斗比売(あくとひめ)を娶り、 御子、常根津日子伊呂泥(とこねつひこいろね)の命、 次に大倭日子鉏友(おほやまとひこすきとも)の命、次に師木津日子(しきつひこ)の命を生みなされました。
 この天皇の御子ら、併せて三柱の中、大倭日子鉏友命は天下を治めました。
 次に師木津日子命の子は、二王いらっしゃり、 一人の子孫は伊賀の国の須知(すち)の稲寸(いなき)、名張の稲寸、三野(みの)の稲寸の先祖です。 一人の子、和知都美(わちつみ)の命は、淡路の御井の宮にいらっしゃり、この王は二人の息女があり、 姉の名は蝿伊呂泥(はえいろね)、別の名は意富夜麻登久邇阿礼比売(おおやまとくにあれひめ)の命、妹の名は蝿伊呂杼(はえいろど)です。
 天皇は御年四十九歳、御陵は畝傍山の美富登(みほと)にあります。


いなき(稲置)…①大化の改新以前の地方官。②後に、八色の姓の最も下。
すち(須知)…(倭名類聚抄)伊賀国 名張郡 周知。
なばり(那婆理)…(倭名類聚抄)伊賀国 名張郡 名張【奈波利】。

【師木津日子玉手見天皇(安寧天皇)】
 「師木津日子」は「磯城の彦」、即ち地域の神で、その子にも再びこの名がつけられる。 「玉手見=手の美称+魂」で素朴な信仰に由来すると思われる。 葛上郡には、明治初年の時点で玉手村が存在した。明治22年に掖上村の一部になり、神武天皇が国見した腋上嗛間丘の比定地のひとつ、本間山の近くである。

【片塩浮穴宮】
 宣長は、河内の大橋で一人去る少女の歌、(万)1742 級照 片足羽河之 左丹塗 大橋之上従 しなでる かたしはがはの さにぬりの おほはしのうへゆ。の中に「かたしは」を見出し、 また『新撰姓氏録』の氏族に「河内国 浮穴直」を見出し、河内国としている。しかし、その地は他の八代の宮の範囲から大きく外れる。 
 石園座多久虫玉神社(大和高田市片塩町)には、「安寧天皇片塩浮孔宮趾」の石碑がある(右図)。 なお、<wikipedia>現在の大和高田市に残る「片塩」「浮孔」といった町名・施設名は、全て近代以降の復古地名</wikipedia>であると言う。 一方、『大和名所記 和州旧跡幽考』(林宗甫、1681年)十六巻に、「帝王編年に曰く、畝傍山の北にあり。今の四条村の北、皇宮の跡なり。」と書かれる(右図)。 この地は、現在の奈良県橿原市四条町に当たる。 第9代までの陵は、基本的に宮に近い場所なので、その点から見れば「畝火山之美富登」に最も近い橿原市四条町が有利である。しかし後述するように陵の治定の根拠は、記紀の段階で既に不確かである。
 たとえば、開化天皇綾(奈良県奈良市油阪町山の寺)は全長105mの前方後円墳だが、古墳時代中期の5世紀前半ごろのものと推定され、崇神天皇以前という時代に合わない。

【河俣毘売之兄県主波延之女阿久斗比売】
 河俣毘売は師木県主の祖で、神沼河耳命の妃となった。波延は河俣毘売の兄で県主である。兄妹の妹が「県主の祖」で兄が「県主」とする、混乱がある。兄も「祖」であろう。 磯城の祖は、古代のヒメヒコ制による統治を示唆する。同様な例に、宇沙都比古・宇沙都比売(第96回)がある。
《磯城との縁》
 もともと、兄師木・弟師木がこの地に先住の豪族であった(第99回)。 書紀では論功行賞で弟磯城が黒速の名で磯城の県主となる(第101回)。 書紀の別説では、磯城津彦玉手看は、磯城県主葉江の息女川津媛を娶る。また、天皇自身の名に「師木津日子」を含み、皇子につけられる。
 この天皇前後の系図をまとめたのが、右の図である。ここには磯城の支配者として様々な人物が脈絡なく登場し、書き散らされている印象だが、 少なくとも磯城の一族そのものには存在感があり、師木津日子玉手見と深いかかわりがあることが読み取れる。
 磯城と言えば、ずっと後の時代になるが、稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣には「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下」とあり、 大長谷若建命(おほはせわかたけるのみこと、雄略天皇)が斯鬼(磯城)の宮にいたと読める。雄略天皇は、長谷朝倉宮で天下を治めたとされる。
 初瀬(はせ)は磯城郡に含まれる。倭名類聚抄では、磯城郡は城上郡(しきのかみのこほり)・城下郡に分割されている。 その後式上郡・式下郡と表記され、図の範囲は江戸時代末のものであるが、倭名類聚抄に書かれた時期からそんなに大きな変化はないだろうと想像される。
 古代の磯城は重要な地名で、いろいろな場面で言及されたと思われる。

【三野】
 地名「みの」は、三野(岡山県)、美野(岡山県)、見野(栃木県、兵庫県)、美濃(岐阜県)など各地にある。文脈上「伊賀」はここまでかかるから、伊賀国にも三野があったわけである。

【淡道之御井宮】
 淡路島の御井の清水については、仁徳天皇紀に「旦夕酌淡道嶋之寒泉 獻大御水也」〔朝夕淡路島の清水を汲み、大御水を献上する〕の記事がある。

【畝火山之美富登】
 「み」は「御」で、「ほと」は地形を女性の陰部に譬えたものである。 <wikipedia>柳田國男の主張する説によれば、これらは女性器に似た形の地形だったり、女性器に似た特質(湿地帯)を持っていたり、陰ができる土地</wikipedia>につけられた地名だとされる。 直観的には畝傍山の麓で谷が開いたような地形かと思われる。
 書紀では、「畝傍山南御陰井上陵(うねびやまのみなみのみほとのゐのへのみささき)」で、 「ゐ」がつくので、その地は湧水が特徴的だったと想像される。 『延喜式』には「畝傍山西南御蔭井上陵」と書かれ、「西南」は「坤」とも書かれ、習慣的に「ひつじさる」と訓まれる。 現在「御陰井」(みほとのい)とされる井戸は、何の変哲もない市街地の井戸で、俗説であろう。
 これまで調べた限りでは、どうやら御陰井上陵は人為的な墳丘とは認められておらず、自然地形だと思われる(後述)。 宮内庁による天皇陵の治定は、科学的実証を超越している。
《畝傍山周辺》
 いずれも四条古墳群(中期から後期)に隣接するミサンザイ古墳(円墳)が神武陵、塚山古墳(円墳)が綏靖陵とされている。 <wikipedia>これらの治定は幕末に行われたものであり、塚山を神武陵に比定する説も古くから存在する。</wikipedia> 天武天皇紀に、壬申の乱のとき高市県主許梅に神が憑き、「神日本磐余彦天皇之陵 奉馬及種々兵器〔神武天皇陵に馬と、くさぐさの武器をまつれ〕と言う場面がある。 こう書かれる以上、書紀の時代には神武天皇陵の場所は特定されていたのだろう。恐らく畝傍山の北東に遺されていた古墳のどれかを、神武天皇陵として治定したと思われる。
 しかし、中世にはその場所は忘れ去られる。以下は矢澤高太郎『天皇陵の謎』の要約である。 中世以後、その記憶は失われるが、江戸時代の勤皇思想により陵墓の修復が行われた。 文久の修復(1862(文久2)~1865)の時点で、それまで神武陵とされてきた塚山古墳に変わって、ミサンザイが神武陵となり、それまでの水田だった土地に立派な御陵を築く工事が行われた。 つまり、現在の神武天皇陵は、事実上江戸時代に作られたものである。
 以後8代についても、『天皇陵の謎』には春成秀爾氏(考古学者)の「第三代安寧陵~第七代孝霊天皇は自然陵」という見解が引かれている。
 このように、第4代までの陵墓は恣意的に定められたものとは言え、古くから畝傍山が特別の信仰の山でありからこそ、その周辺が陵とされたのであろう。 それから考えると、書紀の宮殿の場所とされる橿原神宮が、特別な信仰の区域内にあるのが不自然である。陵墓がまとまった場所は、宮殿とは離れたところではないかと思う。この問題については、以前「柏原」説を取り上げた(第101回/腋上嗛間丘)。ただ書紀には畝傍山の「南東」とあるが、柏原は南西なので一致しない。
《本当の墳墓》
 前回、「欠史八代」の言い伝えの源は、弥生時代後期の環濠集落に並立していた部族国家にあると考えた。とすれば、間違いなく王の墳墓が造られたはずである。 そこで弥生時代の遺跡を探したところ、大和高田市の池尻遺跡から、方形周溝墓が4基検出されたという報告が見つかった(池尻遺跡)。方形周溝墓とは、四辺に溝を掘り、土盛りした墳墓である。このようにして田の字型に複数の墳墓が並ぶ。 たまたまこの場所は、片塩浮穴宮に近いのが興味深い。

【延喜式】
 『延喜式』は格式(律令の施行細則)のひとつ。平安中期、927年完成。陵墓についてまとめられた部分は、諸陵寮巻第二十一の「諸陵式」である。 安寧天皇については、「畝傍山西南御蔭井上陵 片塩浮穴宮御宇安寧天皇 在大和国高市郡 兆域東西三町南北二町守戸五烟」とある。 兆域とは、陵墓の範囲のこと。1町=109mである。

