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[086]  上つ巻(天降り6)

2014.11.16(日) [087] 上つ巻(天降り7)

故後 木花之佐久夜毘賣參出白
妾妊身今臨產時 是天神之御子 私不可產故請
爾詔 佐久夜毘賣一宿哉妊 是非我子必國神之子
爾答白 吾妊之子 若國神之子者產不幸 若天神之御子者幸

故後(しかるのち)、木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)参出(まゐり)で白(まをさ)く、
「妾(われ)妊身(はらみ)今(いま)産みまをさむ時に臨(のぞ)み、是(これ)天神(あまつかみ)之(の)御子なり、私(わたくし)に不可産(うむべくもあら)ぬ故(ゆゑ)に請(うけひ)しまつらむ。」とまをしき。
爾(かれ)詔(のらさ)く、「 佐久夜毘売一宿(ひとね)に哉(や)妊(はら)みしかば、是(これ)我(わが)子(みこ)に非(あら)ず、必ず国神(くにつかみ)之(の)子ならむ。」とのらしき。
爾(かれ)答へ白(まを)さく、「吾(あれ)妊(はら)みし[之]子、若(も)し国神(くにつかみ)之子(こ)者(ならば)産み幸(さき)く不(あら)じ、若し天神(あまつかみ)之(の)御子者(ならば)幸(さきは)はむ。」とまをしき。


卽作無戸八尋殿入其殿內 以土塗塞而方產時 以火著其殿而產也
故其火盛燒時 所生之子名火照命【此者隼人阿多君之祖】
次生子名火須勢理命【須勢理三字以音】
次生子御名火遠理命 亦名天津日高日子穗穗手見命【三柱】

即(すなは)ち無戸八尋殿(うつやひろどの)を作り、其の殿(との)の内(うち)に入(い)り、土(はに)を以ち塗り塞(ふた)ぎて[而]方(まさ)に産まむとせし時、以(も)ちて其の殿(との)に火を著(つ)けて[而]産みをへり[也]。
故(かれ)、其の火盛(さか)りに焼(や)きし時、所生之(うまれし)子(みこ)、火照(ほでり)の命【此者隼人阿多君之祖】と名づけ、
次に生まれし子(みこ)、火須勢理(ほすせり)の命【「須勢理」の三字(みもじ)音(こゑ)を以ちてす。】と名づけ、
次に生まれし子(みこ)、火遠理(ほをり)の命、亦名(またのな)は天津日高日子穂穂手見(あまつひこひこほほでみ)の命と御名(なづけまつ)りき。【三柱(みはしら)】


 この後、木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)火瓊瓊杵命(ほににぎのみこと)にお伺いし、申し上げました。 「私は身重で、間もなく産まれる時期になりました。これは天つ神であるあなたの御子であり、決して違う父親の子ではありませんので、誓(うけひ)いたします。」
 そこで天孫は仰りました。「 佐久夜毘売(さくやひめ)と一夜寝ただけで妊娠したのだから、私の御子ではなく国つ神の子であるに決まっている。」
 そこで答えて申し上げました。「私のお腹の子が、もし国つ神の子ならば、産んで無事ではないでしょう。もし天つ神の御子ならば無事でしょう。」
 直ちに戸のない広大な御殿を作り、その中に入り壁土を塗って塞ぎ、まさに産まれようとしたときに御殿に火を着け、そして産み終えました。
 さて、その火が盛んに燃えていたとき、生まれた御子は火照命(ほでりのみこと)【この神は隼人阿多君の祖先です。】と名付けられました。 次に生まれた御子は、火須勢理命(ほすせりのみこと)と名付けられました。 次に生まれた御子は、火遠理命(ほをりのみこと)、またの名は天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)という御名が付けられました。


べし…[助動] 推量。可能。意思。当然。
こふ(請ふ、乞ふ)…[他]ハ行四段 (万)0379 吾者祈奈牟 君尓不相可聞 あれはこひなむ きみにあはじかも。(私は乞う。あなたに会えないか。)
…[助] か。や。(疑問、反語)
さきはふ(幸はふ)…[自]ハ行四段 幸福になる。
さきく(幸く)…[副] しあわせに。無事に。(万)1668 白埼者 幸在待 しらさきは さきくはありまて。
うつむろ(無戸室)…[名] 四面を土で塗り込めた出入り口のない室(むろ)。
つち(土・地)…[名] 大地。地上。泥。土。(万)1863 去年咲之 久木今開 徒 土哉将堕 見人名四二 こぞさきし ひさぎいまさく いたづらに つちにかもおちむ みるひとなしに。 (万)2442 大土 採雖盡 おほつちは とりつくすとも。
ぬる(塗る)…[他]ラ行四段 (万)4154 白塗之 しらぬりの。
ふたぐ(塞ぐ)…[他]ガ行四段 ふさぐ。
はに(埴)…[名] 赤黄色の粘土。陶器の原料や染料に用いる。(万)0932 住吉能 岸乃黄土 すみのえの きしのはにふに。
…[副] まさに。①現在進行中。②直前。③間もなく。
はやひと(隼人)…[名] またははやと。古く薩摩・大隅地方に住み、大和朝廷に従わなかった部族。のち服属し、一部は畿内に移住した。律令制下では宮中の警護などを務めた。 (万)0248 隼人乃 薩麻乃迫門乎 はやひとの さつまのせとを。
さかり-なり(盛りなり)…[名・形動] いきおいよく盛んだ。(万)0328 咲花乃 薫如 今 さくはなの にほへるがごと いまさかりなり。
やく(焼く)…[他]ヤ行四段 (万)0230 春野焼 はるのやく。
もゆ(燃ゆ)…[自]ヤ行下二 (万)0269 所焼乍可将有 もえつつかあらむ。

【臨】
 「のぞむ」は、「望む…①遠くを見る。②希望する。臨む…①直面する。②出席する。」である。それでは記紀編纂期に「臨」は「のぞむ」と訓んだのだろうか。
 (万)1520 青浪尓 望者多要奴 あをなみに のぞみはたえぬ。(青波に、見通しもきかなくなった)
 この歌は「遠くを見渡す」意味だが、ともかく「のぞむ」という動詞は存在したことが分かる。

【私】
 (万)1275 妹御為 田苅 いもがみためと わたくしだかる。したがって、「私」の訓は「わたくし」である。
 倭名類聚抄で「私」を見ると、 
 私 爾雅云女子謂姉妹之夫為私公私私字也【和名与婿同】孫炎注云謂無正親
(『爾雅』いはく「女子謂 姉妹の夫を私と為す」。「公私」の「私」の字なり。【和名は「婿」(むこ)と同じ】『孫炎注』いはく、正しき親無きを謂う。)
 『爾雅』(じが)は中国の古い辞書で、前漢の初めに成立したとされる。「女子謂」はその分類項目。「姉妹の夫」という意味は、現代では消滅している。 孫炎の注は、「姉妹の夫」以外に「無正親」という意味もあるよ、と参考として付け加えたもの。(孫炎(そんえん)は三国時代の訓詁(くんこ)学者。さまざまな書に反切(発音表記)をつけた)
 記の「私不可産」における「私」は孫炎注の意味に該当し、具体的には、身籠った子の父が天孫ではないことを意味する。
 書紀本文では、「天孫之胤(たね、=精子)でない場合」と表現されている。

【私不可産】
 不可は、ここでは可能の否定。すなわち「~であるはずがない」。 「べからず」と訓むと禁止の語感があるので、「私に(=正しい夫を親とせず)生むべくもあらず」が適当だと思われる。

【国つ神】
 国津神、地祇とも表記される。天つ神が地に降りる前に、葦原中国(日本の国土)にいたとされる神。基本的には大国主の支配下にあった神であるが、その他の雑多な神を含む。 遡ると、天つ神・国つ神はともに、伊邪那岐・伊邪那美が神生みした諸神に含まれると考えられる。

【妾妊身今臨産時…】
 佐久夜毘売が天孫に対して話すのは「白す」(まをす)という謙譲語が使われ、一人称の代名詞「妾(わらは)」も謙譲語であるから、会話文の中身も当然謙譲語である。 従って「産時」のよみは「産む時」では不足で「産みまをす時」でなければならない。
 さらに考えを進めると、まだ産まれていないから推量の助動詞をつけ「産みまをさむ時」としてもよい。さらには「臨」で目前に迫っていることを示すから 「まさに産みまをさむとする時」もあり得る。
 記の会話文は、どれも補助動詞、助動詞、助詞をいくつか補う必要がある。どうも会話文には骨格だけを示し、細かい語法は読み手に任せたようだ。 これは、記が「読み聞かせ文学」である根拠になる。会話の部分は話者の自由に任せ、生き生きとした口調で語られることを期待しているのである。

