| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
⇒ [095] 上つ巻(山幸彦海幸彦8) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2015.02.19(木) [096] 中つ巻(神武天皇1) ▼▲ |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
神倭伊波禮毘古命【自伊下五字以音】與其伊呂兄五瀬命【伊呂二字以音】
二柱坐高千穗宮而議云 坐何地者平聞看天下之政 猶思東行 卽自日向發幸行筑紫 故到豐國宇沙之時 其土人名宇沙都比古宇沙都比賣【此十字以音】 二人作足一騰宮而獻大御饗 自其地遷移而於筑紫之岡田宮一年坐 神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれひこのみこと)【「伊」自(よ)り下(しもつかた)五字(ごじ、いつな)音(こゑ)を以(も)ちゐよ。】与(と)其の伊呂兄(いろせ)五瀬命(いつせのみこと)【「伊呂」二字(にじ、ふたな)音を以ちゐる】 二柱(ふたはしら)高千穂宮(たかちほのみや)に坐(ましま)して[而]議(はか)りて云(のたま)ひしく、 「何地(いづく)に坐(ましま)せば[者]天下(あめのした)之(の)政(まつりごと)を平(たひら)げ聞看(きこしめ)すや。猶(なほ)東(ひむがし)へ行(ゆ)かむと思(おも)ほす。」とのたまひき。 即(すなは)ち日向(ひむか)自(よ)り発(た)ちて、筑紫(つくし)に幸行(いでまし)き。 故(かれ)豊国(とよのくに)の宇沙(うさ)に到りたまひし[之]時、其の土人(くにのひと)、名は宇沙都比古(うさつひこ)宇沙都比売(うさつひめ)【此の十字(じふじ、とをな)音を以ちゐよ。】 二人(ふたり)足一騰宮(あしひとつあがりのみや)を作りて[而]、大御饗(おほみあへ)を献(たてまつ)りき。 其の地(ところ)自(よ)り遷移(うつりうつ)りたまひて[而][於]筑紫(つくし)之岡田宮(をかたのみや)に一年(ひととせ)坐(ましま)しき。 亦從其國上幸而上幸而於阿岐國之多祁理宮七年坐【自多下三字以音】 亦從其國遷上幸而於吉備之高嶋宮八年坐 故從其國上幸之時 乘龜甲爲釣乍打羽擧來人遇于速吸門 爾喚歸問之 汝者誰也 答曰 僕者国神 又問 汝者知海道乎 答曰 能知 又問 從而仕奉乎 答曰 仕奉 故爾指渡槁機引入其御船 卽賜名號槁根津日子【此者倭國造等之祖】 亦(また)其の国従(ゆ)上(のぼ)り幸(いでま)して[而][於]阿岐国(あきのくに)之(の)多祁理宮(たけりのみや)に七年(ななとせ)坐(ましま)しき【「多」自り下三字(さむじ、みつのな)音を以ちゐよ。】。 亦其の国従(ゆ)遷(うつ)り上り幸(いでま)して[而][於]吉備(きび)之高嶋宮(たかしまのみや)に八年(やとせ)坐しき。 故(かれ)其の国従(ゆ)上り幸(いでま)しし[之]時、亀(かめ)の甲(かふ。よろひ)に乗りて釣(つり)を為(し)乍(つつ)打ち羽挙(はねあ)げ来(きた)る人と[于]速吸門(はやすひのせと)に遇(あ)ひて、 爾(しか)るがゆゑに喚(め)し帰(かへ)りて[之を]問ひたまはく「汝者誰也(なはたそ)」ととひたまひて、答へて曰(まを)ししく「僕者(やつかれは)国神(くにつかみ)なり。」とまをしき。 又問ひたまはく「汝者(なは)海道(うみぢ)を知る乎(や)」ととひたまひて、答へて曰さく「能知(よくしりまつる)。」とまをして、又問ひたまはく「従(したが)ひて[而]仕奉(つかへまつ)る乎(や)。」ととひたまひ、答へて曰さく「仕奉(つかへまつ)らむ。」とまをしき。 故爾(しかるゆゑ)に槁(さほ)機(はた)を指渡(さしわた)し其の御船(みふね)に引き入れたまひて、即ち名を賜(たまは)り槁根津日子(さほねつひこ)【此者(こは)倭(やまと)の国造(くにのみやつこ)等(ら)之(の)祖(おや)なり。】と号(なづ)けたまひき。
故從其國上行之時經浪速之渡而泊青雲之白肩津
【比定地】 《足一騰宮》 宇佐市の稲垣に「一柱騰宮」があったと伝えられ、 その地に創建されたとされるのが、妻垣神社(大分県宇佐市安心院(あじむ)町妻垣、天平神護元年(756年)創立)。同神社の由緒書に、足一騰宮の言及がある。 <『国東半島かぜ発信』/「宇佐八ヶ社めぐりの旅」引用の『妻垣神社由緒記』>神武天皇御東遷の砌(みぎり)、宇佐国造の祖、菟狭津彦の処に宮殿を建立、奉饗せる旧跡で当時、天皇、天種子命を以て神武天皇の母后玉依媛命を祭らせ給う。</引用終わり> 天種子命については、【書紀―速吸之門~筑紫国】の項参照。 妻垣神社本殿から妻垣山(共鑰山)の八合目にある「足一騰宮」は、社殿はなく磐座である。祭神は比咩大神(=玉依姫命)とされるが、磐座は社を建てる以前の祭祀場で、どのくらい古代まで遡るか分からない。 ただし磐座に足一騰宮の名を宛てたのは後付けで、本当の「足一騰宮」は古代の柱一本の建築を指すかも知れない。しかし、それがどんな形をしていたかは想像不可能である。 《岡田宮》 福岡県北九州市八幡西区岡田町に岡田宮(おかだぐう)がある。 <wikipedia>崗地方(旧遠賀郡)を治めた熊族が洞海菊竹ノ浜(貞元)に祖先神を祀ったのが始まり</wikipedia>とされる。 《多祁理宮》 広島県安芸郡府中町に多家神社(たけじんじゃ、明治6年(1873)創立)がある。 <wikipedia>多祁理宮(『古事記』)あるいは埃宮(『日本書紀』)の跡に創祀。中世には武士の抗争により社勢が衰退し、所在がわからなくなった。</wikipedia> 「松崎八幡宮」と「総社」が互いに自社が多祁理宮・埃宮の伝統を引き継ぐと主張して譲らず、結局両者を廃して多家神社を創始したという。 《高嶋宮》 論社(候補に上げられて論議されている社)は備前・備中・備後に多数あり、決着はついていない。 そもそも「論社」とは何か考えてみると、「神武天皇が訪れた」ことは完全なフィクションであるから、議論の本質は記紀が書かれた時点で、どの社を伝説の社として定めたのかということに尽きる。 《速吸門》 速吸名門(はやすひなと)第42回で、次生海の段一書10を読んだときに、この件を考察した。 書紀では豊予海峡を、記では明石海峡を指すと思われる。以後一般には、豊予海峡の別名とされている。 《白肩・日下》 現在の東大阪市のあたりは内海であったと考えられ、河内湾と呼ばれている。蓼津は東大阪市の盾津地域だと考えられている。 白肩は後の枚方だとも言われるが、現代の枚方市の位置は弥生時代でも海岸から離れている。 書紀では、〈11〉で草香(くさか)邑(むら)にあったとされる。 《男水門》 【書紀―皇軍の進路変更】 《山城水門》の項参照。 《竈山》 竈山(かまやま)神社が和歌山県和歌山市和田にある。 竈山墓は、<wikipedia>竈山神社の本殿後背にある円墳で、明治9年(1876年)に(明治政府によって)彦五瀬命の墓に治定された</wikipedia>という。 927年の『延喜式』には、紀伊国名草郡に「竈山神社」が記載されているという。 【乗亀甲為釣乍打羽挙来人】 突然不思議な人がやってくる。「打羽挙」は意味不明である。 続く問答で、海の難所に精通した航海者であることが明らかになり、竿を指し出し端を持たせ、御船に迎え入れる。 亀に乗って現れる部分は書紀の編者にも意味不明だったようで、書紀では「珍彦」の名で亀の甲ではなく漁船に乗っている が、記での登場の仕方は「珍彦」の名に相応しい。 「うち」は接頭語で、もし「羽を挙げる」なら、普通は「打挙羽」の語順のはずである。 古語辞典を探すと「はぐ」、意味は「①羽を箭竹(やだけ)にはめる。②矢を弓につがえる」があるが、ここでは意味をなさない。 羽を「はね」の借訓とすれば、「水を撥ね挙げ」で一応意味は通る。亀に跨って激しい潮流の海を進むと、水しぶきが上がるのである。 「はね」については他にも、大国主が使者の饗応のために鱸(すずき)を釣り上げたところで、「尾翼」が「をはね(撥ね)」の借訓と見られる(第80回)例がある。 釣竿を持ち亀に載ってやって来る姿は、浦島太郎を連想させる。万葉集には(万)1740 墨吉之 岸尓出居而 釣船之 (中略) 水江之 浦嶋兒之 すみのえの きしにいでゐて つりぶねの (中略) みづのえの うらしまのこが。 がある。この歌は、詠み人が墨吉の岸から釣り船に乗って出かけたとき、浦島伝説が心に浮かんだという内容である。 墨吉は大阪湾に面した土地なので、ここにも浦島伝説が広まっていたかも知れない。 よって皇船が明石海峡に到着した場面で、浦島伝説に引っかけて登場したとも考えられる。 ということは、書紀はこれが浦島太郎のパロディーであることを理解していて、速吸門を豊予海峡に移したから削除したと考えることもできる。 【槁機】 槁は乾燥して固化した木である。書紀では槁と字形が類似する、㰏(篙)(さお)が使われる。 機(はた)は、端(はた)の借訓と見られる。書紀も端(はし)だと判断したようで、「末(すゑ)」となっている。 【浪速の渡】 「わたり」は水路を横切って向こう岸に至ることであるが、ここでは船が湾の奥に向かう途中であるから、湾の入り口の水路を意味する。 干満の際、激しい水流が生ずるのが「なみはや」の由来であるという。(【書紀―筑紫国~河内国】の項(10)参照) 【取所入御船之楯而下立】 「所入御船之」は楯を連体修飾する。「所」と組み合わせて使われる「之」は多くの場合完了の助動詞「き」の連体形「し」を示すので、 「出航時に船に積み込んだところの」と解釈するのが一番文法に合っている。 つまり、白肩津で上陸したものの、待ち構えていた登美能那賀須泥毘古の軍の攻撃を受け、上陸地まで押し戻され、 船に積み込んであった楯を降ろして立て、防禦に努めたのである。書紀では、もう少し内陸まで進軍するが(【書紀―中五瀬命の負傷】の項〈12〉参照)、 結局は船まで戻って楯を立てる。 「楯を」は防禦体制を象徴的に表すもので、『出雲国風土記』の「楯縫郡」の項には、所造天下大神(大国主)が宮殿内に撤退したときに、宮殿に楯を装備する記述がある(第63回参照)。 【負登美毘古之痛矢串】 「矢串(やくし、やぐし)」という語は辞書にはないが「矢が貫通すること」と解釈すれば、この部分はすんなり「登美毘古の痛き矢串(やぐし)を負ひ」と読めるので、恐らくその意味であろう。 この文は素朴で、本来なら「負於登美毘古所串之痛矢」(登美毘古に串(つらぬか)れし痛き矢を負ひ)などと書かれるところである。 【向日而戦不良】 「吾者為日神之御子」という表現から、天照大御神は太陽神であると考えられていたことが分かる。 日の出には神聖な威力があり、それに向かっていけば必ず負けるから、日の出を背負って戦えというわけである。 