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⇒ [089] 上つ巻(山幸彦海幸彦2) |
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2014.12.20(土) [090] 上つ巻(山幸彦海幸彦3) ▼▲ |
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故隨教少行備如其言卽登其香木以坐
爾海神之女豐玉毘賣之從婢 持玉器將酌水之時於井有光 仰見者有麗壯夫【訓壯夫云遠登古下效此】以爲甚異奇 爾火遠理命見其婢 乞欲得水 婢乃酌水入玉器貢進 爾不飮水解御頸之璵含口 唾入其玉器 於是其璵著器婢不得離璵 故璵任著以進豐玉毘賣命 故(かれ)教(をしへ)に隨(したが)ひて少(すこし)行(ゆ)きたまへば、備(つぶさに)其(そ)の言(こと)の如(ごと)し、即ち其の香木(かつら)に登り以(も)ち坐(を)り。 爾(ここに)海神(わたつみ)之(の)女(むすめ)豊玉毘賣(とよたまひめ)之従(にしたがへる)婢(めやつこ)、玉器(たまうつはもの)を持ちて[将]水を酌(く)まむとせし[之]時、[於]井(ゐ)に光(ひか)りて有りて、 仰(あふ)ぎ見れ者(ば)麗(うるは)し壮夫(をとこ)【「壮夫」を訓(よ)み遠登古(をとこ)と云(い)ふ。下(しもつかた)此(こ)に効(なら)ふ。】有りて、甚(いと)異奇(くし)と以為(おも)ひき。 爾(ここに)火遠理(ほをり)の命(みこと)其の婢(はしため)を見(め)し、水(みづ)を得まく欲(ほ)りと乞(こ)ひたまひて、婢(めやつこ)乃(すなは)ち酌(く)みてある水(みづ)を玉器(たまうつはもの)に入れて進め貢(まつ)りき。 爾(しかれども)、水を不飲(のま)ざりて御頸(みくび)之(の)璵(たま)を解(と)きて口に含(ふふ)み、其の玉器に唾(つは)き入れて、於是(ここに)其の璵(たま)器(うつはもの)に著(つ)きて、婢(はしため)璵(たま)を離(はな)ち不得(えず)。 故(かれ)璵(たま)の著(つ)ける任(まにま)に以(も)ちて、豊玉毘賣の命に進めまつりき。 爾見其璵問婢曰 若人有門外哉 答曰 有人坐我井上香木之上 甚麗壯夫也 益我王而甚貴 故其人乞水故奉水者不飮水唾入此璵 是不得離故任入將來而獻 爾豐玉毘賣命思奇出見 乃見感目合而白其父曰 吾門有麗人 爾海神自出見云 此人者天津日高之御子虛空津日高矣 卽於內率入而 美智皮之疊敷八重亦絁疊八重敷其上坐其上而 具百取机代物爲御饗 卽令婚其女豐玉毘賣 爾(ここに)其の璵(たま)を見て、婢(めやつこ)に問ひて曰(い)はく「若(もし)や門(かど)の外に人や有る哉(か)。」といひて、 答へ曰(まを)さく「人有り我が井(ゐ)の上の香木(かつら)之(の)上に坐(を)り、甚(いと)麗(うるは)しき壮夫(をとこ)也(なり)、我が王(きみ)に益(ま)して[而]甚(いと)貴(たふと)し。 故(かれ)其の人水を乞ひし故(ゆゑ)水を奉(まつ)れ者(ば)水を不飲(のまず)此(こ)の璵を唾(つは)き入れ、是(これ)離(はな)ち不得(えず)。故(かれ)入りてある任(まにま)に将来(もてき)て[而]献(たてまつ)りき。」とまをしき。 爾(ここに)豊玉毘賣の命、奇(く)しと思ひ出(い)で見(み)れば、乃(すなは)ち見て感(かな)ひ目合(めあ)はして[而]其の父に白(まを)さく[曰]「吾(わが)門(かど)に麗(うるは)しき人有り。」とまをし、 爾(ここに)海神(わたつみ)自(みづか)ら出(い)でて見て、云(い)はく「此の人者(は)天津日高(あまつひこ)之(の)御子(みこ)虚空津日高(そらつひこ)なる矣(や)。」といひて、 即ち[於]内(うち)に率(ひきゐ)入(い)れて[而] 美智(みち)の皮(かは)之(の)疊(たたみ)八重(やへ)に敷きて、亦(また)絁(あしぎぬ)の畳(たたみ)八重に其の上に敷き、其の上に坐(ましま)しめまつりて[而]、 百取机代物(ももとりのつくえしろもの)を具(そな)へて御饗(みあへ)為(たてまつ)る。即ち其の女(むすめ)豊玉毘賣を婚(めあは)令(し)めまつりき。 そして、教えられた通り少し行くと、すべてその言葉の通りで、その桂の木に登って待っていました。 すると、海神(わたつみ)の娘豊玉毘賣(とよたまひめ)の侍女が玉器(たまうつわ)に水を汲もうとした時、井戸の水に光が映りました。 仰ぎ見ると、麗しき立派な男がいて、甚だ不思議なことと思いました。 すると火遠理命(ほをりのみこと)は、その侍女を見て水を求め、侍女は水を汲み玉器に入れて差し上げました。 ところが、水は飲まずに御首に懸けた魯の瓊を外して口に含み、その玉器に吐き出したところ、その瓊は器にくっつき、侍女は瓊を離すことができませんでした。 そこで瓊の付いたままで持ってきて、豊玉毘賣の命にお渡ししました。 すると、その瓊を見た豊玉毘賣は、侍女に「もしかして、門の外に人がいるのですか。」と質問し、 侍女はこのようにお答えしました。「人がいて、井戸の上の桂の木の枝に腰掛けていて、それがすごく麗しい男性ですの。わが君(海神)にも益してすごく貴いですわ。 そして、その人が水を望まれたので水を差し上げたところ、水は飲まずこの魯の瓊を吐き入れ、これを離すことができないので、そのまま持ってきて豊玉毘賣様に差し上げましたの。」と申しました。 そこで豊玉毘賣命は、不思議に思って外に出て見たところ、一目見て心にぴたりとくるものを感じ、見つめ合い、(すぐにもどって)父に「私たちの宮の門のところに麗い人がいます。」と申し上げました。 それを聞いて、今度は海神自身が出て、見て言いました。「この人は天津日高(あまつひこ)の御子、虚空津日高(そらつひこ)にあらせられますことよ。」と驚いて言い、 直ちに宮殿内に招き入れ、海驢(あしか)の毛皮の畳(たたみ)を八重(やへ)に敷き、さらにその上に絁(あしぎぬ)の畳を八重に敷き、その上にお座りいただき、 百取机代物(ももとりのつくえしろもの、=多くのもてなしの料理)を用意し饗宴でもてなし、そのままその娘豊玉毘賣を娶っていただきました。 隨…[動] したがう。(古訓)ままに。したかふ。 すこしき-なり(少しき)…[形動] 上代には「すこしき」を副詞に用いた例がある。 備…[動] そなえる。[副] ことごとく。(万葉集)すべて音仮名「び」。(古訓)あつかる。ことことく。そなふ。つふさに。 以…[接] (古訓)これをもて。すてに。ゆへ。[動] (古訓)もちう。もちゐる。 はしため(端女)…[名] 召使いの女性。(〈時代別上代〉になし) めやつこ…[名] (万)3828痛女奴 いたきめやつこ。 たま-(玉)…[接頭] 体言の上について、美しい、尊いの意味を加える。 器… (古訓)うつはもの。 酌… (万)0158 山清水 酌尓雖行 やましみづ くみにゆかめど。 あふぐ(仰ぐ)…[自]ガ行四段 上の方を向く。(万)0167 天水 仰而待尓 あまつみづ あふぎてまつに。 以為…おもへらく。(古訓)おもひて。とおもへり。 欲…[助動] ~せんことをほっす。[副] まさに~せんとす。(古訓)おもふ。せむとす。とす。〈別項参照〉 貢… (古訓)たてまつる。みつきもの。 璵…『説文解字』玉部:璵:璵璠也。从玉與聲。〔璵:璵璠(よはん)と同じ。玉に従い、音は「與(=与)」〕 玉部:璠:璵璠。魯之寶玉。(魯の宝玉、魯は春秋戦国時代に割拠した王朝のひとつ) 解… (古訓)とく。 含… (古訓)くくむ。ふくむ。ふふむ。 ふふむ…マ行四段 ①[自] 花が開ききらない。(万)1188 石管自 迄吾来 含而有待 いはつつじ わがくるまでに ふふみてありまて。②[他] 口の中に入れる。 ふくむ(含む)…①[自]マ行四段 ふくらむ。②[自]マ行四段・[他]マ行下二 口の中に入れる。 くくむ(包む、銜む、含む)…①[自]マ行四段 口の中に含む。②[他]マ行下二 口に含ませる。 唾… (古訓)つはき。 つはく…[自]カ行四段 つばをはく。 不得… (万)0207 聞而有不得者 ききてありえねば。 たふとし(貴し、尊し)…[形] 感…[動] (古訓)いたむ。うこく。かなふ。ほむ。[形] (古訓)かしこし。たのし。[副] (古訓)ことことく。 かなふ(叶ふ、適ふ)…[自]ハ行四段 ①条件が合致する。(万)0008船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 ふなのりせむと つきまてば しほもかなひぬ。②願いが成就する。 みち…[名] (一書注)海驢、此云美知。(みち) 海驢…[名] あしか。 絁…[名] あしぎぬ。絹織物の一種。(倭名類聚抄)和名阿之岐沼(あしきぬ) たたみ(畳)…①たたんだもの。(万)0380 木綿疊 手取持而 ゆふたたみ てにとりもちて。②敷物の総称。③現在の畳と同じもの。平安時代に遡る。 ゆふたたみ(木綿畳)、こもたたみ(薦畳)、いはたたみ(岩畳)は、それぞれ折り畳んだもの(ようす)を表す語で、枕詞としても使われる。 みあへ(御饗)…[名] 貴人に対する飲食のもてなし。 【玉器】 記の「玉器」は、書紀では一書1を除き「玉鋺」(たままり)、一書1は「玉壼」と表現される。「玉」は美称をつくる接頭辞。
万葉集における「欲」について、全297例を調べた。その結果は、右の表の通りで、 多くは形容詞「欲(ほ)し」、動詞「欲(ほ)る」である。 「欲し」は命令形以外の全て出てくるが、「欲る」は「欲り」のみである。辞書では、ほとんど連用形が使われるとされる。 万葉仮名表記を含め検索すると、唯一「ほる」がある(2555番)。これは連体形で、参考のため表に加えた。未然形「ほら」、已然形・命令形「ほれ」は一例もない。 さて、万葉集では文末を「欲り」で終える歌が3首あるが、これらは終止形ではないのだろうか。 文末だから必ず終止形であるとは限らない。倒置されることもあるし、敢えて連用形で終え余韻を残す歌もある。係り結びだと連体形である。 そこで「欲り」が文末にある歌について、その活用形を突き詰めてみる。 ①(万)0736 月夜尓波 門尓出立 夕占問 足卜乎曽為之 行乎欲焉 つくよには かどにいでたち ゆふけとひ あしうらをぞせし ゆかまくをほり。 「ゆふけとひ」は、通行人が発する言葉による占い、「あしうら」とは、歩数占い(偶数・奇数で、花占いのように占う)だと考えられている。 「あしうら-ぞ」の「ぞ」は係助詞、そして「せし」の「し」は「き」の連体形なので係り結びが成立し、ここで一度文が終結する。 なお、「せ」はサ変「す」の未然形で、「し」がつく場合だけの特別な接続であると説明されている。 次の「ゆかまく」=「行く」の未然形+推量の助動詞「む」の未然形+「く」で、ク用法(「未然形+く」による名詞化)である。従って「行かまくを欲り」は、「行きたいと望む。」の意味。 この「欲り」は、連用形・終止形の両方の可能性がある。 (ア…連用形だとすれば) 文の最後に「行きたいと望み」と占いを行った理由を添える。倒置されて文末に来ている。 (イ…終止形だとすれば) 「行きたいと望む。」という独立した文を、前文と並列する。 なお、文末の「焉」は語調を整えるための助詞で置き字(訓読では読まない)で、「欲」が(イ)の終止形であることを示している可能性がある。 ②(万)2149 山邊庭 薩雄乃祢良比 恐跡 小壮鹿鳴成 妻之眼乎欲焉 やまへには さつをのねらひ かしこけど をしかなくなり つまのめをほり。 「さつを(猟夫)」は猟師。猟師は怖いが、雄鹿は鳴き声を上げ、妻に逢おうとする。(あるいは、「妻に逢いたいがために、鳴き声を上げる」) 「目を欲り」は、「妻の姿を目にしたい」とも「妻の目を見たい」ともとれるが、辞書よれば単に「会いたい」である。 文法的には①の(ア)(イ)と同じことで、連用形と終止形の可能性がある。 ③(万)2674 朽網山 夕居雲 薄徃者 余者将戀名 公之目乎欲 くたみやま ゆふゐるくもの うすれなば あれはこひむな きみがめをほり。 「あれはこはむな」の「む」は助動詞(自発)。「な」は詠嘆の助詞。 夕暮れのくたみ山にかかる雲が消えて行くにつれ、私には恋する気持ちが起こるのだなあ。お前の顔を見たいものだ。 「お前の顔を見たい」は「恋する気持ちが起こる」の理由ではなく結果だから、独立した文となり、終止形である。 以上から、①②は、連用形と終止形の可能性があり、③は終止形である。 「焉」については、③は終止形が明白だから不必要で、①②は終止形を明示するために必要だったという見方もできる。 また、複合動詞となった「ほり-す」を見ると、万葉集には未然形・連用形・已然形の用例がある。これは「ほり」の活用の不完全さを、「-す」をつけた複合動詞によって補っていると解釈することができる。 そして、終止形「ほり-す」は使われないということは、「ほり」には「ほり」という終止形が存在したことを示唆する。 以上の検討の結果、辞書の「四段活用」には反するが「ほり」はラ変で、万葉集では連用形、終止形、連体形が使われたこと[〇、り、り、る、〇、〇]を示している。 【璵璠】 《論衡》 「璵璠」は、『論衡』(ろんこう、後漢(1世紀末)の思想書。全35巻)の『薄葬』で、魯の人の葬儀に参列した孔子の姿を描いた部分に出てくる。 魯人將以璵璠歛、孔子聞之、徑庭麗級而諫。夫徑庭麗級、非禮也、孔子為救患也。 患之所由、常由有所貪。璵璠、寶物也、魯人用歛、姦人僴之、欲心生矣。姦人欲生、不畏罪法。 不畏罪法、則丘墓抽矣。孔子睹微見著、故徑庭麗級、以救患直諫。 夫不明死人無知之義、而著丘墓必抽之諫、雖盡比干之執人、人必不聽。 何則?諸侯財多不憂貧、威彊不懼抽。死人之議、狐疑未定;孝子之計、從其重者。 如明死人無知、厚葬無益、論定議立、較著可聞、則璵璠之禮不行、徑庭之諫不發矣。今不明其說而彊其諫、此蓋孔子所以不能立其教。 …「歛」は「斂」(棺に収める)の混用。「救患」は「人々を困難から救う」。「麗級」は「階段まで行き着く」か。「丘墓抽」は「墳墓から抜き出す」。 「彊」=「強」。「懼」は「おそれる」。「狐疑」=「疑」。「蓋(けだし)」=「要するに」。「不能立其教」=「その教えを立てあたわず」。 孔子はある時、魯の季孫氏の弔いに参列し、死者とともに璵璠を棺に収めたのを知り、わざと経庭することにより諌めたという。 「経庭」とは庭を横切ることで、礼を失する行為とされる。 その理由を、孔子は「これは人を過ちから救う行為である。璵璠のような宝物とともに葬れば、 墓を盗掘する者が現れ、死者への礼を失い、ひいては忠孝の秩序を損なうことに通ずる。 副葬品にいかに手厚く葬っても死者は知ることができないのだから、無意味なことである。」と述べた。 しかし、諸侯には聞き入れられず、璵璠の礼を行うなという「径庭の諫」は不発に終わり、有効な教えとして確立できなかった。 同様の話は、他にも2~3の書に散見される。 璵璠が具体的にいかなる宝石かは不明だが、魯人と孔子の話の中に「璵璠寶物也」の文があることを根拠として、『説文解字』に「魯の宝玉」と書かれたと思われる。 我が国の漢和辞典に「魯の宝玉」と書かれるのも、これが出典だと思われる。 《揚子法言》 『揚子法言』(前漢)の『寡見卷第七』に次の問答がある。 或曰:「良玉不雕美言不文、何謂也?」曰:「玉不雕、璵璠不作器。言不文、典謨不作經。」 「『良玉不雕美言不文』は何を意味するか?」という問いに対して、「『玉雕(ほ)られず』とは、『璵璠は器を作らず』で、「言文(かざ)らず」とは、『経典は謨(はか)りて経文を作らず』のようなものだ。」と答える。 (良い宝石は彫刻などの手を加えなくてもそのものが良いように、美しい言葉は修辞法を工夫しなくとも言葉そのものが美しいという意味であろうか) ここには璵、器、そして離と字形が似た雕があるので、その字面から「璵は器から離れない」話を思いついたのかも知れない。但し、内容は全く無関係である。 《文化的な影響》 『後漢書』に「桓靈之間其國大亂遞相攻伐歴年無主」とあるように、後漢の桓帝・霊帝の期間(146~189年)は内乱状態であった。 本サイトは、この期間の最初に天照族の先祖が上陸し、先住民の国を制圧したという仮定に従って論建てしている。 その仮定に従えば、外来の民族が持ちこんだ前漢・後漢の文化の中に「璵璠」の文字が書かれた書が含まれていた可能性もある。 しかし、常識的に考えれば、前漢・後漢の文献が本格的に持ち込まれた時期は、遣隋使(600~618年)以後である。 【亦名・虚空津彦】 神が天上にいるとされるのは、あらゆる民族に共通である。かつて弥生時代ぐらいに、神の住む場所を「天」(あま)と呼ぶ種族と、「虚空」(そら)とよぶ種族の一体化があったように思われる。 書記一書の、彦火瓊瓊杵が「虚天」(そら)で生まれたとする記述(第83回【一書2】の項)もこれと関連するかも知れない。(後述【一書1】参照)
<島根県の公式ページ/竹島問題研究所・杉原通信11回> 江戸時代にはニホンアシカは「みち」とか「みちのうお」と呼ばれていた。現在の出雲大社の神事である相嘗(あいなめ)の儀は「みちの皮の上に膳を置いて行う」 </杉原通信>という。 ニホンアシカは、かつて九州以北の各地の沿岸に生息し、縄文時代の貝塚からは骨が出土する。最後の公式の記録は1974年に捕獲された幼体であるという。 <wikipedia>絶滅の主な原因は、皮と脂を取るために乱獲された</wikipedia>こととされる。 【高貴な神として迎えられる】 山幸彦としては兄に許しを請うが許されず、途方にくれたみじめな姿であったが、海神の宮にやって来たときは、見違えるように高貴な神として現れる。 火遠理命が、日嗣であることを考慮した脚色であろう。 【表現の特徴】 《璵著器婢不得離璵》 火遠理命は、首にかけていた璵璠を外して口に含み、器の中に吐き出したらそのままくっつき、侍女が剥そうとしても離せなくなった。 書紀では、本文・一書とも、この話を採用しない。 記では、この部分を含む侍女の体験を、侍女の言葉としてもう一度繰り返して書いている。 読み聞かせの文学としては、面白い話ならたとえ繰り返しになっても、聞き手を惹きつけることが大切なのである。民衆教化の書という性格が、ここにも表れている。 《益我王而甚貴》 お客様はわが家の主人よりずっと麗しいわよ、と軽口を叩く。こういう楽しげな身内の会話が盛り込まれている。 書記では、この表現は一書4だけに出てくる。 《書紀での扱い》 書紀ではこれらの副次的な話や冗長な繰り返しは、基本的に省略されている。 書紀は読み聞かせのための書ではなく、論理的に権威を確立するための書だからであろう。 【書紀本文】
乃(すなは)ち驚(おどろ)きて還(かへ)り入(い)りて、その父母(ちちはは)に白(まを)ししく「一(ひとりの)希客(まらひと)有りて、門前(かどのさき)の樹下(きのした)に在り。」とまをしき。海神(わたつみ)、是(ここ)に八重(やへ)の席薦(むしろこも)を鋪(し)き設(まう)け、以(も)ちて[之]内(うち)に延(の)べまつりき。
一人の若き女性が潜り戸を押し開き、玉椀を持って来て水を汲もうとしたとき、顔を上げたときに彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)が目に入りました。 それで驚いて宮殿に戻り、父母に「一人の客がいらっしゃり、桂の木の下におられます。」と伝え、海神(わたつみ)は筵を八重に敷いた座を設け、招き入れ寛いでいただきました。 《本文は簡潔である》 本文には彦火火出見尊の高貴な姿の描写はないが、木登りはしないからどちらかと言えば上品である。 別名「虚空彦尊」を名乗ることはなく、瓊は吐き出さず、敷物に海驢の皮はなく、総じて物語から贅肉をそぎ落としている。 逆に、記は特に「美人」とは書いていない豊玉毘賣が、ここでは「美人」とされる。 【一書1】
良く久しく一(ひとりの)美人(うるはしきをみな)有り、容貌(かほかたち)絶世(よにふたりなく)、侍者(つかひひと)群(む)れ従(したが)ひて、内(うち)自(よ)りて出(い)づ。 玉(たま)壼(つぼ)を以ちて玉(たま)水(みづ)を汲み、火火出見尊(ほほでみのみこと)を仰(あふ)ぎ見て、便(すなは)ち以(も)ちて驚(おどろ)き還(かへ)りてその父(ちち)神(かみ)に白(まを)さく 「門前(かどのさき)の井(ゐ)の辺(へ)の樹下(きのした)に、一(ひとりの)貴(たふと)き客(まらひと)有り、骨法(ふるまひ)非常(つねにあら)ず。 若(も)し天(あめ)従(よ)り降(お)りまさ者(ば)天垢(あめのあか)有らむ、地(つち)従り来たりまさ者(ば)地垢(つちのあか)有らむ、実(まこと)是(これ)妙(たへ)に美之(うるはしき)虚空彦(そらつひこ)者(なり)[歟]。」とまをす。
因以(よりて)仰(あふ)ぎ観(み)れば、一(ひとりの)麗(うるはし)き神有り、杜樹(かつら)に倚(よ)りて、故(かれ)還(かへ)り入りてその王(きみ)に白(まを)しき。 是(ここ)に、豊玉彦(とよたまひこ)人を遣(つか)はして問はしめて曰(い)はく「客(まらひと)是(これ)誰(たれ)者(なる)か、何以(なにをやもて)此(ここ)に至らむか。」ととはしめき。 火火出見(ほほでみ)の尊対(こた)へて曰(のたま)はく「吾(われ)是(これ)天神(あまつかみ)の孫(ひこ)なり。」とのたまひ、 乃(すなは)ち遂(つひ)に来(こ)し意(こころ)を言(のたま)ひて、時に海神(わたつみ)迎(むか)へ拝(おろが)み延(の)べ入れて、慇懃(ねむごろ)に奉慰(なぐさめまつ)りて、
