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[097]  中つ巻(神武天皇2)

2015.03.19(木) [098] 中つ巻(神武天皇3)

故隨其教覺從其八咫烏之後幸行者 到吉野河之河尻時作筌有取魚人
爾天神御子問汝者誰也 答曰僕者國神名謂贄持之子【此者阿陀之鵜飼之祖】
從其地幸行者生尾人自井出來 其井有光
爾問汝誰也 答曰僕者國神名謂井氷鹿【此者吉野首等祖也】
卽入其山之亦遇生尾人此人押分巖而出來
爾問汝者誰也
答曰僕者國神名謂石押分之子 今聞天神御子幸行故參向耳【此者吉野國巢之祖】
自其地蹈穿越幸宇陀故曰宇陀之穿也

故(かれ)、其の教へらる覚(おぼえ)の隨(まま)其の八咫烏(やたがらす)之(の)後(のち)従(よ)り幸行(いでま)せ者(ば)、吉野河之(の)河尻(かはじり)に到りし時、筌(うへ)を作り取魚(すなど)る人有りき。
爾(かれ)天神御子(あまつかみのみこ)問はさく「汝者誰也(なはたぞ)」ととはし、答へ曰(まを)さく僕(やつかれ)者(は)国神(くにつかみ)にて名を贄持之子(にへもちのこ)【此者(こは)阿陀之(あたの)鵜飼(うかひ)之(の)祖(みおや)なり。】と謂(まを)す。」とこたへまをしき。
其の地(ところ)従(ゆ)幸行(いでませ)者(ば)生尾(をはゆる)人井(ゐ)自(よ)り出来(いでき)。 其の井(ゐ)に光(ひかり)有り。
爾(かれ)「汝誰也(なはたぞ)」と問はし、答へ曰(まを)さく「僕(やつかれ)者(は)国つ神にて名は井氷鹿(いひか)と謂(まを)す【此者(こは)吉野(よしの)の首(おびと)等(ら)の祖(みおや)也(なり)。】。」とこたへまをしき。
即ち其の山に入(い)り之亦(これまた)生尾(をはゆる)人に遇(あ)はし、此の人巌(いはほ)を押し分けて[而]出来(いでき)。
爾(かれ)「汝誰也(なはたぞ)」と問はし、
答へ曰(まを)さく「僕(やつかれ)者(は)国つ神にて名は石押分之子(いはほおしわくのこ)と謂(まを)す。今天神御子(あまつかみのみこ)幸行(みゆきす)と聞(き)こえし故(ゆゑ)参(まゐ)り向(むか)ひし耳(のみ)【此者(は)吉野の国巣(くにす)之(の)祖(みおや)】。」とこたへまをしき。
其の地(ところ)自(よ)り蹈(ふ)み穿(うが)ち越え宇陀(うだ)に幸(いでま)しし故(ゆゑ)宇陀(うだ)之(の)穿(うがち)とや曰(まを)す[也]。


故爾於宇陀有兄宇迦斯【自宇以下三字以音下效此也】弟宇迦斯二人
故先遣八咫烏問二人曰 今天神御子幸行汝等仕奉乎
於是兄宇迦斯以鳴鏑待射返其使 故其鳴鏑所落之地謂訶夫羅前也
將待擊云而聚軍 然不得聚軍者欺陽仕奉而 作大殿於其殿內作押機待
時弟宇迦斯先參向拜曰
僕兄兄宇迦斯射返天神御子之使 將爲待攻而聚軍
不得聚者作殿其內張押機將待取 故參向顯白

故爾(かれ)[於]宇陀(うだ)に兄(え)宇迦斯(うかし)【「宇」自(よ)り以下(しもつかた)三字(みじ)音(こゑ)を以ゐる。下(しもつかた)此に効(なら)ふ。[也]】弟(おと)宇迦斯二人有り。
故(かれ)先(さき)に遣(つか)はしし八咫烏(やたがらす)二人に問ひ曰(まを)さく、「今天神御子幸行(いでま)し、汝(いまし)等(ら)仕奉乎(つかへまつらむや)。」ととはしき。
於是(ここに)兄宇迦斯以鳴鏑(かぶらや)を以ち待ち其の使ひに射返(いかへ)し、故(かれ)其の鳴鏑(かぶらや)の所落之(おちし)地(ところ)を訶夫羅前(かぶらさき)と謂ふ也(なり)。
[将]待ち撃たむと云(い)ひて[而]軍(いくさ)を聚(あつ)めむとし、然(しか)るに軍(いくさ)を不得聚(えあつめざ)れ者(ば)欺(あざむ)き陽(いつは)りて仕奉(つかへまつ)り、而(しか)して大殿(おほとの)を作り[於]其の殿内(とののうち)に押機(おしはた)を作り待ちき。
時に、弟(おと)宇迦斯先に参(まゐ)り向ひ拝(をろが)み曰(まを)さく、
「僕兄(わがいろせ)兄(え)宇迦斯天神御子之(の)使(つかひ)に射返(いかへ)し、[将(まさ)に]待ち攻めむと為(し)て[而]軍(いくさ)を聚(あつ)め、
不得聚(えあつめざ)れ者(ば)殿(との)を作り其の内に押機(おし)を張り[将]待ち取らむとす。故(かれ)参り向ひ顕(あらは)に白(まを)しき。」とまをしき。

爾大伴連等之祖道臣命久米直等之祖大久米命二人 召兄宇迦斯罵詈云
伊賀【此二字以音】所作仕奉於大殿內者意禮【此二字以音】先入明白其將爲仕奉之狀而
卽握横刀之手上弟由氣【此二字以音】矢刺而 追入之時乃己所作押見打而死
爾卽控出斬散故其地謂宇陀之血原也
然而其弟宇迦斯之獻大饗者悉賜其御軍 此時歌曰

爾(ここに)大伴連(おほとものむらじ)等(ら)之(の)祖(みおや)道臣命(みちのおみのみこと)、久米直(くめのあたひ)等(ら)之(の)祖(みおや)大久米命(おほくめのみこと)二人、兄宇迦斯を召(よ)び罵詈云(あしざまにのらさく)、
「伊(い)賀(が)【此の二字音(こゑ)を以ゐる。】[所]作り仕(つか)へ奉らむ[於]大殿の内に者(は)、意礼(おれ)【此二字以音】先に入り其の将為仕奉之(つかへまつらむとせし)状(かたち)を明(あきらけ)く白(まを)せ。」とのらして[而]、
即ち横刀(たち)之(の)手上(たがみ)を握り、由気(ゆき)【此の二字音を以ゐる。】の矢を弟(つが)ひ刺〔指〕して[而]、追ひ入之(いれし)時、乃(すなは)ち己(おの)が所作(つくりし)押(おし)に見打(うたれ)て[而]死にき。
爾(これ)即ち控出(ひきい)で斬り散らしし故(ゆゑ)其の地は宇陀之血原(うだのちはら)と謂ふ也(なり)。
然而(しかして)其の弟宇迦斯之(が)大饗(おほあへ)を献(まつ)れ者(ば)、悉く其の御軍(みいくさ)に賜(たまは)り、此の時歌(うたよみ)したまひ(うた)曰はく。


宇陀能多加紀爾 志藝和那波留 和賀麻都夜 志藝波佐夜良受 伊須久波斯 久治良佐夜流 古那美賀 那許波佐婆 多知曾婆能 微能那祁久袁 許紀志斐惠泥 宇波那理賀 那許婆佐婆 伊知佐加紀 微能意富祁久袁 許紀陀斐惠泥

うだのたかきに しぎわなはる わがまつや しぎはさやらず いすくはし くぢらさやる こなみが なこはさば たちそばの みのなけくを こきしひえね うはなりが なこはさば いちさかき みのおほきくを こきだひえね


疊々【音引】志夜胡志夜此者伊能碁布曾【此五字以音】阿々【音引】志夜胡志夜此者嘲咲者也

畳々(ぜゝ)【音引(こゑひく)】志夜胡志夜(しやこしや)、此者伊能碁布曾(こはいのごふぞ)。【此の五字音以ゐる。】阿々(あゝ)【音引】志夜胡志夜(しやこしや)、此者嘲咲者也(こはあざけらば)。

故其弟宇迦斯【此者宇陀水取等之祖也】
故(かれ)、其の弟宇迦斯、【此者(こは)宇陀の水取(もひとり)等(ら)之祖(みおや)也(なり)。】


 そして、その教えられた記憶の通りに、その八咫烏(やたがらす)の後について行かれ、吉野川の上流に到着した時、簗(やな)を作って魚を取っている人がありました。 天神の御子は「お前は誰か。」と尋ねられ、こうお答え申し上げました。「私は国つ神にて、名を贄持之子(にえもちのこ)と申します【この者は、阿陀の鵜飼の始祖です】」と。
 そこからさらに行かれますと、尾が生えた人が井戸より出て来ました。 その井戸には光がありました。 そこで「お前は誰か。」尋ねられ、こうお答え申し上げました。「私は国つ神にて、名を氷鹿(いひか)と申します【この者は、吉野の首(おびと)らの始祖です】」と。
 続けて山に入ると、また尾が生えた人に遇い、この人は岩を押し分けて出て来ました。 そこで「お前はだけか」と尋ねられ、 こうお答え申し上げました。「私は国つ神にて、名を石押分之子(いわおおしわけのこ)と申します。今天神の御子がいらっしゃるとお聞きしたので参上したのでございます【この者は吉野の国巣の始祖です】」と。
 その地から地面を踏み穿ち越えて宇陀(うだ)に行幸(いでま)しました故、宇陀の穿(うがち)と申すやとのことです。
 さて、宇陀に兄宇迦斯(えうかし)、弟宇迦斯(おとうかし)の二人が有りました。 そこで先遣の八咫烏(やたがらす)が二人にこう尋ねました。「今、天神の御子幸行(いでま)します。お前らはお仕え申すか。」と。 ところが、兄宇迦斯は鏑矢(かぶらや)を持って待ち構え、使者に射返しました。よってその鏑矢の落ちた地を訶夫羅前(かぶらさき)といいます。 兄宇迦斯は待ち構えて撃ってやろうと言い、軍勢を集めようとしましたが、軍勢を集められないので欺き偽ってお仕えし、宮殿を作りその殿内に罠仕掛けを作って待ちました。
 その時、弟宇迦斯が先に向い参り拝謁し、こう申し上げました。
「わたしの兄、兄宇迦斯は天神の御子の使者に射返し、待ち構えて攻めようとし、軍勢を集めようとしましたが、 集められなかったので、宮殿を作りその内部に罠を仕掛け待ち構えて討ち取ろうとしています。よって向かい参り洗いざらい申し上げました。」と。
 ここに大伴連(おほとものむらじ)の始祖、道臣命(みちのおみのみこと)、久米直(くめのあたひ)の始祖、大久米命(おおくめのみこと)二人、兄宇迦斯を召し罵倒し、
「お前が作りお仕しようとしている宮殿の中なのだから、お前が先に入り、そのお仕えしようとする様を洗いざらい示せ。」と命じて、 太刀の束に手をかけ、靫(うつぼ)から矢をとり弓に番え先を向け、追い入れたところ、自ら作った罠仕掛けに打たれて死にました。
 そこで引きずり出して斬り散らしたので、その地は宇陀の血原(うだのちはら)と申します。
 このようにして、弟宇迦斯が饗応の席を設けて差し上げたところ、すべてを皇軍にお与えになり、この時この歌を詠まれました。

宇陀の高きに 鷸(しぎ)罠張る 我が待つや 鷸は障(さや)らず いすくはし 鯨(くぢら)障る 先妻(こなみ)が肴(な)乞はさば 立ち柧棱(そば)の実の無けくをこきし聶(ひ)ゑね  後妻(うはなり)が肴乞はさば柃(いちさかき)実の多けくをこきだ聶(ひ)ゑね
ゼー、しゃ越や、此(こ)はいのごふぞ。アー、しゃ越や、此は嘲(あざけ)らば。

《大意》
 宇陀の山の上にシギ罠を張って我は待ったが、シギは掛からず鯨が懸かったよ。 先妻がおかずをねだったら、実がないのをたっぷり挽いてやれ。後妻がおかずをねだったら実がつまったのをたっぷり挽いてやれ。
 にくき越や、これは威圧だぞ。にくき越や、これは嘲笑だぞ。


 さて、その弟宇迦斯は、宇陀の主水(もんど)の始祖です。


かはじり(川尻、河尻)…[名] 河口。川の合流点。
…[名] 簗漁で用いる簀子。(万)2832 山河尓 乎伏而 やまがはに うへをふせて。(古訓)うへ。
…[名] (古訓)にへ、たから。
…(万)1054 大宮地 おほみやところ。(古訓)ところ。
はゆ(生ゆ)…[自]ヤ下二 生える。(万)0196 川藻毛叙 干者波由流 かはももぞ かるればはゆる
はやす(生やす)…[他]サ四 生えるようにする。
くにす、くず(国巣、国栖)…大和朝廷以前、各地に散在していた土着の先住民。吉野の国巣は宮中の節会に参内して歌舞や笛を奏した。
穿…(古訓)あなほる、つらぬく、うかつ。(地名)うかち。〔書紀の訓注:穿邑=うかちのむら〕
…(万)0196 宿鳥之 ぬとりの。〔借訓〕
(兄、姉)…[名] (上代語)同性の兄弟・姉妹の年長者。
…(古訓)いつはる。
欺陽…(中国古典)用例なし。
おほとの(大殿)…[名] (尊敬語)宮殿。
…(古訓)あきらかなり、あらはなり、あらはす。
(汝)…[人称代] 二人称。相手をおとしめて呼ぶ。格助詞「が」を伴う用例のみ。
おし(押機)…[名] 罠の一。バネ仕掛けのねずみ捕りのように、知らずに踏むと重しが人や動物を打ち、圧死させる仕掛け。
たがみ(手上)…[名] (上代語)刀の柄。
…(万)2574 手握而 たにぎりて。
…[名] ①おとうと。②兄や年上の人につかえる心。[副] ただ。(古訓)おとうと、しはらく、ついて。
…(古訓)のる。
…(古訓)のる。
罵詈(ばり)…ののしる。ののしり。
ののしる…[自]ラ四 (中古語)大声で叫ぶ。『日葡辞書』(1603~4年)では、現代と同じく「他人を侮る」意味になっているという。
いすくはし…[枕?] 語義不詳。鯨にかかる枕詞といわれる。
たちそばの(立ち柧棱の)…[枕] 「実の無し」にかかる。そばの木は実が少ないことから。
こきし、こきだ…[副] たくさんの。
ひふ(聶う)…[他]ワ下二 そぎとる。
いちさかき(柃)…[枕] 「いちさかき」はヒサカキの別名。実を多くつけることから「実多し」にかかる。
しや…[接頭] 卑しめ、ののしる意を添える。
いのごふ…[自]ハ四 敵意を表す。相手を威圧する声を出す。
もひとり(主水)…[名] 飲料水の供給などにあたった部民。「もひ」は水を入れる器、飲料水。「もんど」の語源。  (倭名類聚抄)「官名第五十一 司」主水司【毛比止里乃豆加佐】〔もひとりのつかさ〕

【吉野河之河尻】
 現在「吉野川」は、紀ノ川のうち奈良県内の部分の名称である。「川尻」は河口または川下を指すが、 河口は紀伊水道に達するので、宇陀からある程度下ったところかと思われる。  割注「阿陀之鵜飼」の阿陀は、『倭名類聚抄』に宇智郡 阿陀〔あだ〕がある。後の阿太村(現奈良県五條市内)付近だと思われる。

【筌】
 筌は万葉集で「うへ」とよみ簗(右図)と同じもの。書紀ではと書き、訓注「やな」をつけるから、当時から「やな」は一般的な呼び名だったと思われる。

【贄持之子】
 にへ(贄)は天皇に献上する食物。また、土地の産物。猿女君は島々の速贄(はやにへ、そのシーズン最初の献上物)を集約し、献上する役を担った(第85回)。
《鵜飼》
 鵜飼は、大宝律令において宮内省の大膳職(だいぜんしき)に属する品部のひとつ。 品部とは律令以前の職業部をそのまま専門的な技能集団として、諸司に所属させたもの。
 
【生尾人】
 「生尾人」(尾の生えた人)とは異様であるが、 この地域一帯に、ニホンザルを祖神とする言い伝えがあったかと想像される。 猿神は、<wikipedia>8世紀から9世紀頃には琵琶湖南岸一体でサルの信仰が広まっており、中世に入ってサルを神の使いと見なす考えに繋がった</wikipedia>とされ、 平安時代に開かれた比叡山では、釈迦が猿の姿を借り、神となって現れたと言われる。
 また、天孫の道案内をした、猿田彦の名にも猿信仰が反映していると見られる。

【井氷鹿・石押分之子】
 井氷鹿を始祖とする吉野連と、石押分之子を始祖とする国栖は『新撰姓氏録』「第二帙/神別」に記載がある。
本貫種別細分氏族名始祖記 事
大和国神別地祇吉野連加弥比加尼之後也謚神武天皇行幸吉野。到神瀬。遣人汲水。使者還曰。有光井女。天皇召問之。汝誰人。答曰。妾是自天降来白雲別神之女也。名曰豊御富。天皇即名水光姫。今吉野連所祭水光神是也
〔加弥比加尼(かみひかね)の末裔。神武天皇吉野に行幸(みゆき)し、神瀬に到る。 人に水を汲みに遣り、使者還(かへ)り曰「光る井に女有り」天皇召し「汝は誰人(たれ)ぞ」と問ひ、答曰「われ天より降り来たる白雲別神(しらくもわけのかみ)の女(むすめ)にて、名を豊御富(とよみとみ)とまをす。」 天皇即ち水光姫(みひかりひめ)と名づけき。今吉野連(むらじ)の祭る水光神(みひかりのかみ)これなり。〕
大和国神別地祇国栖出自石穂押別神也神武天皇行幸吉野時。川上有遊人。于時天皇御覧。即入穴。須臾又出遊。窃窺之喚問。答曰。石穂押別神子也。尓時詔賜国栖名。然後孝徳天皇御世。始賜名人国栖意世古。次号世古二人。允恭天皇御世乙未年中七節進御贄。仕奉神態。至今不絶
〔神武天皇吉野に行幸せし時、川上に遊ぶ人有り。時に天皇御覧(めし)、即ち穴に入る。 須臾(ほどなく)又遊びに出でき。窃窺之(のぞきて)喚(よ)び問はし、答曰「石穂押別神(いはほおしわけのかみ)の子なり。」時に詔(みことのり)し国栖(くず)の名を賜る。然後(しかるのち)孝徳天皇御世、始めて人に名づけ賜り、国栖意世古(おせこ)次に号(なづ)け世古、二人。允恭天皇〔第19代〕御世の乙未より、年中七節の御贄を進めき。神に仕へ奉る態(さま)、今に至り絶へず。〕
 このうち、国栖の記事中の「年中七節進御贄」が、古語辞典の「宮中の節会に参内して歌舞や笛を奏した」という説明の根拠になったと思われる。
《井氷鹿》
 井氷鹿(いひか)は井戸の光と共に出てくるという不思議な現れ方をし、その現れ方のままを名とする。その末裔が吉野首である。
 後に八色の姓(やくさのかばね)制定の際、吉野首(むらじ)が与えられたと見られる。『新撰姓氏録』(815年)では、生尾人ではなく、女となっている。記紀から100年間に水光姫に変化したか、もともと異説があったかのどちらかである。 奈良県吉野郡川上村井光(いかり)には井光(いかり)神社があり、その近辺に井氷鹿の井戸、加弥比加尼の墓、大塔宮の磐座がある。 [ihi]という発音は[h]が落ちやすく、現在「いかり」と呼ばれるのは理解し得る。ヒは古くは[pi]であったので脱落せず、飛鳥時代以前から存在する古い地名だと思われる。
 なお、白雲別神・水光姫を祭神とする神社は、他にも長尾神社(奈良県葛城市長尾)がある。この神社は井氷鹿伝説とは、遠隔の地にある。
 井戸から神が現れるところは、「於井有光」して(井戸が光り)火遠理命の姿が映ったのを豊玉毘売の侍女が見つけた話 (第90回)と類似性がある。
《石押分之子》
 巌を押し分けて登場するから、石押分之子である。よみは『新撰姓氏録』に合わせれば、「いはほおしわくのこ」となる。その末裔は吉野の国巣である。 奈良県吉野郡吉野町には、大字国栖(くず)という地名がある。その近くの川上鹿塩神社の祭神「大倉明神」は、石押別神を指すとする地域伝承があるという (『大和国』川上鹿塩神社)。 石押分之子の現れ方は、邇邇芸命が「天之石位を離れ」(第84回)て登場したことと、類似している。
 井戸や岩窟から祖神が現れるのは、各地に一般的にある伝承かも知れない。 ただ、天孫族はあくまで天照の子孫だから、猿神を先祖とする諸族とは一線を画すのである。

【連、直、首】
 ここでは、大伴連、久米直、井氷鹿が姓(かばね)をもつ氏族として登場する。
 天武天皇が、八色の姓を制定(682)する以前の古い姓には、公(きみ)、臣(おみ)、(むらじ)、(あたひ)、(おびと)などがあった。 姓とは、各氏(うじ)の冠称である。初めは自称していたものが、やがて朝廷から与えられた称号となった。

【訶夫羅前】
 現在の宇陀近辺には「かぶらさき」という地名は見つからない。 「さき」は「岬」である場合が多いが、内陸で山が付き出した地形もあり得る。 「訶夫羅」という万葉仮名による表記は地名の実在性を感じさせるがそれが残っていないということは、 山間地なので、土砂災害などで集落が絶えたのであろうか。
 なお、愛媛県四国中央市に蕪崎があり、同地に蕪崎神社がある。 神話だから鏑矢はどこまででも飛んで行けるが、矢を射った向きは東向きだと思われるので、まず無関係である。

【兄宇迦斯・弟宇迦斯】
 この氏族名は、穿邑(うがちむら)という地名と結びついている。 土着氏族の兄弟制は、他にも兄倉下・弟倉下、兄磯城・弟磯城、景行天皇紀の兄夷守・弟夷守など多数あり、注目される。何れその意味を探りたい。

【押機】
 各種国語辞典・古語辞典において、よみは「おし」である。2回目は「押」のみなので、やはり「おし」であろう。 「(き)」は、織機など、部品を組み合わせてできた複雑なしかけを意味するから、この字を付加して機械仕掛の意味を加えたと考えられる。

【大伴連・久米直】
古事記日本書紀
邇邇芸命の天降り兄宇迦斯への攻撃時瓊瓊杵尊の天降り頭八咫烏到来時
大伴連祖:天忍日命祖:道臣命遠祖:天忍日命(↓率いる)遠祖:日臣命→道臣命〔改名〕
久米直〔来目部〕祖:天津久米命祖:大久米命遠祖:天槵津大来目大来目(↑率いられる)
 邇邇芸命が天降りしたときに登場したのが、天忍日命(あめのおしひのみこと)と天津久米命(あまつくめのみこと)である(第84回)。 当時はそれぞれ大伴連の祖、久米直の祖とされた。 しかし、兄宇迦斯を攻めた時に書かれているのは、大伴連の祖=道臣命、久米直の祖=大久米命で、大伴連については不一致がある。
 一方書紀では、天降り時に大伴連の遠祖が天忍日命。頭八咫烏到来時に、大伴連の遠祖が日臣命〔道臣命に改名〕。 また、来目部の遠祖は、天降り時に天槵津大来目で、天忍日命に率いられる。頭八咫烏到来時にも、「日臣命は大来目を率いる。」と書かれる。
 大伴氏の祖は二通り書かれるので、天忍日命、道臣命のどちらだろうという疑問が湧く。 そこで大伴氏の系図を検索すると、「高皇産霊尊―(間に二代)―天忍日命―(間に二代)―天津彦日中咋命―道臣命―…」(『大伴姓諸流系図』)などが見つかる。 同氏の系図については、『続群書類従』、『古屋家家譜』などによる研究があるという。 『新撰姓氏録』では大伴宿祢について、「初天孫彦火瓊々杵尊神駕之降也。天押日命・大来目部立於御前。〔その初めは、瓊々杵尊の神駕(かご)が降り、天押日命、大来目を率いて御前に立つ〕とあるので、「天忍日命」が平安時代初期時点で公認された起点である。 系図の起点を畏れ多くも高皇産霊尊まで遡らせたのは、後に大伴氏自身が粉飾したのであろう。

【伊賀】
 『倭名類聚抄』には、伊賀国・伊賀郡の項目がある。この音を借りて人称代名詞「汝()」+格助詞「」を表している。 「い」の、国語辞典・古語辞典における用例の多くは、この文が用いられている。

