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⇒ [092] 上つ巻(山幸彦海幸彦5) |
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2015.01.18(日) [093] 上つ巻(山幸彦海幸彦6) ▼▲ |
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![]() 今天津日高之御子虛空津日高爲將出幸上國 誰者幾日送奉而覆奏 故各隨己身之尋長限日而白之中 一尋和邇白 僕者一日送卽還來 即(すなは)ち悉(ことごと)和邇魚(わに)を召(め)し集めて、問ひて曰(い)はく 「今、天津日高(あまつひこ)之(の)御子(みこ)虚空津日高(そらつひこ)[将]上国(うはつくに)に出幸(いで)たまはむと為(し)て、 誰者(たそ)幾日(いくらのひ)に送り奉(まつ)りて[而]覆(かへ)り奏(まを)さむか。」といひて、 故(かれ)各(おのもおのも)己(おの)が身(み)之(の)尋長(ひろなが)の隨(まにま)に、日(ひ)を限(かぎ)りて[而]之(これ)を白(まを)す中(なか)、一尋(ひとひろ)の和邇(わに)白(まを)さく、 「僕(やつかれ)者(は)一日(ひとひ)に送りまつり、即ち還(かへ)り来(き)まつらむ。」とまをしき。 故爾告其一尋和邇 然者汝送奉若渡海中時無令惶畏 卽載其和邇之頸送出 故如期一日之內送奉也 其和邇將返之時 解所佩之紐小刀著其頸而返 故其一尋和邇者於今謂佐比持神也 故爾(しかるゆゑに)其の一尋(ひとひろ)の和邇(わに)に告(のたま)はく、 「然者(しかれば)汝(いまし)送り奉(まつ)れ。若(も)し海中(わたなか)を渡る時にも、[無]な惶畏(おそ)り令(し)めまつりそ。」とのたまひき。 即ち其の和邇之頸(わにのくび)に載(の)せ送り出(い)で、故(かれ)期(ご)の如(ごと)一日(ひとひ)之内(うち)に送り奉りき[也]。 其の和邇(わに)将(まさに)返(かへ)らむとせし[之]時、所佩之(みはかしの)紐小刀(ひもがたな)を解きて、其の頸(くび)に著(つ)けて[而]返(かへ)したまひき。 故(かれ)其の一尋(ひとひろ)の和邇(わに)者(は)、[於]今に佐比持神(さひもちのかみ)と謂ふ[也]。 是以備如海神之教言 與其鉤 故自爾以後 稍兪貧更起荒心迫來 將攻之時出鹽盈珠而令溺 其愁請者出鹽乾珠而救 如此令惚苦之時稽首白 僕者自今以後 爲汝命之晝夜守護人而仕奉 故至今 其溺時之種種之態不絶仕奉也 是(これ)を以(も)ちて、備(つぶさ)に海神(わたつみ)之(の)教(をし)へし言(こと)の如(ごと)く、其の鉤(ち)を与へまつりて、 故(かれ)自爾(しかるより)以(もて)後(のち)、稍(やうやく)兪(いよいよ)貧(まづし)く、更(さら)に荒(あら)き心を起こし迫(せ)め来たり、 将(まさ)に攻めむとせし[之]時、塩盈珠(しほみつたま)を出(い)だして[而]溺(おぼ)ほれ令(し)め、其(それ)に愁(うれ)ひ請(ねが)ひまつれ者(ば)塩乾珠(しほふるたま)を出(い)だして[而]救(すく)ひたまひき。 如此(かく)惚(ほ)れ令(し)め苦しめし[之]時、稽首(ふしてぬかつ)き白(まを)さく、 「僕(やつかれ)者(は)自今(いまより)以て後(のち)、汝(なが)命(みこと)之(の)昼(ひる)夜(よる)の守護人(まもりびと)と為(な)りて[而]仕(つか)へ奉らむ。」とまをしき。 故(かれ)今に至り、其の溺(おぼ)ほりし時之(の)種種之(くさぐさの)態(さま)を不絶(たへず)仕(つか)へ奉(まつ)る[也]。 そこで、すべての鰐〔鮫を指す〕を召し集め、質問されました。 「今、天津日高(あまつひこ)の御子の虚空津日高(そらつひこ)は地上の国にお出ましになろうとしておられます。 誰か、何日かの間にお送りし、帰って来られますか。」と。 そこで各々が自分の身長によって日数を定めて申告する中、一尋(ひろ)の鰐が、 「私めは一日で送り、すぐ帰って参ります。」と申し上げました。 そのような訳で、その一尋の鰐にこう命じられました。 「それではお前がお送りし、海中を渡っていく間も怖がらせるでないぞ。」と。 そして、その鰐の首につかまらせて載せて送り出し、期した通り一日の内にお送りしました。 その鰐が帰ろうとする時、帯刀していた紐小刀(ひもがたな)をほどき、その首に着けてお返しになりました。 それ故に、その一尋の鰐は、今に佐比持神(さいもちのかみ)と言うのであります。 このようにして、すべて海神(わたつみ)が教えた言葉の通りに、その釣り針を兄にお渡しし、 すると、これから後は次第に貧しくなり、貧しさが増すにつれ荒々しい心が高まり、迫ってきました。 まさに攻めようとした時、潮満珠(しほみつたま)を出して溺れさせ、兄はその苦しさを訴えお願いしたので潮干珠(しほひるたま)を取り出し、お救いになりました。 このように呆然とさせ苦しめた結果、兄は伏して額(ぬか)づき 「私目は、今後はあなた様を昼夜守護する人として、お仕えいたします。」と申し上げました。 このような訳で、今に至りその溺れた時の種々の様を舞うことを絶やさず、お仕えしているのございです。 幸…(万)0005 吾大王乃 行幸能 わがおほきみの いでましの。(万)0196 幸而 いでまして。 覆…[動] ①くつがえる。くつがえす。②おおう(「裏返してかぶせる」から派生)。(万)0557 大船乎 榜乃進尓 磐尓觸 覆者覆 おほぶねを こぎのすすみに いはにふり かへらばかへれ。 かへす(返す、帰す)…[他]サ行四段 〔ここでは「かへ(覆)す」を借訓する。〕 奏…(万)0894 奏多麻比志 まをしたまひし。(万)0237 志斐伊波奏 しひいはまをせ〔=強ひ言は申せ〕。 まをす(申す)…サ行四段 ①[他] 「言ふ」の謙譲語。②[補動] 補助動詞として動詞の連用形につき、相手を敬う意を表す。 隨…(古訓)ままに、したかふ。 尋…[名] 両手を広げた長さ。1.5~1.8m。(万)0902 栲縄能 千尋尓母何等 たくなはの ちひろにもがと。 僕…[代名] (一人称の人称代名詞)(古訓)やつかれ、われ。 惶畏…『中国哲学書電子化計画』(以下「中国古典」)2例。 惶恐(こうきょう)…おそれかしこまる。 ひもかたな(紐小刀)…第85回参照。 さひ(鉏)…[名] 鋭利な剣。 爾…(古訓)しかり、すすむ、ちかし、なむち。 稍…(古訓)すこし、やや、やうやく。 兪…(古訓)いよいよ。 荒…(万)0045 荒山道乎 あらきやまぢを。 如此…(万)4145 如此歸等母 かくかへるとも。 稽首(けいしゅ)…頭を地に近づけてしばらくとどめ敬礼する。頓首とともに中国で最も重い礼。 (万)0904 地祇 布之弖額拜 くにつかみ ふしてぬかつき。 態…(古訓)すかた、さま、わさ。 【和邇】 「わに」は現在の鮫を意味すると見られる。第89回《鰐》の項参照。 【幾日送奉而覆奏】 「送而覆」は、①「虚空津日子を送り帰す」、②「虚空津日子を送り、帰ってくる」の二通りの解釈ができる。 「送る」は当然「帰す」のであり、それにわざわざ「帰す」を付け加える必要はないから②だと思われるが、謙譲語「奏」をつけるので①かも知れない。 この要請に応える一尋鰐自身の言葉「一日送即還来」は、その書き方から②である。ということは、「奏」が示す一尋鰐の敬意は、天孫ではなく、海神に向いている。 そして、「覆奏」「還来」は天孫を送ったらそのまま帰らないことを恐れ、必ず海神のところへ帰って来いと念を押しているのである。 【隨己身之尋長限日】 「身長で往復日数が分かる」ことが理解できないので、読み取り方が違うのかと思った。しかし一書3にも「隨其長短、定其日数」とあるので、書紀編者もこれ以外の読み取りはできなかったことが分かる。 体格がよければ体力があるから、それだけ短い日数で往復できるということでだろうか。 村の古老が「それでな、鮫たちはそれぞれの身の丈で、行って来ってくる日数を測ったんだと。」と物語るのを、子らは聞き入ったのだろう。 しかし、ここがはっきりしないので、書紀本文に採用しなかったのかも知れない。 【将攻之時出塩盈珠】 「将」は漢文では「まさに~せんとす」と切迫する未来を表すが、万葉集では「将」自体は読まず助動詞「む」をつける。 ここでは敢えて漢文訓読調で「将攻」を「まさに攻めんとす」と訓んでみると、直前の「迫り来る」が生き、臨場感が出てきて面白い。 兄が怒りに燃えて迫り、いよいよ目前に攻め来て危うし!というときに、塩満珠を取り出す。かくて状況は一気に逆転するのである。 このような効果が期待できるので、時には「まさに」と訓読することもあったと推察する。古事記は本質的に口述するための文学だからである。 【佐比持神】 書紀では、鋤持神(さひもちのかみ)は一尋鰐ではない。 弟の稲飯命(いなひのみこと)が神武天皇と同乗していた船が難破したときに剣を抜いて海に入り、鋤持神(さひもちのかみ)になったものである。 記における稲氷命(いなひのみこと)は、母(玉依毘賣命)の国、海原に行ったとのみ書かれる。 【溺時之種種之態】 「溺時之種種之態」、即ち溺れてもがき苦しむときの様々な動きを基にして舞踊にした。隼人の子孫は芸能集団となって、それを受け継いでいるとする。 芸能集団は隼人の王が朝貢する際に同行して、饗(あへ=歓迎の宴席)で舞踊を披露したと見られる。その舞踊については、一書4に詳しく書かれている。 【書紀本文】
「妾(われ)已(すで)に娠(はらみたる)矣(や)、当(まさ)に産(う)まれむとするも不久(ひさしから)ず。妾(われ)必ず風(かぜ)涛(なみ)急峻之(けはし)日を以(も)ちて、出(い)で海浜(うみへ)に到らむ。我(わが)為(ため)に産室(うぶや)を作りて相(あひ)待(ま)つことを請(ねが)ひまつる[矣]。」とまをす。 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)已(すで)に宮(みや)に還(かへ)りて、一(もはら)海神(わたつみ)の教(をし)へに遵(なら)ひき。 時に兄火闌降命(ほすそりのみこと)、既(すで)に厄困(くるしび)を被(み)たり、乃(すなは)ち自(みづか)ら罪(つみ)に伏(ふ)し曰(まを)さく、 「従今(いまより)以(もて)後(のち)、吾(あれ)汝(なが)俳優(わざをき)の民(たみ)と将為(なりまつらむ)。請(ねが)はくは恩(めぐみ)を施(ほどこ)して活きまつらしめたまへ。」とまをして、 於是(ここに)、其の所乞(こひまつる)隨(まにま)に遂(つひ)にこれを赦(ゆる)したまひき。その火闌降命は、即ち吾田君(あたのきみ)小橋(こはし)等(ら)の本祖(もとつおや)なり。