門外の井戸端に桂の木があり、火火出見命はその木の下に立った。 すると美しい女性が、多くの侍女を従えて門から出てきた。 そして玉壺に神聖な水を汲もうとし、ふと顔を上げると火火出見命がいた。その美男子ぶりに驚き戻って父にこう言った。 「門前の井戸端の木の下に、高貴なお客様がいらっしゃいました。その上品な振る舞いは常ではありません。 天から降りて来たのなら天の垢が付き、地からやって来たのなら地の垢が付いているはずなのに、どちらも付いていないから、虚空(そら)から来た虚空津彦(そらつひこ)に違いありません。」 別の謂れによれば、豊玉姫の侍女が高貴な瓶に水を汲みに来て、汲み終わる前に井戸を覗くと人の笑い顔が写り、 顔を上げてみると、麗しい神が桂の木に寄って立っていたので、もどって海神に知らせたとも言う。 海神の豊玉彦は人を遣わし「お客様のお名前と、目的をお聞かせください」と聞きに行かせた。 火火出見命はそれに対して「私は天神の孫である。」と答え、来意を告げられたので、 海神はお迎えして拝礼し、ねんごろに寛いでいただき、 《骨法》 平家物語(鎌倉時代、1200年代成立)において、「骨法」は、「こつぱふ」と音読みされる。 岩波文庫版では、「かたち」と訓読し注記には「骨格」とあるが、この解釈は明らかに誤りである。 高貴な神が、常人以上に筋骨隆々であることを強調することは、話として変である。平家物語の「礼儀骨法わきまへたる」を見れば、「骨法=作法」は明らかである。 《因以》 「因以」を『中国哲学書電子化計画』で検索すると1406例に上り、極めて一般的である。用法を見ると接続詞、あるいは副詞として前文の内容を受け、後文に繋げる。 しかし漢和辞典では熟語扱いされず、その文例でも「よってもって」と「因」「以」のそれぞれの意味を残して訓読している。また「因」「以」は、それぞれ単独でも接続して機能する。 「因以」は万葉集の歌には見出されないが、注記に6か所使われる。 (万)1667左注 右一首上見既畢 但歌辞小換 年代相違 因以累載 (右の一首上に既に畢(を、=終)ふを見、但し歌の辞(こと)小し換へ年代合(あひ)違(たが)ひ、因以(かれ)累(かさ)ね載(の)す。) ――右の歌(1667)は、既にでてきた歌(1665)だが、少し言葉が変わり、年代が異なるので重ねて載せる。 用法から見て、事実上一体となった接続詞である。だから、訓読は「かれ」で十分である。 ただ「因」「以」には、それぞれのもとの意味が残存していると見られる。 万葉集では「因」は、動詞で「よる」「よす」の他、名詞「よし」として使われる。 (万)3011 因毛有額 妹之目乎将見 よしもあらぬか いもがめをみむ。(この場合「口実」「理由」)(古訓)ちなみ。ゆへ。よし。 (よし(由)…[名] 理由。手段。縁(ゆかり)。) また、万葉集の「以」は、「持つ」の意味が濃い。 (万)0436 玉有者 手尓巻以而 たまならば てにまきもちて。(古訓)すてに。ために。もちう。もちゐる。もてす。ゆへ。 以上から「因」は「理由」、「以」は「~をもって」なので、訓読は「よしもち」「よしもて」「ゆゑもち」などが考えられる。 《就樹下立之》 一書1において、彦火火出見尊は木の上ではなく、木の下に寄って立つ。「貴客。骨法非常」つまり高貴で洗練された振る舞いをする神が、木登りなどはしない。 ここからも、「骨法」が礼儀作法の意味であることが裏付けられる。 《若従天降者当有天垢》 「天から降りたのなら天の垢がつき、地から来たのなら地の垢がついているはずだが、どちらもついていないので『虚空の彦』である」と述べる文の冒頭である。 「従天降者」は反実仮想(事実に反する仮定)である。 その意を尽くすためには、完了の助動詞「ぬ」、反実仮想の助動詞「まし」を用い、「天よりおりなませば」とする。(「な」は「ぬ」の未然形。「ませ」は「まし」の未然形。) 「まし」の未然形は、「ませ」と「ましか」があるが、上代には「ませ」のみだったという。 「当」は置き字で、動詞に推量の助動詞「む」がつくことを示すので、「有らむ」。ここの「む」は連体形で、動詞「是」の主語である。(ただ、訓読する場合は是は「これ」とよむ) 《天・地・空の関係》 興味深いのは「天から来たのなら天垢がつく」部分である。垢とは皮膚の汚れであるが、天でついた垢なら神聖なものであろう。 それはともかくとして、天の垢がついてないから天からではなく、かといって地の垢もついていない。だから、第3の場所「そら」から来たという。 但しこれは、亦の名「そらつひこ」への単なる語呂合わせである。これが神学において定式化されたものとすると、記紀の根幹が揺らいでしまう。 しかし、世継ぎの血統には、高皇産霊尊からの純正な血に、この地の国つ神の血が混合したという異説が、思わずこのような形で混入したのではとも感じられる。 これは、彦火瓊瓊杵が木花開耶姫が身籠った子を、国神の子ではないかと疑ったことにも符合する。 想像を逞しくすれば、南洋からきた種族が大隅半島・阿蘇の地域の種族と混合した事実が反映しているかも知れない。その過程が山幸彦(大隅・阿蘇)が海幸彦(南洋)と争い、勝利した話として描かれ、南方から持ってきた釣針喪失譚がそのまま伝承として共有されたのである。 《一書1の特徴》 記と共通するのは亦の名「虚空津彦」が出てくるところであるが、璵璠の話はなく、海驢や絁(あしぎぬ)の畳も出てこない。 【一書2】
時に、海神(わたつみ)の女(むすめ)豊玉姫(とよたまひめ)、手に玉鋺(たままり)を持ち、来(き)て将(まさ)に水(みづ)を汲(く)まむとして、正(まさに)人影(ひとかげ)井の中に在るを見て、乃(すなは)ちこれを仰(あふ)ぎ視(み)て、 驚(おどろ)きて鋺(まり)を墜(お)とし、鋺(まり)既(すで)に破碎(くだ)けて、顧(かへりみ)ずして還(かへ)り入(い)りて、父母(ちちはは)に謂(まをさ)く 「妾(われ)一(ひとり)の人(ひと)を井(ゐ)の辺(へ)の樹(こ)の上(うへ)に見て、顏色(かほいろ)甚(いと)美(うるは)し、容貌(かほかたち)且(また)閑(みやび)かなり。殆(ほとほと)常(つね)なる人に非(あら)ざる者(もの)や。」とまをす。 時に父(ちち)なる神(かみ)聞きてこれを奇(あや)しびて、乃(すなは)ち八重(やへ)の席(むしろ)を設(まう)けて迎(むか)へ入(い)れまつりて、
門前の井戸の上にはかつらの枝が茂り、彦火火出見(ひこほほでみ)の尊は飛びついて昇りました。 その時、海神(わたつみ)の娘、豊玉姫(とよたまひめ)が玉椀を手に持って来て水を汲もうとすると、人影が井戸の水面に移ったので仰ぎ見たところ、 驚いて椀を手から落とし砕けてしまいましたが、そのまま振り返りもせず、宮殿の中に急ぎ戻り、父母に 「私は、井戸端の樹上に人が一人いるのを見つけたのですが、その顔はまことに美しく立派で上品な方でした。並の人ではありませぬ。」と申し上げました。 それを聞いた父は不思議なことだと思い、八重の敷物を用意して迎え入れました。 《一書2の特徴》 彦火火出見尊は木登りをする。亦の名虚空津彦は出てこない。敷物の材料には触れられない。 【一書3】
(中略) 「海驢」、これ美知(みち)と云(い)ふ。 《大意》 海神自ら迎え入れくつろいで、海驢(あしか)の皮を八重に敷いた上に座っていただき、百取りの机(ももとりのつくえ、数々の飲食物を用意した机)をお奨めし、主人の礼を尽くした。 《一書3の特徴》 一書3は、敷物の材料が海驢である話のみである。 【一書4】
因以(よりて)天孫(あまつみま)を仰(あふ)ぎ見て、即ち入り其の王(きみ)に告曰(まをさ)く、 「吾(われ)謂(おも)へらく我(わが)王(きみ)独(ひとり)能(よく)絶(すぐれて)麗(うるは)しくありとおもひまつれど、今一(ひとりの)客(まらひと)有りて、彌(いよよ)復(また)遠(とほ)く勝(まさ)る。」 海神(わたつみ)之を聞き曰て(い)はく「試(こころみ)て以(も)ちて之を察(あきら)めむ。」といひて、乃(すなは)ち三床(みとこ)を設(ま)け、入(い)りたまふこと請(こ)ひまつりき。 於是(ここに)、天孫(あまつみま)辺(へ)の床(とこ)に則(すなは)ち其の両足(ふたあし)を拭(のご)ひ、中(なかば)の床に則(すなは)ち其の両手(もろて)を拠(お)き、内(うち)の床に則ち真床覆衾(まとこおふふすま)の上に寛(ゆるるか)に坐(ま)しき。 海神(わたつみ)これを見まつりて、乃(すなは)ち是れ天神(あまつかみ)の孫(みま)なると知りまつり、益加(ますます)崇(たふと)く敬(ゐやま)ひて、云々(しかしか)。
その時、豊玉姫の召使いが井戸水を汲もうとすると、底の水に人影があり、すくい取れなかった。 上を見ると天孫がいたので、宮殿に戻り海神に「海神ほど麗しい方はいないと思っていたのに、それより遥かに麗しい客がいらっしゃいました。」と報告した。 海神はそれを聞き「ならば試してみよう」と言い、三床の布団を用意させた。 天孫は、端の布団で足を拭い、中央の布団に手をつき、奥の「真床覆衾(まとこおうふすま)」に座して寛いだ。 海神はそれを見て天孫であることを確信し、崇敬の念を一層深めた。
ここでは中・内の位置関係に戸惑わされる。日本語において、辺・中・内はどのようなルールで定められるのだろうか。 試しに、外耳・中耳・内耳の命名を見る。内耳は耳の奥でリンパ液が満たされた部分である。 中耳は鼓膜の内側の部屋で、外耳・内耳に挟まれた部分である。 これを適用すると、部屋の入り口に近い所が辺床、その次が中床、一番奥が内床となる。 《海神による「試」》 寝床を三床用意し、そのうち一つだけが「真床覆衾」(まとこおふふすま)である。 それを見抜けば、天神の日嗣であるということであろう。 彦火火出見尊は、入口に近い床では、汚れた足を拭い。次の床には手をつくだけであった。そして奥の床に横たわって寛いだ。 実は一番奥が、真床覆衾であることを見抜いていたのである。 海神は、それを見て本物の天孫であると確信した。 《真床覆衾》 真床覆衾(まとこおふふすま)は、第84回(【書紀本文】)に言及される。 書紀においては高皇産霊(たかみむすひ)の尊は、天津彦彦火瓊瓊杵(あまつひこひこほのににぎ)の尊を慈しみ、 「真床追衾」で包んで大切に育てたと読み取れる。これを、大嘗祭における神座の衾(寝具)と関連付ける説がある。 <世界大百科事典>宮廷では11月の卯の日に大嘗殿で新しい天子となるための秘儀がとり行われるが、その際に新王は「天の羽衣」なるものを着て湯浴みした後に、悠紀(ゆき)・主基(すき)正殿で新穀を食して神座に設けた衾(寝具)にふすという(『西宮記』『江家次第』)。</世界大百科事典> 『西宮記』、『江家次第』は平安時代に記録された宮中行事の先例集。 しかし、昭和以後の大嘗祭では、<wikipedia>この寝具類は神座、神の為に設けられたものであり、この中に天皇が直接入ることはない。</wikipedia>とする解説があり、 大嘗祭の神座の衾が、書紀に基づいたもので、新天皇が包(くる)まる伝統が現代にあるかどうかは分らない。 ただ、書紀にこの記述があるということは、少なくとも飛鳥時代には新天皇が践祚(即位)するときに「真床覆衾」と名付けられた寝具に包まる風習があったと思われる。 角度を変えて、アシカの皮の敷物の上に、絁(あしぎぬ)の布団を敷いた座が真床覆衾であったと解釈することもできる。 《一書4の特徴》 豊玉姫の侍女による発見を簡単に語った後、3床から正しい床を見付けた話を中心に書く。 それなりに面白い話なので、ついでに書紀に加えたように思える。 ただ、これで初代と二代目が真床覆衾に包まるので、代々の天皇が践祚する際に必須の儀式であることを示すのが、これらの記述の目的かも知れない。 書紀は官僚のために伝統を伝える書なので、朝廷における儀式の基準を示すことは重要である。 まとめ 井戸に水汲みに来た侍女が麗しい若者を見付けた場所は、若者が流れ着いた遠い島である。(海底の別世界と書かれてはいるが、そんなイメージが湧く。) 記紀の神代に描かれたのは、概ね国つ神を服属させながら葦原中国の支配者になる過程である。 しかし、ここで一旦、遠い海の彼方からやってきた自身の民族に伝わる古い神話に触れることにより、民族の出自に思いを馳せるのである。 |
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2015.01.03(土) [091] 上つ巻(山幸彦海幸彦4) ▼▲ |