【若国神之子者】
 漢文で「」の構文は、英語の「if 」に相当する。

【無戸八尋殿】
《殿》
 「殿」は万葉集ではほとんど「との」と訓まれる。
 (万)0038 芳野川 多藝津河内尓 高殿乎 高知座而 よしのがは たぎつかふちに たかどのを たかしりまして。
《無戸》
 無戸八尋殿の書紀の表記である「無戸室」は、『倭名類聚抄』に載っている。
 (倭名類聚抄)室【無戸附】 白虎通云黄帝作室以避寒暑音七【和名無呂】日本紀云無戸室【和名宇豆無呂】
(『白虎通』(後漢時代に班固が編集した書)いはく、黄帝は室を作り以って寒暑を避く。音「シチ」【和名むろ】日本紀に無戸室【和名うつむろ】という。)
 この記述から「無戸室」は、平安時代には「うつむろ」と訓まれていたことが分かる。 接頭語「うつ-」は「全て」または「空っぽの」を意味する。
《無戸八尋殿のよみ》
 書紀の「無戸」をそのまま使えば「うつやひろどの」だが、このよみがあり得るかどうかは何とも言えない。 宣長は、「となき」と訓んでいるが、『倭名類聚抄』のこの項を見落としたかも知れない。気づいていれば、結果的にどちらを選んだにしても、言及したと思われる。
 
【塞】
 万葉集では、水流を堰き止めるなどの意味で使われ「せく」「さふ」と訓まれ、「ふたぐ」、「ふさぐ」は出てこない。 「せく」「さふ」は水流、あるいは人の行為を「妨げる」ことで、「壁を塗って隔てる」意味には合わない。 古語辞典では、見出し語「ふたぐ」の文例として枕草子(平安中期)※、同じく「ふさぐ」は平家物語(鎌倉時代)が取り上げられている。これらが記紀編纂期にあったかどうかは不明である。
 ※ 枕草子八六段…黒戸のかたへなど渡るにも、聲などする折は、袖をふたぎて露見おこせず (黒戸の方に渡ろうとしても、声がすると袖で顔をふさぎ、少しも顔を起こして見ることができず)

【故其火盛焼時】
 ここから一度時間を遡って、それぞれの子の誕生について語っている。 接続詞「かれ」は、①順接。②話題の転換の機能があるが、ここは②である。

【"所生之子"と"生子"】
 二人目以後の「生子」が「所生之子」の省略形であることは明白である。「連体形(+完了の助動詞)+名詞」はどちらの書き方もあったことがここで実証される。 また、「所」がしばしば受け身を表すことは、下の【書紀本文】《懐》の項参照。
 
【子と御子】
 子と御子の使い分けは興味深い。国神の子は「子」で、天孫の子なら「御子」である。 また、三子のうち火遠理だけは「御名」で他の子は「名」である。火遠理は日嗣だから特別扱いされる。書紀では敬称として「尊」がつく。

瓊瓊杵の兄第一子第二子第三子第四子
天火明命
(あめのほあかり)
古事記火照命
(ほでり)
火須勢理命
(ほすせり)
火遠理命(ほをり)
天津日高日子穂穂手見命
(あまつひこひこほほでみ)
日本書紀
本文
火闌降命
(ほのすそり)
彦火火出見尊火明命
(ほあかり)
一書2火酢芹命火明命彦火火出見尊
火折尊
一書3火明命火進命
火酢芹命
火折彦火火出見尊
一書5火明命火進命火折尊彦火火出見尊
一書6火酢芹命火折尊
彦火火出見尊
一書7火明命火夜織命彦火火出見尊
天照国照彦火明命一書8火酢芹命彦火火出見尊
【生まれた兄弟の名】
 兄弟の名について、記と書紀の本文・一書を比べると、 日嗣である"ひこほほでみ"は共通であるが、それ以外は様々である。 火明命は書紀本文と、一書2・3・5・7で兄弟となっているが、記と一書8では瓊瓊杵の兄である。(第81回) 海幸彦になるのは、記では"ほでり"、書紀では本文・一書とも"ほのすそり""ほすせり"である。
 一書7・8を除いて3柱の兄弟神となっており、海人系諸族の神と共通性がある。 また、3柱のうち2柱が対立関係で、残る1柱が中立というのは、天照・須佐之男・月読と同じパターンである。
《異説を収録した背景》
 この段における一書の筋書き自体は、本文とそんなに変わらない。内容よりも、兄弟の名の細かい相違にこだわったようだ。 その理由を想像してみると、その第一は天皇の系図は重要なことがらなので、異伝を厳密に吟味した経過を残した。 第二は、南九州の氏族に馴染みの深い伝承を丁寧に扱ったことを彼らに示し、朝廷への親和感を醸成しようとした。熊襲や隼人は、依然として朝廷に対する独立心が強かったからである。
 想像するに、南九州には「国の始祖は炎の中で奇跡的に生まれた」という神話があったのではないか。 それを取り入れたのは、大国主の神話に比べて分量は少ないが、出雲への配慮と同じだと思われる。あるいはその分量の少なさを、多数の一書によって水増ししたのかも知れない。
 さて、「南九州に火の中から始祖が誕生した話があった」という想像の、妥当性を考えてみる。 薩摩半島の開聞岳は6世紀ごろから噴火の記録があるとされる。桜島にも奈良時代の初めに噴火の記録があるなど、九州南部は古代から火山活動が活発であった。 その畏れが、奇跡の火中出産の神話に繋がったとすると面白い。 邇邇芸(ににぎ)が割って出てきた磐座が、阿蘇の山体だと仮定すれば、この話も同根かも知れない。
 とすると、神の名前につく「ほ」は(一般には「穂」と解釈されているが)火の山の「火」なのだろう。 阿蘇の近辺に「火君(ひのきみ)」という氏族があったとされる。また肥前・肥後が定められる前の国名は「肥(火)の国」であるので、この地で崇められた神だとすれば一定の根拠がある。
《名の特徴》
 ににぎ、ほでり、ほをり、ほすせり、ほほでみには、神武天皇の名「いはれひこ」などに比べても、独特な語感がある。 魏志倭人伝には日本人の名前としてつしぐり、えきやく、みまかし(よみは、何れも推定)などが出てくるのでその同類と考えれば、古墳時代から伝わる伝説上の個人名かも知れない。 あるいは、釣針喪失譚は、オセアニアや華南に共通する神話と言われるので、南方に由来する名前かも知れない。

【隼人】
 隼人(はやと)…<世界大百科事典>「はやひと」ともよむ。古代に南九州地方に住み,熊襲(くまそ)のほかに永らく大和政権に服属をがえんじなかった人々を隼人と称した。律令時代に「夷人雑類」としての扱いをうけている。</大辞林> そして、8世紀には朝廷に服属して宮廷の警護などにあたったという。
《書紀の記述》
 隼人は書紀にしばしば登場する。その一つを見る。
「(天武天皇十一年)秋七月壬辰朔甲午、隼人、多來貢方物。是日、大隅隼人與阿多隼人相撲於朝庭、大隅隼人勝之。」
「丙辰、多禰人・掖玖人・阿麻彌人、賜祿各有差。戊午、饗隼人等於明日香寺之西、發種々樂、仍賜祿各有差。道俗悉見之。」

――天武天皇11年(682年) 7月3日、隼人の多く来たりて方物(土地の産物)を貢ぐ。この日、大隅隼人と阿多隼人朝庭で相撲し、大隅隼人これに勝つ。
(同月)25日、たね人・やく人・あまみ人、禄を賜りおのおの差有り。27日、隼人等を明日香寺の西に饗(あ)へ(饗応し)、くさぐさの楽(しらべ)を発(おこ)し(音曲の出し物があり)、すなはち禄を賜りおのおの差有り。道俗、ことごとにこれを見き。)

 7世紀末は、薩摩・大隅の隼人、種子島、屋久島、奄美大島からの納税は、冊封国からの朝貢の形式をとっていたようだ。 禄の本来の意味は官僚への報酬であるが、ここでは返貢を意味し、国によってランクがあるという。大隅・薩摩は力士を帯同し、天皇に御前相撲を供したという記事は面白い。そう言えば現代の大相撲にも天覧相撲の伝統がある。 また「道俗悉見之」(僧と庶民が挙って珍しげに観察した)という記述から、中央とは風俗・習慣の異なる民族であったことがわかる。
《独自の墓制》
 南九州の墓制は、<加治木義博大学講義録>弥生時代に見られる覆石墓、配石墓、箱式石棺、土壙などの特徴が伝統的に残され</同講義録>たもので、高塚式古墳(古墳時代の、いわゆる「古墳」)とは異なるものだという。 それに対して前方後円墳は、志布志湾沿岸(横瀬古墳(5世紀半ば)など)、阿久根市付近(鳥越古墳=4世紀、畿内式で、前方後円墳の可能性がある)にあり、 それぞれ東岸、西岸から朝廷側の勢力が、南九州勢力と戦いつつ進出した拠点ではないかと想像される。
 墓制から見て、南九州には独自の文化をもつ民族が居住していたと考えられる。これが記紀にいう隼人と、一致する可能性はある。
《「はやひと」の呼称》
 「はや」は武力の神につけられ、しばしば反抗する意味を含んでいる。
《抵抗の歴史》
 薩摩・大隅の地域は、7世紀後半になっても基本的に朝廷側の支配下になかった。 上記の天武天皇の時代は、直接支配よりゆるい連合関係を前提として、連携を強める努力をしたと考えられる。
 713年に大隅国を定めたのをきっかけに緊張が高まり、 720年に「隼人の反乱」という戦争が起こった。これは、朝廷による班田収授法の強制に現地が反発したためとされる。721年に隼人側の敗北によりようやく朝廷側の支配が確立した。
《神の系図に残る争いの跡》
 出雲国の英雄であった須佐之男と、制圧した倭側の天照は系図上は同じ伊邪那岐から生まれた仲の悪い兄弟と位置付けられた。 ここでも、隼人の祖神、火照(ほでり)は海幸彦として、日嗣の火遠理(ほをり)は山幸彦として、兄弟同士が争う。
 朝廷と、朝廷が制圧した勢力の祖神は、系図上ではその源近く、同じ天つ神から生まれた兄弟が争い、別れるいう共通性がある。