遣隋使が持参した親書の言葉「日出処天子致書日没処天子(日の出づる処の天子、日の沈む処の天子に書を致す)」を彷彿とさせる。 あるいは、「向日の国の逆賊は、日の出を背にした朝廷軍に必ず負ける」を暗示しているのかも知れない。 【血沼海】 茅渟(ちぬ)は大阪湾である。弥生時代にしばしば海戦があり血が流されたことが、本当に語源だったのかも知れない。 【紀国男之水門】 書紀の項で見るように、「をのみなと」は泉南市にある。泉南市の位置は、和泉国の日根郡の中である。 倭名類聚抄では、和泉国日根郡に「呼唹【乎】」すなわち「を」の郷があるので、これが「をのみなと」の「を」だと思われる。 紀伊国で、その近辺にあるのは那賀(なか)郡と名草郡であるが、「を」に繋がる地名は見つからない。飛鳥時代にはこの地域まで紀伊国だったかも知れないが、真相は今のところ不明である。 【五瀬命の地位】 無論五瀬命は、無念の雄叫び「いやしき奴の手を負(お)ひてや死ぬる。(賤しい奴の手にかかって死んでゆくのか)」を"詔"(の)たまった。 五瀬命は天皇並みに扱われているのを示すのは、①「詔(のたま)ふ」を用い、②その死は「崩」と表記され、③陵が言及される(天皇以外では倭建命、神功皇后ぐらいである)ことである。 とすれば「吾者為日神之御子」以下の詔も、元々は五瀬命が発したものかも知れない。なぜなら、「故負賤奴之痛手」の言葉は、矢を受けた本人が言ったとも取れるからである。 記の原資料では、もともと王になったのは五瀬命で、不運にも戦死したので弟が後を継いだという筋書きだったのかも知れない。 【東遷の経路】 魏志倭人伝の時代(3世紀)は、北九州から山陰が倭国の先進地域で、海上交通路は日本海側であった。 時代が下り、『隋書』によると、皇帝は遣隋使の返礼に608年、裴世清を倭国に遣わした。 裴世清は対馬、壱岐などを経て「至竹斯国、又東至秦王国、又経十余国、達於海岸。自竹斯国以東、皆附庸於倭。」 つまり、筑紫国、秦王国(はたおうこく?比定地不明)など十数か国は倭政権の支配下にある。(「附庸」とは、正統な皇帝にではなく、地方政権に朝貢すること。中華思想による見方である) 「倭王遣小德阿輩臺,從數百人」倭王(天皇)の使者は数百人を従え上陸地で出迎え、「設儀仗、鳴鼓角来迎」つまり儀仗兵と音楽隊で大歓迎した。「後十日、又遣大禮哥多毗、從二百餘騎郊勞。既至彼都、其王與清相見」十日間逗留後、使者は二百余騎を従え郊外で労いの宴で迎え、都で王(天皇)は裴世清と接見した。 つまり、裴世清の上陸地は都に近いと考えられるので、恐らく大阪湾岸である(難波津と言われる)。仮に日本海側、例えば鳥取方面に上陸したのなら、長い日数をかけ陸路を通行した記事があるはずで、山を越えて大音楽隊を派遣するのも困難だったであろう。 そのような訳で、飛鳥時代には、九州と畿内を結ぶ主要な交通路は、瀬戸内海である。 従って神武東征が飛鳥時代における創作だとすれば、東征の経路は当然瀬戸内海となる。 しかし、古代の天孫族の東征が事実で、その記憶を反映しているのであれば、日本海王国の支配下にあった山陰を避け、山陽を進んだと解釈できる。後述するように、民族の伝承には数世紀前の出来事が痕跡を残している可能性がある。 《書紀における速吸門の位置の変更》 記紀における東征の経路は、速吸門を除いて一致する。しかしだからこそ、速吸門の位置の変更には特別の重大な事情があったとも言える。 記を見ると、出発地は高千穂だと書いてある。高千穂はこれまでに考察してきたように、もともと阿蘇山周辺の「ちほ」だった可能性がある。 その裏付けは、「猶思東行」に「猶」が入っていることである。薩摩半島から始まり阿蘇地方を征服、または当地の氏族と融合し、既に一定程度国を広げてきたからこそ、「なお東へ広げたい」という表現になる。 その経路だと、岡田の宮までは内陸を通ったと考えられる。書紀のように水行したとすると、安心院の妻垣は内陸すぎる。 それに対して、書紀説のように最初に豊予海峡を通ったとすれば、最初から海路で、出発地は志布志湾から宮崎市あたりと想定される。 前方後円墳の分布(志布志湾岸、宮崎市西都原)から見て、倭政権側の拠点は日向灘に面した東岸である。 これまで見て来たように、奈良時代には南九州の制圧が重要な課題であった。政権が薩摩・大隅方面を攻撃するための軍の船団は瀬戸内海から豊予海峡を通り、 志布志湾岸あるいは西都原から上陸するコースが考えられる。その逆順を神武東征の経路としたわけである。 このようにして、「高千穂」を霧島連峰辺りに設定すれば、 神聖な天孫降臨の地を奪還するという口実が生まれ、大義名分を掲げて制圧に向かうことができる。つまり書紀は、皇軍に豊予海峡を通させることにより、高千穂が霧島連峰だと示したのである。 またこれが、高千穂の伝承地が2説生まれた原因であろう。
【旧河内湾】 生駒山の西側の平野は縄文時代には海になっていて、河内湾と呼ばれる。 その後古墳時代には湾口がほとんど塞がれ、淡水湖(河内湖)になっていたという。 となれば、激しい浪速の渡りの激しい潮流を経て、白肩津や蓼津に船をつけた話が残ったのは、弥生時代以前の地形が民族の記憶として(=言い伝えとして)残っていた訳である。 だから、古事記には、飛鳥時代から400年以上前の記憶が反映している可能性がある。 弥生時代に「やまといはれひこ」の名前があったとはさすがに考えられないが、「大昔に『なみはやのわたり』を通って西からやってきた王があり、たてつで激戦になった」という程度の話は残っていても不思議ではない。 「たでつ」という地名は、実際にそこが「つ」だった時代についたことになる。 とすれば「つ」という語は弥生時代(3世紀中ごろまで)に存在したことになる。魏志倭人伝(3世紀の見聞による)の「対馬国」は「つしま」で(隋書の表記は「都斯麻国」)、すでに「つ」(港)の島であったのだろう。「つ」の起源がここまで遡るのなら、同じく魏志倭人伝の「卑奴母離」もやはり「鄙守」であったと思われる。
神武1目次 《甲寅年(51)》 記で「議云『坐何地者平聞看天下之政、猶思東行』」と簡潔に書かれたことを漢籍を用いて潤色し、長大な礼賛文となっている。 〈1〉
彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさうかやふきあへずのみこと)の第四子〔よはしらめのみこ〕也(なり)。 母(みはは)は玉依姫(たまよりひめ)と曰ひたまひて、海童(わたつみ)之(の)少女(むすめ)也(なり)。 天皇生而(うまれながらに)明達(めいたつ、さとし)、意礭如(こころかたかり)[也]て、年(よはひ)十五(とをちあまりいつつ)に立たして太子(ひつぎのみこ)と為(な)りたまひき。 長而(ながらひて)日向国(ひむかのくに)吾田邑(あたのむら)吾平津媛(あひらつひめ)を娶(めあ)はし、妃(きさき)と為(し)たまひて、手研耳命(たぎしみみのみこと)を生みたまひき。
昔我が天神(あまつかみ)、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)大日孁尊(おほひるめのみこと)、此の豊葦原瑞穂国(とよあしはらみづほのくに)を挙(あ)げて[而]我が天祖(あまつおや)彦火瓊々杵尊(ひこほににぎのみこと)に授(さづ)けき。 於是(ここに)火瓊々杵尊、天関(あまのせき)を闢(ひら)きて雲路(くものみち)を披(ひら)きて、仙蹕(せんびつ)駆け以て戻止(れいしす、とどまりき〕)。 是の時、運属鴻荒(れんぞくこうくわう、ふるきよりつらね)、時鍾草昧(さふまいをあつむるとき、くらきにときのかねをうちて)、故(かれ)蒙以(くらきをもちて)養正(ただしきにやしなひて)、治此(これををさむは)西偏(にしにかたよりき)。
自天祖(あまつみおやより)降跡(おりたまひしあと)を以(も)ちて[于]今に一百七十九萬二千四百七十余歳(いちひやくしちじふきうもんにせんしひやくしちじふよとせ、ももよろづとせあまりななそよろづとせあまりここのよろづとせあまりふたちとせあまりよももとせあまりななそとせあまり)に逮(いた)りつ。 而(しか)るに遼邈之地(れいばくのところ、はるかとほきところ)、猶(なほ)未(いま)だ霑於王澤(わうたく、すめろきのめぐみうるほはず)、遂(つひ)に使邑有君(むらにきみをあらしめ)、村有長(むらにをさをあらしめ)て、各(おのもおのも)自(みづか)ら疆(さかひ)を分(わ)け用(もち)ひて、相(あひ)凌躒(れふれきせり、しのぎふみき)。
『東(ひむがし)に美地(うましくに)有り、青山(あをかきやま)四(よもに)周(めぐ)り、其の中に亦(また)天磐船(あまのいはふね)に乗りて[而]飛び降(を)りし者(もの)有りき。』と余(われ)に謂(い)ひき。 彼地(あそこ)に必ず[当]恢弘大業(くわいこうたいげふ、おほきのりをひろめて)光宅天下(くわふたくてんか、あめのしたにみつる)を以て足らむ、蓋(けだ)し六合(りくがふ)之(の)中心(まなか)なる乎(や)。 厥(そ)の飛びて降りたる者(ひと)は、謂(い)はく是(これ)饒速日(にぎはやひ)歟(かな)。何(いかに)就(つ)きて[而]都(みやこ)せ[之]ざるや。」とのたまひき。
「倭之青垣東山」は、纒向遺跡一帯を含む古代政権発祥の地を指し、大物主の行き先もここであった(第69回)。 《大意》 〈1〉 神日本磐余彦(かむやまといはれよひこ)天皇は、生前の名は彦火火出見(ひこほほでみ)と言われ、彦波瀲武鵜草葺不合尊(ひこなぎさうかやふきあへずのみこと)の第四子です。 母は玉依姫(たまよりひめ)といい、海童(わたつみ)の娘です。 天皇は生まれながらに明達〔理に明るく〕、意確〔心確か〕で、十五歳で立太子しました。 長じて日向国(ひむかのくに)吾田邑(あたのむら)の吾平津媛(あひらつひめ)を娶り、妃とし、手研耳命(たぎしみみのみこと)を生みました。 ◎名前の重複…彦火火出見は祖父の名でもある(第87回参照)。 これは、恐らく山幸彦海幸彦の話が記の編纂作業の途中で挿入された結果であろう。元々は祖父・彦火火出見が、そのまま東征にでかける話になっていたが、 この話も入れるべきだという意見が強まった。そこで彦火火出見が火折となって南洋に出かける話を挿入し、東征の任務はその孫に託された。 ところが、以前作成された彦火火出見が東征に出たというメモを書紀の編者が見つけて、彦火火出見が諱だと判断したのかも知れない。 山幸彦海幸彦の挿入が求められた理由は、①この伝説を大切にする氏族が、強く主張した他に、②隼人が朝廷に服従する立場であることを明確にする必要が生まれたことも考えられる。 ②だとすれば、東征の出発地の変更と共に、南九州の制圧に向かっていた当時の情勢との関わりが考えられる。 立太子…立太子にここで触れるのは、飛鳥時代に天皇による皇太子の指名制度を定着させようとした意図が見える。 〈2〉 四十五歳に及び、兄と子らにこう宣言されました。