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故 至三年住其國
於是 火遠理命思其初事而 大一歎 故 豐玉毘賣命聞其歎 以白其父言 三年雖住恒無歎 今夜爲大一歎 若有何由 故(かれ)三年(みとせ)に至(いた)り、其(そ)の国に住みたまひき。 於是(ここに)火遠理命(ほをりのみこと)其の初(はじめ)の事を思ひて[而](ふと)く一歎(ひとなげ)きし、 故(かれ)豊玉毘賣命(とよたまひめのみこと)其の歎(なげ)きを聞きて、以(も)ちて其の父(ちち)に言(こと)を白(まを)さく 「三年(みとせ)住(す)まはせ雖(ど)恒(つね)に歎き無く、今夜(こよひ)大(ふと)く一歎き為(し)たまふ。若(も)しや何(なに)そ由(よし)有らむ。」 故 其父大神問其聟夫曰 今旦聞我女之語云 三年雖坐恒無歎今夜爲大歎 若有由哉亦到此間之由奈何 爾 語其大神備如其兄罸失鉤之狀 故(かれ)其の父大神(おほみかみ)其の聟(むこ)なる夫(をひと)に問ひて曰ひしく、 「今(いま)旦(ただ)我が女(むすめ)之(の)語(かた)らひて云はく『三年(みとせ)坐(ましま)ませ雖(ど)恒に歎き無く、今夜(こよひ)大(ふと)き歎き為(す)。若し由(よし)有らむ哉(や)。』というを聞く。亦(また)此(こ)の間(あひだ)に到りし[之]由(よし)や奈何(いか)に。」ととひき。 爾(ここに)、其の大神(おほみかみ)に備(つぶさ)に其の兄鉤(ち)を失(う)せしことを罸(う)ちし如(ごと)き[之]状(ありさま)を語りき。 是以 海神悉召集海之大小魚問曰 若有取此鉤魚乎 故 諸魚白之 頃者 赤海鯽魚於喉鯁物不得食愁言 故必是取 於是 探赤海鯽魚之喉者有鉤 是(これ)を以(も)ちて海神(わたつみ)悉(ことごと)海(うみ)之(の)大小魚(おほきいをちひさきいを)を召し集め、問ひて曰はく「若し此の鉤(ち)を取りし魚(いを)有り乎(や)」とふ。 故(かれ)諸魚(もろもろのいを)之(これ)に白(まを)さく「頃(このごろ)者(は)、赤海鯽魚(あかちぬ)[於]喉(のみど)に鯁(むせ)び物を不得食(えはまず)愁(うれ)ふと言ふ故(ゆゑ)必ず是れを取りぬべし。」とまをしき。 於是(ここに) 赤海鯽魚(あかちぬ)之(の)喉(のみど)を探(さぐ)れ者(ば)鉤(ち)有り。 そして三年に至り、その国に住み続けていました。 ここに火遠理命(ほをりのみこと)その初めの事を思い出し、太くため息をつき、 そして、豊玉毘売命(とよたまひめのみこと)がそのため息を聞いたので、その父にこう申し上げました。 「三年間お住いになり、ずっとため息などつかなかったのに、昨晩太くため息をつかれました。ことによると、何か事情があるのでしょうか。」 そこで、その父の大御神はその婿にこう問われました。 「たった今、私の娘が語るに、『三年間いらっしゃたのですが、ずっとため息をついたことなどありませんでした。ところが昨晩、太いため息をつかれました。ことによると何か事情があるのでは。』と話すのを聞いた。またこのようなことに到った理由は何か。」と問われました。 よって、その大御神に、その兄が釣り針を失ったことを罰したなど、その次第を事細かに話されました。 これを以って、海神(わたつみ)は、海の大小の魚を悉く召し集め、こう問われました。「もしや、この釣り針を取った魚はあるか。」と問いました。 そこで魚たちは、それに対して「このごろ、赤茅渟(あかちぬ、鯛)が喉を詰まらせ、物を食べられないと悩んでいると言うので、必ずこれを取ったに相違ありません。」と申し上げました。 ここに、赤茅渟の喉を探したところ、釣り針がありました。 至… (万)0199 暮尓至者 ゆふへになれば。(万)0257 春尓至婆 はるにいたれば。 (万)0563 黒髪二 白髪交 至耆 くろかみに しろかみまじり おゆるまで。 すむ…[自]マ行四段 (万)0180 嶋乎母家跡 住鳥毛 しまをもいへと すむとりも。 すま-ふ(住まふ)…[自]ハ行四段 阿麻社迦留 比奈尓伊都等世 周麻比都〃 あまざかる ひなにいつとせ すまひつつ。 大一…①非常に広大な事。②天地が分かれる前の混沌。 なげく(嘆く、歎く)…[自]カ行四段 ①ため息をつく。②悲しむ。(万)0425 河風 寒長谷乎 歎乍 かはかぜの さむきはつせを なげきつつ。 なげき…[名] 〈時代別上代〉ナゲクの名詞形。 恒… (万)0377 恒見杼毛 つねにみれども。 こよひ(今宵)…[名] ①今夜。②ゆうべ。 備… (万)すべて音仮名「び」。(古訓)ことことく。つふさに。 罸… 罰の異体字。(古訓)うつ。ころす。つみ。 召… (万)0184 雖伺侍 昨日毛今日毛 召言毛無 さもらへど きのふもけふも めすこともなし。 (万)3102 足千根乃 母之召名乎 雖白 たらちねの ははがよぶなを まをさめど。 大小…①大きいこと、小さいこと。②ものの大きさ。 めす(召す)…[他]サ行四段 呼ぶ、取るなどの尊敬語。 喉… (古訓)のむと。 のみど…[名] のど。 鯁…[名] 魚の骨。害。[動] 魚の骨が喉にささる。ふさぐ。(古訓)いをののき。のき。むせふ。 探… (万)2914 夢見而 起而探尓 いめにみて おきてさぐるに。 【壻】 (倭名類聚抄)爾雅云女子之夫爲壻【細反】作聟 【和名無古】
『爾雅』云はく女子(むすめ)の夫(をうと)を壻【音「サイ」】と為(す)。聟・ に作る。【和名は無古(むこ)】
【夫】 (倭名類聚抄)…【和名乎宇止(をうと)】一云【乎止古(をとこ)】。 【為大一歎】 「歎き(嘆き)」には、現在の「嘆き」以外に「溜め息」の意味がある。 この文には「大一」と「為」がつくから、「太い"歎"をする。」である。 この文の形に合う"歎"は、「嘆き」よりは「溜め息」である。書紀本文でも「太き息」と書かれるので溜め息に間違いない。 また、一書3では「留息」の語に置き換えられ、これも溜め息の意味だと思われる。(【一書3】参照) 【大小魚】 万葉集に出てくる「小」は、 ・接頭語「を-」「こ-」(万)0358 榜轉小舟 こぎみるをぶね。(万)0011 小松下乃 こまつがしたの。 ・副詞 (万)1740 小披尓 すこしひらくに。 ・形容詞 (万)2198 小雲 すくなくも。 の用例がある。 古訓には、(古訓)すくなし。ちひさし。まれなり。をさなし。などがある。 「大小魚」の訓は「おほきちひさきのいを」であろうか。 あるいは飛鳥時代には、「大小」のような基本的な語の呉音は、既に我が国に広まっていたと思われるので、「だいせうのいを」かも知れない。 【鯁】 「鯁」のもともとの意味は、「魚の骨」、「魚の骨が喉にささる」であるが、拡張されて「さしつかえる。」意味もある。 ここではもとの意味が裏返され、「釣り針が魚の喉にささる」になっている。 【赤海鯽魚】 《鯽の書体》 《海鯽(ちぬ)と鯛(たひ)》 『倭名類聚抄』鱗介部龍魚類にタイ、クロダイに関わる項目がある。 ・鯛「…【都條反和名太比】味甘冷無毒貌似鯽而紅鰭者也」 【音「チョウ」和名「たひ」】味甘(うま)く冷(すず)し、無毒(にがからず)。貌(すがた)鯽(ふな)に似て紅(くれなゐ)なる鰭(はた)の者(もの)なり。 ・尨魚「…尨魚【和名久呂太比】與鯛相似而灰色」尨魚【和名「くろだひ」】鯛与(と)相(あひ)似(に)て灰色。 ・海鯽「辨色立成云海鯽魚【知沼鯽見下文】」『弁色立成』云はく海鯽魚【「ちぬ」。鯽は下文を見よ】。 ・鮒「…鯽魚【上音即】一名鮒魚【上音附和名布奈】…」鯽魚【上の(文字の)音「即(そく)」】一名(またのな)鮒魚【上の音「附(ふ)」和名「ふな」】。 以上から、鯛(タヒ)は鯽(鮒(フナ)の別字)に似た魚で赤く、 味は旨く、「涼しい」(清らか、潔いから、さっぱりした味という意味か)。 尨魚はクロダヒ、海鯽はチヌである。 海鯽については、『中国哲学書電子化計画』による検索(以下「中国古典」)では0件なので、「海のフナ」という発想による命名は日本独自である。 (『弁色立成』(8世紀)については漢籍か国書かという議論があるようだが、「海鯽」を見る限り国書である。) 黒鯛と茅渟(ちぬ)が別項になっているのは、方言が整理されていないためであろうか。 記の「赤海鯽魚」は、その字面からは「チヌに似て、赤色をした魚」となる。 鯛(たひ)は万葉集に出てくる。 (万)1740 水江之 浦嶋兒之 堅魚釣 鯛釣矜 みづのえの うらしまのこが かつをつり たひつりほこり。
ここで注目されるのは、「堅魚」(かつを=かたいを)は複合語であるが、「鯛」は単純語(それ以上分解できない語)であることである。ということは、鯛は古くから生活に密着した魚であることを示している。 その確認のために「貝塚」を調べると、鳥浜貝塚(福井県若狭町、縄文時代の1万2000年前~5500年前)から出土する魚の骨に、マダイもクロダイも含まれているという。 一方万葉集で「ちぬ」を探すと、「ちぬの海」が三例(1145 陳奴乃海、2486 珍海、血沼之海)、「ちぬみ」が一例(0999 千沼廻)あるが、これらは海の名前で、現在の大阪湾付近にあたる。 また、茅渟(ちぬ)出身の男を指す「ちぬをとこ」が三例(1809 血沼壮士、1811 陳努壮士、4211 知努乎登古)ある。 「茅渟」で釣れる魚だから「茅渟」の名がついたのか、「茅渟」が釣れる海に「茅渟」の名がついたのかはわからないが、地名と結びついた名称であるのは確かである。 以上から、タイは、丹後半島では「鯛」または「赤鯛」、大阪湾方面では「赤ちぬ」と呼ばれていた可能性がある。 《赤女》 書紀では喉に釣り針がかかったのは「赤女(あかめ)」で、本文の注には「赤女は鯛魚の名」とある。 また一書1では「赤女…或云赤鯛」一書3では「鯛女」、一書4では「赤女卽赤鯛也」とある。だから書紀の赤女、鯛女、赤鯛、鯛魚は皆同じである。 注釈が繰り返しつけられることから、「赤女」は広く普及した魚名ではなかったと思われる。倭名類聚抄を見ても、「め」は魚一般の接尾語ではない。 万葉集に「たい」「ちぬ」があり「あかめ」はないことも、一般的でないことを裏付けている。 インドネシアとポリネシアで蒐集された釣針喪失譚(第93回で詳しく見る)では、喉に釣り針がかかって苦しんでいるのは老女または乙女である。 倭でも同様に女性と言い伝えられた結果、「赤女」の表現を用いたと考えるのが妥当であろう。 《鯛女》 後述するように、一書3が書紀本文の原型であった可能性がある。 一書3では明確に「鯛」を用い、擬人化して「女」をつけている。 とすれば、「赤女」は本文の作成時、脚色してつけた役名であろうか。 そして、それだけでは「鯛」とは分らないから「注」を加えて補ったのである。 だから、「あかめ」という名称の魚は存在しなかった。 だが、そう断言できないのは、後述する「口女」(ボラ)については、現在まで「クチメ」という異名が残り、一書4では「赤女」「口女」が並べて解説されているからである。 ごく狭い地域に限れば「あかめ」という名称もあったかも知れない。 《「赤海鯽魚」の訓》 さて、記の「赤海鯽魚」に戻る。その訓が「あかめ」なら、きっと【訓此四字云阿迦女】のような割注がつくことであろう。それがないということは、「あかめ」ではない。 語の成り立ちに従えば、「あかちぬ」であるが、実質的に鯛を表すのだから「たひ」「あかたひ」も、正しい訓であると言えよう。 《まとめ》 以上の推定をまとめると、瀬戸内海側では、茅渟が単純語で赤茅渟が複合語、日本海側では鯛が単純語で黒鯛が複合語である。 「赤女」は恐らくごく狭い地域の言葉で、書紀では鯛の擬人表現として使われる。