帰ろうとしたとき、豊玉姫が天孫に申し上げるに、 「私は懐妊していて、遠からず生まれます。私は必ず風波激しい日に海辺に行きます。私の産屋を作り、二人で生まれる日を待つようお願いします。」と申し上げました。 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は本国の宮殿に帰り、すべて海神の教えの通りにしました。 その結果兄火闌降命(ほすそりのみこと)は、苦しい目に遭い、自ら罪に伏して申し上げました。 「これから私は芸人としてお仕えします。憐れみをもって命を御救い下さい。」 ここに願いを受け入れ、罪をお赦しになりました。火闌降命は、即ち吾田君、小橋らの始祖です。 《急峻》 「急峻」は本来、山や土地の険しさを意味する。 中国古典を見ると、「水勢急峻」(『水経注』)、「河路急峻」(『通典』)は流水のようすを示す。 『世説新語』には「垣牆重密、門閤急峻」(牆は垣と同じ、閤は潜り戸)。理由は「有盗」とあるから、「厳重に閉める」意味である。 従って、「急峻」にも「けはし」と同様に一般的な厳しさ、激しさへの意味の拡張がある。 和語の「けはし」ももともと山のけわしさが、一般的な激しさに拡張される点が類似している。 《吾田君小橋等之本祖》 『新撰姓氏録』から「小橋」を探すと「諸蕃」(渡来人系の氏族)に ・河内国 未定雑姓 小橋造 造 新羅国人多弖使主之後也 があるが、新羅国からの渡来人であるから「火闌降命を本祖とする小橋」とは別である。 『新撰姓氏録』には、火闌降命の子孫とされる氏族は、次の2例がある。 ・大和国 神別 天孫 大角隼人 出自火闌降命也 ・摂津国 神別 天孫 日下部 阿多御手犬養同祖 火闌降命之後也 『新撰姓氏録』は815年に編纂され、畿内の1182氏について、祖先や分岐をまとめたというが、現存するのは抜書きだけだという。 また、もともと氏族の半分以上が未収録だという。 《書紀本文の特徴》 鰐に乗って戻る話は、すべて削除された。 一方、火火出見尊が出発する前に、豊玉姫が何れ上つ国に行く予定であることを付け加えている。 火闌降命が服従するまでの過程は簡略化され、骨子のみが書かれる。 【一書1】
いたす(致す)…[補動]サ行四段 その動作の及ぶ相手を敬う。 【一書2】
故(かれ)弟(おと)潮溢瓊(しほみつたま)を出(い)で、則(すなは)ち潮(しほ)大(おほ)きに溢れて兄自(おのづか)ら没(しづ)み溺(おぼ)ほれたり。 因(よ)りて請(ねが)ひて曰(まを)ししく「吾(われ)[当]汝(ながみこと)に事(つか)へて奴僕(やつかれ、つかへびと)と為(な)りまつらむ。願はくは救ひ活くを垂れたまへ。」とまをしき。 弟潮涸瓊(しほふるたま)を出で、則ち潮自(おのづか)ら涸(ひ)て兄還(かへ)りて平(たひら)かに復(かへ)りき。 已(を)へて兄前言(さきのこと)を改(か)へて曰はく「吾(われ)是(これ)汝(なが)兄(このかみ)ぞ。如何(いかに)人の兄を為(し)て[而]弟に事(つか)へしむ耶(や)。」といひき。 弟時に潮溢瓊を出でて、兄之(これ)を見て、高き山に走り登りて、則ち潮亦(また)山を没(しづ)め、兄高き樹(き)に縁(よ)りて、則ち潮亦(また)樹を没めたり。 兄既に途(みち)を窮(きは)まりて、逃げ去(い)ぬる所無く、乃(すなは)ち罪に伏し曰(まを)ししく、 「吾(あれ)已(すで)に過(あやま)ちぬ[矣]。今従(より)以(も)て往(ゆ)きて、吾(あが)子孫(あなすゑ)八十連属(やそつつき)、恒(つね)に[当]汝が俳人(わざをき、わざひと)為(な)らむ。一云(あるいはく)、狗人(いぬひと)。之(これ)哀(あはれぶ)を請(ねが)ひまつる。」とまをしき。 弟[潮]涸瓊を還(かへ)り出(い)だし、則ち潮自(おのづか)ら息(や)みき。於是(ここに)、兄、弟に神(くすしき)徳(いきほひ)を有(もて)ることを知りて、遂に以て伏してその弟に事(つか)へまつる。 是を以ちて、火酢芹命(ほすせりのみこと)の苗裔(すゑ)、諸(もろもろ)の隼人(はやと)等(ら)、今に至り天皇(すめらみこと)の宮(みや)墻(かき)の傍(そば)を離れず、吠狗(ほえいぬ)に代はりて奉(まつ)り事(つか)ふればや。 世の人失(う)せし針を漬けざる、此れその縁(よし)なり。
海神(わたつみ)の教えにいちいち従い、はじめに釣り針を兄に渡したところ、兄は怒って受け取りませんでした。 そこで弟は潮満瓊(しおみつたま)を出し、よって海潮は大きく溢れ、当然兄は没溺しました。 よって、「私はあなた様に随い、奴僕(ぬぼく)になります。命をお助けください。」とお願いしました。 弟は潮干瓊(しおひるたま)を出し、海潮はおのずと退き、兄は還り平復しました。 その後、兄は前言を覆し「私はお前の兄である。どうして兄が弟に仕えることがあろうか。」と言ったので、 弟はすかさず潮満瓊を出し、兄はそれを見て高い山に登ったが山は海潮に没し、高い木に縋ったが、木は海潮に没し、 遂に窮まりもう逃げることろはなく、罪に伏して、 「私が過ちを犯しました。これからは子孫まで一族が芸人(あるいは、犬人とも)を務めます。これに慈しみをもってお助けください。」と申し上げました。 弟は替えて潮干瓊を出し、海潮は自然に止みました。ここに兄は弟に神の徳を備えるを思い知り、とうとう弟に仕え奉ることとなりました。 これをもって、火酢芹命(ほすせりのみこと)の苗裔たる隼人の諸族は今日まで天皇の宮殿の周囲の警備を担い、番犬のようにお勤めしているのであります。 《以其鉤与兄》 「以其鉤与兄」は一書3で引用する『魏志倭人伝』の「以朱丹塗其身体」と同じ構文である。二重目的語のうち、対格の目的語に「以」をつけて倒置したものである。 これについては、第92回の【以此鉤給其兄時】で考察したところである。 《奴僕》 古訓に「やつかれ」とあるが、古語辞典によれば、これは相手に対して遜っていうときの、一人称の人称代名詞だとされる。 しかし、倭名類聚抄では訓を「和名夜豆加礼」(やつかれ)としつつ、意味は「侍従人」(さふらひしたがふひと)としている。 従って、少なくとも平安時代までは、本来の「奴僕(ぬぼく)」の意味でも使われていたことになる。 奴僕を表す他の和語としては、例えば「はしたもの」があるが、これは女性に限る。 「はしたわらわ(端童)」という語もあるので「端」は、軽い役割を担う人を指すようである。「奴僕」は、もう少し重い立場であろう。 古語辞典には「使ひ人」の項目がある。これは使う側からの呼称で、仕える立場から言えば「仕へ人」だろう。 「仕へ人」は古語辞典にはないが、「つかひびと」を反対の立場から見た呼称として、自然に理解されうるものである。 (「つかふ」は「使ふ」が四段活用、「仕ふ」が下二段活用) 《平復》 中国古典に98例。そのうち『芸文類聚』(巻七十五/医)の「平復」は病気からの回復を意味する。多くの国語辞典は、この意味のみを載せている。 他に『三国演義』の「平復江夏諸県」、「説東呉各処山賊尽皆平復」(東呉、各処の山賊に説き、尽(ことごと)く皆平復す。)などの例では、 「平定」の意味だろう。以上から、広く「平穏を復する」意味で使う熟語だと思われるので、ここでは「溺れ、苦しむ状態から回復する」であろう。 《俳人》 「わざ」は、業(仕事)、技(技能)、ありさまなどを指すが、熟語になると「わざと~する」意味になる。 ・わざうた(謡歌、童謡)…政治や世情を風刺したはやり歌。 ・わざごと(俳諧)…冗談。戯れ。 ・わさをき(俳優)…滑稽な動作・歌舞をして楽しませる人。 従って「俳人」は俳優と同じなので「わざをき」である。あるいは「犬人」と対応させ、「わざひと」も可能であろう。 なお、現代の「俳人」の意味は俳句を詠む人である。「俳句」の起源は、もともと集団で作る連歌におどけた内容(俳諧)を盛り込んだ「俳諧連歌」で、その冒頭の5・7・5を抜き出し、芸術性をもつようになったものが「俳句」だという。 《苗裔》 中国古典に「苗裔」は125例あった。和語では「すゑ」に、子孫の意味がある。 《一書2の特徴》 一書2では兄が始めに一度偽りの屈服をするという、二段構えの筋書きになっている。 本来は長子が一族の長になるべきだとする、一般にある感情が反映しているかも知れない。 また一書2は、隼人を「犬人」と呼び、番犬に擬える。また始祖が溺れる不幸を面白おかしく見せる舞を見せ、朝廷や都の人を楽しませる「俳人」でもある。 これらの表現は、隼人に対する蔑視を感じさせる。 朝廷と隼人との関係については、役職「隼人司」が養老律令(757年施行)内にあり、畿内に移ってきた隼人を管理したと考えられている。 【一書3】
時に諸(もろもろ)の鰐魚(わに)、各(おのおの)其の長き短(みじか)きの隨(まま)、其の日数(ひかず)を定め、中に一尋(ひとひろ)の鰐(わに)有り、自(みづか)ら言(まを)さく「一日之内(ひとひのうち)、則(すなは)ち当致(いたさむ)[焉]。」とまをしき。 故(かれ)即ち一尋(ひとひろ)の鰐魚(わに)を遣(つか)はし、以て奉(まつ)り送りき[焉]。 (中略) 時に彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、已(すで)に帰り来たり、一(もはら)[海]神(わたつみ)の教(をし)へに遵(なら)ひ、依而(よりて)之(これ)を行ひ、其の後(のち)火酢芹命(ほすせりのみこと)、日(ひ)を以ち襤褸而(かかふをかけて)之(これ)を憂(うる)へ曰(い)はく「吾(あれ)已(すで)に貧(まづ)しかるや[矣]。」とうるへ、 乃(すなは)ち[於]弟を帰(かへ)り伏しき。弟、時に潮満瓊を出(い)で、即ち兄手を挙げ溺(おぼ)ほり困(くる)しび、潮涸瓊を還(かへ)り出(い)だし、則(すなは)ち休而(やみて)平(たひら)かに復(かへ)りき。
海神は鰐を召し集め、「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は間もなくお帰りになろうとしている。お前たちは、何日かけて行おうとして、奉り致すか。」と聞いた。 鰐たちが身長の長短によって所要日数を判断しようとする中、一尋の鮫が自ら「一日以内に致します。」と申し出た。 (中略) 彦火火出見尊はすぐに帰り着き、いちいち海神に教えられた通り行ったところ、火酢芹命(ほすせりのみこと)は日に日にぼろ布の貧しさとなり、「どんどん貧しくなっていく。」と嘆いた。 そして弟への復讐を始めた。弟はここで潮満瓊を出し、兄は手を上げて振り溺れ苦しんでいるところで、瓊を換え、潮涸瓊を出した。満つ潮は止み、兄は無事に戻った。 《将作》 「将作」は「せむ」("す"(為)の未然形+推量の助動詞"む"の連体形」である。漢字「作」には「為」の意味もある。 類例が万葉集にある。 (万)4236 将言為便 将作為便不知尓 いはむすべ せむすべしらに。 すべ(術)は、手段の意。「作」は「為」(す、なす)の意味で使われる場合がある。ここでは代動詞"do"として「天孫を送り届ける」を意味する。 「幾日之内将作以」は、名詞化された「将作」が意味としては「以って」の目的語になっている。本来は「所」を補い、「以」を前置詞として「以幾日内所将為」か。 《襤褸》 中国古典に19例。そのうち、『方言』(前漢、楊雄著)の例を見る。「帰伏於弟」 「南楚凡人貧衣被醜弊謂之須捷。或謂之褸裂、或謂之襤褸」 〔南楚は凡その人、衣貧しく、醜く弊(やぶ)るるを被う。之を「須捷」と謂い、或いは「褸裂」と謂い、或いは「襤褸」と謂う。〕 古語辞典では、和語「かかふ」(ぼろ布)に「襤褸」が宛てられている。万葉集に「かかふ」は一例のみである。 (万)0892 美留乃其等 和〃氣佐我礼流 可〃布能尾 肩尓打懸 みるのごと わわけさがれる かかふのみ かたにうちかけ。 〔海藻のミルのように裂けた「かかふ」のみを肩にかけ〕 (わわく…[自] カ行下二 衣服などが破れ、ちぎれちぎれになる。) ただ、ここの「襤褸」は、関連する「被」「著」「衣」などがないので文章としての前後の繋がりはなく、 貧しさを象徴する語として使われたと思われる。 【一書4】
