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⇒ [099] 中つ巻(神武天皇4) |
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2015.04.22(水) [100] 中つ巻(神武天皇5) ▼▲ |
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![]() 生子 多藝志美美命次岐須美美命 二柱坐也 然更求爲大后之美人時大久米命曰 此間有媛女是謂神御子 其所以謂神御子者 三嶋湟咋之女名勢夜陀多良比賣 其容姿麗美 故美和之大物主神見感而其美人爲大便之時 化丹塗矢自其爲大便之溝流下 突其美人之富登【此二字以音下效此】 爾其美人驚而立走伊須須岐伎【此五字以音】 乃將來其矢置於床邊忽成麗壯夫 卽娶其美人生子 名謂富登多多良伊須須岐比賣命亦名謂比賣多多良伊須氣余理比賣【是者惡其富登云事後改名者也】 故是以謂神御子也 故(かれ)日向(ひむか)に坐(いま)しし時、阿多之小椅(あたのおばし)の君(きみ)の妹(いも)、名は阿比良比売(あひらひめ)【「阿」自(よ)り以下(しもつかた)五字(いつじ)音(こゑ)を以(もち)ゐる。】を娶(めあは)し、 生まれし子(みこ)、多芸志美美(たきしみみ)の命(みこと)、次に岐須美美(きすみみ)の命、二柱(ふたはしら)坐(いま)しき[也]。 然(しかれども)更に大后(おほきさき)に為(な)さむ[之]美人(おみな)を求め、時に大久米(おほくめ)の命曰(まを)さく、 「此の間(ま)に媛女(をとめ)有り、是(これ)神の御子(みこ)と謂(い)はゆるなり。 其の神の御子(みこ)と所以謂(もちていはゆる)者(は)、三嶋湟咋(みしまのみぞくひ)之(の)女(むすめ)、勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)と名(なづ)き、其の容姿(すがたかたち)麗美(いとくはし)。 故(かれ)美和(みわ)之(の)大物主(おほものぬし)の神見(み)感(かな)ひて[而]其の美人(をみな)大便(くそ)為(せ)し[之]時、 丹塗矢(にぬりや)と化(な)り其の大便(くそ)為(せ)し[之]溝(みぞ)自(ゆ)流れ下(お)り、其の美人(をみな)之(の)富登(ほと)【此の二字(ふたじ)音(こゑ)を以ゐる。下此(これ)に効(なら)ふ。】を突き、 爾(ここ)に其の美人驚(おどろ)きて[而]立ち走(ばし)り伊須須岐伎(いすすきき)【此の五字(いつじ)音を以ゐる。】。 乃(すなは)ち[将]来(こ)し其の矢[於]床辺(とこへ)に置からむとし、忽(たちまち)麗(うるはし)き壮夫(をとこ)と成りぬ。 即ち其の美人を娶(めあは)し生まれし子、名づけ富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすきひめのみこと)と謂(まを)す。亦(また)名づけ比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)と謂(まを)す。【是者(こは)其の富登(ほと)と云ふ事悪し、後に名を改むれ者(ば)[也]。】 故(かれ)是を以て神の御子(みこ)と謂(まを)す也(や)。」 於是七媛女遊行於高佐士野【佐士二字以音】伊須氣余理比賣在其中 爾大久米命見其伊須氣余理比賣而 以歌白於天皇曰 夜麻登能 多加佐士怒袁 那那由久 袁登賣杼母 多禮袁志摩加牟 爾伊須氣余理比賣者 立其媛女等之前 乃天皇見其媛女等而 御心知伊須氣余理比賣立於最前 以歌答曰 加都賀都母 伊夜佐岐陀弖流 延袁斯麻加牟 於是(ここに)七(なな)媛女(をとめ)[於]高佐士野(たかさじの)【「佐士」の二字音(こゑ)を以ゐる。】に遊び行(ゆ)き伊須気余理比売(いすきよりひめ)其の中に在り。 爾(かれ)大久米命(おほくめのみこと)其の伊須気余理比売を見て[而]、歌を以ち[於]天皇に白(まをさく)[曰]、 やまとの たかさじのを ななゆく をとめども たれをしまかむ 爾(かれ)伊須気余理比売者(は)其の媛女(をとめ)等(ら)之(の)前(さき)に立てり、 乃(すなは)ち天皇(すめらみこと)其の媛女等を見て[而]、御心(みこころ)に伊須気余理比売の[於]最(もとも)前(さき)に立てるを知り、み歌を以ち答(こた)へ曰(たまは)く、 かつがつも いやさきだてる えをしまかむ
《系図》 第99回〈22〉で触れたが、父は大物主・事代主の両説がある。 イ・ウでは、事代主が八尋熊鰐に化して玉櫛姫(または三嶋溝樴姫)の許に通って子を生む。元の伝説を要約して書いたと思われる。 アは記に一致する。神武天皇紀はウに従う。 イ・ウは大物主と媛踏韛五十鈴媛の間に事代主を挟むが、事代主は大物主が大己貴神であった時の子なので、むしろ大国主との関係が深いとも言える。 このように系図には混乱があるが、少なくとも二代目天皇の神沼河耳命には、出雲系の血が流入したと考えられていたようである。 沼河比売は高志国で大国主に娶られたが、両方の名前に含まれる沼河の間に関係はあるのだろうか。 一方、阿多出身の阿比良比賣が生んだ当芸志美美は殺され、阿多の血は拒否される。 《三嶋湟咋》 湟は堀の意味。咋は「食ふ」。「三嶋溝橛耳神」、「三嶋溝樴姫」は、いずれも杭(くひ)の意味。 大阪府三島郡には、1935年まで溝咋(みぞくい)村があった。その地に溝咋神社がある(現茨木市)。「三嶋のみぞくひ」はこの地方の神であったと思われる。 《美和の大物主神》 出雲の大国主のところに海から現れ、御諸山に鎮座している。 書紀によれば、大国主の別名もしくは分霊である。記では大国主とは別神で、記に「大物主」が出てくるのも、実は初めてである。海からやってきた時点では「坐御諸山上神〔御諸山の上にいます神〕」と書かれた (第69回)。 《人物像》 押しが強く躊躇なく一番前に立ち、天皇の且(かつがつも)の言葉には、もっと可愛い子がいたかも知れないが、勢いに押されて渋々選んだというニュアンスが感じられる。 また振る舞いは自由で、大久米の目の入墨を平気でからかう。後に神武の死後は、自分の子を後継に押し出す。天武天皇の皇后の鸕野讃良(うののささら)皇女(後の持統天皇)にも同様なものが感じられ、或いは伊須気余理姫のモデルにしたのかも知れない。 【自其為大便之溝流下】 「為大便之」〔くそせし〕が「溝」を修飾し、「流下」の主語は、丹塗矢であろう。だがこれでは丹塗矢が「溝自(よ)り」、つまり排便した箇所から矢が流れ下ることになり、文意に合わない。 ただ、もう少し掘り下げてみると、漢籍の"自"の意味は「起点」だけだが、倭語の"より"には「経由」の意味もある。「ゆ」も同じ意味で、万葉集では「自」は時に「ゆ」と訓まれる。 従って和文に於いては、"自"が"由"の意味に転用されることがある。 もともと、厠の語源は「川屋」、即ち川岸から水上に張り出して作った、床に穴を開けた小屋である。 「丹塗矢に化けて陰部を突く」は溝に水を引き、跨って用を足す構造を想定している。だから厠の上流の方から丹塗矢が流れて来て美女の陰部に達することができるのである。"自"を「経由する」と解釈すれば、 「自下其為二大便一之溝上流下」〔大便をする溝に沿って流れ下り〕と読むことに、問題はない。 なぜ、この件を詳しく書いたのかと言うと、『時代別上代』の返り点は、「自二其為大便之溝流下一」となっていたからである。 【将来其矢置於床辺】 「将」は、後世には「まさに~せんとす」と訓読されるようになるが、万葉集では「将」は置き字にして、推量の助動詞「む」を添える。 原文の語順には問題があり、本来「其の矢」は目的語だから、 「将置其所来矢於床辺」が正しい。記では時に目的語を主語とする語順によって書かれることがある(因みに出雲国風土記は、こちらが普通である)。また、"其矢"を主語として"置"を自動詞とすることも考えられるが、自動詞「置く」は「霜が置く」(=おりる)などに使うものなので、不適切である。 どうしても主語にしたければ、受け身の助動詞「る」を補って「置かる」とすることができる。 【立走】 「たち-」は接頭語で、「たちばしる」が動詞として確立している。 (万)0896 紐解佐氣弖 多知婆志利勢武 ひもときさけて たちばしりせむ。 (万)1740 白雲之 自箱出而 常世邊 棚引去者 立走 叨袖振 しらくもの はこよりいでて とこよへに たなびきゆけば たちばしりさけびそでふり。 二例目は、浦島伝説を歌ったもので、玉手箱から白雲が立ち上り、浦島の子が慌てふためいているときの動作である。 【賀茂別雷命の神話】 『山城国風土記』逸文に類似する神話がある。賀茂建角身(かもたけつぬみ)の命の娘、玉依姫が瀬見の小川(鴨川)で、 川上から流れてきた丹塗矢を取り、床辺に挿し置いたところ懐妊し、 生まれた子が賀茂別雷命である。丹塗矢の正体は乙訓神社の火雷神であった。 