《物》 「物」をその前の字につなげて「鯁物」で「ものをつまらせる」と読むこともできそうに思えるが、 「鯁」はもともと「魚の骨」を意味する名詞が「骨が刺さる」意味に転じたものなので、目的語「物」はとらないであろう。 従って、「物」は「不得食」に繋がる。 意味の上では「食」の目的語であるが、「物、食し得ず」として、主語のような構文になっている。 《食》 万葉集の「食」を全部拾い、訓ごとに集計したのが、右表である。 その主なものは、「饌(け)」…食事や食物。「漁(あさ)る」…餌を漁る。また狩猟する。 「食(は)む」…食する。「召す」…食む、あるいは様々な動作の尊敬語。また尊敬の補助動詞。「食(を)す」…食むの尊敬語。転じて国を統治する。である。 なお、万葉集には「食」のみで、「喰」「咥」「銜」は使われていない。 学研新漢和辞典による「食」の「古訓」(『類聚名義抄』、1100年頃成立を出典とする)には、いつはる、くひもの、くふ、くらふ、け、はむ、もちゐる、ものくふ、やしなふ。がある。 このうち「いつはる」は、「一杯食う」という用法であり、「やしなふ」は「食わし育てる」意である。 「くふ」「くらふ」は「はむ」と同義である。『類聚名義抄』の時代は、上代語「をす」は死語になったと思われる。 万葉集では、純粋に食べる行為を表すのは「はむ」なので、これを記の訓読に用いることにする。 《不得》 副詞「え」は、「え~ず」の形で不可能を表す。ただ、可能の助動詞「う」を否定する形にして「~えず」と訓んでも問題はない。 【書紀本文】
海神(わたつみ)乃(すなは)ち大小之魚(だいせうのいを)を集め逼(せ)め之(これ)を問へば、僉(みな)曰(まを)さく「不識(しらず)。唯(ただ)赤女(あかめ)【赤女、鯛魚(たひ)の名也(なり)。】比(このころ)口(くち)の疾(つつみ)有りて来(こ)ず。」とまをす。 固(かた)く之(これ)を召して其の口を探(さぐ)れば、果たして失(う)せし鉤(ち)を得(う)。 已(を)へて彦火火出見尊、因(よ)りて海神(わたつみ)の女(むすめ)豊玉姫(とよたまひめ)を娶(めあは)したまふ。 仍(すなは)ち留(とど)まりて海宮(わたつみや)に住み、已(すで)に三年(みとせ)を経(へ)たまう。彼処(そこ)は復(また)安楽(やす)かれども、猶(なほ)憶郷之情(さとをおもほすこころ)有り。 故(かれ)時に復(また)太き息(なげき)し、豊玉姫之(これ)を聞き、其の父に謂(まを)さく「天孫(あまつみま)悽然(かな)しび数(あま)た歎(なげ)き、蓋(けだし)懐土(くにをなつか)しむをこれ憂(うれ)ふ乎(や)。」 海神(わたつみ)乃(すなは)ち彦火火出見尊を延べまつり、従容(すす)めて語(かた)りしく「天孫若(も)し郷(くに)に還(かへ)ることを欲(ほり)したまはば、吾(われ)送(おく)り奉(まつ)らむ。」とかたりき。
落ち着いたところで来意を尋ねられ、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は事実を詳しく答えました。 海神(わたつみ)が魚を呼び集めて問うと、皆「存知上げません。ただ赤女(鯛)だけは口の患いがあり、参っておりません。」と答えました。 そこで厳しく赤女を召しだし口を探ると、果たして失われた釣り針が得られました。 その後、海神の息女の豊玉姫(とよたまひめ)を娶らせ、3年が経過し、心地よい所ではありましたが、なお故郷を想う気持ちが心から離れませんでした。 あるとき、太いため息をつくのを豊玉姫が聞き、父に「天孫は寂しそうにため息をつくことが多いの。どうも故郷を想い辛い気持ちが表れているようですわ。」と言いました。 海神はすぐに招いてゆったりさせ、気持ちを容れて「もし国に帰りたいのなら、私が送って進ぜよう。」と語られました。 《懐土之憂》 「之」は、名詞を接続する用法(=与)があるが、動詞2つを接続することはあるだろうか。 もし「懐土」が名詞扱いなら、「憂」の目的語となる(一書1の《是之呑》参照)。 《疾》 万葉集から「疾」の用例を拾い出してみる。 (万)0979 疾莫吹 いたくなふきそ。〔「(風よ)ひどく(強く)吹くな」。〕 (万)1020 身疾不有 やまひあらせず。 (万)1101 荒足鴨疾 あらしかもとき。〔「嵐が激しい」。「疾(と)し」(速い)から来ている。〕 (万)1395 心中尓 疾跡成有 こころのうちに つつみとなれり。(心中の差し障りになった)〔「恙(つつみ)なし」(無事であること)の「恙」〕 (万)1458 松風疾 まつかぜはやみ。(風が速いこと) 以上から、疾風(しっぷう)、疾病(しっぺい)などの熟語を作る意味の他、「つつみ(邪魔なものがつかえる)」のような意味もある。 《固召之》 魚たちに全員集まれと命じたのに、赤女は来なかったので、 「今度こそ何がなんでも連れてこい」と固く(厳しく)命じたのである。 《従容》 もともと「客人にゆったりしてもらう」意味だが、ここでは海神が①「彦火火出見尊を招き入れる。」 あるいは、②「彦火火出見尊の(故郷に帰りたい)という希望を受け入れる。」と解釈することができる。 ②だとすれば、海神が彦火火出見尊の意思に従うと解釈し、「従ひ容れ」という訓も考えられる。 (連用形が「従へ」になるのは下一段活用で、これは他動詞「従わせる」の場合の活用である。) 《記との相違点》 彦火火出見尊が来たときにすぐ、その事情を聞き釣り針を見つけ出している。 結婚して3年を過ごすのは、その後のことになる。 【一書1】
是後(こののち)火火出見尊、数(あま)た歎息(なげき)有り、豊玉姫に問(と)ひていはく「天孫、豈(あに)故郷(ふるさと)に還(かへ)るを欲(ほり)したまふ歟(か)。」ととひき。 対(こた)へ曰はく「然(しかり)。」とこたふ。豊玉姫即(すなは)ち父神に白(まを)していはく「此の貴客(まらひと)の意(こころ)、上国(うはつくに)に還(かへ)らむと望欲(のぞむ)みたまふところに在り。」とまをしき。 海神(わたつみ)、於是(ここに)、総(すべ)て海魚(うみのいを)を集め、其の鉤(ち)を覓(もと)め問へば、一(ひとつ)の魚(いを)有り、対(こた)へまつりて曰(い)はく「赤女(あかめ)久しく口の疾(つつみ)有り、或(また)云はく赤鯛(あかだひ)、是之呑(これをのむ)をや疑ふ[乎]。」とといまつりき。 故(かれ)即(すなは)ち赤女を召し、其の口を見れば、鉤(ち)猶(なほ)口に在り。便(すなは)ち之(これ)を得(え)て、乃(すなは)ち以(も)ちて彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)に授(さづ)けまつりき。 〔中略〕 上国、此れ羽播豆矩儞(うはつくに)と云う。
落ち着いたところで海神の息女、豊玉姫を娶らせ、3年が経過しました。 その後、何度もため息をつくので、父は豊玉姫に「天孫は、故郷に帰りたがっていることはないか。」と尋ねました。 豊玉姫は、「そうですの。」と答え、さらに「このお客様の気持ちは、上(うわ)つ国に帰ろうと望むものであります。」と申し上げました。 海神(わたつみ)は総ての魚を集め、釣り針を求めて尋ねると、一人の魚が「赤女は、久しく口の患いがあり(または赤鯛という)、これを呑んだと疑われます。」と答えた。 そこで直ちに赤女を召しだし口を探ると、そのまま失われた釣り針が残っていたので、これを得、彦火火出見尊に授けました。 《妻》 かつて問題にした「娶」「見合」の訓を「めあはす」と判断した(第68回・第86回)ことの妥当性が、「妻」の古訓「めあはす」によって裏付けられた。 《是之呑》 目的語を強調するため、倒置して動詞の前に置くとき、間に「之」を置く用法がある。 例:其罪之恐=恐其罪。 《疑乎》 「乎」は、「や」(係助詞、間投助詞)を示す。 「疑ふや」と語尾につけると疑問(あるいは反語)になり、「疑うことを疑う」つまり「疑ってはならない」という逆の意味になってしまう。 ここでは「疑う」を強調するための詠嘆の助詞として「疑ふ」の前に置き、「~をや疑う。」とすべきである。 《授く》 「さづく」は、基本的に上から下に与える行為を指す。海神は婿の上位だが、他方、天孫として一貫して遜っている。 従って、謙譲の補助動詞「まつる」もつくべきである。 【一書2】
尽(ことごと)く鰭広(はたひろ)鰭狭(はたさ)を召して之を問いて、皆(みな)曰(まを)さく 「知らず。但(ただ)赤女(あかめ)口の疾(つつみ)有り来(こ)ず。亦(また)云はく、口女(くちめ)口の疾(つつみ)有りといふ。」とまをしき。 即ち急(すみやか)に召し至(いた)し、其の口を探れば、失(う)せし針(はり)鉤(ち)立たし得(う)。於是(ここに)、海神(わたつみ)制(いさ)めて曰(のたま)はく 「儞(いまし)口女(くちめ)、今従(よ)り以ち往(ゆ)き、餌(え)をえ呑まず。又天孫(あまつみま)の饌(そなへ)に預(あづか)り得ず。」とのたまふ。 即ち口女(くちめ)の魚(いを)を以ち、以(も)て進め御(をさ)めざるは、此れ其の縁(よし)なり。
落ち着いたところで来意を尋ねられ、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は事実を詳しく答え、海神(わたつみ)は憐れみの心が起こり、 魚を呼び集めて聞くと、皆は「存知上げません。ただ赤女だけが口の患いがあり、参っておりません。(一説には口女だけが、口の患いがあり)」と答えました。 そこで急ぎ召しだし口を探ると、果たして失われた釣り針が見つかりました。そこで制を定め、 「汝、口女は今後ずっと(釣り)餌を呑みこんではならず、また天孫の御饌に供えられてはなりません。」と命じました。 これが、口女魚(鯔)が、これまで御饌として進ぜられていないことの理由です。 《不得呑餌》 「餌」とは「釣り餌」を指すと思われる。つまり「釣り餌に食いついてはならない。」 《御》 (古訓)すすむ、ととのふ、をさむ。 謙譲の補助動詞「まつる」としても意味は通るが、どうであろうか。 《一書2の特徴》 一書2は、代々の天皇に給せられる食材から、伝統的に鯔が除外されてきたことの由来を述べる。 ただ、実際に鯔が除外されていたかどうか、その真偽は不明である。 鯔釣りについて調べると、臭くて不味いので嫌う釣り人が多いようだ。確かに河口や湾内の鯔は泥を食しているので臭みが強いが、ネットには外洋性の鯔は美味だとする意見も見られる。 古代は、専ら沿岸で釣り上げていたはずなので、少なくない釣り人に嫌われていたことを反映して、鯔をこのように扱う神話ができたのかも知れない。 【一書3】
一(ある)に云はく、「頃(このごろ)吾(あが)児(こ)来(き)語(かた)らひしく『天孫(あまつみま)憂(うれ)へ海浜(うみへ)に居(を)り、未(いま)だ虚実(いつはりやまことや)審(つまひらか)ならず。』とかたりつ。蓋(けだし)これ有るや。」とかたらひき。 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、具(つぶさ)に事の本末(もとすゑ)を申(まを)し、因(よ)りて留息(なげき)せり[焉]。海神(わたつみ)則(なは)ち其の子豊玉姫(とよたまひめ)を以ちて之を妻(めあは)しまつる。遂(つひ)に纏綿(ねもころ)に篤(あつ)く愛(うるはし)み、已(すで)に三年(みとせ)を経(ふ)。 将(まさ)に帰(かへ)らむとするに及び至りて、海神(わたつみ)乃(すなは)ち鯛女(たひめ)を召し、其の口を探れば、即ち鉤(ち)を得(う)[焉]。