【握横刀之手上弟(矛)由気矢刺】
《本居宣長説》
矛由氣は、書紀崇神天皇巻に、豊城命以夢辭奏云云、 ()(タビ) (ホコ)(ユケ) ()(タビ) (タチ)(ガキス)とあり、 此に由氣と書るは、假字なれバ、下にシてふ辭を添て、躰言に讀ハ非なり、用言に讀べし、
〔これに由気と書かるは、仮字なれば、下にシという辞を添えて、体言に読むは非なり、用言に読むべし〕
崇神天皇紀に「弄槍(ほこゆけ)」とあるから、"名詞+サ変動詞"の「ゆけ-し」ではなく、動詞「ゆけ」と読むべきである。
 「手上」の次の字は、真福寺本ではどう見ても「」であるが、宣長は躊躇せずに「」とする。 宣長が引用した「弄槍」は崇神天皇紀四十八年の記事にある。岩波文庫版もこれを「ほこゆけ」と訓むが、その根拠は示されていない。 辞書を見ると、『デジタル大辞源』には「ほこゆけ(矛行け・弄槍) 矛をあやつって突くこと。」がある。 他の「角川国語中辞典」、種々の古語辞典には載っていない。
 一方、古訓を見ると、「…(古訓)たはふれ、てうつ、もてあそふ。」で、「ゆけ」の類はない。 「矛ゆけ」の「ゆけ」は「行く」(自動詞、四段活用)を他動詞として下二段活用(=行かせる)し、矛先を向ける意味と考えられるが、古語辞典には「行く」の他動詞用法はない。 万葉集では「ゆけ」は、すべて「ゆく」の已然形と命令形で、下二段活用の連用形と解釈しうる例はない。 『時代別上代』には、次のような解説がある。
「弄槍」の文字は、ホコトリとも訓まれて、散楽の技の名でもあった。 「弄槍【保古斗利(ホコトリ)】」(和名抄※※)がそれである。トルはもてあそぶ意で、 「弄玉【多末斗利(タマトリ)】・弄鈴【須々斗利(スズトリ)】」(和名抄)がそれである。 ホコユケのユケは、類例に乏しいが、おそらく行クの下二段化で、行かせる意であろう。四段動詞が下二段になって使役の意を表す例は多い。
※ 奈良時代に大陸から移入された物まね、曲芸、奇術など娯楽性の濃い芸能の総称。
※※ 倭名類聚抄〔二十巻本〕 巻第四 術芸部第九 雑芸類第四十四。諸競技類、蹴鞠や囲碁なども含む。
 このように「矛ゆけ」は万葉集になく、辞書も一部に載る程度なので、ほぼ記紀限定の伝統的な訓であろう。 弄槍の訓「ほこゆけ」も、実は記の「矛ゆけ」が根拠かも知れない。 もし記の「矛」が誤写ならば、「ほこゆけ」という語自体が消滅する。それでも書紀の弄槍は倭名類聚抄を根拠として「ほことり」と訓読することができる。
 仮に「矛」が正しければ、太刀・矛・矢という三種の武器によって兄宇迦斯に迫っていることになる。 ところが書紀を見ると、「案剣弯弓(剣の柄を押え、弓を張る)とあり、矛がないのが注目される。 書紀編者が目にした古事記には「矛」の字がなかった可能性がある。そして「弯弓」(弓を弯曲させる)は、「矢をつがえる」を言い換えた語と見られる。
 横刀は鉄製で腰に帯びるものだが、矛はずっと古い時代の青銅製の武器のイメージがあり、これらが両方出てくるのは不自然な印象を受ける。 また、道臣命・大久米命の二人が迫るのだから、一人が束に手を懸け、一人が弓を構えるのが絵柄としてもよい。
 このように考えた結果「ゆけ」を棄てることにしてみる。すると、「氣」の音仮名には「」もあるので、矢を入れる筒「(ゆき)」の可能性が出てくる。
真福寺本
《"氣"のよみ》
 ただ、「由氣」を「靫」と決定するためには、「き」の甲類・乙類の判別が必要である。そこで、万葉集の「ゆき」を調査する。 (万)0478 靭取負而 ゆきとりおひて。では漢字表記。(万)4332 麻須良男能 由伎等里於比弖 ますらをの ゆきとりおひて。では音仮名""は「き」である。 万葉集における「靫」は、「靭」2例、「由伎」2例の計4例である。
 神武天皇紀の歌謡(たまたま今回の範囲に含まれる)では、「こきし[居氣辞]、こきだ[居氣儾]〔=多い〕」は、記では「許紀志(こきし)」「許紀陀(こきだ)」が使われる。
 一方、万葉集では、「こきだ」に類似した「こきだく」(これも"このように多く"の意味)がある。 (万)0232 野邊徃道者 己伎太雲 繁荒有可 のへゆくみちは こきだくも しげくあれたるか。
 「こきだく」は「こき」を語幹とする形容詞「こきだ」の連用形が語源だと思われるのに、それらが甲・乙に分かれるのは不思議である。 実は記の「紀」が疑がわしかったので、書紀では「氣を用いたと考えられなくもない。
 なお、「氣」はほとんどが「け・げ」であるのに対して、「き」は僅かである。
 また、神代紀上の「吹棄氣噴之狹霧」には、 訓注「浮枳于都屢伊浮岐能佐擬理(ふきうつるいふきのさぎり)」がついている(第46回)。 「氣」の訓は基本的に「いき」である。「噴」は「ふく」。「いふく」は、「いき(氣)+ふく(噴)」から[ki]が脱落したと見られる。 奈良時代ごろまでは、語頭の「フ」は[pu]だったので、[iki-puku]→[ikpuku]→[ipuku]、そして有声化して[ibuku]か。 「氣」の訓読みは「いき」で、音読みは「き」というのも不思議な気がする。
 このように考えてみると、「氣」が甲類である可能性は残っているようだ。何よりも文法的に「ゆけ」はあり得ず、「ゆき」に該当する語は文脈上「靫」以外に見つからないのである。
《弟》
 真福寺本の「」は、主語とは考えられない。 その第一の理由は、この文の主語として、既に道臣命・大久米命が示されていること。第二の理由は主語の位置である。2つの文が並立している場合、前の文の主語を省き、後の文だけ主語をつけるのは考えられない。 第三の理由は、一文目が「握横刀之手上」と動詞から始まるので、二文目も「弟由氣矢」のように、弟が動詞の位置にある可能性があること。
 そこで弟の「おとうと」以外の意味を調べると、形容詞「弟として兄に従順にする、すなわち大人しく仕える」がある。 また弟の古訓「つき」は「次」であるが、「継ぐ」の連用形でもある。その未然形に反復・継続の助動詞「ふ」を繋ぐと「つがふ」となる。 よって弟は「つがふ」とよみ、さらに下二段活用により他動詞化して「つがふ(番ふ)=矢を弓につがえる」として使用した可能性がある。
《刺》
 字は「刺」だが、脅して追い入れる場面だから、意味は「指す」(弓矢を構えて向ける)である。ここで矢を刺してしまったら、自分で罠を踏ませることができなくなる。
《語釈》
 この部分の大意は、「大殿に罠を仕掛けたことを知った道臣命・大久米命が、兄宇迦斯に『自分が最初に入ってどんな目に遭うかを示せ』と言って大殿に追い込む」である。 そのために、「太刀の柄に手を懸け、矢を構えて威圧する」は明瞭であるから、 この文意を表し得る方向に、原文を解釈すべきである。従って「番靫矢差〔靫から矢を取り番え、相手に向ける〕という読み取り方には一定の根拠がある。

【先入明白其将為仕奉之状】
 先入…「先に入り」
 明白…「明らかに白(=申)せ。」〔はっきりと示せ〕
 其将為…「其の将に~為(な)さむとするところを」〔~しようとしたことを〕
 仕奉之状…「仕へ奉(まつ)る状(かたち)」〔仕える振りをして、実は罠を仕掛けたこと〕
 つまり、「お前が先に入って、どんな"接待"が仕組んであるか、身をもって示せ。」 と皮肉をこめて言う。書紀における「爾所造屋、爾自居之」に比べると表現が巧みで、この文学性が古事記の魅力である。

【己所作押見打】
 「」は、受け身を示す助動詞で、「見打」は「打たれる」である。 漢文では、行為者は英語の{by 行為者}と似て、動詞の後ろに{行為者}を置くが、 それ以外の方法として{行為者}とする方法がある(訓読は、{行為者~さる})。 この文も行為者を前に置く形式である。行為者は「〔おし;=罠〕で、「己所作(おのれのつくりしところの)が「押」を連体修飾する。 受け身の助動詞「見」については、既に因幡の白兎でも取り上げた(第56回汝者我見欺」)。

【血原】
 現在、桜井市に茅原の地名が残る。

【宇都宮城釣天井事件】
 兄宇迦斯による暗殺計画は、宇都宮城の釣天井事件を想起させる。徳川家康の側近であった本多正純は、秀忠の代に宇都宮の藩主となった。 元和8年(1622)に秀忠が日光に詣でた帰りに宇都宮城に泊まることになったが、そのために造営した御殿に 釣天井の仕掛けをし、秀忠の暗殺を企てたのではないかと疑われた事件である。実際は事実無根で、本多正純の実際の改易は、他の理由によって行われた。

【宇陀の高きに鷸罠張る…】
 歌謡の前半部分は罠が主題なので、この段との関連によって選ばれたと思われる。
 後半部分の「こなみが」以下は、「こなみ」「うはなり」の意味を調べた際に言及した(第61回参照)。 後半は、兵士にどんどん食べよと勧めたことに因んだものと思われる。
《いすくはし》
 この歌の中で、この語が最も意味不明である。「いすくはし」は枕詞だろうというのが通説であるが、その語源は不明である。 枕詞以外の解釈を試みると、強調の接頭語「」+「すくふ」の未然形+上代の軽い尊敬の助動詞「」の連用形とする解釈が、一応成り立つ。 この場合は、鷸は罠にかからなかったから「(鷸は)救ってやろう」という意味になる。
《しやこしや》
 音仮名「志夜胡志夜」の""は甲類。越(こし)の""も甲類なので、遠い昔、越に敵対した頃の名残かも知れない。 大国主の国は、実は古代の越だったのではないかと、前回考えた。それ以来「こし」は敵対勢力の代名詞となり、 戦いを主題とした歌に「憎めや越や」という囃子言葉として残ったと考えることができる。
 宣長は、「こしや」は「をこしや」の「を」を略したもので、「をかしや」と同じだとする。

【疊々】
 一般に「ええ」とされている。これは、本居宣長による次の説を継承したものと思われる。
疊々(エゝ) は、詳ならねど、強て云バ、盈の草書を、疊と見誤れるにや、盈は假字に用たる、例なけれど、此は殊に 尋常(ヨノツネ) の言にも非れば、かゝる假字をも、用ひたるべし故姑く、盈ノ字と定めて、エゝの假字とす
疊々は詳らかならねど、強いて言えば盈の草書を疊と見誤れるにや、盈は仮字に用いたる例なけれど、 これは殊に尋常(世の常)の言うにもあらざれば、かかる仮字をも用いたるべし。故(ゆえに)姑(しばら)く盈の字と定めてエゝの仮字とす。
 このように、宣長は「姑」(ひとまず)盈の誤読として結論を先延ばしにした。それから既に、217年が経過した。 しかし、宣長が誤読と見做したのは主観によるから、無批判に継承するわけにはいかない。
 疊が誤りでは無かったとしてみよう。その場合疊の呉音「ぜふ」だから、恐らく「ゼイ」という囃子言葉である。そんな囃子言葉があるのかと思われるのだが、検索してみると、それが存在するのである。 即ち、伊江島の「砂持節」(すなむちぶし)が見つかった(右図;クリックで拡大、音声付き)。
 「日本トランスオーシャン航空/美ら島物語」などによると、 この歌は、役人が農民による海岸の砂の採取を禁じたことを歌ったものという。〔十年に一度の農地替えで、不利な耕作地を割り振られた農民が、土壌の改良のために砂を取りに来るが、放置すると台風の大波が防げなくなるので採取が禁じられた〕 「ゼイサー」という囃子言葉には、不服の感情が感じられる。 記紀の歌謡でも相手を貶す感情を露わにしているから、「ゼーィ」はあり得ると思われる。

「大殿御本」を参照した結果が添えられている。
【音引】
 「音引」は、「々は反復ではなく、母音を伸ばす」という意味であると思われる。 漢字返し記号()は、真福寺本では右のように記されている。

【書紀】
秋八月甲午朔乙未、天皇使徵兄猾及弟猾者。【猾、此云宇介志。】 是兩人、菟田縣之魁帥者也。【魁帥、此云比鄧誤廼伽瀰。】 時、兄猾不來、弟猾卽詣至、因拜軍門而告之曰 「臣兄々猾之爲逆狀也、聞天孫且到、卽起兵將襲。 望見皇師之威、懼不敢敵、乃潛伏其兵、權作新宮而殿內施機、欲因請饗以作難。 願知此詐、善爲之備。」 天皇卽遣道臣命、察其逆狀。時道臣命、審知有賊害之心而大怒誥嘖之曰「虜、爾所造屋、爾自居之。」 【爾、此云飫例。】因案劒彎弓、逼令催入。 兄猾、獲罪於天、事無所辭、乃自蹈機而壓死、時陳其屍而斬之、流血沒踝故、號其地曰菟田血原。 已而弟猾大設牛酒、以勞饗皇師焉。天皇以其酒宍、班賜軍卒、乃爲御謠之曰、【謠、此云宇哆預瀰。】
 于儾能多伽機珥 辭藝和奈陂蘆 和餓末菟夜 辭藝破佐夜羅孺 伊殊區波辭 區旎羅佐夜離 固奈瀰餓 那居波佐麼 多智曾麼能 未廼那鶏句塢 居氣辭被惠禰 宇破奈利餓 那居波佐麼 伊智佐介幾 未廼於朋鶏句塢 居氣儾被惠禰
是謂來目歌。今樂府奏此歌者、猶有手量大小、及音聲巨細、此古之遺式也。 是後、天皇欲省吉野之地、乃從菟田穿邑、親率輕兵巡幸焉。 至吉野時、有人出自井中光而有尾。天皇問之曰「汝何人。」對曰「臣是國神、名爲井光。」 此則吉野首部始祖也。 更少進、亦有尾而披磐石而出者。 天皇問之曰「汝何人。」對曰「臣是磐排別之子。」【排別、此云飫時和句。】此則吉野國樔部始祖也。 及緣水西行、亦有作梁取魚者。【梁、此云揶奈。】 天皇問之。對曰「臣是苞苴擔之子。」【苞苴擔、此云珥倍毛菟。】此則阿太養鸕部始祖也。

秋八月(はづき)甲午朔乙未〔2日〕、天皇(すめらみこと)兄猾(えうかし)及(と)弟猾(おとうかし)とを使徴(めさしめ)者(ば)。【猾、此宇介志(うかし)と云ふ。】 是の両人(ふたり)、菟田(うた)の県(あがた)之(の)魁帥(ひとこのかみ)なれ者(ば)[也]。【魁帥、此比鄧誤廼伽瀰(ひとこのかみ)と云ふ。】 時に、兄猾不来(こず)、弟猾即ち詣至(まゐりき)、因(より)軍門(いくさのかど)を拝(をろが)みて[而]告(まを)し[之]曰はく、 「臣兄々猾(おのがあに・えうかし)之(これ)逆状(さかしま)を為(な)し[也]、天孫(あまつひこ)[且]到らむと聞き、即ち兵(いくさ)を起(た)たし[将]襲(おそ)はむとす。 皇師(すめらみいくさ)之(の)威(たけ)を望み見、懼(かしこ)み不敢敵(あへてむか)はず、乃(すなは)ち其の兵(つはもの)を潜伏(ふ)させ、新宮(にひみや)を権(はか)り作りて[而]殿(あらか)の内に機(はた)を施(もち)ゐ、因(よ)り饗(あへ)を請(う)くを以て難(かたき)を作(な)すを欲り。 願はくは此の詐(いつはり)を知らしめ、善(よろし)く之の備(そなへ)を為(し)たまへ。」 天皇即ち道臣命(みちのおみのみこと)を遣はし、其の逆状(さかしま)を察(あきらかにせり)。 時に道臣命、審(つまびらか)に賊害之(ぞくがいの〔うちていたむる〕)心有るを知りて[而]大(おほ)きに怒り誥嘖(こら)ひ[之]曰はく「虜(やつこ)、爾所造屋(おれのつくりしや)、爾自居之(おれみづからここにをれ)。」【爾、此飫例(おれ)と云ふ。】 因りて剣を案(おさ)へ、弓を弯(ひ)き、逼(せ)め令催入(うながしいりしめ)き。 兄猾、獲罪於天(あめにつみをえ)、事の無所辞(とどむるなく)、乃(すなは)ち自(みづか)ら機(はた)を蹈(ふ)みて[而]圧(おさ)へられ死す。時に其の屍(かばね)を陳(つら)ねて[而]之(これ)を斬り、流るる血に踝(つぶなぎ)を没(しづ)めし故(ゆゑ)、其の地を号(なづ)け、菟田(うだ)の血原(ちはら)と曰(まを)す。 已(すで)にして[而]弟猾大きに牛(うし)酒(さけ)を設(そな)へ、以て皇師(すめらみいくさ)を労(ね)ぎ饗(あへ)せり[焉]。天皇其の酒(さけ)宍(しし)以(を)、軍(みいくさ)の卒(つはもの)に班(あか)ち賜(たま)ひ、乃(すなは)ち為御謠(うたよみしたまひ)[之]曰(うた)はく、【謠、此宇哆預瀰(うたよみ)と云ふ。】
 于儾能多伽機珥 辞芸和奈陂蘆 和餓末菟夜 辞芸破佐夜羅孺 伊殊区波辞 区旎羅佐夜離 固奈瀰餓 那居波佐麼 多智曽麼能 未廼那鶏句塢 居気辞被恵禰 宇破奈利餓 那居波佐麼 伊智佐介幾 未廼於朋鶏句塢 居気儾被恵禰
 (うだのたかきに しきわなはる わがまつや しきはさやらず いすくはし くぢらさやり こなみが はこはさば たちそばの みのなけくを こきしひえね うはなりが なこはさば いちさかき みのおほけくに こきだひえね)
是来目歌(くめうた)と謂(まを)す。今楽府(がふ〔うたまひのつかさ〕)此の歌を奏(かなで〔うたへ〕)者(ば)、猶(なほ)手量(てかず)の大小(だいせふ〔おほしすくなし〕)有り、音声(おんじやう〔こゑ〕)巨細(こさい〔ふとしくはし〕)に及び、此れ古(いにしへ)之(の)遺(のこ)られし式(のり)也(なり)。 是の後、天皇[欲]吉野之地を省(よくみむとし)、乃(すなは)ち菟田の穿邑(うがちのむら)従(よ)り、親(みづか)ら軽(かろ)き兵(つはもの)を率(ゐ)て巡(めぐ)り幸(いでま)しき[焉]。 吉野(よしの)に至りし時、人有り井(ゐ)の中自(よ)り出で光りて[而]尾(を)有り。天皇問之(とはして)曰はく「汝何人(なはたぞ)。」ととはしき。対(こた)へ曰(まを)さく「臣(やつかれ)は[是]国つ神にて、名を井光(ゐみつ)と為(まを)す。」とまをしき。 此れ則(すなは)ち吉野の首(おびと)部(ら)の始(はじめ)の祖(みおや)也(なり)。 更(さら)に少(すこしき)進み、亦(またまた)尾有りて[而]磐石(いは)を披(おしわ)けて[而]出でし者(は)。 天皇問之(とはして)曰はく「汝何人(なはたぞ)。」ととはしき。対へ曰さく「臣(やつかれ)は[是]磐排別之子(いはほおしわくのこ)とまをす。」【排別、此飫時和句(おしわく)と云ふ。】とまをしき。此れ則ち吉野の国樔(くす)部(ら)の始(はじめ)の祖(みおや)也(なり)。 及(また)水に縁(そ)ひ西に行(いでま)し、亦(また)梁(やな)を作り取魚(すなどり)せし者(もの)有り【梁、此揶奈(やな)と云ふ。】。 天皇問之(とはしていはく、なはたぞととはしき)。対へ曰さく「臣(やつかれ)は[是]苞苴擔之子(にへもつのこ)とまをす。」【苞苴擔、此珥倍毛菟(にへもつ)と云ふ。】とまをしき。此則ち阿太(あた)の養鸕(うかひ)部(ら)の始の祖也(なり)。

ひとこのかみ(人兄、魁帥、首長)…[名] (上代語)一群の人の長。 …(万)2508 懼見等 かしこみと。 …[動] まともに相対する。刃向かう。 …[動] はかる。[名] はかりごと。(古訓)はかり。 …(古訓)いつはり、いつはる。 …(古訓)あきらかにす、しる、みる。 …(古訓)つはひらかなり。 賊害(ぞくがい)…人を痛め、傷つける。(中国古典)『荀子』俞序…或奢侈使人憤怨、或暴虐賊害人、終皆禍及身。奢侈…ぜいたく。禍(か)…災難。 〔或いは奢侈に人を憤怨せしめ、或いは暴虐に人を賊害し、終(つい)に皆(ことごと)く禍が身(みずから)に及ぶ。〕 誥嘖…(中国古典)用例なし。 …[動] つげる。(古訓)つく。 …[動] しきりに騒ぐ。 ころふ(嘖ふ)…[他]ハ四 (上代「こらふ」)しかりつける。 …[動] 上から下へ押える(按に通ず)。(古訓)おさふ。〔剣の柄に〕手をかける。 案剣…(中国古典)『三国志・呉書十三』陸遜伝…各自矜恃、不相聽從。遜案劒曰~(各自矜持あり、相聴き従わず。陸遜、案剣し曰く~) …ひく。「弯弓」は弓をひきしぼる。 …(古訓)うなかす。 …(古訓)つみ。 …(古訓)ととむ。 …(古訓)おさふ。 …[名] くるぶし。(古訓)つふふし、つふなき。 つぶなぎ(踝)…[名] くるぶし。 牛酒(ぎゅうしゅ)…牛肉と酒。祭りのときに用いられた。 …(万)0338 一坏乃 濁乎 可飲有良師 ひとつきの にごれるさけを のむべくあるらし。 …(古訓)わく、あかつ。 あかつ(頒つ、班つ)…[他]タ四 分配する。 …(古訓)のこる、あふす。 楽府(がふ、がくふ)…①漢代、音楽を扱った役所。②楽府に採集し、用いられた詩。 …(古訓)かす、かそふ、はからふ。 …[動] 注意してみる。(古訓)みよ、よくす、はふく。
《楽府》
 宮廷の音楽部門としては、『倭名類聚抄』官名/寮に、「雅楽寮」(宇多末比乃豆加佐)〔うたまひのつかさ〕がある。 律令制(大宝律令―701年)においては治部省の下に雅楽寮(うたりょう)が設置されている。
 ここでは、まだ律令制における職名が定着する前であったためか、中国由来の「楽府」が使われている。 「がくふ」が「がふ」になったのは、倭国で古くから言い慣わされてきたからだろう。この語は役所名と共に、その音楽のスタイルを意味してきたと思われる。
《奏》
 古語辞典の解説には、「かなづ」は室町時代まで「舞いをまう」意味だったとある。 一方「」の主な意味は①申し上げる(上奏)②演奏で、万葉集の(万)4264 奏日尓 まをさむひに。の例は①である。「歌をかなづ」の表現はない。 万葉集の注には「歌を奏す」がいくつかあり、これは①②の両方を含むと見られる。
 舞は必ず音楽を伴う、「かなづ」は上代でも音楽を含めて差支えないように思うが、万葉集に使われる訓「うたふ」が無難である。
《手量大小・音声巨細》
 「手量大小」は、楽器の演奏における手数の大小、つまり細かいパッセージと緩やかなパッセージの変化。「音声巨細」は音量の強弱の変化。 つまり変化に富む伴奏を伴う音楽という意味である。
《親率軽兵》
 将軍に任せず、天子が自ら兵を率いて出陣することを「親征」という。従って「親率」は「みづからひきゐる」と訓む。「軽兵」とは軍の規模が小さい、または装備が軽い意味である。 ここでは、軍勢を最低限に留め、支配下の地域を視察することを意味する。
《出自井中光》
 「出自井中光而有尾」は「井の中より出で、光りて尾有り」と読めるが、記に合わせれば、「〔井は〕光り、而して尾有り。」の意味となる。 入れ物の井戸が光を発したとしても、神がいなければ光らないから結局神が光を出したことになる。
《有尾》
 記の「生尾人」(をはゆるひと)は、動物の体の一部としての尾以外の解釈は無理である。 これでは余りに荒唐無稽なので、別の解釈をする余地を多少は残そうとして「尾有り」にしたように思われる。 これなら例えば、この氏族は熊の毛皮を羽織っていて、その毛皮に尾がついている、などと想像しうる。
《"者"の機能①=終助詞》
 磐排別之子の「有尾而披磐石而出者」における、「」は終助詞「」と見るべきである。 終助詞「は」は体言または、用言の連体形を受けるので、「出」は「いづる」と訓む。 この終助詞「は」の機能は詠嘆で、「尾の有る人がもう一人いた」という驚きを表している。 なお、この文は純漢文としては機能しない。機能させるためには「有」をもう一つ重ねて「有有尾而…」とする必要がある。
《"者"の機能②=形式名詞》
 苞苴擔之子の「有作梁取魚者」は、「作梁」と「取魚」が形式名詞「(もの)」を連体修飾する。こちらは、純漢文として通用する。
《大意》
 8月2日、天皇(すめらみこと)兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)とを招集しました。 この2人は、菟田県(あがた)の酋長だったのです。 その時、兄猾は来ず、弟猾だけが参り、皇軍に拝謁し報告しました。 「我が兄・兄猾は逆状を秘め、天孫が到来すると聞き挙兵して攻めようとしました。 しかし皇軍の威力を遠く見て畏れ、敢て正面から攻めず兵を潜伏させ、新宮に謀(はかりごと)をして作りその内に仕掛けをし、饗宴にお迎えすることにより、難に遭わせようと考えております。 願わくばこの詐術を知っていただき、どうかその備えをしてください。」
 天皇はそこで、道臣命(みちのおみのみこと)を遣わし、その逆状を偵察させました。 その時道臣命は明らかに賊害の心があることを知り、大いに怒りこう言って怒鳴りつけました。「この野郎、てめえの作った部屋に、てめえが入ってみやがれ。」 よって、剣の柄を掴み、弓を弯(ひ)き、入るよう強く促しました。 兄猾には天罰が下ったのです。やむを得ず自ら仕掛けを踏み、圧死しました。その時、その屍(かばね)を引きずり出して斬り、流れる血に踵(かかと)を沈めたので、その地を菟田(うだ)の血原(ちはら)と名付けました。
 ことを終え、弟猾は酒肉を用意し、皇師(すめらみいくさ)を慰労し、饗応しました。天皇はこの酒肉を、皇軍の兵士に分かち与え、歌を詠まれました。
 宇陀の高きに 鷸(しぎ)罠張る 我が待つや 鷸は障らず いすくはし 鯨障り 先妻(こなみ)が 肴乞はさば たち蕎麦の 実のなけくを 実の無けくを こきし聶(ひ)ゑね  後妻(うはなり)が 肴乞はさば柃(いちさかき) 実の多けくを こきだ聶(ひ)ゑね
 これを来目歌(くめうた)と言います。楽府(がふ)がこの歌を奏じるとき、今なお細かい音型やゆるやかな音型があり、音声の強弱の幅も大きく、これは古くからのこる様式です。
 この後、天皇吉野之地を詳しく視察しようと、菟田の穿(うがち)村より、僅かな親衛隊を率いて巡幸しました。 吉野に至った時、人があり井戸の中のから光とともに出て、尾がありました。天皇は「お前はだれか。」と問われました。答えて「私は国つ神にて、名を井光(いみつ)といいます。」と申し上げました。 これ即ち、吉野の首(おびと)の始祖です。
 更に少し進み、またまた尾の有る人が、岩を押し広げて出できたのです。 天皇は「お前はだれか。」と問われました。答えて「私は磐排別之子(いわおおしわくのこ)といいます。」と申し上げました。これ即ち、吉野の国樔(くず)の始祖です。
 また川沿いに西に行くとまた、梁(やな)を作り魚を取っている者がありました。 天皇は「お前はだれか。」と問われました。答えて「私は苞苴擔之子(にえもつのこ)といいます。」と申し上げました。これ即ち、阿太(あた)の鵜飼の始祖です。