兄則(すなは)ち溺(おぼほ)れ苦しみ、生く可(べ)き由(よし)無く、便(すなは)ち遙(はる)かに弟に請(ねが)ひ曰(まを)さく、 「汝(ながみこと)久しく海原(うなはら)に居(ま)し、必ず善(よ)き術(すべ)有り、願(ねが)はくは以て之(これをもち)救ひたまへ。若(も)し我(やつかれ)を活けば、吾(あが)生(な)さむ児(こ)八十連属(やそつつき)、汝之(なが)垣辺(かきのへ)を離れず、[当]俳優(わざをき)の民(たみ)を為(な)さむ。」 於是(ここに)、弟の嘯(うそぶ)き已(すで)に停(とど)みて風亦(また)還(かへ)り息(や)む。故(かれ)、兄、弟の徳を知り、自(みづか)ら辜(つみ)に伏すを欲りて、弟慍色(いからすかほ)有り、共(とも)に言ふを与(ゆる)したまはざりき。 於是(ここに)、兄犢鼻(たふさき)を著(つ)け、赭(あか)を以ち掌(たなごころ)に塗り面(かほ)に塗り、其の弟に告(まを)さく[曰]「吾(あが)汚(きたな)き身(かたち)如此(かく)あり、永く汝が俳優(わざをき)と為(な)りたまはめば。」とまをしき。 乃(すなは)ち足を挙げ踏み行(おこな)ひ、その溺(おぼ)ほれ苦之(くるしみし)状(かたち)を学(まね)び、 初(はじ)めて潮(うしほ)足を漬けし時則(すなは)ち足を占(し)め為(さ)せ、膝(ひざ)に至りし時則ち足を挙げ、股(もも)に至りし時則ち走り廻(めぐら)し、 腰(こし)に至りし時則ち腰を捫(な)で、腋(わき)に至りし時則ち手を於胸(むねに)置き、頸(くび)に至りし時則ち手を挙げ飄掌(たひらかす)。 自爾及今(しかるよりいまにおよび)、曽(かつて)廃(すた)れ絶(た)ゆること無し。 (中略) 八十連属、此を野素豆豆企(やそつつき)と云う。飄掌、此を陀毗盧箇須(たひろかす)と云う。
帰ってきた火折尊(ほおりのみこと)は、つぶさに海神の教えに倣い、兄が海岸にいて釣りをしている日に、浜で口笛を吹いた。するとたちまち、陣風(はやて)が起こった。 兄は溺れ、もう生き抜く術を失い(沖に流され)遥かに弟にこう言って願った。 「あなたは長く海原にいたから、助けるよい方法を知っているだろう。願わくば助けてください。もし生かしてくれれば子々孫々まで宮殿周りの警備に励み、芸人の民となろう。」 そのころ、弟の口笛は既に終え、風は静まった。そして弟は、兄が弟の徳を理解し自ら罪に伏すことを要求して怒りの色を消さず、兄の言葉に同意することを拒んだ。 そこで、兄は(弟の許しを得るためにさらに、)褌一つになり、掌・顔に朱を塗り、弟に「このように見っともない姿となり、末永く芸人となろうとするのだから(許していただきたいのです)。」と申し上げた。 そして、水に溺れる姿を舞踊にコラージュして演じて見せた。その舞踊は隼人に受け継がれ、未だかつて廃絶したことはないのである。 《走廻》 廻は回と同じである。それらの訓を確認する。 廻…(古訓)さく。 回…(古訓)かへる、まかる、めくる。これらの3つの動詞は、何れも万葉集で使われている。 みる(回る、廻る)…[自]マ行上一 (万)0357 奥嶋 榜廻舟者 おきつしま こぎみるふねは。 めぐらす(廻らす、回らす、巡らす)…[他]サ行四段 ①回転させる。②囲む。 (万)0388 伊与尓廻之 いよにめぐらし。 もとほる(回る、廻る)…[自]ラ行四段 めぐる。 (万)0509 磐間乎 射徃廻 いはのまを いゆきもとほり。 よってここでは、字の通り「走り廻る」の意味である。 《飄掌》 訓注に「たひるかす(たひろかす)」とある。「掌」は「手(た)」にあたるので、「た+ひるかす」か。そして「飄」を調べると、 飄…[動] ひるがえる。風に吹かれてひらひらと舞いあがる。(古訓)ひるかへる、ひろめく。 古語辞典には動詞「ひるがへす(翻す、=裏返す・ひらひらさせる)」がある。「ひるかす」は「ひるかへす」の転か。 以上から、挙げた手の手のひらの向きを交互に変える動きかと思われる。沖縄のカチューシーにもそんな手の動きがある。
文脈上「嘯く」の意味は口笛以外に考えられない。一書4では潮満瓊・潮干瓊の代わりに、口笛に神秘の力を与えている。 一書4の舞台は海岸であり、陣風に伴って海岸に潮が襲い兄の体を沖へ運ぶのだから、これは台風による高潮である。高潮は、台風の低い気圧による海面の盛り上がりと、暴風による吹き寄せが重なって起こる気象現象である。 暴風の風切音は、口笛のようにも聞こえる。 九州南部は、しばしば強力な台風が通過する。薩摩半島や大隅半島を通過するときは、志布志湾や油津付近の海岸は、南東の風が海水を海岸に吹き寄せる(右図)。 この話は、高潮に襲われたこの地域の体験に基づいていると思われる。この地の近くに鵜戸神宮があり、潮満瓊、潮干瓊が祀られていることは、地理的条件に合致している。 また、この地に伝わる古い舞踊が、褌(ふんどし)一丁で顔に朱を塗り、高潮に襲われる姿を題材にしているというは、本当にあり得そうなことである。 書紀の「天武天皇11年」に、朝貢に訪れた隼人のために饗(あへ、=饗応の宴)を開いた記録がある。曰く「饗隼人等於明日香寺之西、発種々楽」。 (第87回【隼人】の項参照) この「種々の楽」(くさぐさのがく、=種々の音楽。当然舞踊を伴う)は、「道俗悉見之」つまり、僧も衆も挙って興味深げに見物したというので、その演目にはこの舞踊もあったと想像される。 また、『魏志倭人伝』に倭人の風習として「以朱丹塗其身体」と記載される。(因みに、文法的に一書2の「以其鉤与兄」と同じ構文である。) 3世紀半ばの倭の、朱で体を彩る風習が目撃されていたわけで、記紀によればそれは南九州のものである。こうやって魏志と記紀が交わることもある。 【隼人舞発祥之碑】 月読神社(京都府京田辺市大住池平)には隼人舞発祥之碑がある。地名「大住」は「大隅」に通じ、言葉や文化も 他とは大きく異なっていたという。 碑文によれば「大隅隼人は7世紀頃に大住に移住し、郷土の隼人舞を大嘗祭のときなどに 朝廷で演じ, また月読神社にも奉納して舞い伝えてきた。」 そして牧山望氏(1900~1991)によって隼人舞が復元されたという。参考:発祥の地コレクション―隼人舞(京田辺市)。 youtubeに投稿された月読神社の隼人舞を見ると、スキップのように跳ねたり、そのまま体を回転したり、両手で水を掻くような振りが見られる。 【この段の成り立ち】 一書4には、住民の生活と自然災害との関わりが色濃いので、一書4が原形か。 そこに由来は不明だが、塩満珠・塩涸珠が加わり、記となる。記は漢文に翻訳されて一書3となる。 書紀本文では最終的に諸資料で不一致な部分を削ぎ取り、骨格だけに絞ったと思われる。 記は、隼人に対しては、「お前たちの祖先は天孫に服従を誓ったのだから、忠誠を尽くせ」と言い聞かせている。 ただし、書紀では、「犬人」という冷淡な表現によって突き放すのに対し、記では「守護人」という一応の礼をわきまえた表現をしている。 天武天皇の遺志を受け継ぎ諸族の統合を目指す記と、政権内部の官僚の手になる書紀との性格の違いが、こういう所にも現れている。 【インドネシア・オセアニアの釣り針喪失譚】 記紀の山幸彦海幸彦に類似した神話がインドネシアやオセアニアで蒐集されており、松本信廣氏(1897-1981)の『日本神話の研究』(平凡社、東洋文庫180、1971年)にまとめられている。 氏はそれらを、J.S.Kubary氏などの研究者による19世紀末の諸論文から得ている。5編の話から類似部分を抜粋する。
《スラウェシ島(インドネシア共和国)のミナハッサ》
《ケイ島(インドネシア共和国のケイ諸島か)》
《スマトラ島(インドネシア共和国)のバタク族》
《スラウェシ島のトラジア族》
【南九州はオセアニアの北端か】 インドネシアからメラネシア・ミクロネシア一帯の文化圏は、その北の端に南九州まで含んだかも知れない。 <wikipedia>記録に残っている最古の釣り針は、紀元前7000年ごろのものでパレスチナで出土した。これまで人類はありとあらゆる材料で釣り針を作ってきた</wikipedia> とされる。上記のパラオの神話では、釣り針は貝殻で作っている。だから、釣り針喪失譚の起源は相当古くまで遡るだろう。そのうち陸上で狩猟生活に入った民族では、槍の話に変形したと思われる。 記紀では釣り針のままなので、虚空津日高の一族は海洋との関わりが深かった。その実の姿は、①海洋民族との交流が盛んだった。②直接的にオセアニアの民族が渡来した。 ③大陸由来の民族が、オセアニア各地及び倭国に広がった。のどれも考えられる。 山幸彦・海幸彦の争いでは最後は山幸彦が海幸彦を服従させるが、山幸彦も海洋に出かけ海神の霊力を借りてはじめて勝利できたのだから、両者とも海洋との繋がりが深い。 いわば、海洋系民族内で二派が勢力を争い、敗者は勝者の奴僕になったのである。 【隼人とはいかなる勢力か】 九州の薩摩地域は、古墳時代の直前から奈良時代まで独立した勢力であったのは明らかである。 「隼人」(はやと、はやひと)の「はや」は、しばしば武力で天孫や朝廷に立ち向かった者の名に冠せられている。 魏志倭人伝を読み、卑弥呼の国に敵対した狗奴(くな)国はこの地域ではないかと考えた。 天武天皇のときは周辺国として朝貢を受ける関係であった。このように時に武力で戦い、ときに外交関係を結んだ。 それでは、隼人はどのような民族でであったのだろう。 可能性としては、①紀元前4世紀頃渡来した百越人の子孫。②天孫族の一部が袂を分かってこの地に留まり、畿内に移った勢力と敵対関係になった。 ③この地は地理的に独自性をもちやすい条件があり、①②を含め様々な時期の渡来民が混合してひとつの勢力になっている。の3つが考えられる。 ①については、『魏志倭人伝をそのまま読む』第32回参照。 ③については、関が原の役を制した家康が島津への侵攻を最後は諦めたように、他の地域から独立しやすい条件があるのではないかと思われる。 何れにしても、今のところ結論は出ない。 まとめ この段では、中央の隼人出身者に対して「お前たちの祖は天孫に屈したので、宮廷の外回りの警備を担い、 祖の溺れ苦しむ姿を素材にした、おどけた舞踊により慰みを供することになった。末永く励め」というメッセージを送っている。 書紀でも同じことを言うが、そこに「吠える犬に代わって警備する」「犬人」という表現があり、 官僚による辺境諸族に対する蔑視を、露骨に感じさせる。官僚は政権に忠実だが、人民の眼には主人の威を借りて威張っていると映る。 秀吉の威を借りて上から接し、諸将の怒りを買った石田三成がその典型である。 まだ、記の「守護人」という表現の方が相手への尊重と敬意が感じられる。 このような官僚の姿勢に対して人民は必然的に反発し、 書紀が完成した720年には、隼人の反乱(第87回参照)が起こっている。 この反乱は基本的に、中央が律令制を持ち込もうとしたことに対する反発とされている。 さて、釣り針喪失譚の主な部分については、インドネシア・ミクロネシアの広汎な地域に神話の中核が共有されていることから見て、南九州地域の種族が少なくとも海洋民族と接点があったのは確かである。 一方、因幡の白兎が書紀で無視されているのとは対照的に、山幸彦海幸彦の話は類似する一連の一書も添え手厚く取り上げられ、 この神話が天孫族の出自に関して大きな意味を持つことを示している。 これは、隣接する民族と多少の交流があった程度ではなく、天孫族が海洋民族に太いルーツをもつことを物語るものである。 第88回で書いたように、全国の制覇に乗り出す前に、海洋民族だったころの記憶をどうしても確認しておかねばならなかったのである。 しかしまだ、天孫のもう一つのルーツと思われる阿蘇山周辺の勢力との関係や、隼人の由来などいろいろ入り組んだ問題が残っている。 |