【書紀本文】
 兄弟の名が異なっている以外は、記と同内容である。 ただし、瓊瓊杵崩御の記事が付け加えられている。これは歴代天皇の記事を、埋葬の地を示して締めくくることに揃えたものである。
皇孫未信之曰
「雖復天神、何能一夜之間、令人有娠乎。汝所懷者、必非我子歟。」
故、鹿葦津姬忿恨、乃作無戸室、入居其內而誓之曰
「妾所娠、非天孫之胤、必當𤓪滅。如實天孫之胤、火不能害。」
卽放火燒室。
始起烟末生出之兒、號火闌降命【是隼人等始祖也。火闌降、此云褒能須素里。】。
次避熱而居生出之兒、號彥火火出見尊。
次生出之兒、號火明命。【是尾張連等始祖也。】凡三子矣。
久之、天津彥彥火瓊瓊杵尊崩、因葬筑紫日向可愛【此云埃】之山陵。

皇孫(すめみま)未(いま)だ之(これ)を信(まこととおも)はず曰(のらさ)く、
「復(また)天神(あまつかみ)と雖(いへど)も、何(いか)に能(よく)一夜之間(ひとよのま)に人をや有娠(はらま)令(せ)させたまふや[乎]。汝(な)が所懐(うだかえ)む者(は)、必ず我子(わがみこ)に非(あら)じ歟(や)。」
(またまた天神だからと言われても、どうやってたった一夜で孕ませることができようか。お前に抱かれる子は、絶対に私の子ではないぞ。)
故(かれ)、鹿葦津姫(かしつひめ)忿恨(いか)り、乃(すなは)ち無戸室(うつむろ)を作り、其の内に入(い)り居(を)りて[而]誓(うけひ)し[之]曰(まをさ)く、
「妾(わ)が所娠(はらみし)は、天孫(あまつひこ)之(の)胤(たね)に非(あら)ざらば、必ず焦がれ滅(う)せむ[当]。実(まこと)天孫之胤に如(し)かば、火(ほ)の害(そこな)ふを不能(あたは)ず。」
即(すなは)ち火を放(はな)ち室(むろ)を燒(た)きき。
始めに烟(けぶり)を起こしし末(すゑ)に生み出(い)でし[之]児(こ)は、火闌降(ほのすそり)の命【是(これ)隼人(はやひと)等(ら)の始(はじ)めの祖(おや)也(なり)。「火闌降」、此れ褒能須素里(ほのすせり)と云ふ。】と号(なづ)く。
次に熱きを避けて[而]居(を)り、生み出でし[之]児、彦火火出見(ひこほほでみ)の尊と号く。
次に生み出でし[之]児、火明(ほあかり)の命【是、尾張連(をはりむらじ)等の始めの祖也。】と号く。凡(およ)そ三はしらの子なり[矣]。
久之(ひさしくし)、天津彦日子火瓊瓊杵(あまつひこひこほににぎ)の尊(みこと)崩(かむあが)り、因(よ)り筑紫(つくし)の日向(ひむか)の可愛【此(これ)、埃(え)と云ふ。】之山(えのやま)の陵(みさざき)に葬(はふ)りまつりき。

…[動] おもう。つつむ。
うだく(抱く、懐く)…[他]カ行四段 (上代語)だく。
忿恨(ふんこん)…怒り怨み、悲痛に思う。
うらむ(恨む、怨む)…[他]マ行上二 不平・不満のあまり憎む。
うらめし(恨めし、怨めし)…[形]シク (万)3346 乾坤之 神志 あめつちの かみしうらめし
いかる(怒る、忿る)… (万)2436 慍下 いかりおろし。(借訓で船の錨(いかり)を表す)
かならず…[副] (万)3073 後毛必 のちもかならず。
𤓪…こがす。
こがる(焦がる)…[自]ラ行下二 焦げる。
まこと(真、実、誠)…[副] ほんとうに。 
そこなふ(害ふ)…[他]ハ行四段。心身を傷つける。
…煙の異体字。
あつし(熱し)…[形] (万)1753 熱尓 あつけくに。(万)3034 匈乎熱 むねをあつみ。
くゆ(崩ゆ)…[自]ヤ行下二 ①くずれる。②朽ちる。(万)0687 猶哉将崩 なほやくえなむ。
かむあがる(神上る)、かむのぼる(神登る)…[自]ラ行四段 高貴な人が死亡するときの間接的表現。(万)0167 天原 石門乎開 神上 〃座奴 (一云 神登) あまのはら いはとをひらき かむあがり(かむのぼり) あがりいましぬ。
はふる(葬る)…[他] (万)0199 神葬 かむはぶり。

《皇孫未信之》
 われわれは「未信」を、問題なく「いまだしんぜず」と読み下すことができる。「信ず」は日本語の基本語彙に属し、この語がなければ日本の全宗教の教義が成り立たたないだろう。 しかし、もともと「しんず」は「信」の音読み+サ変動詞「ず」による複合語である。それでは、「しんず」が日本語として一般化したのはいつ頃だろうか。
 まず万葉集を調べると「信」は、万葉仮名「し」以外は「まこと」(名詞、形容詞、副詞)、「ま」(接頭語)である。((万)1985 信吾命 まことわがいのち。(万)3791 信櫛持 まくしもち。) 動詞としての用法は「たのむ」がある。((万)0774 練乃言羽者 吾波不信 ねりのことばは われはたのまじ。) ――「ねり」は「巧みな」の意味で、「たのむ」は「信用する」である。
 伝統的には書紀の「信」の訓は、「うく」が用いられている。 その例としてよく挙げられるのは、巻二十一(用明天皇)の「天皇信佛法尊神道」が「天皇(すめらみこと)仏(ほとけ)の法(みのり)を信(う)けたまひ神道(かみのみち)を尊(たふと)びたまふ」と訓まれる例である。 この訓読は、平安時代の学者によるものとされる。しかし「うく(承く・請く)」や「たのむ(頼む)」はどちらかというと受け身で、自己の意思に基づいて主体性をもって「信じる」とはニュアンスが異なる。
 実際には、源氏物語(平安時代中葉)にはもう「信ず」があるから、記紀成立の時期には既に一般化しつつあったとしても不思議ではない。 平安時代の学者は、日本書紀がわが国初の本格的歴史書であることを意識して、敢えてやまとことばへの回帰を選択したと思われる。
 他に「信」の古訓から動詞を拾うと、おもひて、うやまう、きはむ、まかす、などがある。(古訓は『学研新漢和大辞典』が、類聚名義抄から引用されたもの) これらは何れも、文脈によって「信ず」の意味をもつ場合があるが、動詞自体は「信ず」とは一致しない。結局ぴったり合う動詞がないのだから、「信ず」が日本語の基本語彙に加わったのも当然だと思われる。
《令人有娠乎》
 訓読は「人をして娠有らしむや。」――この構文は、使役動詞「」による純正の漢文である。古事記では「令」には和風の語順が用いられる(第50回参照)。 「乎」は反語の意味を付け加える助詞。
 「有身」は漢和辞典にあるが、「有娠」は載っていない。しかし『中国哲学書電子化計画』で調べると、中国古典には多数使われている。意味はそのまま「娠有り」なので、熟語として挙げるまでもないということであろう。
《所懐》
 「所懐」は、万葉集にある。(万)3791 母所懐 ははにうだかえ。 ――「え」は上代の助動詞「ゆ」の連用形。「ゆ」は受け身を表し、未然形から接続。「所」の表記はしばしば受け身を示す。だから意味は「母に抱かれる子」。
 ここでは、「いずれ生まれ抱かれる子」という意味だから、推量の助動詞をつけて「うだかえむ」とすべきだろう。
 ただし、古語辞典で調べると動詞「いだく」も助動詞「る」もこの時代からちゃんと存在したと思われるから、わざわざ古風な語を使わなくても「いだかれむ」で充分である。
《起烟末…火闌降命》
 烟末・煙末は、『中国哲学書電子化計画』には一例もなかったので、熟語ではない。 は、ほのすそり(すす+おり)の命という名前に関係づけたものである。 は、「宴もたけなわ」の「たけなわ」であるが、本来の意味は「宴が盛りを過ぎ終わりが近づく」時のことである。「盛りをすぎてだらけた」という意味もある。 名詞として、欄干(らんかん)の意味もある。しかし、この字がなぜ「すす」とよむかは謎である。
《尾張連》
 尾張連からは、ときどき天皇に妃が送られた。書紀には、孝昭天皇の妃で世襲足媛(よそたらしひめ)が孝安天皇の母、尾張大海媛(をはりのおほしあまひめ)が崇神天皇の妃とされる。 壬申の乱では大海人皇子(後の天武天皇)に加勢した。
《可愛之山(えのやま)》
 1874年(明治7年)に宮内省が新田神社(薩摩川内市)の「可愛山陵(えのやまのみささぎ)」を「邇邇芸尊陵」に指定した。 創建は藤原純友の乱のころ(平安中期)とも言われるが、<wikipedia>『延喜式』に全く名前が見えないことから見て、当初の地位はかなり低いものだったと考えられている</wikipedia>という。
 また、宮崎県延岡市に「可愛岳(えのだけ)」(728m)がある。西南戦争の際、西郷隆盛の率いる薩摩軍が山麓の谷で官軍に包囲され、夜中に可愛岳を越えて逃げた。 <北川町観光案内>考古学者、鳥居竜蔵博士によると山頂の鉾岩や三本岩は弥生時代の立石(メンヒル)で、頂上に散見するこれら巨大石の石組は原始石槨であるらしい</同案内>とされる。 (メンヒルとは古代の巨石記念物のうち、単一で直立したものを言う)。しかし激しく浸食をうけた山とされるので、自然石かも知れない。何れにしても、古代信仰の地だったと思われる。
 この地は古墳時代は大和政権側の支配域に属し、漢字表記は書紀に一致するので、現地の人が信仰していた山を、書記成立後に「この山が可愛山だ」と定めたものと思われる。阿多とは遠く隔たっているが、知保とは比較的近い。