曰く「 昔、わが天神、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)と大日孁尊(おほひるめのみこと)〔天照大御神〕は、この豊葦原瑞穂の国を挙げて我が天祖、彦火瓊々杵尊(ひこほににぎのみこと)に授けた。 ここに火瓊々杵尊、天関を開き雲路を開き、仙蹕(せんびつ)〔先駆けの者〕の報告を聞き、戻止(れいし)した〔天降りして留まった〕。 この時、運属鴻荒(れんぞくこうこう)に〔太古より連綿と続く地の〕、時鍾草昧(じしゅそうまい)し〔混沌の世界に時の鐘を鳴らし〕たが、蒙(くら)きを養正(ただ)しこれを治めるのは西方〔南九州〕に偏っている。 天孫降臨以来を振り返る。天関は磐座、雲路は天八重雲を指す(第83回)。 仙蹕(先に現地に行き、様子を調べる)に該当する神は、このタイミングでは、記と「天照大神之子正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊」の段一書1の天宇受売、あるいは天宇受売の直前に猿田毘古を発見した使者のみである(第82回参照)。 仙蹕には天子の行幸という意味もあり、彦火瓊々杵尊の行幸とする解釈もあり得るが、「駆ける」とあれば、先駆けの仕事を指すと見るのが妥当である。 ところが、天宇受売等の先駆けの場面は本文には用いられないので、書紀本文としては一貫性を欠く。 〈3〉 皇祖・皇考〔=皇父〕など神の聖(ひじり)は、積慶重輝(せきけいじゅうき)に〔慶びを積み光を重ね〕多年をめぐり、 天祖より降りて以来、179万2470年余りに至った。 ところが遼邈(れいばく)の地〔遥か遠い国〕は、未だに王沢(王の恵み)に潤わず、これまで邑(むら)ごとに君があり、村ごとに長(おさ)があり、それぞれが境界を主張して互いに凌躒(りょうれき)〔争い〕ばかりしている。 つまり、東方は天皇の支配下になく、各地の豪族が領土をめぐって自分勝手に争っている。 一百七十九萬二千四百七十余歳は、謎の数値である。記の日子穂穂手見命580歳も長かったが、遥かに凌駕している。 強いて言えば、理解不可能な数値を示すことによって、天皇は理による検証の対象ではないと言っているのであろうか。 〈4〉 さて、塩土老翁(しおつちのおじ)からこのようなことを聞いた。 『東方に美(うま)し国があり、その国は青山に四方を囲まれ、その中にこれまた天磐船(あまのいわふね)に乗って飛び降りた者がある。』 と余に語った。彼の地には必ず恢弘大業(かいこうたいぎょう)し〔正しい道を広め〕)光宅天下(こうたくてんか)に〔光沢を天下に〕)満たしたい。きっと六合(りくごう)〔世界〕の中心となることだろう。 その飛び降りたという輩は、饒速日(にぎはやひ)だと言われている。余が行って都にせずして、どうする。」と宣言されました。 「にぎはやひ」の名は、「早い日にその地に行った和魂(にぎ)」の意味だと思われる。つまり、以前に行った者は早く過ぎて本物ではない。私こそが本来天下を治めるべき者だと言うのである。 これから樫原へ行って国を治めると、宣言する。孔舎衛(くさえ)の坂で迎え撃った長髄彦は、饒速日勢力の一員だと考えられるので、「にぎ」の名に反してファイティングポーズを取っている。 以前、青山四周の地に行ったのは大物主であった。大物主は、書紀では大国主が三輪山に行った後の名である。だから饒速日は大物主の別名かも知れない。とすれば、天孫の到来を見てまた暴れ出したのである。 また、記では大物主は天孫族に属するから、天孫族の内輪もめということになる。 〈5〉 皇子(みこ)たちは揃って答え申し上げました。「理実灼然(りじつしゃくぜん)に〔筋道も内容も明白で〕)、私たちもまた、いつも心に思っていたことです。早く行くのが宜しいでしょう。」と申し上げました。この年は、太歳甲寅(きのえとら)です。 以上、この段は天皇の出発を潤色する。礼賛文を盛った記の序文と同じである。 【書紀―速吸之門~筑紫国】 神武2目次 《乙卯年十月》 〈6〉
天皇親(みづから)諸(もろもろの)皇子(みこ)舟師(ふないくさ)を帥(ひきゐ)て、東(ひむがし)に征(ゆ)きたまひき。 速吸之門(はやすひのせと)に至りて、時に一(ひとりの)漁人(すなどりびと)有り、艇(ふね)に乗りて[而]至りて、 天皇之(こ)を招(を)きて、因(よ)りて問曰(とひたまはく)「汝(な)は誰(た)ぞ[也]。」ととひたまひて、 対(こたへ)曰(まをさく)「臣(やつかれ)は是れ国神(くにつかみ)なり、名を珍彦(うつひこ)と曰(まを)し、[於]曲浦(わたのうら)に釣魚(いをつり)しまつる。天神(あまつかみ)の子(みこ)来(き)たまはむと聞こえたるが故(ゆゑ)に、即ち奉迎(むかへまつ)れり。」とまをしき。 又[之を]問ひたまひて曰(のたまはく)「汝(なむち)能(よ)く我(われ)を導(みちび)き為(な)す耶(や)。」とのたまひて、対へ曰(まを)ししく「導(みちび)きまつらむ[之矣]。」とまをしき。 天皇、勅(みことのり)したまひ、漁人に椎㰏(しひのさほ)の末(すへ)を授(さづ)けて、令執而(とらしめて)[於]皇舟(すめらふね)に牽(ひ)き納(をさ)めて、以て海の導者(みちびきもの)と為(す)。 乃(すなは)ち特(こと)に名を賜(たまは)りて、椎根津彦(しひねつひこ)【椎、此れ辭毗(しひ)と云ふ】と為(し)たまひて、此れ即ち倭直部(やまとのあたひべ)の始祖(はじめのおや)也(なり)。 行(ゆ)きて筑紫(つくし)の国菟狭(うさ)に至りき。【菟狭は地名(ところのな)なりて[也]、此れ宇佐(うさ)と云ふ。】時に菟狹の国造(くにのみやつこ)の祖(おや)有り、号曰(なづけく)菟狭津彦(うさつひこ)菟狭津媛(うさつひめ)、乃(すなは)ち[於]菟狭(うさ)の川の上(へ)に、一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を造(つく)りて奉饗(あへまつりき)[焉]。【一柱騰宮、此れ阿斯毗苔徒鞅餓離能(あしひとつあがりの)宮と云ふ。】 是の時、勅(みことのり)して菟狭津媛を以ちて、妻を[之][於]侍臣(じしむ、さぶらへるおみ)天種子命(あめのたねこのみこと)に賜(たまは)りき。天種子命、是(これ)中臣氏(なかとみうじ)之遠祖(とほつおや)也(なり)。
『豊後国志』によると、<大分県史 まとめブログ> 早吸比咩神社(はやすいひめじんじゃ)は、大宝元年(701年)、神宣を奉じ、神宮を曲浦(わたのうら)の清地に移し、曲浦を和多浦(わたのうら)と呼ぶようになった。 </大分県史> 『豊後国志』全9巻は豊後国各地の踏査を行い、1803年に完成した重要史料とされる。 この解説によれば、701年の時点で「わたのうら」という地名があったことになる。 「曲浦」の用例を中国古典から探すと、『太平広記』(978年、北宋時代)の「李戴仁」に「於枝江縣曲浦中、月色皎然」(枝江県曲浦の中に、月色皎然なり)がある。 書紀が中国古典の語を用いて表した「曲浦」は、当時から「わたのうら」と考えられていたことになる。 《阿斯毗苔徒鞅餓離能宮》 「徒」は基本的に「と」であるが、記には「足一騰宮」とされることからここでは「つ」で、万葉仮名「つ」に使われる例に挙げられている。 《大意》 〈6〉 その年の10月5日、天皇は皇子たちを率いて親征し、東征に出ました。 速吸(はやすい)瀬戸に来たとき、一人の漁人が船に乗ってやって来たので、 天皇は呼び止められ、「お前は誰か。」と質問されました。これに「私は国つ神にて、名を珍彦(うつひこ)と申し、曲浦(わたのうら)で魚を釣っております。天神の御子がいらっしゃるとお聞きし、迎えに参りました。」とお答えました。 更に「お前は私を導くことができるか。」と問われ、「お導きします」とお答えしました。 天皇は勅(みことのり)により漁人に椎の棹の先を渡してつかませ、皇船に引き入れ、水先人としました。そして特に名を与え、椎根津彦(しひねつひこ)としました。この者は倭直(やまとのあたい)の始祖です。 さらに進み筑紫の国菟狭(うさ)に到着された時、菟狹の国造(くにのみやつこ)の祖、名は菟狭津彦(うさつひこ)・菟狭津媛(うさつひめ)がおり、直ちに菟狭川の上流に一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を造営し、饗応いたしました。 この時、勅(みことのり)し、菟狭津媛を、侍臣天種子命(あめのたねこのみこと)の妻として与えました。天種子命は中臣氏(なかとみうじ)の遠祖です。 菟狭津彦・菟狭津媛のようなペアは通例夫婦神なので、菟狭津媛を天種子命の妻にされると、菟狭津彦の立場はない。天皇の命令は無体なものであった。 <wikipedia>中臣氏(なかとみうじ)は、忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった中央豪族。姓(かばね)は連(むらじ)、八色の姓制定後の姓(かばね)は朝臣(あそん)。</wikipedia> 「中臣連」の遠祖は他にも出てくる。天照の天石窟閉じ籠り事件(第49回)で、石窟戸の前で祭事を取り仕切った天児屋命が中臣連の遠祖(とおつおや)がそれである。 他にも垂仁天皇紀には、大鹿嶋が中臣連の遠祖とされる。 太歳とは、十干(甲、乙、丙…)と十二支(子、丑、寅…)の組み合わせによる紀年法(年の呼び名)ある。 例えば、甲子園球場は甲子の年にできた。壬申の乱、辛亥革命など歴史上の事件の名称にもしばしば使われる。 十干は10年周期、十二支は12年周期なので、甲子から60年後は、また甲子である。よく最小公倍数の例として挙げられる。 歳の元の意味は木星である。木星の公転周期は約12年で、地球から見て木星は、黄道に沿って少しずつ移動し、12年で一周する。この木星の観測が十二支による紀年法の原点である。 星空の黄道は12等分されていて、東から西の向きに子、丑、寅…の名がついている(これを十二辰(しん)という)が、 木星の移動方向は、西から東なので、一年ごとに子→亥→戌…の順に移動する。 これでは逆順になってしまうので、木星と同じ速さで逆向きに動く架空の惑星を想定し、それを太歳と名付けた。 ただし、世間は必ずしも学問上の定義を知らず、木星の神を「太歳神」と称するように、太歳は歳(木星)の美称と捉えていたようである。 図は、前400年ごろ(戦国時代)の夏至の午前0時の、北半球中緯度の星空を想定したものである。(歳差運動によって、現代の星空とは異なる) ある年の夏至の午前0時に子の位置に木星があるとする。それから1年後の午前0時には全く星空が見えるが、木星だけは亥の上にある。 星紀(せいき)、玄枵(げんきょう)、…は十二次(じ)といい、十二辰の別名ではあるが、並び順は西から東である (詳しくは、史料のページ参照)。 さらに一つの問題がある。木星の公転周期は11.86年なので、12÷(12-11.86)≒86年後に十二辰が1つずれる。 始めは改暦の度に決めなおしていたが、漢代以降は決め直さなくなったという。したがって、漢代以後は太歳が、端数なしの12年周期でに天球を巡り続けていることになる。 十干の方は木星の運行とは無関係だが、十干十二支による紀年法も太歳と言う。