記以前に山城国・大和国の一帯に類型が広まっていたのか、それとも古事記の影響下に創作されたかは、もう少し調べないと判断できない。 【七媛女】 上巻では八岐大蛇を始めとして吉数八がよく使われたが、七を用いたのは「神世七代」が唯一の例であった。ここで久々に吉数七が現れた。 この機会に、数の吉凶の由来を探ると、西周(前1046~前771)まで遡る。 西周の書『周易』の「易経」には、乾(䷀)、坤(䷁)、屯(䷂)、蒙(䷃)※…などの六十四卦について体系的に書かれている。※…前回にふれた。 根底にあるのが、世界は陰陽から成るとする二元思想である。陰陽を表す記号を爻(こう)と言い、陽は―、陰は- -である。 3本の爻の陰陽の組み合わせは、23=8通りあり、これを八卦と言う。さらに八卦2個の組み合わせは26=64通りあり、六十四卦と言う。 そして、数については奇数が陽、偶数が陰とされ、基本的に奇数が好まれた。奇数のぞろ目となる3月3日、5月5日、7月7日、9月9日は節句となった。 『隋書』には、倭国の広さは「其国境、東西五月行、南北三月行※」と書かれる。 ※…隋書には「夷人不知里数、但計以日」〔未開民族は"里"を知らず、日数で距離を計る〕とある。 江戸時代には子の成長を祝う七五三が始まった。 俗に結婚式の祝儀を2万円にすると、「割れる数だから縁起が悪い」と言われるが、これは後付である。 五行思想(万物は"木火土金水"の五元素からなる)も奇数の五を選んだと思われる。(古代ギリシャでは、火・空気・水・地の四元素とされた。) "木火土金水"をそれぞれ陰陽に分けたのが十干である。即ち、 甲木の兄、乙木の弟、丙火の兄、丁火の弟、戊土の兄、己土の弟、庚金の兄、辛金の弟、壬水の兄、癸水の弟。 古語において「五百」(いほ)は五行思想に、「八百万」(やほよろづ)・「八十」(やそ)は八卦に繋がっている。 「七」も奇数であるが、更に北斗七星との関連もあるかも知れない。北極星は天子に喩えられ、『史記』(前109~前91)/「天管書」に、北斗七星について「斗為帝車」〔"斗"は帝の車として〕とある。 【高佐士野】 歌謡に「倭の」とあるので、大和国のどこかであろう。 ところが高佐士野の比定地を検索すると、なぜか遠隔地がヒットする。 例えば、伯耆国には久古神社(西伯郡伯耆町久古)があり、その祭神は、姫踏鞴五十鈴姫命とされ、同じく西伯郡の大国村(現南部町)に倭という地名があるので、そこが高佐士野であるとする。 この説は「田村誠一氏による」とあったが、ネットでは原資料には届かなかった。 この例については、西伯郡の「倭」の地名は、大和国からの移民の跡ではないかと思う。人々が移民するときは、一緒に地名と神を持ってくるものである。 この他、宮崎県の佐土原町とする説もあった。 記に戻って「佐士」を探すと、佐士布都神(さじふつのかみ)がある(第97回)。 建御雷は天照大神・高木神から、苦労する神倭磐余彦を助けるために降りよと要請されたが、この太刀で充分だと具申した。その太刀の名が佐士布都神である。 この太刀は石上神宮(天理市)にあるとされるので、高佐士野は同神宮の近辺かもしれない。
《雨燕・鶺鴒・千鳥・ま・頬白》 宣長は、「あめ・つつ」を「胡鷰子・鶺鴒」とした上で「〔阿米都都、知杼理麻斯登登〕此の二句甚解り難し、されど、例の試に強て云はば鳥の名四ツか」としている。 さらに「鳥の目の回くて利けなる物故に」〔鳥の目は丸く、くっきりしているので〕大久目命の目に喩えたとする。 また、「ましとと」は、「真巫鳥ならむか」 〔つまり、真鯛・真鰯(マイワシ)の類;種名に見られる「真正の」を意味する接頭辞〕とする。 『時代別上代』の解説は、「アメツツを天地と解する説もある。古来難解で諸説があるが、鳥名を羅列して詠みこんだとみるのが穏当であろう」 と、宣長説に同意している。 これらの鳥の写真を見ると、目元が黒い。プロ野球の昼間の試合で、選手が目の下を黒く塗るが、それは眩しさを軽減するためという。羽毛が白い鳥には、同様な仕組みが必要だと思われる。 大久米命の黥は、これらの鳥のようなデザインだったのだろう。 なお、「ましとと」が種名ではないとすれば、「この目はアマツバメ?セキレイ?チドリ?あ、正にホオジロだわ!」ということかも知れない。 《黥利目》 その歌謡から、黥利目は「さくるとめ」と訓むことがわかる。「さく」は「裂く」を「黥(=入れ墨)を彫る」に拡張したものだろう。 目の周囲に入れ墨をすると、非常に鋭い印象を与える。 《鯨面》 既に安曇氏の「安曇目」(目の周囲の黥)と魏志倭人伝の「鯨面文身」について、第43回の中で考察した。 『魏志倭人伝をそのまま読む』第32回において、文身の習慣は中国中央にはなく、呉越地域の文化であったと考えた。 倭国では、畿内では鯨面文身の風習は一般的には廃れていたが、安曇氏は南方系の鯨面文化を残していたと思われ、久米氏も同様かも知れない。 天津久米命の登場は、邇邇芸命が天降りしたときである(第84回)。 その地は高千穂で、海幸彦山幸彦の神話で考察したように、南洋の民族との接点がある。「あめつつ」の歌からは、南洋系の氏族の鯨面のデザインをうかがい知ることができる。 【書紀】 《手研耳命》 〔再録〕(第96回【書紀】〈1〉)
この「手研耳命」が、記の「岐須美美命」と同一と思われる。 《媛踏韛五十鈴媛命》 〔再録〕(第99回【書紀】〈22〉)
記で大后を手配した大久米命は、書紀では「有る人」にされてしまう。 まとめ 神倭伊波礼琵古命は、数々の激戦の果てに中洲を制圧し、天皇となった。そして、物語には再びゆったりとした神話の空気が漂うようになる。 正妃とした比売多多良伊須気余理比売は、神に近い存在で、御諸山の神の血を直接受け継いでいる。その神の血は、書紀を総合すると、出雲との関係が濃厚である。 次回生まれる神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)は、次の天皇となるが、「みみ」はもともと弥生時代の古代出雲王国で使われた尊称ではないかと考えている。 魏志倭人伝では、出雲を指すと思われる「投馬国」だけに「みみ」の名前が見えるからである(『魏志倭人伝をそのまま読む』第23回参照)。 さて、高佐士野での出会いは、書紀では完全に無視される。大久米命が活躍するからであろう。 第99回で述べたように、大来目部は道臣に率いられるものとし、大久米命の存在は徹底的に無視される。 飛鳥時代末期における朝廷内の大伴氏・久米氏の争いは、いよいよ否定できない。 |
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2015.05.09(土) [101] 中つ巻(神武天皇6) ▼▲ |
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![]() 天皇幸行其伊須氣余理比賣之許 一宿御寢坐也 【其河謂佐韋河由者 於其河邊山由理草多在 故取其山由理草之名號佐韋河也 山由理草之本名云佐韋也】 後其伊須氣余理比賣參入宮內之時 天皇御歌曰 阿斯波良能 志祁志岐袁夜邇 須賀多多美 伊夜佐夜斯岐弖 和賀布多理泥斯 然而阿禮坐之御子名日子八井命 次神八井耳命 次神沼河耳命 三柱 於是(ここに)其の伊須気余理比売命(いすけよりひめのみこと)之(の)家(いへ) 狭井(さゐ)の河之(の)上(かみ)に在り、 天皇(すめらみこと)其の伊須気余理比売之許(もと)に幸行(いでまし)て、一宿(ひとね)に御寝坐(いねましたま)ひき[也]。 【其の河の佐韋(さゐ)の河(かは)と謂(い)ふ由(よし)者(は)、[於]其の河辺(かはへ)に山由理草(やまゆりくさ)多(さは)に在る故(ゆゑ)、其の山由理草之(の)名を取り佐韋(さゐ)の河(かは)と号(なづく)也(なり)。山由理草之(の)本(もと)の名(な)は佐韋(さゐ)と云ふ[也]。】 後(のち)に其の伊須気余理比売宮の内に参入(まゐ)りし[之]時、天皇御歌(みうたよみしたまひ)て曰(い)はく、 あしはらの しげしきをやに すがたたみ いやさやしきて わがふたりねし 然而(しかるがゆゑに)阿(あ)礼(れ)坐(ま)しし[之]御子(みこ)は、日子八井(ひこやゐ)の命(みこと)、次に神八井耳(かむやゐみみ)の命、次に神沼河耳(かむぬなかはみみ)の命と名づけし三柱(みはしら)なり。 故天皇崩後 其庶兄當藝志美美命 娶其嫡后伊須氣余理比賣之時 將殺其三弟而謀之間 其御祖伊須氣余理比賣患苦而 以歌令知其御子等歌曰 佐韋賀波用 久毛多知和多理 宇泥備夜麻 許能波佐夜藝奴 加是布加牟登須 又歌曰 宇泥備夜麻 比流波久毛登韋 由布佐禮婆 加是布加牟登曾 許能波佐夜牙流 故(かれ)天皇崩(ほうぜし、かむあがりしたがひし)後(のち)、其の庶(まま)兄(あに)当芸志美美(たぎしみみ)の命、其の〔さきの天皇の〕嫡后(おほきさき)伊須気余理比売を娶(めあは)しし[之]時、 [将]其の三(みたり)弟(おと)を殺さむとして[而]謀(はか)りし[之]間(ま)、其の御祖(みおや)伊須気余理比売患(うれ)へ苦(くるし)みて[而]、歌を以ち其の御子(みこ)等(ら)に知ら令(し)めて、歌(うたよみ)して曰はく、 さゐかはよ くもたちわたり うねびやま このはさやぎぬ かぜふかむとす 又(また)歌(うたよみ)して曰はく、 うねびやま ひるはくもとゐ ゆふされば かぜふかむとぞ このはさやげる