【一書2】
是後、神吾田鹿葦津姬、見皇孫曰「妾孕天孫之子。不可私以生也。」
妾(われ)天孫之子を孕(はら)みき。私を以ち生むべくもあらず。 (皇孫の胤でない子を生むことなど、ありえない。)
皇孫曰「雖復天神之子、如何一夜使人娠乎。抑非吾之兒歟。」
…抑(そもそも)吾之児(あがこ)に非(あらざ)り。
木花開耶姬、甚以慙恨、乃作無戸室而誓之曰
…無戸室(うつむろ)を作りて之を誓(うけひ)し曰(まを)さく、
「吾所娠、是若他神之子者、必不幸矣。是實天孫之子者、必當全生。」
吾(わが)所娠(はらみし)は、[是]若し他(ほか)の神之子(かみのこ)ならば、必ず不幸(さきあら)じ[矣]。[是]実(まこと)天孫之子ならば、必ず全(また)く生くべし。
(「是」は繋辞(英語のis)。「當(当)」は推量の助動詞「べし」がつくことを表し、ここでは「当然」。)
則入其室中、以火焚室。
則ち其の室の中に入り、火を以ち室(むろ)を焚(た)きき。
于時、燄初起時共生兒、號火酢芹命。
…号(な)は、火酢芹命(ほすせりのみこと)。
次火盛時生兒、號火明命。
…火明命(ほあかりのみこと)。
次生兒、號彥火火出見尊、亦號火折尊。
…彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、亦(また)の号(な)は、火折尊(ほをりのみこと)。
…[接] そもそも。(軽い逆接、あるいは話題の転換)
…[動] はじる。(万)4108 左刀妣等能 見流目波豆可之 さとびとの みるめはづかし
燄 焔 焰(ほのほ、ほむら)…(万)3344 大土乎 火穂跡而 立居而 おほつちを ほのほとふみて たちてゐて。

《是若他神之子者…》
 「」は「これ」と訓読するが実は動詞で、繋辞(英語のbe動詞に相当)である。その主語は「所娠(子)」、目的語(厳密には主格補語)は「若他神之子者必不幸」である。
《名付けの理由》
 「すせり」は、燄初起時共(炎が初めに上がったとき炎と共に)生まれたとされる。 また「ほあかり」は、火盛時であるが、火火出見火折には理由を書いていない。 「一書」だから不完全なのかも知れないが、「火から出て火を見た時」あるいは「火が衰えた時」は、名前を見れば解るから省略したのかも知れない。

【一書3】
一書曰、初火燄明時生兒、火明命、
次火炎盛時生兒、火進命、又曰火酢芹命。
次避火炎時生兒、火折彥火火出見尊。
凡此三子、火不能害、及母亦無所少損。
時以竹刀、截其兒臍、其所棄竹刀、終成竹林、故號彼地曰竹屋。
時神吾田鹿葦津姬、以卜定田、號曰狹名田。
以其田稻、釀天甜酒嘗之。又用渟浪田稻、爲飯嘗之。

一書に曰はく、初(はじ)めて火燄(ほのほ)明(あか)き時生(う)みし児(こ)、火明(ほあかり)の命、
次に火炎(ほのほ)盛(さかり)なる時生みし児、火進(ほすすみ)の命、又曰はく火酢芹(ほすせり)の命。
次火炎を避くる時生みし児、火折彦火火出見(ほをりひこほほでみ)の尊。
凡(およ)そ此の三(みはしら)の子(みこ)、火(ほ)の不能害(そこなふあたはざ)り、及(およ)び母亦(また)少(すこしき)損(そこな)ふ所(ところ)無し。
時に竹刀(あをひえ)を以ち、其の児の臍(ほそ)を截(た)ち、其の[所]棄(う)てし竹刀、終(つひ)に竹の林と成り、故(かれ)彼(か)の地を号(なづ)けて「竹屋」と曰ふ。
時に神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)、卜(うら)を以ち田を定め、号(なづ)けて「狭名田」(さなだ)と曰ふ。
其の田の稲を以ち、天甜酒(あまのたむさけ)を醸(か)み之(これ)を嘗(にひなへ)す。又渟浪田(ぬなた)の稲を用(も)ち、飯(いひ)と為(し)之を嘗(にひなへ)す。

… (万)0755 成者吾胸 焼如 なればあがむね たちやくごとし。
いひ(飯)…[名] めし。(万)0142 家有者 笥尓盛 いへにあれば けにもるいひを。
かむ(醸む)…[他]マ行四段 (上代語)酒を醸造する。
たむさけ(甜酒)…[名] (上代語)うまい酒。
にひなへ(新嘗)…[名] 新嘗祭(にひなめまつり、天皇がその年の新たにとれた穀物を供え感謝をささげ、自らも食べる行事)。

《竹刀》
 竹刀(しない)は、安土桃山時代になってから新陰流が考案したもの。
 (倭名類聚抄)日本紀私記云竹刀【阿乎比衣】言以竹刀剪金銀薄也日本紀私記に云はく竹刀【あをひえ】竹の刀を以ち金銀薄(金箔・銀箔)を剪(た)つを言う[也]。
 青竹で作った小さな刀。日本紀私記によれば、金箔、銀箔を切り取るのに用いたものという。「ひえ」の意味は不明。
《臍》
 (倭名類聚抄)膍臍 四声字苑云膍臍【鼙齊二反和名保曽俗云倍曽】腹孔也
 (『四声字苑』に「膍臍」と云ふ【鼙齊二反[発音ビサイ]、和名「ほそ」、俗に「へそ」と云ふ】。腹の孔なり。)
《竹林》
 読み方:(万)4286 竹林尓 たけのはやしに。
《狭名田の長田》(さなだのおさだ)
 霧島神宮の祭事に「狭名田の長田御田植祭(さなだのおさだおたうえさい)」がある。
 また、都萬(つま)神社(<wikipedia>初見は、『続日本後紀』の承和4年(837年)8月1日条</wikipedia>)に、 「天孫瓊々杵尊と木花開耶姫命が逢初川で見逢いされ、事勝国勝長狭神の仲人により結婚した」そして 「狭名田の稲で造った甘酒で三人の皇子を育てた」という伝承がある。
 霧島神宮は日向国・大隅国の境界に、都萬神社は日向国にあり、阿多の地とは遠く離れている。
 特に都萬神社(西都市)については、近くに西都原古墳群がある。同古墳群は高塚式古墳(【隼人】の項参照)なので、もともと大和朝廷側の勢力圏に属する。 従って、都萬神社の地元の人々は、書紀の記述を読んだことにより、「狭名田の長田」は自らの居住地にあっものだとして、その地に定めたと思われる。
 霧島神宮の狭名田の祭事も、阿多から伝播したかも知れないが、おそらく書紀の成立後にその記述に因んで始まったものであろう。
《渟浪田》
 「渟浪田」は一般に「ぬなた」と訓まれる。その根拠を探すと「」については、書紀の神渟名川耳尊(綏靖天皇)が記の神沼河耳命(かむぬなかはみみのみこと)に対応するので、「渟」は「」であることが確認できた。 「ぬ」は「ぬま」の意味である。次の「」は古い格助詞「」(=の)として、普通名詞の「水田」と解釈されている。しかし、瓊瓊杵・開耶姫の営田(つくだ)に美称として瓊(ぬ、=宝石)をつけたようにも思える。 さらに「浪」は万葉集ではすべて「なみ」とよまれるので、もともとは「ぬなみた=瓊之御田」だったかも知れない。