【書紀の特徴】
 この段は記を大体継承しているが、兄猾の制圧と、苞苴擔之子らとの出会いの順序が逆転している。 それは「川尻」にこだわったからだと思われる。川尻を河口あるいは川下と解釈する限り、まだ宇陀の地で難渋しているときに天皇が川下にいるのは辻褄が合わない。 そこで、先に兄猾を討った後に、改めて出かけて井光・磐排別之子に出会い、更に吉野川を西に行き下流で苞苴擔之子に出会うことにした。 ここから「川尻」は、当時から川口あるいは下流が一般的な意味であったことがわかる。
 記の「弟(矛)由氣矢刺」は、「彎弓」(矢をつがえて弓を張る)としている。問題の字が「矛」だったら、無視されたことになる。 「弟」だとすれば「つがふ」と読んだかも知れない。あるいは更に他の文字だったのが、後に弟または矛になったのだろうか。
 道臣命の登場は記より少し早く、頭八咫烏が来たときである。また大来目は記では道臣命と対等だが、書紀では目下である。

まとめ
 ここで出て来た地名は、現代の地名との繋がりに現実感がある。浪速の段で考察したように、記にはその成立の数百年前からの伝説の反映が考えられるので、 宇陀・吉野にある地名は書紀発表後の後付ではなく、もっと古い時代に遡るかも知れない。
 吉野首・吉野国巣・阿陀鵜飼・宇陀水取の先祖は、地祇(くにつかみ)に由来する。天皇との出会いが遅い氏族ほど、位置づけが下位になるのではないかと思われる。 それでも、井戸や巌から出てきたり、尾が生えていたなどと書かれるので、それぞれの氏族独自の起源神話が尊重されたことがわかる。これが、民族の統合を目指す古事記らしいところである。
 もう神代を終え、天皇の事跡をある程度は現実的に描く段階に入りながら、全くの神話が混在している。 それは、氏族を服従させた事実が、天皇が氏族の言い伝えの祖神と出会う物語として描かれたからであろう。
 一方、書紀は話の順番を入れ替えながらも、井光・磐排別之子・苞苴擔之子の記述は無視せずに残した。 これは、吉野首・吉野国樔・阿太鵜飼が朝廷の下で一定の地位を得ていたからであろう。
 さて、訓については、今回は「ほこゆけ」という語の存在自体が疑わしく思えた。記紀を万葉集などの言語の大海に浮かぶ島だと考えると、伝統的な訓では納得できない例があり、本例もその一つである。 日本書紀、古事記という閉鎖系の中で学者たちがあれこれ考案した訓は、たとえ不適切でも神聖な書だからと、温存されてきたのではないだろうか。
 しかし原点に戻ると、石上遺跡から出土した7世紀後半の木簡に、万葉集の歌を刻んだものが確認されたように、記紀が編纂されたのは万葉集が詠まれた時代である。 万葉集で確立した訓読法をはじめとする幅広い資料に基づいて、記紀の訓を洗い直す試みがあってもよいのではないかと思われる。


2015.04.17(金) [099] 中つ巻(神武天皇4)

自其地幸行到忍坂大室之時 生尾土雲【訓云具毛】八十建在其室待伊那流【此三字以音】故
爾天神御子之命以饗賜八十建
於是宛八十建設八十膳夫 毎人佩刀誨其膳夫等曰
聞歌之者一時共斬 故明將打其土雲之歌曰
意佐加能 意富牟盧夜爾 比登佐波爾 岐伊理袁理 比登佐波爾 伊理袁理登母 美都美都斯 久米能古賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 宇知弖斯夜麻牟 美都美都斯 久米能古良賀 久夫都都伊 伊斯都都伊母知 伊麻宇多婆余良斯
如此歌而拔刀一時打殺也

其(そ)の地(ところ)自(よ)り幸行(いでま)し忍坂(おさか)の大室(おほむろ)に到(いた)りたまひし[之]時、生尾(をはゆる)土雲(つちぐも)【訓(よ)み、具毛(ぐも)と云ふ。】の八十建(やそたける)其の室に在り待ち伊那流(いなる)【此の三字(みじ)音を以ゐる。】故(ゆゑ)
爾(その)天神(あまつかみ)の御子(みこ)之(の)命(みこと)を以ち八十建に饗(あへ)を賜(たま)はる。
於是(ここに)八十建に宛(あ)て八十(やそ)膳夫(かしはで)を設(まう)け、人(ひと)毎(ごと)に刀(たち)を佩(は)け、其の膳夫等(ら)に誨(をし)へ曰(のらさ)く
「之(こ)を歌ふを聞か者(ば)一時(ひととき)に共(ともに)斬(き)れ」とのらし、故(かれ)[将]其の土雲を打たむを明かしし[之]歌に曰(いはく)
おさかの おほむろやに ひとさはに きいりをり ひとさはに いりをりとも みつみつし くめのこが くぶつつい いしつついもち うちてしやまむ みつみつし くめのこらが くぶつつい いしつついもち いまうたばよらし
此の歌の如くして[而]刀(たち)を抜き一時(ひととき)に打ち殺しき[也]。


然後將擊登美毘古之時歌曰
美都美都斯 久米能古良賀 阿波布爾波 賀美良比登母登 曾泥賀母登 曾泥米都那藝弖 宇知弖志夜麻牟

然(しか)る後(のち)[将に]登美毘古(とみひこ)を撃たむとせし[之]時に歌(うたよみ)し曰(い)はく
みつみつし くめのこらが あはふには かみらひともと そのがもと そねめつなぎて うちてしやまむ


又歌曰
美都美都斯 久米能古良賀 加岐母登爾 宇惠志波士加美 久知比比久 和禮波和須禮志 宇知弖斯夜麻牟

又(また)歌(うたよみ)したまひ曰(い)はく
みつみつし くめのこらが かきもとに うゑしはじかみ くちびひく われはわすれじ うちてしやまむ


又歌曰
加牟加是能 伊勢能宇美能 意斐志爾 波比母登富呂布 志多陀美能 伊波比母登富理 宇知弖志夜麻牟

又歌(うたよみ)したまひ曰(うた)はく
かむかぜの いせのうみの おひしに いはひもとほる しただみの うちてしやまむ うちてしやまむ


又擊兄師木弟師木之時御軍暫疲 爾歌曰
多多那米弖 伊那佐能夜麻能 許能麻用母 伊由岐麻毛良比 多多加閇婆 和禮波夜惠奴 志麻都登理 宇/上/加比賀登母 伊麻須氣爾許泥

又兄師木(えしき)を撃ち、弟師木(おとしき)之(の)時御軍(みいくさ)暫(しまし)く疲れ、爾(しかくして)歌(うたよみ)したまひ曰(い)はく
たたなめて いなさのやまの このまゆも いゆきまもらひ たたかへば われはやゑぬ しまつとり うかひがとも いますけにこね

故爾邇藝速日命參赴 白於天神御子 聞天神御子天降坐故追參降來 卽獻天津瑞以仕奉也
故邇藝速日命 娶登美毘古之妹登美夜毘賣 生子宇摩志麻遲命【此者物部連穗積臣婇臣祖也】
故如此言向平和荒夫琉神等【夫琉二字以音】退撥不伏人等而 坐畝火之白檮原宮治天下也

故(かれ)爾(その)邇芸速日命(にぎはやひのみこと)参(まゐり)赴(おもむ)き、[於]天神の御子に白(まを)さく「天神の御子天降らし坐(ま)すと聞きし故(ゆゑ)追ひ参(まゐり)降(おり)来(き)。即ち天津瑞(しるし)を献(まつ)り以ちて仕(つか)へ奉(まつ)るや[也]。」とまをしき。
故(かれ)邇芸速日命、登美毘古之妹(いも)登美夜毘売(とみやびめ)を娶(めあは)せ子、宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)【此者(こは)物部(もののべ)の連(むらじ)、穂積(ほづみ)の臣(おみ)、婇(うねめ)の臣の祖(みおや)也(なり)。】を生む。
故(かれ)此の如く荒夫琉(あらふる)神等(ら)【夫琉(ふる)の二字(ふたじ)音(こゑ)を以ゐる。】に言向(ことむ)け平和(やは)し、不伏(ふさぬ)人等(ら)を退(しりぞ)け撥(はら)ひて[而]、畝火(うねび)之(の)白檮原(かしはら)の宮に坐(ま)し天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ也(なり)。


 その地より行幸され、忍坂(おさか)の大室(おおむろ)に到着されたとき、尾の生えた土雲(つちぐも)の八十(やそ)の〔たくさんの〕猛る衆がその室で待ちうけていましたので、 天神の御子の詔によって八十の猛る衆のために饗宴を開きました。そして八十の猛る衆に八十の接待役を宛てがいました。接待役には人毎に刀を佩びさせ、 「私の歌を聞いたら一気に同時に斬れ。」と指示しました。 このとき、土雲たちを討つ合図とした歌はこれです。
 忍坂の大室屋に人多(さは)に来入り居り 人多に入り居りとも みつみつし久米の子が 頭椎(くぶつつ)い 石椎(いしつつ)い持ち 撃ちてし止まむ みつみつし 久米の子等が 頭椎い 石椎い持ち 今撃たば宜(よら)し
《大意》  忍坂の大室屋に多くの人がいる。久米の子は頭椎(くぶつち)の太刀、石椎(いしつち)の太刀で討ち果たすぞ。今こそ撃て。
 この歌の如く太刀を抜き、一気に打ち殺しました。
 この後、登美毘古(とみひこ)を撃とうとした時、詠まれた歌がこれです。
 みつみつし久米の子等が 粟生(あはふ)には香韮(かみら)一本(ひともと) 苑(その)が本 そ根芽繋ぎて 撃ちてて止まむ
《大意》  粟畑に香る韮が一本。苑の下、その打ち捨てられた芽を根に接いでやりたい。さあ撃つぞ。
 また詠まれた歌はこれです。
 みつみつし久米の子等が 垣下(かきもと)に植ゑし山椒(はじかみ)口ひひく 我は忘れじ 撃ちてし止まむ
《大意》  垣の下に植えた山椒は口に辛く、その辛さを忘れるものか。さあ撃つぞ。
 また詠まれた歌はこれです。
 神風(かむかぜ)の伊勢の海のおひしに い這ひ廻(もとほ)る細螺(しただみ)の 撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ
《大意》  伊勢の海の大石の周囲を這う巻貝のような敵を、さあ撃ってやろう。
 また、兄師木(えしき)を撃ち、弟師木(おとしき)之(の)時御軍(みいくさ)暫(しまし)く疲れ、爾(しかくして)歌(うたよみ)し曰(い)はく、
 盾(たた)並めて伊那佐(いなさ)の山の木(こ)の間ゆも い行き守らひ 戦へば 吾はや飢(ゑ)ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が伴(とも) 今助(す)けに来(こ)ね
《大意》  伊那佐の山の木々を抜けて戦ってきて、私は飢えている。鵜飼の友よ、助けに来てほしい。
 さて、ここで邇芸速日命(にぎはやひのみこと)が赴き参上し、天神の御子に申し上げました。「天神の御子が天降りされたとお聞きし、追って降りて参りました。天の瑞祥〔めでたいしるし〕を献上しお仕えいたします。」と。 邇芸速日命は、登美毘古の妹、登美夜毘売(とみやびめ)を娶り、子、宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)【これは物部(もののべ)の連(むらじ)、穂積(ほずみ)の臣(おみ)、婇(うねめ)の臣の先祖です。】を生みました。
 そして、このように荒ぶる神たちに命じて平定し、服従しない者どもを退け打ち払い、畝傍の白檮原(かしはら)の宮にいまして天下を治められました。

つちぐも(土蜘蛛)…<時代別上代>中央の勢力に対する土着の集団を異類視して表現した語。一定の部族名ではない。穴居の生活をいとなみ、未開の人種と考えられていた。</時代別上代>
いなる…[自]ラ四 不詳。<時代別上代>一例なので決め難い。</時代別上代>
かしはで(膳夫)…[名] 食膳に関することを掌る者。
はく…[自]カ四 着ける。(万)0478 劔刀 腰尓取佩 つるぎたち こしにとりはき。[他]カ下二 着けさせる。
…(万)3309 斬髪 きりかみの。
つかる(疲る)…[自]ラ下二 (万)2643 道行疲 みちゆきつかれ。
…(古訓)はらふ。
白檮…(名) かし。ブナ科ナラ属の常緑高木。
《歌謡1》
みつみつし…[枕] 久米にかかる。語義未詳。
くぶつつ…[名] 柄頭が槌状をなす刀剣。茨城県笄崎古墳の出土物があるという。
いしつつ…[名] 柄頭が石造りのくぶつちの刀。
…[間投助] 取り立てて強調する意を表す。体言・活用語の連体形につく。
《歌謡2》
みら…[名] ニラ(韮)。ヒガンバナ科ネギ属。<wikipedia>院政期頃から不規則な転訛形「にら」が出現し、「みら」を駆逐して現在に至っている。</wikipedia>
《歌謡3》
はじかみ…山椒。あるいは生姜。
ひひく…[自]カ四 ひりひりする。
《歌謡4》
かむかぜの(神風の)…[枕] 伊勢にかかる。
い-…[接頭] 動詞の上につけて、意味を強める。あるいは語調を調える。
しただみ(小螺、細螺)…[名] 小型の巻貝の総称か。
《歌謡5》
たたなめて…[枕]「い」で始まる地名にかかる。
しまつとり…[枕] 鵜にかかる。
…[終助] (上代語)願望。未然形に接続。

【生尾】
 以前、先祖は猿という言い伝えがあると推察したが、ここではしっくり来ない。
 風体が異様な異民族に対して、あいつらは人間ではない、きっと尾が生えているぞと蔑視したのだろうか 書紀ではさすがに取扱いに困ったか、土蜘蛛という名称は継承するが「生尾」は無視している。

【八十建】
 「八十建」は特定の部族名ではなく、武力で敵対してくる勢力という意味だと考えられる。 【書紀:戊午年九月】の《八十梟帥》参照。

【忍坂】
 奈良県桜井市に大字忍阪(おっさか)があり、その近くに押坂山口坐神社(奈良県桜井市赤尾)がある。 『奈良県史(神社)』によれば、『延喜式』神名帳に記載の大和国14山口神の一つで、忍坂山の霊を祀ったものと考えられている。 天平二年(730)の『大倭国正税帳』(正倉院文書)に「忍坂神戸穀捌斗壱升耗一升五合定漆斗玖升五合〔忍坂神戸:穀[物]八斗一升、一升五合を耗(そこな)ひ、七斗九升五合〕の記録がある。 従って記紀編纂期には、忍坂神部があった。記紀にいう忍坂はこの地を指すと見られる。

【いなる】
 「いなる」の後ろの「故」が形式名詞「ゆゑ」だとすれば、「いなる」は四段またはラ変動詞の連体形である。成り立ちは、接頭語「い」+「鳴る」(四段)だろうか。
 宣長は、「若い獣怒りて吼ゆるをうなると云ふに」に通ず、あるいは「待居る」かも知れないが、「猶よく考ふべし」(もう少し考えてみたい)とする。 もし2つ目の説なら記の編者は「居」に直して書くのではないか思われる。
 「-く」「-る」を語尾とする動詞の組は、「さく(離く)」・「さる(避る)」などがある。「鳴く」にも「鳴る」がある。だから「いなる」は「いなく」と類似すると考えることができる。 馬の声を表す動詞に、「いなく(嘶く)」「いばゆ(嘶ゆ)」がある。複数の古語辞典の解説によると、「い」は馬のいななきを表す擬声語である。つまり、よく使われる接頭語の「い-」(強調を表す)ではない。 『古語林』(大修館)によると、古くは日本語にハ行の子音([h])がなかったので、「ヒヒン」という声を「イイン」と書いたのだと言う。 万葉集で確認すると、(万)3328 大分青馬之 嘶音 あしげのうまの いばゆこゑ。のように、馬の声には「」がつくが、馬以外の鹿、鶴(たづ)、鳥などは単に「なく」であるところを見ると、 「い-」は確かに馬限定の擬声語だろうと思われる。
 「待ちいなる」に戻ると、[mati i]と母音が続く間に声門閉鎖音、あるいは筆記不可能な[h]があるとも考えられる。 ということは、土雲が馬を連れていたのか。しかし、「待ち・いなる」は連語なので、その途中で主語が変わるとは考えられない。よって「いなる」は「馬がいなく(嘶く)ように威勢を挙げる」という意味かも知れない。

【うちてしやまむ】
 「」は体言、連用形・連体形、副詞、助詞などにつき、前の言葉を強調する副助詞。 「やまむ」の「やま」は未然形だから「やむ」は四段活用で、自動詞(やめる)である(他動詞の場合は下二)。 従って、「討ち果た後にやめよう」つまり「討ち果たすまでは攻撃をやめない」意思を表す。

【伊勢の海】
 伊勢の国は、天照大神を祀る神宮の地である。歌であるから、発想の範囲は広い。

【おひし】
 一般には「おほいし(大石)」の短縮形と言われている。その中で『時代別上代』は別説を唱える。いわく、古代、石は成長するものと考えられていて「生ひ石」(生まれたばかりの石)である。

【いはひもとほり】
 「いはひもとほり」は、「斎ひ廻り」のようにも思えるが、参考になるのが、万葉集の次の歌である。
 (万)0239 鶉己曽 伊波比廻礼 四時自物 伊波比拜 四時自物 伊波比拜 鶉成 伊波比毛等保理 うづらこそ いはひもとほれ ししじもの いはひをろがみ ししじもの いはひをろがみ うづらなす いはひもとほり。
 この歌は地を這い歩く鶉や獣の姿を、自らが大王(おおきみ、=天皇)を崇拝する姿に重ねる。 同じ言葉の繰り返しに見えるが、前半の主語は鶉・しし。後半は、「ししじもの」「うづらなす」はそれぞれ「い這ひ拝がみ」「い這ひ廻り」への枕詞だから、作者自身が主語である。
 「ししじもの」は鹿・猪のようにという意味から「這ふ」「膝折る」などの動作に係るから、「いはひおろがみ」の「いはひ」は「い+這ひ」であることがわかる。

【伊那佐の山】
 宇陀市榛原(はいばら)に伊那佐山がある。この山は宇賀志方面から忍阪への進軍の経路にあたるので、連戦を振り返る場面に合う。 なお、地名「いなさ」は全国にあり、万葉集には、「(万)3429 等保都安布美 伊奈佐保曽江乃 とほつあふみ いなさほそえの。」として、浜名湖の引佐細江がでてくる (上代には、琵琶湖が近つ淡海、浜名湖が遠つ淡海と呼ばれた)。 また、大国主神話では出雲国の稲佐の浜が舞台になった。この歌の「いなさ」は、本当はどこか他の土地の「いなさ」かも知れない。 記紀の歌謡は、既成の歌から各場面に合うものを選んだものと考えられる。

【書紀―畿内の平定】
 神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)が宇陀郡から橿原宮に達する間の戦闘は、記よりも大幅に加筆されている。 討ち取った敵は国見丘を占拠した勢力、忍坂の勢力、兄磯城(えしき)、新城戸畔(にひきとへ)・居勢祝(こせのはふり)・猪祝(いのはふり)である。 帰順したのは饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)。弟磯城(おとしき)も帰順したことになっているが、記では討ち取られている。長髄彦(ながすねひこ)は最も強敵であったが、長髄彦が仕えていた饒速日命によって誅殺された。
 以下、この範囲の全文を解析する。
No.太歳
(甲子=1)
日付場 所事  項
〈1〉戊午(55)9月5日高倉山の巓国境を遠望。
国見丘八十梟帥が占拠。対抗するため女坂に女軍、男坂に男軍を配置。墨坂に炭を燃やし灯火を設置。
磐余邑兄磯城が占拠。
〈2〉天香山埴土を採るために、弟猾・椎根津彦を老父・老女に変装させ天香山に密派。
〈3〉丹生川の川上天香山の埴土を焼き平瓮・厳瓮を製作。丹生川の川上に神を祀る。
〈4〉菟田川の朝原無水飴、浮魚による占い。
〈5〉丹生川の川上道臣命を斎主として祭事。
〈6〉10月1日国見丘出陣。八十梟帥を討つ。
〈7〉忍坂邑道臣命に命じ、地下室を作り八十梟帥の残党を宴に誘い、一気に討ちとることを計画する。
〈8〉道臣命、歌を合図に討ち取る。
〈9〉
〈10〉
勝利の宴。
〈11〉11月7日磯城磯城に進軍。臣従を促したのに対して、兄磯城は拒否し、弟磯城は応諾。
〈12〉作戦会議で、椎根津彦が女坂に敵を引き付ける陽動作戦を提案。一旦休憩。
〈13〉兄磯城を撃破。
〈14〉12月7日男坂・女坂・墨坂長髄彦を攻撃するも苦戦。金色霊鵄の出現により形勢逆転。
〈15〉
〈16〉
歌詠み。
〈17〉長髄彦、使者を派遣し天皇に抗議。
〈18〉互いに天羽々矢・歩靫を示し合い、真贋が定まる。それでも服従を拒んだ長髄彦は、饒速日命に誅せられる。饒速日命は帰順。
〈19〉己未(56)2月20日層富県波哆丘岬・和珥坂下・臍見長柄丘岬3軍を派遣し、それぞれの地で新城戸畔・居勢祝・猪祝を撃破。
磐余邑皇軍凱旋。勝利の雄叫び。
〈20〉(地名譚)
〈21〉3月7日天皇、開都の詔。宮殿造営・使用開始。
〈22〉庚申(57)8月16日媛蹈韛五十鈴媛命と結婚。
〈23〉辛酉(58)1月1日橿原宮天皇即位。この年を天皇元年とする。

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【書紀:戊午(55)年九月】
〈1〉
九月甲子朔戊辰、天皇陟彼菟田高倉山之巓、瞻望域中。 時、國見丘上則有八十梟帥【梟帥、此云多稽屢】、又於女坂置女軍、男坂置男軍、墨坂置焃炭。 其女坂・男坂・墨坂之號、由此而起也。 復有兄磯城軍、布滿於磐余邑。【磯、此云志。】 賊虜所據、皆是要害之地故、道路絶塞、無處可通。 天皇惡之、是夜自祈而寢、夢有天神訓之曰 「宜取天香山社中土【香山、此云介遇夜摩】以造天平瓮八十枚【平瓮、此云毗邏介。】 幷造嚴瓮而敬祭天神地祇【嚴瓮、此云怡途背】、亦爲嚴呪詛。如此、則虜自平伏。【嚴呪詛、此云怡途能伽辭離。】」
〔9月5日〕九月(ながつき)甲子(きのえね)を朔(つきたち)とし戊辰(つちのえたつ)のひ、天皇(すめらみこと)彼(かの)菟田(うだ)の高倉の山之巓(いただき)に陟(のぼ)り、域(さかひ)の中を瞻望(はるかにのぞむ)。 時に、国見(くにみ)の丘(をか)の上(うへ)に、[則ち]八十梟帥(やそたける)【梟帥、此云多稽屢(たける)と云う。】有り、又[於]女坂(めさか)に女軍(めいくさ)を置(お)き、男坂(をさか)に男軍(をいくさ)を置き、墨坂(すみさか)に焃炭(あかきすみ)を置く。 其の女坂・男坂・墨坂之(の)号(なづけ)、此に由(よ)りて[而]起こりぬ[也]。 復(また)兄磯城(えしき)の軍(いくさ)有り、[於]磐余邑(いはれのむら)に布(し)き満つ。【磯、此れ志(し)と云ふ。】 賊虜(あた)の所拠(よりしところ)、皆(みな)是(これ)要害之(かたき)地(ところ)故(ゆゑ)、道路(みち)絶(たえて)塞(ささ)へられ、無所可通(とほすべくもなし)。 天皇悪之(あしみし)、是(この)夜(よ)自(みづか)ら祈(の)みて[而]寝(な)し、夢(いめ)に天つ神有り訓(をし)へ[之]曰(の)らさく、 「宜(よろし)く天香山(あめのかぐやま)の社(やしろ)の中の土(はに)を取り【香山、此介遇夜摩(かぐやま)と云ふ。】以て天平瓮(あめのひらか)八十枚(やそひら)を造り【平瓮、此云毗邏介(ひらか)と云ふ。】、 并(あは)せて厳瓮(いつへ)を造りて[而]天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)を敬祭(うやまひまつり)【厳瓮、此怡途背(いつへ)と云ふ。】、亦(また)厳呪詛(いつのかしり)為(す)べし。此の如くせば、則ち虜(あた)自(おのづから)平伏(ふ)さむ。【厳呪詛、此れ怡途能伽辞離(いつのかしり)と云ふ。】」とのらしき。