【書紀】
第三目次 《安寧天皇》
磯城津彥玉手看天皇、神渟名川耳天皇太子也。
母曰五十鈴依媛命、事代主神之少女也。
天皇、以神渟名川耳天皇廿五年、立爲皇太子。年廿一。
卅三年夏五月、神渟名川耳天皇崩。
其年七月癸亥朔乙丑、太子卽天皇位。
元年冬十月丙戌朔丙申、葬神渟名川耳天皇於倭桃花鳥田丘上陵。
尊皇后曰皇太后。是年也、太歲癸丑。
二年遷都於片鹽、是謂浮孔宮。
三年春正月戊寅朔壬午、立渟名底仲媛命亦曰渟名襲媛爲皇后。
【一書云、磯城縣主葉江女川津媛。一書云、大間宿禰女糸井媛。】
先是、后生二皇子、第一曰息石耳命、第二曰大日本彥耜友天皇。
【一云、生三皇子、
第一曰常津彥某兄、第二曰大日本彥耜友天皇、第三曰磯城津彥命。】
十一年春正月壬戌朔、立大日本彥耜友尊、爲皇太子也。
弟磯城津彥命、是猪使連之始祖也。
卅八年冬十二月庚戌朔乙卯、天皇崩。時年五十七。
磯城津彦玉手看(しきつひこたまてみ)の天皇(すめらみこと)、神渟名川耳(かむぬなかはみみ)の天皇の太子(ひつぎのみこ)也(なり)。
母(みはは)は五十鈴依媛(いすずよりひめ)の命と曰(よ)びまつり、事代主の神之(の)少女(むすめ)也(なり)。
天皇、神渟名川耳天皇二十五年(はたちあまりいつとせ)を以ちて、立たして皇太子(ひつぎのみこ)と為(し)たまふ。年(よはひ)二十一(はたちあまりひととせ)。
三十三年(みそちあまりみとせ)夏(なつ)五月(さつき)、神渟名川耳天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。
其の年七月(ふみづき)癸亥朔乙丑(みづのとゐをつきたちとしてきのとうしのひ)〔3日〕、太子(みこ)天皇の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。
元年(はじめのとし)冬十月(かむなづき)丙戌(ひのえいぬ)を朔として丙申(ひのえさる)〔11日〕、神渟名川耳天皇[於]倭(やまと)の桃花鳥田(つきた)の丘上(をかのへ)の陵(みささき)に葬(はぶ)りたまふ。
皇后(おほきさき)を尊(たふと)びて皇太后(おほきさき)と曰(たた)ふ。是年(このとし)[也]、太歳(たいさい、おほとし)癸丑(みづのとうし)。
二年(ふたとせ)[於]片塩(かたしほ)に都(みやこ)を遷(うつ)して、[是]浮孔宮(うきあなのみや)と謂ひたまふ。
三年(みとせ)春正月(むつき)戊寅(つちのえとら)を朔として壬午(みづのえうま)〔5日〕、渟名底仲媛(ぬなそこなかつひめ)の命(みこと)亦曰(またのなは)渟名襲媛(ぬなそひめ)を立たし、皇后(おほみさき)と為(な)したまふ。
【一書云(あるふみにいふ)、磯城(しき)の県主(あがたぬし)の葉江(はえ)の女(むすめ)川津媛(かはつひめ)。一書云、大間(おほま)の宿祢(すくね)の女(むすめ)糸井媛(いとゐひめ)。】
先是(このさき)、后(おほきさき)二(ふたはしら)の皇子(みこ)を生みたまひて、第一(だいいち、つぎてのひとはしら)は息石耳(おきそみみ)の命と曰(い)ひたまひ、第二(だいに、つぎたのふたはしら)は大日本彦耜友(おほやまとひこすきとも)天皇(すめらみこと)と曰(い)ひたまふ。
【一云(あるにいふ)。三(みはしら)の皇子(みこ)を生みたまひ、第一は常津彦某兄(とこつひこいろね)と曰(い)ひ、第二は大日本彦耜友天皇と曰(い)ひ、第三(だいさむ、つぎてのみはしら)は磯城津彦(しきつひこ)の命と曰(い)ひたまへり。】
十一年(とあまりひととせ)春正月(むつき)壬戌(みづのえいぬ)の朔、大日本彦耜友の尊(みこと)を立たして、皇太子(ひつぎのみこ)と為(し)たまふ[也]。弟(いろど)磯城津彦命(しきつひこのみこと)、是(これ)猪使連(ゐつかひのむらじ)之(の)始(はじ)めの祖(みおや)也(なり)。
三十八年(みそちあまりやとせ)冬十二月(しはす)庚戌(かのえいぬ)を朔として乙卯(きのとう)〔6日〕、天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。時に年(よはひ)五十七(いそちあまりななとせ)。

《大意》
 磯城津彦玉手看(しきつひこたまてみ)天皇は、神渟名川耳(かむぬなかはみみ)天皇の皇太子です。母は五十鈴依媛(いすずよりひめ)の命で、事代主神の息女です。 天皇は、神渟名川耳天皇25年に、21歳で皇太子となりました。
 33年5月、神渟名川耳天皇が崩御し、 その年7月3日、皇太子は天皇に即位しました。
 元年10月11日、神渟名川耳天皇は大和の桃花鳥田(つきた)丘の上の陵(みささき)に葬むられました。皇后は皇太后になられました。この年、太歳は癸丑(みづのとうし、きちゅう)でした。 2年、片塩(かたしお)に遷都し、浮孔宮(うきあなのみや)と言います。 3年1月5日、渟名底仲媛(ぬなそこなかつひめ)の命、別名渟名襲媛(ぬなそひめ)を皇后としました。 一書に、磯城(しき)の県主(あがたぬし)の葉江(はえ)の息女川津媛(かはつひめ)とされます。別の一書には、大間(おおま)の宿祢(すくね)の息女、糸井媛(いといひめ)とされます。
 その前に、皇后は二皇子を生み、第一は息石耳(おきそみみ)の命、第二は大日本彦耜友(おほやまとひこすきとも)天皇です。 別説では、三皇子を生み、第一は常津彦某兄(とこつひこいろね)、第二は大日本彦耜友天皇、第三は磯城津彦(しきつひこ)の命です。
 11年1月1日、大日本彦耜友尊を、皇太子としました。弟の磯城津彦命は、猪使連(いつかいのむらじ)の始祖です。 38年12月6日、天皇は崩御しました。御歳五十七でした。

《猪使連》
 「」はイノシシの他ブタも表す。漢字の「」も同様である。縄文時代・弥生時代出土のイノシシ類骨には、骨の家畜化現象があるという。古墳時代の遺跡からもブタの骨が出土するという。 (万)0203 猪養乃岡之 ゐかひのをかの。など、万葉集にも「猪養」が見られる。 「猪使」は丘に豚を放し飼いする、あるいは養豚によって朝廷に仕えるなどの意味が考えられる。
《暦》
 記載のある朔日の干支について調べると、元嘉暦による計算に引き続き一致する(資料D)。

まとめ
 一口に「ある天皇の陵墓」と言っても、 実際に葬られた場所。  記紀編纂期に、何らかの理由によって定められた場所。  ②の記憶が途絶え、改めて推定して定めた場所。の三通りがあるので、そのように頭を整理する必要がある。 確かな記録があればであるが、上古の天皇においては一般に一致は期待できない。 特に架空の天皇の場合は、そもそもは存在しない。
 考古学的な真実は、言うまでもなくの発見にある。それでは、はフィクションに過ぎないから無意味かと言うと、そうとも言えない。原点は想像の産物であっても、しばしば以後の歴史・文化・政治に影響を及ぼすのだから、もまた真実なのである。
 一般的に出土物は客観的事物であるが、精神のはたらきとしての宗教や、国の形態の変容も客観的事物である。それらを統合したところに、真実の歴史がある。 私自身は、その両面から広く研究成果を調べ、何とか真相に迫ろうとして、その過程を書いている。 現時点では「欠史」とされる8王朝について、弥生時代に大和平野に複数の地方部族の存在があり、巡り巡って記紀の記述になったのではないかと仮定して、探っているところである。
《宮内庁による陵墓の治定》
 ところで宮内庁は、陵墓に関してはを絶対的な真実としている。しかしそれを固定的に捉え、考古学調査による発展を妨げることが、国の機関として正しい姿であるとは思えない。 国民主権の国家において、すべて行政組織の役割は国民の福祉と幸福に資するところにある。よって陵墓を研究材料として開放してに資し、と統一的な研究を深め、その研究成果を国民共同の豊かな資産として将来に生かすのが、国の組織としての責務である。


2015.06.11(thu) [104] 中つ巻(綏靖天皇~開化天皇3)〔懿德天皇〕 
大倭日子鉏友命坐輕之境岡宮治天下也
此天皇娶師木縣主之祖賦登麻和訶比賣命亦名飯日比賣命
生御子御眞津日子訶惠志泥命【自訶下四字以音】次多藝志比古命【二柱】
故御眞津日子訶惠志泥命者治天下也
次當藝志比古命者【血沼之別 多遲麻之竹別 葦井之稻置之祖】
天皇御年肆拾伍歲 御陵在畝火山之眞名子谷上也

大倭日子鉏友命(おほやまとひこすきとものみこと)軽(かる)之(の)境岡宮(さかひのをかのみや)に坐(ま)し天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。
此(こ)の天皇(すめらみこと)師木県主(しきのあがたぬし)之(の)祖(みおや)賦登麻和訶比売命(ふとまわかひめのみこと)亦名(またのなは)飯日比売命(いひひひめのみこと)を娶(めあは)し、
生(あ)れましし御子(みこ)、御真津日子訶恵志泥命(みまつひこかゑしねのみこと)【「訶」自(よ)り下(しもつかた)四字(よじ)音(こゑ)を以ゐる】、次(つぎ)に多芸志比古命(たきしひこのみこと)【二柱(ふたはしら)なり。】
故(かれ)御真津日子訶恵志泥命者(は)天下(あめのした)を治めたまふ[也]。
次に当芸志比古命(たきしひこのみこと)者(は)【血沼(ちぬ)之(の)別(わけ)、多遅麻(たぢま)之(の)竹(たけ)の別(わけ)、葦井(あしゐ)之(の)稲置(いなき)之(の)祖(みおや)】なり。
天皇の御年(みとし)肆拾伍歳(よそちあまりいつとせ)にて御陵(みささき)は畝火山(うねびやま)之(の)真名子谷上(まなごのたにのへ)に在り[也]。


 大倭日子鉏友(おおやまとひこすきとも)の命(みこと)は、軽(かる)の境岡(さかいのおか)の宮において、天下を治められま。
 この天皇は、師木(しき)県主(あがたぬし)の先祖、賦登麻和訶比売(ふとまわかひめ)の命、またの名は飯日比売(いいひひめ)の命を娶られ、 御子、御真津日子訶恵志泥(みまつひこかゑしね)の命、次に多芸志比古(たきしひこ)の命【あわせて二柱】を生みなされました。
 そして、御真津日子訶恵志泥の命は天下を治められました。
 次に、多芸志比古の命は、血沼(ちぬ)の別(わけ)、多遅麻(たじま)の竹(たけ)の別、葦井(あしい)の稲寸(いなご)の先祖です。
 天皇の御年は四十五歳で、御陵は畝傍山の真名子谷の上にあります。


【大倭日子鉏友天皇(懿德天皇)】
 大倭日子(おほやまとひこ)は、「大和の国の彦」という尊称。「すきとも」は通説によれば「鋤つ魂」(すきつみ)の変で、古来からあった農耕神の名が天皇に転用されたとされる。 本稿では、「欠史八代」は統合前に大和平野に散在した豪族に由来すると仮定しているから、その一つの族の祖神の名かも知れない。
 書紀では「大日本彦耜友」の字が宛てられる。「やまと」は律令国名であると同時に、豊葦原中国全体を表す国号であり、やがて「日本」と表記され678年頃からその使用が確認される。 だから、720年に完成した書紀において、天下を統治する天皇名の「やまと」に「日本」を宛てるのは自然である。