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2015.01.26(月) [094] 上つ巻(山幸彦海幸彦7) ▼▲ |
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![]() 妾已妊身今臨產時 此念天神之御子不可生海原 故參出到也 爾卽於其海邊波限 以鵜羽爲葺草造產殿 於是其產殿未葺合 不忍御腹之急故入坐產殿 爾將方產之時白其日子言 凡佗國人者臨產時以本國之形產生 故妾今以本身爲產願勿見妾 於是(ここに)海神之女(わたつみのむすめ)豊玉毘売命(とよたまひめのみこと)自(みづか)ら参出(まゐで)て[之(これ)を]白(まを)さく、 「妾(われ)已(すで)に妊身(はら)みて今産(う)まれむ時に臨(のぞ)みて、此(これ)天神之(あまつかみの)御子(みこ)海原(うなはら)に不可生(うまるべくもあらず)と念(おも)ひまつりし故(ゆゑ)に参出到(まゐりいでたり)[也]。」とまをして、 爾(かれ)、即ち[於]其(そ)の海辺(うみへ)の波限(なぎさ)に鵜(う)の羽(は)を以(も)ちて葺草(かや)と為(し)て産殿(うぶどの)を造る。 於是(ここに)其の産殿(うぶどの)未(いま)だ葺(ふ)き合(あ)へず、御腹(みはら)之(の)急(すみやかにあること)を不忍(しのばざ)り。故(かれ)、産殿(うぶどの)に入(い)り坐(ま)し、 爾(かれ)将方(すでに)産之(うまむとせし)時、其の日子(ひこ)に言(こと)を白(まを)ししく、 「凡(おほよそ)佗国(とつくに)の人(ひと)者(は)産まるる時に臨み、本(もと)の国之(の)形(すがた)を以ち産み生(な)す。故(かれ)妾(われ)も今、本(もと)の身(み)を以ちて産みまらむと為(す)。願はくは妾(われ)を勿(な)見たまひそ。」とまをしき。 於是思奇其言竊伺其方產者 化八尋和邇而匍匐委蛇 卽見驚畏而遁退 爾豐玉毘賣命知其伺見之事 以爲心恥乃生置其御子而白 妾恒通海道欲往來 然伺見吾形是甚怍之 卽塞海坂而返入 是以名其所產之御子謂 天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命【訓波限云那藝佐 訓葺草云加夜】 然後者雖恨其伺情不忍戀心 因治養其御子之緣 附其弟玉依毘賣而獻歌之 於是(ここに)其の言(こと)を奇(あや)しと思(おぼ)ほして、其の方産(まさにうまむとする)を窃(ぬす)み伺(うかが)ひたまへ者(ば)、八尋(やひろ)の和邇(わに)と化(な)りて[而]匍匐(は)ひ委蛇(もとほ)る。 即ち見(め)して驚(おどろ)き畏(かしこ)みて[而]遁(のが)れ退(そ)きたまひ、爾(かれ)豊玉毘売命(とよたまひめ)其の伺(うかが)ひ見之(めされし)事を知りまつりて、 心(こころ)に恥(は)づかしと以為(おも)ひて、乃(すなは)ち其の御子(みこ)を生(う)み置(お)きまつりて[而]白(まを)さく、 「妾(われ)恒(つね)に海道(うみぢ)を通ひ往来(いきき)するを欲(ねが)ひて、然(しかれども)吾(あが)形(すがた)を伺ひ見(め)したまふ、是(これ)甚(いた)く[之を]怍(は)づなり。」とまをして、 即ち海坂(うなさか)を塞(ふさ)ぎて[而]返(かへ)り入(い)りき。 是(これ)を以ち、其の[所]産之(あれましし)御子(みこ)を名(なづ)けて、 天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと)と謂ふ【「波限」を訓み那芸佐(なぎさ)と云ふ。 「葺草」を訓み加夜(かや)と云う。】。 然(しか)る後(のち)者(は)其の伺(うかが)ひし情(こころ)を雖恨(うらめども)恋心(こふるこころ)を不忍(しのばず)、 其の御子を治(をさ)め養(やしな)はむ[之]縁(よし)に因(よ)りて、其の弟(おと)玉依毘売(たまよりひめ)を附(つ)けて[而]、[之]歌ひ献(まつ)らしめき。 ここに海神(わたつみ)の息女豊玉毘売命(とよたまひめのみこと)は自ら出てきて、こう申し上げました。 「わらわは既に孕み、間もなく産まれようとする時に臨み、天つ神の御子を海原に産むなどあってはならないと思い、出てまいりました。」 そして、そのままその海辺の渚に鵜の羽を以って萱(かや)として産殿(うぶどの)を造りましたが、 その産殿が未だ葺(ふ)き合わさないまま、これ以上忍ぶことができず御腹が緊急となり、産殿に入りました。 そして、まさに産まれようとしたとき、火遠理命に申し上げました。 「凡そ異国の人は産まれる時に臨み、本の国の形を以って産みます。そこでわらわも今は、本の身を以って産むことといたします。お願いですので、わらわを見ることのなきように。」 ここにその言葉を不審に思い、その産まれようとするところを盗み窺いたところ、八尋(やひろ)の鰐と化して匍匐(ほふく、腹ばいに歩き)し体をくねらしていました。 それを見て、驚き恐ろしく、そこから遁(のが)れ退き、そのため豊玉毘売命は窺き見されたことを知り、 心の底から恥に思い、その御子を産み置き、申し上げました。 「わらわ恒(つね)に海路を通ひ往来したいと思い、然るに私の姿を窺い見られましたのは、いたく恥ずかしいことでございます。」と申し上げ、 即ち海境(うなさか)を塞いで、海に入り帰って行きました。 これを以って、その産まれた御子を名付け、 天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうかやふきあえずのみこと)といいます。 しかる後は、豊玉姫を覗いた心を恨みながらも、恋する心を抑えきれず、 御子を教え養う役を担わせた妹の玉依毘売に託して、その歌を献上させました。 臨…(古訓)みる、のそむ、むかふ。(万)1520 望者多要奴 のぞみはたえぬ。(万)0223左注 臨死。(万)0813左注 臨海丘上有二石。 のぞむ…[他] (望む)はるか遠くまで見やる。希望する。[自] 直面する。〔「臨」を「のぞむ」と訓読したことから生じた用法〕 産…(万)0904 産礼出有 うまれいでたる。(古訓)こうむ、うまる。 なぎさ(渚、汀)…波打ち際。 葺…茅(かや)などで屋根をつくる。(古訓)おほふ、かさぬ、ふく。(万)0007 美草苅葺 みくさかりふき。 急…(古訓)はけし、すみやかなり。(万)0020 急 すむやけく。(万)1141 武庫河 水尾急嘉 むこがはの みををはやみか。 (万)2108 秋風者 急〃吹来 あきかぜは とくとくふきこ。 忍…(古訓)しのふ。(万)0965 振痛袖乎 忍而有香聞 ふりたきそでを しのびてあるかも。 方将…まさに。 将方…中国古典には熟語として存在しない。検索で当たるのは「大将、方…」などたまたま連なった場合のみ。「方将」の誤りか。 将…(古訓)まさに~せんとす(平安中期以後、漢文訓読体に用いた)。 方…(古訓)すてに、まさに。 佗…ほかの。よそもの。 とつくに(外つ国)…[名] ①畿内以外の国。②外国。異国。 形…(万)2241 夢見 妹形矣 いめにぞみつる いもがすがたを。(万)3820 夕附日 指哉河邊尓 構屋之 形乎宜美 ゆふづくひ さすやかはへに つくるやの かたをよろしみ。 竊…(万)2832 吾竊儛師 わがぬすまひし。 伺…(古訓)うかかふ。 うかがふ(窺ふ)…[他]ハ行四段 こっそり見る。 化…(万)1099 陰尓将化疑 かげにならむか。 匍匐(ほふく)…地面や床に身を伏せて手足を動かす。はらばう。(万)0458 若子乃 匍匐多毛登保里 みどりこの はひたもとほり。 委蛇(ゐい、ゐだ)…うねうねとはい回るようなさま。(万)0199 伊波比廻 いはひもとほり。 遁退…(『中国哲学書電子化計画』の検索。以下、中国古典)3例。 遁…(古訓)のがる。 のがる(逃る)…[自]ラ行下二 にげる。 退…(万)0258 退出而 まかりでて。(万)1801 退部乃限 そきへのきはみ。 そく(退く)…[自]カ行四段 離れる。遠ざかる。 うみぢ…(万)0366 海路尓出而 うみぢにいでて。 欲…(古訓)ねかふ。ほす。とす。 通…(万)0079 通乍 かよひつつ。 怍…[動]はじる。ぎくっとする。(古訓)はつ。 塞…(万)3388 風吹者 浪之塞 海道者不行 かぜふけば なみのささふる うみぢはゆかじ。(古訓)ふさく、せき、へたつ。 海坂…うなさか(海境)の借訓。うなさか…海の果て。 戀心…(万)2016 戀心自 こふるこころゆ。 【臨】 「のぞむ」は上代からあるという。本来は「のぞむ」は遠くから見る意味だったが、<古典基礎語辞典>漢字「臨」を「のぞむ」と訓読したことから生まれた用法</同辞典>とされる。 万葉集0813の左注では「臨」が「遠くを望む」意味で使われているから、万葉集を編纂した時代には既に「臨」が「のぞむ」と訓まれていたことがわかる。 【不忍御腹之急故】 「急」は、出産が切迫していることを意味する。「故」は「ゆゑ」かも知れないが、「ゆゑ」は、直接名詞から接続する((万)0021 人嬬故尓 ひとづまゆゑに。など)。 万葉集では「急」は「はやみ」と訓む例がある(多くは「速」の字を宛てる)。形容詞の語幹+接尾語みは、原因・理由を表す場合があり、 「目的語+を+語幹+み」(例:みを・を・はや・み)の構文をとる。「之」は漢文において、目的語を述語の前に倒置するときに間に置く用法がある。 そこで「み」に「故」を宛てたとすると、「御腹之急故」は「みはらをはやみ」となる。その場合「不忍」は、「御腹」を連体修飾(しのばざる、しのばざらむ)することになる。 また、正攻法を用い「御腹の急(すみやか)を忍ばず。かれ、」としても当然成り立つ。 なお、お腹の中にいるのは天孫であるから、尊敬語「御」がついている。 【将方産之時】 「将方」は近接未来を示す副詞、「産之」は「時」への連体修飾語である。よって「今にも生まれようとする時」という意味は確実であるが、古い日本語風の訓読はむずかしい。 後世の漢文訓読体なら、訓読は「まさにうまれんとせしとき」でよいが、飛鳥時代の言葉ではない。 そこで、まず「むとす」があったかどうかを調べるために、万葉集から探すと、 (万)3475 古非都追母 乎良牟等須礼杼 こひつつも をらむとすれど〔恋ひつつも居らむとすれど〕。 (万)3574 波奈多知波奈乎 比伎余治弖 乎良無登須礼杼 はなたちばなを ひきよぢて をらむとすれど〔花橘を引き捩ぢて折らむとすれど〕。 (万)3694 由吉能安末能 保都手乃宇良敝乎 可多夜伎弖 由加武等須流尓 ゆきのあまの ほつてのうらへを かたやきて ゆかむとするに〔壱岐の海人のほつての占部を肩焼きて行かむとするに〕。 の三例がある。このように「未然形+む+と+為」は万葉でも「実行に向かう」を表したから、「産之時」を「産まれむとせし時」とするのは不可能ではない。 漢文訓読体では「将」も「方」も「まさに~せんとす」であるが、「まさに」「まさしく」は万葉集にはない。(但し「うらまさに」〔占いの確かなご託宣〕がある。) また万葉集には「まさに」の意味を含む副詞「すでに」が3例あるので、「将方」は「すでに」と訓み得ると思われる。 【「以本国之形」と「以本身」】 「形」と「身」は、ともに「かたち」と読み得るが、万葉集では、「身」の訓は「み」が圧倒的に多い。 文脈上も、その生々しい姿形を表す「み」がよいと思われる。