…[動] のぼる。(古訓)のほる。 …(古訓) いたたき。 瞻望…はるかにあおぎみる。 梟帥(きゅうすい)…荒々しい大将。 …(古訓)さかひ。(万)0894 唐能 遠境尓 都加播佐礼 もろこしの とほきさかひに つかはされ。 …(古訓)を、をか。(万)0010 磐代乃 岡之草根乎 いはしろの をかのくさねを。 …[形] 火が赤く燃え上がるさま。  …(古訓)すみ、あらすみ。 …(古訓)よし、よる。 …(古訓)ぬの、しく。 …(古訓)あた、ぬすむ。 …(古訓)よる、よりところ。 要害…地形が険しく、守るのによく、敵が攻めにくい場所。 あしみす(悪しみす)…[自]サ変 「-み」は形容詞の語幹について体言をつくる。 …(万)2660 神社乎 不日者無 かみのやしろを のまぬひはなし。 のむ(祈む)…[他]マ四 (上代語)頭をたれて祈る。 …[量詞] 日本では平らで薄いものに限って使うが、本来そのような制限はなかった。 -ひら(枚)…[接尾] ~まい。 …(古訓)つつしむ、うやまふ、おかむ。 かしる(呪る)…[自]ラ四 (上代語)神を祭って、自分がまさにしようとすることを告げていう。
《高倉山》
 式内高角神社(宇陀郡大宇陀町守道、約440m。北緯34度28分12.4秒 東経135度56分28.2秒)は、創建年代は不明だが 延喜式神名帳の『宇陀郡 高角神社二座 鍬靫』のうち一社に比定されている。 昭和15年(1931)2月7日に神武天皇聖蹟莵田高倉山伝説地として文部省により認定され、顕彰碑がある。  他の候補地として、城山(宇陀市大宇陀;471m、北緯34度28分53.2秒 東経135度56分16.8秒、戦国時代宇陀松山城の城跡)がある。  いずれにしても、その山が「高倉山」であるとする確証はない。
《国見丘》
 「国見」とは高所から国の地勢や人民の生活を見ること。 例えば、阿蘇山の阿蘇神社に祭られる健磐龍命(たけいわたつのみこと、神武天皇の孫)は、国見ヶ丘(高千穂町押方、513m)に立って国見をしたと伝えられる。 『地名コレクション-国見』によれば、 国見山に類する地名が、全国で80か所ある。 そのうち奈良県には、御所市(229m)、宇陀郡曽爾村・宇陀市境(1016m)、 曽爾村と三重県津市の境(863m)にある。 宇賀志方面から進軍してきた経路から考えて、国見丘は忍坂の近くだろうと思われるので、これら3つの「国見山」は何れも遠すぎる(〈6〉参照)。 これら以外にも「国見丘」があったのだろう。
 なお、この時点ではまだ敵に占拠されているから、「国見丘」になったのは平定後である。
《八十梟帥》
 「梟」の主な意味は、ふくろう、さらし首(梟首)、悪玉の親分。「八十」は接頭語で「多くの」である。 文脈から見て「八十梟帥」は特定の部族ではなく、「雑多な蛮族」を意味すると見られる。
《焃炭》
 「」の意味は「赤く燃え上がる」で、諸サイトの引用には「赫」「爀」も見られるが、意味は同じである。 伝統的には、「焃炭」は「おこしずみ」と訓読される。〈12〉で兄磯城(えしき)との戦いでは墨坂の「炭火」は「おこしび」と訓まれる。 「炭」のもともとの意味は木炭・石炭である。「おこす」は、平安時代に、敵が山焼きしたと解釈したことによる意訳である。 地名「墨坂」は「炭」に関連しているから、「すみ」と訓むのは明白である。「炭」の訓「おこし」は有り得ないだろう。
《女坂・男坂・墨坂》
 墨坂神社には、崇神天皇紀に、崇神天皇9年に夢のお告げにより墨坂神・大坂神を祀ったという記述があり、 文安6年(1449)に現在の地(奈良県宇陀市榛原萩原)に遷座したという。
 そこから900mぐらい北西に「墨坂傳稱(伝称)地」の石碑があり、昭和13年11月建立となっている。(宇陀市榛原あかね台1丁目;北緯34度32分01.2秒、東経135度57分10.0秒) 遷座前はどこに祀られていたかは不明だが、この地は書紀編纂期から一貫し墨坂と呼ばれていたと見てよいだろう。
 男坂・女坂は一般的には近接する2つの坂のうち、<wikipedia>急峻な方を「男坂」、緩やかな方を「女坂」</wikipedia>と呼ぶとされ、全国に数か所ある。 男坂の伝承地とされる半坂峠は、近畿自然歩道が宇陀・桜井両市境と交わる地点で「男坂傳稱地」の碑が立っている (奈良県宇陀市大宇陀半阪;標高約440m、北緯34度29分44.8秒、東経135度54分14.2秒)。<wikipedia>オサカが、ナンサカ、ハンサカと転訛したと考えられている</wikipedia>という。
 女坂は、大峠(奈良県桜井市大字八井内 標高約770m、34度27分36.7秒 135度53分29.6秒)に「女坂傳稱地」の碑がある。
 男坂・女坂はその名称を伝える社がないので、明治以後の推定である。
《磯城》
 「磯はとよむ」とする注釈は、本来のよみ「いし」が言い慣わされるうちに「い」が脱落したことを示している。 「磯城」は4~5世紀に成立したと見られる磯城県(あがた)である。以後、式上郡(城上郡、しきのかみのこほり)、式下郡(城下郡、しろのしたのこほり)に分かれた。 『倭名類聚抄』には「城上郡」「城下郡」が記載されている。城上郡は磐余の地と重なっている。
《磐余邑》
 磐余の地には、神宮皇后、履中天皇、清寧天皇、継体天皇、用明天皇が宮を置いた。 現在は、奈良県桜井市桜井桜井(大字)の一部が習慣的に磐余町と呼ばれ、磐余(いわれ)橋北詰交差点がある。 磐余池は履中天皇が潅漑用のダムとして建造したもの。2014年の堤の一部の発掘により、その幅が25~33mに及ぶ大規模なものであることが分かり、東池尻・池之内遺跡と名付けられた。 長らく磐余池の位置は不明とされてきたが、この発掘調査によって位置が確定した (右図。東池尻・池之内遺跡の位置は、『東池尻・池之内遺跡、大藤原京左京五条八坊の発掘調査』による)
《比定地の信憑性》
 書紀に書かれた地名は現在のどこかということであるが、前項の通り磐余は確定した。 墨坂は、例えば燃え跡の灰などが発掘されれば確定するが、今のところは墨坂神社近辺であろう。 磯城と呼ばれる地域は式上・式下郡だと思われるが、相当広いので「磯城邑」を特定することはできない。
 その他の高倉山、国見丘、男坂、女坂については、太平洋戦争に向かう熱狂の中で定められたもので、確かな根拠があるとは言い難い。
〈2〉
天皇、祇承夢訓、依以將行時、弟猾又奏曰 「倭國磯城邑有磯城八十梟帥。又高尾張邑【或本云葛城邑也】有赤銅八十梟帥。 此類皆欲與天皇距戰。臣竊爲天皇憂之、 宜今當取天香山埴、以造天平瓮而祭天社國社之神。然後擊虜則易除也。」 天皇、既以夢辭爲吉兆、及聞弟猾之言、益喜於懷。 乃使椎根津彥著弊衣服及蓑笠、爲老父貌、又使弟猾被箕、爲老嫗貌而、勅之曰 「宜汝二人到天香山潛取其巓土而可來旋矣。基業成否、當以汝爲占。努力愼歟。」
天皇(すめらみこと)、祇(まさに)夢(いめ)の訓(をし)へを承(う)け、依以(もて)将行(もちゐむとせし)時、弟猾(おとうかし)又(また)奏曰(まをさく)、 「倭国(やまとのくに)の磯城邑(しきむら)に磯城(しき)の八十梟帥(やそたける)有り。又(また)高尾張邑(たかをはりむら)【或本(あるもと)に葛城邑(かつらきむら)と云ふ[也]】に赤銅(あかかね)の八十梟帥(やそたける)有り。 此の類(やから)皆(ことごと)[欲]与天皇(すめらみことと)距戦(たたかはむとす)。臣(われ)竊(おそらくは)為(おもへらく)天皇(すめらみこと)之(これ)を憂(うれ)へば、 宜(よろし)く今に[当]天香山(あめのかぐやま)の埴(はに)を取らむとし、以(もて)天平瓮(あめのひらか)を造りて[而]天社(あまつやしろ)国社(くにつやしろ)之(の)神を祭りたまふべし。然後(しかるのちに)虜(あた)を撃たば則(すなや)ち易(たやす)く除(のぞ)こらむ[也]。」とまをしき。 天皇、既(すで)に夢(いめ)の辞(こと)を以ち吉(よし)兆(しるし)と為(おも)ひたまひしに、及(また)弟猾(おとうかし)之(の)言(こと)を聞こし、益(ますます)[於]懐(こころ)に喜(よろ)しかりたまひき。 乃(すなは)ち[使]椎根津彦(しひねつひこ)に弊(やぶれたる)衣服(ころも)及(と)蓑笠(みのかさ)とを著(き)さしめ、老父(おきな)の貌(すがた)と為(せ)しめたまひ、又(また)[使]弟猾に箕を被(き)さしめ、老媼(おうな)の貌と為(せ)しめたまひて[而]、勅之曰(みことのりしのらさく) 「宜(よろし)く汝(いまし)ら二人(ふたり)天香山に到り潜(ひそ)み其の巓(いただき)の土(はにつち)を取りて[而]可来旋(かへりきたらむべし)[矣]。基(その)業(わざ)の成るや否やは、当(まさ)に汝(いましら)を以て占(うら)を為(な)さしめむ。努力(つとめて)慎(つつし)めや[歟]。」

…[副] ただ。ただ~だけの意を表す言葉。(古訓)たた、まさに。 …(万)0894 多麻比志 家子等 まをしたまひし いへのこと。 距戦(きょせん)…ふせぎ戦う。 …[人称代] 私。へりくだって言う。 …[副] ひそかに。私見を述べる場合の謙遜の言葉(「勝手なことを申しますが」)。 おそらくは…[副] ①たぶん。②はばかりながら。 おもへらく…[他]ハ四+[助動]+[接尾] 思うには。 やしろ(社)…(万)0558 千磐破 神之尓 ちはやぶる かみのやしろに。 のぞこる(除こる)…[自]ラ四 除かれてなくなる。 …[動] す。「以A為B」の形で、「AをもってBと思う」。 しるし…(万)2975 齋而待杼 驗無可聞 いはひてまてど しるしなきかも。 ますます(益々)…(万)0799 伊与余麻須万須 加奈之可利家理 いよよますます かなしかりけり。 …[動・形] (古訓)そこなはるる、やふる。 …(古訓) きる。 きる…(万)2681 笠毛不著 かさもきず。 …(倭名類聚抄)「和名於岐奈」〔おきな〕。 …(倭名類聚抄)「和名於無奈」〔おむな、おうな〕。 ひそむ(潜む)…[自]マ四 隠れる。 …(古訓)かへる。 (うら)…[名] うらない。
《葛城邑》
 後の神武天皇二年に「復以剣根者為葛城国造」とあることから、律令国以前に「葛城国」が存在したと思われる。 葛城国は、律令国成立時には、葛上郡・葛下郡・忍海郡に分割されたと推定されている。
《赤銅八十梟帥》
 この名称は、葛城が銅の産地だったことを想像させる。しかし、<JOGMEC金属資源情報/pdf資料>文武天皇2年(698)各地から銅鉱、朱砂、雄黄等が献上。</金属資源情報> が銅の国内産出の初出であるから、記紀編纂期にはまだ、葛城を含めどこからも銅の産出はなかったことになる。
〈3〉
是時、虜兵滿路、難以往還。 時、椎根津彥、乃祈之曰「我皇當能定此國者行路自通、如不能者賊必防禦。」言訖徑去。 時、群虜見二人、大咲之曰「大醜乎【大醜、此云鞅奈瀰爾句】老父老嫗。」 則相與闢道使行、二人得至其山、取土來歸。 於是、天皇甚悅、乃以此埴、造作八十平瓮、天手抉八十枚【手抉、此云多衢餌離】嚴瓮而、 陟于丹生川上、用祭天神地祇。
是(この)時、虜(あた)の兵(いくさ)路(みち)に満ち、難以往還(ゆきかへるにかたし)。 時に、椎根津彦(しひねつひこ)、乃(すなは)ち祈(うけひ)し[之]曰(まをさく)「我が皇(すめら)[当][能]此の国をえ定(さだ)め者(ば)行く路(みち)自(おのづから)通(とほ)さむ、如(も)し不能(あたはざ)ら者(ば)賊(あた)必(かならず)防禦(ふせ)かむ。」と言(まを)し訖(を)へ径去(ゆきぬ)。 時に、群虜(むるるあた、むらあた)二人を見、大咲(おほわらひし)[之]曰はく「大醜(あなみにく)や[乎]【大醜、此れ鞅奈瀰爾句(あなみにく)と云ふ。】老父(おきな)老嫗(おうな)は。」とわらひき。 則(すなは)ち相(あひ)与(あづか)り道を闢(ひら)き使行(ゆかしめ)、二人[得]其の山にえ至り、土(はに)を取り来帰(かへりき)。 於是(ここに)、天皇甚悦(いとよろこび)、乃(すなは)ち此の埴(はに)を以ち、八十(やそ)平瓮(ひらか)、天(あめの)手抉(たくじり)の八十枚(やそひら)【手抉、此れ多衢餌離(たくじり)と云ふ。】の厳瓮(いつへ)を造作(つく)りて[而]、 [于]丹生川(にうかは)の上(かみ)に陟(のぼ)り、天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)を祭るに用(もち)ゐき。

うけひ(請ひ、祈ひ)…[名] (上代語)あらかじめ神に事の結果を誓っておいて、そのとおりのしるしが現れるか否かで神意をうかがう占い。 くじる(抉る)…[他]ラ四 穴を開ける。えぐる。 たくじり(手抉)…[名] 工具の一種らしい。手で抉ったものの意。 陟…[動] (古訓)のほる、すすむ。
《群虜》
 「むら」は、むらくも・むらたま・むらどりなどの連語を作り「群がる」意味を添えるので、「むらあた」もありそうに思えるが、これが上代の人に通用するかどうかは分らない。
《相与》
 「」は、現代では専ら「与える」として使われるが、漢文では接続詞(~と)や、かかわる(関与する)が多く見られる。 ここでは「与える」意味で「兵たちが道を開いてくれた」ととるのも可能だが、「兵たちが二人を相手にして」だと思われる。 つまり、二人の姿の異様さに大笑いしながら、「まあよい、さあ通れ通れ」と、兵士たちが道を開けたのである。
《来帰》
 「かへりき」(帰る+完了の助動詞「き」)を、こう書いた可能性がある。ただし、漢文では動詞2個の間にㇾ点を置くことは有り得ない。
《八十平瓮天手抉八十枚厳瓮》
 平瓮(ひらか)は並みの瓮、厳瓮(いつへ)は特に神聖な瓮という区別をしたと見られる。 手抉(たくじり)とは、天皇が自らの手によって丁寧に作ることを意味する。 飛鳥時代・奈良時代において、祭事に用いられる瓮のうち、特別なものについては天皇自らが製作する習慣があったことを伺わせる。この文は、その根拠を明らかにするためであろう。
 なお、〈1〉の平瓮・嚴瓮は、「天」が平瓮の方についているが、ここでは厳瓮の方につき、一貫性を欠く。「天-」は美称ではあるが深い意味はないことが分かる。
《丹生川上》
 奈良県吉野郡東吉野村小(おむら)968に「丹生川上神社」がある。 <wikipedia>675年に罔象女神(みつはのめのかみ)を御手濯(みたらし)川(高見川)南岸の現摂社丹生神社の地に奉斎し、その後現在地に遷座したものと伝える。</wikipedia> 摂社の位置を調べたところ、丹生川上神社から南東へ直線距離にして180mであった。 その後、祈雨・止雨の社として朝廷の崇敬を受けたが、戦国時代には途絶え所在地も分らなくなった。 「丹生川上神社」であることは忘れられたが、中世以後増改築があり1650年までに「蟻通神社」に改称された。
 その後大正4年(1915)に森口奈良吉の調査をきっかけとして、当社が式内丹生川上神社であることが実証され、 「丹生川上神社」に改称された。ところが既に、丹生川上神社の上社と下社を定めた後だったので、 当社は丹生川上神社(中社)と名付けられ三社の中核に位置付けられた。
 なお、丹生川上神社上社は吉野郡川上村大字迫167、丹生川上神社下社は吉野郡下市町長谷1-1 にある。
〈4〉
則於彼菟田川之朝原、譬如水沫而有所呪著也。天皇又因祈之曰 「吾今當以八十平瓮、無水造飴。飴成、則吾必不假鋒刃之威、坐平天下。」 乃造飴、飴卽自成。又祈之曰、 「吾今當以嚴瓮、沈于丹生之川。 如魚無大小悉醉而流、譬猶柀葉之浮流者【柀、此云磨紀】、吾必能定此國。如其不爾、終無所成。」 乃沈瓮於川、其口向下頃之魚皆浮出、隨水噞喁。 嚴瓮、沈于丹生之川醉流浮流
則(すなは)ち[於]彼(その)菟田川之朝原(うだかはのあさはら)、如水沫(みづあわのごとく)譬(たと)へて[而]有所呪著(のろひしあらはれあり)[也]。天皇又(また)因(よりて)祈之曰(うけひしのらさく) 「吾(われ)今(いま)[当]八十(やそ)平瓮(ひらか)を以ち、無水(みづなく)飴(あめ、たがね)を造らむ。飴成(な)らば、則(すなは)ち吾(われ)必(かなら)ず鋒刃(やきは)之威(みいつ)を不仮(かるしもあらず)、天下(あめのした)を坐平(たひらげまさむ)。」 乃(すなは)ち飴を造り、飴即ち自(おのづか)ら成りぬ。又祈之曰(うけひしのらさく)、 「吾今[当][以]厳瓮(いつへ)を、[于]丹生之川に沈めむ。 [如]魚(いを)の大小(だいせう、おほしちひさし)無(な)く悉(みな)醉(ゑ)ひて[而]流るるごとく、猶(なほ)柀(まき)の葉之(の)浮き流るるに譬(たと)へ者(ば)【柀、此れ磨紀(まき)と云ふ。】、吾必ず能(よ)く此の国を定めたまはらむ。如(も)し[其]不爾(しからざらば)、終(つひ)に無所成(ならるるなし)。」 乃ち瓮(いつへ)を[於]川に沈め、其の口を下に向け頃[之](かたぶきし)魚(いを)皆(みな)浮き出(い)で、水(みづ)の隨(まにまに)噞喁(げんぐうす、くちあけき)。

…(万)0319 彼山之 堤有海曽 そのやまの つつめるうみぞ。 鋒刃(ほうじん)…武器の鋭い刃。 …[動] かたむく。 …[動] あざとう。魚が水面に浮かび出て息をする。(古訓)くちさしととふ。 噞喁(げんぐう)…魚が水面に口を出して呼吸すること。(中国古典)『説文解字』口部…噞:噞喁,魚口上見也。从口僉聲。〔従口僉声=口々に訴える。〕
《菟田川之朝原》
 伝承地は、丹生神社(奈良県宇陀市榛原雨師(はいばらあめし)366)とされる。墨坂伝承地に近く、直線距離で2.6kmほどである。 読みは異なるが、「雨師」(うし)は、古代中国で雨をつかさどる雨神。 近くにある川は笠間川と宇陀川である。ただ、朝原という地名は見つけることができない。
《譬如水沫而有所呪著也》
 「譬」(たとへ)は、現代の「もののたとえ」などと同じ意味である。「著」は「あらわす」。
 この文をそのまま読めば、「川の途中に泡ができやすい場所があり、その泡の様子によって呪いの成否を占う」となる。 この「泡占い」なるものの具体的な方法は、類例も見つからず想像がつかない。 そこでもう少し読み進んで文脈を探ると、厳瓮を川に放り込めば魚が皆浮くと期待したことに対して、その通りの結果=ご神託が得られたのだから、「ここは、水があたかも泡を生じるように、ご神託を顕す場所である」ととることができる。 「呪」はここでは「誓(うけひ)す」を意味し、「著」は「あらはる(顕)」で、その連用形が名詞化する。 その上で「所呪著」は、動詞「呪」が体言化して「著れ」を連体修飾している。つまり、「所呪著=神への誓に対して、その回答としてあらわれた現象」である。
《飴》
 伝統的には「飴」をたがねと訓むが、あめという語もちゃんと存在した。
(倭名類聚抄)酥蜜類第二百十 飴 説文云飴【音怡和名阿女アメ】米糵煎也〔糵=もやし。大豆のもやしは飴の製造に使われた。〕
 古来から伝わる水飴の製法: <wikipedia|粟飴>蒸した餅米に麦芽と湯を加え、麦芽酵素によって餅米の澱粉を糖化させる。この原液を濾して甘味のある液体を取り出し、煮詰めて水分を飛ばす。</wikipedia>
 澱粉の分子は、グルコース(ブドウ糖)の分子が多数連鎖したものである。この澱粉に麦芽などに含まれる酵素アミラーゼがはたらくと、連鎖が切れ分子量の少ない糖類に変わる。
 「たがね」と言えば、三重県にたがね餅という食品がある。これは、もち米にうるち米を3~5割ほどまぜてついた餅。食べたときに伸びにくく食感がよいので三重県北勢地方では昔からよく食べられていたと言う。 特定の地域に古来の名称が残っているとも考えられるが、それでも「飴」はもちではないだろう。倭名類聚抄には、あめと別に「餅(毛知比=もちひ)」の項目があるから、書紀の「飴」は、あくまでも甘い「あめ」だと考えられる。
《無水造飴》
 「たがね」は水気のない堅い飴であるという説もあるが、「無水」は「造る」にかかり、「無水すなわち固い飴」ではないだろう。 実際には水を使わずに飴は作れないので「水無くして飴を造る」とは、神の威によるひとつの奇跡と受け取るのが自然である。
 ここで飴を造る理由については、〈6〉で出陣の前に、「厳瓮の粮(かて)を嘗(な)め」とあるので、その「粮」が飴かと思われる。
《噞喁》
 「噞喁」という馴染みのない語は、水中が酸素不足に陥った時、酸素を取り込もうとして水面に口を出す動作がもとの意味である。転じて、人々が口々に叫ぶ様子も表す。 ここでは、魚は既に浮き上がり流れているから、瀕死となり口を開けっ放しにした姿を描くものであろう。
《以厳瓮沈于丹生川》
 「沈」の二重の目的語「厳瓮」「丹生川」のために、前置詞「以」「于(=於)」が使われる。 従って、厳瓮を川に沈めるという文意は明瞭であるが、それによって魚を浮かせる理由が伝わって来ない。 厳瓮の威力による敵への殺傷効果を、まず魚で試そうというのだろうか。
〈5〉
時、椎根津彥見而奏之。天皇大喜、乃拔取丹生川上之五百箇眞坂樹、以祭諸神。 自此始有嚴瓮之置也。時勅道臣命「今、以高皇産靈尊、朕親作顯齋。【顯齋、此云于圖詩怡破毗。】 用汝爲齋主、授以嚴媛之號。而名其所置埴瓮爲嚴瓮、 又火名爲嚴香來雷、水名爲嚴罔象女【罔象女、此云瀰菟破廼迷】、 糧名爲嚴稻魂女【稻魂女、此云于伽能迷】、薪名爲嚴山雷、草名爲嚴野椎。」
時に、椎根津彦(しひねつひこ)之(これ)を見(み)て[而]奏(まを)しき。天皇大(おほきに)喜び、乃(すなは)ち丹生の川上之(の)五百箇(いほつ)真坂樹(まさかき)を抜き取り、以て諸(もろ)神を祭りき。 自此(これより)[有]厳瓮(いつへ)之(の)置(お)けるを始(はじ)めたまふ[也]。時に道臣命(みちのおのみこと)に勅(の)らさく「今、[以]高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)を、朕(われ)親(みづか)ら顕斎(うつしいはひ)作(まつ)らむ。【顕斎、此れ于図詩怡破毗(うつしいはひ)と云ふ。】 汝(いまし)を用ゐ斎主(いはひぬし)に為(し)たまひ、以ちて厳媛(いつひめ)之号(なのり)を授(さづ)けむ。而(しかくして)其の[所]置きし埴瓮(はにへ)を名づけ厳瓮(いつへ)と為(し)、 又火(ひ)の名を厳香来雷(いつのかくつち)と為(し)、水(みづ)の名を厳罔象女(いつのみつはのめ)と為(し)【罔象女、此れ瀰菟破廼迷(みつはのめ)と云ふ。】、 糧(かて)の名を厳稲魂女(いつのうかのめ)と為(し)【稲魂女、此れ于伽能迷(うかのめ)と云ふ。】、薪(たきぎ)の名を厳山雷(いかのやまつち)と為(し)、草(くさ)の名を厳野椎(いつののつち)と為(す)。」とのらしき。