【一書5】
 一書5は、他の本文や一書に比べて随分面白い。
一書曰、天孫、幸大山祇神之女子吾田鹿葦津姬、則一夜有身、遂生四子。
故吾田鹿葦津姬、抱子而來進曰「天神之子、寧可以私養乎。故告狀知聞。」
是時、天孫見其子等嘲之曰「姸哉、吾皇子者。聞喜而生之歟。」
故吾田鹿葦津姬、乃慍之曰「何爲嘲妾乎。」
天孫曰「心疑之矣故嘲之。何則、雖復天神之子、豈能一夜之間使人有身者哉。固非我子矣。」

一書曰(あるふみにいはく)、天孫(あまつひこ)、大山祇神之女子(むすめ)吾田鹿葦津姫を幸(めあは)し、則(すなは)ち一夜(ひとよ)に有身(はら)み、遂(つひ)に四(よはしらの)子(みこ)を生みき。
故(かれ)吾田鹿葦津姫、子(みこ)を抱(いだ)きて[而]来(きた)り進(すす)め曰(まを)さく「天神(あまつかみ)之子(みこ)、寧(いづくにぞ)私(わたくし)に[以]養(やしな)ふ可(べ)き乎(や)。故(かれ)状(かたち)を告(の)らし知らしめ聞かせたまへ。」とまをしき。
是(この)時、天孫其の子(みこ)等(ら)を見(め)し嘲(あざけ)らし[之]曰(のら)さく「姸哉(うるはしかな)。吾(あが)皇子(みこ)者(は)喜(よろこ)びて[而]生(う)みし[之]と聞こえ歟(や)。」とのらしき。
故(かれ)吾田鹿葦津姫、乃(すなは)ち[之を]慍(うら)み曰(まを)さく「何為(ながため)と妾(われ)を嘲(あざけ)る乎(や)。」とまをしき。
天孫曰(のらさ)く「心(こころ)之(これ)を疑ふ[矣]故(ゆゑ)に嘲(あざけ)る[之]。何則(なにぞや)。復(また)天神(あまつかみ)之子(みこ)雖(なれ)ど、豈(あに)能(よ)く一夜(ひとよ)之(の)間(ま)に人(ひと)を有身(はらま)使(せ)む者(は)哉(や)。固(かた)く我(あが)子(みこ)に非(あら)ざるや[矣]。」とのらしき。

是以、吾田鹿葦津姬益恨、作無戸室、入居其內誓之曰
「妾所娠、若非天神之胤者必亡、是若天神之胤者無所害。」
則放火焚室。

是以(これをもち)、吾田鹿葦津姫益(いや)恨(うら)み、無戸室(うつむろ)を作り、其の内に入(い)り居(を)り誓(うけひ)し[之]曰(まを)さく、
「妾(われ)所娠(はらみし)は、若(も)し天神(あまつかみ)之(の)胤(たね)に非(あらざ)ら者(ば)必(かなら)ず亡(う)せ、是(これ)若し天神之胤なら者(ば)害(そこなふ)所(ところ)無し。」とまをしき。
則(すなは)ち火(ほ)を放(はな)ち室(むろ)を焚(た)きき。

其火初明時、躡誥出兒自言「吾是天神之子、名火明命。吾父何處坐耶。」
次火盛時、躡誥出兒亦言「吾是天神之子、名火進命。吾父及兄何處在耶。」
次火炎衰時、躡誥出兒亦言「吾是天神之子、名火折尊。吾父及兄等何處在耶。」
次避火熱時、躡誥出兒亦言「吾是天神之子、名彥火火出見尊。吾父及兄等何處在耶。」
然後、母吾田鹿葦津姬、自火燼中出來、就而稱之曰
「妾所生兒及妾身、自當火難、無所少損。天孫豈見之乎。」

其の火(ほ)初(はじめ)て明(あか)し時、躡(ふ)み誥(つ)げ出(い)でし児(こ)自(はじめ)に言(まを)したまはく「吾(あれ)是(これ)天神之子(みこ)、名は火明(ほあかり)の命(みこと)。吾(あ)が父(ちち)や何処(いづこ)に坐(いま)す[耶]。」とまをしたまひき。
次に火(ほ)盛(さか)りし時、躡み誥げ出でし児亦(また)言(まを)したまはく「吾是天神之子、名は火進(ほすすみ)の命。吾が父及(と)兄や、何処に在(いま)す[耶]。」とまをしたまひき。
次に火炎(ほのほ)衰(おとろ)へし時、躡み誥げ出でし児亦言(まを)したまはく「吾是天神之子、名は火折(ほをり)の尊。吾が父及(と)兄等(ら)や何処に在す[耶]。」とまをしたまひき。
次に火(ほ)の熱きを避(さ)けし時、躡み誥げ出でし児亦言(まを)したまはく「吾是天神之子、名は彦火火出見(ひこほほでみ)の尊。吾が父及(と)兄等(ら)や何処に在す[耶]。」とまをしたまひき。
然(しか)る後、母吾田鹿葦津姫、火(ほ)の燼(け)つ中自(よ)り出(い)で来たり、就(つ)きて[而]之(これ)を称(たた)へ曰(まを)さく、
「妾(わ)が[所]生(う)みし児(こ)ら及(と)妾が身(み)、火(ほ)の難(かた)きに当つる自(よ)り、少(すこしき)損(そこな)ふ所(ところ)も無(な)し。天孫(あまつひこ)豈(あに)之(これ)を見(め)さむや[乎]。」とまをしき。

報曰「我知本是吾兒。但一夜而有身、慮有疑者。
欲使衆人皆知是吾兒、幷亦天神能令一夜有娠。
亦欲明汝有靈異之威、子等復有超倫之氣。
故、有前日之嘲辭也。」

報(こた)へて曰(まを)さく「我(われ)本(もと)より是(これ)吾(あが)児(こ)なるを知(し)らしき。但(ただ)、一夜(ひとよ)にて[而]有身(はら)むを、慮(おもはか)り疑(うたが)ひ有(あ)れ者(ば)。
衆人(もろひと)皆(みな)に是(これ)吾児(あがこ)にて、并(あは)せ亦(また)天神(あまつかみ)能(よ)く一夜(ひとよ)に有娠(はらま)令(し)むを知ら使(し)むを欲る。
亦(また)汝(な)が霊異之(くしき)威(いつ)有り、子(みこ)等(ら)が復(また)超倫之(ひとをこゆる)気(け)有りを明かすを欲る。
故(かれ)、前日(さきのひ)之(の)嘲(あざけ)りし辞(こと)有りき[也]。」とのらしたまひき。

 天孫は、大山祇神の息女、吾田鹿葦津姫(あたかしつひめ)を娶り、直後に一夜にして身籠り、四人の子を生みました。 そこで、吾田鹿葦津姫は、子らを抱き、御前に進み、「天つ神の御子なのに、どうして婚外の子として育てなければならにのでしょうか。その理由をお聞かせください。」と申し上げました。 その時、天孫はその子等を御覧になり、嘲笑され「美しい妻よ。私の皇子を産み、大喜びしていると聞こえてきたが。」と仰りました。 そこで、吾田鹿葦津姫はこれに怒り、「どうして私を嘲るのですか。」と申し上げました。 天孫は、「心に疑いがあるから嘲るのだ。これはどうしたことか。たとえ天つ神の子であっても、どうやって一夜の間に人を孕ませることができるか。決して私の子であるわけがない。」と仰りました。
 そこで、吾田鹿葦津姫はますます怒り、無戸室(うつむろ、=全面を壁で塗り固めた建物)を作り、その中に入り、誓(うけひ、=神への誓約)をして、このように言いました。 「私が身籠った子が、もし天つ神の子胤(こだね)でなければ必ず死に、これがもし天つ神の子胤ならば、命が損なわれることはありません。」 こうして、火を放ち室を燃やしました。
 この火が初めに燃えた時、火を踏み、高らかに声を上げて出てきた子は、まず「私は天つ神の御子で、名は火明命(ほあかりのみこと)です。私の父はどこにいらっしゃいますか。」と仰りました。 次に火が盛んになった時、火を踏み、高らかに声を上げて出てきた子は、また「私は天つ神の御子で、名は火進命(ほすすみのみこと)です。私の父と兄はどこにいらっしゃいますか。」と仰りました。 次に火の炎が衰えた時、火を踏み、高らかに声を上げて出てきた子は、また「私は天つ神の御子で、名は火折尊(ほをりのみこと)です。私の父と兄たちはどこにいらっしゃいますか。」と仰りました。 次に火の熱さを避けた時、火を踏み、高らかに声を上げて出てきた子は、また「私は天つ神の御子で、名は彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)です。私の父と兄たちはどこにいらっしゃいますか。」と仰りました。
 その後、母、吾田鹿葦津姫が火の燃え跡から出てきて子等に加わり、これを称え、 「私が産んだ子たちと我が身は、火が激しく燃える中から出て、少しのけがもありません。天孫は、確かに御覧になりましたよね。」と申し上げました。
 天孫はそれに応えて「私は最初から、これが我が子であることを知っていました。けれども、一夜で孕ませたことには、人々に疑念があることを慮(おもんばか)ったのですよ。 人々には皆、これが我が子であり、同時にまた、天つ神は一夜にして孕ませる能力があることを知らせたいと思います。 また、あなたには霊異の御稜威があり、子等にはまた絶倫の霊力があることも知らせたいと思います。 ですから、先日はこのように嘲る言葉を言ったのです。」と仰りました。