書紀では、日付も十干十二支で表す。これは中国の歴史書に倣ったものであるが、 書紀では月ごとに朔日(ついたち)の十干十二支を付記して日付を確定させるようになっている。例えば、「丁巳朔辛酉」は「丁巳を朔(つきたち)とし辛酉」の意味である。 ① 表全体をドラッグ*し、右クリック。 *ドラッグ…左ボタンを押下したまま離さずにマウスを動かすと、選択した部分が反転する。 ② コピー(C)を選択。 ③ エクセルのA1を右クリック。 ④ 貼り付け(どちらのアイコンでもよい)を選択。 以後、セルA1に「丙戌朔甲午」など、変換したい文字列を張り付けると、セルA3に変換結果が表示される。 なお、A1に「丙戌」など2文字だけを入力すると、C1に「甲子」を1としたときの数値が表示される。 【書紀―筑紫国~河内国】 神武3目次 《乙卯年十一月~戊午年(55)三月》 〈7〉
〈8〉
三年(みとせ)の間(ま)に積(たくは)へて、舟と楫(かじ)を脩(をさ)めて、兵(いくさ)食(け)を蓄(たくは)へて、将(まさ)に一挙(ひとあげ)を以ちて[而]天下を平(たひら)欲(げむとし)たまひき[也]。
福岡県遠賀郡芦屋町船頭町に岡湊(おかみなと)神社がある。書紀の中哀天皇紀には岡縣主(あがたぬし)の祖、熊鰐(わに)が海路、中哀天皇の船を導き、岡浦に入り水門に到るという記述があり、一般にはそれに因むのが岡湊神社とされている。 主祭神である大倉主命と菟夫羅姫命の二柱は、中哀天皇が熊鰐に「船が進まないじゃないか」と文句をつけたのに対し、熊鰐が「私のせいではない。浦口の男女の神、大倉主・菟夫羅媛に聞いてくれ」と言ったことに由来する。 神武天皇も祀られているが、配祀(はいし)神としてである。ただ、書紀において神武天皇が立ち寄った場所として、この岡の水門(みなと)が意識されていたことも間違いないだろう。 《えのみや》 訓注がないので、「埃」は音仮名「え(甲)」である。もともと「え」という地名が定着していたのだろう。 安芸の国の可愛之川(えのかわ)にも関係があるかも知れない。「是時素戔嗚尊自天而降到」の段一書2で素戔鳴尊(すさのおのみこと)が降りたとされるのが、可愛之川の川上である(第52回)。 記の「たけり宮」と同一視されるが、実際はどうであろうか。 《大意》 〈7・8・9〉 岡水門、埃宮を経て、高嶋宮で三年間準備を重ね、舟と舵を補修し、兵食を蓄え、一挙に天下を平らげんとしました。 〈10〉 〔船航は難渋し〕船尾と船首が触れます。難波の崎に行こうとして、海潮の速さに弄ばれたのです。それにより、国の名を浪速(なみはや)の国、また浪花(なみはな)と言い、現在難波(なにわ)というのは、その訛りです。 前述したように、かつて浪速の海峡に激しい潮流が存在した記憶が、記紀の時代に残っていたことになる。少なくとも、記紀から400年昔のことである。 〈11〉 流れを遡り湾を横断し、河内国草香邑、白肩の船着き場に到着しました。 白肩の津は草香(日下)にある。〈14〉では、草香の津という呼び名になっている。 【書紀―中五瀬命の負傷】 神武4目次 《戊午年四月(一)》 〈12〉
而(しかれども)其の路(みち)狭(せば)く嶮(けは)しくありて、人(ひと)不得並行(えなべゆかず)、乃(すなは)ち還(かへ)りて更(さら)に東(ひむがし)に胆駒(いこま)の山を踰(こ)えて[而]中洲(うちつくに)に入らむ欲(としたまふ)。 時に、長髄彦(ながすねひこ)聞之(こをききて)曰(まをさく)「夫(それ)天神(あまつかみ)の子(みこ)等(ども)[所]以ちて来(き)たら者(ば)、必ず[将]我が国を奪(うば)はむとしたまふなり。」とまをして、 則(すなは)ち尽(ことごと)く属兵(ぞくへい、つかへるつはもの)を起(お)こし、[於]孔舎衛(くさえ)の坂に[之を]徼(むか)へて、[之に]与(くみ)して会(あひ)戦(たたか)ひき。 流矢(ながれや)有り、五瀬命(いつせのみこと)の肱脛(ひぢはぎ)に中(あ)たれり。皇師(すめらみくさ)戦(たたか)ひを不能進(すすむことあたはず)、
現在の「たつた」の地名を全国に探したところ、熊本市、奈良県生駒郡、愛知県海部郡立田村に見つかった。奈良県には竜田川があり、奈良県生駒郡三郷町の龍田大社には立田姫が祀られる。 以下、関係する地名を右図に示す。河内湾の状態は少なくとも弥生時代以前の図。 《膽駒山》
従って、膽駒山は現在の奈良県生駒郡の生駒山。龍田も生駒郡の地名。 《孔舎衛坂》 くさへのさか。あるいは、くさかざか。現在、東大阪市に日下(くさか)町がある。 《肱脛》 腕の、足の脛(すね)に対応する部分(肘と手首の間)に一本の矢を受けたのか、あるいは手足に複数の矢を受けたのか、ここだけでは判断しづらい。 ただ、記では「於御手負~矢」(み手に矢を負い)と書いてあるから、腕にだろう。辞書にはないが、「ひぢはぎ」という語があったのかも知れない。 《中州》 中州は一般的に川の中央部に礫、砂が堆積して水面上に出た地形を意味し、それが由来になった地名は各地にある。 奈良県内を検索すると、桜井市に中洲北新町があるが、ここに限定されるものではないだろう。 恐らく、古代政権の都である桜井・纏向・橿原一帯を「中州」と呼んだと想像される。 「ながすねひこ」の名は、それまで中州を占拠していたことに関連付けられていると思われる。 《大意》 〈12〉 皇軍は兵を率い、徒歩で龍田(たつた)に赴きます。 しかしその路は狭く険しく、人が並んで歩くのも難しく、ひとまず戻り、再び東に生駒山を越えて中洲〔大和平野〕に入ろうとしました。 その時、長髄彦(ながすねひこ)はこれを知り「天神の御子どもがこのようにやってくるのであれば、必ず私の国を奪うつもりであろう。」と言い、 全軍を挙げ、孔舎衛(くさえ)の坂に迎え撃ち、会戦しました。 すると、流れ矢が五瀬命(いつせのみこと)の肱の脛に当たり、皇軍は戦いを継続できなくなりました。 龍田が現在の龍田神社の地だとすると、最初は生駒山の南側を回って大和平野を目指したことになる。 その道が大変難渋したので、真東に進んで生駒山越えを目指すことにしたが、その登り口の日下の坂で長髄彦の待ち伏せに遭った。 そこで撤退して草香の津に停泊していた船に戻り、楯で防禦した。 【書紀―皇軍の進路変更】 神武5目次 《戊午年四月(二)~五月》 〈13〉
「今我是(これ)日神(ひのかみ)の子孫(あなすゑ)にして[而]日に向(むか)ひ虜(あた)を征(う)たむ、此れ天道(あめのみち)に逆(さか)ふや[也]。 退(ひ)き還(かへ)す若(ごと)くは弱(よわ)きを示すにあらず、神(あまつかみ)祇(くにつかみ)に礼(ゐやま)ひ祭りて、日の神之威(いきほひ)を背に負(お)ひ、影に隨(したが)ひて圧(おさ)へ躡(ふ)まむ。 如此(このごと)、則(すなは)ち血刃(ちのたち)を会不(みず)、虜(あた)必ず自(おのづか)ら敗(やぶる)る矣(や)。」ととひたまひ、僉(みな)曰(まを)さく「然(しかり)。」とまをしき。 於是(ここに)、軍(いくさ)中に令(みことのり)たまはく「且(しまら)く停(とどま)り、勿須復進(かならずまたなすすむそ)。」と曰(のたま)ひき。乃(すなは)ち軍(いくさ)を引きて還(もど)りたまひき。
因(よ)りて其の津の改号(なをあらため)て盾津(たてつ)と曰ひて、今に蓼津(たでつ)と云ふは訛(よこなまる)也(なり)。 初めに、孔舍衞(くさか)之戦(たたかひ)に、人有りて隠於大樹而(おほききにかくれて)得免難(かたしをのがるをえ)て、仍(すなは)ち其の樹を指して「恩(めぐみ)如母(おものごとし)。」と曰(まを)しき。 時の人、因りて其の地を号(なづ)け母木邑(おものきむら)と曰ひ、今に飫悶廼奇(おものき)と云ふは訛(よこなま)りし也(なり)。 〈15〉
時に五瀬命矢の瘡(きず)の痛(いたみ)甚(はなはだ)しく、乃(すなは)ち撫劒(つるぎのたがみ〔手上〕とり縛り)て[而]雄誥(をたけ)び[之]て曰はく【撫劒、此れ都盧耆能多伽彌屠利辭魔屢(つるぎのたかみとりしばる)と云う】 「慨哉(うれたきかや)、大(おほき)丈夫(ますらを)【慨哉、此れ宇黎多棄伽夜(うれたきかや)と云ふ。】[於]虜手(あたのてに)傷(きず)を被(かうぶ)り、[将に]不報(むくは)ずして[而]死なむ耶(や)。」といひて、 時の人因りて其処(そこ)を号(なづ)けて曰はく雄水門(をのみなと)となづけり。 [于]紀伊国の竈山(かまやま)に進到(すすみた)りて[而]、五瀬命[于]軍(いくさ)に薨(こうじ、みまかりて)、因りて竈山に葬(はぶ)りまつりき。
字面だけ見ると「神が提示した奇しき策」のようにも読めるが、本来は占い師が持つ細い棒の束を指す。 <汉典>神策 亦作"神筴"。卜筮所用之蓍草。《史記·封禅書》</汉典>〔また「神筴」に作る。卜筮(うらない)が用いるところの蓍草〕
『中国哲学書電子化計画』は、「冲」を全部「沖」にしていて、熟語「沖襟」が9例ある。 <汉典>亦作"冲衿"。亦作"冲襟"。曠淡的胸懐。 《晋書·王湛王述等伝論》</汉典>『晋書』(しんじょ)は西晋・東晋について書かれた歴史書。648年完成。
《不若退還示弱》 語順を「若退還不示弱」に直さないと、意味が通じない。後から漢文に精通しない誰かが、日本語用法による文を挿入したのかも知れない。 もしあとから加えられたとすれば、敵に背を向けるのは弱気ではないかと非難されることのを嫌ったものであろう。 《則会不血刃》 これも、「会不血刃」の語順は誤りで、「則不会血刃」あるいは「則不見血刃」とすべきところである。 《免・兔》 原文とされるものには、「得免難」「得兔難」がある。ここにウサギ(兔)があったも意味をなさないので、免であることは明白である。 この部分の原文を含むサイトに検索をかけると、「免」が「兔」の5倍ほどある。
山城水門(やまきのみなと)に関連して、男神社(おのじんじゃ;右図⑤)が泉南市男里3丁目にある。 <男神社社伝>彦五瀬命雄詰の御遺蹟雄水門、今の浜宮の地に、命と神武天皇の御神霊を祀奉ったのが、当社で社伝によれば貞観元年三月(859年)今の地に御遷座し奉ったといふ。</社伝> 浜宮(右図①)は、泉南市男里7丁目の森にある。 また「山之井遺跡の碑」が、泉南市男里5丁目(右図②から③に移転)にある。1972年に建立され、府道・県道63号線の建築に伴って移転した。 さらに「山の井遺跡の碑」が泉南市樽井4丁目(右図④)にある。これら2つの石碑は泉南市立樽井小学校近くの西と東にあたり、いずれも五瀬命が湧水で傷を洗った場所とされている。 《撫剣》 「撫剣」は中国古典に4例あった。そのうち、『魏書19 陳思王植傳』が分かりやすいので、訳してみる。 流聞東軍失備,師徒小衂,輟食棄餐,奮袂攘衽,撫劒東顧,而心已馳於吳會矣。 〔東軍の備えを失ったという噂を聞き、軍勢はやや気をそがれ、食を止め料理を棄て、剣を撫し東を顧み、袂を奮い立たせ袖をまくり上げ、呉会(現在の江蘇省蘇州市の一部)に心を馳せた。〕 要するに「撫劒」とは戦いに向け気持ちが昂揚したとき、剣を撫す動作を指す。 これには訓注「つるぎのたかみとりしばる」がついているが、その意味は、