有~置…(万)0210 吾妹子之 形見尓置有 若兒乃 わぎもこが かたみにおける みどりこの。 川上…(万)1931 川上之 かはのべの。(万)2838 河上尓 かはかみに。 …(古訓)かて。 …(古訓)たきき。 …(古訓)くさ。
《五百箇真坂樹》
 「いほつ」は五百個という数量も表すが、「豊かな」を意味する連体詞と見られる場合が多い。
《自此始有厳瓮之置也》
 「」という書き方から、「おけり」(「置く」の命令形+助動詞「り」)が「おき-あり」の短縮であると意識されていたことがわかる。
《以高皇産霊尊、朕親作顕斎》
 天照大御神よりも、高皇産霊尊を皇祖とする書紀の方針が表れている。 「顕斎」は高皇産霊を目立たせて祭るとの解釈もあり得るが、 「(あらは)」は"現実に"という語感が強いので、 「私の祖が高皇産霊尊であることを以って〔=私はその天孫であるから〕、私自身を顕わに斎させる。」と読める。 このようにして天皇が現人神として祀られる対象であることを、後世に伝えたものと解釈することができる。
《厳媛》
 「ひめ」の名は、古来女性が行ったことを示すが、ここでは男性である道臣命が担う。
《香来雷・罔象女・稲魂女・山雷・野椎》(かぐつち・みつはのめ・うかのめ・やまつち・のつち)
 迦具土(かぐつち)の神は、記によれば生まれるときに伊邪那美命の産道を焼き、怒った伊邪那岐命に切り殺される(第38回) 。 病に臥した伊邪那美命の尿から生まれたのが、弥都波能賣(みつはのめ、第37回)である。
 野椎の神については、記(第36回)に 「生野神名鹿屋野比賣神亦名謂野椎神」(野の神、別名鹿屋野比売(かやのひめ)、野椎(のづち)の神)がある。
 書紀神代紀では、「次生海次生川次生山」の段一書6に倉稲魂(うかのみたま)の命、山祇(やまつみ)が出てくる。
 このうち、書紀本文で伊弉諾尊・伊弉冉尊の国生み・神生みで名が挙がったのは草野姫(亦名野槌)だけで、 香来雷・罔象女・稲魂女・山雷は、この神武天皇即位前が初登場である。
《神事の手引きとして》
 厳瓮を置き斎主を厳媛と名乗らせ、火・水・糧・薪・草をそれぞれ神の名で呼び、神事をとり行う。 この段は、天皇の祭事のひな形を示したものと考えられる。  みつはのめ(罔象女)は水の神とされており、丹生神社の地が雨師と呼ばれることと関係がありそうである。
《出撃前の神事》
 まず、平瓮・厳瓮は天香具山の埴土を用いて作らなければならない。そのために、まだ敵地であったも危険を冒して取りにいかせた。 そして飴を造り、前項の神聖な品々を用意して天神・地祇に戦勝を祈願する。このようにして周到に神事を行った後に出撃した。

【書紀:戊午(55)年十月】
〈6〉
冬十月癸巳朔、天皇嘗其嚴瓮之粮、勒兵而出。 先擊八十梟帥於國見丘、破斬之。是役也、天皇志存必克、乃爲御謠之曰、
 伽牟伽筮能 伊齊能于瀰能 於費異之珥夜 異波臂茂等倍屢 之多儾瀰能 之多儾瀰能 阿誤豫 阿誤豫 之多太瀰能 異波比茂等倍離 于智弖之夜莽務 于智弖之夜莽務

謠意、以大石喩其國見丘也。
〔10月1日〕冬十月(かみなしづき)癸巳朔(みづのとみのつきたち)、天皇其の厳瓮(いつへ)之(の)粮(かて)を嘗(な)め、勒兵(つはものをろくし〔つはものををさめ〕)て[而]出(い)でましき。 先(ま)づ八十梟帥(やそたける)を[於]国見丘(くにみのをか)に撃ち、之を破り斬(た)ちき。是の役(え)は[也]、天皇の志(こころざし)必ず克(か)つに存(あ)り、乃(すなは)ち為御謠(うたよみしたまひ)[之]曰(うた)はく、
 かむかぜの いせのうみの おほいしにや いはひもとほる しただみの しただみの あごよ あごよ しただみの いはひもとほり うちてしやまむ うちてしやまむ
謡意(うたよみせしこころ)は、大石(おほいし)を以ち其の国見丘(くにみのをか)を喩(たと)ふる也(なり)。

こころざし(志)…[名] <三省堂:時代別国語辞典-上代編(以下「時代別上代」)>ココロザシのザシは、イキザシ、マナザシなどのザシで、サス(四段)の連用形に由来するが、志向するあり方を意味する接尾語</時代別上代>
《厳瓮の粮》
 出陣の儀式では、天皇が自ら焼いた厳瓮に食物(飴?)を載せ、食する習慣があったことを示している。
《国見丘》
 皇軍の最終目標地は磐余邑であるから、曽爾村方面にある「国見丘」は有り得ない。 御所市の国見山にしても、香具山よりも遠く、 手前の香具山に行くのさえ、敵の防衛線を突破する必要があったのだから、最初に御所市の国見山を攻めるのは理屈に合わない。 結局これらとは別のどこかの「国見丘」を攻めたことになる。
《歌の大意》
――神風の伊勢の海の大石にや い這ひ廻る細螺の 細螺の 吾子よ 吾子よ 細螺のい這ひ廻り 撃つちてし止まむ 撃つちてし止まむ
 文中に、国見丘を大石に喩えたとある。すると、細螺は、取り囲んで攻撃する味方の軍勢の譬えでる。 ここで注目されるのは、歌謡の内容が文脈の一部として扱われていることである。以後の歌謡も、この立場で解釈すべきであろう。
 記ではこの歌の繰り返しが省かれ整理されていて、書紀の方が実際に歌う形に近いと思われる。
《あごよ》
 <時代別上代>囃子言葉。吾が子よ、の意で、居合わせる人に対しての呼びかけが転じて囃子言葉となったもの。</時代別上代>
《"於費異之"と大石》
 「」は漢音・呉音ともで、乙音とされている。記の「意斐志(おひし)」を、 書紀では「大石」にするために「於費異之」にしたのは明らかだから、ここではである。 ただ「費」を用いたのは、記の「おひし」を直すことに強く反対する人が編集委員の中にいたので、ヒとも読めるようにしたのかも知れない。
〈7〉
既而餘黨猶繁、其情難測、乃顧勅道臣命 「汝、宜帥大來目部、作大室於忍坂邑、盛設宴饗、誘虜而取之。」 道臣命、於是奉密旨、掘窨於忍坂而選我猛卒、與虜雜居、陰期之曰 「酒酣之後、吾則起歌。汝等聞吾歌聲、則一時刺虜。」 已而坐定酒行、虜不知我之有陰謀、任情徑醉。
既而(すでにして)余党(あますともがら)猶(なほ)繁(おほ)く、其の情(こころ)測(はか)り難(がた)く、乃(すなは)ち顧(かへりみ)て道臣命(みちのおみのみこと)に勅(の)らさく、 「汝(いまし)、宜(よろし)く大来目部(おほくめべ)を帥(ひきゐ)、[於]忍坂邑(おしさかむら)に大室(おほむろ)を作り、盛(さかゆる)宴饗(あへ)を設(まう)け、虜(あた)を誘(いざな)ひて[而]之(これ)を取るべし。」とのらしき。 道臣命、於是(ここに)密(ひそか)なる旨(むね)を奉(まつ)り、[於]忍坂(おさか)に窨(あなむろ)を掘りて[而]我(わが)猛卒(たけきいくさ)を選(えら)ひ、虜(あた)与(と)雑(ま)ぜ居(す)ゑ、陰に期(むすびはか)り[之]曰(つ)げく 「酒(さけ)の酣之(たけなはなる)後(のち)、吾(われ)則(すなは)ち歌を起こさむ。汝(いまし)等(ら)吾(わが)歌声(うたふこゑ)を聞かば、則(すなは)ち一時(ひととき)に虜(あた)を刺せ。」とつげき。 已(すで)にして[而]坐定(さだめまししごとく)酒(さけ)を行(おこな)へば、虜(あた)我之(わが)陰謀(はかりごと)有るを不知(しらず)、情(こころ)の任(まにまに)径(すみやかに)醉(ゑ)ひき。

…(古訓)あます、あまる、のこる。  …(古訓)あた、とも、ともから、むらかる。 ともがら(類、党)…[名] 仲間、同類。ある類に属する者全部をいう。 …(古訓)しけし、おほきなり、おほし、さかゆ。 はかる(謀る、計る)…[他]ラ四 思いめぐらす。考える。 …(古訓)かへりみる、おもふ。 …(古訓)さかゆ。さかりに。 まうく(備く、設く)…[他]カ下二 設ける。 いざなふ(率ふ)…[他]ハ四 誘う。感動詞イザを動詞化したもの。 (万)4094 吾大王乃 毛呂比登乎 伊射奈比多麻比 わがおほきみの もろひとを いざなひたまひ。 …(古訓)ひそかに、しのひやかなり。 むね(宗、故、旨)…[名] 要点。趣旨。本源。 …[名] 地下室。 猛卒…(万)4331 伊佐美多流 多家吉軍卒等 いさみたる たけきいくさと。 えらふ(選ふ)…(万)0894 家子等 撰多麻比天 いへのこと えらひたまひて。 わが(我)…[副] 自らの。 …(古訓)むすひはかる、心さす。 つぐ(告ぐ)…(万)0226 吾此間有跡 誰将 われここにありと たれかつげなむ。 …(古訓)たけなはなり、たけなはに。 …(古訓)ことし。 …[副] ただちに。(古訓)すみやかに。
《道臣命》
 記では天皇自らが土雲を討つが、書紀では道臣命がその任を命じられて実行する。
《帥大来目部》
 大来目部が道臣命に従う関係であることを、ここでも繰り返している。
《窨》
<汉典>①同"薫"。用于窨茶叶。把茉莉花等放在茶叶中、使茶叶染上花的香味。②地下室。</汉典> 〔①"薫"と同じ。茶葉には"窨"を用いる。茶葉にジャスミンの花などを入れ、茶葉に香りを移す。〕
 ジャスミンティーの作り方を検索したところ、やはり①の通りであったが、ここでは当然②の地下室である。
 記では大室は地名の可能性があり、土雲は最初からそこに居るが、書紀では道臣命が地下に室を掘って土蜘蛛を誘い入れることになっている。
〈8〉
時道臣命、乃起而歌之曰、
 於佐箇廼 於朋務露夜珥 比苔瑳破而 異離烏利苔毛 比苔瑳破而 枳伊離烏利苔毛 瀰都瀰都志 倶梅能固邏餓 勾騖都都伊 異志都々伊毛智 于智弖之夜莽務
時、我卒聞歌、倶拔其頭椎劒、一時殺虜。

時に道臣命、乃(すなは)ち起(た)ちて[而]歌(うたよみ)し[之]曰(うたはく)、
 おさかの おほむろやに ひとさはに いりをりとも ひとさはに きいりをりとも みつみつし くめのこらが くぶつつい いしつついもち うちてしやまむ
時に、我が卒(いくさ)歌を聞き、倶(とも)に其の頭椎(くぶつち)の剣を抜き、一時(ひととき)に虜(あた)を殺しき。

…(古訓)とも、ともに、みな。
《歌の大意》
――忍坂の大室屋に 人多(さは)に入り居りとも 人多に来入り居りとも みつみつし来目の子等が 頭椎(くぶつつ)い石椎(いしつつ)い持ち 撃ちてし止まむ
 記の同じ歌の繰り返しを省くなどして、整理している。
〈9〉
虜無復噍類者皇軍大悅、仰天而咲、因歌之曰、  伊莽波豫 伊莽波豫 阿阿時夜塢 伊莽儾而毛 阿誤豫 伊莽儾而毛 阿誤豫 今、來目部歌而後大哂、是其緣也。
虜(あた)に復(また)噍類(いけるともから)無けれ者(ば)皇軍(すめらみいくさ)大(おほきに)悦(よろこ)び、天(あめ)を仰(あふ)ぎて[而]咲(わら)ひ、因(より)歌はく[之曰]  いまはよ いまはよ ああしやを いまだにも あごよ いまだにも あごよ 今、来目部(くめべ)歌(うた)ひて[而]後(のち)大(おほ)きに哂(わら)ふ、是其の縁(よし)也(なり)。

噍類(せうるい)…物を食って生きている者。生きている人民。 哂…(古訓)わらふ、あさける、あさわらふ。
《歌の大意》
――今はよ 今はよ ああしゃを 未だにも吾子よ 未だにも吾子よ
 ほぼ全部が囃子言葉である。
〈10〉
又歌之曰、
 愛瀰詩烏 毗儾利 毛々那比苔 比苔破易陪廼毛 多牟伽毗毛勢儒
此皆承密旨而歌之、非敢自專者也。 時天皇曰「戰勝而無驕者、良將之行也。 今魁賊已滅、而同惡者、匈々十數群、其情不可知。如何久居一處、無以制變。」 乃徙營於別處。

又歌之曰(うたはく)、
 えみしを ひだり ももなひと ことはいへども たむかひもせず
此(こ)は皆密(ひそか)なる旨(むね)を承(う)けて[而]之を歌ふは、非敢自専者(あへてみづからもはらにせざれば)[也]。 時に天皇曰(の)らさく「戦(たたかひ)に勝ちて[而]無驕者(おごりなきは)、良き将(いくさ)之(の)行(おこなひ)也(なり)。 今魁(さきかけし)賊(あた)已(すで)に滅びき。而(しかるに)同(おや)じ悪(あしき)者(もの)、匈々(さわさわに)十数群(とむれあまり)、其の情(こころ)不可知(しるべくもあらず)。如何(いか)に一処(ひとところ)に久しく居(を)りや、以ちて変(いくさ)を制(をさ)むるは無からむ。」とのらしき。 乃(すなは)ち営(いほりそこ)を[於]別処(はなるところ)に徙(うつ)しき。

えみし(蝦夷)…[名] 多くは異民族を指す。 自専(じせん・みずからもっぱらにす)…自分勝手に行うこと。 …(古訓)おこる、ほこる。 匈々(きょうきょう)…おじけづいて騒ぐさま。 …[名] 戦争。 …[動] (古訓)うつる、うつす。 いほりそこ…[名] 兵営。 …(古訓)ことなり、はなる、わく。
《歌の大意》
――蝦夷をひだり 百(もも)な人 言は云へ雖 手向ひもせず
《蝦夷》
 景行天皇に派遣された武内宿禰の報告では、東方の日高見国の人は文身(入れ墨)し、蝦夷(えみし)と呼んでいる。 古墳時代には、蝦夷の南限が関東北部にあり、大和政権が北方へ向けて制圧して勢力を広げて行った (第71回参照)と考えられている。一般には、蝦夷=アイヌ説も、それを比定する説もある。
 魏志倭人伝によれば、黥面文身の文化は戦国時代(紀元前4世紀ごろ)に百越人が渡来してもたらしたとも思われ、 宗像氏の胸の文身や、安曇氏の安曇目(黥面の一種)につながるとも考えられるので、一概に蝦夷=アイヌとも言い難い。 ここの蝦夷は、蝦夷との戦いをテーマにした飛鳥時代の歌を、「宇陀から磐余の地に先住していた異民族との戦い」の場面に持ってきたのであろう。
《ひだり》
 一応「一人」の意とされるが、疑問視されている。「ひだく(挫く)」(おしつぶす)という語があるので、「-る」は「-く」の類語かもしれない。この類語関係については、わく(分く)―わる(割る)の例がある。
《ももなひと》
 「百な人」か。「な」は2つの体言の間に置いて連体修飾の関係を示す。「が」「つ」「の」と同様だが、 「手な末(たなすゑ)」など、融合して一語となったものが多い。
《言は云へ雖も手向かひもせず》
 「お前たちを撃つぞ」と歌っているのに陰謀を知らず、反撃できなかったことを皮肉っているととれる。…
 しかし、書紀ではそうではなく、 「たむかはず」の主語を皇軍にして、「勝って驕らずいっそう天皇に恭順する」意味に解釈している。…
 もしだとすると、次の文「非敢自専」(自分の欲しいままにしない)が理解できなくなる。 従って、このような解釈を示すことは、軍人教育の一環である。書紀の発表当時、軍の内部統制の確立が重大問題であったと見られ、ここで謙虚な軍人の態度を称賛したのである。また、後述するように道臣命への牽制という見方もできる。
《魁》
 時代別上代に「さきがけ」は見出し語にない。一方古語辞典にはあるが、文例は太平記(14世紀)である。 しかし、文脈を見れば、書紀編纂期に「魁」をどう訓んだかは別にして「さきがけ」の意味で使っているのは明らかである。
《将》
 「勝って驕らず」は将軍の心得であるが、同時に軍全体の心得でもある。 従って、ここでは「将」は「いくさのかみ」ではなく「いくさ」と訓むべきかと思われる。

【書紀:戊午(55)年十一月】
〈11〉
十有一月癸亥朔己巳、皇師大舉、將攻磯城彥。 先遣使者徵兄磯城、兄磯城不承命。更遺頭八咫烏召之、時烏到其營而鳴之曰 「天神子召汝。怡奘過、怡奘過。【過音倭】。」 兄磯城忿之曰「聞天壓神至而吾爲慨憤時、奈何烏鳥若此惡鳴耶。【壓、此云飫蒭。】」 乃彎弓射之、烏卽避去、次到弟磯城宅而鳴之曰 「天神子召汝。怡奘過、怡奘過。」 時弟磯城惵然改容曰「臣聞天壓神至、旦夕畏懼。善乎烏、汝鳴之若此者歟。」 卽作葉盤八枚、盛食饗之。【葉盤、此云毗羅耐】。 因以隨烏、詣到而告之曰「吾兄々磯城、聞天神子來、則聚八十梟帥、具兵甲、將與決戰。可早圖之。」
〔11月7日〕十有一月(しもつき)癸亥朔己巳(みづのといのひをつきたちとしつちのとみのひ)、皇師(すめらみいくさ)大(おほきに)挙(あ)げ、[将]磯城彦(しきひこ)を攻めむとす。 先(ま)づ使者(つかひ)を遣(つか)はし兄磯城(えしき)を徴(め)し、兄磯城命(みこと)を不承(うけまをさず)。更に頭八咫烏(やたがらす)を遺はし召(め)[之]し、時に烏(やたがらす)其の営(いほりそこ)に到りて[而]鳴之曰(なかく) 「天神子(あまつかみのみこ)汝(いまし)を召したまふ。怡奘過(いざくわ)、怡奘過。【過の音(こゑ)倭(た)む。】。」となき、 兄磯城之(これ)を忿(いかり)曰(まを)さく「天圧神(あめおしのかみ)至(いた)ると聞こえて[而]吾(われ)慨憤(がいふん〔おほいかり〕)為(せ)し時、奈何(いか)に烏鳥(からす)の若此(このごとく)悪しく鳴きぬる耶(や)。【圧、此れ飫蒭(おす)と云ふ。】」とまをし、 乃(すなは)ち弯弓(ゆみひき)之を射(い)、烏即ち避去(さけいに)、次に弟磯城(おとしき)の宅(いへ)に到りて[而]鳴之曰(なかく) 「天神子汝を召したまふ。怡奘過、怡奘過。」となき、 時に弟磯城惵然(かしこみて)容(かほかたち)を改め曰(まをさく)「臣(われ)天圧神(あめおしのかみ)至(いた)りますと聞きまをし、旦(あした)に夕(ゆふへ)に畏(かしこ)み懼(よろこ)びまつる。善乎(よしや)烏(やたからす)、汝鳴(ながなく)[之]若此(かくのごとくあら)者(ば)歟(や)。」とまをし、 即ち葉盤(ひらで)八枚(やひら)を作り、食(みけ)を盛り饗(あへ)[之]まつりき。【葉盤、此れ毗羅耐(ひらで)と云ふ。】。 因以(よりもち)烏(やたからす)に隨(した)がひ、詣到(まゐりた)りて[而]告之曰(まをさく)「吾兄(わがいろせ)兄磯城(えしき)、天神子(あまつかみのみこ)来ますと聞き、則(すなは)ち八十梟帥(やそたける)を聚(あつ)め、兵(いくさ)甲(よろひ)を具(そな)へ、[将]決戦(きめいくさ)に与(あづ)からむ。早く之(これ)に図(はか)る可(べ)し。」

…(漢音・呉音)ワ、イ。(古訓)たむ、ゆつる。 …(古訓)はりゆみ、ゆみひく。 憤慨…怒りが胸いっぱいになる。非常に怒ること。 …(古訓)さく、ゆく。 …(万)0651 有人毛 いへなるひとも。 …[動] おそれる。 …(万)1630 野邊乃花 のへのかほばな。(万)1913 君之容儀香 きみがすがたか。(古訓)かほかたち。 …[動] ①よろこぶ。②うれえる。(古訓)よろこふ。 ひらで(葉盤)…[名] 柏の葉を重ねて、竹の串で閉じて平たい皿のように作った食器。 …(古訓)よろひ。
《過音倭》
 一旦「過」を書いて「過の音はワなり。」という注をつけるくらいなら、なぜ初めから「怡奘倭」と書かないのか。 そもそもこの音注には問題があり、「過」に「わ」という音はないはずなので、念のために「過」の音仮名を万葉集に探してみた。 (万)3754 過所奈之尓 くわそなしに。「くゎそ(過所)」は時代別上代によると、通行手形のこと。天武天皇の浄御原令で規定されたとされる。「過」は漢音・呉音ともにクヮである。
 「音倭」という音注さえなければ「怡奘過」はカラスの鳴き声を模して、「いざ、くゎああ」だろうと解釈することができた。 「烏到其営而鳴之曰」つまり「カラスが兵営に来て鳴く」と書いてあるのも、それを裏付ける。 ところが、音注はそれを否定する。どうしてそうなったのかを、次のように想像した。
①反切※Bの「見倭反」のうち、1文字目(子音[k]を示す文字)を省略し、2文字目だけを書いた。
②「倭」には「曲がりくねったさま」という意味があるので、カラスの鳴き声のように似せて、ピッチを下げつつ伸ばせと指示した。
 また、以前原文への注釈は、別の人が行った可能性があることを考察した  (第84回《「爾」の音》)。従って、
③草稿には注記がなかったが、校訂者が「いざくゎ」という表現を理解できないか、理解できても表現として認めないとして、「いざわ」※Aだと決めつける注釈をつけた。
 のかも知れない。だから、この音注は妥当性を欠くと思うのだが、現実には「いざわ」が伝統として定着している。言葉というのは、そういうものである。
※A (万)小子等 率和出将見 わらはども いざわいでみむ。の用例がある。
※B 漢字2字を組み合わせた、一種の発音記号。 一文字目から声母(冒頭の子音)を抜き出し、二文字目は韻母と声調(声母を取り除いた部分)を抜き出して合成する。

《天圧神》
 兄磯城・弟磯城から見れば、神武天皇は、軍勢とともに到来して「圧(お)す」神である。
《兄磯城・弟磯城》
 この話は、兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)の話の相似形である。兄が使者を矢を射って追い払い、弟は使者を受け入れる点が同じである。 同種の言い伝えが各地に広がっていたことが、その背景にあると思われる。
《烏の鳴き声》
 このような悪い声で鳴くと言って矢を射る話に類似するのは、天若日子が高木神の使者の雉(きじ)を射殺した話である(第73回)。 当時の人々は、鳥の鳴き声は神の言葉だと感じたのであろう。
〈12〉
天皇乃會諸將、問之曰「今、兄磯城、果有逆賊之意、召亦不來。爲之奈何。」 諸將曰「兄磯城、黠賊也。 宜先遣弟磯城曉喩之幷說兄倉下弟倉下。如遂不歸順、然後舉兵臨之、亦未晩也。【倉下、此云衢羅餌。】」 乃使弟磯城、開示利害。而兄磯城等猶守愚謀、不肯承伏。 時、椎根津彥、計之曰 「今者宜先遣我女軍、出自忍坂道。虜見之必盡鋭而赴。 吾則駈馳勁卒、直指墨坂、取菟田川水、以灌其炭火、儵忽之間出其不意、則破之必也。」 天皇善其策、乃出女軍以臨之。虜謂「大兵已至」、畢力相待。 先是、皇軍攻必取、戰必勝、而介胃之士、不無疲弊。
天皇乃(すなはち)諸(もろ)将(いくさのかみ)と会ひ、問之曰(とはさく)「今、兄磯城(えしき)、果たして逆賊之(ぎやくぞくの〔さかふる、さかふるあたの〕)意(こころ)有り、召し亦(また)不来(こず)。為之奈何(これをいかになすか)。」ととはしき。 諸将曰(まをさく)「兄磯城、黠賊(さかきあた)也(なり)。 宜(よろし)く先(ま)づ弟磯城(おとしき)に[遣]之(これ)を暁喩(さと)さしめ并(あはせ)て兄倉下(えくらじ)弟倉下(おとくらじ)に説(と)かしむべし。如(も)し遂(つひ)に不帰順(かへりしたがはざらば)、然後(しかるのち)兵(いくさ)を挙げ之(これ)に臨(のぞ)むは、亦(また)未晩(おそからじ)[也]。【倉下、此れ衢羅餌(くらじ)と云ふ。】」とまをしき。 乃(すなは)ち[使]弟磯城をば、利害(りがい〔えらるそこなはるる〕)を開示(あきら)めしめき。而(しかるに)兄磯城等(ら)猶(なほ)愚(おろか)なる謀(はかりこと)を守(まも)り、不肯承伏(あへてうけふさざりき)。 時に、椎根津彦(しひねつひこ)、計(はかりこと)し[之]曰(まをさく) 「今者(は)宜(よろし)く先づ[遣]我が女軍(めいくさ)を、忍坂(おさか)の道(みち)自(ゆ)出(い)でしむべし。虜(あた)之を見、必ず鋭(とし)を尽くして[而]赴(おもむ)かむ。 吾(われ)則(すなは)ち勁(つよ)き卒(つはもの)を駈馳(は)せ、墨坂(すみさか)を直(ただ)指し、菟田川の水を取り、以て其の炭火に灌(そそ)ぎ、儵忽之間(たちまちに)其の不意(おもはざる)に出(い)で、則(すなは)ち之を破るらむは必也(あきらかなり)。」 天皇其の策(はかりこと)を善(ほ)めたまひ、乃(すなは)ち女軍(めいくさ)を出(い)で以て之に臨みたまひき。虜(あた)「大(おほ)兵(いくさ)已(すで)に至りき」と謂ひ、力を畢(つ)くし相(あひ)待(とど)まりぬ。 先是(このさき)、皇軍(すめらみいくさ)攻め必ず取り、戦(たたかひ)必ず勝ちに、而(しかるに)介冑之士(かいちうのともから〔よろひのつはもの〕)、不無疲弊(つかれなきもあらず)。