…[副] いづくんぞ。なんぞ。(反語)
…[動] 万葉集では(動物を)「飼ふ」。(古訓)やしなふ。うめり。
知聞…中国哲学書電子化計画に多数あるが、ほぼ「知る+聞く」の意味。万葉集は「しる」「きく」とよむ。
…[動] (万)なし。(古訓)あざける、さへつる(=さえずる)、など。
あざける(嘲る)…[自]ラ行四段 ばかにして笑う。
…[形] うつくしい。(古訓)うるはし、かほよし、など。
…(万)0530 疑毛奈思 うたがひもなし。
あに(豈)…[副] (反語)
いや(益)…[副] ますます。(万)0239 目頬四寸 いやめづらしき。
…[動] (古訓)うす、しぬ、ほろぶ、など。
うす(失す)…[自]サ行下二 なくなる。消える。
…[動] (古訓)やく、たふる、など。
はなつ…[他]タ行四段 (万)0327 雖放 はなつとも。
たく…[他]カ行四段 (万)3899 海未通女 伊射里多久火能 あまをとめ いざりたくひの。
…[動] ふむ。追う。
…[動] (上から下へ)つげる。
おとろふ(衰ふ)…[自]ハ行下二 (万)2952 吾齡之 衰去者 わがいのちの おとろへぬれば。
…[名(動)] 燃え残り(す)。(古訓)もえくひ、たきぎ、けちうさむ。
けつ(消つ)…[他]タ行四段 消す。
つく(付く、着く)…[自]カ行四段 (万)1972 近就良思母 ちかづくらしも。
…となえる。世間に対しておおっぴらにいう。(古訓)のたはり、など。
かたし(難し)…[形] (万)0106 去過難寸 ゆきすぎかたき。
…[動] おもんばかる。(古訓)うらおもふ、おもはかる、おもふ、など。
…[名] 多くの人。[形] おほし。
霊異(れいい)…人間の知識では考えられないほど不思議なこと。
…(万)0388 海若者 寸物香 わたつみは くすしきものか。
…[名] たぐい。「絶倫」(仲間をはるかに越えた)。
超倫…(中国哲学書電子化計画から検索)郁離子/巻上/梓棘「冠群超倫」。「冠群」と共に「群れから抜きんでる」意味の句を二種類並べたと見られる。 従って、「超倫」は「絶倫」と同じと思われる。
こゆ(越ゆ、超ゆ)…[自]ヤ行下二 こえる。
(気)…[名] ①自然現象として空間に満ちているもの。②人の心身に満ちているもの。
(気)…[名] ①ものの発する気(光、熱気など)。②心の張り。③気配。
あかす(明かす)…[他]サ行四段 ①明らかにする。②朝を迎える。(万)0089 居明而 ゐあかして。

《姸哉吾皇子者聞喜而生之歟》
 この天孫の言葉はなかなか意味がとりにくいが、「『麗しいものだ、私の皇子は。お前は喜んで生んだと聞くが。』 と言って嘲笑った。」だとすれば、「(お前がそう思い込んでいるところの)"私の子"は立派なものだ」と皮肉っている。
 ただ、「姸哉」は妻が美しいと言っている可能性が高い。「『美しい妻よ。私の皇子を、お前が喜んで生んだと聞こえてくるがどうなのだ。』と嘲った。」とも読める。 妻に話しかけるときは、常に「美し妻よ」と呼ぶ習慣があったようだ。 というのは、伊邪那岐が、黄泉の国から恐ろしい姿で追ってきた伊邪那美と決別する場面でさえ、「愛(うつく)し我がなにものみこと(=妹)よ」と相手を呼んでいたからである。
 一方一書6の歌謡を見ると「美しや」は決して形式的な言葉ではなく、実際に妻への愛情を失っていない。歌謡からは、愛情の深さ故の嫉妬が、妻の子の胤への疑念を生じさせたと読める。
躡誥
 『中国哲学書電子化計画』で調べたが、中国古典に「躡誥」は一例もない。従って、漢語の熟語ではない。万葉集には「躡」「誥」とも皆無である。従って、各字の元の意味を残していると考えられる。
 「躡(ふ)む」は、火を踏んで出てくる、「誥(つ)ぐ」は名前を宣言することだと思われる。
《子の名前》
 火初明→火明火盛→火進火炎衰→火折避火熱→火火出見のように、燃焼の経過と名前とを関連付けている。ただ、恐らくこじつけである。
《一書5の特徴》
 一書5では四子が生まれ、火折・彦火火出見を分割して、2子に割り振っている。 尊称が両方とも「尊」であるということは、書紀の編集者はどちらが皇太子であるかの判断を、保留したと見られる。 また一書5のみ、妊娠中ではなく、既に生まれた子を連れて無戸室に入る話になっている。
 これらは、神学的な厳密性はあまり気にせずに、物語として楽しめるように自由に脚色を加えた結果であると見られる。 実際、瓊瓊杵が最後に苦しい言い訳をする姿など、とても面白く描かれている。 現代語に直訳しても、皮肉や負け惜しみなどの複雑な心理を描く物言いがちゃんと生きている。 日本語の文字表記がまだ発展途上であった時代に、文学的な発想や表現の豊かさは既に成熟しているのである。

【一書6】
皇孫疑之、云々。
遂生火酢芹命、次生火折尊、亦號彥火火出見尊。
母誓已驗、方知、實是皇孫之胤。然、豐吾田津姬、恨皇孫不與共言。
皇孫憂之、乃爲歌之曰、
憶企都茂播 陛爾播譽戻耐母 佐禰耐據茂 阿黨播怒介茂譽 播磨都智耐理譽

皇孫之を疑ふ、云々。
遂(つひ)に火酢芹(ほすせり)の命を生み、次に火折(ほをり)の尊、亦の号(な)は彦火火出見(ひこほほでみ)の尊を生む。
母(はは)誓(うけひ)已(すで)に験(しる)し、方(まさ)に実(み)是(これ)皇孫(すめみま)之(の)胤(たね)なるを知る。然(しか)るに、豊吾田津姫(とよあたつひめ)、皇孫(すめみま)共の言(こと)を不与(あたはざ)るを恨(うら)む。
(誓(うけひ)にの結果、火中で無事出産できたことから明らかになったように、子らは皇孫の胤による。だが依然として皇孫が同意してくれないので、豊吾田津姫は面白くない。)
皇孫之(これ)を憂(うれ)へ、乃(すなは)ち之を歌に為(し)曰(い)はく、
おきつもは へにはよれども さねどこも あたはねかもよ はまつちどりよ

(沖つ藻は 辺には寄れども さ寝床も 能はねかもよ 浜つ千鳥よ)
《大意》沖の藻は岸に寄るのに、[お前は私の]寝床に近づけないことがあろうか、浜の千鳥よ。
しるし(徴、験)…[名] 兆し。霊験。
しるす(徴す)…[他]サ行四段
うれふ(憂ふ)…[他]ハ行下二 心配する。(万)1757 客之憂乎 たびのうれへを。
あたふ(与ふ)…[他]ハ行下二 (万)0210 取與 とりあたふ。
かも…[終助] 疑問・詠嘆もあるが、已然形(「あたはね」)につく場合は反語。

《解釈》
 この歌は、妻が怒って床に来てくれないことを嘆いている。 一般的に記紀の歌謡は、民衆の歌謡を取り入れたものと考えられている。 この段の文脈中にある場合は、その原因はそもそも自分にある。自分が自分の子だと認めてやらないからである。

一書7
【一書7】
一書曰、高皇産靈尊之女天萬𣑥幡千幡姬。
一云、高皇産靈尊兒萬幡姬兒玉依姬命、此神爲天忍骨命妃、生兒天之杵火火置瀬尊。
一云、勝速日命兒天大耳尊、此神娶丹舄姬、生兒火瓊瓊杵尊。
一云、神高皇産靈尊之女𣑥幡千幡姬、生兒火瓊瓊杵尊。
一云、天杵瀬命、娶吾田津姬、生兒火明命、次火夜織命、次彥火火出見尊。