《大意》 狭井川から雲が立ち渡り、畝傍山の木の葉が音をたてています。風が吹こうとしていますのよ。 また、この歌をよみました。 畝傍山 昼は雲と居(ゐ) 夕(ゆふ)去れば 風吹かむとぞ 木の葉騒(さや)げる 《大意》 畝傍山に、昼は雲がかかっていましたが、夕には晴れたので、風が吹くのでしょう、木の葉は音を立てています。 ここに、御子たちは聞いて知り、驚いて、当芸志美美を殺そうとした時、神沼河耳命はその兄神八井耳命に申し上げました。 「ね、あなた。あなた様が武器を持って入り、当芸志美美を殺してください。」 よって、武器を持って入り、殺そうとした時、手足が戦慄(わなな)き、殺せませんでした。 そのために、弟の神沼河耳命は兄が持っていた武器を取ることをお願いし、入って当芸志美美を殺しました。 このことから、また御名を称し、建(たけ)沼河耳(ぬなかはみみ)の命とも言われます。 そして、神八井耳命は弟の建沼河耳命に、このようにお譲り申し上げました。 「私は敵を殺すことができず、あなた様は既に敵を殺すことができました。 よって私は兄ではありますが、上に立つのは宜くありません。この上は、あなた様こそが上に立たれ、天下を治められませ。私目はあなた様をお扶けし、神事を掌る立場でお仕え申し上げます。」 さて、日子八井命は、 茨田連(まむたのむらじ)、手嶋連(たじまのむらじ)の祖先です。 神八井耳命者は、 多臣(おおのおみ)、小子部連(ちいさこべのむらじ)、坂合部連(さかいべのむらじ)、火君(ひのきみ)、大分君(おおきたのきみ)、阿蘇君(あそのきみ)、筑紫三家連(つくしのみやけのむらじ)、雀部臣(さざきべのおみ) 雀部造(さざきべのみやつこ)、小長谷造(おはつせのみやつこ)、都祁直(つげのあたい)、伊余国造(いよのくにのみやつこ)、科野国造(しなののくにのみやつこ)、道奧石城国造(みちのくのいわきのくにのみやつこ)、常道仲国造(ひたちのなかのくにのみやつこ)、長狭国造(ながさのくにのみやつこ)、伊勢船木直(いせのふなきのあたい)、尾張丹羽臣(おわりのにわのおみ)、嶋田臣(しまだのおみ)たちの先祖です。 神沼河耳命は、天下を治められました。 大略、神倭伊波礼毘古(かむやまといわれびこ)天皇は、御年百三十七歳でした。御陵(みささき)は畝傍山の北方、白檮の尾根の上にあります。 やまゆりくさ…[名] 植物名。山に自生する百合か。 しけし(穢し)…[形]シク きたない意か。 すがたたみ(菅畳)…[名] 菅を編んで作ったたたみ。たたみは、毛皮・織物・薦などで作った敷物すべてをいう。むしろ、ござの類。 いや-(弥)…[接頭] ものの程度の盛んなことを表す。 さや…[擬声語] もともと竹の葉がすれる音と見られる。[副] さわやかで気持ちのよいさま。派生語に、さやか、さやかに、さやけし、さやぐ。 嫡(ちゃく)…[名] ①正妻。②正妻の生んだ跡継ぎの子。 患…(古訓)うれふ。 -ね…[接尾] 男女を問わず、親しみをこめる語。 いはひ(斎)…[名] 忌みつつしんで神を祀ること。いはひをする人。(万)3288 忌戸乎 齋穿居 いはひべを いはひほりすゑ。 へ(方)…[名] あたり。接尾語「-へ」または「~のへ」の形で用いる。 へ(上)…[名] 上部。「うへ」の"う"が脱落したもので、「~のへ」の形ばかりが見られる。 【あれましし御子】
――以為生成国土生奈何【訓生云宇牟下效此】 〔国土(くにつち)を生み成さむとおもふ。生むこといかに?【「生」を訓み「うむ」といふ。以下これに効(なら)ふ】〕 これによって「所生之子」、「生子」は基本的に「うみしこ」あるいは尊敬語として「うみまししみこ」と訓むと考えられる。 ただ、万葉集でも神からの日嗣(ひつぎ)の皇子が「あれます」と表現される。 (万)0029 橿原乃 日知之御世従 阿礼座師 神之盡 樛木乃 弥継嗣尓 かしはらの ひじりのみよゆ あれましし かみのことごと いやつぎつぎに。 一方万葉集には、自動詞「うまる」もある。 (万)2375 吾以後 所生人 如我 恋為道 あれゆのち うまれむひとは あがごとく こひするみちに。 したがって、「うまる」を尊敬語にした「うまれたまふみこ」も問題はないだろう。 【嫡后】 「嫡子」(正式な妻の子)という言葉がある。その嫡は、「正妻」の意味である。 嫡后は大妃と同じである。従って「嫡后」も「おほきさき」と訓み、これは神倭磐余彦の立場から見た呼称である。 当芸志美美と伊須気余理比売は形式的には親子であるが、二人の間に血縁関係はない。 しかし、書紀にこの部分がないということは、このような関係における結婚は、あまり芳しいことではなかったのだろう。 記によれば、伊須気余理比売は自分の生んだ兄弟を夫が殺そうとしていることを知り、我が子に密かに歌で知らせた。 書紀にはこの歌もなく、ただ「陰知其志」(陰にその〔手研耳の〕意図を知り)とするのみである。 【風吹かむとす】 《歌に秘めたもの》 二首の歌は類似しているので、「又歌曰」とは、別説を併記したという意味であろう。 普通の論理では「風が吹いたから、木の葉がさやぐ」であるが、二首とも「さやぐ」には完了の「ぬ」「り」がつき、「風吹く」には未来推量の「む」がつく点が注目される。 そこから、「今はまだそよ風が木の葉を揺らす程度だが、間もなく大風が吹くだろう」あるいは「今木の葉が鳴るのは、やがて吹く大風を暗示している」と解するのが妥当であろう。 だから兄弟は、この歌が当芸志美美命によるクーデターを暗示したものだと、察知することができたのである。 《伊須気余理比売命の人物像》 その人物像については前回も考察したが、今回は自分の子による皇位継承の確保のために動いたところも、持統天皇と重なる。 【称号「建」】 「建」は、「武」と同じ意味であることがここで確定する。 「建」は、「八十建」のように逆賊の側にも、それを制圧する側にもつけられる。 【忌人】 忌部(いみべ、いむべ)は神事を掌る人、または部族。"忌瓮"(いはひへ、忌み清めた神聖なかめ)という語があるように、"忌"は「いはふ」とも訓む。 神を祀る人は、また穢れを忌む暮しを心がけるので、「斎(いは)ふ」と「忌む」はひとつのことの両面である。 この文中で「忌人」が、「齋人」の意味であるのは明らかなので、書紀でも「典神祇者」(神祇を典(つかさど)る者)と表現している。 神代紀の訓注には「齋主、此云伊播毗」〔"いはひ"と云う〕として、「ぬし」をつけないので、「齋人」も「いはひ」であろう。 それに従えば、「忌人」も「いはひ」と訓むことになる。 一般的に動詞の連用形は、そのまま名詞、即ち「~すること」「~するひと」になることができる。 それでも漢字表現に「人」「主」をつけるのは、名詞になったことを積極的に知らせるためである。 【日子八井命・神八井耳命の末裔】 日子八井命からは2氏、神八井耳命からは19氏の末裔が出ている。 これらの氏族について、『新撰姓氏録』・書紀の記載、一般の解説を表にまとめた。
政権を支える有力な氏族は天降りに随伴した神を祖とし、天児屋命⇒中臣連、道臣命⇒大伴氏、饒速日命⇒物部氏などがある。 それに次ぐ重要な地位を占めるのが、これらの諸族で、初代天皇の子神である八井耳命を祖とする尊い地位にある。 これらは意富臣(多臣)から分岐したとされている。多臣については、例えば<wikipedia>「皇別氏族屈指の古族であり、神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされるが、確実なことは不明。」</wikipedia> という解説がある。 「意富臣」(おほのおみ)即ち多数の臣という名には、多数の氏族を包含する意味があると見られる。 書紀もそれを承知していたから、氏族名を列挙することを省略し、「多臣(おほのおみ)」にまとめたのである。 その結果『新撰姓氏録』(以後「録」)では、多くの氏族が「多朝臣同祖」として定式化された。記と録とは重なるものと、それぞれ独自に出てくるものがある。 多臣は、<『神々と天皇の間』鳥越健三郎>『倭名類聚抄』の十市郡飫富郷を本貫とする。(中略)太安万侶は多氏一族の頭領であった</同書>という。なお、手許の『倭名類聚抄』元和古活字本(元和三年)では「飫富」は「飯富」となっている。 太安万侶は、言うまでもなく古事記の作者である。 《地図に記入してみると》 19氏を地図に記入(右図)してみると、興味深い特徴が見えてくる。 注目されるのは、西半分は、神武東征の経路に重なっていることである。 摂津国の氏族が多いのは畿内だから当然だとは言え、同国は瀬戸内海から船団が接岸した激戦の地でもある。 