記では、「和邇」は基本的に「鮫」であった。しかし、ここで注目されるのは「匍匐委蛇」という表現である。 「四つん這いで体をくねらせ動き回る」姿は、鮫よりも鰐に合う。倭名類聚抄の記述から、知識としてはすでに鰐が今日のクロコダイル属の動物を指す語として、我が国に知られていた。(第89回【一書4】参照) 釣り針喪失譚が収集された地域であるインドネシア、パブアニューギニアは、クロコダイル属の生育域である。 一方、ミナハッサの神話(前回参照)では、カヴルサンは「大きな魚」に載って帰る。そこから考えれば、火遠理命を載せて運び佐比持神になったのは鮫である。 従って、「一尋和邇」は鮫であるが、「八尋和邇」は鰐のようなものである。「八尋和邇」は南方の鰐が元になった想像上の動物で、四本の足があり、体をくねらせながら腹ばいで歩く。 鮫を「わに」と呼び、吉数八を用いるところに、出雲系の神話の要素が流入している。 【因治養其御子之縁】 記は、妹の玉依毘売に火遠理命の御子を治め養う〔=教育と養育〕役目を負わせ、その縁(よし)に因(よ)り〔=その機会を利用して〕歌を託したと書く。 一書3ではこの部分が詳細になり、御子が立派に育った話が伝わり、自分は行けないので妹に歌を託して行かせたものとする(次回に詳しく見る)。 ただ、一書3では玉依姫が計2回やって来たことになり、また養育係を別の女が務めたりと、話が入り組んでいる。記の記述を発展させて書き足したが、どうしようもなくなった印象である。 書紀本文では、結局文を簡素化する。 最終的に書紀本文では、豊玉姫が来たとき「将其女弟玉依姫」(妹の玉依姫を伴い)と書くのみである。 【書紀本文】
産まれむ時に臨むに逮(いた)りて、請(ねが)ひて曰(まを)ししく「妾(われ)産まむとする時、幸(めぐみたま)ひて勿以看(もちてなめしたまひそ)。」とまをしき。 天孫(あまつひこ)猶(なほ)忍ぶこと不能(あたはず)、竊(ぬす)み往(ゆ)きて之(こ)を覘(うかが)ひて、豊玉姫方(まさ)に産まむとして、龍(たつ)と化為(な)りぬ。 而(しかるがゆゑに)、これを甚(いたく)慙(は)ぢて曰(まを)ししく「如(もし)我(われ)を有不辱(はづかしめざ)らませば、則(すなは)ち海(わた)と陸(くぬが)相(あひ)通(かよ)は使(し)め永(なが)く隔(へだ)ち絶ゆること無(な)からまし。 今既に之(こ)を辱かしめて、[将]何以(いかにもちて)親昵之情(ちかきこころ)を結ばむや。」をまをしき。 乃(すなは)ち草を以ちて児(みこ)を裹(つつ)みて、これを海辺(うみへ)に棄(すて、うて)、海途(うみぢ)を閉(ふさ)ぎて俓去(わたりぬ)[矣]。 故(かれ)、因以(よりて)児(みこ)を名(なづけて)[曰]、彦(ひこ)波瀲(なぎさ)武(たけ)鸕鷀(う)草(かや)葺(ふき)不合(あへず)の尊(みこと)といふ。
後に豊玉姫(とよたまひめ)は、果たして先に海神の宮で別れる際に告げたように、妹の玉依姫(たまよりひめ)を伴い、ひたすら風波を冒し海辺にやって来ました。 産み時に臨み、「私が産む時、願わくば御覧にならないように。」とお願い申し上げました。 天孫はどうしても忍ぶことができず覗き見したところ、豊玉姫は産もうとして龍と化していました。 豊玉姫はいたく恥じ「もし私を辱めなければ、海陸相通じ、永らく隔絶は無かったでしょうに。 今はもう辱めを受けたので、どうして近親の情を結ぶことがあり得ましょうや。」と申し上げました。 《女弟》 現代語では弟は男、妹は女であるが、漢字本来の「弟」はもともと男女を区別せず、和語の「おと」も男女を区別しない。 ただ、『倭名類聚抄』によれば、現代の妹と同じ意味の「いもうと」という語が既にある。 また、同書の見出し語「乳母」のところにも(同じ「めのと」だからであろうか)、「女弟」への言及があり、 日本紀(=日本書紀)の師(解釈を研究する学者)の説として「めのおと」が載っている。 しかし、現代の古語辞典にも国語辞典にも「めのおと」という見出し語は見つけられないので、一般化しなかったようである。 《如有不辱我者》 「如有不辱我者」を純正の漢文として読むと「有るが如く我を辱めざらば」という、奇妙な文になる。 本来の文意は、辱められた事実に反して「もしも辱められていなければ」仮定することである。それではこれをどう読むか。 「有」と「不」は結合して「ざり」と訓み、助動詞「ず」の未然形である。「ず」の活用のうち未然形=ざら、連体形=ざりなどの成り立ちは「ず+あり」である。 この「有不」は日本語用法である。万葉集でも、しばしば成り立ちに戻って漢字が宛てられ、(万)0328 今盛有 いまさかりなり〔=にあり〕。などの例がある。 さて、ここでは反実仮想の助動詞「まし」を用いることができる。 「辱む」(下二)の未然形+「不(ず)」の未然形+「まし」の未然形+「ば」=「はづかしめ・ざら・ませ・ば」と訓む。 「まし」の未然形には「まし」と「ましか」があるが、上代には「まし」のみであった。 《彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊》 「波瀲(なぎさ)」は波打ち際の意味だが、書紀の原文には訓注「なぎさ」がない。「なぎさ」とよむ根拠は記の「那藝佐」のみである。 「鸕鷀」は鵜。「草」は記を参照すると「かや」に当たる(【一書4】《草》の項参照)。 書紀本文には、「鵜殿の萱が葺き終わらないから」という成立譚はない。その代り、「渚に棄(う)ち、海路を閉じ行き来できない」がその由来の説明とも読める。 試しに「ひこ・なぎさ・たけ・う・かやふ・きあはず」と区切ると、 ひこ=尊称。なぎさ=海辺。たけ=尊称。う=上代の動詞「居(う)」(=居(を)り)。かやふ=「通ふ?」。きあはず=「来合はず」。 となるが、「かやふ」が苦しい。 《龍》 鰐から龍への変更が行われたのは、書紀本文を書下ろした段階であると思われる。 それでは書紀編集の時代、龍はどのような生き物として認識されていたのだろうか。 それを調べると、既に古墳時代には今日の龍の姿が伝わっている(別項)。 サメから龍へは相当の飛躍があるが、ワニからの方がまだ近い。 ワニのままでも充分神聖だが、天孫の母としてはもう少し格の高い龍が望ましかったと思われる。 恐らく、倭名類聚抄にあるような、本当の鰐の姿も知られていたのであろう。龍は天皇そのものの表現でもあり、天孫の母としては龍の方が望ましいものであった。 記紀の編者の間では、天孫を運んだ「一尋わに」が鮫で、豊玉姫の真の姿である「八尋わに」が鰐なのは共通認識であろう。 一書1の「大熊鰐」は、一尋鰐と区別するための表現だったと思われる。さらに試行錯誤を重ね、最後は龍に落ち着いたわけである。
殷(前17~前11世紀)の甲骨文字、周(前1100~前256年)の金文に「龍」の文字がある。 前漢(前202~後8年)の思想書『淮南子』(えなんじ)には、大量に龍が出てくる。 一般に「角は鹿に似て、頭は駱駝に似て…」と形容されるが、その元は、南宋(1127~1279)の博物誌『爾雅翼』に見出すことができる。 <『爾雅翼』二十八/釋魚> 有三停九似之説。謂自首至膊、膊至腰、腰至尾、皆相停也。 九似者、角似鹿、頭似駝、眼似鬼、項似蛇、腹似蜃、鱗似魚、爪似鷹、掌似虎、耳似牛。 頭上有物、如博山、名尺木、龍無尺木不能升天。其為性麤猛、而畏鐡愛玉及空青… </釋魚> 〔首から膊(肩甲骨)、膊から腰、腰から尾が相停(等分される)であるという。これを三停という。「停」には十分の一を表す「割」と同じ意味がある。 次に「九似(九つの似た箇所)は、各部は様々な動物の部分である。「項」は「うなじ」である。 頭上に博山(地名)の如き物があり、名を尺木(せきぼく)と言い、これがないと昇天できない。性格は荒く猛く、鉄を怖がり玉と空青きを愛で…〕 龍の「畏鐡」(鉄を畏(おそ)れる)という性質は一般には知られていない。 尺木(せきぼくと訓まれる)の由来が疑問だったので探したところ、『論衡』(後漢時代=1世紀)の六巻の「雷虚」という章の中にあった。 短書言:「龍無尺木,無以升天。」又曰「升天」,又言「尺木」,謂龍從木中升天也。彼短書之家,世俗之人也,見雷電發時,龍隨而起,當雷電樹木擊之時,龍適與雷電俱在樹木之側,雷電去,龍隨而上,故謂從樹木之中升天也。 『短書』に「龍尺木なく、もって昇天なし」と言う。謂れは「龍は木に従う中、昇天する。」彼(か)の『短書』の家(流派の人)は世俗の人(一般人)である。雷電が発する時、龍随(したが)い起(た)ち、まさに雷電が樹木を撃(う)とうとした時、龍が雷電に適(たまたま)与(くみ)し、樹木の側に俱(とも)に在り、雷電が去り、龍は随(したが)い上り、故に樹木に従う中、天に升(のぼ)る。 つまり、樹木のそばにいるとき、樹木への落雷を一緒に受け、雷が去るときに雷と共に天に昇る。だから昇天には樹木に従うことが必要で、それを尺木と言う。「従う木」⇒「物差しとなる木」⇒「尺木」ということであろうか。
例えば倭国の古墳時代初頭の三角縁獣神鏡に龍が描かれている。 写真左は黒塚古墳(3世紀後半)から出土したもので、頭にはひげ・角があり、鱗を備えた細長い体が巧みにデザイン化されている。 写真右は、高松塚古墳の彩色壁画の青龍図。藤原京期(694年~710年)の終末期古墳で、ちょうど記紀の編纂時期にあたっている。 また唐代には、龍は皇帝の象徴にもなっていた。 【一書1】
「妾(われ)已(すで)に有身(はらみ)みぬ[矣]。[当]風涛(かぜなみ)壮(さかり)て日を以ち海辺(うみへ)に出到(いでた)らむ。請(ねがはく)は我が為(ため)に産屋(うぶや)を造りたまひて、以ちて之(こ)を待ちたまへ。」とかたりき。 是後(こののち)豊玉姫、果たしてその言(こと)の如(ごと)く来至(きた)りて、火火出見尊(ほほでみのみこと)に謂曰(まをさく)「妾(われ)、今夜(こよひ)当(まさに)産(うまむ)。請(ねがはく)は勿(な)[之]臨(のぞ)みたまひそ。」 火火出見尊不聴(ききたまはず)、猶(なほ)櫛(くし)を以ち火(ほ)を燃(とも)しこれを視(め)しし時、豊玉姫、八尋(やひろ)の大(おほ)熊鰐(くまわに)と化為(な)りて、匍匐(は)ひ逶虵(もとほ)りき。 遂(つひ)に見辱(はづかしめら)るるを以ち恨(うら)みを為(な)し、則(すなは)ち俓(わた)り海の郷(くに)に帰(かへ)りて、その女弟(おと)玉依姫(たまよりひめ)を留(とど)めて、児(みこ)を持て養(やしな)はしめぬ[焉]。 児(みこ)の名を以ち彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと)と称(なづくる)[所]者(は)、彼(か)の海浜(うみへ)の産屋(うぶや)を以ちて、 全(またく)鸕鷀(う)の羽を用(もちゐ)草(かや)と為(し)之(これ)を葺(ふ)きて[而]甍(いらか)未(いまだ)合へざりし時、児(みこ)即ち生(あ)れましき[焉]。故(かれ)因(より)以(も)ちて名(なづ)く[焉]。