高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)之女(のむすめ)天万栲幡千幡姫(あまよろづたくはたちはたひめ)
一云(あるいはいはく)、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の児(こ)、万幡姫(よろづはたひめ)の児、玉依姫命(たまよりひめのみこと)、此の神、天忍骨命(あまのおしほねのみこと)の妃と為(な)り、生みし児、天之杵火火置瀬尊(あまのぎほほおきせのみこと)。
一云、勝速日命(かつはやひのみこと)の児、天大耳尊(あまのおほみみのみこと)、此の神、丹舄姫(にくつひめ)を娶(めあは)し、生みし児、火瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと)。
一云、神高皇産霊尊(かむむしびのみこと)之女、栲幡千幡姫(たくはたちはたひめ)、生みし児、火瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと)。
一云、天杵瀬命(あまのきせのみこと)、吾田津姫(あたつひめ)を娶はし、生みし児、火明命(ほあかりのみこと)、次に火夜織命(ほのよりのみこと)、次に彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)。


一書8による瓊瓊杵―火火出見の系図
【一書8】(再録)
一書曰、正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、娶高皇産靈尊之女天萬𣑥幡千幡姬、爲妃而
生兒、號天照國照彥火明命、是尾張連等遠祖也。
次天饒石國饒石天津彥火瓊瓊杵尊、

 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、娶高皇産霊尊の息女、天万栲幡千幡姫を娶り妃として、 生まれた子は、名は天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)で、尾張連の遠祖(とおつおや)である。 次に、天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊(あめのにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)、

此神娶大山祇神女子木花開耶姬命、爲妃而
生兒、號火酢芹命、次彥火火出見尊。

 この神は大山祇神の息女、木花開耶姫命を娶り妃として、 生まれた子は、名は火酢芹命(ほすせりのみこと)、次に彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)。
 一書8は、書紀本文・他の一書と異なり、火明命が瓊瓊杵の子ではなく、兄である。これは記の系図と同じである。(第81回)

【書紀のよみ方】
《漢語の移入》
 前述したように、「信(しん)ず」は、万葉集にはなく、源氏物語にはある。 従って、平安時代中葉より前に「音読み+す」が一般化が始まっていた可能性がある。
 漢音(唐中期の長安の発音)の移入は7・8世紀に積極的に行われている。また呉音(漢音以前の発音)はそのはるか以前から継続的に入ってきている。 すでに音読みが広まりつつある中で、日本書紀を、敢えて全面的にやまとことばに直そうとする運動があったわけである。
 その背景には、もともと天武天皇が正史の確立を求める動機がある。それは、勢力を増す唐の脅威に対して、国の一体化や主体性を確立するためであった。 ところが出来上がった日本書紀は、結果的に相当部分を漢語表現に頼らざるを得ないものになった。 しかし「日本の」歴史書なのだから、古来から伝わる日本の言葉で表現されるべきである。そのように考えた学者によって、一語一句漏らさずやまとことばにする努力が払われたのであろう。
《日本紀講筵》(にほんきこうえん)
 平安時代には、学者が8~10世紀の間に7回にわたり日本書紀の講義を行い、研究成果を披露した。これを日本紀講筵と言う。 講義担当者が発表原稿として用意した『日本紀私記』の一部が現存している。 これらは、<wikipedia>漢文で書かれた『日本書紀』を本来の伝承形態に戻って解釈することに力を注いでいると考えられている。</wikipedia>
 その1回目は早くも書紀発表の翌年の721年に行われ、何と古事記をまとめた太安万侶が講師になっている。 太安万侶は書紀が漢文体で書かれたことに抵抗があり、書紀完成直後から居ても立ってもおられず、やまとことばへの変換を推進したと思わる。これは古事記を理解する上で、重要である。
《翻訳の結末》
 多くは逐語的に和語に置き換え得たが、一部はどうしても対応する語がなく、意を尽くしきれない部分が残った。
 ということは編纂の段階では、編集委員会内部では音読みが使われていたはずである。 それを伺わせるように、書紀の注記に所々漢字の音が示されている。
 中国から移入した熟語や一部の漢字は、始めはすべて訓読みが試みられた(天下=あめのした、など)が、やがて音読みが優勢になっていったのは、その方が概念を簡潔、明快に表すことができたからである。 したがって、書紀は平安時代の全面やまとことば版より、現代人が原文を音読み交じりで読んだ方が正確に読み取れるという、皮肉な結果になっている。

【「ヤマト王権」について】
 古墳時代の前半において「大和朝廷」が「ヤマト王権」と呼ばれることがある。 その理由は、官僚組織が確立しない時期は「朝廷」とは呼べない、古くは「大和」でなく「倭」である、などである。
 ただ、「王権」という語は不適切だと思われる。「天皇」の呼称が使用される以前は、「大王(おほきみ)」と呼ばれたことははっきりしている。王とは、決して大王の支配に服するローカルな氏族の主を指す。 また中央集権的な官僚組織が未成熟な時代でも「朝廷」の語を、その起源となった執務場所や政権中枢の形を指す語として遡って使うことに、特に問題はないと考える。 そして歴史的文献である記紀自体が「朝廷」を使っている事実を、大切にすべきである。

まとめ
 天照族ともいうべき渡来民族は、九州南部から各地に散らばり古代氏族を形成したが、それぞれに海神三神を祀る宗教文化を受け継いでいる。 そのうち、薩摩地域の氏族は火山との関わりが深く、それ故三神の名前の上に「火(ほ)」がついたと思われる。
 その後中央に対して独立を維持する隼人を懐柔するために、薩摩国近辺に伝わる起源神話を取り入れたが、結局隼人に立ち向かう側であった日向国の氏族がこの神話を我が物にしてしまった。
《日本書紀の読み方》
 書紀の「信」一文字の訓の探求から、書紀の訓読法という大問題にぶつかってしまった。 その検討はまだ初歩的であるが、現時点における見解は次の通りである。
 日本書紀は、唐の文化に触れた研究者が中国における歴史書の書法を取り入れ意気揚々と成文化していった。 しかし、伝統主義に立つの学者は、伝承を生かした我が国独自の歴史書を望んだ。その溝は最後まで埋まらず、結果的に次の現象が起こったと思われる。
 議論しても結論に至らず、反対意見についてもそれを裏付ける複数の資料が「一書」として収録された。
 完成後、伝統尊重派がやまとことばに全面変換したが、いくつかの語については無理があり、 また必要以上に古風な語を用いたため、全体としてわかりにくいものになった。
 この考え方でよいかどうか、今後も検討していきたい。


2014.11.23(日) [088] 上つ巻(山幸彦海幸彦1)

故 火照命者爲海佐知毘古【此四字以音下效此】而取鰭廣物鰭狹物
火遠理命者爲山佐知毘古而取毛麤物毛柔物
爾火遠理命謂其兄火照命 各相易佐知欲用 三度雖乞不許 然遂纔得相易
爾火遠理命以海佐知釣魚都不得一魚 亦其鉤失海

故(かれ)、火照(ほでり)の命(みこと)者(は)海佐知毘古(うみさちひこ)【此(こ)の四字(よもじ)音(こゑ)を以(も)ちゐる。下此れに効(なら)ふ。】に為(し)て[而]鰭廣物(はたのひろもの)鰭狹物(はたのせばもの)を取る。
火遠理(ほをり)の命者(は)山佐知毘古(やまさちひこ)に為(し)て[而]毛麤物(けのあらもの)毛柔物(けのにこもの)を取る。
爾(かれ)火遠理命、其(そ)の兄(あに)火照命に謂(まを)したまはく「各(おのおの)佐知(さち)を相(あひ)易(か)へ用(もちゐ)るを欲る。」とまをしたまひ、三度(みたび)乞(こ)へ雖(ども)不許(ゆるさ)ず、然(しか)るに遂(つひ)に纔(わづか)に得(え)相(あひ)易(か)へき。
爾(かれ)火遠理命、海の佐知を以ち魚(いを)を釣り都(さね)一魚(ひとな)も不得(えず)、亦(また)其の鉤(ち)海に失せき。


於是 其兄火照命乞其鉤曰
山佐知母己之佐知佐知 海佐知母己之佐知佐知 今各謂返佐知 之時【佐知二字以音】
其弟火遠理命答曰
汝鉤者釣魚不得一魚 遂失海
然其兄強乞徵 故其弟破御佩之十拳劒作五百鉤 雖償不取
亦作一千鉤雖償不受云 猶欲得其正本鉤