《大意》 〈13〉 天皇は憂い、沖衿に〔心を虚しくして〕神策〔占い〕により神のお告げを聞きました。そして話されました。 「今まで、余は日神の子孫であるのに日に向って敵を討とうとしたが、これは天道に逆らっている。 ここで引きかえす如きは、弱さでも何でもない。神祇に祈り祭り、日神の威を背負い、敵を我らの陰に入れて踏み潰してやろう。 そうすれば、血刃を見るまでもなく、敵は自滅するに違いない。」との御言葉に、一同「その通り。」と言いました。 ここに、全軍に「一旦留まり、決して進軍してはならぬ。」と命じられ、軍を退いて戻りました。 〈14〉 敵は攻めてこようとはせず、皇軍は草香の津に還り、盾を立てて雄叫びを上げました。 それにより、この津の名は改められ、盾津(たてつ)に、それが今日では訛って蓼津(たでつ)になりました。 遡って、孔舍衞(くさか)の戦で、ある人が大樹に隠れて難を免れることができたので、その樹を指して「その恩は母(おも)のごとし。」と言いました。 当時の人は、よってその地を母木邑(おものきむら)と名付け、今日訛って「おものき」と言います。 草香の津は、〈11〉では「草香邑の白肩の津」と表現されている。 〈15〉 軍は茅淳(ちぬ)の山城水門(やまきのみなと)に到着しました。 五瀬命の矢傷の痛みは甚しく、そして剣の柄を握りしめて 「残念だ、益荒男が敵の手によって傷を負い、酬いることもできずに死んでいくのか!」と雄叫びしました。 当時の人は、このことにより、そこを雄水門(をのみなと)と名付けました。紀伊国の竈山(かまやま)まで進んできたところで、五瀬命は戦死し、竈山に葬られました。
《記紀の対照表》 記紀におけるここまでの行程を、右の表にまとめた。経由地はほぼ一致しているが、速吸門の位置の違いについては既に考察した。 また白肩津に上陸後、記では直ちに迎撃に遭うが、書紀ではある程度内陸に進み、孔舎衛の坂で戦った後に退却している。 恐らく龍田への山道が狭すぎた、また孔舎衛の坂で合戦があったという伝承がそれぞれの土地にあったのだろう。 各地の滞在期間は概ね記の方が長いが、書紀では高嶋宮で畿内を攻める準備に3年かける以外、それほど長く滞在する理由が見いだせなかったということであろう。 《記紀における事象の日付》 この天皇の事跡に伴う日付は、恐らく書紀を編集する時点で初めて付けられた。 それを確かめるために、月名を検索すると、閏月が初めて出てくるのが巻八である。 閏月はメトン周期*)により、19年間に7回出現するので、たまたまある月を取り出したときにそれが閏月である確率は3.0%である。巻七(景行天皇)までに月名は178例出てくる。 これらがすべて閏月でない確率は(1-0.03)178=0.0044で極めて0に近い。このことから考えて巻七までの日付は、まず創作であろう。もっともらしく閏月を散りばめるまでの細工は、しなかったわけである。 こうして根拠のない日付を書き添えた動機は、中国の膨大な歴史書を対抗して、日本の「歴史書」としての体裁を整える以外には、考えられない。 太安万侶は、日付の恣意的な付加など、歴史の「捏造」に熱中する編集委員の姿に嫌気が差して書紀から離脱した印象を受ける。そして、伝説は伝説らしい姿のまま残そうとして、古事記の編集に力を尽くしたのである (もちろん、古事記には民衆に天皇中心の国への統合意識を促すという、本来の意義がある)。 *) ある年に冬至が朔(新月)であった後、再び冬至が朔になるのは19年(235朔望月)後である。 この周期のこと。 まとめ 神武天皇紀は、字数は多いが実質的な内容は記とさほど変わらず、全文漏らさず取り上げても多くは語句解析するだけとなり、記と比較する目的に対して意義は乏しい。 しかし、初代天皇という要になる段なので全文を解析した。 その内には記には載っていない大事な話、例えば饒速日が先に天降りしていた件がある。本稿ではこれを、今のところ大物主が三輪山に行ったことを別の形で表現したと考えている。 一方、記では三輪山の神は、天孫族の亜種である。 渡来民は波状的にやってきたと考えるのが自然で、その一部は畿内に向かい、青垣山でも民族の交代があったと想像される。「以前にその地に天降りした者がある」という塩土老翁の話は、それを反映したように思われる。 さて、五瀬命の戦死は書紀の立場ではあまり芳しい話ではないが、逆に民衆の間には浸透している。それは、現地の住民が自発的に山の井跡に石碑を建てたことにも現れている。 対照的に神武天皇の聖跡に建てた石碑は、明治政府の手によるものである。勝者の足跡よりも敗者の悲劇の方が民衆に強い印象を与えるのは当然のことだろう。 日下の戦いの伝説も、記以前の時代から伝承されていたものであろう(繰り返しになるが、各地の伝説を記に収容することは、氏族を結集するために必要なことであった)。この地でかつて単発の大合戦があったのか、あるいは何度も戦場になったのだろうか。 浪速、盾津の地名から考察したように、伝説の起源が500年遡るとすれば、倭国大乱の時代の記憶を引き継いでいることになる。 こうして記に載った伝説の出発点が弥生時代まで遡る可能性がでてきたので、天孫族の東征は歴史的事実かも知れない。 但し、「神倭伊波礼毘古」はもちろん個人としては実在せず、民族の事象を一人の英雄譚に集約したものだと考えられる。 記の作者にもその意識があるようで、「神倭伊波礼(神(の国)、倭(やまと)の謂われ)」という名前がそれを表している。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2015.03.06(金) [097] 中つ巻(神武天皇2) ▼▲ |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
故神倭伊波禮毘古命從其地廻幸到熊野村之時 大熊髮出入卽失
爾神倭伊波禮毘古命倐忽爲遠延及御軍皆遠延而伏【遠延二字以音】 此時熊野之高倉下【此者人名】賷一横刀到於天神御子之伏地而獻之時 天神御子卽寤起詔長寢乎 故受取其横刀之時其熊野山之荒神自皆爲切仆爾其惑伏御軍悉寤起之 故(かれ)神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこのみこと)其地(そこ)従(よ)り廻(めぐ)り熊野村(くまののむら)に幸到(いでま)しし[之]時、大熊(おほくま)の髮(ほのかに)出入(いでい)り即(すなは)ち失(う)せき。 爾(かれ)神倭伊波礼毘古命倐忽(あからしま)に遠延(をえ)為(し)御軍(みいくさ)及(まで)皆(みな)遠延(をえ)して[而]伏しき【「遠延」の二字(ふたつのじ、ふたな)音(こゑ)を以ちゐる。】。 此(この)時熊野之(の)高倉下(たかくらじ)【此者(こは)人の名。】一(ある)横刀(たち)を齎(も)ちて[於]天神御子(あまつかみのみこ)に到之(いたし)地に伏して[而]献之(まつりし)時、 天神御子即ち寤(めさ)め起(た)ち詔(のたま)はく「長寝乎(ながくぬるや)」とのたまひき。 故(かれ)其の横刀を受け取りたまひし[之]時、其の熊野の山之(の)荒ぶる神を自(みづか)ら皆(みな)切仆(きりたふし)為(し)て、爾(ここに)其の惑(まと)ひ伏しし御軍(みくさ)悉(ことごと)く寤(めさ)め起(た)ちぬ[之]。 故天神御子問獲其横刀之所由高倉下 答曰己夢云 天照大神高木神二柱神之命以召建御雷神而詔 葦原中國者伊多玖佐夜藝帝阿理那理【此十一字以音】 我御子等不平坐良志【此二字以音】 其葦原中國者專汝所言向之國故 汝建御雷神可降 爾答曰 僕雖不降專有平其國之横刀可降是刀 【此刀名云佐士布都神亦名云甕布都神亦名云布都御魂 此刀者坐石上神宮也】 降此刀狀者穿高倉下之倉頂自其墮入 故阿佐米余玖【自阿下五字以音】汝取持獻天神御子 故如夢教而旦見己倉者信有横刀故以是横刀而獻耳 故(かれ)天神御子(あまつかみのみこ)其の横刀(たち)を獲(と)りし[之所]由(ゆゑ)を高倉下に問ひたまひて、 答へ曰(まを)さく「己夢(おのがいめ)に云(まを)さく、 天照大神(あまてらすおほみかみ)高木神(たかきのかみ)二柱(ふたはしら)の神之(の)命(みこと)を以ちて建御雷神(たけみかづちのかみ)を召(め)したまひて[而]詔(のたま)はく、 『葦原中国(あしはらなかつくに)者(は)伊多玖佐夜藝帝阿理那理(いたくさやげてありけり)【此の十一字(じふいちじ、とあまりいちな)音(こゑ)を以ちゐる。】、 我(わが)御子(みこ)等(ども)不平坐良志(たひらげまさざるらし)【此の二字(にじ、ふたな)音を以ちゐる。】 其の葦原中国(あしはらのなかつくに)者(は)専(もはら)汝(いまし)が言向之(ことむけし)[所の]国が故(ゆゑ)に、汝(いまし)建御雷神が可降(おるべし)。』とのたまひき。 爾(しかれども)答へ曰(まを)はく、 『僕(やつがれ)雖不降(おりざるとも)、専(もはら)其の国(そのくに)を平(たひら)げし[之]横刀(たち)有り。是の刀(たち)を可降(おろすべし)。 【此の刀(たち)の名は佐士布都神(さじふつのかみ)と云ひ、亦(また)の名は甕布都神(みかふつのかみ)と云ひ、亦の名は布都御魂(ふつみたま)と云ふ。此の刀者(は)石上(いそのかみ)の神宮(かむみや)に坐(ましま)す[也]。】 此の刀を降らしむ状(さま)者(は)高倉下(たかくらじ)之(の)倉の頂(いただき)を穿(うが)ち其(そこ)自(よ)り墮(お)とし入れむ。』とこたへまをしき。 故(かれ)阿佐米余玖(あさめよく)【「阿」自(よ)り下つかた五字(ごじ、いつな)音を以ちゐる。】汝(いまし)取り持ち天神御子に献(まつ)れといめにまをしき。 故(かれ)夢(いめ)の教(をしへ)に如(したが)ひて[而]旦(あした)に己(おの)が倉を見たれ者(ば)、信(まこと)横刀有り。故(かれ)、是の横刀を以ちて[而]献(たてまつ)る耳(のみ)。」とこたへまをしき。
於是亦高木大神之命以覺白之