…(古訓)さかふ、むかふ。 …[名] 国家に反逆する者。(古訓)あた。 …[形] 腹黒くて抜け目がない。(古訓)さかし、かしこし。 …[名] あかつき。[動] さとす。(古訓)さとる、さとす。 …(古訓)さとる、さとす。 …(古訓)とく。 …(古訓)~をば~せしむ。 …(古訓)おそし。 あきらむ[他]マ下二 明らかにする。 …(古訓)おろかなり。 …(古訓)はかりこと。 まもる(守る)…[他]ラ四 ①じっと目を離さずにいる。②防ぎまもる。「ま(目)+もる」か。 …(古訓)あへて、きく。 とし(利し、鋭し、聡し)…[形] ①するどい。②さとりが早い。③すばやい。はげしい。 …(古訓)つよし。 (=駆)…(古訓)はす。 …(古訓)はす。 はす(駈す、馳す)…[他]サ下二 走らせる。 …(古訓)そそく、ひたす。 儵忽(しゆくこと)…現れたり消えたりするのが、素早いさま。 …(古訓)あきらかなり。 …(古訓)ほむ。 …(古訓)ことことく、つくす。 …(古訓)ととむ。 介冑(かいちゅう)…よろいとかぶと。 介冑之族(かいちゅうのぞく)…兵士のこと。
《炭火》
 〈1〉で述べたように、「炭火」の伝統的な訓は「おこしび」である。そして「取菟田川水以灌其炭火」を、「菟田川を堰き止め、その水でおこし火(敵が山野に放った火)を消す」と解釈する。 この解釈は定着していて、墨坂神社を紹介する複数のサイトに、これが書かれる。しかし、ここで敢えて異なる説を書く。
 そもそも漢和辞典では「炭」は名詞である。仮に動詞として使われる場合も「炭を燃やす」意味であろう。古訓は「すみ、あらすみ」で、「もゆ」などはない。 倭名類聚抄では「炭」は「須美(すみ)」。これらから、「炭火」を「山焼き」の意味にとるのはかなり強引である。 「灌」は必ずしも大規模な出水に限らない。庭の花にもやるのも、農地に水を引くのも、それぞれ花、漑を使う。従って、普通に灯火に水をかけて消す意味に使っても問題はない。 また「菟田川水」は、堤を決壊させるのではなく、「川から水をる」が普通の読む方である。
 さらに仮に山焼きだとすれば、山林に火が燃え広がるのを放置して兵にのんびりと休息をとらせるという、有り得ないことになる。 まだある。〈1〉で「墨坂置焃炭」とあるのは、文字通り「常時灯火を設置する場所とする」と読むのが自然で、これを「敵が山を焼くという故事があった」とするのも強引である。 墨坂は現在の国道165号線に近く、磐余方面と東国を結ぶ交通の要衝であり、夜間も照明を欠かさずに監視していたことは十分に考えられる。 そのために村人を動員して焼かせた大量の炭が常に積まれていて、それが「墨坂」の由来かも知れない。
 以上から、ここの文は、常時周囲を照らしていた炭火を宇陀川の水を取って消し、敵を混乱させる作戦と読むのが妥当である。
《畢力相待》
 両軍とも全力を尽くし、膠着状態になったという意味であろう。
《先是》
 「是」は代名詞の他、助辞として語調を調えるはたらきがある。
①「是」を助辞とすれば、「先」=副詞(まづ)で、「まづこれ」として、未来を指す。
②「是」を代名詞とすれば、「先」=動詞(先んず)で、「是に先んじて」として、過去を回想する。 文脈を考えると、「これまで連戦連勝だったが、疲れがないとは言えない」という意味だから、②である。
〈13〉
故、聊爲御謠、以慰將卒之心焉、謠曰、
 哆々奈梅弖 伊那瑳能椰摩能 虛能莽由毛 易喩耆摩毛羅毗 多多介陪麼 和例破椰隈怒 之摩途等利 宇介譬餓等茂 伊莽輸開珥虛禰
果以男軍越墨坂、從後夾擊破之、斬其梟帥兄磯城等。

故(かれ)、聊(しまらく)御謡為(うたよみしたまひ)、以(も)ちて将卒(いくさ)之心(こころ)を慰(なぐさ)め[焉]、謡曰(うたはく)、
 たたなめて いなさのやまの このまゆも いゆきまもらひ たたかへば われはやゑぬ しまつとり うかひがとも いますけにこね
とうたよみしたまひ、果たして[以]男軍(をいくさ)墨坂を越え、後(あと)に従(よ)り夾(はさ)み[之を]撃(う)ち破(やぶ)り、其の梟帥(たける)兄磯城(えしき)等(ら)を斬(た)ちき。

…[副] いささか。とりあえず。(古訓)いささかに、しはらく。 しまら…[副] しばらく。 しまらく…(万)3471 思麻良久波 祢都追母安良牟乎 しまらくは ねつつもあらむを。 なぐさむ…(万)0889 奈具佐牟流 許〃呂波阿良麻志 なぐさむる こころはあらまし。 …(古訓)はさむ。 越す…[他]サ四 越えさせる。
《聊》
 「いささかに」。将兵は疲れているのでいささかに(=しばし)休息を取らせ、その間に歌を詠んだ。
《歌の大意》
 ――盾並めて 伊那佐の山の 木の間ゆも い行き守らひ 戦かへば 吾はや飢(ゑ)ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が伴 今助けに来ね
 日々戦い、空腹に友に鵜飼の獲物を乞う兵士の歌を、疲れた兵士の姿に重ねている。

【書紀:戊午(55)年十二月】
〈14〉
十有二月癸巳朔丙申、皇師遂擊長髄彥、連戰不能取勝。 時忽然天陰而雨氷、乃有金色靈鵄飛來、止于皇弓之弭、其鵄光曄煜、狀如流電。 由是、長髄彥軍卒皆迷眩、不復力戰。 長髄、是邑之本號焉、因亦以爲人名。 及皇軍之得鵄瑞也、時人仍號鵄邑、今云鳥見是訛也。
〔12月7日〕十有二月(しはす)癸巳朔丙申(みづのとみのひをつきたちとしひのえさるのひ)、皇師(すめらみいくさ)遂(つひ)に長髄彦(ながすねひこ)を撃ち、戦(たたかひ)を連(つ)らねど勝ちを取るに不能(あたはず)。 時に忽然(たちまちに)天陰(あめくもり)て[而]雨氷(あめひふり)、乃(すなはち)金色(くがねのいろ)の霊(くすし)鵄(とび)有り飛来(とびきたり)、[于]皇弓(すめらゆみ)之(の)弭(ゆはず)に止まり、其の鵄の光(ひかり)曄煜(かかやけり)、状(かたち)流電(いなびかり)の如し。 是に由(よ)り、長髄彦の軍卒(いくさ)皆(ことごとく)迷眩(まどひ)、[不]復(かさ)ね戦(たたかひ)に力(つと)めず。 長髄(ながすね)、是邑(むら)之(の)本(もと)号(な)にて[焉]、因(よ)りて亦(また)以(も)て人の名と為(し)たり。 皇軍(すめらみいくさ)之(の)鵄(とび)の瑞(しるし)を得(う)るに及び[也]、時の人仍(すなは)ち鵄(とび)邑(むら)と号(なづ)け、今に鳥見(とみ)と云(い)ふは是(これ)訛(よこなまる)也(なり)。

…(万)2322 天三空者 相管 あまつみそらは くもらひにつつ。(古訓)くもる。 …(万)1753 雲居雨零 くもゐあめふる。(古訓)あめふる。 …(万)3281 吾衣袖尓 置霜文 丹左叡渡 わがころもでに おくしもも にさえわたり。 黄金…(万)4094 善事乎 波自米多麻比弖 久我祢可毛 … 美知能久乃 小田在山尓 有等 よきことを はじめたまひて くがねかも … みちのくの をだなるやまに くがねありと。 …(万)0850 由吉能伊呂遠 ゆきのいろを。(万)0668 朝尓日尓 色付山乃 あさにけに いろづくやまの。 …(万)0319 霊母 くすしくも。 …(古訓)とひ。 (ゆはず)…[名] 由美の末端にあって弦の端をひっかける金具。また、弓の末端部。(古訓)ゆみはす。 (万)3885 御弓之弓波受 みゆみのゆはず曄煜…(中国古典)『後漢書』〈班彪列傳〉鐘鼓鏗鎗管絃曄煜。〔鏗鎗:金属を打つ打楽器か〕『康熙字典』煜:〈班固·東都賦〉管絃曄煜〈註〉曄煜、盛貌。〔さかりなるさま〕 …[形]かがやく。(古訓)うるはし、ひかる。 …[動]かがやく。(古訓)とてりあきらかにして。 …(古訓)かたち。 …(古訓)まとふ。 …(古訓)まとふ。 流電(りゅうでん)…いなびかり。 …(古訓)また、かさねて。 …(古訓)つとむ。 …(古訓)よし、よる。 …(古訓)まこと、しるし。
《長髄邑》
 「ながすね」に近い地名に、奈良県桜井市戒重(大字)戒重中洲北新町がある。 磐余池、鳥見山に挟まれた所なので、関係あるかも知れない。
《鳥見邑》
 奈良市に鳥見町があるが、よみは「とりみ」である。 即位後の神武4年には、鳥見山中に皇祖天神を祭るという記述がある。桜井市の大字外山は「とび」と読み、鳥見山(とみやま、245m)の北の麓である。 また、桜井市・宇陀市の境にも鳥見山(とみやま、734m)がある。記で長髄彦にあたる人物は登美毘古であるが、「登美」は「とび」「とみ」に通ずると思われる。
〈15〉
昔孔舍衞之戰、五瀬命中矢而薨、天皇銜之、常懷憤懟、至此役也、意欲窮誅、 乃爲御謠之曰、
 瀰都瀰都志 倶梅能故邏餓 介耆茂等珥 阿波赴珥破 介瀰羅毗苔茂苔 曾廼餓毛苔 曾禰梅屠那藝弖 于笞弖之夜莽務

昔孔舍衛(くさか)之(の)戦(たたかひ)に、五瀬命(いつせのみこと)矢に中(あた)りて[而]薨(こう)し、天皇(すめらみこと)之を銜(ふふ)み、常に憤(いきどほり)懟(うらみ)を懐(むだ)き、此の役(え)に至り[也]、意(こころ)[欲]窮(すべなみ)誅(ころさ)むとし、 乃(すなはち)為御謡(うたよみしたまひて)[之]曰(うたはく)、
 みつみつし くめのこらが かきもとに あはふには かみらひともと そのがもと そねめつなぎて うちてしやまむ

…[動] ①ふくむ。はむ。くわえる。②ふくむ。ある気持ちを心にいだきつづける。(古訓)くつは、ふふむ。 …(古訓)いたく、むたく。 …(古訓)いきとほり。 …[動・名] うらむ。うらみ。(古訓)あたむ、うらむ、うれふ。 …(万)3257 戀天見 こひてすべなみ。 すべなし…[形] どうしようもない。 (生)…[名] 草木が茂ったり、ものを産したりする場所。接尾語的に用いる事が多い。 かみら…[名] 植物名。香(か、かおり)のあるニラ(韮)か。 その(苑)…[名] 庭園。もっぱら草木や野菜などを植える場所。
《歌の大意》
――みつみつし 来目の子等が 垣下に 粟生には 香韮一本 苑が下 そねめ継なぎて 撃ちてし止まむ
 辞書の文例や、ネットを参照すると、「香りする(あるいは悪臭?)の韮が一本粟畑に紛れて生えている」部分は共通理解となっているが、 「垣下に」や「そのがもと そねめ」は納得できる解釈は見られない。
 この歌の情況を考えると、五瀬命を亡くした無念さがずっと心に残り、撃ち返したいと思ってきた場面である。 とすれば、粟畑に混じり一本だけ香を放っていた韮がちぎられて地面に棄ててあるのを見て、残った根に芽を継いで生き返らせたいという心情を歌ったものかと思われる。
〈16〉
又謠之曰、
 瀰都々々志 倶梅能故邏餓 介耆茂等珥 宇惠志破餌介瀰 句致弭比倶 和例破涴輸例儒 于智弖之夜莽務
因復縱兵忽攻之、凡諸御謠、皆謂來目歌、此的取歌者而名之也。

又歌謡之曰(またうたよみしたまひうたはく)
 みつみつし くめのこらが かきもとに うゑしはじかみ くちびひく われはわすれじ うちてしやまむ
因(よ)りて復(またまた)縦(ほしきまにまに)兵(いくさ)忽(たちまちに)攻め[之]、凡(おほよそ)諸(もろもろ)の御謡(みうた)、皆来目歌(くめうた)と謂ふ。此れ取り歌ひまつる者に的(あ)てて[而]名之也(なづけき)。

…(古訓)ほしいままに。 …(万)2913 凡者 おほかたは。(古訓)おほよそ。 …(古訓)ゆくは、まと、あきらかなり、あたる。
《歌の大意》
――みつみつし 来目の子等が 垣下に 植ゑしはじかみ〔=生姜〕 口ひひく〔口に辛く〕 吾は忘れじ 撃ちて止まむ
 「弟の死など、数々のにがい思いをしてきたことを胸に秘め、戦い抜くぞ。」という意味であろう。
《此的取歌者而名之也》
 「而」は「ごとし」という訓もあるが、「名」は形式目的語「之」によって動詞(「なづく」)であることを明示するから、「而」は接続詞である。 「而」の前は独立した主述文だから、者は格助詞(「は」)ではなく、「もの」である。すると、的・取・歌のどれかが動詞である。
 「的」をまず名詞としてみる。 景行天皇紀に「時人號其忘盞處曰浮羽、今謂的者訛也」、すなわち、盞(うくは、=杯)を忘れた地に因んで地名は「うくは」となり、訛って「いくは」となったという記事がある。 そして、書紀には氏族名「的戸田宿禰(いくへとだのすくね)」「的臣(いくはのおみ)」がある。これらの「的」は、古訓の「ゆくは」であろう。
 次に動詞「あたる」を選び、「あつ」(=当つ、あたるの他動詞形・下二)としてみる。すると、「取り歌ふ」が形式名詞「者」を連体修飾することになる。「取り歌ふ者」とは、来目部のことである。 これで辻褄が合う。取(とり)は「歌ふ」の単に語調を強める接頭語ととってもよいが、 「数々の歌から選んで」という語感もある。
 以上から、訓読は「此れ、取り歌ふ者〔=来目部〕に的(あ)て、名づけき。」である。
 なお、「的取」を「さす」とする伝統的訓読があるが、「的取」という熟語は『汉典』にもなく、漢籍(中国古典)でも固定した熟語の例は見えないので、「的取」を一語として訓読するのは不自然である。
〈17〉
時、長髄彥乃遣行人言於天皇曰 「嘗有天神之子、乘天磐船、自天降止、號曰櫛玉饒速日命。【饒速日、此云儞藝波揶卑。】 是娶吾妹三炊屋媛亦名長髄媛、亦名鳥見屋媛遂有兒息、名曰可美眞手命。【可美眞手、此云于魔詩莽耐。】 故、吾以饒速日命、爲君而奉焉。 夫天神之子、豈有兩種乎、奈何更稱天神子、以奪人地乎。吾心推之、未必爲信。」 天皇曰「天神子亦多耳。汝所爲君、是實天神之子者、必有表物。可相示之。」
時に、長髄彦(ながすねひこ)[乃ち]人を遣はし[於]天皇(すめらみこと)に言(と)きに行かしめ曰(まをさく) 「嘗(かつて)天神(あまつかみ)之子(みこ)有り、天磐船(あめのいはふね)に乗り、天(あめ)自(よ)り降(お)りて止(とどま)り、号(なづけ)て櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)と曰(まを)す。【饒速日、此れ儞芸波揶卑(にぎはやひ)と云ふ。】 是(ここ)に吾(わが)妹(いも)三炊屋媛(みかしやひめ)亦の名長髄媛(ながすねひめ)、亦の名鳥見屋媛(とみやひめ)を娶(めあは)し遂(つひ)に児息(みこ)有り、名(なづけく)可美真手命(うましまてのみこと)と曰(まを)す。【可美眞手、此れ于魔詩莽耐(うましまて)と云ふ。】 故(かれ)、吾(われ)饒速日命を[以ち、]君(きみ)と為(し)て[而]奉(つか)へぬ[焉]。 夫(それ)天神(あまつかみ)之子(みこ)、豈(あに)両(ふた)種(くさ)有り乎(や)、奈何(いかに)更(さら)に天つ神の子を称(なづ)け、[以ちて]人の地(くに)を奪ふ乎(や)。吾(わが)心(こころ)[之]推(おしはか)るに、未必為信(いまだかならずしもうくをなさず)。」とまをしき。 天皇曰(の)らさく「天神の子亦(また)多(おほ)かる耳(のみ)。汝所為君(いましがきみとなすもの)、是(これ)実(まこと)に天神之子なら者(ば)、必ず表(あらは)る物有り。可相示之(これをあひしめすべし)。」

…[副] かつて。(古訓)あへて、かつて。 …(古訓)いふ、とく、まうす。 …(古訓)ととまる、いたる、とまる。 …(万)0038 依弖奉流 神乃御代鴨 よりてつかふる かみのみよかも。 …(万)0505 今更 いまさらに。 …[助辞] 新しい話題を出すことを知らせるために、文頭につけることば。「それ」と訓読する。 …(古訓)おしはかる。
《遣行人言於天皇》
 「」は、使役の助動詞「しむ」である。 「遣」は使役動詞(「使」、「令」の類)で、漢文では「使-O-C」の構造をとる。 〔=目的語;命じられた行為の実行者、=動詞句;命じられた行為〕
 使役文なら、は「人」、は「言於天皇曰~」〔天皇に~を言上する〕である。 ところが、結果として「行」が余る。これは「人」への連体修飾語となる。つまり「行く人」であるが、 これでは「たまたま通りかかった人」になってしまう。 改めて漢和辞典を見ると「行」にも、「行かしむ」という用法がある。そこで「遣行」をほぼ同じ意味を持つ使役動詞二個を連結したものとするのが妥当である。 訓読体において「遣」は「を遣わしせしむ」とすることも多いので、「~をはし~しにかしむ」とするのも可能である。
 使者は長髄彦の言上を忠実に伝えるのが役目なので、続く「」内の""は、使者ではなく長髄彦である。
《夫天神之子、豈有両種乎》
 「」は漢籍の直輸入である。平安時代に普及する漢文訓読体では「それ」だが、古事記の和風漢文では「故」を使うところだから、「かれ」でもよいだろう。 「あに両種(ふたくさ)あるや」は、天から降りてきた御子は饒速日命こそが正統で、倭磐余彦は異端であると主張している。
《天神子亦多耳》
 漢籍の「」は事実を確認・肯定する語気詞である。 ここでは長髄彦の主張に対して、「確かに天神の御子が多すぎる。」点のみに同意した上で、「お前こそ偽物だ」と切り返している。 「」は、「さは」と訓むことが多いが、「さは」はどちらかと言うと情景描写の語(おびただしい、非常に多い)である。ここでは「1種であるべきところのものが、2種ある」という論理を語るから「おほし」がよいと思われる。
〈18〉
長髄彥、卽取饒速日命之天羽々矢一隻及步靫、以奉示天皇。 天皇覽之曰「事不虛也。」 還、以所御天羽々矢一隻及步靫賜、示於長髄彥。 長髄彥、見其天表、益懷踧踖、然而凶器已構、其勢不得中休而、猶守迷圖、無復改意。 饒速日命、本知天神慇懃唯天孫是與、 且見夫長髄彥禀性愎佷、不可教以天人之際、乃殺之、帥其衆而歸順焉。 天皇、素聞鐃速日命是自天降者而今果立忠效、則褒而寵之。此物部氏之遠祖也。
長髄彦、即ち饒速日命(にぎはやひのにこと)之(の)天羽々矢(あめのははや)一隻(ひとしやく〔ひとつ〕)及(と)歩靫(かちゆき)とを取り、以ち天皇(すめらみこと)に奉(まつ)り示(しめ)しき。 天皇御覧之(めして)曰(の)らさく「事(こと)不虚也(いつはりにあらずや)。」とのらし、 還(かへ)しに、所御(をさめし)天羽々矢一隻及歩靫を[以ちて]賜(たま)ひ、[於]長髄彦に示しき。 長髄彦、其の天(あめ)の表(あらはれ)を見、懐(こころ)益(ますます)踧踖(かしこま)れども、然而(しかるに)凶器(あしつはもの)已(すで)に構へ、其の勢(いきほひ)中(なかばに)休(やむ)を不得(えず)して[而]、猶(なほ)迷(まとひぬる)図(はかりこと)を守(も)り、無復改意(またこころをあらたむることなし)。 饒速日命、本(もとより)天神(あまつかみ)慇懃(ねもころに)唯(ひとり)天孫(あまつひこ)是(これ)与(あづかる)を知り、 且(また)夫(その)長髄彦禀性(うまれながら)愎佷(ふくこんなる〔ことはりにもとる〕)を見(め)し、天人(あまつひと)之際(きはみ)を以ち不可教(をしふるべくもあらず)、乃(すなはち)殺し[之]、其の衆(ともから)を帥(ひき)ゐて[而]帰(かへ)り順(したが)ひき[焉]。 天皇、素(もとより)鐃速日命是(これ)自天降(あめよりおりし)者(もの)にて[而]今(いま)果たして忠(ちう〔まこと〕)に効(ならひ)立たすを聞き、則(すなはち)褒めて[而][之を]寵(あはれ)ぶ。此れ物部(もののべ)氏之遠祖(とほつおや)也(なり)。

-しやく(隻)…[助数詞] 鳥、魚、船、矢などを数える語。 …[量詞] ①一対になったものの片方の数。②虫や鳥、船の数。(呉音)シャク。(漢音)セキ。(古訓)ひとつ、ひとり。  …(古訓)いつはり、むなし。 かへりて(還りて)…[副] 逆に。かえって。 踧踖(しゅくせき)…身を縮めてかしこまるさま。(古訓)かしこまる。 …(古訓)あし。 …(古訓)うつはもの。 つはもの(兵、兵器)…[名] ①戦争に使う道具。②武器をとる人。(古訓)つはもの。 …(古訓)たた、ひとり。 …[指] かの。 かの…[指+格助] 遠称の指示代名詞「か」+連体修飾の格助詞「の」。(時代別上代)用例ははなはだ少ない。  〔禀〕性(ひんせい)…天から授かったうまれつきの性質。 (ふく)…[動・形] 自身が強すぎて人に逆らう。図太い。(古訓)もとる。  (こん)…[動] もとる。意地を張ってそむく。(古訓)いかる、あらそう、そめく、もとる。 愎佷…(汉典) 固执〔=固執〕、乖戾〔=乖戻;道理にもとる〕 もとる…[自]ラ四 ねじれ曲がる。理にそむく。肉体的にも精神的にもいう。 〔効〕…(古訓)ならふ。 …[名] まごころ。儒教において君主に忠誠を尽くすこと。(古訓)うやまふ、まこと。 ほむ(誉む、褒む)…[他]マ下二 ①祝福する。②たたえる。ほめる。 …[動] 大切にかわいがる。(古訓)あはれふ、おもふ。
《一隻》
 伝統的な訓は「ひとは」である。一方古語辞典の見出し語に「しゃく(隻)」がり、その文例は『日本霊異記』(弘仁年間;810~824)から採られている。 呉音「しゃく」が古語辞典の見出し語になるのだから、飛鳥時代以前に移入していたことになる。 漢籍の「隻」(しゃく、せき)が残り、人工的な訓「は」は残らなかったのだから、「しやく」あるいは「せき」とよめばよいだろう。 さらに純粋なやまとことばで、というなら「ひとつ」で十分である。
《歩靫》
 訓は「かちゆき」か。 類似する「歩射」が『倭名類聚抄』/射芸部第四十二/にある。「和名 加知由美〔かちゆみ〕
《還以所御天羽々矢一隻及歩靫》
 「御(すす)められし天羽々矢一隻と歩靫を以ちて還し」と読むと、長髄彦の天羽々矢と歩靫を突っ返したことになる。 しかし、それでは次の「神の表(顕れ)」が何のことか分からなくなる。 前段に"相示"(互いに見せ合おう)とあるので、今度は天皇が持っていた羽々矢と歩靫を持たせることによって、本物の「神の顕れ」を思い知らせたとする方が、辻褄が合う。 従って、これを正しく理解するためには、「所御」は、「すすめし」(長髄彦が進呈したところの)ではなく、「をさめし」(天皇が持っていたところの)と訓まねばばならない。
《是自天降者》
 是を「これ」と訳すと「これ、天より降りしもの」となり動詞が見つからないが、漢文においては「是」が、繋辞(英語のbe動詞と同じ)の役割を果たす。だから「是」の訓読においては、文末に「なり」を加えるべきである。
《物部氏》
 もともとは「物の部」という部(べ)であったと見られる。部とは、大和朝廷のもとでは朝廷の仕事を請け負う集団で、「物部」は文字通り物品を差配していたと想像される。 律令制以後、部からは特定の仕事を請けるという性格は失われ、血縁集団となる。
 物部麁鹿火は磐井の乱を鎮圧(528年)、 物部守屋は、廃仏運動、穴穂部皇子の誅殺の後、丁未の乱で戦死(587年)。以後物部氏は没落した。
 その後、物部氏は石上(いそのかみ)氏に改称し、書紀編纂期には石上麻呂(640-717)が左大臣まで上った。