【軽之境岡】
 かるのさかひのをか。 書紀では「遷都於軽地 是謂曲峽宮〔都を軽のところにうつし、これを曲峡宮(かるのまがりをのみや)と言う〕と書かれる。 橿原市白橿町6の、住宅地の一角には「軽曲峡宮伝承地」と書かれた標柱が立っている。その東側(植込みの裏)は掘割となり、県道207号線が通っている。 標柱は、住宅地から県道に降りる歩道の降り口に立っている。(写真中;左端)
 正面には「軽曲峡宮跡伝承地」とあり、側面には「廻リヲサは四代懿徳天王の『軽曲峡宮跡』と言い伝えられています。」という説明書きがある(写真左)。漢字は新字体を使い、文章は口語の敬体なので比較的新しい。 「廻リヲサ」はかつての小字で、現在の白橿町6丁目・7丁目にまたがる地だと言う(『小字から探る白橿町の昔』による)。 廻リ(めぐり)は「曲」に通ずるのかも知れない。
 標柱は小高い丘のほぼ頂点にあり、北に向かう道は下り坂となっており、その先に畝傍山が見える(写真右)。他の「欠史八代」と同様に、陵(後述)は宮の北方にある。 道路沿いの植え込みは、県道207号線の騒音、排気ガス、ヘッドライトを遮断するためと思われる。
 『橿原市史 本編 上巻』〔改訂橿原市史編纂委員会/橿原市役所1987〕所引の『大和名勝志』は、
今見軽町西南五町計 田地満波利緒マハリヲサトアリ是曲峡片言
〔今見るに、軽町より西南五町〔=545m〕ばかり、 田地に「まはりをさ」と号する所有り。これ曲峡の片言かたことか〕
 と述べる。〔大和名所図会・西国名所図会にもほぼ同じ記述がある〕 軽寺の南を起点とすると、「軽曲峡宮伝承地」の標柱までは870m(8町)ほどだが、大まかには『大和名勝志』などのいう位置に標柱が建てられたと見られる。 以下ここまで2021.2.28付記。
 1967年時点の航空写真では、まだ宅地開発の前で県道も通っていない。近くの岡寺駅の近くには第8代「孝元天皇軽境原宮趾」碑(大正四年(1915年)建立)があるが、こちらは立派な石碑である。 となれば、軽曲峡宮跡に石碑があったとしても不思議はないので、工事などで失われたのかも知れない。
 さて、この地を軽之境岡とする根拠については、軽の南の境界で、地形図を見ると南の丘陵の端にあたるので、「軽の境の岡」から推定したと思われる。 小字(字)は、江戸時代以前、場合によっては平安時代の荘園にも見られると言う。言い伝えは、江戸時代以前まで遡るかも知れない。

【軽】
 (かる)は、現在の大軽町・見瀬町の辺りとされる。北側に下つ道と山田道が交差する交通の要所(現在の丈六交差点)があり、市があったという。 柿本人麻呂が妻の死を悼んだ歌に、軽の地名が出てくる。
 (万)0207 天飛也 軽路者 吾妹兒之 里尓思有者 あまとぶや かるのみちは わぎもこが さとにしあれば。
 『倭名類聚抄』を見ると、和泉国和泉郡と備中国窪屋郡に「軽部」、加賀国能美郡に「軽海」(加留美(かるみ))があるが、高市郡やその周辺に「軽」は見つからない。 前項のように廻リヲサの言い伝えがあるとは言え、できたらここが「軽」であった直接的な根拠を見たいところである。そこで、改めて書紀に出てくる「軽」を調べてみる。
《軽の馬揃え》
 書紀には、天武天皇10年(680年)10月に、軽の市において装束鞍馬をさせ検校したとする記事がある。
是月、天皇、將蒐於廣瀬野而行宮構訖、裝束既備、然車駕遂不幸矣。唯親王以下及群、皆居于輕市而檢校裝束鞍馬、小錦以上大夫皆列坐於樹下、大山位以下者皆親乘之、共隨大路自南行北。
かりみや(行宮)…仮の宮殿。よそひ(装)…よそふ(身支度する)の名詞形。車駕…①車輪を備えた乗り物。②天子を直接言うのを憚って言う語。 検校[検挍]…①突き合わせて調べる。②官職のひとつ。③盲人の最高の官職。④荘園の事務職。 小錦・大山…この時代の冠位26階で、小錦下は第13、大山上は第14。
天皇、広瀬野に蒐(あつ)めむとし、行宮(かりみや)を構へ訖(を)へ装束(よそひ)既に備へたまひ、然れども車駕(すめらみこと)遂に幸(いでま)さざりき。 唯(ただ)親王(みこ)より以下(しもつかた)は群(むれをみ〔群臣〕)に及び、皆軽の市に居(ま)して装束(よそひ)鞍馬(くら)を検校(けむかうし〔くらべ〕)、 小錦(せふきん)より以上(かみつかた)の大夫(ますらを)皆樹の下に列(つらな)り坐(いま)し、大山(だいせん)の位(くらゐ)より以下(しもつかた)者(は)皆親(みづか)ら之に乗り、共に大路(おほち)の隨(まにまに)南自(よ)り北へ行きぬ。
 天武天皇は馬揃えを見に自ら出かける準備をしていたが、何故か中止され、代わりに草壁皇子・大津皇子・高市皇子と群臣が軽の市に派遣された。 そして、装束・鞍馬を整えた軍勢を「検校〔おそらく、観閲の意味〕した。大路の両側には並木が続いていたと見られる。小錦以上は並木の下を列をなし、大山以下は乗馬して大路を南から北に向かって行進した。
 さて、小錦以上の「坐」とは、見物していたという意味だろうか。 しかし「共」の字がある。これは「小錦以上・大山以下が共に」という意味で、「坐」は「行く」の尊敬語でもあるから、徒歩あるいは輿に乗って行進したのであろう。 恐らく多くの民衆が見物する、華やかな行進であったと思われる。
 さて「南から北へ」行進した「大路」であるが、当時は藤原京の建造前なので、朱雀大路ではない。書紀28巻の壬申の乱の記事には「分軍、各當上中下道而屯之」(軍を分かち、おのおの上つ道、中つ道、下つ道に当てて屯(つら)ぬ)とある。即ち南北の大路が3本あったと言うから、行進した大路はその何れかであろう。 天武天皇の時代に藤原京が計画され、持統天皇の時代に完成したことが確定している。下つ道と中つ道は、藤原宮の東西を通る大路となった。参考のために藤原京の建造について要点を記す。
《藤原京》
 書紀によれば、藤原京は天武天皇6年(676年)から造営が計画されたが、完成を見たのは持統天皇8年(694年)である。 なお、書紀には「藤原宮」はあるが「藤原京」の表記はなく、実際には「新益京」である。益は「増す」で、追加、あるいは拡張した意味と見られる。
 1966年の発掘調査に基づき、岸俊男氏は1969年に図の点を四隅とする藤原京条坊復元案を発表した。 ところが1995~1996年になって、藤原京の北西隅()が土橋遺跡に、北東隅()が上ノ庄遺跡に発見され、藤原京は従来説より飛躍的に広がった。 藤原宮は、使用開始から16年後の710年には、平城京に遷都した。私見では、平城京には外京という出っ張りがあることから見て、藤原京もPQを一辺とする正方形ではなく、T字型であったように思える。
《検校装束鞍馬のコース》
 この書紀の記事によれば、天武天皇は、広瀬野に行宮を設けて行列を迎えた。 廣瀬郡は『倭名類聚抄』に大和国の一郡として記載され、江戸時代の広瀬郡の位置は、下つ道と山田道の交差点から北へ6km進み、その北西の地域にあたる(第102回の地図参照)。 6kmを行進するのに要する時間は2~3時間と思われるので、行進した大路が下つ道だという考えには、妥当性がある。 安部山田道は東西の重要な物流路なので、下つ道と交わるあたりに市が賑わい、そこが「軽の市」であった可能性は高い。
《堅塩媛の改葬》
 他に軽の地に言及した部分を探すと、 推古天皇20年(612年)に、欽明天皇の第二夫人で推古天皇の生母、堅塩媛(きたしひめ)を改葬した記事がある。
二月辛亥朔庚午、改葬皇太夫人堅鹽媛於檜隈大陵。是日、誄於輕術。
しのひこと(誄)…故人を偲ぶ言葉の意。漢語の誄詞(るいし)にあたる。 …[名(動)] 使者の生前の功績・徳行を整理してほめたたえる言葉(を作って贈る)。 …[名] 「術」の意味のひとつに「道」がある。衢・衖(=巷)に類するか。
〔2月20日、皇太妃堅塩媛(かたしひめ)を桧隅大陵(ひぐまのみささき)に改葬する。この日、軽の術(みち)にて誄(しのひこと)を行う。〕
 この記事から欽明天皇の陵、檜隈坂合陵に堅塩媛が合葬されたと見られる。ここでは檜隈大陵と書かれる。 江戸時代に、平田梅山古墳が檜隈坂合陵であるとされ、文久の修陵の際、周濠が掘られた。このとき、もともと双円墳であったのが前方後円墳に改造されたという説(森浩一氏による)が有力である。
 現在では三瀬丸山古墳が真の欽明天皇陵であるとする説が有力になりつつある(これも森浩一氏が提唱)。
 平田梅山古墳・三瀬丸山古墳はともに軽の地と見られるが、により近いのは丸山古墳の方である。
《軽部》
 軽部は和泉国の氏族名・地名である。 
 (新撰姓氏録)和泉国 「雄略天皇御世 献加里乃郷 仍賜姓軽部君〔雄略天皇の御世に、加里の郷(こほり)を献上したので、軽部の君の姓(かばね)を賜る〕
 (倭名類聚抄)和泉国 和泉郡 軽部【加留倍(かるべ)
 雄略天皇元年は458年とされ、雄略天皇の名がある「稲荷山古墳出土鉄剣」に書かれた辛亥年は471年と見られる。 当時この地域にいた軽部の祖先は、自らの地を雄略天皇の狩りの庭として献上し、代わりに和泉国に領地を賜ったと読める。地名「軽」は天皇の狩り(加里)の地に由来するものであろうか。
《今昔物語》
 『今昔物語』巻31第35に、所在地が分らなくなった元明天皇陵を、恵和尚が探索した話がある。 『今昔物語』は平安時代末(12世紀ごろ)の説話集である。
(多武の峰の)麓に、戌亥の方に広き所有り。其れを取りつ。 軽寺の南也。此れ、元明天皇の檜前の陵也。石の鬼形共を廻■池辺陵の墓様に立て、微妙く造れる石など、外には勝れたり。
〔多武の峰の麓から北西の方向に広い所があったので、この地を採用した。軽寺の南で、これが元明天皇の檜前(ひのくま)の陵である。石の鬼形(像)を廻らせて池の辺りの墓の飾りとし、巧みに作った石などにより優れた外観である。〕
 多武(とうの)峰は桜井市南部にあり、平田梅山古墳からほぼ真東5.5kmのところにある。「多武の峰の麓」は高松塚古墳の辺りかと思われる。 元禄15年(1702年)に、平田梅山古墳近くの田から四体の「猿石」が発掘され、これが恵和尚が「元明天皇陵」だと考えた陵を飾る「石の鬼形」ではないかと考えられている。 なおこの話から、早くも平安時代末に、天皇陵の所在地が一部不明になったことが分かる。
 軽寺は、<橿原市/かしはら探訪ナビ丸山古墳が築かれた丘陵頂部の北側で大軽町の集落の中に位置し、出土瓦から飛鳥時代の創建と考えられ</かしはら探求ナビ>ている。
《大軽村》
 明治22年(1889年)まで高市郡にあった大軽村は、飛鳥時代以来の地名「軽」に由来すると見られる。
《「軽」の確定》
 12世紀に書かれた鬼形と見られる像が、18世紀に梅山古墳付近から猿石として発掘される。その北方に存在すると書かれた軽寺の場所から、伽藍が出土する。 これで、軽の地理的位置が確定したことになる。