いたす(至す)…[自]他サ四 届ける。身を捧げる。 寤…[動] 覚める。(古訓)さとる、さむ。(万)2544 寤者 相縁毛無 うつつには あふよしもなし。(万)2302 秋之長夜乎 寤臥耳 あきのながよを ねさめふすのみ。 己…(万)0116 己世尓 おのがよに。 あらぶ…[自]バ上二 荒れる。(万)0556 荒振公乎 見之悲左 あらぶるきみを みるがかなしさ。 仆…(古訓)たふる、ふす。 たふる(倒る)…[自]ラ下二 倒れる。 惑…(古訓)まとふ。 由…(万)大部分が音仮名「ゆ」。(古訓)もちゐる、ことく、よし。 神宮…(万)0199 神宮尓 かむみやに。 穿…(古訓)あなほる、つらぬく、うかつ。 信…[副] 確かに。(古訓)まこと。 覚…[名] 〔日本語用法〕おぼえ。記憶。(古訓)おほゆ。 おぼえ(覚え)…[名] 寵愛。評判。記憶。 引道…逆転して「道引」は「みちびき」。(万)0894 布奈能閇尓 道引麻遠志 ふなのへに みちびきまをし。 従…(古訓)したかふ、より、よる。 応…[助動] まさに~すべし。(古訓)へし。よろし。 【大熊】 日本国内のツキノワグマの生息域は本州、四国である。紀伊山地の原生林には当然熊が出没した。 熊が熊野の地名誕生の謂れとして登場するのは、当然であろう。 そして、原生林の神として妖気を放ち、神倭伊波礼毘古命と全軍に食中毒を起こさせる。 【髪】 本居宣長説。
あるいは「かみ」の借訓かも知れないとも考えたが、髪=かみ甲、神=かみ乙の相違があるので、その可能性はない。 髪は、ごくわずかなものの譬えとして使われることもあるので、「一瞬見えた」意味で一応「わづかに」としておく。 【熊野村】 熊野村は、広大な熊野地域のどこかの村である。比定地の考察は、書紀の《熊野神邑》の項で行う。 西牟婁郡には熊野村があったが、山岳地帯なので上陸地とは考えにくい。 《熊野国》 律令国制定前に、牟婁郡は「熊野国」であったと言われる。 ただ、「くま」は隅、暗い場所、辺境などの意味があるので、「くまの」は原生林が鬱蒼と茂る暗い土地を一般的に指す言葉とも考えられる。 その点は、九州の熊襲の「くま」と同じであると考えられる。 『倭名類聚抄』によれば牟婁郡に属するのは5郷のみで、面積がそれよりずっと狭い名草郡の24郷に比べ遥かに少ない。牟婁郡を除く郡には計51郷がある。 これは、山岳地帯の牟婁郡には集落が散在するのみであることを示し、熊野「国」の実在は疑問である。 《地名「熊野」》 出雲国の意宇郡には、熊野山、熊野大社がある。倭名類聚抄では、紀伊国の有田郷に「須佐」もあるので、 直感的には出雲国からの移民が地名を持ってきた印象を受ける。ただ「くまの」は前項で述べたように、条件が合えばどこにでもつけ得る地名と見られる。 出雲からの移民については、素戔鳴尊の子、五十猛命が紀伊の国の大神になった(書紀「是時素戔嗚尊自天而降到」一書4・5;第54回)と書かれたところで、 「出雲にいた林業に携わる一族を紀伊に移住させた」と考えた。 実際に五十猛命を祭神としているのは伊太祁曽神社(和歌山県和歌山市伊太祈曽)などがある。
《熊野本宮大社》 一方、熊野本宮大社の主祭神は熊野坐大神(家都美御子大神;けつみみこのおおかみ)である。 上記の一書4・5との整合性を重視すれば、家都美御子大神は五十猛命の別名とすべきであるが、本宮大社自身は素盞鳴尊説を取っている。 書紀の、素盞鳴尊は黄泉の国から出られないから代わりに子を送ったとする文脈は、無視されている。 なお、熊野本宮大社は平安時代には仏教化し、熊野坐大神は権現(仏の仮の姿)となり、唐の天台山から飛んで来たことになった。 このように仏教化したにも関わらず、神紋は八咫烏である(右図)。 【葦原中国者専汝所言向之国】 《建御雷神》 迦具土を斬った時(第38回)、刀の根元の部分から生まれた3神のうちの一柱が建御雷之男神で、別名は建布都神、豊布都神。 かつて大国主に国を明け渡させるために派遣したのが建御雷之男神(建御雷神)で、伊都之尾羽張神の子とされている(第77回)。 書紀では、出雲に行く前に東国の天香香背男を平定する(第79回)。 《専汝所言向之国》 「ことむく」(言葉によって服従を促す意)は、大国主に対する交渉役(上記)を担ったことを指す。 「専」は、専らに任されたという意味である。だから、今回も責任をとって地に降り、天孫御子の危機を救えと促されたのである。 【高倉下】 高倉下という名は、御雷神の横刀がその管理する倉の下で見つかったことに因んでいる。 一般に「たかくらじ」とよまれるのは、神武天皇紀の兄倉下・弟倉下の訓注「倉下此云衢羅餌(くらじ)」による。 ネット上では、たかくらじ…4800、たかくらし…856、たかくらした…44、たかくらぢ…1、たかくらち…0。 律令国制定時、地方行政官は「国司」とされた。古墳時代、司の呉音「し」を用いて、倉を管理する役職が「倉司」(くらし)と呼ばれたのかも知れない。 それは、兄倉下・弟倉下という呼び名が、景行天皇紀の兄夷守(ひなもり)・弟夷守を連想させるからである。夷守と同様に役職名は消滅したが、その子孫に人名として残存したのではないか。 なお、「たか」は美称を作る接頭語である。
【横刀】 「横刀」は「たち」である。 <平凡社世界大百科事典> 刃を下に向けて腰につるすのを太刀の特色とする。 奈良時代から平安時代の初期には大刀または横刀と書いて「たち」と読ませ,後世は太刀と書くのが常である。 </世界百科事典> 「横刀」は『百度百科』に解説がある。
【佐士布都神】 さじふつのかみ。別名甕布都神(みかふつのかみ)、布都御魂神(ふつみたまのかみ)。 これが、御雷神が降ろした剣である。 なお、御雷神が伊那佐の小浜に降りたち、大国主の前に突き立てた剣は「十掬剣」とあるだけで、名前は示されていない (第78回)。 【石上神宮】 佐士布都神と名付けられた太刀は、石上神宮に鎮座するとされる。 ただ、石上神宮(いそがみ)神宮(奈良県天理市)の御神体の剣については、別の謂れがある。 それは神代紀(上)「是時素戔嗚尊自天而降到」の一書2で、素戔鳴尊が八岐大蛇を斬った剣、蛇之麁正が石上神宮にある(第53回)とされる。 一方、岡山県赤磐市には石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社がある。社殿によれば、八岐大蛇を斬った「布都御魂」を祀ったのが創祀で、剣の現物は崇神天皇のとき石上神宮に移されたという。 以後も剣の御魂を祭神としてきたが、明治時代になってから祭神が素戔嗚尊に変更になったという。 【あさめよく】 「朝目宜く」すなわち「朝起きて見れば、うまくそこに」の意かと思われる。 一字違いの「あさま」は「あさまし」「あさまなり」など見苦しいという意味なので、無関係であろう。 また、「あさもよし」という掛詞もあるが、これは紀国などの地名に係るので、これも無関係である。 【八咫烏】 咫(あた)は長さの単位で、親指と中指を開いた長さ。ただし、ここで「八咫」は単に「大きい」意味(八は吉数)。 八咫烏は、<wikipedia>アジア、アナトリア半島、北アフリカなどに見られる</wikipedia>三本足の烏と同一視される。 熊野本宮大社の神紋の八咫烏は三本足である。 中国古典には、『淮南子』に「日中有踆烏」(太陽の中に踆烏がある)とあり、これについて 『芸文類聚』では、「(淮南子に)又曰:日中有踆烏。踆、趾也。謂三足烏也。」(趾=あし)という注がついている。 日本の八咫烏も、この文化の内にあると思われる。 【書紀(1)―暴風雨】 神武6目次 《戊午年(55)六月(一)》
遂(つひ)に狭野(さの)を越(こ)えて[而]熊野神邑(くまののかむのむら)に到りて、且(まさ)に天磐盾(あめのいはたて)に登らむとし、仍(なほ)軍(みくさ)を引き漸(やうやく)海中(わたなか)を進みき。 卒(にはか)に暴風(はやち)に遇(あ)ひて、皇舟(すめらみふね)漂蕩(ただよ)ひて、 時に稲飯命(いなひのみこと)乃(すなは)ち歎(なげ)きて曰(まを)さく「嗟乎(ああ)、吾(あが)祖(みおや)則(すなは)ち天つ神、母(はは)則ち海神(わたつみ)や、如何(いかに)か我[於]陸(くぬが)に我を厄(あや)ぶめて、復(また)我を[於]海(うみが)に厄(あや)ぶむるか[乎]。」 と言(まを)し訖(を)へて、乃(すなは)ち剣(つるぎ)を抜き海(うみ)に入(い)りて、鋤持神(さひもちのかみ)と化為(な)れり。 三毛入野命(みけいりののみこと)、亦(また)[之を]恨み曰(まを)さく「我(わが)母及(と)姨(おば)並(みな)是(これ)海神(わたつみ)なり。何為(いかなるために)波瀾(なみ)を起こして、以ちて灌溺(しづ)むる乎(や)。」とまをしき。 則ち浪秀(なみのほ)を踏みて[而][乎]常世鄕(とこよのくに)へや往(ゆ)けり[矣]。
(倭名類聚抄)紀伊国に、「名草郡」がある。 「熊野神邑」の訓をネットから拾うと、くまのかんのむら…238件。くまのかむのむら…152件。くまのみわのむら…40件。くまのかみのむら…7件。である。 「みわ」については、神を「みわ」と訓む例が、三輪山の「大神神社(おおみわじんじゃ)」がある。新宮市に旧「三輪崎村」があることから、「みわ」を神を意味する古い語と考えたと思われる。 また「神酒」の意味で「みわ」を使う例もある〔(万)0202 哭澤之 神社尓三輪須恵 なきさはの もりにみわすゑ〕。 比定地は、阿須賀神社(新宮市阿須賀)の近辺と言われる。同社には「神武天皇聖蹟熊野神邑顯彰碑」がある。この石碑は太平洋戦争に向かう宗教的熱狂の時代に「紀元2600年」を祝って1940年(昭和15年)に建立されたものである。 ここで言う「比定」とは、書紀の筆者が想定した地を見出すことを意味する。 《天磐盾》 天磐盾の訓みをネットから拾うと、あまのいわたてが233件、あめのいわたてが277件。である。 類義語として、「天壁立」が『出雲風土記』にある(第54回)。 神倉神社(かみのくら、かんのくら;和歌山県新宮市神倉1)の神倉山が天磐盾であるとも言われるが、 もともとは、空に向かって壁のようにそびえる岩山を表す一般名詞だったと思われる。地元ではここがその場所だろうと、言い慣わされていくのである。 《且登天磐盾仍引軍漸進海中》 一般的な解釈では句読点(。)は「引軍漸進。海中…」の位置。また「引」は「率いる」と解釈されている。ところが、その直後に「海中…」の航海に戻るのだから、わざわざ上陸して山越えする意味が分らない。 そこで、句読点の場所を海中の後に動かしてみる。そして「軍を率いる」の意味へは他の箇所では「帥」を宛てているから、 「引」は「退く」意味ととる。また「且」には意思を示す用法がある(=将)。さらに「仍」を「なほ〔再び海路で〕」、 「漸」を「やうやく〔やっとのことで、あるいは少しずつ〕」と訓めば、 「天磐盾に登らむとし、なほ軍(いくさ)を退(ひ)き、やうやく海中(わたなか)を進む」となる。 すると、最初の上陸は山越えが困難だったので失敗したと読め、錦浦の地に改めて上陸し直すことに繋がり、合理的である。 原文は、「雖将登天磐盾仍引軍漸復進海中」に修正すると意味が伝わりやすくなる。 (後述【書紀における経路】の項参照) 《鋤持神(さひもちのかみ)》 記では佐比持神(さひもちのかみ)は、火遠理(ほをり)の命を載せて帰還させた大鰐に与えられた名前である(第93回)。 記では鋤持神の所有者は鰐熊氏かと思われるが、書紀では所有者を天孫族に移している。 ただ、名前の「さひ」が刀あるいは剣を指すという認識は変わらないようで、書紀では「剣を抜いた」姿で入水している。 《兄弟の行方》 記では上巻の最後で、 ・御毛沼命者跳波穂渡坐于常世国(波の穂を撥ねて渡り、常世の国に行った) ・稲氷命者為妣国而入坐海原(妣(はは)の国へ向かい、海原に入った) と書いている。書紀では、記の話に紀伊の国を廻る海路を挿入し、何れも暴風に襲われた中で起こったこととしている。 《大意》 6月23日、皇軍は名草邑(なくさのむら)に到着し、名草戸部を討ちました。 狭野(さの)を越え熊野の神邑(かむのむら)に着き、天磐盾(あめのいわたて)に登ろうとしましたが〔果たせず〕、皇軍を戻し再び海中を進みました。 俄かに暴風に遭遇して船団は漂流し、 稲飯命(いなひのみこと)は「ああ、私の祖(そ)天つ神、私の母海神、どうして陸上で危険な目に遭わせ、また海上で危険な目に遭わすのか。」と嘆き、直ちに 剣を抜き海に入り、鋤持神(さびもちのかみ)となりました。 また、三毛入野命(みけいりののみこと)も同様に「私の母と伯母は二人とも海神(わたつみ)である。何のために波を起こし、沈めようとするにか。」と恨んで言い、 波の穂を踏み、常世(とこよ)の国へ行ってしまいました。 【書紀(2)―高倉下】 神武7目次 《戊午年六月(二)》