【書紀:己未(56)年二月】
〈19〉
己未年春二月壬辰朔辛亥、命諸將、練士卒。 是時、層富縣波哆丘岬、有新城戸畔者【丘岬、此云塢介佐棄云。】、 又和珥坂下、有居勢祝者【坂下、此云瑳伽梅苔。】、 臍見長柄丘岬、有猪祝者、此三處土蜘蛛、並恃其勇力、不肯來庭。 天皇乃分遺偏師、皆誅之。 又高尾張邑、有土蜘蛛、其爲人也、身短而手足長、與侏儒相類、 皇軍結葛網而掩襲殺之、因改號其邑曰葛城。 夫磐余之地、舊名片居【片居、此云伽哆韋】、亦曰片立【片立、此云伽哆哆知】、 逮我皇師之破虜也、大軍集而滿於其地、因改號爲磐余。
〔己未2月20日〕己未(つちのとひつじ)の年春二月(きさらぎ)壬辰朔辛亥(みづのえさるをつきたちとしかのとゑのひ)、[命]諸(もろ)将(いくさのかみ)に、士卒(つはもの)を練(ね)らしむ。 是(この)時、層富県(そふのあがた)の波哆丘岬(はたのをかさき)に、新城戸畔(にひきとへ)の有る者(は)【丘岬、此れ塢介佐棄(をかさき)と云ふ。】、 又和珥坂下(わにのさかもと)に、居勢祝(こせのはふり)の有る者(は)【坂下、此れ瑳伽梅苔(さかもと)と云ふ。】、 臍見長柄(ほそみながら)の丘岬(をかさき)に、猪祝(ゐのはふり)の有る者(は)、此の三処(みところ)の土蜘蛛(つちくも)、並(なめて)其の勇力(たけき)を恃(たの)み、不肯来庭(あへてまゐたらず)。 天皇乃(すなは)ち偏師(かたいくさ、ひといくさ)に分け遺(つか)はし、皆(ことごとく)[之を]誅(ころ)しき。 又高尾張邑(たかをはりむら)に、土蜘蛛(つちぐも)有り、其の為人(ひとなる)也(や)、身(み)短(みじか)くして[而]手足(てあし)長く、侏儒(ひきひと)与(と)相(あひ)類(に)、 皇軍(すめらみいくさ)葛網(かつらあみ)を結ひて[而]掩(おほ)ひ襲(おそ)ひ[之を]殺し、因(よりて)其の邑の号(なづけ)を改め葛城(かつらき)と曰ふ。 夫(それ)磐余(いはれ)之地(ところ)、旧(ふるき)名を片居【片居、此れ伽哆韋(かたゐ)と云ふ。】、亦(また)片立【片立、此れ伽哆哆知(かたたち)と云ふ。】と曰ひ、 我が皇師(すめらみいくさ)之(が)虜(あた)を破るに逮(いた)る也(や)、大軍(おほいくさ)集(つど)ひて[而][於]其の地(ところ)に満(みち、いはみ)、因(よりて)号(なづけ)を改(あらた)め磐余(いはれ)と為(な)しぬ。

…(古訓)たのむ。 …(古訓)いさむ、たけし。 たけし…[形] 勇猛である。(万)4331 伊佐美多流 多家吉軍卒等 いさみたる たけきいくさと。 …(古訓)あへて。 来庭(らいてい)…諸侯が朝廷に来て天子に会う。 まゐたる(参到る)…[自]ラ四 尊貴な人のもとや、尊貴の場所に至ることをいう。 偏師(へんし)…全軍のうちの一部の軍隊。 侏儒(しゅじゅ)…[名] こびと。(古訓)ひきうと。 …(倭名類聚抄)漁釣具第百九十四「網罟【音古 阿美〔あみ〕】漁網也」。 …(古訓)おほふ。 …(古訓)ふるし。 …(万)0466 名付毛不知 なづけもしらず。
《層富県》
 <wikipedia>「曾布(そふ)」あるいは「層富(そほ)」という地名であったが、これに「添(そふ)」の字が宛てられ、2つに分けて添上郡・添下郡となった。</wikipedia>
《波哆丘岬》
 神波多神社が山添村大字中峰山にあり、祭神は須佐之男である。創建は奈良遷都の頃。地元の山王信仰の社なので、仏教の色合いが強い。 但しその所在地は、山邊郡の東端である。添上郡との境界に近い。
《和珥坂》
 奈良県天理市和爾(わに)町に、和爾坐赤坂比古(わににますあかさかひこ)神社がある。和珥氏は5~6世紀の中央豪族で、天理市和爾町・櫟本町を本拠地とした。
《長柄》
 奈良県天理市に長柄(ながら)町という地名がある。それとは別に、御所市に長柄(ながら)神社がある。
《偏師》
 時代別上代によれば、「かたいくさ」は日本紀私記丙本に示された訓。漢籍の「偏師」(一部の軍隊)のそれぞれの文字の訓を宛てたものである。
 ※…日本紀講筵(こうえん)の講演原稿。甲乙丙丁の四書が現存する。日本紀講筵は書紀の訓読の研究成果の発表会で、書紀成立翌年(721年)に第1回が行われ第7回(965年)まで行われた。(第87回参照)
《高尾張邑・葛城邑》
 <wikipedia>飛鳥時代の前半あたりには葛城県が、その後は葛城国が置かれたようである。</wikipedia>
 その中で、葛城邑がどのあたりかは定めがたい。
《侏儒》
 中国語で「身長の低い人」の意。魏志倭人伝には「侏儒国」が登場し、身長3~4尺とされる(当時の漢尺は23cm。『魏志倭人伝をそのまま読む』第66回参照)。 「ひきうと」は「ひきひと」の転。「ひき」は「低(ひき)し」の語幹。<時代別上代>室町時代にいたってもヒクシよりヒキシの方が多く用いられている。捌</時代別上代>
《いはむ》
 次の段に「いはむ」という動詞があり、磯城八十梟帥(やそたける)が群がって駐屯していることを表す。 この段の「満」をも「いはむ」と訓めば、「いはれ邑」と呼称する理由になる。 平安時代の学者もそう考えたようで、崇神紀・景行紀の「屯」、欽明紀の「充満」、斉明紀の「営」までも「いはむ」と訓む。 だが「屯」「営」は「いはむ」でよいとして、「満」「充満」をも「いはむ」とすることには疑念が残る。 なぜなら、万葉集の「満」は大半が「みつ」と訓まれるからである。 (「みつ」が14例、「たる」(足る)が3例、「たたなみ」が1例、音仮名「ま」が2例)
 一例を挙げる。 (万)0485 神代従 生継来者 人多 國尓波 かむよより あれつぎくれば ひとさはに くににはみちて。
 多くの「満つ」は自然現象(月、潮)であるが、この歌では人が「満つ」である。
 そもそも通常「みつ」と訓まれる「満」には訓注がないのに、次の「屯聚」の注を遡って適用するのは不合理である。 だから、「満」は「みつ」であろうが、そうすると「磐余邑」の根拠が消えてしまう。これについては次の項の中で述べる。
《我皇師》
 漢文で「A之B也」という構文は、「AがBした時」という意味である。 「逮我皇師之破虜也大軍集而満於其地」は、皇軍が敵を破るに至った時、大軍が集まりその地〔=磐余〕に溢れたという意味。集まった兵たちは。口々に歓喜の声をあげていたことであろう。 そのときの叫び声が「(い)、〔神聖なり、我は。〕で、それが「いはれ邑」の由来だと考えることができる。皇軍の前の「我」が、特に必要がないのに置かれたこともこの考えを裏付ける。 ただ、書紀編纂期の「いは」は[ⅰφa]で、我は[ware]であるから発音は一致しない。[φ]は平安時代以後[w]に変化していくので、発音の類似感はあったと思われる。 ※…[φ]は口唇摩擦音。
《磐余》
 書紀の地名譚は、その地の神話による後付であって真実とは言えない。そして「いはれ」の語源は、実際には「謂れ」ではないだろうか。 なぜなら、その地はしばしば天皇の宮が置かれるうちに、倭の謂れを物語る土地となったからである。 同時にその国を開いたとされる神の名が「かむやまといはれひこ」と呼ばれるようになったと想像する。
〈20〉
或曰、天皇、往嘗嚴瓮粮、出軍而征、是時、磯城八十梟帥、於彼處屯聚居之。【屯聚居、此云怡波瀰萎。】 果與天皇大戰、遂爲皇師所滅。故名之曰磐余邑。 又皇師立誥之處、是謂猛田。作城處、號曰城田。 又賊衆戰死而僵屍、枕臂處、呼爲頰枕田。 天皇、以前年秋九月、潛取天香山之埴土、以造八十平瓮、 躬自齋戒祭諸神、遂得安定區宇、故號取土之處、曰埴安。
或る曰(いはく)、天皇、往(むかし)厳瓮(いつへ)の粮(かて)を嘗(な)め、軍(みいくさ)を出(い)でて[而]征(ゆ)きたまひ、是(この)時、磯城(しき)八十梟帥(やそたける)、[於]彼処(そこ)に屯聚居(いはみゐ)[之]せり。【屯聚居、此れ怡波瀰萎(いはみゐ)と云ふ。】 果たして天皇大戦(おほいくさ)に与(あづか)り、遂(つひ)に皇師(すめらみいくさ)に所滅(ほろぼさる)に為(な)りぬ。故(かれ)[之を]名(なづ)け磐余邑(いはれのむら)と曰ふ。 又皇師(すめらみいくさ)立たして誥之処(たけびしところ)、是(これ)謂(いはく)猛田(たけだ)なり。作城処(きをつくりしところ)、号(なづけ)城田(きだ)と曰ふ。 又賊(あた)の衆(ともがら)戦(いくさ)に死して[而]僵(たふれし)屍(かばね)臂(たなむき)を枕(まき)し処(ところ)、呼(なづけ)頬枕田(つらまきた)と為(す)。 天皇、[以]前年(さきつとし)秋九月(ながつき)に、天香山(あめのかぐやま)之埴土(はにつち)を潜(ひそ)み取り、以ちて造八十平瓮(やそひらか)を造り、 躬自(みづから)斎戒(いつきつつしみ)諸神(もろかみ)を祭り、遂(つひ)に区宇(くう、〔あめのした〕)を安(やす)く定むを得、故(かれ)取土之(はにつちをとりし)処(ところ)を号(なづ)け、埴安(はにやす)と曰ふ。

…(古訓)むかし。(万)0031 昔人二 むかしのひとに。 …(中五瀬命の負傷の段、訓注)雄誥;をたけび。 …[動] たおれる。死後硬直する。(古訓)くつす、たふる、ふす。 僵尸、僵屍…たおれた死体。 …(万)4094 海行者 美都久 山行者 草牟須 うみゆかば みづくかばね やまゆかば くさむすかばね…(万)0439 誰手本乎可 吾将 たがたもとをか わがまくらかむ。 (万)2071 君之手毛 未者 きみがても いまだまかねば。 …[名] ひじ。(古訓)ひち、たたむき。 前年…(万)0783 前年之 先年従 至今年 をととしの さきつとしより ことしまで。 …(古訓)おのれ、みづから。 斎戒(さいかい)…神をまつるとき、飲食や行動をつつしんで心身を清めること。 …(古訓)いはふ、つつしむ。 区宇(くう)…①区切られた内部。②天下。
《猛田》
 「猛田(たけだ)」の地名は、皇軍が雄たけびを挙げたことに因むとされる。大和国には「猛田県」が存在した。
 <wikipedia/県主の一覧>菟田県主、春日県主、猛田県主、曽布県主、山辺県主、十市県主、高市県主、志貴県主、葛木県主。</wikipedia> 県(あがた)は、律令国以前の大和政権による地方統治機構で、直轄領であったとも言われる。
宇陀…奈良県北東地域の称。大和十郡(とごおり)の一。上代の菟田県(うだのあがた)・猛田県(たけだのあがた)にあたる。
 一部のサイトに宇陀市大宇陀下竹が、昔の猛田だという説が見られるが、その出典は不明である。
《城田》
 〈1〉の高倉山の別名が城山だから関係あるかも知れない。ただ、「城山」は戦国時代に築城されたことによって付いた名前かも知れないので、何とも言えない。
《頬枕田》
 頬枕田に結びつきそうな地名を探したが、これという説は見出すことができなかった。 城田・頬枕田は書紀編纂期には確実に存在したが、それらを冠した名前の神社も建てられず、忘れられたと思われる。
《埴安》
 柿本人麻呂が、埴安(はにやす)の池を歌っている。 (万)0200 埴安乃 池之堤之 はにやすの いけのつつみの。 埴安の池は、香具山の西麓にあったとされる。

【書紀:己未(56)年三月・庚申(57)年秋八月】
〈21〉

三月辛酉朔丁卯、下令曰 「自我東征、於茲六年矣、頼以皇天之威、凶徒就戮。 雖邊土未淸餘妖尚梗、而中洲之地無復風塵。誠宜恢廓皇都、規摹大壯。 而今運屬屯蒙、民心朴素、巣棲穴住、習俗惟常。 夫大人立制、義必隨時、苟有利民、何妨聖造。 且當披拂山林、經營宮室、而恭臨寶位、以鎭元元。 上則答乾靈授國之德、下則弘皇孫養正之心。 然後、兼六合以開都、掩八紘而爲宇、不亦可乎。 觀夫畝傍山【畝傍山、此云宇禰縻夜摩】東南橿原地者、蓋國之墺區乎、可治之。」 是月、卽命有司、經始帝宅。

〔3月7日〕三月(やよひ)辛酉朔丁卯(かのととりをつきたちととしひのとうのひ)、下(しも)に令(みことのり)し曰(のらさく) 「我東(ひむかしに)征(うち)し自(よ)り、於茲(ここに)六年(むとし)[矣]、[以]皇(すめら)天(あめ)之威(いつ)に頼(よ)り、凶(あし)徒(ともがら)就戮(ころさ)れけり。 辺(さかひ)の土(ところ)未(いま)だ清められず妖(わざはい)を余(のこ)し尚(なほ)梗(あら)けれ雖(とも)、[而]中洲(うちつくに)之地(ところ)復(また)風塵(かぜちり)無し。誠(まこと)宜(よろしく)皇(すめら)都(みやこ)を恢廓(くわいくわくし〔ひろげ〕)、規摹〔=規模〕(きぼ〔かまへ〕)大壮(たいさう、おほき)にすべし。 而(しかるに)今(いま)運(めぐり)屯蒙(をさなき)を属(つら)ね、民(あをひとくさ)の心(こころ)朴素(すなほ)にて、巣(す)に棲(す)み穴に住み、習俗(よのならひ)惟(これ)常(つね)なり。 夫(それ)大(おほき)人(ひと)の制(いましめ)を立たし、義(よし)必ず時の隨(まにま)にして、苟(いやしくも)民(あをひとくさ)に利(とく)有らば、何ぞ聖造(さかしみつくり)を妨(さまた)ぐるや。 且(また)[当]山の林(はやし)を披(ひら)き払(はら)ひ、宮室(みやむろ)を経営(いとな)み、而(かくて)恭(つつしみて)宝(たから)の位(くらゐ)に臨(のぞ)み、元(もと)を鎮(しづ)むを以ちて元(はじ)めまさむ。 上(かみ)に則(すなは)ち乾(あめ)の霊(みたま)の授けし国の徳(とく〔さきはひ〕)に答へしめ、下(しも)に則ち皇孫(すめみま)の養(やしな)ひし正之(まさしき)心を弘(ひろ)めしむ。 然る後、六合(りくがふ〔あめのした〕)を兼ね以ちて都を開き、八紘(やつな)を掩(おほ)ひて[而]宇(いへ)と為(す)、不亦可乎(またべからざるや)。 夫(それ)畝傍山【畝傍山、此れ宇禰縻夜摩(うねびやま)と云ふ。】の東南(ひむかしみなみ〔たつみ〕)の橿原(かしはら)の地(ところ)を観れ者(ば)、蓋(けだ)し国(くに)之墺区(こゆるところ)乎(や)、之(これ)に可治(をさむべし)。」 是の月、即ち命(みことのり)司(つかさ)に有り、帝(みかど)の宅(いへ)を経(いとな)み始(はじ)む。

…(古訓)ゆく、うつ。 …(古訓)ころす。 就戮…(汉典)受戮,被殺。〔受け身の表現〕 …(古訓)さかひ、はかり、ほとり。 …(古訓)かほよし、わさはひ。 恢廓(かいろう)…わくを広げて大きくする。 大壮…六十四卦のひとつ。下が乾(☰)、上が震(☳)で、君主の道が勝つさま。 …(古訓)めくる。 …(古訓)つとふ、つらなる。 素朴…ありのままで飾り気がない。 …(古訓)すなをなり。 穴居(けつきょ)…穴の中にすむ。 習俗…世間一般のならわし。 …[指] これ。語調を転じて強調を表す。(古訓)これ。 大人(だいじん)…徳のある人。人格者。高い位にある人への尊敬の言葉。 …[名] 人民を抑えて取り締まるきまり。みことのり。(古訓)いましむ、ことはる、つくる。 …(古訓)のり、よし。 …[副] かりそめに。まことに。[接]いやしくも。(古訓)いやしくも、まことに、まこと。 いやしくも…[副] 少なくも。最低のことを条件とする場合に用いられる。 …(古訓)とくす。 …[名] ひじり。[形] かしこい。(古訓)さかし。[名・形] 天子のことにつける言葉。 …(古訓)もと、はしむ。 経営…(古訓)といとなむ。 …(古訓)あつし、のり、さいはい。 さきはひ(福)…[名] 神の恩恵。 …[名] 山のふもとに入り込んでいて、住むのに適した土地。(古訓)こえつち。〔「肥え土」の意か〕 隩区(おうく)…住むことのできる、奥まったところ。
《き・けり》
 ともに完了の助動詞であるが「き」は単純な事実の記録で、「けり」は現在から見た感慨・評価を伴う(「~ということなのであった」)。
《梗》
 古訓は「やましむ」の一例(『類聚名義抄』観智院本)だが、たまたまある文中で「止ま使む」と訓まれたに過ぎず、一般的な訓ではないだろう。 この字は「木の枝が硬い」様子を、「硬」の石偏を木偏に替えて表したと思われる。「」は(古訓)あらし、ふとし、こはし。なので、この訓を適用すべきであろう。
《中洲》
 うちつくに。七道に対して、五畿(山城、大和、河内、和泉、摂津)の範囲を畿内(うちつくに)と言う。ここでは大和平野を意味し、さらに中国における「中原(文明の先進地域)」の意味合いもあると考えられる。
《屯蒙》
 (汉典)[tún méng]「屯」卦和「蒙」卦的并称。万物初生稚弱貌。〔とんもう。屯卦【䷂】蒙卦【䷃】を合わせた呼び名。万物が生まれたときの若く弱い様。〕 六十四卦の屯(上が☵、下が☳)と蒙(上が☶、下が☵)は上下を反転させると同じ形になるので、まとめて「屯蒙」という。は「物が初めて生ず」、は「おろか」「おさなし」で物が生じた初めはおろかであるため、屯の次に置かれるという。 そこから考えると「運属屯蒙」は、人民が文明以前の原始生活を引きずっていることを意味すると見られる。
《巣棲穴住》
 巣の基本的な意味は、鳥の巣である。「盗賊の巣」のように、貶めて言うときにも使う。ここでは文脈から見て、人民の粗末な家を意味すると思われる。
 「穴住」については、記紀編纂期でも竪穴式住居が残り、掘立柱建造物への移行が完全に終わるのは畿内でも平安時代になってからだという。 古墳時代以後、新しい都を建設するたびに、竪穴式住居から住人が追い立てられることになる。
 よって、「巣棲穴住習俗惟常(民は巣居・穴居が常であった。)」 「夫大人立制(そもそも政府が都を造るために住民を追い出すことは)」 「義必隨時(必ず時代の要請に合致し、義があり)」 「苟有利民(少なくとも住民の利益になることだから)」 「何妨聖造(そのような聖なる造営が妨げられてなるものか)」 と、住民への言い訳とも強弁ともとれることを言うのである。
《上則答乾霊授国之徳下則弘皇孫養正之心》
 上下は川の流れのように一つにつながった上部・下部を表す場合は「かみ」「しも」とよむ。
 「」は、万葉集に「乾坤(けんこん)」に「あめつち」の訓があるように、天を意味する。六十四卦で、(䷀)は天、(䷁)は地を表す。
 この文は対句をなし、上(=天)の乾霊は皇祖(高皇産霊尊、天照大神)、下(=地)の皇孫は天皇のことである。 読みは「占いによって天神から与えられた答に則って国の徳を授け、皇孫による広め(=教え)に則って正しき心を養う」が一番意味が通るが、 「答乾霊」の語順では「乾霊による答」とは訓めないところが問題である。
 正しくは、「上は天神が授けた国の徳に応えさせ、下は天皇が養った正しき心を広めさせる。」である。不自然さは否めないが、これが文法に沿った解読である。
《徳》
 「」の主な意味は、①生まれついて持っている高い心。②人の道を基準にして自らを律する心。③恩恵。である。 古訓の「あつし」は①、「のり」は②、「さいはい」は③に近い。①②は神から与えられたものとして③に包含されると言えないこともないが、 「徳」と「幸い」が完全に同じとは言い難い。だから、「徳(とく)」が日本語として定着していったのは、必然であろう。
《畝傍山東南》
 橿原宮の位置は、書紀が書かれたころは特定されていたと思われるが、中世には伝承は途絶えていた。 江戸時代に、その地を探求する動きが起こり、 明治になり民間の運動が高まった結果、樫原神宮が明治23年(1890年)4月2日に創建された。 1938年には大規模な発掘調査が行われ、<wikipedia>縄文時代後期~晩期の大集落跡と橿の巨木が</wikipedia>発見された。
〈22〉
庚申年秋八月癸丑朔戊辰、天皇當立正妃、改廣求華胄、時有人奏之曰 「事代主神、共三嶋溝橛耳神之女玉櫛媛所生兒、號曰媛蹈韛五十鈴媛命。是國色之秀者。」 天皇悅之。 九月壬午朔乙巳、納媛蹈韛五十鈴媛命、以爲正妃。
〔庚申8月16日〕庚申(かのえさる)の年秋八月(はつき)癸丑朔戊辰(みづのとうしをつきたちとしつちのえたつのひ)、天皇[当]正妃(おほきさき)を立たさむとし、改め広く華胄(たふときこ)を求め、時に人有り[之]奏(まを)し曰はく 「事代主神(ことしろぬしのかみ)、三嶋溝橛耳神(みしまのみぞくひみみのかみ)之(の)女(むすめ)玉櫛媛(たまくしひめ)と共に所生(うみし)児(こ)、号(なづけ)媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)と曰ふ。是(これ)国色之秀(くににふたりなくひづる)者(は)や。」とまをしき。 天皇之を悦びき。 〔9月24日〕九月(ながつき)壬午朔乙巳(みづのえうまをつきたちとしきのとみのひ)、媛蹈韛五十鈴媛命を納(めあは)し、以て正妃(おほきさき)と為(な)せり。

華胄(かちゅう)…貴族の子孫・子弟。 …[名] ふいごう。風を送り出して火を起こす革製の袋。 たたら(踏韛)…[名] 大きなふいご。足で踏んで風を送る装置。
《媛蹈韛五十鈴媛命》
 記では、比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)という名で、父は大物主神となっている(次回―第100回)。
 事代主は大物主の子である。神代の一書では、その父は大物主・事代主の両説が併記されているが、書紀本文では事代主説を採用している。  (神代紀「素戔鳴尊自天而降到」の段の一書6。第69回の【一書六】(19)(20)の項参照)

【書紀:辛酉(58)年、神武天皇元年正月】
〈23〉
辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮、是歲爲天皇元年。
〔辛酉1月1日〕辛酉(かのとさる)の年春正月(むつき)庚辰朔(かのえたつのつきたち)、天皇[於]橿原(かしはら)の宮(みや)にて帝(みかど)の位(くらゐ)に即(つ)き、是の歳(とし)を天皇(すめらみこと)の元年(はじめのとし)と為(す)。