東征の出発点であった阿蘇周辺と、最初の経由地の宇佐や筑紫国を含め、東征の経路に当たる氏族は重要な伝統を引き継ぐのである。 西半分の配置は、東征の経路を再確認したものとも言える。 また、畿内に政権を確立した後は東国へ進出したが、その経路になった安房国・常陸国・石城郡も含まれる。 一方、熊襲と、かつて大国主の国であった出雲・越の地域の氏族は含まれていない。 従って、「意富臣」グループは、国土の中軸を押えている。言わば天孫族の本流を為す氏族である。 記はこれらの氏族を列挙することにより、朝廷を支える存在としての一層の自覚を促したものと考えられる。 【兄は、祭祀を掌る】 古代における一族の統治の形として、ヒメヒコ制が挙げられる。これは、男女の兄弟(擬制的な場合もあるかも知れない)のうちヒメ(女子王)が宗教を掌り、ヒコ(男子王)が政治・軍事を司る制度である。 魏志倭人伝においては、卑弥呼は「鬼道につかえよく衆を惑わす」(儒教の立場から、他の宗教を蔑視的に表現したもの)が、 その姿は公衆の場に見せない。表に出て政務を担当したのは弟である。 神八井耳命は男性ではあるが、ここに古墳時代初期まで残っていたとされる、ヒメヒコ制の残像を見ることができる。 【弟による継承】 日向三代の二代目の火遠理命、初代天皇の神倭伊波礼琵古命と同様に、二代目も弟の沼河耳命が皇位を継ぐ。 記紀編纂期には既に長子継承制が原則であったことは、神八井耳命による「兄と雖も」の言葉に表れている。 だから、敢えて弟が継ぐ場合は「兄の行いが道徳的に悪い」「戦死した」「勇気がなかった」と、それが止むを得なかった理由を書かなければならなかった。 また、畿内で制圧された部族の側も、兄宇迦斯は滅ぼされたのに対し、弟宇迦斯が帰順する。書紀における兄磯城・弟磯城も同様である。 総じて、「兄」は暗黙裡に古代の「姉」を置き換えたもので、ヒメヒコの"ヒメ"は否定されるべきである、今はもう時代が違うのだというメッセージを送っているのである。 【はつくにしろしめす】
《崇神天皇―記》 記では神武天皇にはこの称号は与えられず、崇神天皇のところで初めて 「故称其御世、謂所知初国之御真木天皇也。」と書かれる。 返り点を加えると「所レ知ニ初国一之御真木天皇」となり、之は置き字で、訓読するときに"し"を加える。 従って、"知初国之"は「はつくにしらしめす」、"しらす"は"しらす"と同じなので「はつくにしろしめす」と問題なく読むことができる。 ここで"初"は「国」を修飾するので、厳密には「初めて国を治める」ではなく「初めの国を治める」である。 なお、現代では"初"と"始"の使い分けが小学校低学年で指導されるが、記紀においては使い分けはない。 《崇神天皇―書紀》
肇は人名「はじめ」に宛てられるように、「始」と同じ意味である。 従って、そのまま訓めば「はつくに をさめたまふ すめらみこと」なのである。「をさめたまふ」は「しらす」と同じ意味だが、万葉集を見ると「しらしむ」には必ず"知"が使われる(右表)。 しかし、伝統訓が「しろしめす」になったのは、平安時代の学者が、記で崇神天皇に与えられた称号に準じたためと思われる。 《神武天皇―記》 古事記では、神武天皇に「所知初国」の称号はない。だから実質的な初代の天皇は、崇神天皇である。 神武天皇はまだ神話であることが、計らずも露わになっている。神武天皇は、古代天孫族の東征を象徴する集合人格の表現なのである。 《神武天皇―書紀》 だが書紀においては、神武天皇の実在が基本方針である(これが太平洋戦争遂行に利用された)。よって、神武が最初の実在天皇だから「始馭天下之天皇」の称号を神武天皇に与えた。 では、崇神天皇の「御肇国」が削除されたかというと、答えはノーである。 記は既に、重い権威のある書であった。だから厳密な論証なしには、勝手に変えることはできなかった。そこで、次善の策として神武天皇には「御肇」を「始馭」に、「国」を「天下」に変えたのである。 それによって「A初めて天下を鎮めて治めた」と「B初めて本当の国らしくなった国を治めた」という微妙な区別をつける。Aが神武天皇、Bが崇神天皇である。 なお、「始馭」の語順だと"始"は副詞である。(動詞「をさめる」を連用修飾する) さて、「始馭天下之天皇」をそのまま訓めば、「はじめて あめのしたを をさめたまひし すめらみこと」である。 しかし、これを平安時代の学者はこれを躊躇なく「はつくにしろしめす」と訓み、「神武=初代天皇」を固定化した。 これで、執筆者が細かに配慮して残した差も吹っ飛び、「所知初国天皇」が完全に重複してしまった。 《本来の訓》
以下、今回の記の段落に該当する書紀の範囲を、神武即位後と綏靖即位前に分けて解析する。 【書紀:神武天皇即位後】 神武15目次 《元年(二)~七十七年》 〈1〉▼△
故(かれ)古(いにしへ)の語(かたり)に[之を]称(たた)へて曰(まを)さく、 「[於]畝傍(あけび)之(の)橿原(かしはら)に也(や)、[於]底磐之根(そこついはね)に宮柱(みやはしら)太立(ふとしり)、[於]高天之原(たかまがはら)に搏風(ひき)峻峙(たかしり)て、 而(しかるがゆゑに)始馭天下之(はじめてあめのしたををさめし、はつくにしろしめし)天皇(すめらみこと)、号(なづけ)て神日本磐余彦火々出見(かむやまといはれひこほほでみ)の天皇と曰(まを)す[焉]。」とまをす。 初(はじめて)、天皇天(あめ)の基(もと)之(の)日(ひ)を草(くさ)に創(つく)りけり[也]、 大伴(おほとも)の氏(うぢ)之(の)遠祖(とほつおや)の道臣命(みちのおみのみこと)、大来目(おほくめ)部(べ)を帥(ひき)ゐて、密(ひそかなる)策(はかりこと)を承(う)け奉(まつ)り、 歌を倒語(さかしまごと)に諷(うた)へることを以ちて、能(よ)く妖(あやし)き気(け)を掃蕩(たひら)げき。倒語(さかしまごと)、之(を)用(もち)ゐること、始(はじめ)て茲(ここ)に起こしき乎(や)。
諷歌倒語という歌の様式があるかも知れないと思って探してみたが、それらしい説明はどこにも見つからなかった。 言葉のまま「倒語」して歌うという意味であろう。 主語は道臣命で、この文には土蜘蛛を討った場面が当てはまる。「妖気を掃蕩す」は、「敵をすべて討ち果たす」ことを意味する。 土蜘蛛は、宴酣(たけなわ)で披露された歌が、まさか自分たちを討ち取る合図だとは思わず、 不意をつかれて一気に殺されたので、「諷歌倒語」は、「たふしごと」〔敵を倒す歌〕とも解釈できる。 しかし、次の「掃蕩妖気」という謎めいた言葉と釣り合いが取れるのは、「さかしまごと」の方である。 「さかしまごと」とは、表面の言葉とは裏腹の意図を秘めた歌のことである。 こうして、道臣命は、土蜘蛛を討ち果たすためのこの「密策を承け奉った」。 その後「倒語之用始起乎茲」〔倒語は以後、作戦として使われた〕とされる。 〈2〉▼△
道臣命(みちのおみのみこと)宅(いへ)地(ところ)を賜(たまは)り、[于]築坂邑(つきさかむら)に居(すま)はしめて、以ちて寵異之(ことにあはれ)びたまふ。 亦(また)[使]大来目をして[于]畝傍(うねび)の山の[以]西の川辺(かはへ)之(の)地(ところ)に居(すま)はしめたまひて、 今来目邑(くめむら)と号(なづ)けてあるは、此れ其の縁(よし)也(なり)。 以ちて珍彦(うづひこ)を倭(やまと)の国造(くにのみやつこ)と為(し)たまひき。【珍彦、此れ于砮毗故(うづひこ)と云ふ。】 又弟猾(おとうかし)に猛田邑(たけたむら)を給はり、因りて猛田の県主(あがたぬし)と為(な)し、是(これ)菟田(うだ)の主水(もひとり)部(べ)の遠祖(とほつおや)也(なり)。 弟磯城(おとしき)、黒速(くろはや)の名をたまはり、磯城(しき)の県主(あがたぬし)と為(な)したまひき。 復(また)剣根(つるぎね)の者(ひと)を以ちて、葛城(かつらき)の国造(くにのみやつこ)と為したまひき。 又、頭八咫烏(やたからす)も亦(また)賞(たまもの)の例(ともから)に入(い)りて、其の苗裔(あなすゑ)即ち葛野(かどの)の主殿(とのもり)、〔葛野の〕県主(あがたぬし)、〔葛野〕部(べ)是(これ)也(なり)。
類似する語「論功行賞」は、『中国哲学書電子化計画』で調べると、『三国志』魏書などに、5例ある。 「定功」については、同じく魏書に「定功行封」〔功を定め領地を与える〕が見られる。「定功行賞」はこれらの組み合わせになっている。 万葉集には、"功"の音読みが見られる。(万)3858 記集 功尓申者 しるしあつめ くうにまをさば。"功"は、漢音コウ、呉音クである。 "功"の伝統的な訓は、イサヲ、イサヲシである。 "賞"の訓は、「たまもの」「はやし」である。「たまもの」即ち「賜った物」は、平安時代の解釈と考えられる。 「はやし」は「栄あらしめるもの」意味で、万葉集における訓である。これらのどちらも、意味は通る。 もともと「定功行賞」は漢籍だから、どちらが正しいかは判断のしようがない。 《築坂邑》 「鳥坂神社由緒」によれば、築坂が衝坂あるいは桃花鳥坂(つきさか)となり、さらに鳥坂(とりさか)となったという。 《珍彦》 珍彦は、速吸(はやすい)の瀬戸で神武天皇に出会いパイロットを務めた(第96回)。 そのとき、椎根津彦(しいねつひこ)の名を賜り、そこでは倭直(やまとのあたい)の始祖となったと書いてあるが、ここでは何故か元の名前で「倭国造」になっている。 《剣根》 剣根は、ここで初めて出てきた名前である。これは一体誰か。高倉下(たかくらじ)は剣を見つけて持参したが、天皇に仕えたとは書いてない。 前項のように「珍彦」となっているのは、改名の話を加える前の原稿のままだからと考えられる。草稿の段階では、剣根の何らかの活躍が入っていたのかも知れない。