ここで別れた時の話に戻ると、豊玉姫(とよたまひめ)は火火出見尊(ほほでみのみこと)の帰りたいという希望を容れて語るには、 「私のお腹には、もう子がいます。風波が激しい日に海辺に参ります。願わくば私のために産屋(うぶや)を造り、待っていてくださいませ。」と申し上げました。 果たして言葉の通りやって参りまして、火火出見尊に「今夜生まれます。お願いですから覗かないでください。」と申し上げました。 火火出見尊はこれを聞き入れず、かつて伊弉諾尊(いざなぎのみこと)がそうしたように櫛に火を灯して見た時、豊玉姫は八尋の大熊鰐と化して体をくねらして這い回っていました。 豊玉姫は辱めを受け恨みをなし、そのまま海を渡り故郷に帰りましたが、妹の玉依姫を残し御子の養育に当たらせました。 御子の名を彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと)と名付けたのは、かの海辺の産屋をもち、 全て鵜の羽を用いて萱(かや)とし、これを葺(ふ)いて、上棟を塞ぎ終える前に御子が生まれたからです。 《先是》 ここでの「先」の用法は時間軸を過去へ遡る向きが「先」で、「紀元前」と同じである。 逆に未来を「先」と表す場合もある。「先に進む」は未来を指し、「先の大戦」は過去を指す。 つまり、後・先はもともと空間の概念であり、それを時間軸に借用する際に、二通りの発想があったことを示している。 ここでは、火火出見尊が海神に別れを告げたときのことである。書紀本文では、別れを告げたところで書いている。 《猶以櫛燃火視之時》 かつて伊弉諾尊が黄泉に伊弉冉尊を訪ねたとき、真っ暗だったので櫛の端の棒を折って火を灯した話に準えたものである(第39回)。 恐ろしい姿と化したのを見られたのを恥じ、怒るところも共通している。 また、伊弉冉は黄泉から戻らないのと同様、豊玉姫は海神の国に帰り戻らない。 《大熊鰐》 「熊鰐」は中国古典には一例もないので、日本語固有の表現である。書紀には「熊鰐」が3か所に出てくる。 一例目は、大国主が、光る海から来た三輪の神(大物主)に出会うところの一書6である(第69回)。 この「熊鰐」は。事代主は大国主が神屋楯比売との間に生んだ子。のちに国譲りの際大国主に先だって交渉に当たり、国譲りに同意した後海に飛び込む。 その一書6内で別説として、事代主は八尋熊鰐(一般的にくまわにと訓まれる)となる。八尋熊鰐が産ませた姫踏鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)は神日本磐余彦火火出見天皇(神武天皇)の妃となる。 二例目は、ここである。 三例目は筑紫国の岡県主の祖の名前。伝統的にわにと訓まれる。熊鰐は、中哀天皇が筑紫を訪れたとき、舟を仕立てた。 また、書紀には和珥(わに)氏という氏族も出てくる。孝昭天皇の子、天足彥國押人は、(書紀/孝昭天皇)「天足彦国押人命、此和珥臣等始祖也」とあり、和珥(わに)氏の祖とされる。 【一書3】
「妾(われ)已(すで)に有娠(はら)みぬ[也]。天孫(あまつひこ)の胤(たね)豈(あに)海中(わたなか)に可産(うまるべし)乎(や)。故(かれ)当産(うまむ)時必ず君(きみ)が処(ところ)に就(むか)はむ。 如(もし)我(わが)為(ため)に海辺(うみへ)に屋を造らして、以(も)て相(あひ)待たしたまはば、是(これ)望む所(ところ)なり。」とまをしき。 故(かれ)彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、已(すで)に郷(くに)に還(かへ)りたまひて、即ち鸕鷀(う)の羽(は)を以ち葺(ふ)き、産屋(うぶや)と為(し)たまひき。 屋蓋(やね)未(いまだ)合(あ)へ及(しか)ず、豊玉姫自(みづか)ら大亀(おほかめ)に馭(の)りて、女弟(おと)玉依姫(たまよりひめ)を将(ともな)ひて、光る海を来到(きたり)。 時に孕(はら)みし月(つき)已(すで)に満(み)ち、産(うみ)の期(とき)方(まさに)急(せま)りて、此(これ)に由(よ)りて、葺(ふ)き合(あ)へを待たず、俓(わた)り入(い)り居(を)り[焉]。 已(すで)にして従容(ねもころ)に天孫(あまつひこ)に謂(まを)ししく[曰]「妾(われ)方(すでに)産まむとす。請(ねが)はくは之(こ)に勿(な)これに臨(のぞ)みたまひそ。」とまをしき。 天孫(あまつひこ)の心(こころ)その言(こと)を怪(あやし)びて、竊(ぬす)みこれを覘(うかが)ひて、則(すなは)ち八尋(やひろ)の大鰐(おほわに)と化為(な)りぬ。 而(しかるがゆゑに)天孫、その私(わたくし)の屏(かき)を視(め)しきと知り、深く慙恨(はづかし)と懐(おも)ひき。既(すで)に児(みこ)生之(うまれし)後(のち)、天孫(あまつひこ)就(つ)きて問ひたまはく[曰]「児(みこ)の名何(いか)に称(なづ)けば当(かな)ふ可(べし)乎(や)。」ととひたまひて、 対(こた)へ曰(まを)さく「宜(よろ)しく彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと)と号(なづ)けたまへ。」と言(まを)し訖(を)へて、乃(すなは)ち海を渉(わた)り俓去(ゆきぬ)。
遡って、豊玉姫(とよたまひめ)は天孫に、 「私のお腹にいる天孫の子を、どうして海中で生むことができましょう。生まれる時は、必ずあなたのところに参ります。 海辺に産屋(うぶや)を作って誕生をお待ちいただければ、望み申す所でございます。」と言いました。 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は故郷に帰った後、鵜の羽で屋根を葺き、産屋を造りました。 屋根の上棟まで葺(ふ)き終える前に、豊玉姫は自ら大きな亀を馭(ぎょ)し、妹の玉依姫(たまよりひめ)を伴って光る海をやって来ました。 既に臨月を迎え急に産気づいたので、上棟まで葺き終わるのを待たず、かまわずに入り込み、「もう生まれますが、決して覗かないようお願いします。」と心の底から天孫に申し上げました。 天孫の心には怪しむ気持ちがわき起こり覗き見すると、八尋(ひろ)の大鰐に化けていました。 豊玉姫は覗かれたことを知り、深く恥ずかしく思いました。御子が生まれた後、天孫がやってきて「御子には何と名付けるのが適当だろうか。」と問われ、 「よろしければ、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと)とお名付けください。」とお答えした後、海を渡って帰って行きました。 【一書4】
皇孫不従(したがはず)、豊玉姫大恨之曰(これをおほくうらみまをさく)、 「吾(あが)言(こと)を用ゐず、我(われ)を屈辱(は)づか令(し)めき。故(かれ)今自(よ)り往(ゆ)くを以ち、妾(わが)奴婢(はしたもの)君(なが)処(ところ)に至(いた)らば、復(また)放(はな)ち還(かへ)したまふな。君(なが)奴婢(はしたもの)妾(わが)処(ところ)に至らば、亦(また)復(また)還(かへ)りまつるな。」 遂(つひ)に真床覆衾(まとこおふふすま)及(と)草(かや)を以ち、その児(みこ)を裹(つつ)みこれを波瀲(なぎさ)に置き、即ち海(うみ)に入り去(ぬ)[矣]。此れ海(うみが)と陸(くぬが)相(あひ)通(かよ)はざりし[之]縁(よし)也(なり)。 一云(あるいはく)、児(みこ)を波瀲(なぎさ)に置くは非(あら)ざる也(や)、豊玉姫命、自(みづか)ら抱(うだ)きて去(ゆ)きぬ。 久(ひさし)く之(ゆ)き曰(まを)さく「天孫(あまつひこ)の胤(たね)、此の海中(わたなか)に置くは不宜(よろしからず)。」とまをし、乃(すなは)ち玉依姫(たまよりひめ)にこれを持た使(し)め送(おく)り出(い)でまつりき[焉]。
豊玉姫がやってきて子が生まれようとしたとき、本文や他の一書のように皇孫にお願いしましたが、従わなかったので大いに怒り申し上げました。 「私の言葉を用いず、私に屈辱を与えました。もうこれからは、私の奴婢はあなたの処に行っても返さないで。あなたの奴婢が私の処に来ても帰しません。」と言い、 とうとう、真床覆衾(まとこおうふすま)と草で御子を包(くる)み、渚に置き、海に帰っていきました。これが「海陸相通わず」の謂われです。 別説では、御子を渚に置いていません。豊玉姫は自ら抱いたまま去りました。 しばらく行ってから「天孫の血を継いだ子を海中に置くのは、やはりよくありませんわ。」と言って玉依姫(たまよりひめ)に御子を託して送り出しました。 《草》 「草」は基本的に「くさ」と訓む。古語辞典には、「かや」と訓むのは屋根葺の材料に使う場合とされているが、 万葉集では単なる草(くさ)の意味でも使われる。((万)0396 陸奥之 真野乃草原 雖遠 みちのくの まののかやはら とほけども。) ここでは「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊」の名に因んで使われているので、「かや」と訓むべきである。 《真床覆衾》 この一書には真床覆衾がある。これで初めの3代の天孫が、それぞれ真床覆衾に包まれたことになる。 また、海岸に放置せず一度海に連れ帰ったとする話が、独立した一書を立てずに一書4に付け加えられている。 そこでは、火火出見尊に加え、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊も一度海に行くので、出自が海洋民族であることを一層強調することになる。 まとめ 八尋の和邇(鰐)の表現が大鰐→大熊鰐→龍と変わっていったのは、豊玉姫がサメではなくワニであったからである。だから「鰐」とは別の表現を探さなければならなかった。 これは、遠い祖先は鰐のいる地域で生活していて、その記憶の中に海神の国として残っていると考えることができる。 山幸彦海幸彦の段は、海洋の民族と共有神話と、豊玉姫が子を残して海に去ったという倭の民族独自の神話が組み合わさって成り立っている。 豊玉姫が去ると共に、「塞海境」(記)、「閉海途」(書紀)という表現は、出身地のインドネシア・ミクロネシア方面との繋がりを断ったことを象徴するものである。 従ってこの物語は、①われわれの祖先は、かつて鰐がいる地の釣り針喪失譚をもつ民族と一体であった。②しかし、日本列島に上陸した時をもって、鰐の国と袂を分かった。 ことを示している。民族のルーツは鰐の生育地域にあり、鰐はまたその地で神とされていたのであろう。 |
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2015.01.30(金) [095] 上つ巻(山幸彦海幸彦8) ▼▲ |