【賦登麻和訶比売命(飯日比売命)】
 賦登麻和訶比売(ふとまわかひめ)は師木県主の祖とされる。しかし、先代の安寧天皇の妃・阿久斗比売も師木県主の祖だから、これらの関係が分からない。
 記では、師木県主の系図については前代に引き続き、混乱したままにされるが、共通して姫を祖とする特徴がある。 一方、書紀の一書では磯城県主の葉江の弟の女・泉媛とされる。 また別の一書では磯城県主が太真雅彦、その娘が飯日媛とされ、記の「ふとまわかひめ」が父の名「ふたまわかひこ」に、記で「またの名」とされた「いひひひめ」が唯一の名とされる。 書紀の一書は、磯城県主との血縁を認めるが、県主の祖がヒメであることを否認する方針が伺える。
 さらに書紀本文においては、磯城県主の血そのものも認めず、事代主の血を引くものとしている。

【別】
 別(わけ)は、姓(かばね)のひとつ。皇別出身の伝承をもち、地名を氏とした国造が多い。
《血沼の別》
 血沼(茅渟)の海は、大阪湾にあった(第96回)。 『倭名類聚抄』には「茅渟」はないが、書紀にはしばしば現れる。 例えば、允恭天皇紀8年2月に「興造宮室於河內茅渟〔河内国の茅渟に宮室を造り興した〕。 また、崇神天皇紀6年8月に「於茅渟縣陶邑得大田々根子〔茅渟県の陶邑(すゑむら)で、[探していた]大田田根子を見付けた〕とある。 和泉国の大島郡(現在の堺市の辺り)にかつてあった、東陶器村、西陶器村の辺りに、茅渟県があったのではないかと言われている。
《多遅麻之竹別》
 多遅麻は「但遅麻」とも書かれ、国名が2字と定められたときに、「但馬」となった。現在の兵庫県北部にあたる。 「」を『倭名類聚抄』に探すと、「但馬国 美含郡 竹野【多加乃】〔美含(みかた)の郡 竹野(たかの)の郷〕がある。
《葦井之稲置》
 地名に「あしゐ」がないか探したが、見つけることができなかった。『倭名類聚抄』に一か所だけ出てくるが、これは植物名である。「藎草【和名加木奈(かぎな)一云阿之井(あしゐ)」、 藎草はコブナグサ(イネ科の一年草)である。

【畝火山之真名子谷上】
 陵は畝火山之真名子谷(うねびやまのまなごのたに)の上(へ)にあるとされる(前回の図)。 書紀では、畝傍山南繊沙谿(うねびやまのみなみのまなごのたに)の上(へ)で、ほぼ記と同じである。 「まなご(真砂)」は細かい砂。繊は「細かい」で、沙=砂である。『時代別上代』によれば、私記丙本には「末左己(まさご)、末奈己(まなご)」とあるので、「まなご」が平安時代に「まさご」に変わったと見られるという。
 恐らく、畝傍山の麓には細かい砂が特徴的な谷があり、そこから見上げた丘陵として名づけられたものであろう。 前回述べたように、古墳研究者の見解によれば、これは自然地形である。

【書紀】
第四目次 《懿德天皇》 2021.01.30.訓読
大日本彥耜友天皇、磯城津彥玉手看天皇第二子也。
母曰渟名底仲媛命、事代主神孫、鴨王女也。
磯城津彥玉手看天皇十一年春正月壬戌[朔]、立爲皇太子。年十六。
卅八年冬十二月、磯城津彥玉手看天皇崩。
元年春二月己酉朔壬子、皇太子卽天皇位。
秋八月丙午朔、葬磯城津彥玉手看天皇於畝傍山南御陰井上陵。
九月丙子朔乙丑、尊皇后曰皇太后。是年也、太歲辛卯。
二年春正月甲戌朔戊寅、遷都於輕地、是謂曲峽宮。
二月癸卯朔癸丑、立天豐津媛命爲皇后。
【一云、磯城縣主葉江男弟猪手女泉媛。
一云、磯城縣主太眞稚彥女飯日媛也。】
后、生觀松彥香殖稻天皇。【一云、天皇母弟武石彥奇友背命。】
廿二年春二月丁未朔戊午、立觀松彥香殖稻尊、爲皇太子、年十八。
卅四年秋九月甲子朔辛未、天皇崩。
大日本彦耜友天皇(おほやまとひこすきとものすめらみこと)、磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)の第二子(だいにのみこ、つぎてのふたはしらのみこ)也(なり)。
母(みはは)は渟名底仲媛命と曰(い)ひたまひて、事代主神(ことしろぬしのかみ)の孫(ひこ)、鴨王(かものきみ)の女(むすめ)也(なり)。
磯城津彦玉手看(しきつひこたまてみ)の天皇十一年(ととせあまりひととせ)春(はる)正月(むつき)の壬戌(みずのえいぬ)の朔(つきたち)、立たして皇太子と為(し)たまふ。年(よはひ)十六(とちあまりむつ)。
三十八年(みそとせあまりはとせ)冬(ふゆ)十二月(しはす)、磯城津彦玉手看天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。
元年(はじめのとし)春二月(きさらき)己酉(つちのととり)を朔(つきたち)として壬子(みづのえね)、皇太子(ひつぎのみこ)天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。
秋(あき)八月(はつき)丙午(ひのえうま)の朔(つきたち)、磯城津彦玉手看天皇を[於]畝傍山(うねびやま)の南の御陰井上(みほとのゐのへ)の陵(みささき)に葬(はぶ)りまつりき。
九月(ながつき)丙子(ひのえね)を朔として乙丑(きのとうし)〔二十一日〕、皇后(おほきさき)を尊(たふと)びて皇太后(おほきさき)と曰(よ)びまつる。是の年は[也]、太歳(たいさい、おほとし)辛卯(かのとう)。
二年(ふたとせ)春正月(むつき)甲戌(きのえいぬ)を朔として戊寅(つちのえとら)〔五日〕、[於]軽(かる)の地(ところ)に都(みやこ)を遷(うつ)したまひて、是(これ)曲峡宮(まがりをのみや)と謂ふ。
二月癸卯(みずのとう)を朔として癸丑(みづのとうし)〔十一日〕、天豊津媛命(あめとよつひめのみこと)を立たして皇后(おほきさき)と為(し)たまふ。 【一云(あるにいふ)は、磯城県主(しきのあがたぬし)の葉江(はえ)の男弟(をのおと)猪手(ゐて)の女(むすめ)泉媛(いづみひめ)。
一云(あるにいふ)は、磯城県主の太真稚彦(ふとまわかひこ)の女(むすめ)飯日媛(いひひひめ)也(なり)。】
后(きさき)、観松彦香殖稲(みまつひこかゑしね)の天皇を生みたまふ。【一云(あるにいふ)は、天皇の母(みはは)、弟(おと)武石彦奇友背命(たけしひこくしともせのみこと)をうみたまふ。】
二十二年(はたとせあまりふたとし)春二月(きさらき)丁未(ひのとひつじ)を朔として戊午(つちのえうま)〔十二日〕、観松彦香殖稲尊を立たして、皇太子と為(し)たまふ。年(よはひ)十八(とちあまりやつ)。
三十四年(みそとせあまりよとせ)秋九月(ながつき)甲子(きのえね)を朔として辛未(かのとひつじ)〔八日〕、天皇(すめらみこと)崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。

《大意》
 大日本彦耜友(お()やまとひこすきとも)天皇は、磯城津彦玉手看(しきつひこたまてみ)天皇の第二子です。 母は渟名底仲媛(ぬなそこなかひめ)命で、事代主神の子孫の鴨王の女(むすめ)です。
 磯城津彦玉手看天皇十一年春正月一日、皇太子(ひつぎのみこ)に立ち、年は十六です。
 三十八年冬十二月[六日]、磯城津彦玉手看天皇は、崩御されました。
 元年春二月四日、皇太子は天皇の位に即(つ)きました。
 秋八月一日、磯城津彦玉手看天皇を畝傍山の南の御陰井上(みほとの()())の陵(みささぎ)に葬りました。
 九月二十一日、皇后を皇太后と称す。是の年は、太歳辛卯(かのとう)でした。
 二年春正月五日、軽の地に遷都し、これを曲峡宮(まがり()のみや)と言います。
 二月十一日、天豊津媛命(あめとよつひめ)を立て、皇后とされました。 或いは、磯城(しき)県主(あがたぬし)葉江(はえ)の弟、猪手(()て)の女(むすめ)泉媛(い()みひめ)とされます。 或いは、磯城県主(あがたぬし)太真稚彦(ふとまわかひこ)の女(むすめ)飯日媛(い()ひひめ)とされます。
 皇后は、観松彦香殖稲(みまつひこか()しね)天皇を生みました。あるいは、天皇の母は弟の武石彦奇友背(たけしひこくしともせ)命を生んだとも言われます。
 二十二年春二月十二日、観松彦香殖稲尊を立て、皇太子とされました。年は十八です。
 三十四年秋九月八日、天皇は崩御されました。

《九月丙子朔乙丑》
 これは、9月50日というあり得ない日付である。乙を己に訂正すれば14日になるが、このような誤りは通常有り得ない。 もしこれが単純な誤字なら、他にもこの類の誤字がある得ることとなり、書紀の読み方が根本的に揺らいでしまう。 本稿では元嘉暦により9月1日から月をまたいでそのままカウントし、10月21日にしておいた。
《渟名底仲媛命》
 「事代主神―…―鴨王―渟名底仲媛」の系図はここが初出である。