主殿、県主、部はそれぞれ地名または氏族名の下につき、これらだけを繋いだ「主殿県主部」は意味をなさない。これは、恐らく葛野主殿・葛野県主・葛野部を略したものであろう。 県(あがた)は大和政権による直轄支配地を指すが、葛野が県であったか郷(さと)であったかは不明である。 さて、一つの地名に3種類の呼称を併記されるのは、不自然に思える。 その理由を考えてみる。草稿の段階では3種類のどれにするか定まっておらず、主殿(とのもり)の他に県主(あがたぬし)、部(べ)と候補を書き加え、まだ検討している最中に清書に回ってしまったのだろう。 清書を担った書家は字を上手に書くが、用語についての知識は不十分だったので、気付かずにそのまま正規の字として写したのである。 右図はそのイメージである。これは、それらしいものを実験的に作成してみたもので、こうやって見るとそんなこともあったのではないかという気がしてくるのが不思議である。 そもそも「又頭八咫烏亦入賞例」〔頭八咫烏(やたからす)もまた、賞をもらった者に含まれる〕とあるように、頭八咫烏への恩賞そのものが、初めの原稿にはなかったと思われる。 それが何らかの理由によって烏を人格神に変身させ、氏族の祖とさせた。 実は『新撰姓氏録』には山城国の「鴨県主」の項に、次の記事がある。
録のように、書紀清書の時点で未定だった頭八咫烏の褒賞は、最終的に鴨県主に落ち着いたわけである。 鴨、葛野は、『倭名類聚抄』山城国にそれぞれ「愛宕郡 賀茂」、「葛野郡 葛野」がある。賀茂・葛野は近接しているが、最終的に鴨になった詳しい事情は不明である。 〈3〉▼△
「我(わが)皇祖(すめろき)之(の)霊(みたま)や[也]、天(あめ)自(よ)り鑑(かがみ)を降ろし、光(ひかり)朕(わが)躬(み)を助(たす)けけり。 今諸(もろもろの)虜(あた)已(すで)に平(たひら)げて、海(わた)の内(うち)に事(こと)無し。天神(あまつかみ)を以ちて郊(たゐ)に祀(まつる)に、大孝(おほきにうやまひ)申(まを)す者(もの)を用(もち)ゐる可(べ)し[也]。」 乃(すなはち)霊畤(れいし、ひもろき、まつりのには)を[於]鳥見山(とみのやま)の中に立てて、其の地(ところ)を号(なづ)けて上小野榛原(かみつをのはりはら)、下小野榛原(しもつをのはりはら)と曰(い)ふ。 用(も)ちて皇祖(すめろき)、天神(あまつかみ)を祭りき(焉)。
旧榛原町は、2006年に大宇陀町、室生村と合併して宇陀市となった。 金鵄が飛んできた激戦地が「鳥見」(とび)である(第99回〈14〉)。 榛原町の町域はこの付近の鳥見山(とみやま、245m。仮にAとする)とは離れている。もし榛原がかつて鳥見山を含む範囲だったとすれば、その北東部だけが残ったことになる。 一方、榛原には、別の鳥見山(とりみやま、とみやま、734m。仮にBとする)がある。 こちらは、書紀完成後本来の地とは別の地に、地元の人が鳥見山Bと榛原を命名したのかも知れない。移住民が馴染みの地名をつけたことも、あり得る。或いはもともと書紀の中で、金鵄の鳥見山はA、霊畤の鳥見山はBだったのかもれない。 さて、榛原に置いた「大孝の者」の名前は空になっている。『新撰姓氏録』には、榛原公があり、大山守命(応神天皇の皇子)の後とされている。 《郊祀》 周代は一里=400mほどとされているので、近郊は城郭から約20kmまでである。 朝廷が置かれたとされる橿原(または柏原)を起点として鳥見山Aはその範囲内で、Bはぎりぎりだが、倭国で「郊」は、どの程度の広がりを意味したかは分からない。 上小野・下小野と書かれるのは、中国の郊祀が2か所で一組になっていることに添うと考えられる。 「畤」は野外の祭祀場である。「ひもろき(神籬)」も野外であり、樹木を立てるので「立霊畤」という表現には合う。 《霊畤》 かつて高皇産霊尊は天児屋命・太玉命に命じ、天降りした天孫が斎(いつき)するために神籬(ひもろき)と磐境(いわさか)を用意させた (第83回一書2(2))。 ――「起樹天津神籬及天津磐境当、為吾孫奉斎。」〔樹をたて、天つ神籬(ひもろぎ)と天つ磐境(いわさか)にあて、天孫に斎させよ〕 この神籬・磐境に相当するのが霊畤だと思われるが、書紀の伝統的訓は「まつりのには」である。これは、「畤」の直訳である。 《皇祖天神》 皇祖・天神という組み合わせには、若干の違和感がある。「郊祀」のもともとの意味を考えれば「天神・地祇」が自然である。 以前、神武天皇が夢の中で厳瓮(いつへ)を造って祭れという言葉の中に、天神地祇という表現が使われている(第99回〈1〉)。 2つ前の項目で「大孝の者」の名前を挙げていないことや、〈2〉の珍彦・剣根の名の問題も併せて、文章の推敲が不十分な印象を受ける。 《比定地》 鳥見山Aには、紀元2600年奉祝運動の一環として、等彌神社南方に昭和16(1941)年に「鳥見山中霊畤(とみのやまのなかのまつりのにわ)顕彰碑」が建てられた。 一方、鳥見山Bには 頂上近く鳥見山公園(宇陀市榛原)内に、「鳥見山中霊畤趾」という顕彰碑が建っている。 また、登彌神社(奈良県奈良市石木町648)の御由緒には、登美連が創建したとされ長髄彦や霊畤にも言及があるが、A、Bからは相当遠い場所である。登美連は移住したのかも知れない。 Aの近くには「大字外山(とび)」があり、「とびが訛ってとみになった」という訓注を見ても、書紀の鳥見山はこの辺りではないかと思わせる(第99回〈14〉)。 ただ、霊畤については、Aの近辺に霊畤はここだと主張する社もなく、顕彰碑が建っている場所もただの山中である。 先に述べたように「まつりのには」は直訳だからイメージも湧かず、奈良時代以後ここに社が建つことは、遂になかったのだろう。 〈4〉▼△
因(よ)りて腋上嗛間丘(わきがみのほほまのをか)を登りて[而]廻(めぐ)りて、国の状(かたち)を望み曰(のたま)ひしく、 「姸哉(あなにや)[乎]、国(くに)之獲(これをう)[矣]。【「姸哉」、此を鞅奈珥夜(あなにや)と云ふ。】[雖]内(うち)に木錦(ゆふ)之(の)真迮(まさき)国といへども、猶(なほ)蜻蛉(あきつ)之(の)臀呫(となめ)の如し[焉]。」とのたまひき。 由是(このゆゑに)、始めて[有]秋津洲(あきつしま)と[之]号(なづけり)[也]。 昔(むかし)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)此の国を目(め)し「日本(やまと)者(は)浦安(うらやすき)国、細戈(くはしほこ)千足(ちだる)国、磯輪上(しわかみ)秀真国(ほつまくに)。 【「秀真国」、此れ袍圖莽句爾(ほつまくに)と云ふ。】」と曰(のたま)ふ。 復(また)、大己貴(おほなむち)大神(おほみかみ)目(め)して[之]「玉牆(たまかき)の内国(うちつくに)。」と曰(のたま)ふ。 饒速日命(にぎはやひのみこと)、天(あま)の磐船(いはふね)に乗りて[而]太虚(おほぞら)に翔(と)び行く也(や)、是の鄕(くに)を睨(にら)みて[而]之(ここ)に降りしに及至(いたり)、 故因(かれ)[之]目(め)して「虚空見(そらみ)つ日本(やまと)の国。」と曰(い)ふ。