そこで、迎え入れて寛いでいただき、「天孫は、何ゆえにおいでいただいたのでございますか。」とお聞きしました。 (異説では、海神による質問の言葉は「最近我が子が来て言うには『天孫は気に病んで海辺に居られます。まだ釣り針の行方が分からないのです。』と言っております。その通りでございましょうか。」です。) 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は、事の次第を具(つぶさ)に申し上げ、ため息をつきました。海神は息女、豊玉姫を娶らせ、懇ろに篤く愛し、既に3年が経過しました。 いよいよ帰ろうという時が来て、海神は鯛女を召しだし、その口を探ると釣り針が得られました。 《留息》 「留息」は中国古典では5件ヒットする。しかし、いくつかの辞書を見たが、この熟語は漢和辞典にも国語辞典にもない。意味は「留意」(意を留める)の「留」のように、息を留めておいて、大きく吐き出すことと捉えることができる。 5件のうち、『太平御覧』の「天仙」の節の「欲之昆侖、留息積年」を「(秘薬を)昆侖(クンルン)の地に欲し、積年の溜息をつく。」と読んだとしても、一応意味は通る。 記や本文の「歎」(ため息)に対応する語だから、恐らく「ためいき」なのであろう。 日本語では「溜息」と書くが、「溜」はもともと水が下方に流れる意味であり、「ためる」は日本語用法である。そこから中国語の「留息」が、日本語では「溜息」になったと思われる。 《一書3の特徴》 辱臨、本末、纏綿、篤愛、留息、虛實(虚実)という中国の熟語が直接使われ、書き方も簡潔なので、漢文らしさが目立つ。書紀の編集段階では、直接中国語で作文していたことが伺われる例である。 内容としては、釣り針を探しにやってきたという事情は最初に聞いたが、それを3年間放置し、帰る間際になってやっと鯛女から釣り針を取り出したというものである。 文章は明快であるが、内容には不自然なところがある。 【一書4】
《口女・鯔》 口女は、即ち鯔(ボラ)であるという。「鯔」は『倭名類聚抄』に記載されている。 (倭名類聚抄 鱗介部第三十 龍魚類第二百三十六) 鯔 …【側持反】魚名也遊仙窟云東海條【鯔讀奈與之條讀見飮食部】 〔【音は「し」】魚名なり。『遊仙窟』に云はく東海鯔條【鯔は奈与之(なよし)と読む。条は飲食部を見よ。】〕 『遊仙窟』は中国唐代の小説で、遣唐使が帰りにこの書を買って帰ったと言う。 また「条」は飲食部を見よというので探すと、次の項目があった。 (倭名類聚抄 飮食部第二十四 魚鳥類第二百十二) 魚條 遊仙窟云東海鯔條【魚條讀須波夜利本朝式云楚割】 〔『遊仙窟』に云はく東海鯔條【魚条は須波夜利(すはやり)と読み『本朝式』云はく楚割】〕 「すはやり」は古語辞典にはなかったが、国語辞典で見つけることができた。 <角川国語中辞典>すわやり〔すはやり〕【楚割・魚条】⦅「すはえわり」から。すはえ(木の細い板)のように割ったものの意。⦆魚肉を細く裂いて塩干しにした食品。削って食べる。</国語中辞典> 『本朝式』も古い文献であろう(雑誌『日本歴史』1962年11月号に論文があるという)。 『倭名類聚抄』にも出てくる「なよし(名吉)」はボラの別名で、その由来は、鯔は出世魚で目出度いことからとされている。 【各話の比較】 要するに、火遠理命が溜め息をついていたので海神が事情を聞き、魚たちを呼び集めて聞いたところ、失った釣り針が鯛の喉から出て来たという話である。 そこまでは共通しているが、それが豊玉姫を妻として過ごした3年間の前か後かというところに、各話の相違がある。 記と一書では、3年後に初めて、釣り針を失い兄に許されなかった事情を告白している。 それに対して、書紀本文・一書2・一書3では海宮に到着してすぐに事情を説明し、本文・一書2ではすぐ魚を集めて釣り針を見付けている。 一書3では、実際に魚を集めるのは3年後である。 まとめ 書紀は、はじめに中国語により一書3を作成し、内容を修正しながら和文として読み下し得る文に近づけていった印象を受ける。 とすれば、一書3のような部分をやまとことばで訓読する作業は、全く無意味であることになる。 記紀の話の多くは、舞台となる土地が特定され得るが、海神の宮の所在地は、海底または海の彼方というだけで漠然としている。 しかし「鯛」の他「赤海鯽」という呼称も使われ、さらに「鯔」とする異説もあるのは、各地の名称を使って語られていたことを意味し、それだけ広い範囲で言い伝えられてきた話なのであろう。 このことも前回述べたように、民族の出自に関わる重要な神話であることを裏付ける。 |
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2015.01.10(土) [092] 上つ巻(山幸彦海幸彦5) ▼▲ |
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卽取出而淸洗奉火遠理命之時 其綿津見大神誨曰之
以此鉤給其兄時言狀者 此鉤者淤煩鉤須須鉤貧鉤宇流鉤 云而於後手賜 【於煩及須須亦宇流六字以音】 然而其兄作高田者汝命營下田 其兄作下田者汝命營高田 爲然者吾掌水故 三年之間必其兄貧窮 若恨怨其爲然之事而攻戰者出鹽盈珠而溺 若其愁請者出鹽乾珠而活 如此令惚苦云 授鹽盈珠鹽乾珠幷兩箇 即(すなは)ち取り出(い)でて[而]清め洗ひ火遠理命(ほをりのみこと)に奉(たてまつ)りし[之]時、其(そ)の綿津見大神(わたつみおほみかみ)誨(をし)へ之(こ)を曰(まを)さく 「此(こ)の鉤(ち)を以(も)ちて其の兄(このかみ)に給(たま)ふ時、言(こと)の状(かたち)者(は)、『此の鉤者(は)淤煩鉤(おほち)須須鉤(すすち)貧鉤(まぢち[まづち])宇流鉤(うるち)。』と云(い)ひて[而][於]後手(しりへで)に賜(たま)へ。 【「於煩」及(と)「須須」と亦(また)「宇流」六字(むじ、むな)音(こゑ)を以(も)ちゐる。】 然而(しかくして)、其の兄(このかみ)高田(たかた)を作らば[者]汝命(ながみこと)は下田(しもた)を営(いとな)み、其の兄下田を作らば[者]汝が命は高田を営みたまへ。 然(しかく)為(な)さば[者]吾(わ)が掌水(たなみづ)の故(ゆゑ)に三年(みとせ)之(の)間(ま)に必ず其の兄貧(まづ)しみを窮(きは)めむ。 若(もし)其(それ)為然之(しかくせし)事を恨怨(うら)みて[而]攻(せ)め戦(たたか)はば[者]、塩盈珠(しをみつたま)を出(い)でて[而]溺(おぼほ)し、 若(もし)其(それ)愁(うれ)へ請(こ)はば[者]塩乾珠(しほふるたま)を出(い)でて[而]活(い)けて、此如(かく)[令]惚(おほほ)しく苦(くる)しめたまへ。」 と云(まを)して、塩盈珠(しほみつたま)と塩乾珠(しほふるたま)并(あは)せて両箇(ふたつ)を授(さづ)けまつりき。 すぐに取り出し、洗い清めて火遠理命(ほをりのみこと)に献上した時に、綿津見大神(わたつみおほみかみ)はこのようにお教え申し上げました。 「この釣り針をもって、兄上にお渡しする時、込める言葉は、『この釣り針は、おほち・すすち・まぢち・うるち。』と言って後ろ手を以ってお渡しください。 そして、兄上が高田を作るようなら、あなた様は下田を作り、兄上が下田を作るようなら、あなた様は高田を作りなさいませ。 そうすれば、私めが手水(たなみづ)を用いることにより、三年の間に必ず兄上は貧窮に陥るでしょう。 そうなったことに、もし怨恨を抱き攻め戦ってくれば、潮満珠(しおみつだま)を出して溺れさせ、 もし嘆きを訴え、哀願してくれば潮乾珠(しおひるだま)を出して命を助け、このようにして呆然とさせ苦しませなさいませ。」 と申し上げ、潮満珠(しほみつたま)と潮乾珠(しほひるたま)合わせて2つの珠をお授けしました。 清…(万)「きよ」と訓む場合は「きよし」(形容詞)のみ。(古訓)きよむ。 きよむ(清む)…[他]マ行下二。 洗…(古訓)あらふ。 誨…(古訓)をしふ。 をしふ(教ふ)…[他]ハ行下二。 状…(万)2481 跡状不知 たどきもしらず。(古訓)かたち。 言状…『中国哲学書電子化計画』による検索(以下「中国古典」):37件。(匈奴傳下)遣使上書言狀曰:「臣謹已受。」 貧…(万)0892 貧人乃 まづしきひとの。(一例のみ。)(古訓)いやし、ともし、まつし。(万葉集で「ともし」は「乏」、「いやし」は「賎」) うしろで(後ろ手)…後姿。(記中-応神天皇 歌謡)阿波志斯袁登賣 宇斯呂傳波 袁陀弖呂迦母 あはししをとめ うしろでは をたてろかも。〔逢はしし少女、後ろ手は小楯ろかも(=後姿は小さい楯のようにすらっとしている)〕 たか-(高)…[接頭語] 体言の上について、立派である意。 営…(古訓)いとなむ。つくる。 しも(下)…[名] ①位置が低い。②前後のうち後。③地位、価値などが下である。 たな-…[名+格助] 手の。(例)たなごごろ・たなうら:掌、たなすゑ(手末):指先、たなまた(手股):指と指の間、など。 貧窮…貧しくて生活に苦しむこと。(中国古典)199例。 窮…(古訓)うかかふ。きはむ。 きはむ(窮む、極む、究む)…[他]マ行下二。 恨…(万)3346 乾坤之 神志恨之 あめつちの かみしうらめし。(古訓)いきとほる。うらむ。 怨…(万)2629 不相友 吾波不怨 あはずとも われはうらみじ。(古訓)いかる。うらむ。おもふ。 (中国古典)怨恨―128例。恨怨―11例。 戦…(古訓)たたかふ。たふる。をののく。 盈…(古訓)みつ。 溺…(古訓)おほほる。しつむ。 ふ(干)…[自]ハ行上二 (上代語)乾く。(平安時代以後上一段活用「ひる」) おぼほる(溺ほる)…[自]ラ行下二 溺れる。 請…(古訓)うく。こふ。ねかふ。 いく(生く)…[自]カ行四段・カ行上二段 生きる。[他]カ行下二 生かす。 惚…(古訓)わする。をろかなり。 ほる(惚る)…[自]ラ行下二 ぼんやりする。 【以此鉤給其兄時】 宣長は『古事記伝』で、ここの「以~時」を「~する時に」と訓むが、そのような場合、感覚的には「~時以」と書くと思われ、宣長の解釈は疑問である。ここでは改めて「以」の用法を探る。 「以此鉤給其兄」を、一書4では「以」を用いず、簡潔に「還兄鉤」と書く。「還」(かへす)は二重の目的語「兄に・鉤を」をとる。 記では本来「給其兄此鉤」のから第2目的語を前に出し、前置詞「以」をつけたものと理解することができる。 ただ、そうやって「このちをもち、そのあににたまはる」と読んでみると、漢文訓読調なので奈良時代初期としては抵抗感がある。 記では日本語用法として、目的語に何もつけずに前置することがあるので「以」は接続詞で、「もって、このちをそのあににたまはる)かも知れない。 一方書紀本文では「以此鉤与汝兄」と、記の書法を継承している。一書1~3も同じである。書紀は正統な漢文に近いので「以」は確実に前置詞である。 ひょっとして記の筆者は接続詞のつもりで書いたかも知れないが、書紀の筆者は前置詞と解釈して読んだことになる。 