【書紀―孝昭天皇】
葬大日本彥耜友天皇於畝傍山南纎沙谿上陵。

まとめ
《書紀との共通点と相違点》
 書紀における記の扱いを見ると、天皇名・宮の地名・陵の名称は記に忠実である。 それに対して天皇の母や皇太子の兄弟については、記に書いてあることを雑多な説の一つとして扱っている。 つまり、まず天皇自身に関することが絶対で、これは記紀間の矛盾を避け確定させるが、 それ以外の氏族との繋がりについては揺らぎが放置される。 おそらく天皇に仕える氏族に対しては、その出自を天皇の系図に接続してやること自体が大切なサービスなのである。その結果生ずる矛盾には、あまり頓着しないのだろう。
 次に、記では師木の祖を繰り返しヒメとしているのは、古墳時代の初期までは、各地の豪族の王がしばしばヒメであった事実を反映した可能性がある。 書紀はこれをいちいち目ざとく拾い出し、男子王の女(むすめ)に書き換えている。これは、最初の大王が女子であったことを徹底的に否定しようとすることと、関係があるかも知れない。
《軽之境岡宮》
 曲峡宮を置いたとされるの地について詳しく調べた。懿徳天皇の存在はもとよりフィクションであるから、その地を詳しく調べることに意味はないかも知れない。 しかし実際に調べてみると、数々の謎を残す興味深い土地である。それだけ歴史上重要だからこそ、 黎明期の天皇に相応しく、想像の膨らむ場所として選ばれたのかも知れない。
 しかし、「欠史八代」の部分は完全に白紙の状態から創作したものではなく、弥生時代に存在した古い豪族の伝説が反映した可能性もある。 フィクションとされるのは、あくまで天皇として系図に組み込まれた部分である。


2015.07.01(wed) [105] 中つ巻(綏靖天皇~開化天皇4)〔孝昭天皇〕 
御眞津日子訶惠志泥命坐葛城掖上宮治天下也
此天皇娶尾張連之祖奧津余曾之妹名余曾多本毘賣命
生御子天押帶日子命次大倭帶日子國押人命【二柱】
故弟帶日子國忍人命者治天下也
兄天押帶日子命者 【春日臣大宅臣粟田臣小野臣柿本臣壹比韋臣大坂臣阿那臣多紀臣羽栗臣知多臣牟邪臣都怒山臣伊勢飯高君壹師君近淡海國造之祖也】
天皇御年玖拾參歲御陵在掖上博多山上也

御真津日子訶恵志泥(みまつひこかゑしね)の命(みこと)葛城掖上宮(かつらぎのわきのかみのみや)に坐(ま)し天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ[也]。
此の天皇(すめらみこと)、尾張(をはり)の連(むらじ)之(の)祖(みおや)奧津余曽(おきつよそ)之(の)妹(いも)、名は余曽多本毘売(よそたほびめ)の命を娶(めあは)したまひ、
生(あ)れましし御子(みこ)、天押帯日子(あめおしたらしひこ)の命、次に大倭帯日子国押人(おほやまとたらしひこくにおしひと)の命【二柱(ふたはしら)なり。】
故(かれ)、弟(おと)帯日子國忍人の命者(は)天下を治めたまふ[也]。
兄(あに)天押帯日子の命者(は) 【春日(かすが)の臣(おみ)、大宅(おほやけ)の臣、粟田(あはた)の臣、小野(をの)の臣、柿本(かきのもと)の臣、壹比韋(いちひゐ)の臣、大坂(おほさか)の臣、阿那(あな)の臣、多紀(たき)の臣、羽栗(はぐり)の臣、知多(ちた)の臣、牟邪(むさ)の臣、都怒山(つのやま)の臣、伊勢(いせ)の飯高(いひたか)の君、壹師(いちし)の君、近淡海(ちかつあふみ)の国造(くにのみやつこ)之(の)祖(みおや)也(なり)。】
天皇(すめらみこと)の御年(みとし)玖拾参歳(ここのそあまりみとせ)にて、御陵(みささき)は掖上(わきのかみ)の博多(はかた、はかさは)の山上(やまのへ)に在り[也]。


 御真津日子訶恵志泥(みまつひこかえしね)の命(みこと)は葛城掖上宮(かつらぎのわきのかみのみや)にいらっしゃり、天下を治められました。
 この天皇は、尾張の連(むらじ)の先祖、奧津余曽(おきつよそ)の妹、名は余曽多本毘売(よそたほびめ)の命を娶られ、 皇子、天押帯日子(あめおしたらしひこ)の命、次に大倭帯日子国押人(おほやまとたらしひこくにおしひと)の命【二柱の皇子】を生みなされました。
 そして、弟の帯日子国忍人の命は天下を治められました。
 兄の天押帯日子の命は、 春日(かすが)の臣(おみ)、大宅(おおやけ)の臣、粟田(あわた)の臣、小野(おの)の臣、柿本(かきのもと)の臣、壹比韋(いちひい)の臣、大坂(おおさか)の臣、阿那(あな)の臣、多紀(たき)の臣、羽栗(はぐり)の臣、知多(ちた)の臣、牟邪(むさ)の臣、都怒山(つのやま)の臣、伊勢(いせ)の飯高(いいたか)の君、壹師(いちし)の君、近淡海(ちかつおうみ)の国造(くにのみやつこ)の先祖です。】
 天皇は御年九十三歳、御陵(みささき)は掖上(わきのかみ)の博多(はかた)の山の上にあります。


【御真津日子訶恵志泥命】
 みまつひこかゑしねのみこと。書紀では「観松彦香殖稲天皇」。孝昭天皇。 「みまつひこ」=尊敬の接頭語「み」+美称の「ま」+連体修飾の助詞「つ」+「彦」で、全体が美称。 「かゑしね」は意味不明だが、意外に書紀の解釈が正しく「か・うゑ("植う"の連用形)・し("き"の連体形)・いね」〔かぐわしい植えた稲〕かも知れない。
…「孝昭天皇掖上池心宮趾」石碑 …「掖上博多山上陵」
【掖上宮】
 書紀には「掖上に都を遷(うつ)し、是を池心宮(いけこころのみや)と謂ふ」と書かれる。和語の「こころ」の意味は一義的に人の心だが、ここでは漢語の「中心」のような使い方であろう。
 推古天皇紀に、「掖上池」に関する記事がある。 「廿一年冬十一月、作掖上池・畝傍池・和珥池、又自難波京置大道
 それに因んで村名とした掖上村は、明治22年(1889年)、葛上郡の葛上郡 東寺田村、柏原村、原谷村、玉手村、茅原村、南十三村、本馬村が合併して成立し、昭和30年(1955年)御所市に編入されて消滅した。 また同時にその南西の、池之内村、室村、蛇穴村、条村、富田村が合併して秋津村になった。これらの合併前の村名に掖上・秋津はないから、合併の時点の命名だと思われる。
 それでは記紀編纂時代の掖上は、本当はどこだったのだろうか。 書紀の「池心宮」という名称からは、池の中島、あるいは馬蹄形の池の中央部が想像される。 とすれば古墳が想像されるが、書紀には推古天皇が掖上池など3池を「作った」と書かれるから、古墳とは考えにくい。 池と言えば、磐余池は堤を建造したダムだったことが分かっている(第99回)。推古天皇の「池」もダムかも知れないが、その工事跡は知られていない。
「孝昭天皇掖上池心宮趾」石碑
 一方、履中天皇紀にも掖上が出てくる。それは、天皇らが船上で酒宴を開いていたとき、杯に季節外れの桜の花びらが落ちてきたという、美しい場面である。そこで物部長真膽連(もののべのながまいのむらじ)に花の咲いている場所を見つけて来いと命じ、独尋花、獲于掖上山而献之。〔ひとり花を尋ね、液上の室の山で獲りて献ず〕」。 室(現在の大字)の南部は巨勢山地に属し、そこが室山だと思われる。しかし、酒宴が行われたとされる磐余市磯池が磐余池だとすれば11kmも離れており、あまり現実味が感じられない。まだ伝説の時代なのかも知れない。 それはともかくとしても、「掖上室山」が巨勢山だとすれば、掖上は(大字)池之内・室一帯を指すこととなり、その地はむしろ秋津村の範囲である。「池之内」は、かつての掖上の池から残った地名かも知れない。
 地形図を見ると池之内の北部は低地ではあるが、大きな川が注いでいるわけでもなく、ダムとは考えにくい。作ったのは、葛城川から水を引いた溜め池かも知れない。恐らく旱魃かんばつへの対策であろう。 想像するに池は複数造られ、それらに囲まれた土地が「池之内」で、その地にあった「宮」が「池心宮」と呼ばれたのではないか。 但し、理屈の上では孝昭天皇の時代にはまだ掖上池は存在しないから、書紀の「池心宮」は後の世に付けた名である。
 後述するように、池之内には古墳時代前・中期の建造物の遺跡が見つかっている(秋津遺跡)ので、古代都市が存在した可能性がある。 記紀編纂時代には都市は消滅していたのだろうが、残された伝説によってこの地に宮があったとされたのかも知れない。
 現在、「掖上池心宮趾」の石碑(図の)が建っているのは御所実業高校の正門近くで、秋津遺跡からは700mほど離れている。 この地点は、ちょうど掖上・秋津両村の境界であたる。想像するに、明治時代に双方の村が池心宮の比定地を譲らなかったので、ここに落ち着いたのかも知れない。 秋津・掖上という村名からは、互いに伝統的名称をつけようとするライバル意識が感じられる。 なお、神武天皇の国見に因む国見山・本馬山(第101回参照)に挟まれた地域の名が「秋津」、池之内・室がある地域の名が「掖上」に相応しく、村名は逆転している。
 石碑は現在個人宅の敷地内にあり、私有地でありながら大切に残されているのは貴重である。

【孝昭天皇の妃】
 余曽多本毘売(よそたほひめ)は尾張連の祖、奧津余曽(おきつよそ)の妹。書紀では尾張連の遠祖(とつおや)瀛津世襲(おきつよそ)之妹、世襲足媛(よそたらしひめ)とされる。
《尾張連》
 高尾張邑は、葛城邑の元の名とされる(第99回)。
 尾張氏については、『新撰姓氏録』に「左京・神別・天神・尾張連・火明命之男天賀吾山命之後也」 「山城国・神別・天神・尾張連・火明命子天香山命之後也」 「大和国・神別・天神・尾張連・火明命子天香山命之後也」 「河内国・神別・天神・尾張連・火明命十四世孫小豊命之後也」の4氏が見られ、支族関係と見られる。 書記によれば、もともと火明命は火中出産の次男で、尾張連の遠つ祖(おや)である(第87回)。
 なお、「をはり」の地名は<wikipedia>ヤマト王権の勢力圏の「端・東端」と見なされていた<wikipedia>ことによるという説がある。 それに従えば、大和平野を平定した時期の勢力圏の南西端が葛城の「尾張」、その後のある時期の東端が「尾張国」である。
《磯城県主葉江》
 磯城県主の葉江は、書紀の一書において安寧・懿徳・孝昭の三代の妃を輩出する閨閥となっている。磯城に有力氏族が存在した気配がある。