腋上嗛間丘は、御所市の国見山、あるいは本馬山が挙げられている。 "嗛間"に訓注がないが、当時存在した地名だからその必要はなかったのである。 本馬山の南には神武天皇社(御所市柏原246)があり、天保4年(1833)9月正遷宮の棟札があるという。その案内板には 「北西には『本馬山』(標高143メートル)があり神武が国見をした『掖上のほほまの丘』であると伝えられる。」とある。 この地は古くから柏原と呼ばれたという。 <『神々と天皇の間 大和朝廷成立の前夜』(鳥越憲三郎)18ページ;要約> 『続日本紀』によると、和銅6(712)年11月の条に、柏原村主(すぐり)の名があり、 天平10(738)年の『東大寺奴婢帳』に大倭(おおやまと)国柏原郷がある。 後に、江戸時代の『和漢三才図会』(1713)には「柏原、高市葛上郡界也」と書かれている。 </神々と天皇の間> 神武天皇社の案内板には「言い伝えによると、この地が旧跡に指定されると住民が他に移住しなければならなくなるので、 明治の初めに証拠書類をすべて焼却して指定を逃れたという。」とある。 ただし、証拠書類とは言っても、いくら古くても書紀よりは後であろう。 以上から、この地は記紀編纂期から現代まで一貫して「かしはら」だったと思われる。「ほほま」が訛って「ほんま」に なったのも音韻変化としてあり得ることだから、「嗛間」がこの地であった可能性は高い。 《国見丘》 腋上嗛間丘は、神武天皇が国見した場所だから、本来の意味における国見丘である。この場所は、磐余池から見て南西方向にある。 かつて八十猛(やそたける)が占拠していた「国見丘」は第99回で述べたように、磐余池より東の、別の場所である。 (【書紀】〈1〉の配置図、 【書紀】〈6〉《国見丘》を参照のこと) つまり、「現在の御所市の国見山(または本間山)=書紀の腋上嗛間丘」で、書紀で八十梟帥が占拠した「国見丘」は、現在のどの「国見山」も当てはまらない。 《姸哉乎》 あなにや。「あな」は感嘆詞である。「哉乎」は「やや」と二重になってしまうので、「乎」は置き字であろう。 《雖内木錦之真迮国》 "真迮"は伝統的に「まさき」と訓まれる。「さき」は「さし」(=狭い)の連体形。「木錦之」は「ゆう(木綿)のように細い」ととるのが一般的である。しかし、 <時代別上代>「真幸(まさき)」と解する説もある</時代別上代>が、その場合は「木錦之」は枕詞、或いは「神事に木綿(ゆう)を奉る」国という意味となる。 ただ、「雖A猶B」の構文では、A・Bは互いに対立する内容でなければならない。 「真幸国」とする場合、「内(精神世界)は宗教が広まって〔=木綿を飾る儀式が定着し〕よい国になったが、外(現実世界)は変わらず、自然豊かである」となる。しかし、その対立性は弱い。 通説では「細く裂かれた木綿(ゆう)のような狭い国」と解釈される。自分の国をこのように否定的に語ることが理解できなかったが、よく考えれば高い所に登れば家々は小さく模型のように見える。 すると、「木綿の」は小さく密集して見えたことを、その繊維の細さに喩えたもので、ほとんど枕詞であろう。 「蜻蛉」(とんぼ)は「秋津国」の由来譚に繋げるために無理に持ってきた感じではあるが、トンボが群れ交尾する様子を、人民の生活の息吹に喩えたと見ることもできる。 しかし、こうやってあれこれ考えても、どうもすっきりしない。案外、山上で国見をしていたときに偶然トンボが飛んできて、 「上から見ると、小さく密集して見えるなあ。あ、トンボが交尾してら。」と気楽に呟いただけの話かも知れない。 《秋津洲》 島生みのとき、本州を大倭豊秋津島(記)、大日本豊秋津洲(書紀)と称した。秋津島は、日本国全体の美称でもある。 《浦安国・細戈千足国・玉牆内国・磯輪上秀真国・虚空見日本国》 秋津洲という名を挙げたので、ついでにこれまでの異称を列挙したと見られる。 「浦安」は「心(うら)安き」。「細戈」は「美しい鉾」で、伊弉諾・伊弉美が鉾で混沌とした沼を画いた故事に繋がる。 「千足る」は普通は「十分満足できる」であるが、ここでは、「矛先から垂れた」意味を兼ねているかも知れない。 「磯輪」は、島生みで生まれた多数の島々を、海から顔を出す岩の並びに喩え、そこに「秀(ほ)づ」即ち稲穂が出る豊かな国の意。 「玉牆内国」は、大己貴神が大物主として御諸山にやって来たときに畿内を「四周の青山」と表現したことに由来する。 「虚空見(そらみつ)」は枕詞で、意味不明とされている。 《磯輪上秀真国の別解》 秀真国(ほづまくに)の「ほ」は「上に突きだしたもの」で、稲穂、炎、波の穂などを指す。派生して「秀でたもの」。 日向三代のところで、「ほほでみ」の「ほ」は阿蘇山の火を意味し、阿蘇が民族の故郷だとする可能性を考えた(第87回)。よって、磯輪(石の輪)は阿蘇の火口で、そこから「火出づ」国の意味かも知れない。 阿蘇と言えば、『時代別上代』には「阿蘇山の『閼宗(アソ)』についての考証があるように、日本の南西部には南方語系の言語も 一部に行われたことがあったかもしれない。」とある。その確認のために、少し検索する。 「あそ」と類似の語をポリネシア、フィリピン、インドネシア方面の言語との共通性の研究を見ると、 古くは、泉井久之助の説「煙を意味するatu、asuなどによって、『阿蘇』が命名された。」(1952頃の論文)がある。 これはやや古い時代の研究だが、最近でも井上政行氏(ウェブサイト「ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源」)などによって論じられている。 別の想像として、し(石)、わ(輪)は一音節で非常に古い時代の語だと思われるので、縄文時代にストーンサークル「しわ」と呼んだのが言葉の化石として残ったと考えても面白い。しかし、これは想像の域を出ない。 何しろ、縄文時代の終末と奈良時代は、2000年も隔たっているのだ。ただ「いし」・「わ」という語は奈良時代から現代まで1300年続いているのだから、さらに2000年遡ると考えることは、それほど無理ではないかも知れない。 〈5〉▼△
【太立宮柱於底磐之根峻峙搏風於高天之原】 《どう訓むか》
文中の対応関係から、「搏風」=氷木(千木)、「峻峙」=たかしりと見られる。しかし、念のために漢語本来の意味を確認する。 まず、「峻峙」は「切り立っている」意味なので、「高知る」を置き換えることに問題はない。 しかし、「搏風」の捜索は難航した。漢和辞典には搏は「たたく」とあるだけで、熟語「搏風」は載っていない。 そこで『汉典』で調べると、「搏風」は庇(ひさし)の両端を、装飾的に反り返した部分を指す語であることが分かった(表)。 従って、千木に漢籍の「搏風」を宛てたことがわかる。 ところが「太立宮柱」に釣り合う語は、「峻峙搏風」より「高立氷木」である。 恐らく「太立宮柱」についても、もっとむずかしい語に置き換えられないかと思って探したが、時間切れとなって探しきれなかったのであろう。 なお、この文により記の「ふとしる」は「太く立つ」、「たかしる」は「高く立つ」意味であることが確定する。 記ではこの神殿が大国主・邇邇芸命に与えられたが、書紀では神武天皇に与えられたところが注目される。
出雲大社には、「於底津石根宮柱布斗斯理於高天原氷木多迦斯理」に相応しい大神殿が、記紀編纂期に実在していて、 それが古事記の記述の基になったと考察した(第60回)。 では、神武天皇の宮殿はどうであろうか。 書紀の世界観においては、大国主の大神殿に匹敵するか、それ以上のものを神武天皇の住居とするのが当然である。 書紀の一書2において、大国主の大神殿に触れる(第79回【一書2】)とは言え、本文には出てこない。 つまり書紀本文では、太知り・高知りの大神殿を、大国主から召し上げ神武天皇の方に持ってきたのである。 神武天皇は伝説上の天皇であることは、共通認識だったから、神武の大宮殿は記紀編纂期に実在せず、観念上のものである。よって「古語称」(いにへえの語りに称(とな)ふ)、即ち言い伝えとして処理された。 《一度は邇邇芸に与えた大宮殿》 記では、大国主級の大宮殿を、天津日高日子番能邇邇芸命に与えた。 ということは、邇邇芸が降臨し、直接東征して天皇に即位するのが、記紀の原型であったのだろう。 それを裏付けるのは、道臣命と久米命についての記述である。 まず、道臣命・久米命が登場するのは、「邇邇芸命が天之磐座を離れ、天之八重棚雲を押し分けて」天降りしてきたときである (第84回)。 その名は、記では「天忍日命・天津久米命」、書紀【一書4】では「大伴連遠祖天忍日命・帥來目部遠祖天槵津大来目」 となっている。書紀では天忍日命は、後に名が改められ「道臣命」となる。 ところが、道臣命・久米命が実際に活躍するのは、3代後の神武天皇が、畿内に入った時である(第98回)。 だから後になってから、降臨と東征の間に、釣り針喪失譚――兄・海幸彦から借りた釣り針を失くして南海の故郷を訪ね、帰ってから海幸彦を服従させた――が挿入されたのである。 その理由は①未だ服従しない薩摩隼人に圧力をかけること。②南洋の民族としての出自を再確認すること。を必要としたからである。 それに伴い、太知り高知りの大宮殿を邇邇芸から神武天皇に移すべきだったのに、記の段階では修正が及ばなかった。 書紀においてやっと、その修正が行われたわけである。 【書紀:綏靖天皇即位前】
〈7〉▼△