前置詞とした場合「以」は格助詞「を」の機能なので、訓読は「このちをそのあににたまはる」で問題ないと思われるが、 「以」の古訓に「を」はなく、訓読法が確立した時代でも「以」は置き字にしないので、前置詞「以」があれば、いつも「をもって」などと発音されていたと思われる。 だから、平安時代以後の漢文訓読の伝統に従えば、「をもち」と訓まなければならない。 【兄】 「兄」にあたる和語を諸資料から拾い上げてみる。 兄…(倭名類聚抄)「このかみ・いろね」 兄…(古訓)いろね、このかみ、あに、えた、かつ、しけし。 兄…(万)0213 百兄槻木 ももえつきのき(借訓)。(万)1007 木尚妹與兄 きすらいもとせと(恋人)。 いろね…同腹の兄または姉。 いろせ…同腹の兄または弟。(万)0165 二上山乎 弟世登吾将見 ふたがみやまを いろせとあがみむ。 このかみ…長兄。年上の人。同族の長。(「子の上」の意味か) せ(兄)…女性から見た兄、夫、恋人の意味だが、男性が親しい兄を指して言うこともある。 なせ(汝兄)…あなた(二人称の人称代名詞。親愛の情をこめて女性が男性を呼ぶ)。 え(兄、姉)…[名] (上代語)兄弟姉妹のうち、同性の年長者。<古典基礎語辞典>単独例は一例しか見えず、他は複合語の形で使われている。</同辞典> 「え」は借訓とは言え万葉集にあるから、その時期(7世紀後半~8世紀)には存在した。一音節だから起源は古いだろう。 「あに」は、『古典基礎語辞典』に『伊勢物語』(9世紀末以後~10世紀に段階的に成立)の文例がある。記紀の8世紀前半に使われていたかどうかは、判断が難しい。 【以此鉤給其兄・於後手賜・汝命】 海神の言葉の中にある尊敬語「給」「賜」は、話し手である海神による、火遠理命への尊敬を示している。火遠理と兄の間の上下関係ではない。 「汝命」は、単なる親しみの表現する場合もあるが、ここでは「命」本来の尊敬の意を含むと思われる。 従って、海神は上から誨(おし)える立場だが、一方で天孫への尊敬の意を含んでいるので、「曰」は「白」(まをす)と訓むべきである。 【曰之「…」云】 会話文の後にも「云」をつける書法は、出雲国風土記では必ず守られる。記では後ろの「云」を省略することが多いが、読むときにはつけるのが暗黙の約束だったと思われる。 この段では会話文が長大なので、区切りが分かるように後ろの「云」を明記している。 「之」は、長い会話文がここから始まるという印であろう。英語の関係代名詞"that"のようなものである。 【言状】 書紀で「言状」にあたる語は、 本文は「陰に呼ぶ」、一書1は「詛(のろ)ふ」。一書2・3は「称(とな)ふ」、一書4は「言ふ」である。 文中の「貧釣」から「状(=言葉の中身)」は呪いであることはわかるが、一書1では特に、直接「詛」と表現している。 【呪いの言葉】 淤煩鉤・須須鉤・貧鉤・宇流鉤は、割注によれば「貧」以外は音である。「貧」だけ割注がないのは、普通に訓めるからである。 万葉集に「貧」は1例だけで、「まづしき」と訓む。「貧鉤」は他の3つと字数を揃えて「まづち」である可能性が高い。 「貧鉤」以外は意味不明である。ただ、古語辞典には「おぼち=心がぼんやりする鉤、すすぢ=もつと心がたけりくるう鉤。うるち=おろかで役立たずな鉤。」とあるが、『古事記伝』を参照すると、古語辞典の説明は宣長説に基づいているようである。(下記参照) 呪文だから意味は分らなくてもよい。むしろその方が効果がありそうだ。 もともとは、ごく古い時代の日本語であろうか。 呪文を書紀の本文・一書と比較すると「貧鉤」以外は様々だが、一書3だけは記と共通性があり、記の解読を試みた様子が見られる。(下記の【一書3】参照) 一方、書紀本文は「貧鉤」以外は捨てられている。最終的に、意味が確定できなかったのだろう。 それと同時に「貧しさを招く」呪いは、後に兄が不作により貧窮することに繋がるので、「貧鉤」だけは欠かせない。 また前回、始めに中国語で一書3を書き、それを土台として本文を作っていったと考えたが、ここにもその痕跡が見られる。 《『古事記伝』より》 本居宣長による推定は、次の通りである。そのうち須須鉤、宇流鉤については書紀の一書3も根拠としている。 ・淤煩鉤(おぼち)…「(万)0677 朝居雲乃 欝 あさゐるくもの おほほしく」などの「おほほし」に語源を求め、「心の晴(ハレ)せぬ意」としている。 ・須須鉤(すすぢ)…「進みすゝろぎ(=おちつかない)荒ぶる意」とする。 ・貧鉤(まぢち)…「貧」を「まぢ」と訓むのは「昔より然訓来れり(しかりよみきたれり)」(昔から習慣的にそう訓むから)としている。 ・宇流鉤(うるぢ)…「景行ノ巻(記中巻の景行天皇)に失意(オロケ)とあるなど」と同じとする。他に「うろたゆ」、「うるむ」などもこれが転じたものとする。 《「まづち」か「まぢち」か》 「貧鉤」は訓注がないから、記の完成時は普通に「まづち」と訓まれたはずである。 しかし、連体修飾語は[i]母音で終わる方がしっくりくる。形容詞の連体形、四段・上二段動詞の連用形がそれである。 だから、「まづち」が間もなく「まぢち」に変化したのは自然である。そして変化した後に「まぢ」は「まづし」の短縮形と理解されるようになったのだろう。 【鉤の返し方】 やっと見つけ出した鉤、兄に返す。その手渡しの方法は、「後ろ手」で行えと教えている。 これは、相手に背を向けたまま渡せということであろうか。さらに書紀一書3では、後ろ手でさらに投げすててやれと言う。 一書2は、鉤を後ろ手で投げ捨てるとき、体の正面を兄に向けてるなと念を押している。 一書4は趣が異なり、後ろ手にしろとは書いていないが、返す鉤に唾液を3回垂らしてやれと言い、別のいやがらせの方法を示す。 総じて、兄を露骨に挑発している。 書紀本文ではそういう品の無い表現は削除された。しかし、思い切り書いた一書を残しているのだから同じことである。 【塩盈珠塩乾珠】 「盈」(みちる・みたす)は「満」と同じ意味で、 「しほみつたま・しほふるたま」と読まれる。「ふる」(乾る、干る)は上代語で、後には「ひる」となる。 これは、もともとは潮の干満という自然現象に神の威を感じて、祭ったものであろうか。 【高田・下田】 「良田・悪田」の意味にもとれるが、一書3では「下田」ではなく「洿田」であることに注意したい。 「洿」の意味は「窪地」なので、高田・下田は単純に地理的な高低を指すと思われる。 当面は兄には田を選ぶままにさせ、あなたは残った地に田を営み、争いを起こすな。3年以内に水害が起こるから兄を懲らしめるのはそのときだ、という意味である。 【海神の「吾掌水」】 兄が選んだ田は、海神の「吾掌水(あがたなみず)」により〔=海神が水をコントロールすること〕作物が採れなくなって貧窮する。 すると、豊作の弟の田を羨み戦いを挑んで来るだろうから、いよいよ潮満珠を使って水位を上げて溺れさせる。 そして、兄が降参して命乞いしたら潮干珠によって水を退かせ、助けてやれと教える。これが潮満珠と潮干珠の使用法である。 【高田・下田の深読み】 海神が大雨や干ばつまで支配するとすれば、兄の田は高地でも低地でも被害を受け得る。 しかし、記紀共に、兄を痛めつける記述は、海水によるものばかりである。従って、海神の支配範囲は海に限ると考えられる。 海に襲われる農地の災害は、台風の高潮か、地震による津波である。 すると、被災する兄の田は低地でなければならない。だとすれば、文意は 「最初に兄は高田を選択するだろう。その時、あなたは下田で耕作していると下田の方が豊かな収穫が得られ、 今度は兄が下田を寄越せと要求するだろう。その時はあなたは高田に移りなさい。すると、兄の田は高潮(または津波)に襲われて必ず貧窮する。」 でなければならない。
宮崎県日南市の鵜戸神宮には、神宝として潮満瓊・潮涸瓊が所蔵されている。2012年11月3・4日に古事記1300年を記念して公開された。 <毎日新聞2012年10月30日>鵜戸神宮によると、70年の社務所の火災で記録が焼失し、神宝をいつから保管しているかは不明だが、同神宮の明治9年の「御神宝台帳」に記録があるという。<毎日新聞> 鵜戸神宮の主祭神は、日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)。断崖の海食洞内に建てられている。 鵜戸神宮の成り立ちは、社伝によれば <wikipedia要約> ① 豊玉姫が日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊を産むための産屋を建てた場所。 ② 崇神天皇が、岩窟内に社殿を創建し、日子波瀲武鸕鷀草葺不合尊を含む、5代の天孫(天忍穂耳(あめのおしほみみ)~神武天皇)と大日孁貴(天照大御神)を「六所権現」として祀る。 ③ 延暦元年(782年)、天台宗の寺院として再建される。 </同要約> である。「権現」とは仏教において、日本古来の神は「仏」が神の形になって現れたものを指す名称である。 これは、6世紀に伝来した仏教が天武天皇の頃に神道と習合した結果、仏教側で古来の諸々の神を「権現」と再定義したものである。だから、崇神天皇(実在性は不確かだが、いたとすれば古墳時代の初期にあたる。)の時代に「権現」の呼称はあり得ない。 従って、上記①②は③の時代に創作されたと思われる。 ただ、日向灘に面する海岸という立地条件から見て、南九州からオセアニア方面を生活圏としていた民族の拠点として、 恐らく弥生時代から海神崇拝の地であったと想像される。その伝統を引き継ぐ宮であることは十分考えられる。 さて、神宝とされる「潮満瓊・潮涸瓊」の写真を見ると、「潮満瓊」は水晶玉のように見える。 水晶玉については、京都府弥栄町溝谷の奈具岡遺跡(なぐおかいせき)は、弥生時代中期(約2000年前)の水晶加工工房と見られ、多数の水晶玉が出土するという。 ただ、鵜戸神宮のものはかなり大きく(直径7cm)、写真で見る限りは完璧に磨かれているので、恐らく後世に作られたものだろう。 そうであったとしても、それを祀る心理の背景に、釣り針喪失譚が人々に浸透していた事実があるのは確かで、 その根源は、西太平洋の海洋民族だった時代まで遡ることであろう。 【書紀本文】
復(また)潮満瓊(しほみつたま)及(と)潮涸瓊(しほふるたま)とを授(さづ)けて[而]之を誨(をし)へ曰(い)ひしく、 「潮満瓊を漬(ひた)さば[者]則(すなは)ち潮(うしほ)忽(たちま)ち満ち、此を以ちて汝(いましが)兄を没(しづ)め溺(おぼほ)さむ。 若(も)し兄悔(く)いて[而]祈(いの)らば[者]、潮涸瓊を還(かへ)し漬(ひた)さば則(すなは)ち潮(うしほ)自(おのづか)ら涸(ひ)ちて、此(こ)を以ちて之(これ)を救(すく)はむ。此の如(ごと)く逼(せ)め悩まさば、則(すなは)ち自(みづか)ら伏(ふ)さむ。」といひき。
このようにして得た釣り針を授け、こう教え申し上げました。「この釣り針を兄にお与えするとき、陰で『貧鉤(まぢち)』と呼び、その後にお与えください。」と教え、 また潮満瓊(しおみつだま)と潮涸瓊(しおひるだま)を授け、こう教え申し上げました。 「潮満瓊を水に漬ければ海潮はたちまち満ち、それによってあなたの兄を沈め溺れさせて下さい。 もし兄が悔いて助けを祈れば、潮涸瓊を漬け返せば海潮は自然に退き、これで救われるでしょう。このように責め悩ませば、自ら服従することでしょう。」と申し上げました。 《本文の特徴》 呪文は貧鉤のみで、高田・下田や海神が嵐を起こす件は省略され、極めて簡潔である。 【一書1】