【春日臣ら16氏】
 孝昭天皇の長男天押帯日子命は、16臣の祖とされる。それぞれの臣の実相を、いくつかの資料から探ってみる。 『倭名類聚抄』からは13の臣を見出すことができた。『飛鳥の木簡』(市大樹)によると、発掘された木簡(640年頃~8世紀末)に書かれたサト(郷、木簡には五十戸、里と書かれる)のうち、倭名類聚抄(10世紀)への残存率は66%だと言う。 『新撰姓氏録』には9臣、駿河浅間大社の大宮寺家伝承の和邇氏系図には10臣、天武天皇紀13年の「朝臣」授与の対象として6臣、その他の書紀の記事に5臣、縁の神社に4臣、『国造本記』に3臣が見つかった。    
氏族『倭名類聚抄』『新撰姓氏録』
参 考 事 項
春日臣 大和国添上郡、春日【加須加かすか】。尾張国春部【加須我倍かすがべ】郡。丹波国氷上郡、春部【加須我倍】。 右京、皇別、春日真人、真人、敏達天皇皇子春日王の後。
〔和邇系図※1〕―人華臣〈春日朝臣〉。〔天武紀〕13年。八色の姓のうち「朝臣」を「大春日臣」に授与。〔雄略天皇紀〕仁賢天皇の皇后「春日大娘皇女」(かすがのおほいらつめみこ)の母は、春日和珥の臣「深目」の女「童女君」。 <姓氏辞典※2和邇臣の宗家は後に春日に移り、春日和珥臣と云ふ。後に春日氏と云ふ。</姓氏>
大宅臣 大和国添上郡、大宅※3。河内国河内郡、大宅。下野国梁田郡、大宅。播磨国楫保郡、大宅【於保也介おほやけ】。備後国深津郡、大宅。紀伊国名草郡、大宅。肥後国宇土郡、大宅。 左京、皇別、大宅真人、真人。
〔天武紀〕13年「朝臣」。〔反正天皇紀〕反正天皇の妃は、大宅臣の祖である木事の女、津野媛(つのひめ)。<『朝日日本歴史人物事典』大宅賀是麻呂>大宅賀是麻呂は多数の奴婢の所有者として名を残す。大宅氏は和珥氏と同族で大宅郷(奈良市古市町付近)を本拠とする雄族。</朝日事典>
粟田臣 山城国愛宕【於多岐おたぎ】郡、上粟田【阿波多あはた】、下粟田。 山城国、皇別、粟田朝臣、朝臣、天足彦国押人命の三世の孫、彦国葺命の後。
〔天武紀〕13年「朝臣」。〔皇極天皇紀〕「元年十二月十三日。舒明天皇の初喪に粟田臣の細目が、軽皇子の名代として誄(しのびごと)」を代読した。
小野臣 山城国愛宕郡、小野※4乎乃をの】。尾張国丹羽郡、小野。遠江国磐田郡、小野【乎乃】。武蔵国多磨郡、小野【乎乃】。他13件。 左京、皇別、小野朝臣、朝臣、大春日朝臣と同祖、彦姥津命五世孫米餅搗大使主命の後。大徳小野臣妹子、家の近江国滋賀郡小野村※5なるに因り氏とす。
〔和邇系図〕―野依臣〈小野朝臣の祖〉。〔天武紀〕13年「朝臣」。〔推古天皇紀〕「十五年七月三日。小野臣の妹子を大唐に遣ず。※6
柿本臣 大和国、皇別、柿下朝臣、朝臣、大春日朝臣と同祖。
柿本神社(葛下郡。葛城市新庄町柿本162)は、柿本人麿(660頃~720頃)を祭神とする。 〔和邇系図〕―於保貝臣〈柿本朝臣の祖〉。〔天武紀〕13年「朝臣」。〔天武天皇紀―下〕「十年十二月二十九日、柿本臣の猨らに小錦下の位を授く。」
壹比韋臣 左京、皇別、櫟井臣、臣。彦姥津命五世の孫、米餅舂大使主(たがねつきのおほきみ)の命の後。
イチヒヰ。「櫟比」とも。大和国添上郡に和爾町に隣接して櫟本村がある。〔和邇系図〕―津幡臣〈櫟井臣の祖〉。〔天武紀〕13年「櫟井臣…朝臣を賜る」。
大坂臣 大和国葛上郡、太坂。因幡国気多郡、大坂。備後国安那郡、大坂。大和国、神別、天孫、大坂直、直。
〔和邇系図〕―八千足尼命〈景行朝に大阪臣の祖〉。〔大坂山口神社〕奈良県香芝市逢坂5-831。
阿那臣 備後国安那【夜須奈やすな】郡。※7 右京、皇別、安那公、公、天足彦国押人命三世孫彦国葺命の後。
アナ。〔国造本紀〕吉備穴国造※7。景行朝。和迩臣同祖彦訓服命孫、八千足尼。〔和邇系図〕―八千足尼命〈景行朝に安那公の祖〉。<姓氏辞典>春日氏の族なり。「公」は原始的姓。姓氏録に「穴君」。</辞典>
多紀臣 丹波国多紀郡
<姓氏辞典>春日氏の族にて、丹波多紀郡の豪族なり。東寺文書に「丹波国老多紀臣」「丹波目代多紀朝臣基影」。</辞典>〔多紀郡〕現兵庫県篠山市。
羽栗臣 山城国久世郡、羽栗。尾張国葉栗郡。 左京、皇別、葉栗臣、臣、彦姥津命三世孫建穴命の後。/山城国、皇別、葉栗、小野同祖、彦国葺命の後。
〔和邇系図〕―建穴命〈葉栗臣の祖〉。〔雙栗神社※8由緒〕社伝によれば、当社は羽栗郷(ハクリ、佐山村)・殖栗郷・拝志郷の鎮守社であった。〔久世郡〕現宇治市、城陽市、久御山町、京都市。
知多臣 尾張国智多郡。讃岐国那珂郡、智多。
<姓氏辞典>春日氏の族にて、知多郡名を負ひしなり。大族たりしや想像するに難しからざれど史料欠けて見えず。</辞典>
牟邪臣 上総国武射郡。上総国山辺郡、武射。
ムサ。〔和邇系図〕―彦忍人命〈政務朝に武射国造・武射臣の祖〉。〔国造本紀〕武社国造。政務朝に、和迩臣祖彦伊祁都命孫、彦忍人命。〔武射郡〕現千葉県山武郡(県北東部)。
都怒山臣 近江国高島郡、角野都乃つの】。
〔天武紀〕13年「朝臣」を「角臣」に賜る。<姓氏辞典>今の角田村かと云う。</辞典>〔高島郡〕現高島市。
伊勢飯高君 伊勢国飯高郡、飯高【伊比多加いひたか
〔和邇系図〕―乙加豆知命〈伊勢国。飯高宿祢の祖〉。 <姓氏辞典>もと此の地方は飯(イヒ)と云ひ、其の飯国の高地を飯高ととなへ、底地を飯野と称せしものにして、 式内食悲神社(今の松坂神社)は(オ)飯の神社にて飯高県造の起原地と想像せらる。(オは接頭語、ヒは飯なり)※9</辞典>〔飯高郡〕現松坂市。
壹師君 伊勢国壹志郡、壹志【伊知之いちし】。
〔和邇系図〕―乙加豆知命〈伊勢国。壱志宿祢の祖〉。<姓氏辞典>壹師国造:壹師県は後の壹師郡の地なり。 伊勢神宮社家系図に一志(御塩焼物忌※10)、度会福同家系、初代福久、永正中一志と称す。</辞典>〔一志郡〕現松坂市・津市。
近淡海國造  
〔国造本紀〕淡海国造。政務朝に、彦坐王3世の孫、大陀牟夜別。
※1…『姓氏家系大辞典』に掲載の和邇氏系図。下記参照。
※2…『姓氏家系大辞典』太田亮著。角川書店。(1920年初版)。
※3おほやけ(官・公)…①宮殿などの大きな建造物。この意味のオホヤケは地名にだけ残っている。②朝廷。官庁。 播磨国風土記「品太天皇巡行之時営宮此村故曰大宮、後…(中略)…改大宅里。 〔ほむだのすめらみこと=応神天皇)巡行之(いでましし)時此の村に宮を営みしゆゑ大宮といひ、後…(中略)…大宅(おほやけ)の里に改む。〕
※4をの(小野)…人里近くにあってなつかしい野。多くの地方で地名となっている。
※5…愛宕郡の小野神社(論社)は、現在の崇導神社境内摂社(京都市左京区上高野西明寺山町34)。 一方志賀郡小野村は、合併・編入により、小野村⇒鰐村⇒滋賀町⇒大津市。
※6…遣隋使(607年)。唐朝成立は618年であるが、中国の美称「大唐」を遡って用いる。
※7…「彦訓服命」は、「ひこくにふくのみこと」(=彦国葺命)。倭名類聚抄では「安那」と「やすな」と訓むが、その他の資料はすべて「あな」に符合する。平安中期に「やすなのこほり」に変わったか。明治31(1898)年、深津郡と統合し深安郡となり、現在は福知山市。
※8…京都府久世郡久御山町佐山双栗。
※9…現代語訳「もともとこの地は飯といい、その高地を飯高、底地を飯野と呼んだ。意悲神社〔原文「悲神社」は誤り〕はもともと「オ悲」と訓み、「御飯神社」を意味する。
※10…御塩焼(みさき)は伊勢神宮の6つの物忌(ものいみ、=神職)のひとつ。
《八色の姓》
 『天武天皇紀』―下によると、天武天皇十三年十月一日、諸氏の族姓(かばね)を改め、八色(やくさ)の姓を制定した。上から順に真人(まひと)、朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)である。 同年十一月一日に「五十二氏に姓を賜り朝臣とす。」とし、その中に、 大春日臣・大宅臣・栗田臣・小野臣・角臣・櫟井臣が含まれる。
《柿本神社》    
 飛鳥時代の歌人の柿本人麻呂は葛下郡で生まれたと伝えられる。
 『大和名所記』葛下郡に「柿下村のほとりに人麿の墳あり。柿本寺とよぶ草室あり。柿下朝臣人麿は此所にして生まれ給いしより古墳ありと村老は言い伝え侍りき。 」とある。
《角山君氏》
 <『(財)滋賀県文化保護協会紀要1995.3』より「高島郡における製鉄の問題から」>角山君氏はマキノ町に南接する今津町付近に勢力を持った古代氏族で、高島郡の郡領氏族であるとともに、 奈良時代の高島郡における製鉄に深く関与した可能性が考えられている。</同紀要>
《粟田》
 <『姓氏家系大辞典』>春日族の一族にして、愛宕郡粟田に居住せしものの、その地の名を連ねて春日粟田と称せるなり。のち、原の氏なる春日を捨て、単に粟田臣と称す。</同辞典>
 同辞典の和邇氏系図に粟田氏はでてこないが、『日本の苗字七千傑』を参照すると於保貝氏の続きがあり、粟田氏まで繋がっている。 それでは、粟田の本貫地はどこだろう。
 『倭名類聚抄』には愛宕郡(おたぎのこおり)に上粟田郷・下粟田郷がある。 <世界大百科事典第2版>京中から東海道・東山道への出口で、三条白川橋から九条山のふもとまで。粟田郷を抜けるので粟田口と称した。 その名は「保元一年(1156)崇徳上皇が軍勢を召集したとき、検非違使がその入洛を粟田口に押さえ」(『保元物語』)など、散見される。</同事典>
 「九条山」という山の名は九条通りとは無関係で、九条家が所有を主張するために打った石杭が頂上に残ることによる。 かつての「粟田村」が、粟田口(上下粟田)に当たると考えられている。 粟田村だった範囲には、現在の町名に「粟田~」「粟田口~」が冠せられている(省略されることも多い)。 「粟田○○町」はかなり細分化されているが、これは明治時代の「学区制」(小学校区で、同時に行政単位)の名残で、現在も自治会の単位になっているという。
《国造》
 国造(くにのみやつこ)は律令国以前の国を治めるために、大和政権によって任命、あるい承認された。 国造には臣、連、君、公、直などの姓(かばね)が与えられた。律令国の成立に伴い地方統治の役職は国司となり、国造は過去のものとなったが、祭祀などを担当する氏族としてしばらく残り、8世紀後半に消滅したとされる。 『先代旧事本紀』巻十『国造本紀』に国造の一覧がある。『先代旧事本紀』全体は偽書とされるが、『国造本紀』の部分は一定の資料的価値があると考えられている。