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![]() 阿加陀麻波 袁佐閇比迦禮杼 斯良多麻能 岐美何余曾比斯 多布斗久阿理祁理 爾其比古遲【三字以音】答歌曰 意岐都登理 加毛度久斯麻邇 和賀韋泥斯 伊毛波和須禮士 余能許登碁登邇 故日子穗穗手見命者坐高千穗宮 伍佰捌拾歲 御陵者卽在其高千穗山之西也 其(そ)の歌曰(い)はく。 あかだまは をさへひかれど しらたまの きみがよそひし たふとくありけり 爾(しかるがゆゑに)其の比古遅(ひこぢ)【三字(みもじ)音(こゑ)を以てす。】答歌(かへしうた)して曰(い)はく。 おきつとり かもどくしまに わがゐねし いもはわすれじ よのことごとに 故(かれ)日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)者(は)高千穂宮(たかちほのみや)に坐(ましま)して、五百八十歳(いほとせあまりやそとせ)。 御陵(みささき)者(は)即ち其の高千穂山(たかちほのやま)之(の)西に在り[也]。 是天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命娶其姨玉依毘賣命 生御子名五瀬命 次稻氷命 次御毛沼命 次若御毛沼命 亦名豐御毛沼命 亦名神倭伊波禮毘古命【四柱】 故御毛沼命者跳波穗渡坐于常世國 稻氷命者爲妣國而入坐海原也 是(ここ)に天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと)其の姨(をば)玉依毘売命(たまよりひめのみこと)を娶(めあ)はし、 生(う)みし御子(みこ)を名(なづけ)く、五瀬命(いつせのみこと)、 次に稲氷命(いなひのみこと) 次に御毛沼命(みけぬのみこと) 次に若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、亦の名は豊御毛沼命(とよみけぬのみこと)、亦の名は神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこのみこと)【四柱(よはしら)】。 故(かれ)御毛沼命者(は)波穂(なみのほ)を跳(は)ね[于]常世国(とこよのくに)に渡(わた)り坐(ま)し、稲氷命者(は)妣国(ははのくに)を為(な)して[而]海原(うなはら)に入(い)り坐(ま)しき[也]。 その歌は、 赤瓊は 緒さへ光れど 白瓊の 君が装ひし 尊く有りけり 《大意》 赤珠はその通し紐まで輝いていますが、地味な白珠であってもあなたが身に着けるなら、これはまた尊いものです。 です。彦父(彦様)はその返歌に、 沖津鳥 鴨著(ど)く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世の事々に 《大意》 鴨が集まる島に私が連れていき、夜を共にした愛しい人。世の些事に煩わされる間も、決して忘れません。 と歌いました。 そして、日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)は高千穂の宮に住み、五百八十歳まで生き、 御陵は高千穂の山の西にあります。 ここに、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうかやふきあえずのみこと)はその叔母、玉依毘売命(たまよりひめのみこと)を娶り、 生みなされた子の名は、五瀬命(いつせのみこと)、次に稲氷命(いなひのみこと)、次に御毛沼命(みけぬのみこと)、 次に若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、その別名は豊御毛沼命(とよみけぬのみこと)と神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)です。 ち(父)…[名] 男性である親・祖先・天皇などの敬称。 姨…(倭名類聚抄)唐韻音夷母之姉妹也 をば(叔母、伯母)…父または母の姉妹。 かもどくしま…鴨が集まる島。どく=つくの変。 跳…(古訓)ふむ。ほとはしる。 はぬ…(万)0153 痛莫波祢曽 いたくなはねそ。 【日子穂穂手見命】 生まれた時(第87回)に「御名火遠理命 亦名天津日高日子穗穗手見命」。 【赤瓊は緒さへ光れど】 「あか」の語源は「明るい」。緒(玉を通した紐)にも金糸を織り込み、豪華に輝く珠であろうか。 白い質素な珠だが、 あなたが装えば尊く輝くものですという短歌。豊玉姫は、井戸の傍に現れた日子穂穂手見命の麗しき姿に一目ぼれしたので、それに相応しい歌を選んだと思われる。 【加毛度久斯麻邇】 「どく」とは何だろう。古語辞典ではこの歌のためにわざわざ「かもどくしま」の項目を立て、「つく」が転じたものと説明する。 万葉集を見ると、「度」の音仮名はほぼ「と」「ど」である((万)3302 散度人之 さとびとの。など)。 一書3では同じ個所が「軻茂豆勾志磨爾」(かもづくしまに)となっている。 「どく」は俗語なので「つく」に訂正したと思われ、 これで「どく」が「着く・著く・付く」であることが確定する。 【伍佰捌拾歳】 「五百八十歳」の大字。五百(いほ)も八十(やそ)も数が多いことを示す。五は古い吉数で、八は新しい吉数。 書紀ではこの数値を採用していないのは興味深い。大雑把に数が大きいことを示すに過ぎないことを、承知していたのである。 【御毛沼命・稲氷命】 《常世国》 少名毘古那神が大国主から去り、行った先が常世国(とこよのくに)である(第69回)。 「少名毘古那神者 度于常世國也 (一書6)則彈渡而至常世鄕矣」 御毛沼命を、この少名毘古那神に擬えているのである。一書6では草の葉の反動を利用して跳び、「はねわたる」と書かれたところから、 「跳」の訓は「はね」が適当だろう。 《妣国為而》 須佐之男命(第44回)に「僕者 欲罷妣國根之堅洲國 故哭爾」とある。 天照の兄弟の一人である須佐之男は、母の国に行きたいと言って泣いた。御毛沼命をそれに擬えている。 「妣国為而」はどう読むのか、悩むところである。須佐之男が、母を恋しがって大泣きしたり父に叱られたりしたように、 母の国に行こうとしている稲氷命にも諸々のドラマがありそうなことは容易に想像がつくから、それらを一括りにして、「為す」ですませたのである。 だから、そのまま「妣(はは)の国をなして」と読めばよい。 《兄弟の行方》 御毛沼命は大国主の、そして稲氷命は天照の兄弟の行方を想起させる。上巻の終結にあたって、 それらをパロディ(修辞法の一種)によって回想するのである。 【書紀本文】
彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと)、其の姨(おば)玉依姫(たまよりひめ)を以ち妃(きさき)と為(し)て、 [生]、彦五瀬命(ひこいつせのみこと)、 次に稲飯命(いないひのみこと)、 次に三毛入野命(みけいりぬのみこと)、 次に神日本磐余彦尊(かむやまといはれひこのみこと)、凡(おほよ)そ四男(よはしら)を生(う)みたまひき。 [之]久しくありて彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊、[於]西洲之宮(にしのくにのみや)に崩(ほう)じ、因(よ)りて日向(ひむか)の吾平山(あひらのやま)の上の陵(みさざき)に葬(はぶ)りまつりき。
《大意》 ずっと後、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は崩御し、日向(ひむか)の高屋(たかや)山の上の御陵に葬られました。 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうかやふきあえずのみこと)、母の妹、玉依姫(たまよりひめ)を妃とし、 彦五瀬命(ひこいつせのみこと)、次に稲飯命(いないいのみこと)、 次に三毛入野命(みけいりぬのみこと)、次に神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)の4柱の男子を産みなさりました。 しばらくして、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊は西洲宮(にしのくにのみや)で崩御し、日向国の吾平山(あひらのやま)の上の御陵に葬られました。
万葉集1706の「高屋」は地名ではなく、一般的に「山の上の家」を指すと思われる。奈良時代には、日向国のどこかに高屋山という山があったと考えられる。 <wikipedia>『延喜式諸陵式』には「日向高屋山上陵 彦火火出見尊陵 在日向国無陵戸」</wikipedia>(日向国に在り、陵戸(管理人)無し)とあり、 <同上>当時すでに所在が明確に知られていなかったらしい</同>とされる。 高千穂峡の西に640mの高屋山があり、記の「高千穂山の西」に合っているが、記紀を読んでから山名が付られたかも知れない。 1874年、明治政府は鹿児島県霧島市溝辺町麓の円墳を彦火火出見尊陵と定め、現在も宮内庁が管理しているが、実証的な根拠はない。 《西洲之宮》 「西洲」は伝統的に「にしのくに」とよまれる。鹿児島県肝属郡肝付町宮下に桜迫(さくらざこ)神社があり、「神代聖蹟西洲宮石碑」が建っている。 《日向吾平山上陵》 『延喜式諸陵式』には、やはり「在日向国無陵戸」とされる。 後の日向国とは少し離れるが、吾平山相良寺(ごへいざんあいらじ、熊本県山鹿市菊鹿町相良)がある。同寺は<wikipedia>比叡山延暦寺の末寺で、814年、伝教大師最澄の開基</wikipedia>とされる。 「あいら」という寺名から、吾平山は元々「あひらのやま」と読まれたと思われる。仏教寺院であるが、古代からの信仰の地に後に寺院が開かれることは珍しくない。 明治政府は1874年に肝属郡姶良郷上名(かんみょう)村(現鹿屋市吾平町上名)を天津日高彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊及び玉依姫の陵と定めた。 なお、宮崎県は鵜戸神宮近くの速日峯山上であると主張している。こちらも実証的な根拠はない。 《陵の候補地》 それぞれの陵の候補地は、宮崎県、鹿児島県に複数ある。 神話が作られたときは、古代から信仰されてきた山などが、まず神話上の陵に定められた。その神話が各地に広まるにつれ、それぞれの土地ごとに神聖な場所が、陵と信じられるようになったのであろう。 【崩】 天皇の死を意味する言葉を万葉集から探すと、唯一(万)0167 神上 〃座奴 (一云 神登) かむあがり あがりいましぬ (あるいは かむのぼり)。 に、「かむあがる」「かむのぼる」がある。 「崩」の古訓を見ると、(古訓)くつる、あつし、しぬ。であるが、 もともとは中国文化において、皇帝の「死」を「崩」と表現したものである。その用語法が定式化された例が『礼記』(らいき、周代から漢代、前1100~後220年の儒学者の礼に関する書をまとめたもの)にある。 『礼記』曲礼下:天子死曰崩、諸侯曰薨、大夫曰卒、士曰不祿、庶人曰死。〔皇帝は崩、王は薨、上級官僚は卒、下級官僚は不禄、一般人は死と云う〕 第87回【書紀のよみ方】で「信」の訓を検討したときに、 書紀の完成期、既に「音読み+す」による漢語の動詞化が始まっていただろうと述べた。 記紀の「崩」という表現は、『礼記』に見られる用語法を取り入れたものである。 岩波文庫版では、「崩」の訓に、上記の万葉集0167(柿本人麻呂)の「かむあがりましぬ」を用いている。 この歌は天智天皇の死によって殯(もがり)の宮にいる大友皇子を見舞って捧げたもので、この歌から主要部分を抜き出すと、 「神之命等 天雲之 八重掻別而 神下」〔天孫が降臨し〕 「神随 太布座而 天皇之 敷座國等」〔神のまま(現人神として)国を治め〕 「天原 石門乎開 神上」〔再び高天原の岩戸を開いて神として上り〕 と書いてあるように、実は「神上がる」は、「天から降りて国を治め、再び上がり天の神々の一員に戻る」という文章中で「神下る」に対応して使われたもので、これが天皇の死を意味する固定的な用語だとは思われない。 平安時代の一部の学者は「崩」に「かみあがる」を当てたかも知れないが、歴史的に見るとそれは一般化せず「崩(ほう)ず」で決着はついていて、 797年(書紀から77年後)に完成した『続日本記』(しょくにほんき)では、既に「崩(ほう)ず」になっている(古語辞典などの文例による)。 結局、「天皇の死を崩と呼ぶ」用語法は中国からの直輸入で、書紀の編者自身は音読みし、やまとことば化の試みも定着しなかったから、「ほうず」が正解なのである。 【一書3】