[而]後(のち)に之を与へたまふべし。又汝(いましが)兄海を渉(わた)る時、吾(われ)必ず迅風(はやち)洪濤(おほなみ)を起こし、令(おほ)せて其(それ)没(しづ)め溺(おぼ)ほし辛苦(くる)しめむや[矣]。」とをしへき。
「釣り針を兄上に渡す時は、『貧窮の本、飢饉の始め、困苦の根。』と呪いをかけるべきです。 その後にこれをお与えください。また、兄上が海を渉るとき、私は必ず陣風(じんぷう)・洪濤(こうとう;=大波)を起こし、没溺(ぼつでき)させ辛苦(しんく)を与えましょう。」 《貧窮・飢饉・困苦》 漢熟語としての貧窮・飢饉・困苦の意味は明瞭だが、やまとことばに直すと「まずしみのもと、うゑのはじめ、くるしみのね」という平易な文になる。呪文としては重み不足の感もある。 呪文というものは、詳しい意味は解らなくてもよく、語感が大切なので、音読みのままがいいのかも知れない。 《後》 「後ろ手」はなくなり、「後」だけが残り「その後に」という文に変わっている。 【一書2】
「今は、天神(あまつかみ)の孫(みま)、吾(わが)処(ところ)に辱臨(おはしま)して、心の中欣慶(めでたくよろこぼし)。何日(いつのひ)に之(これ)を忘れむや。」とまをして、 乃(すなはち)以(も)ちて潮溢之瓊(しほみつたま)に則(のり)とることを思ひ、潮涸之瓊を則とることを思ひて、其の鉤(ち)に副へて之を進(すす)め奉(まつ)りて曰(まを)さく 「皇孫(すめみま)、八重之隈(やへのくま)に隔(へだ)つ雖(とも)、冀(ねがはくは)時に復(また)相(あひ)憶(おも)ひて勿(な)棄(す)て置(お)きたまひそ。」とまをして因(よ)り 之を教(をし)へまつりて曰(い)はく「此の鉤を以(も)ち汝(なむち)が兄(あに)に与へたまふ時、則(すなは)ち称(とな)へて『貧鉤(まづち)、滅鉤(けつち)、落薄鉤(おつち)。』と言(い)ひ訖(を)へて、 後手(しりへで)を以ちゐて投げ棄(う)ちて、之を与へたまへ。向(むか)ひ以(も)ちて勿(な)授(さづ)けたまひそ。若(も)し兄(あに)忿怒(いかり)起(た)ちて、賊害之(そこなふ)心有らば、則(すなは)ち潮溢瓊(しほみつたま)を出(い)で以(も)て之を漂(ただよ)はせ溺(おぼ)ほしたまへ。 若し已(すで)に危(あやふ)きに苦しむに至りて愍(あはれ)びを求めまつらば、則(すなは)ち潮涸瓊(しほふるたま)を出(い)でて以(も)ちて之を救ひたまへ。此の如(ごと)逼(せ)まり悩まば、自(みづか)ら[当]臣伏(したがひふ)しまつらむ。」とをしへまつりき。 時に彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、彼の瓊(たま)鉤(ち)を受けたまひ、本(もと)の宮へ帰り来ましき。
そのようにして、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)がいよいよ帰ろうとしたとき、海神(わたつみ)はこう申し上げました。 「この度は、天孫が私の国に辱臨(じょくりん=ありがたくお越しいただく=)していただき、心中に欣慶(きんけい)の極みでございます。いつの日にになっても、これを忘れることがございましょうか。(反語)」 そして、潮満瓊(しおみつだま)の用法を考え、また潮涸瓊(しおひるだま)の用法を考え、その釣り針に添えて献上し、さらにこう申し上げました。 「皇孫は、この国を離れてはるか遠い国までお出でになりますが、願わくばお互い末永く記憶にとどめ、忘れることのないようにお願いいたします。」と申し上げて、 さらにこう教えられました。「この釣り針を兄上にお渡しになるときは、『まづち・けつち・おつち』と唱え、それが終わったら 後ろ手を以って投げ捨てて渡してくださいませ。決して正面から向かい合って渡してはなりません。もし、兄上が忿怒にいきり立ち、賊害の心があれば直ちに潮満瓊(しおみつだま)を取り出し、それを使って漂溺させなさい。 そして、もし危苦(きく)に至り命乞いをしたら、そこで潮涸瓊を取り出し、兄上を御救いください。このようにして追い込んで悩ませば、自ずから臣伏(しんぷく)することでしょう。」 このようにして、彦火火出見尊は瓊と釣り針を受け取り、元々の(本国の)宮殿にお帰りになりました。 《貧鉤・滅鉤・落薄鉤》 「滅鉤」は「けつち」か。―(万)0319 雪以滅 ゆきもちけち。 熟語「落薄」は中国古典に一例だけ(『太平御覧』/車部三/輦)出てくる。 「神何為怒?民何為怨?」という問いに対して、「移晉宗廟、飄零落薄、無所祭之、不及於祖、此其所以怒也。」と答える。 「何が神を怒らせたのか?何が民を怨ませたたのか?」という問いに対して、 「晋の宗廟(そうびょう、先祖を祀る廟)は時が移り、『飄零落薄』し、祭ることをせず、先祖に思いを及ばさないから怒ったのだ。」と答えた。 だから、「飄零落薄」とは、宗廟が荒れるにまかせた状態であることを意味する。「飄零落薄」の意味を漢和辞典で確認すると、 ・飄零(ひょうれい)…①木の葉が舞い落ちる。②落ちぶれる。 ・落薄(らくはく)…希望通りにならず、落ちぶれること。 である。「おつ」には「落ちぶれる」意味があるので、ちょうど2音節の「おつ」を使って「おつ鉤」とすれば、「まづ(貧)鉤」「けつ(滅)鉤」に揃えることができる。 《思則…》 「則」が「すなはち」(副詞)だとすると、「思」の前に置かねばならない。 また「のり」(名詞)だとすれば、「潮溢瓊の則」として潮溢瓊の後ろに置かれなければならない。 「思」と「潮溢瓊」の間に置かれるのは、動詞だけである。 一書3を参照すると、「瓊之法」として、「法」が2つの瓊の使用法を指している。 従って、ここでは「法」を動詞化した「則」(のっとる、なぞらえる)として使われたものだろう。 《潮溢之瓊》 「之」は発音されずに、「溢(み)つ」が連体形であることを示す。 「之」のこのような用法の、実例である。 【一書3】
〔中略〕 復(また)潮満瓊(しほみつたま)、潮涸瓊(しほふるたま)二種(ふたくさ)の宝物(たからもの)を進め、仍(すなは)ち用瓊之(たまをもちゐる)法(のり)を教(をし)へまつりて、又教(をし)へまつらく、 「兄の高き田を作らば、汝(なれ)は洿(ふか)き田を作る可し。兄の洿(ふか)き田を作らば、汝は高き田を作る可し。」とをしへまつりき。海神(わたつみ)誠(まこと)を尽くし助け奉(まつ)るは、此の如(ごと)し[矣]。 〔中略〕 「踉䠙鉤」、此(これ)須須能美膩(すすのみぢ)と云ふ。「癡騃鉤」、此于樓該膩(うるけぢ)と云ふ。
《呪文の意味》 記の呪文にある4つの鉤についてその研究結果を、漢字とその訓注によって表している。 漢字は推定した意味を、訓注がよみを示す。 ・大鉤…記の「淤」(お)「煩」(ほ/ぼ)の発音から「大(おほ)き」を宛てているが、「大き」は美称なので呪詛としては疑問が残る。 ・踉䠙(すすのみ)鉤…「踉䠙」は『康煕字典』によると「急いで進む姿」である。そこで「須須」を、「進み急ぐ姿」を短縮した「進の身」と解釈したようである。 「慌てて駈け出させる鉤」であろうか。 ・貧鉤…これだけは、疑問の余地はないので、そのままにされる。 ・癡騃(うるけ)鉤…漢熟語「癡騃」は愚かな、あるいは呆けた様子を表す語。「うるけ」はそのような状態を表す和語だったのだろう。「うろたえる」「うろ覚え」に通ずるか。古語辞典には「おろかなり」に通ずるとある。 「け」は「気」(ようす。~っぽい)。「呆けを招く鉤」か。 《教用瓊之法》 潮満瓊・潮涸瓊の使用法について、単に「教二用レ瓊之法一」(瓊を用いる法を教える)とするのは、他の一書・本文と同じ内容だからである。 漢文としては動詞句「用瓊」は体言化して「法」を修飾する。「教二所レ用レ瓊法一」と同じ。 《高田・洿田》 記では「下田」であったが、その代わりに「洿田」(窪地の田)を用いたのは、「記の『高田』『下田』は優劣に非ず」と解釈したことを示すためである。 【一書4】
「兄(このかみ)に鉤(ち)を還(かへ)したまふ時、天孫(あまつみま)則(すなは)ち[当]言(のたま)はく『汝(な)が生(な)さむ子八十(やそ)連属之裔(つつきのすゑ)、貧鉤(まづち)、狹々貧鉤(ささまづち)。』と言(のたま)ひ訖(を)へて、三(みたび)唾(つは)き下(おろ)して之を与へたまへ。 又兄海に入(い)りて釣りする時、天孫(あまつみま)宜(よろ)しく海浜(うみへ)に在(ま)し、以(も)ちて風招(かざをき)を作(な)したまへ。風を招(を)き即ち嘯(うそぶ)く[也]は、此如(かく)則(すなは)ち吾(われ)瀛風(おきつかぜ)辺風(へつかぜ)を起こして、以ちて波を奔(もてあそ)び溺(おぼほ)し悩まさむ。」とをしへまつりき。
海神(わたつみ)は釣り針を彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)に授け、このようにお教えしました。 「兄上に釣り針を返すときに、『お前の子孫は、代を重ねますます貧せよ。』と呪った後、釣り針に唾液を3回垂らして差し上げてください。 再び兄上が海に入り釣りをするときに、天孫は海辺にいて風を呼んでください。招かれた風は、瞬く間に吠えるでしょう。これ即ち私が沖つ風、浜つ風を起こしたもので、波を弄び、兄上を溺れさせ苦しませましょう。」 《汝生子八十連属之裔》 その意味は明白で「お前の一族を、末端の子孫に至るまで、ますます貧しくさせる釣り針であれ。」である。 「連属」は「連続」と同じ。「八十連属」を「野素豆豆企」(やそつつき)とする訓注がついている。 《貧鉤・狹々貧鉤》 接頭語「さ」を重ねることによって、代を重ねる毎に一層貧窮せよと呪っている。 《三下唾》 「三下唾」は、唾液を3回飲みこむともとれるが、それでは全く意味をなさない。 ここでは、呪いをかけるために、釣り針に3回唾を垂らすのであろう。このような品のない行為は、読んでも楽しくないが、 こう書かれた事実は曲げようがない。 まとめ 2つの玉の名前となった「潮満つ」「潮干る」は、もともと潮位の変化(満干潮、大潮・小潮、あるいは津波)のことである。 潮の干満は海洋民族にとって生活の基本に関わるものである。 それを手の内に支配するのが海神である。 大海神(おほわたつみ)は、伊邪那岐・伊邪那美の神生み(第36回)において8柱目に生まれた神(「生海神名大綿津見神」)と位置づけられている。 しかし、海は、天・地上・黄泉とともに世界を構成する重要な部分である。天の高御産巣日(たかみむすひ)・天照、黄泉の国の須佐之男(すさのを)(あるいは黄泉からやってきた大物主)と肩を並べる、海の国の大神が海神だったと考えられる。 その根源を想像すると、海神はかつて広大な西太平洋に展開していた民族の大神であったと思われる。天孫はその系図の出発点において、かつて海洋民族だった祖先の神に会い、その血を取り入れる手続きが必要だったのである。 古代、海洋で展開していた時代の記憶を残す民族は、この話があることにより、初めて記紀を自らの神話として納得したのである。 |
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⇒ [093] 上つ巻(山幸彦海幸彦6) |
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