【和邇(和珥)氏】
 記には16臣が列記されるのに対し、書紀では「天足彦国押人命、此和珥臣等始祖也」とただ一氏を挙げるのみである。 それでは、和邇(=和爾、和珥)氏と16氏の関係は、どうなっているのだろうか。
 まず『新撰姓氏録』で和邇氏を見ると、「右京、皇別、和迩部、〔姓なし〕、天足彦国押人命三世孫彦国葺命の後。」がある。 さらに『姓氏家系大辞典』(以下「姓氏辞典」)で和邇氏を見ると、長大な系図が掲載されている。この系図について同辞典は「駿河浅間大社の大宮寺家は和爾部姓にして系図を伝ふ。真偽詳らかならざれど、参考の為に引用せん。」としている。
《和邇氏系図》
 この系図には記で列挙された氏族が続々出てきて、全16臣のうち10臣が登場する。 系図が製作された時期は、人名の表記が書紀と一致しているので、書紀成立の738年以後だと考えられる。 さらに最終の記述が「深目宗人が天平神護元年(765年)に宿禰の姓を賜った」なので、その後であろう。
 系図には、栗田臣が書かれていない点が注目される。しかし『日本の苗字7000傑』というサイトの系図には於保貝臣の後が載っていて、粟田氏に繋がっている。 同サイトでは出典は明示されていないが、駿河浅間大社の系図(以後「和邇系図」)に、その後を付け足したと見られる。付け足された部分以外は和邇系図と一致するので、和邇系図は後の時代の偽書とは考えにくい。
 和邇系図に対して姓氏辞典の見解は、「上古の分は偽作也」である。 確かに前半の詳細は創作であろうが、「○○臣の祖」のような支族関係自体は、古くからの言い伝えである可能性がある。 その言い伝えについては、原点は記で、それを基にして系図を創作した。記以前に既に伝承があり、それを基にして記が書かれ、和邇系図が作られた。の2通りが考えられる。
《支族の地理的分布》
 『倭名類聚抄』や、縁の神社の所在地、後世の地名などを参照すると、(8)阿那臣、(9)多紀臣、(11)知多臣、(12)牟邪臣、(13)都怒山臣、(16)近淡海国造は10~20kmの広がりで特定され、 それら以外は2~3km以内に定まる。だから、これらの氏族の存在には現実性がある。
 さらに各地点を地図に落として見ると、大和国・山城国に集中し、かつ遠隔地にも分散している。その分布から見て添上郡南部の現和爾町辺りが和邇氏の本貫地で、そこから支族が各地に進出したという筋書きが見えてくる。 また、本族・支族を網羅する系図を作成されたこと自体、各地に散った氏族の同族意識が現れている。 綏靖天皇に書かれた「多氏」と比較してみると、多氏の遠隔地の氏族(第101回参照)については、多分に人工的に同族とされた印象を受ける。それに対して、和邇氏は現実に分岐があったことが明確に見て取れる。
 従って、和邇16氏は記で束ねたのではなく、分岐は記以前に現実の出来事として起こったことで、同族意識が維持されたと思われる。記紀や系図は、その後に書かれたものである。
 それでは系図にない6氏については、どうであろう。恐らく記が書かれた時点では和邇本家との連絡が保たれていたが、系図作成の時点では消滅、あるいは交流が途絶えたものと考えられる。 なお和邇系図になかった粟田氏は、765年の時点では既に交流が途絶えていたが、その後、記の記述によって関係が復活したのかも知れない。

【和邇氏の祖を孝昭天皇とする理由】
 祖である孝昭は葛上郡、和邇氏本貫地は添上郡で、離れている。その理由は、
多氏と同様、重要な氏族群なので、初期天皇を系図の出発点に位置づけた。
葛上郡にいた氏族(孝昭天皇の伝説の由来)から、一部が添上郡に移り和邇氏の祖となった言い伝えがあった。
 の2つが考えられる。普通に考えるとだが、和邇氏の支族との結びつきや、各地への展開に現実性があることから考えると、かも知れない。 いつの日か和邇氏発祥の春日・和邇から墳墓が発掘されれば、墓制の比較によってが実証される可能性はある。

【博多山上陵】
《比定地》
 『延喜式』によれば、「掖上愽多山上陵掖上池心宮御宇 孝昭天皇 在大和国葛上郡兆域東西六町南北六町守戸五烟」とされ、 <wikipedia>後世に所伝は失われ、元禄の探陵で現陵に治定された</wikipedia>という。
 近くで見ると円墳のようにも見えるが、一般的には自然地形と考えられている。
《埴輪の発見》
 しかし2006年、宮内庁により大正時代に「博多山上陵」に埴輪の破片2点が見つかっていたとする発表があった。  <2006年12月3日『産経新聞』記事より抜粋> 埴輪片は、大きい方が縦約18cm。円形の透かし穴があり、形などから古墳時代中期の5世紀とみられる。 大正10年に宮内省職員が発見、書陵部が所蔵していた。詳しい出土状況は不明。 </『産経』抜粋>
 同記事には、さらに奈良県立考古学研究所の今尾文昭総括研究員による「時代は5世紀代だろう。拾われた時期が古く、本当にここで見つかったかどうかも疑問だ。」という見解が載っている。 宮内庁は天皇陵の学術調査をすべて拒んでいるから、「それって本物なの?」と皮肉で返しているわけだ。
 また、仮にこれが古墳だったとしても、当然「孝昭天皇の」陵ではない。
《山上陵の例》
 神武天皇以来、陵墓は「畝傍山の北東」「谷の上」「井の上」のように書かれたことを考えれば、「博多山上」はそのまま「博多山」という山の上であろう。 そこで比較するために書紀で「山上陵」を拾うと、全部で3例がある。博多山上陵以外の2例は、日向高屋山上陵(彦火火出見尊)と日向吾平山上陵(彦波瀲武鵜草葺不合尊)で、いずれも古代からの信仰されていた山上の磐座を当てたと思われる。
 その他、後世山上陵と呼ばれる例として、嵯峨天皇陵(823年崩)がある。これは幕末の修陵において、いくつかの候補地から嵯峨山を選んで修治した後の名称である。 「修治」とは言っても、実際には山頂を囲む境界を適当に決め、その上部を陵と称して形を整えたものである。 これらから「山上陵」は、文字通り山の上であろう。ところが平地の小山を孝昭天皇陵と定めるにあたっては、「山上陵」の表現は無視されたことになる。
左から石碑、正面から見た碑文、博多山上陵、出土した埴輪。
埴輪の写真は産経新聞の記事(本文参照)より。
《博多山》
 現在の掖上には「博多山」はない。
 筑紫国の博多(はかた)は、続日本紀(759)の「博多大津」によるという。「博=はか」は、倭名類聚抄に「博士【波加世はかせ】」があるように、音よみ「はく」の転である。 筑紫国の"はかた"の由来に定説はないようである。掖上の博多山も、伝統的に「はかたのやま」と訓まれている。
 『時代別上代』によれば、「はか」は共同で農作業を行うときの個人の分担範囲を指し、動詞「はかどる」にも繋がるという。とすれば、「はかた」は共有田の意味か。 あるいは、そのものずばり「墓」かも知れない(万葉集でも「はか」は使われる)。ならば、巨勢古墳群と符合する。ただし「た」は「多い」ではなく、「田」であろう。 「掖上室山」は履中天皇紀に出てくる(別項)が、巨勢山地の「掖上博多山」も、巨勢山地のどれかの山を指し、その古墳群のうちで大きなものと考えことができる。 可能性は低いが、仮に元々「はかさはなるやま(墓多なる山)」と訓んでいたとすれば、古墳群という状況に一層適合する。
 その場合「陵は宮の北方に置いた」という説に反するが、天武天皇陵は飛鳥浄御原宮の西南西にあり、「陵を宮の北方に置く」は絶対的ではない。これは俗説であろう。
 …(万)0155 和期大王之 恐也 御陵奉仕流 わごおほきみの かしこきや みはかつかふる。