…(古訓)つく。
《天皇元年》
 書紀では、天皇ごとに即位した年を「○○天皇元年」として年号のように用いる。

【書紀―大意】
〈1〉
 〔戊午(つちのえうま)の年〕9月5日、天皇は菟田(うだ)の高倉の山頂に登り、国域を見渡しました。 すると、国見(くにみ)丘の上は、多くの猛(たけ)る族が占拠していたので、女坂(めさか)に女(め)軍を、男坂(おさか)に男(お)軍をそれぞれ配置し、墨坂(すみさか)に炭を赤々と燃やした灯台を設置しました。 女坂・男坂・墨坂の地名は、この故事によります。
 また、兄磯城(えしき)の軍がいて、磐余邑(いはれむら)いっぱいに布陣していました。 敵の拠点は皆要害の地なので、道路は完全に塞がれ、とても進軍できませんでした。 天皇は残念に思い、この夜自ら祈り寝たところ、夢に天神が現れ訓(おし)えがありました。いわく、
 「宜しく天香山(あめのかぐやま)の社の中の土を取り、それを用いてたくさんの天平瓮(あめのひらか)を造り、 併せて厳瓮(いつへ)を造り、天神地祇を敬い祭り、また稜威の呪詛をしなさい。これで敵はおのずから平伏することでしょう。」
〈2〉
 天皇は奇しき夢の訓えを承け、そうしようと考えていた時、弟猾(おとうかし)が参上し、次のように言上しました。
 「大和国の磯城邑(しきむら)に磯城(しき)の多くの猛る族がいます。また高尾張邑(たかおわりむら、ある資料には葛城邑(かつらきむら))に赤銅(あかかね)の猛る族がいます。 この輩は、皆天皇への戦に挑むつもりです。私は、おそらくは)天皇がこれを憂いているだろうとお察ししましたので、 宜く、これから天香山の埴土(はにつち)を取り、それを使って天平瓮を造り、天の社、国の社に神をお祭りください。然る後に敵を撃てば、容易く除くことができましょう。」
 天皇は、既に夢の言辞を吉兆と思われていたときに、重ねて弟猾の言葉を聞き、ますます心に喜びが溢れました。
 そこで椎根津彦(しいねつひこ)に弊(やぶ)れた衣服と蓑笠とを着用させて翁の姿にし、弟猾に箕を被らせ、媼(おうな)の姿にさせ、詔(みことのり)されました。
 「宜くお前たち二人は天香山に行き、密かにその頂上の埴土を取り、帰って来なさい。我らの偉業の成否は、まさにお前たちの行動が占なうものである。謹んで努力せよ。」
〈3〉
 この時、敵兵は路に満ち、往復は至難のわざでした。 椎根津彦はそこで、誓(うけひ)して申し上げました。「我らの天皇がこの国を平定できるのならば、行く路はおのずから通れるであろう。もし不可能ならば、敵は必ず我らを防禦するであろう。」と言い終え行きました。 すると、群がる敵は二人を見て大笑いし、「あな醜くや、翁、媼は。」と言いました。 そして敵兵は互いに通してやろうということになり、道を開き通らせました。二人は香具山に行き、埴土を採り帰ってきました。
 ここに、天皇は大いに悦び、この埴土を使って、多くの平瓮(ひらか)と、神聖な手づからの多くの厳瓮(いつへ)を作り上げ、 丹生川(にうかわ)の川上に登り、これを用いて天神地祇を祭りました。
〈4〉
 ところで菟田(うだ)川の朝原に、水泡のように、呪いが顕れるところがありました。天皇はここでも誓(うけひ)して祈りました。
 「我は今、八十平瓮(ひらか)を以って、水無しで飴(あめ)を造ってみます。もし飴ができれば、我は必ずしも刃の御稜威(みいつ)を借りずとも、天下を平らげられます。」
 そう言って飴を造ると、自然に飴ができました。さらに誓(うけひ)し、
 「我は今、厳瓮(いつへ)を以って、丹生之川に沈めます。 もし魚の大小を問わず悉く醉って流れ、槇(まき)の木の葉が水面に浮かんで流れるような様になれば、私は必ずこの国を治めることができましょう。もしそうならなければ、結局国を治めることはできないでしょう。」
 そして厳瓮を川に沈めると、魚は口を下に向け傾いたのち皆浮き上がり、水の間に漂い口をぱくぱくさせました。
〈5〉
 椎根津彦がこれを見て報告したところ、天皇は大いに喜び、ただちに丹生川の川上の五百(いおつ)真榊(まさかき)を抜き取り、諸神を祭りました。 これより、厳瓮を置くことを始められました。そして道臣命(みちのおのみこと)に詔(みことのり)し、  「今、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)が祖であることを以て、朕(ちん)自らをも顕(うつ)し身の神として祀るものとする。 お前を用いて斎主とし、厳媛(いつひめ)の名を授ける。また、そこに置いた埴瓮(はにへ)を厳瓮(いつへ)と名付け、 火の名を厳香来雷(いつのかぐつち)とし、水の名を厳罔象女(いつのみつはのめ)とし、 糧(かて)の名を厳稲魂女(いつのうかのめ)とし、薪の名を厳山雷(いかのやまつち)とし、草の名を厳野椎(いつののつち)とする。」  と定めました。
〈6〉
 10月1日、天皇は厳瓮の粮(かて)を嘗(な)め、兵を勒(ろく)し出陣されました。 先ず猛る族を国見丘に攻撃し、之を破り斬りました。この役(えき)においては、志は必ず勝つことだとし、次の歌を詠みました。
 神風(かむかぜ)の伊勢の海の大石にやい這ひ廻(もとほ)り 細螺(しただみ)の吾子 吾子 細螺のい這い廻り 撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ
 歌の心は、大石を国見丘に喩(たと)えたものです。
〈7〉
 とは言え残党なお多く、その考えは計り難く、ここまでを振り返って道臣命に詔しました。
 「貴公は、宜く大来目部を率い、忍坂邑(おさかむら)に大室(おおむろ)を作り、盛大に饗宴を設け、敵を誘って討ち取りなさい。」
 道臣命は、ここに密旨をお請けし、忍坂に穴室(あなむろ)を掘り自ら勇士を選び、敵と自らの兵士を混ぜて座らせ、期すところを内密にこう告げました。
 「酒宴の酣(たけなわ)の後、私は歌を起こす。お前たちは私の歌声を聞いたら、一時に敵を斬れ。」と。
 既に決めた通り酒宴が進行し、敵は味方の陰謀があることを知らず、心に任せて醉いが進みました。
〈8〉
 その時、道臣命は行動を起こし、このように歌いました。
 忍坂の大室屋に 人多(さわ)に入り居りとも 人多に来入り居りとも みつみつし 久米の子等が 頭椎(くぶつつ)い 石椎(いしつつ)い持ち 撃ちてし止まむ
 そして自軍の士卒は歌を聞き、一斉にその頭椎(くぶつち)の剣を抜き、一時に敵を殺しました。
〈9〉
 敵に今度こそ生き残る者はなく、皇軍は大いに悦び天を仰いで笑い、歌いました。
 今はよ 今はよ 嗚呼しやを 未だにも 吾子よ 未だにも 吾子よ
 今、来目部(くめべ)が歌の後に大笑いするのは、この由縁です。
〈10〉
 また、このように歌いました。
 蝦夷(えみし)をひだり 百(もも)な人 言(こと)は言へ雖も 手(た)向ひもせず
 このように皆が密旨を承け、やり遂げたのにこれを歌ったのは、敢えて驕らないよう自制したからです。 ここに天皇はこう仰りました。
 「戦に勝って驕らざるは、良き将兵の振る舞いである。 今や魁(さきがけ)の賊は既に滅んだ。だが同じ悪者は、まだまだ十群(むれ)以上あり、その考えは計り知れない。今の場所に長く留まっていてよいものか。このままで変を制すことができようか。」
 このように仰り、兵営を別処に移しました。
〈11〉
 11月7日、皇軍は大挙して、磯城彦(しきひこ)への攻撃に立ちました。 先ず使者を遣わし兄磯城(えしき)を徴(め)しましたが、兄磯城の命は承服しませんでした。さらに頭八咫烏(やたがらす)を遺わし召(め)させることにしました。烏は兵営地に到り、
 「天神の御子は、お前を召される。いざ、くゎー、いざ、くゎー。」と鳴きました。
 兄磯城はこれに怒り、言いました。「天圧神(あまおしのかみ)が来たと聞き、私が憤慨している時に、どうして、この烏はこのように悪い声で鳴くか。」と。 そして弓をひいてこれを射て、烏は避け飛び去りました。次に弟磯城(おとしき)の家に行き、このように鳴きました。
 「天神の御子は、お前を召される。いざ、くゎー、いざ、くゎー。」と。
 その時、弟磯城はかしこまり、表情を改めて言いました。「私は天圧神がいらっしゃったとお聞きし、朝に夕にに畏(かしこ)みお喜びしております。善いものだ、烏や、お前が鳴くこと、このようで〔麗しい声で〕あろうとは。」と言い、 葉盤(ひらで、柏葉の皿)八枚を作り、食物を盛りもてなしました。 そのようにして烏に隨い参り、このように申し上げました。
 「私の兄、兄磯城は、天神の御子がいらっしゃると聞き猛る衆を集め兵甲を準備し、決戦に臨もうとしています。早く対策を図るべきです。」
〈12〉
 天皇は諸将と会見し、こう問われました。
 「今、兄磯城には案の定逆賊の意図があり、召集しても来ようとしない。これをどうしたものか。」と。
 諸将はこのように申し上げました。「兄磯城は逆賊です。 宜く、先ずは弟磯城に諭させ、同時に兄倉下(えくらじ)弟倉下(おとくらじ)に説諭させるべきです。それでも帰順しなければ、しかる後に挙兵して臨んでも遅くないでしょう。」と。
 そこで、弟磯城に利害を説明させました。ところが兄磯城はなお愚な謀略に固執し、敢えて承知しませんでした。 そこで、椎根津彦は計略を練りこう申し上げました。
 「今宜しいのは、先ず我が女(め)軍を、忍坂(おさか)の道から出撃させます。敵はこれを見て、必ず精鋭が挙って攻めてくるでしょう。 我が軍は最強部隊を差し向け、まっすぐ墨坂を目指し、菟田川の水を取りその炭火に注ぎ、直ちに敵の不意を突けば必ず破ることができるでしょう。」
 天皇その策を褒め、すぐに女軍を出撃させて臨まれました。敵は大軍が来てしまったと言い、互いに力を尽くして持久戦となりました。 この時までに、皇軍は攻めれば必ず取り、戦には必ず勝ちましたが、介冑をつけて連戦を重ねた兵に疲弊が無いとは言えませんでした。
〈13〉
 そこで、暫し歌詠みをされ、将卒の心を慰労しました。その御歌がこれです。
 盾並めて 伊那佐の山の 木の間ゆも い行き守らひ 戦かへば 吾はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が伴 今助けし来ね
 果たして男(お)軍は墨坂を越え、後ろから挟撃して破り、その梟猛る兄磯城たちを斬り殺しました。
〈14〉
  12月7日、皇軍は遂に長髄彦を攻撃し連戦を重ねましたが、勝利には至りませんでした。 ある時、忽然と天がかき曇り氷雨が降り、金色の霊(くすし)鵄(とび)が飛んで来て、天皇の弓の先端の弭(ゆはず)に止まり、その鵄は光り曄煜(かがや)き、稲光のようでした。 これにより、長髄彦の士卒は悉く眼が眩み、再び戦おうとしても力が入りませんでした。
 長髄(ながすね)は、元々この邑の名で、そこからまた人の名となりました。 皇軍が鵄の瑞祥を得るにおよび、当時の人は鵄邑と名付け、今鳥見(とみ)と言うのはこれが訛ったものです。
〈15〉
 昔、孔舍衛(くさか)の戦に、五瀬命(いつせのみこと)矢に当たって薨(こう)し、天皇はこれがずっと心に残り常に憤恨を抱いていたところこの役に至り、心の底から根こそぎ誅殺しようと思い、 歌詠みしました。その御歌は、
 みつみつし久米の子等が垣下に 粟生には香韮一本 苑が下 そ根芽継なぎて 撃ちてし止まむ
〈16〉
 また歌詠みしました。
 みつみつし久米の子等が垣下に植ゑし山椒(はじかみ) 口びひく 我は忘れじ 撃ちてし止まむ
 このようにして、幾度も恣(ほしいまま)に兵卒が忽(たちまち)に攻め、これらの諸々の御歌は、みな久米歌(くめうた)と言います。これは歌い手〔=久米部〕に宛ててつけた名前です。
〈17〉
 時に、長髄彦は人を遣わして天皇に説きました。
 「かつて、天神の御子が、天磐船(あめのいわぶね)に乗り天降りしてこの地に留まり、その名を櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)と申します。 そこで私の妹、三炊屋媛(みかしやひめ)別名は長髄媛(ながすねひめ)、また鳥見屋媛(とみやひめ)を娶り子息をもうけ、名を可美真手命(うましまてのみこと)と申します。 そこで、私は饒速日命を君としてお仕え申し上げました。 さて、天神の子がどうして二種あるか。どうして〔すでに天神の子がいるのに〕さらに天神の子を称して人の地を奪うのか。私がいくら考えても、どうしても納得がいきません。」
 天皇は「天神の子が多すぎるのは確かである。お前が君に奉ずる者が、真実の天神の子ならば、必ずそれを表す物があるだろう。それを互いに見せ合おうではないか。」と仰りました。
〈18〉
 長髄彦は、そこで饒速日命の天羽々矢一隻(いっせき)と歩靫(かちゆき)を持たせ、天皇に奉じて示しました。 天皇はこれを御覧になり「これは、虚(いつわり)のものではあるまいな。」と仰り、 引き換えに、天皇所蔵の天羽々矢一隻と歩靫を預けられ、長髄彦に示しました。
 長髄彦はそこに見える天の表れを見て、内心は一層かしこまりましたが、既に武備を整え戦闘への勢いを中断できなくなっていたので、なお混迷した計画に固執し心を改めることができませんでした。 饒速日命は、以前から天神は唯一人の天孫〔=天皇〕に懇(ねんご)ろに関与していることを存じあげておりました。 また、例の長髄彦は生まれながらに理(ことわり)にもとると見て、天人の際(きわ、心構え)を教えようとして成らず、ついに長髄彦を殺し、その勢力を自ら率いて天皇に帰順しました。 天皇は、元々鐃速日命は天降りした者であり、このたび天皇への忠に効(なら)う立場を果たすと聞き、褒めて愛でました。鐃速日命は物部氏の遠い祖先であります。
〈19〉
 己未(つちのとひつじ)年2月20日、諸将に命じて、士卒を鍛錬させました。 この時、層富県(そふあがた)の波哆丘岬(はたおかさき)に、新城戸畔(にひきとへ)が、 和珥坂下(わにのさかもと)に、居勢祝(こせのほうり)が、 臍見長柄(ほそみながら)丘岬(おかさき)に、猪祝(いのほうり)があり、この三か所の土蜘蛛(つちくも)はどれも猛るばかりで、天皇の許に来ようとしませんでした。 天皇はそれぞれに軍を分けて派遣し、悉く誅殺しました。
 また高尾張邑(たかおわりむら)に土蜘蛛がいて、その人の姿は背丈は短く手足が長く、侏儒(しゅじゅ〔小人〕)と似ています。 皇軍は葛製の網を張って待ち構えて抑え込んで殺し、よってその邑の名を改め葛城(かつらき)としました。 先に述べた磐余(いわれ)の地は、旧名を片居(かたい)または片立(かたたち)と言い、 我らが皇軍が敵を破るに至ったとき、大軍が集まりその地に満ちたので、名を改め磐余(いわれ)としたものです。
〈20〉
 これには別説があり、天皇がかつて〔前年10月1日〕厳瓮(いつへ)の粮(かて)を嘗め、皇軍を出陣させたとき、磯城の猛る軍勢が、そこに満ちました(古語で、屯聚居;いはみゐと言います)。 そして天皇が大戦に与(あづか)り、遂に皇軍に滅ぼされました。そこで磐余邑(いわれむら)と名付けられたも言われます。
 また皇軍が立たして雄叫びをあげたところは、猛田(たけだ)と名付けられました。城〔古語で「き」〕を作ったところは、城田(きだ)と名付けられました。 さらに敵の洲が戦死して横たわった屍(しかばね)が、肘を枕にしていた場所は、頬枕田(つらまきた)と名付けられました。 天皇は前年の9月に、天香山の埴土を密かに取り、それを使って多くの平瓮(ひらか)を造り、 自ら斎(いつ)き慎み諸神を祭り、とうとう天下を安(やす)んじ定めることができたので、埴土を取った地を埴安(はにやす)と名付けました。
〈21〉
 3月7日、下々に詔を発しました。
 「朕、東征に発ってここに六年、皇(すめら)の天の御稜威により、凶徒は誅殺された。 辺境の地は未だ清められず、妖(わざわい)を残しなお難(かた)き地であるが、中洲の地は再び風塵が立つことはない。誠に宜く皇都を恢廓(かいこう〔拡大〕)し、規模壮大にすべし。 しかるに今、時はめぐったが屯蒙(とんもう〔未開〕)のまま、民の心は素朴で粗末な家や穴に住み、習俗はこれを常とする。 ここに君主が制度を定めるにおいて、義は必ず時代の流れにあり、苟(いやしく)も民の利になることであれば、どうして聖なる造営を妨げることがあろうか。 また、山林を開き樹木を払い宮殿を経営し、かくて慎んで宝位に臨み、大本を治めることによって始めるものとする。 上には天神に授けられた国の徳に答え、下には皇孫に養われた正しい心を広めよう。 しかる後に、六合(りくごう〔天下〕)を束ねて都を開き、八紘(はっこう〔天下〕)を覆って宇(う〔家〕)とすることは、また不可能ではない。 このたび畝傍(うねび)山の東南の橿原(かしはら)の地を観れば、けだし国の墺区(おうく〔豊かな土地〕)であり、この土地で治めることとしよう。」
 この月、詔により司を任命し、帝宅の運用を始めました。
〈22〉
 庚申年8月16日、天皇は正妃を立てることを望み、改めて広く華胄(かちゅう〔高貴の家の子女〕)を求め、その時ある人が奏上し、
 「事代主神(ことしろぬしのかみ)、三嶋溝橛耳神(みしまのみぞくひみみのかみ)の娘、玉櫛媛(たまくしひめ)との間に生まれた子の名を、媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)と申します。これが絶世の美女にございます。」と申し上げました。
 天皇は、これを悦びました。
 9月24日、媛蹈韛五十鈴媛命を娶られ、もって正妃となされました。
〈23〉
 辛酉年正月1日、天皇は橿原(かしはら)宮にて帝位に即(つ)き、この年を天皇の元年と定めました。


【戦跡の比定地】
 神武天皇紀には記とは異なり、多数の地名が登場する。
《地名の信頼性》
  ほぼ特定され得る…忍坂〔桜井市忍阪(大字)〕鳥見〔桜井市外山(大字)、鳥見山〕磐余邑〔東池尻・池之内遺跡〕天香具山埴安畝傍山
  比較的近いと思われる…墨坂〔墨坂神社〕丹生川上〔丹生川上神社(中社)〕朝原〔宇陀市榛原雨師〕和珥坂下〔奈良県天理市和爾町〕
  県(あがた)名・郡名として後世まで残るが、範囲が広すぎて特定できない…磯城邑〔志貴県→式上郡・式下郡〕層富県波哆丘岬〔曽布県→添上郡・添下郡、山辺郡神波多神社〕葛城邑〔葛木県→葛上郡・忍海郡・葛下郡〕猛田〔猛田県→宇陀郡〕
  明治以後の比定地(確かな根拠に欠ける)…高倉山国見岳男坂女坂臍見長柄丘岬城田頬枕田橿原宮
 の磐余については、万葉集に磐余池が、また書紀には天皇の宮として言及され、またその堤の発掘により完全に正確である。 また、天香具山も万葉集に頻繁に登場した後、その地の住民が現代に至るまで、その山を天香具山と呼んできたことに疑う余地はない。 このように記紀編纂期から現代まで連続している地名がある一方、のように既に不明になったものもある。
《多数の地名を挙げる意義》
 前項の①があることから、記紀編纂時には、④までも含めて、実在したと見てよいだろう。 これらは戦跡巡りの観光案内のような様相を呈するが、「この場所で、こんなことがあったのです」と示すのは、聞く人の心に実在感をもたらす。 書紀の目的は、国の統治のために天皇の権威を高めることだから、その出発点となった初代の業績を、自分の目で見て来たように描くことは絶大な効果を発揮する。
 神武天皇紀のこの機能は、昭和15年(1940)の「紀元2600年」の神武事跡顕彰運動をピークとして蘇り、国民の精神を無謀な戦争に向かって統合するために見事に再利用されたのである。
《三諸山には戦火は及ばない?》
 三諸山(三輪山)あるいは大神神社の地は、神武天皇と決して無関係ではない。 正妃とした媛蹈韛五十鈴媛命は、記紀では、三諸山の神である大物主(あるいはその子の事代主)を父とする。 また、崇神天皇紀に登場する倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)は、大物主と関わりがある。
 しかし、何故か三諸山の辺りが戦場になったとは書かれない。どうも、ここは武力で私物化することが許されぬ、神聖な地であった気配が感じられる。 天孫族が磐余に進出するずっと以前から、三諸山は信仰の地であったと考えられている。あるいは、神武天皇でさえひれ伏すような霊力の場所ではなかろうか。
 なお、第96回(書紀本文〈4〉)では饒速日が大物主が姿を変えたものという仮説を提案した。 それに従えば、饒速日=大物主は天孫に仕える存在となり、神武天皇はどうにか面目を保つこととなる。

【記との相違点】
 神武即位前紀は基本的に記の内容を中核として、それを各地の戦闘で粉飾する(前項)。しかし、記を敢えて変更した箇所もある。
《道臣命の活躍》
 第97回の【書紀(2)】で道臣命が「頭八咫烏が郷導者を務めようとするところに、割り込んできた」と書いた。 今回もまた幅を利かせ、記では天皇自身が行った土蜘蛛の討伐を、道臣命が請け負っている(上記〈7〉)。 また、必勝祈願の祭事では斎主を務めた。
 道臣命の戦果に対して、天皇は「戦勝而無驕者良将之行也〔戦に勝って驕らざるは良将の行ひである〕との言葉を与える。これは褒め言葉を装って、実は「思い上がるなよ」と釘を刺しているのである。
 また道臣命が久米部を率いると書くのは、この箇所で3回目だが、これからも即位のところで書かれ、全部で4回もある。これは大伴氏が自ら改竄したか、圧力をかけて書き加えさせたと見られるが、このくどさは度を超している。 天皇が「思い上がるなよ」と釘をさす部分は、反大伴勢力が反撃に出て書き加えたのであろう。
《鐃速日命の天降り》
 鐃速日命は、記では後から降りてきたことになっている。ところが、書紀では天孫に先だって降りてきている。 これは大きな変更である。記の完成後に、物部氏から「我々の言い伝えでは、祖神は天孫より以前に降りてきた」という申し出があり、書紀でそれが認められたという経過が想定される。
《歌の再構成》
 基本的に書紀では記の歌を解釈し直して、物語の流れに組み入れている。
 (忍坂で土雲を討つ)→〈8〉(記と同じ)。
 (粟畑に香韮一本)→〈14〉(五瀬の命を悼む心情の表現とする)。
 (山椒の辛さ)→〈15〉(戦闘で苦労する心情)。
 (伊勢の海に巻貝)→〈6〉(国見丘の敵を討つ場面)。国見丘の戦闘は書紀で追加された。
 (兄師木を討ち、弟師木を討ちに行く前に空腹を訴える)→〈13〉(兄磯城への攻撃を小休止し、休憩後再び兄磯城を攻める)。書紀では記と異なり、弟磯城は味方に就く。
 書紀で追加した二歌→〈9〉〈10〉(勝って驕らず)。道臣命は土蜘蛛の討伐を成し遂げたが、独走は許されず天皇への忠誠を求められる。

まとめ
 事実を表現するときの、必要十分な要素は5W1H(いつ、どこで、だれが、なにを、なぜ、どのようにして)と言われる。 神武即位前紀の戦闘は、そのように書かれた。書紀は、直接的には膨張する唐の脅威の前に、諸族の集合体であった国内をまとめようとするのが動機になっている。 軍事的な構えをとるとき、神の御稜威に裏付けられ、5W1Hを備えた神武紀を読み返せば、戦闘意欲が大いに高まったことであろう。
 すでに天皇に恭順した朝廷の官僚や諸族の王にとっては、その始祖の事跡はより詳しく書かれるほど、信仰心が高まるのである。 しかし、一般の庶民にとっては自分の国の主は天皇だという意識がまだ薄く、神武紀の戦闘場面のようなものがいくら詳細に書かれても全く興味を引かないだろう。 古事記の目的は、まさにそのような層の人々の教化である。従って、記に於いては皇軍の詳細な戦闘はばっさりと削除し、 「如此言向平和荒夫琉神等退撥不伏人等〔この如く荒ぶる神等を言向け平和(やは)し、伏さざる人等を退撥(しりぞ)け〕のたった17文字に縮小された。 記の完成は書紀に先行しているが、作成中の書紀の内容は、当然記の著者にも伝わっていたであろうから、その上での判断である。
 さて、神武紀は、それから1100年後の幕末、列強の脅威に直面した時期に再び日の目を見た。そしてその5W1Hの書法が威力を発揮し、明治政府による国家構築の精神的な土台となる。 さらに日中開戦を経て、太平洋戦争開戦直前の「紀元2600年」(1940)をピークに大々的に利用される。 神武天皇の事跡にいちいち顕彰碑が建てられ、神話があたかも歴史的事実のように教育され、「撃ちてし止まん」が戦争遂行の標語となる。 そして国は破滅への道を歩んだ。
 書紀との苦い関わりは決して過去のことではなく、2015年の時点でまた亡霊が蘇っているように見える。 神武紀の4度目の利用は、決してあってはならない。


[100]  中つ巻(神武天皇5)