母(みはは)は媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)と曰ひて、事代主神(ことしろぬしのかみ)之(の)大女(おほむすめ)也(なり)。 天皇風姿(すがた)岐嶷(ぎきよくに、さとしことひいでて)、少(をさなくして)雄抜之(ゆうばつの、ひいでる)気(け)有り、壮(をとこざかり)に及びて容貌(すがた)魁偉(かいい、おほきをとこ)にて、武芸(たけきわざ)人に過(ひい)で、而(しかるがゆゑに)志(こころざし)尚(なほ)沈毅(ちんきなり、しづかなれどつよし)。 四十八歳(よそつあまりやとせ)に至り、神日本磐余彦天皇崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。 時に、神渟名川耳尊、孝性(うやまふこころ)純(す)み深(ふか)く、悲び慕ふこと無已(やまむことなし)、特(ことに)[於]喪葬(はぶり)之(の)事心に留(とど)めたまふ[焉]。 其の庶(まま)兄(あに)手研耳命(たきしみみのみこと)、行(ゆく)年(とし)已(すで)に長く、久しく朝機(まつりごと)を歴(ふ)。故(かれ)、亦(また)委(つまひらかに)事(つか)へて[而]之(これ)を親(みづから)なしたまふ。 然(しかれども)其の王(きみ)、立ち操(あやつ)り懐(おもひ)を厝(お)き、本(もとより)仁義(じんぎ、まこと)に乖(もと)りて、 遂(つひ)に諒闇(もがり)之(の)際(きは)を以ちて、威福(いふく、いかりめぐみ)自由(ほしきまにまに)、禍(まがつ)心(こころ)を苞(つつ)み蔵(かく)し、二(ふた)弟(おと)を害(そこな)はむと図りぬ。[于]時に[也]、太歳(たいさい、ふととし)己卯(つちのえう)。
神渟名川耳天皇を紹介する文には、岐嶷・雄抜・沈毅・孝性等々、馴染みのない語を大量に並べてはいるが、要約すると「綏靖天皇は並みの人を、はるかに凌駕していた。」に尽きる。 狙いは、むずかしい漢語によって格調の高さを感じさせることであろう。 しかしそれは勢い余って、悪役である手研耳命にまで及ぶ。 その「朝機」は日本の漢和辞典には見つからず『汉典』で調べると、要するに「政(まつりごと)」であった。 これは、天皇の職務を代行するところまでのし上がっていたということである。 「諒闇」はその本来の意味とは少しずれるが、事実上「もがり」に相当する。「威福」の意味は「アメ(福)とムチ(威)による支配」である。 「苞蔵」は熟語にはなっておらず、一字ずつで「包み、秘める」である。 「仁義」は儒教思想の概念で、対応する和語はない。本稿の訓読では意訳して「まこと」(人としての誠実さ)にしておいた。 《第三子》 第一子は、吾平津媛を母とするまま兄の手研耳命。第二子は媛蹈韛五十鈴媛命を母とするいろ兄の神八井耳命である。 記では阿比良比売にもう一人の子、岐須美美命がいるが、書紀では存在しない。記でも、その記事はない。 宣長は、岐須美美命は多芸志美々と少し表記が違うから記では別にしたが、書紀のように同一神とするのが妥当だろうとする。 また記では、比売多多良伊須気余理比売の間にも、もう一人、日子八井命がいる。これも書紀では存在しないが、宣長はこの件には触れていない。 記によれば「茨田連、手嶋連の祖」である(他に事跡の記載はない)。『新撰姓氏録』では記と同様に、茨田連・豊島連を「彦八井耳命之後也」としている。 《自由》 古代の文献における「自由」は、近代思想で使われた語「自由」と同じ意味だろうか。 <汉典>由自己作主;不受限制和拘束。〔自己を主人としてよらしめる;制限や拘束を受けない。〕〔文例〕玉台新咏〔南北朝時代(5~6世紀)〕:"吾意久懐忿、汝豈得自由"〔わが心には、ずっと怒りが続くだろう。それでもおまえは自由でよいのか〕</汉典> 汉典によれば、近代における「自由」はfree、freedom、libertyの訳語である。もともとは古くからあった語である。汉典に載った以外の用例を探すと『風俗通義』(後漢=25~220年)にも見つかった。「何得乱道、進退自由」〔乱れた道に何を得ることがあろう。進退は自由だ。〕 この文例の「自由」は、現代における「自由」と同じ使い方である。『汉典』も、「自由」のもつ「自分を自分の主人とする」という意味は、古代から現代まで一貫したものとしている。 〈8〉▼△
[於]山陵(みささき)の事を畢(を)ふに至り、乃(すなは)ち弓部(ゆみべ)の稚彦(わかひこ)をして弓を造ら使(し)めて、倭(やまと)の鍛部(かぬちべ)の天津真浦(あまつまうら)をして真麛鏃(まかごのやさき)を造らしめ、矢部(やべ)をして箭(や)を作らしむに及ぶ。 弓矢(ゆみや)既(すで)に成りて、神渟名川耳尊、[欲]以ちて手研耳命を射(い)殺さむとす。 会(たまさかに)手研耳命[於]片丘(かたをか)の大窨(おほむろ)の中に、[于]大牀(おほとこ)に独(ひと)り臥(ふ)せて有り、時に渟名川耳尊、神八井耳命に謂(まを)して曰はく、 「今適(まさ)に其の時也(なり)。夫(それ)貴(たふと)き密事(ひそかごと)と言へば、宜(よろしく)慎しむべし、故(かれ)我之(わが)陰(かげ)の謀(はかりごと)、本(もとより)預(あづかる)者(もの)無し。 今日(けふ)之(の)事、唯(ただ)吾(われ)与(と)爾(なむち)自(みづから)[之]行ふ耳(のみ)。吾(われ)[当]先(まづ)窨(むろ)の戸(と)を開けむ、爾(なむち)其(それ)[之]射(い)たまへ。」とまをしき。
神八井耳命(かむやゐみみのみこと)、[則]手脚(てあし)戦慄(わなな)きて、矢を放つこと不能(あたは)ず。 時に神渟名川耳尊、其の兄の持つ[所の]弓矢を掣(ひ)き取りて[而]手研耳命を射(い)て、一(ひと)たび発(はな)ちて胸(むね)に中(あ)て、再(ふたたび)発(はな)ち背(せなか)に中(あ)てて、遂(つひ)に[之]殺しき。 於是(ここに)、神八井耳命、懣然(いきどほろしく)自(みづから)服(したがひまつり)、[於]神渟名川耳尊に譲(ゆづ)りて曰(まを)さく、 「吾(われ)是(これ)乃(すなは)ち兄(このかみ)なり、而(しかれども)懦弱(よわ)く果たすこと不能致(いたすことあたはず)。今汝(いまし)特(ことに)挺(ぬきい)で神(くすし)く武(たけ)く、自(みづから)元(おほきなる)悪(あしきもの)を誅(ころ)しき。 宜哉(よろしきや)[乎]、汝之(なが)天(あめ)の位(くらゐ)に光臨(ましまし)、以ちて皇祖(すめろき)之(の)業(わざ)を承(う)けたまへ。吾(われ)[当]為汝(ながため)に[之]輔(たす)け、神(あまつかみ)祇(くにつかみ)のこと典(つかさど)り奉(まつ)らめ者(ば)。」 是(これ)即ち多(おほ)の臣(おみ)之(の)始めの祖(みおや)也(なり)。
また坂合部首は、録では「多氏」に代えて「大彦命」となっていることも、さまざまな異説の存在を伺わせる。 記に掲載のない氏族でも、録に「彦八井耳命の後」と書かれた氏族があり、書紀の「彦八井耳命は存在しない」という見解も、決して絶対的ではないことがわかる。 このように様々なことが言われるので、多臣の分岐の全容について、書紀の編集段階では結論を出せなかったのであろう。その結果、単に「多臣」と書くに留めたと思われる。 【書紀は未完である】 今回、書紀の内容が詰め切れていない箇所として、これまでに次の3点を挙げた。 ①「太立宮柱」にあたる漢籍の語を見付けるのが、間に合わなかった。 ②頭八咫烏の子孫が複数の候補のままである。③神八井耳命を祖とする氏族のリストの決定が間に合わなかった。 森博達氏は、所々「云々」と書かれることなどから書紀は完成に至っていないとし、その理由について同氏は、「(当時の権力者)藤原不比等が、養老4年に大病を患い、書紀の撰上が急がれた。こうして書紀は未定稿のまま5月21日に撰上された」 (『歴史読本』2013年4月号)との考えを述べている。 【書紀:訳文】 〈1〉▲ 〔神武天皇元年〕正妃を尊び皇后とし、皇子、神八井命(かむやいのみこと)、神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を生みました。 そして、昔の言い伝えに、このように称えられています。 「畝傍(あけび)の橿原(かしはら)に、『底つ磐根に宮柱太知り、高天原(たかまがはら)に千木高知る』宮殿に坐(いま)し、 初めて天下を治めた天皇、神日本磐余彦火々出見(かむやまといはれひこほほでみ)の天皇の号を授けられるかな。」 初めて天皇は神聖な基となる世を草創し、 大伴氏の遠祖、道臣命(みちおみのみこと)、大来目部(おおくめべ)を率いて密策をお承けし、 倒語にて歌うことにより、妖気を掃蕩することができました。倒語を用いるのは、これが起こりです。 〈2〉▲ 2年2月2日、天皇は定功行賞されました。 道臣命に邸宅と土地を賜り、築坂(ちくさか)邑(むら)に居を定め、寵異(特別の褒章)を賜りました。 また、大来目には畝傍山の西の川辺の土地を居所に定め、今、来目邑と呼ばれるのは、これがその所以です。 そして、珍彦(うつひこ)を大和の国造(くにのみやつこ)となされました。 また、弟猾(おとうかし)に猛田邑(たけたむら)を給わり、それにより猛田の県主(あがたぬし)となり、これが菟田の主水部の遠祖です。 弟磯城(おとしき)は、黒速(くろはや)の名を賜り、磯城(しき)の県主となりました。 また、剣根(つるぎね)という者を、葛城(かつらき)の国造となされました。 さらに、八咫烏(やたからす)もまた恩賞をいただく者たちに加わり、その苗裔(びょうえい)は葛野(かどの)の主殿(とのもり)、あるいは葛野の県主、あるいは葛野部となっております。 〈3〉▲ 4年2月23日、次の詔を発しました。 