因(よ)りて丹敷戸畔(にしきのとへ)の者を誅(ころ)しき。 時に、神毒気(いたきけ)を吐(は)き、人物(ひともの)咸(みな)瘁(や)み、由是(このゆゑ)に、皇軍(すめらいくさ)不能復振(えまたふるはず)。 時に彼処(そこ)に人有り、号(なづ)け曰はく熊野の高倉下(たかくらじ)、忽(たちまち)夜(よ)に夢(いめみしに)、天照大神(あまてらすおほみかみ)の武甕雷神(たてみかつちのかみ)に謂(のたま)はく[曰]、 「夫(それ)葦原中国(あしはらなかつくに)猶(なほ)聞喧擾之響焉(さやげりなり)。【「聞喧擾之響焉」、此れ左揶霓利奈離(さやげりなり)と云ふ。】 宜(よろし)く汝(いまし)更(さら)に往(ゆ)きて[而]之(これ)を征(う)つべし。」とのたまひき。 武甕雷神対(こた)へ曰(まを)さく「雖予不行(われゆかざれど)、而(しかれども)予(わが)平国之(くにをたひらげし)剣(つるぎ)を下(お)ろさば、則(すなは)ち国[将]自(おのづか)ら平(たひら)がむ[矣]。」とこたへまつりき。 天照大神曰(のたま)はく「諾(うまなり)。【「諾」、此れ宇毎那利(うまなり)と云ふ。】」とのたまひき。 時に武甕雷神、登(すなは)ち高倉下に謂(のたま)ひて曰はく「予(わが)剣(つるぎ)号(なづ)けて曰はく韴霊(ふとのみたま)【「韴霊」、此れ赴屠能瀰哆磨(ふとのみたま)と云ふ。】、 今[当(まさ)に]汝(いましが)庫(くら)の裏(うち)に置かむ。宜(よろし)く取りて[而]天孫(あまつひこ)に[之を]献(まつ)るべし。」とのたまひき。 高倉下曰(まを)さく「唯々(ただただ)」とまをして[而][之]寤(めさめ)き。 明旦(あくるあした)、夢(いめ)の中の教(をし)へに依りて庫(くら)を開き之を視(み)れば、果たして落ちし剣有り、[於]庫の底の板に倒立(さかた)ち、即ち取り以ち之を進めき。
書紀「次生海次生川」一書6(第38回)で、剣鍔の血が垂れ甕速日神(武甕槌神の祖)が化成する。 神代紀下の本文(第78回)では武甕槌神は熯速日神の子で、経津主神と共に事代主に反抗を諦めさせる。 書紀「天照大神之子正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊」一書2(第79回)では、武甕槌神は、経津主神と共に出雲に行く前に東国の天香香背男を平定し、今は香取神宮に祀られる。 《聞喧擾之響焉》 訓注「さやげりなり」は、記の「さやげてありなり」に随ったものである。 書紀では、喧擾(けんじょう;ごたつき騒ぐ)という漢語を用い、一度は「喧擾の響(とよみ)を聞けり」という漢文訓読調に直したと見られるが、結局訓読をやまとことば風に戻している。 天照大御神の言葉は神聖なものなので、安易に言い換えるべきではないと判断されたと思われる。 《荒坂津・丹敷浦》 北牟婁郡はかつて和歌山藩領で、その北東の端に錦浦があった。牟婁郡の錦浦を含む部分は1879年に和歌山県から三重県に編入。錦浦は1889年に錦村となり、現在は大紀町錦である。 一方、新宮市三輪崎には熊野荒坂津神社があるが、1967年(昭和42年)創祀の新しい神社である。 「荒坂津神社」の名の根拠は、<同社の由緒書>三輪崎より新宮に越ゆる旧道高野坂は一名荒坂山と称するにより考えて荒坂津なりと考定也り</由緒書>とされている。 同神社は熊野神邑とほぼ同じ地点であるから、ここが荒坂津だとすると、出航した船が同じところに戻ってくるという窮屈な行程になる。 《高倉下の夢》 内容は記と同じだが、なぜか高皇産霊尊(たかみむすひ)が脱落している。 また、受け取った剣で悪神を討つ文も脱落している。 《大意》 天皇は〔兄弟を失い〕単独で、皇子(みこ)手研耳(たぎしみ)の命と軍を率いて進み、熊野荒坂津(くまののあらさかのつ)、別名丹敷浦(にしきうら)に至り、丹敷戸部(にしきのとべ)の者を討ちました。 その時、神が毒気を吐き散らし、人や物を皆麻痺させ、そのため皇軍は活動不能に陥りました。 そこに熊野の高倉下(たかくらじ)という人がおり、突然夜に夢を見、天照大神が武甕雷神(たてみかつちのかみ)にこのように告げられました。 「さて、葦原中国(あしはらなかつくに)はなお騒がしいと聞きます。お前がもう一度行って征圧しなさい。」 武甕雷神はこう答えました。「私が行かずとも、私が国を平定した剣を降ろせば、おのずと国は治まるでしょう。」 天照大神は「それで結構です。」と仰りました。 そこで武甕雷神、高倉下にこう命じました。「予の剣、名付けて韴霊(ふとのみたま)〔太御魂〕を、 今お前の蔵の中に置きます。これを取って天孫に献上しなさい。」 高倉下は「ただただ、仰るようにいたします。」と申し上げ、目を覚ましました。 翌朝、夢の中の教えにより蔵を開きこれを見れば、果たして落とされた剣があり、蔵の底板に突き立ち、直ちにこれを取り〔天皇に〕持参して献上しました。 【書紀(3)―頭八咫烏】 神武8目次 《戊午年(55)六月(三)》
既而(すでにして)皇師(すめらみくさ)、[欲]中洲(うちつくに)に趣(おもぶ)かむとして、而(しかれども)山の中嶮絶(けは)しく、復(また)可行之(ゆくべき)路(みち)無く、乃(すなは)ち棲遑(うらもとなくして)不知其所跋渉(そのゆきわたるところをしらず)。 時に夜に夢(いめみし)て、天照大神[于]天皇に訓(をし)へたまはく[曰]「朕(われ)今頭八咫烏(やたからす)を遣はしてあれば、宜(よろしく)郷導者(みちびきもの)と以為(おも)ふべし。」とをしへたまひき。 果たして頭八咫烏(やたがらす)有り、空(そら)自(よ)り翔降(とびお)りき。 天皇曰(のたま)はく「此の烏(やたがらす)之(の)来(き)たりて、自(おのづか)ら祥(つまびらかなる)夢(いめ)叶(かな)ひき。大哉(おほきかな)、赫矣(あかし)、我(わが)皇祖(すめろき)天照大神、以(も)ちて基業(そのわざ)を助成(たすく)を欲る乎(や)。」とのたまひき。 是時(このとき)、大伴氏(おほとものうぢ)之(の)遠祖(とほつおや)日臣命(ひのおみのみこと)、大来目(おほくめ)を帥(ひきゐ)て、元戎(ぐえんじゆう、つはものら)を督将(すべ)、山を踏(ふ)み啓(ひら)き行(ゆ)きて、 乃(すなは)ち烏(やたがらす)の所向(むかはむところ)を尋(たづ)ねて、仰視而(あふぎみて)之(これ)を追ひたまひき。 遂(つひ)に[于]菟田(うだ)の下県(しもあがた)に達(いた)り、因(よ)りて其の[所]至之処(いたりしところ)を号(なづ)けて、菟田の穿邑(うがちのむら)と曰ふ【「穿邑」、此れ于介知能務羅(うがちのむら)と云ふ。】。 于時(ときに)、勅(みとこのり)をもち日臣命(ひのおみのみこと)を誉(ほ)めて曰(のたま)はく「汝(いまし)忠(まこと)にて[而]且(また)勇(いさまし)、加(くは)へて能(よく)導之(みちびきし)功(いさを)有り。是以(これをもち)、汝名(いましがな)を改め道臣(みちのおみ)と為(せ)よ。」とのたまひき。
前述のように、「登天磐盾」に一度失敗し、またここでも困難な山道であったという意味で、「復」が使われている。 ただ、この語順では「先に試みた山越えが唯一可能性のあるコースで、もう他にはない」という意味になってしまう。これでは意図することと反対になってしまう。 正しくは「復無可行之路」(またもや行ける道がない)である。 《天照大神》 神代紀下では、皇祖として高皇産霊尊の比重が高まっていたが、ここにきて再び天照大神が単独で皇祖という扱いになる。執筆者が異なるような印象を受ける。 《大来目》 天槵津大来目(大来目の遠祖)は、かつて天忍日命に従って天孫の天降りを先導した(第84回【一書4】)。 神武天皇紀ではこれ以後、大来目部と表記されるので、ここも大来目部を意味すると思われる。 《日臣命・道臣命》 忠は儒教における重要な徳目。また、『論語』に示された三徳が、智・仁・勇。「道臣」の名は、道を先導すると共に、儒教の「道」を表すと見られる。 ここで道臣命が登場するのは、朝廷内における大伴氏の地位を示す。ただ、折角頭八咫烏が郷導者を務めようとするところに、割り込んできた印象を受ける。 大伴氏は、書紀完成の後、政争に関わり罰せられる者を多く出し衰退していく。書紀の編集にごり押しするような、強引な体質が仇になったのかもしれない。 《督将》 「督将」は中国古典(『中国哲学書電子化計画』の検索)に52例出てくるから"将軍"に類似する熟語かも知れない。 その確認のために意味が解りやすい例を選ぶと、「臣為督将、軍敗当誅、請死。」(史記・晋世家)がある。意味は「私は将の監督を務めた。軍が敗北したので罰を受けるべきである。死を願う。」である。 「督将」はどうやら、各部隊の将を監察するという意味である。熟語「督将」は漢和辞典、汉典、百度百科の何れも見出し語にない。 試しに、google翻訳で英訳してみても、「督」はgoverner(総督、或いはキリスト(基督))、「将」はwill(~しようとする)に分離して訳されている。 従って、「督将」は将軍・大将に類する名詞熟語ではなく2語が並んだものである。 《菟田穿邑》 記にも「自其地蹈穿越幸宇陀故曰宇陀之穿也」がある(次回)。宇陀郡には、かつて「宇賀志村」があり(現宇陀市の一部)、これが「うがち」を受け継いだ地名であろう。 《大意》 天皇は寝入っていましたが、俄かに目覚めて仰りました「予はどうしてこんなに長く寝ていたのか。」と尋ねられると、 毒気に当たって寝ていた士卒も、悉く目覚め起き上がりました。 改めて皇軍は、中洲に赴こうとしましたが、山の中は険絶で、ここでも行くべき路なく、心もとなく渡りゆくところが見つかりませんでした。 すると、夜に夢を見、天照大神が天皇にこう教えられました。「朕は今頭八咫烏(やたからす)を遣わすので、先導者だと思いなさい。」と。 果たして頭八咫烏が姿を現し、空を翔び降りてきました。 天皇は仰りました。「この頭八咫烏がやって来て、祥夢(まさゆめ)が叶った。大したものだ。先は明るい。我が皇祖天照大神は、この大業を助けてやろうとお思いだ。」と。 この時、大伴氏(おほとものうぢ)の遠祖、日臣命(ひのおみのみこと)、大来目(おおくめ)部を率い大軍を引き連れ、山を踏み越え拓き行き、そして頭八咫烏の向かう先を求め、仰ぎ見てこれを追いました。 遂に菟田(うだ)の下県(しもあがた)に到り、それによりその到着地を菟田の穿邑(うがちむら)と言います。 そこで、詔をもち日臣命(ひのおみのみこと)を誉め「お前は忠にして勇、加えて導き得た功が有る。これを以って、お前の名を改め道臣(みちのおみ)とする。」と告げられました。