【掖上の遺跡群】
 孝昭天皇陵は考古学とは無縁な、宗教的・文化的な存在であるとは言え、 その周囲を見ると、注目すべき遺跡が多数ある。 本稿では、大和平野地域にいた氏族が連合して大和政権を構成し、並列に存在した氏族の祖を直列に繋いだと仮定している。
 その氏族の一つが掖上の地域もいて、いわゆる孝昭天皇陵とは別に、古代の王の方形周溝墓が埋もれているかも知れない。 その視点をもって、この地域を概観したい。
《宮山古墳》
 「室大墓(むろのおおはか)」とも。古墳時代中期前半(4世紀末~5世紀前半)の前方後円墳。 宮山古墳は、 <御所市観光HP/宮山古墳(抜粋)>西側丘尾を切断し、主軸をほぼ東西に向け、三段に構成された前方後円墳で全長238メートル、後円部径105メートル、前方部幅約110メートル、同部高約22メートル、クビレ部幅約75メートルを測る。周濠は全周を巡る盾形のものとみられ、北側の周堤に接してネコ塚古墳(一辺60メートルの方墳)という陪冢がある。 周囲に二重の埴輪列が検出されており、家形埴輪が5個体、靱、楯、蓋等の器材埴輪、革綴短甲形埴輪、草摺形埴輪、異形直弧文埴輪が認められている。 出土遺物として神獣鏡片が十数片、三角板革綴短甲片約一領分、鉄剣及び直刀片多数、滑石製勾玉623個をはじめとする滑石製模造品や各種玉類などが挙げられ、当初の副葬品の豊富さが偲ばれる。 長持型石棺が遺存し、前面に朱が塗られていた。〔一般に〕五世紀代に長持形石棺を持つ古墳は、大王級の人物を被葬者としていると認識されている。 </御所市観光HP>
 『天皇陵の謎』(矢澤高太郎)によれば、全国18番目の大きさである。 このように、大きさも石棺の構造も大王(おおきみ)に相応しいが、天皇陵の指定はなされていない。
《巨勢山古墳群》
 巨勢(こせ)には、宮山古墳の頃から終末期までの約700基に上る、有数の古墳群がある。
《西浦古墳》
 西浦古墳は、孝昭天皇陵の近くにある。 <「豊中歴史同好会」>円墳(径約24メートル)。主体部は粘土槨。細線式獣帯鏡・筒形銅器・勾玉・刀剣等が出土。四世紀後半の築造と推定される。</同好会>
《鴨都波一号墳》
 鴨都波(かもつば)一号墳は、2000年に済生会御所病院増築工事中に同敷地内で発見された。築造の時期は古墳時代前期中葉(4世紀中葉)と見られる。
 御所市役所生涯学習課文化財係発行の『ふるさと御所文化財探訪』(2009年11月~2010年7月、藤田和尊)に詳しい。 以下、その要点を記す。
 一辺20m足らずの小規模な方墳で、 弥生時代の方形周溝墓の特徴である、渡り土手(濠が途切れて外部と繋がる土手)が見られる。 ところが、通常前方後円墳に見られる豊富な副葬品、葺石・埴輪、三角縁神獣鏡4面、甲冑が副葬されている。 鏡の副葬様式にも特徴があり、大王の古墳では鏡は頭部に置かれるが、鴨都波一号墳では頭部、足部に分離して置かれる。
 つまり、形は方形周溝墓だが、中身の副葬品・石棺は概ね前方後円墳のものである。
《秋津遺跡》
 秋津遺跡は、京奈和自動車道路建設の先立つ試掘調査(2009年5~6月)によって発見された。 現地説明会資料によると 遺跡は古墳時代前・中期のもので、掘立柱建物は、二本柱が板を挟んだ塀に囲まれていた。 このような塀で囲まれた建物の出土例はこれまでにないが、家形埴輪を囲む囲形埴輪(塀を表した埴輪)と類似している。
《考察》
 宮山古墳・巨勢山古墳群は5世紀前半で、前方後円墳の文化圏に吸収された後の時代である。 ところが、時代を4世紀前半まで巻き戻すと、大和・柳本・纏向地域の古墳群は完全に前方後円墳であるのに対し、鴨都波一号墳が弥生時代の方形周溝墓の特徴を残すように、独自の様式の墳墓が存在した。 この事実は、4世紀前半の掖上地域は、纏向の氏族と文化的交流があったとは言え、基本的には独立氏族がいたことを意味する。
 この地域には葛城氏がいたから、その直接の祖先が独立氏族とも考えられる。しかし、葛城氏にそのまま移行したのではなく葛城氏は分派であり、掖上の独立氏族の本流は天孫族と一体化したのだろう。 というのは、かつての掖上の独立氏族を暗示する孝昭天皇が、天皇の系図に埋め込まれているからである。
 以上から、掖上の独立氏族は3世紀前半まで纏向勢力(=後の大和政権)に対抗。3世紀後半から4世紀に大和政権との交流を深める。5世紀に完全に融合。但し、一部が分かれて葛城氏として独立。という推移が考えられる。
 またその墳墓に関しては、4世紀までの掖上の独立氏族の王は方形周溝墓型の墳墓。その後、独立氏族の記憶が伝説となって残り、その300年後に記紀は巨勢山地(=博多山)の古墳を陵と推定した。さらに1400年後の江戸時代の探陵では、現「掖上博多山上陵」を陵と見做した。

【書紀】
第五目次 《孝昭天皇》 2021.01.30.訓読
觀松彥香殖稻天皇、大日本彥耜友天皇太子也。
母皇后天豐津媛命、息石耳命之女也。
天皇、以大日本彥耜友天皇廿二年春二月丁未朔戊午、立爲皇太子。
卅四年秋九月、大日本彥耜友天皇崩。
明年冬十月戊午朔庚午、葬大日本彥耜友天皇於畝傍山南纎沙谿上陵。
元年春正月丙戌朔甲午、皇太子卽天皇位。
夏四月乙卯朔己未、尊皇后曰皇太后。
秋七月、遷都於掖上、是謂池心宮。是年也、太歲丙寅。
廿九年春正月甲辰朔丙午、立世襲足媛爲皇后。
【一云、磯城縣主葉江女渟名城津媛。
一云、倭國豐秋狹太媛女大井媛也。
后生天足彥國押人命・日本足彥國押人天皇。】
六十八年春正月丁亥朔庚子、立日本足彥國押人尊、皇太子、年廿。
天足彥國押人命、此和珥臣等始祖也。
八十三年秋八月丁巳朔辛酉、天皇崩。
観松彦香殖稲天皇(みまつひこかゑしねのすめらみこと)、大日本彦耜友天皇(おほやまとひこすきとものすめらみこと)の太子(すめらみこと)也(なり)。
母(みはは)は皇后(おほきさき)天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)なりて、息石耳命(おきそみみのみこと)之(の)女(むすめ)也(なり)。
天皇(すめらみこと)、以大日本彦耜友天皇廿二年(はたとせあまりふたとせ)春(はる)二月(きさらき)丁未(ひのとひつじ)を朔(つきたち)として戊午(つちのえうま)〔十二日〕、立たして皇太子(ひつぎのみこ)と為(し)たまふ。
三十四年(みそとせあまりよとせ)秋(あき)九月(ながつき)、大日本彦耜友天皇崩(ほうず、かむあがりしたまひき)。
明年(あくるとし)冬(ふゆ)十月(かむなづき)戊午(つちのえうま)を朔(つきたち)として庚午(かのえうま)〔十三日〕、大日本彦耜友天皇を[於]畝傍山(うねびやま)の南の纎沙谿上陵(まさごのたにのへのみささき)に葬(はぶ)りまつりき。
元年(はじめのとし)春正月(むつき)丙戌(ひのえいぬ)を朔として甲午(きのえうま)〔九日〕、皇太子(ひつぎのみこ)天皇(すめらみこと)の位(くらゐ)に即(つ)きたまふ。
夏四月(うづき)乙卯(きのとう)を朔として己未(つちのとひつじ)〔九日〕、皇后(おほきさき)を尊(たふと)びて皇太后(おほきさき)と曰(よ)びまつる。
秋七月(ふみづき)、[於]掖上(わきのかみ)に都(みやこ)を遷(うつ)したまひて、是(これ)を池心宮(いけこころのみや)と謂(い)ひまつる。是の年は[也]、太歳(たいさい、おほとし)丙寅(ひのえとら)。
廿九年(はたとせあまりここのとせ)春正月(むつき)甲辰(きのえたつ)を朔として丙午(ひのえうま)〔三日〕、世襲足媛(よそたらしひめ)を立たして皇后(おほきさき)と為(し)たまふ。
【一云(あるにいふ)は、磯城(しき)の県主(あがたぬし)葉江(はえ)の女(むすめ)渟名城津媛(ぬなきつひめ)。
一云(あるにいふ)は、倭国(やまとのくに)の豊秋狭太媛(とよあきせたひめ)の女(むすめ)大井媛(おほゐひめ)也(なり)。】
后(きさき)天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)、日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)を生みたまふ。
六十八年(むそとせあまりはとせ)春正月(むつき)丁亥(ひのとゐ)を朔として庚子(かのえね)〔十四日〕、日本足彦国押人尊を皇太子(ひつぎのみこ)に立たしたまふ、年廿(よはひはたとせ)。
天足彦国押人命は、此(これ)和珥臣(わにのおみ)等(ら)の始めの祖(おや)也(なり)。
八十三年(やそとせあまりみとせ)秋八月(はつき)丁巳(ひのとみ)を朔として辛酉(かのととり)〔五日〕、天皇(すめらみこと)崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。

《大意》
 観松彦香殖稲(みまつひこかしね)天皇は、大日本彦耜友(おやまとひこすきとも)天皇の太子(みこ)です。 母は皇后、天豊津媛(あめとよつひめ)の命で、息石耳(おきそみみ)の命の息女です。 天皇は大日本彦耜友天皇二十二年二月十二日、皇太子になされました。 三十四年九月、大日本彦耜友天皇は崩じました。 明年十月十三日、大日本彦耜友天皇を畝傍山の南の繊沙谿上(まさごのたにの)の陵(みささぎ)に葬られました。 〔観松彦香殖稲天皇〕元年正月九日、皇太子は天皇に即位しました。 四月五日、皇后は皇太后となられました。
 七月、掖上に遷都し、ここを池心宮といいます。この年は、太歳丙寅(ひのえとら)です。 二十九年正月三日、世襲足媛(よそたらしひめ)を皇后とされました。 あるいは、磯城(しき)の県主(あがたぬし)葉江(はえ)の息女、渟名城津媛(ぬなきつひめ)とも、 大和国の豊秋狭太媛(とよあきせたひめ)の息女、大井媛(おほゐおいひめ)とも言います。 後に天足彦国押人(あめたらしひこくにおしひと)の命、日本足彦国押人(おやまとたらしひこくにおしひと)天皇を生みなされました。
 六十八年正月一四日、日本足彦国押人尊を皇太子に立てられました。二十歳です。 天足彦国押人命は、和珥(わに)の臣(おみ)らの始祖です。
 八十三年八月五日、天皇は崩御されました。

《孝安天皇三十八年》
 孝昭天皇の埋葬は、孝安天皇条に載る。
卅八年秋八月丙子朔己丑、葬觀松彥香殖稻天皇于掖上博多山上陵
 〔孝安天皇〕三十八年八月十四日、観松彦香殖稲天皇を掖上(わきのかみ)の博多(はかた)の山上(やまの)の陵(みささぎ)に葬むられました。
《暦》
 朔日は6回出てくるが、何れも神武天皇で仮定した暦と矛盾しない(参照)。

まとめ
 前方後円墳は大和政権の全国支配の象徴として、各地の王墓に広がる。 最初期(3世紀半ば)の大王級の前方後円墳は箸墓古墳(纏向古墳群)、続いて4世紀前半の行燈山古墳(崇神天皇陵、柳本古墳群)・渋谷向山古墳(景行天皇陵、同)が登場する。
 ところが同時期に掖上地方の王は、弥生時代のような方形周溝墓に葬られた(鴨都波一号墳)。ただ、その副葬品は古墳時代のものである。 初期の天皇の系譜が始まっていた時期に、別の独立氏族が並行して掖上に存在していたのである。その王宮の存在は大和の天孫族にも伝わり、伝説上の掖上池心宮として語り伝えられた。 やがて独立氏族は大和政権の一員として合流し、その祖神は共有され天皇の系図に挿入された。
 このように孝昭天皇は「欠史八代」としてほとんど無視されるが、王宮や陵の位置について検討を進めると、なかなかの深みがある。
 もう一つ、深みがあるのが和邇氏系16臣である。それらの臣が展開した土地や支族関係はかなり特定でき、記の記述は決していい加減なものではないことが分かる。 記が語る内容のうち、氏族の祖の明示は物語を読む私達にとっては無意味な部分だが、各氏族の出自を示すことには重要な意味があったと思われる。
 


[106]  中つ巻(綏靖天皇~開化天皇5)