「わが皇祖の御霊は、天より鏡を降ろし、その光は朕の身を助けました。 今、様々な敵は既に平げ、畿内は無事となった。そこで天神を郊外に祀るにおいては、大孝をし申す者を用いるべし。」 それにより、霊畤(れいし、礼拝の庭)を鳥見山(とみやま)の中に設置し、その地をそれぞれ、上小野榛原(かみつをのはいばら)、下小野榛原(しもつをのはいばら)と名付けられました。以って、皇祖・天神を祀りました。 〈4〉▲ 31年4月1日、皇輿(こうこ、帝の車〔天皇自身とも〕)の巡幸がありました。 そして、腋上嗛間丘(わきがみのほほまのおか)に登り、山上を巡り国の様子を望み、仰りました。 「おお、国が手に取るようだ。国の家々は木綿(ゆう)のように細やかに見えるが、それでもなおトンボが群れになって交わるように、人民の生活の息吹が感じられるぞよ。」 この言葉によりこの国は、初めて秋津洲(あきづしま)と名付けられました。 国の名といえば、昔、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)はこの国を御覧になり「日本(やまと)は浦〔=心〕安き国、細戈(くはしほこ)千足(ちだる)〔美しい矛から垂れて作られた〕国、磯輪上秀真(しわかみほつま)〔島々に稲穂の実る〕国。」と仰りました。 また、大己貴(おほなむち)大神(おおみかみ)は御覧になり「玉垣の内(たまかきのうちつ)〔美しい山々に囲まれた〕国。」と仰りました。 そして、饒速日命(にぎはやひのみこと)が天磐船(あまのいわふね)に乗って大空を翔(か)け、この国を見付けて降りたとき、「そらみつ日本(やまと)の国。」と言われました。 〈5〉▲ 42年1月3日、、皇子神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を立て、皇太子とされました。 〈6〉▲ 76年3月11日、天皇は橿原(かしはら)の宮に崩御されました。享年127歳でした。 翌年9月12日、畝傍山の東北の陵に葬むられました。 〈7〉▲ 神渟名川耳(かむぬなかわみみ)天皇は、神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)天皇の第三子です。 母は媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)で、事代主神の優れて立派な娘です。 天皇の風姿は岐嶷(ぎきょく)で〔賢さに秀で〕、幼くして雄抜(ゆうばつ)の〔抜群に優れた〕気配があり、壮年となるに及び、容貌魁偉(かいい)にて〔体格が立派になり〕、武芸も抜群で、その上に心持は、なお沈毅(ちんき)な〔冷静沈着で意思が強い〕方でした。 四十八歳になり、神日本磐余彦天皇は崩御されました。 その時、神渟名川耳尊は、孝性(こうせい)〔恭順の心〕は純粋で深く、いつまでも悲しみ慕う気持ちは消えず、特に喪葬の事をていねいに心に留めておられました。 その庶兄の手研耳命(たきしみみのみこと)は、長年にわたり、朝機(ちょうき)〔政(まつりごと)〕にあたっていました。そして委細に仕え、崩御された後は自ら後継になろうとしておりました。 しかし、その王はことをやたら取り仕切ろうとし、自分の心を上に置き本性は仁義にもとり、遂に諒闇(りょうあん)〔もがり〕が終わると同時に、威福(いふく)〔飴と鞭の支配〕)を自由〔ほしいまま〕にし、禍(まがつ)心〔邪心〕を包み隠し、二人の弟を亡き者としようと謀りました。それは、太歳己卯(つちのえう)〔甲子から16年目〕のことでした。 〈8〉▲ 11月、神渟名川耳尊は、兄の神八井耳命(かむやいみみのみこと)と、陰に手研耳命の意図を知り、これを防ごうとしました。 陵への葬送を終えたところで、弓部の稚彦(わかひこ)に弓を造らせ、大和国の鍛部(かぬちべ)の天津真浦(あまつまうら)に真鹿子(まかご)の鏃(やじり)を造らせ、矢部(やべ)に矢を作らせ、 弓矢の用意ができ、神渟名川耳尊は手研耳命を射殺そうとしました。 たまたま手研耳命は片丘の大室の中で、豪華な寝台に一人で横になっており、その機会に渟名川耳尊は神八井耳命にこう申し上げました。 「今がまさにその時です。大切な密事なので、慎重にやりましょう。我らの陰の謀りごとには、もちろん関わった者はいません。 今日のことは、ただ私とあなた自身で行うことです。わたしがまず先に室(むろ)の戸を開けます。あなたは、そこで矢を射てください。」 〈9〉▲ そこで、相従って進入し、神渟名川耳尊は、その戸を突き開けました。 けれども神八井耳命は、手足が戦慄(わなな)き、矢を放つことができませんでした。 そこで、神渟名川耳尊は兄の持つ弓矢を引き取り、手研耳命を射ち、一発目は胸に当て、再び背中に当てて遂に殺しました。 ここに、神八井耳命は情けなくなりうろたえ、自ら仕える身として皇位を神渟名川耳尊に譲り、申し上げました。 「私はあなたの兄ではありますが、懦弱(だじゃく)にて事を行えませんでした。今あなたは特に抜きんでた神武を見せ、自らの手で悪の大元を殺しました。 宜しければ、あなたが天位に光臨され、皇祖の業をお継ぎください。私はあなたの為に輔佐し、神祇のことを掌りまつりますので。」 このようにして、神八井耳命は多臣(おほのおみ)の始祖となりました。〔多臣は、その名の通り多くの臣の祖先です〕 まとめ 《比売多多良伊須気余理比売》 伊須気余理比売命が終始積極的に行動する姿は、読者を楽しませる。書紀では戦闘場面が大幅に加筆された反面、媛蹈韛五十鈴媛命の人物像はすべて削除された。 書紀は出雲系の神話にはなるべく触れない姿勢が見えるので、ここでもその影響があるのかも知れない。あるいは、本筋から外れたエピソードと考えられたのだろうか。 うがった見方をすれば、モデルとなった持統天皇に反発する勢力が編集委員にいたのかも知れない。 結果的には、神日本磐余彦天皇への漢籍の語による賛辞ばかりが目立ち、庶民にはとても興味を持てないものになった。そもそも書紀は、人民に直接読まれることは想定していないのだろう。 《神武天皇紀(書紀)の特徴》 今回で書紀の神武天皇紀の解析を終えたが、原文は原注を除いて5215文字あり、そのうち物語の本筋に関係ない賛辞、根拠のない日付、無意味な記述など形式的な文字が約16%に上る。 その一方で、明らかに結論が出ないまま残された箇所が少なくない。 特にそれが目立つのは、氏族への始祖の割り振りである。 《「多氏」の実相》 記紀の編纂に当たっては、恐らく多くの中小氏族から系図を天皇から接続したいという要望があったと思われる。 これは、その位置づけが政権内の地位に直結するから、当然のことである。ただ根拠として、何らかの伝承を持ち寄ることは必要だっただろう。 特に神八井耳命は初代の天皇の子であるから、希望が殺到した。それを全部認めるわけにもいかないから基準を設け、神武東征と、その後の東夷征伐の経路上の氏族に絞り、まとめて「意富臣の後」とした。 それでも納得しない氏族が多かったから、書紀ではそれ以上の混乱を避けるために「多臣」で止めざるを得なかった。 書紀では、また論功行賞の対象に頭八咫烏まで加え、始祖として提供した。これは書紀の段階では詰めきれなかったが、録で定まった。 また、霊畤の祀り人の地位も用意したが、こちらはなぜか人気がなかった。おそらく「霊畤」という語が一般的ではなかったためだろう。
さて、視点を変えて「記⇒書紀原文⇒原注⇒平安時代の訓読」という流れで見ると、神武天皇がほんわかとした神話から、確固とした実在天皇に変貌していく様子が見て取れる。 記では、戦闘の地は忍坂のみであるが、神武天皇紀では、勝利した皇軍の集結地は磐余邑で、その直前の決戦地を鳥見邑とするなど、多くの地名が登場する。 実際の大和政権は、3世紀の後半に纏向古墳群(三輪山西)で始まり、次いで柳本古墳群にあったのが定説となっていて、磐余邑は5~6世紀になってから、履中天皇(磐余稚桜宮)など数々の皇居が置かれた高貴な地である。 従って神武天皇即位直前の戦闘は、書紀執筆の時代になってから、飛鳥時代の謂れの地を舞台にして生まれた「記録」だと思われる。 つまり、書紀は記の記述を土台に、激戦の「記録」が大量に書き加えられたのである。ただその材料となる伝承も、一応はあったのだろうが。 ここには「一度物語が作られるとその物語自体が根拠に転化して、新たに作られる物語の正統性を保証する」法則が確実に成り立っている。これを神話絶対化の法則とでも呼んでおこう。 「初国しろしめす天皇」が崇神天皇から神武天皇に移ったのもその一つである。 この法則は昭和になってから再度発動され、紀元2600年の「神武天皇聖跡顕彰碑」設立運動もその中で起こった。 《現代における神話絶対化》 この法則の現代の例としては、原子力発電安全神話がある。これは、その安全性に不安をもつ相手を説得するために「絶対安全である」と繰り返し説いたことが、 逆に自分自身に神話を信じさせてしまったのである。 ⇒ [102] 中つ巻(綏靖天皇~開化天皇1) |