神倉神社は、熊野速玉大社の飛び地の社で、神倉山の急な石段(源頼朝の寄進;538段)を上ったところにある。 山上にはゴトビキ岩と呼ばれる巨岩があり、古代から磐座(いわくら)として信仰の対象であったと思われる。 熊野速玉大社(和歌山県新宮市新宮1)は、平安時代の初めに十二の神殿が完成し、新宮と呼ばれる。 同社に祀られている熊野夫須美大神は、もとゴトビキ岩に祀られていたのが新宮に移されたものという。 古代からの山岳信仰と6世紀に伝来した仏教が習合したのが修験道で、 熊野三山と呼ばれる本宮・新宮・那智大社は、神道と仏教が習合した本地垂迹思想の社となった。 一方、阿須賀神社は蓬莱山(標高48m)の山麓にあり、熊野権現が最初に降りた地とされる。平安時代後期には熊野参詣の際よく立ち寄られたという。 境内からは弥生時代から古墳時代の集落跡が発掘されている。かつては陸から離れた島だったとされる。 問題は、記紀編纂期(7世紀末)にこの地の社がどのような様子だったかということである。 まず、熊野速玉大社はまだ存在せず、神倉神社に登る石段もなかったが、磐座の神が信仰されていた。修行のために僧が訪れ、現地の古い信仰と融合しつつあった。 阿須賀神社の裏の蓬莱山には、弥生時代から神がいたことだろう。 少なくともこの地域にはいくつかの集落が存在し、信仰の地であったと思われる。 大和平野に向かうためには熊野川沿いに上流に登っていくことになるが、その途中で神倉山越え (地元ではこの山が天磐盾と言われている=前述=)が必要か否かは、微妙である。 【熊野信仰の特質】 本宮・新宮の祭神を見ると、家都美御子大神(本宮)・熊野夫須美大神(新宮)という土着の神と、天照大神及び日向三代が中心である。 これらの神には、いずれも阿弥陀如来や千手観音などの本地仏*が割り振られている。*…神を仮の姿とする仏。これを「本地垂迹説」という。 中央政界では天武天皇の時代に、やまとの国古来の神の宗教に戻そうとしていたのは、伊勢神宮の建築様式などに表れている。 ところが、熊野では相変わらず仏教をベースとして発展し、記紀の神は仏の仮の姿であり続けた。 中でも特徴的なのは、神日本磐余彦尊が祭神になっていないことである。脇役の高倉下は祭神となっているのに、である。 念のために、神日本磐余彦尊を祭神とする神社を探すと、熊野鳴瀧神社(13世紀?、宮崎県西臼杵郡高千穂町) 上野(かみの)神社(創建不明、宮崎県西臼杵郡高千穂町)、神島神社(726年、岡山県笠岡市神島)が見つかった。 このうち鳴瀧神社・上野神社には熊野権現を勧請したという記録がある。 つまり、熊野権現の本拠地では記紀の要である神武天皇が無視されている。この地域は中央政界とは一線を画し、独立性を保ってきた気配がある。 【書紀における経路】 ①名草邑。名草戸部を討つ。 ②狭野を越え熊野神邑に到着。 ③天磐盾に、軍勢を率いて登ろうと試みるが急峻なので諦め、海路に戻る。 ④稲飯命・三毛入野命が海に去る。 ⑤荒坂津(丹敷浦)。丹敷戸部を討つ。全員中毒。高倉下が武甕雷神の剣を献上。頭八咫烏飛来。 ⑥剣絶な山を越え、菟田穿邑へ。頭八咫烏が案内する。 《熊野神邑》 阿須賀神社が面する熊野川の広い河口部は池田港と言い、かつて木材の積出港として栄えたという。 弥生時代には現代よりも海岸線が後退していて、蓬莱山は海中の小島であったと言われる。 また少し南には三輪崎港があり、神邑が「みわのむら」ともよまれることを考えると、入港地は現三輪崎港とも考えられる。 《高倉下献上の剣》 記ではこれを使って熊野山の荒神の魔力を消滅させるが、書紀では使い道が示されていない。 《天磐盾を登る》 熊野川河口から橿原を目指すには、しばらく熊野川沿いに登った後、必ず紀伊山地を越えなければならない。 紀伊山地の最高峰は八経ヶ岳(1915m)で、1500m程度の尾根が連なる。地形は険しく、修験道の地である。 尾根越えには本格的な登山の装備が必要で、天の磐盾の表現が相応しい。神倉山のような小さな山より、ずっと大きなスケールで捉えた方がよいのではないだろうか。 《丹敷浦》 上陸後山越えに菟田穿邑に向かうので、地理的には錦浦が自然である。旧錦浦には現在も錦漁港があり、船団が停泊するのに適している。 錦浦から上陸すると、山間ではあるが、現在の国道42号線から368、369号線沿いに宇陀郡宇賀志村に達する道がある。 宇多に向かうコースとしては、荒坂津神社発に比べ、はるかに容易である。 《記に付け加えたこと、記から省いたこと》 書紀には名草戸部・丹敷戸部の掃討、暴風との遭遇、最初の上陸の失敗が付け加えられている。 記には未採用の、各地の言い伝えを盛り込んだと思われる。しかし、荒坂津が荒坂津神社のところだとすれば、むしろ一度目の上陸地点と考えられ、丹敷浦を同一地点としたのは無理がある。 また、一度目の上陸を加えたが、「且登天磐盾仍引軍」が意を正確に表しきれないところ、また「復」を入れる箇所を誤ったところに、 漢文に精通していないスタッフの手が入った印象がある。 さらに、不思議な熊の出没が省かれたのはよいとして、せっかく甕雷神が降ろした剣を使う場面が脱落したのはどうしたことだろう。 このような若干の混乱を除けば、一度目の上陸地が熊野川河口付近、二度目の上陸地を錦浦とする読み取りは、合理性がある。 改めて、地名「あま」の分布と東征経路を比較する。一般的には「あま」と言えば「海人族」であるが、 これまでに見て来たように、天孫族も「あま(天)」の呼称をもっている。 西日本では「あま」と「こし」の分布は相互排他的で、特に九州の多くは「あま」地域である。 一方「こし」は新潟県が中心であるが、出雲・伯耆は「こし」が占め「あま」は空白である。 「こし」は東北地方にも広がりを見せ、雲伯方言が東北方言と共通性をもつ(第54回参照)こととの関連が注目される。 天孫族は九州南西部の阿多から上陸した。次に九州北部に進出しさらに東方を目指したが、山陰側は越の王国の領地だったので瀬戸内海を進んだ。 そして畿内に到達した。その歴史が神武東征伝説に反映したと見ることができる。 細かく見ると、東征の経由地とされる処にはそれぞれ近辺に「あま」があるが、高嶋宮と熊野神邑とされる熊野川河口の二か所は空白であるのが注目される。 九州の「あま」の分布には、記の経路の方が合致する。書紀が暗示する宮崎東岸コースには、当初はあま族は存在せず、古墳時代になってから東方から移住して来たと見られる。 一方、大国主勢力は、地名分布から見ると実はこし族であったことになる。 東征は、倭国大乱の時期(2世紀)で、日本海側はまだ大国主の領土であった。大国主から支配権を奪ったのは、天孫族がようやく畿内に到達し、そこに全国支配の拠点を確立した後だと考えざるを得ない。 その後、「あま」「こし」両族はもう争うことはなく、共に関東に広がっていったと見られる。 前回、閏月の出現率による信頼性の検証について触れたが、書紀全巻について調べたのが右のグラフである。 書紀で閏月の表現には、文字「潤」(うるふ)も使われるので、当然それも閏月に数えている。 グラフでは各巻ごとに予想される閏月の数*と、実際に閏月と書かれた個数を比較した。 *…「~月」の全数に閏月の出現確率(235分の7)を掛けたもの。 月が信頼できなければ、日付自体の信頼性はない。 後の巻になるほど2本のグラフが接近するのは、それだけ確実な記録に基づく記述が増えていくことを示している。 初期の、巻十四までの日付はほぼ創作であると見られる。 それ以後も、巻二十六までは創作された日付が、若干混ざっていると思われる。 日付が創作なら、その事跡自体も少なくとも一部は創作であろう。しかし、そこに何らかの歴史的事実が反映していることまでは否定できない。 話の内容自体は事実でなくても、「7世紀後半まで伝承が存在した事実」は認めてもいいだろう。 記ではそれを比較的原形に近い形で載せたのに対して、書紀はそれにもっともらしい日付まで添えて粉飾しているのである。 まとめ 熊野神邑の候補地と目されているのが、熊野川河口付近である。 書紀はこの地を指して「熊野神邑」と呼んだかも知れないが、前述したように速玉大社・熊野大社は神武天皇を祀らない。 また、日下、名草郡、宇陀郡などが、現代の地名にも繋がっているのに比べて、「神邑」を直接受け継ぐ地名は現地に見当たらない。この地域は、熊野信仰を独自に発展させる道を進む。 一方記においては、書紀と対応させれば「熊野村」は丹敷浦に当たるが、記は「熊野村」を特定の地ではなく、熊野方面の或る村という意味で使ったかも知れない。 【…天孫族の移動】の項で述べたように、 「東征」が天孫族が東へ勢力を広げる過程を意味するとすれば、牟婁郡には天孫族は植民しなかったのだろう。「あま」の地名の空白地帯になっているのもそれを裏付けるように思われる。 さて、神武天皇軍が生駒山越えも紀伊山地越えも叶わなかったように、大和平野は「青山四周」即ち、四方を山に囲まれ、難攻不落の地だったと考えられる。 紀伊半島の南海上を回り込む経路は、航路として存在したかも知れないが、実際の天孫族の侵攻は 北回りの陸路が中心で、各地で激戦が展開されたのではないかと想像される。 このようにして、①文脈をなるべく元の姿のまま、かつ正確に読み取る。 ②そこに、どのような歴史的事実が反映しているかを探る。の2つの作業を進めている。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
⇒ [098] 中つ巻(神武天皇3) |