をきつとり かもづくしまに わがゐねし いもはわすらじ よのことごとも 亦(また)云(い)はく、彦火火出見尊、婦人(たをやめ)を取り乳母(ちおも)、湯母(ゆおも)、及(また)飯嚼(いひがみ)と為(し)、湯坐(ゆゑ)凡(おほよ)そ諸部(もろとも)備(そな)へ行(ゆ)かせ、以(も)て養(やしな)ひ奉(まつ)るや[焉]。 于時(ときに)、他(ほか)の婦(め)を権(はか)り用(もち)ゐ、乳(ち)を以ち皇子(みこ)を養(やしな)ふや[焉]、此(これ)世に乳母を取(と)り、養児之(こをやしなは)す縁(よし)也(なり)。 是後(こののち)、豊玉姫、其の児(みこ)端正(きらきらし)と聞こえ、心(こころ)甚(いた)く憐(あはれ)び、重(かさ)ね復(また)帰(かへ)り養(やしな)ふを欲(ほ)り。 [於]義(のり)に不可(すべくもあら)ず、故(かれ)女弟(いもうと)玉依姫(たまよりひめ)を遣(つかは)し、以(も)て来(き)養(やしな)はしむれ者(ば)[也]。 于時(ときに)、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、玉依姫に寄(よ)らせて[而]報歌(かへしうた)をよみ奉(まつ)りて曰(い)はく、 あかだまの ひかりはありと ひとはいへど きみがよそひし たふとくありけり 凡(おほよ)そ此の贈(おく)り答(こた)ふる二首(ふたうた)、号(なづけ)て挙歌(あげうた)と曰ふ。
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は、次の歌を贈りました。 ――沖津鳥 鴨著く島に 我が率(ゐ)寝し 妹は忘らじ 世の事々も また、言い伝えによれば、彦火火出見尊は女性を採用し、乳母(ちおも)、湯母(ゆおも)、飯嚼(いいがみ)とし、また湯坐(ゆゑ)をはじめ諸役を任命して行わせ、養育に当たらせました。 これが、実母以外に乳母を採用し、その乳を飲ませることによって皇子を養育させたことが、世間で乳母を採用して子を育てさせることの由縁です。 その後、豊玉姫は皇子が端正に育ったと聞こえ、愛おしい気持ちになり、もう一度帰って育てたいと思いました。 しかし、それは義によって〔=筋道が通らず〕不可能なので、妹の玉依姫(たまよりひめ)を遣わして養育にあたらせました。 そのとき、豊玉姫は玉依姫に歌を託して彦火火出見尊に献上しました。 ――赤玉の 光は有りと 人は言へど 君が装ひし 尊くありけり このように贈り、答える二首の歌を、一般に挙げ歌と言います。 《沖津鳥鴨著く島に我が率(ゐ)寝し妹は忘らじ世の事々も》 〔私が連れて行き夜を共にしたことを、お前は忘れないだろう。世の諸事があったとしても。〕 「忘れる」は記では下二段活用だったが、四段活用で「わすらじ」とすると微妙にニュアンスが変わり、主語が妹に転換したように思われる。 《赤玉の光は有りと人は言へど君が装ひし尊くありけり》 〔あの輝く宝石は美しいと人は言いますが、本当はそれを装うあなた自身が尊いお方だからこそ美しいのです。〕 書紀の編者は歌といえども、天皇の祖が質素な玉をつけていることをよしとせず、常に豪華な玉の方をつけていることを望んだのである。 【一書3で検討されたこと】 記では、日子穂穂手見命が返歌するものの、すでに海陸の交流が絶たれた後なので、豊玉姫に歌を届ける術はない。 一書3はそれでは変だと思ったためか、歌の順番を逆転し、豊玉姫が帰る前に穂穂手見が歌を贈り、返歌を玉依姫が持ってきたことにした。 次に、玉依姫が来たタイミングは記の記述では納得できず、次の2案が検討されたようだ。 ① 最初に妊娠した豊玉姫に付き添ってやってきた(最終的に本文にはこれが採用された)。 ② 御子の麗しく育った噂を聞いた豊玉姫が、自分の代わりに玉依姫に行かせた。 ところが、一書3に②を入れたとき、①が除かれなかった(取り除くのを忘れた?)ので、玉依姫は2回来ることになった。 また、②では、玉依姫は皇子が大きくなってから行くことになるので、記で「皇子の養育のために玉依姫を送った」と書いたことが成り立たなくなった。 玉依姫はしばらく来ないので、養育に当たる女官を募る必要が生じた。 その結果、図らずも飛鳥時代の皇子の養育にあたる女官たちを説明することになる。 ここで記にもどって再度確認すると、妹を送った理由は、豊玉姫は国に帰った後も恋心を抑えられず、 妹に皇子を養育させるのを理由にして送り出し、歌を託すためである。 しかし、書紀の編者に、妹が来るまでの間放置された皇子はどうするの?という意見が出てからややこしいことになったようだ。 そして、書き足すうちに次々と矛盾が生まれ、つぎはぎになってしまった。 最終的に本文は①のみとなったが、その結果贈答歌を入れられなくなった。原文の持っていた文学的味わいは、切り捨てられたのである。 【皇子を養育する女官】 一書3には、「亦云」として、皇子の周囲で養育にあたる女官たちが付記されている。 《乳母》 (倭名類聚抄)唐式<中略>【乳母和名米乃止】弁色立成云嬭母【和名知於毛】今案即乳母乃礼反字 『唐式』は【乳母、和名めのと】。『弁色立成』に嬭母と云ふ。【和名ちおも】今案ずるに即ち、乳母乃ち礼反字。 〔『唐式』によれば「乳母」の和名は「めのと」。『弁色立成』によれば「嬭母」の和名が「ちおも」。「乳母」は品のない語ので「嬭」の字を宛てたと想像される。〕 なお、「嬭」の意味は、乳汁・乳房あるいは母。要するに乳と同じである。 《湯母・飯嚼》 「湯母」を「ゆおも」と訓じ、乳母の訓に「ちおも」を用いれば対応がとれる。「いひかみ」は字そのままの訓である。 「ゆおも」「いひかみ」共に古語辞典にはないが、国語辞典には現代仮名遣い(いいがみ)で載っている。その訓は常識的で、語釈も想像し得る範囲内で、 文例もこの箇所のみなので、他の文献には出てこない語なのだろう。(辞書の編者に聞かないと分らないが) 《湯坐》 この語は国語辞典、古語辞典の両方に載っている。 もう一つの用例が、記の中巻(垂仁天皇)に「取御母、定大湯坐・若湯坐」である。辞書の語釈はこの2か所の文から想像しうる範囲内である。 また、額田部湯坐連(ぬかたべのゆむらじ)が記の須佐之男・天照の間の男子の子孫(第47回)と、書紀孝徳天皇に出てくる。 万葉集を探すと、0352の作者に「若湯座」がいる。垂仁天皇の時代に作られた歌が万葉集にあるとはとても思えないから、大湯坐・若湯坐は少なくとも飛鳥時代まで続いた朝廷の役職であることになる。 訓を「ゆゑ」とする根拠は、書紀の雄略天皇の「湯人廬城部連武彥」につけられた訓注、「湯人、此云臾衞〔ゆゑ〕」だと思われる。 《"及"の位置》 4者を並列するとき、「A、B、及びC、D」と書くのは不可解である。湯坐は後世には明らかに男性だが、最初から男性だったかも知れない。飯嚼は常識的に女性だと仮定すると、 文の区切りは「婦人を採用し、A、B及びCと為し、Dをはじめとする凡そ(男性の)諸部を備えた」かも知れない。 《これらの職を取り上げた意味》 彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊を借りて、飛鳥時代に皇子の養育にあたった女官たち、あるいは男性を含む官職名を紹介したものである。 【一書4】
きる(切る)…[自]ラ行下二 離れる。尽きる。 【彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の段の一書】 《一書1》
次に狭野(さの)の尊、亦(また)神日本磐余彦(かむやまといはれひこ)の尊と号(なづ)く。 [所]狭野と称(なづ)けるは、是(これ)年(とし)少(わか)き時の号(よびな)なり[也]、 後(のち)に天下(あまのした)を撥(をさ)め平(たひら)げ、八洲(やしま)を奄(おほきく)有(も)ちたまひて、故(かれ)復(また)号(なづけ)を加(くは)へて神日本磐余彦尊と曰(い)ふ。
《一書2》
「やまと」の表記は、古事記では「倭」、日本書紀では「日本」である。 「倭」に代え、国号「日本」が使われ始めたのは671年頃と考えられている。 古事記の完成は701年、日本書紀の完成は720年である。
天下りしてから神日本磐余彦尊の前まで、邇邇芸命・穂穂手見命・鵜葺草葺不合命の3代の神は日向三代と呼ばれる。 天孫三代については、書紀では陵の位置は天皇に準じて記され、享年は記されない。 一方、記は2代目の穂穂手見命にのみ陵と享年が書かれ、一貫しない。 記の方が、蒐集した資料をそのままに近い形で使ったと思われるから、陵・享年が資料の内にあったのは、穂穂手見命だけだろう。 書紀は形式を整えることを重視するので、可愛山と吾平山を追加したのである。恐らく古代から篤く信仰されて来た山を選んだのであろう。 まとめ ここで大国主に戻ると、大国主が沼河比売を娶ったのは、越後地域に進出し現地を支配下に収めたことを意味する。 大国主による征服は、英雄が征服される国の姫を娶る話によって表現される。類例は八神姫など多数ある。 沼河比売・八神姫の名は、現地の地名を含んっでいる。このように、現地の姫との結婚は民族の統合を示す。 邇邇芸命が阿多都比売(木花之佐久夜毘売の別名)を娶ったのは、その間の子が天孫を継ぐから、征服というよりは一体化である。 豊玉姫・玉依姫の話も、天孫族がポリネシア方面の民族の血を受け継いでいることを示す。 そこに留意すると、天降りから山幸海幸神話までの範囲から、次の事実が読み取れる。 《天孫降臨と神武天皇の間》
ほの族も恐らく渡来民だが、渡来時期はわた族よりは相当古く、わた続が上陸した時点では先住民であった。わた族とほの族は融合して天孫族になった。 宗像氏・安曇氏も、渡来族であった。華南やポリネシアからは、波状的に何度も渡来したのである。 隼人も、その一つであった。隼人は天孫族にしばしば敵対し、卑弥呼の時代は狗奴国として、奈良時代には隼人の乱を起こし、中央政権を悩ませた。 《記紀による歴史的事実の倒置》 天孫族がしばらく南九州に留まっていたのは、周囲ががっちりと固められていたからである。だれがいたのか?それは、大国主の国以外考えられない。 やがて天孫族は攻勢をかけ、大国主は拡張した領土を失い、最後は出雲国に押し込められて降伏した。その領土を奪ったのは天孫族である。 従って、以前にも書いたように、記紀の構成は、大国主との戦争と天降りの順序が逆転している。 戦争が始まれば、それまで皇帝(=大国主)に服属していた各地の王に独立志向が生まれ、大乱となる。それが中国の目には、倭国大乱(1~2世紀)と映ったわけである。 《記紀が征服された諸族の話を取り上げた理由》 さて、記上巻にさまざまな氏族の神話を盛り込んだのはなぜか。おそらく各氏族(豪族)に依然として、独自の神話が残っていたからである。 各氏族を統合ししようとしても、それまでの氏族に伝えられたのと全然違う神話を押し付けられたら、とても受け入れられないであろう。 そこで、各氏族の発祥神話をそのまま認めて取込んだ上で、天孫族とが親戚、あるいは服従した関係を加えることによって、やっと神話が各氏族に共有される。 さらに、統一神話中で、各氏族の祖神が天孫に服従した記述は、現在の氏族のメンバーに対して、中央政権に服従せよというメッセージを送っているのである。天武天皇はこうやって記紀のような神話・歴史書を確立することによって諸族を統合し、外圧をかけてくる唐に対抗しようとした。 |
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⇒ [096] 中つ巻(神武天皇1) |