於是(ここに)、其の兄火照命其の鉤(ち)を乞(こ)ひ曰はく、
「山佐知(やまのさち)母(も)己之(おのが)佐知(さち)佐知(さち) 海佐知(うみのさち)母(も)己之佐知佐知」とこひたまひ、今(いま)各(おのおの)佐知を返(かへ)さむと謂(の)らしし[之]時【「佐知」の二字(ふたもじ)音(こゑ)を以ちゐる。】
其の弟(おと)火遠理命答へたまはく[曰]、
「汝(なが)鉤(ち)者(は)魚(いを)を釣るに一魚(ひとな)も不得(えず)、遂(つひ)に海に失(う)したり。」とこたへたまひき。
然(しか)るに其の兄強(し)ひ乞(こ)ひ徴(はた)り、故(かれ)其の弟(おと)御佩之(みはかしの)十拳(とつか)の剣を破(くだ)き五百(いほ)鉤(ち)を作り償(あが)へ雖(ど)も不取(とらざ)りき。
亦(また)一千(ち)鉤(ぢ)を作り償(あが)へ雖(ど)も不受(うけ)ず、云はく「猶(なほ)其の正(まさ)しき本(もと)の鉤(ち)も欲得(がも)。」といひき。


 さて、火照命(ほでりのみこと)は海幸彦(うみさちひこ)として多様な魚を獲っていました。 火遠理命(ほおりのみこと)は山幸彦(やまのさちひこ)として多様な獣を獲っていました。 そこで火遠理命は、その兄、火照命に「それぞれの幸(弓矢と釣り針)を互いに交換して使わせてください。」とお願いし、三たびお願いしたのですが許さず、それでも最後は少しだけ交換できました。 そこで火遠理命、海の幸(釣り針)を用いて魚を釣ったのですが、ただの一尾も釣れず、またその釣り針は海に失ってしまいました。
 そのとき、兄の火照命はその釣り針を求め、 「山の幸もおのがさちさち、海の幸もおのがさちさち」と鼻歌のように言い、今すぐ互いに幸を返そうと言ったので、 弟の火遠理命は、 「あなたの釣り針は魚を釣るに一尾も得られず、ついには海でなくしました。」と答えました。 しかし兄は、強く請うたので、弟は御佩(みはかし)の十拳(とつか)の剣を砕き、五百の釣り針を作って贖ったのですが、受け取りませんでした。 再び、一千の釣り針を作り贖おうとしてもやはり受け入れられず、「それでもなお、私は本物の元の釣り針が欲しいのだ。」と言いました。


(毛)…[名] (万)1889 吾屋前之 桃之下尓 わがやどの ももがしたに。(毛桃…皮に毛が多い桃)
(麁)…[形] あらい。はるかに遠い。
にこ-(和、柔)…[接頭] 体言の上について「やわらかな」。
かふ(代ふ、替ふ、換ふ、変ふ)…[他]ハ行下二 交換する。(万)0195 敷妙乃 袖之君 しきたへの そでかへしきみ。
さち(幸)…[名] 狩りや漁の道具。(弓矢、釣針など)またその道具にそなわっている霊力。
(鉤、鈎)…[名] 釣り針。(書紀「兄火闌降命」一書3の注)踉䠙鉤、此云須須能美膩(すすのみ)癡騃鉤、此云于樓該膩(うるけ)
ゆるす(許す、緩す)…[他]サ行四段 ゆるめる。逃がす。承諾する。(万)2505 梓弓 引不許 あづさゆみ ひきてゆるさず。()(万)2770 人之将縦 言乎思将待 ひとのゆるさむ ことをしまたむ。()
…[副] わずかに。
わづか-なり(僅か、纔)…[名、形動] ほんの少し。
…[副] ①下に打ち消し語を伴って、~できない。②(上代)うまく~できる。(万)2091 左小舟乃 行而将泊 さをぶねの ゆきてはてむ。
…[名] (古訓)いを。うを。(万)0869 可尾能美許等能 奈都良須等 かみのみことの つらすと。
…[副] すべて。不・無とともに用いる場合は全否定。(万)3308 止来 さねやまけり。
さね…[副] ①間違いなく。②(下に打消しの語を伴って)けっして(~ない)。
うす(失す)…[自]サ行下二。
おの(己)…[代名] (反照代名詞)自身。(万)0116 世尓 おのがよに。
しふ(強ふ)…[他]ハ行上二 無理に勧める。(万)0236 不聴跡雖云 強流志斐能我  いなといへど しふるしひのが しひかたり。
乞徴… (中国哲学書電子化計画)検索してもこの熟語は存在しない
…[名] きざし。[動] もとめる。(万)3847 課役徴者 えつきはたらば。(古訓)はたる。あらはす。もとむ。
はたる(徴る)…[他]ラ行四段 責めて取り立てる。催促する。
…[動] (古訓)あかふ。つくなふ。
… (万)2716 出来水 石觸 衣念 いでくるみづの いはにふれ くだけてぞおもふ。(万)2894 而摧而 われてくだけて。
くだく(砕く、摧く)…[他]カ行四段 砕く。[自]カ行下二 崩れる。
あかふ(贖ふ)…[他]ハ行四段 ①金品などを出して罪の償いをする。②代償を払って手に入れる。
つくのふ(償う)…[他]ハ行四段 損をさせた埋め合わせに、或いは罪を免れるために金や物を出す。
もがも…[終助] 実現の難しい自分の願望を表す。(万)1752 櫻花乎 令見兒毛欲得 さくらのはなを みせむこもがも(桜の花を見せる子がいたらなあ)
ただ(直、只、唯)(なり)…[副、形動] 直接に。まっすぐに。(万)4214 不遇 ただにあはず。
まさに(正に、当に、将に)…[副] 確かに。まさしく。(万)2506 夕占問 占 ゆふけとふ うらまさにのる。

【海幸彦になる兄の名】
 記では火照命(ほでり)、書紀では火闌降命(ほのすそり)である。

【幸】
 「さち」(獲物)を得るために用いる弓矢や釣り針も、また「さち」という。それは「幸」を獲得するための神聖な力をもつからであろう。

【然遂纔得相易】
 漢文における「」は接続詞として、前文を①逆接に②順接に受ける。 和語の接続詞「しかるに」(逆接、しくあるに)、「しかして」(順接、しかくして)のために、同じ意味の「然」が宛てられたと思われる。
 「(わづか)に」は、「ちょっとだけ貸してやる」というニュアンスである。
 可能を意味する副詞「」は、平安時代以後は否定文専用だが、上代は、肯定文でも使われたという。 「得相易」を「あひかふをう」と訓読しても、上代の人に通じたであろうが、おそらくは漢字の順に「え・あひ・かふ」とよんだと思われる。

【山佐知母己之佐知佐知海佐知母己之佐知佐知】
 「己之」のよみは万葉集に、(万)2963 己之 ながこころから。(万)3091 己之妻共 おのがつまどち。などがある。 「」は英語の"-self"にあたるが、万葉集では二人称の代名詞「な」とよむ場合もあることがわかる。
 ここでは語調から見て、両方とも「おのが」であろう。意味はそれぞれ「あなた自身の」「私自身の」である。
 この文は万葉仮名で書かれ、歌のように繰り返される特徴から、節をつけて発した言葉だと思われる。おそらく、兄がこれを鼻歌のようにして口遊みながら、陽気にやって来たのである。 続けて「各謂返佐知」(各自の幸を返そうと言った)と、改めて意味を説明するところが、それを裏付けている。
 記を普及するときは語り部が読み聞かせたと思われるが、この部分は鼻歌風にしたのであろう。集落で集まった子供が、聞き入る様子が目に浮かぶ。

【謂・云】
 会話では通常、尊敬語「」(のる)、謙譲語「」(まをす)によって上下関係を明確にしている。 しかし、ここでは中立的な「謂う・云う」が使われる。 本来、幸を交換する時点では兄が優位なので、兄が「詔る」にすべきである。しかし最終的に日嗣の御子は弟であり、兄は弟に仕える立場になる。従って兄に「詔る」を使えば、書き手が礼を失することになる。 (天皇に対する敬意は今上天皇に限らず、その存在の根拠となる血筋すべてに及ぶのもである) かと言ってここで兄が「白す」では話が成り立たない。記の編者はそこまで考えた末に、中立的な表現に落ち着いたと思われる。
 従って、訓読する場合も編者の考えを尊重し、「のらす」「まをす」などとよむことを避けるべきである。

【猶欲得其正本鉤】
 「欲得」は万葉集では、ほとんどが終助詞「もが」「もがも」とよまれる。この終助詞は、実現不可能な願望の意を付け加える。助詞であるが、体言から直接つながる場合は、事実上動詞の役割を果たす。 万葉集では文末に置かれているのに対し、記では「欲得」を動詞扱いして倒置される。
 漢文として見ると、「猶(なほ)」は副詞。動詞「欲」の目的語は「得」以下の動詞句。動詞「得」の目的語は「其の正しき本の鉤」である。

【書法の特徴】
 山幸彦海幸彦は架空の物語だが、内容は明快である。因幡の白兎の話と同様に、伝承の筋書きを客観的に整理して書いている。 対照的なのは大国主が国を明け渡した後の宴席、八衢(やちまた)の神、八岐大蛇などで、 怪物や神の姿形が幻想的に変化したり、意味不明の比喩があったりして、事象としての掴みどころがない。

【書紀本文】
兄火闌降命、自有海幸【幸、此云左知】、弟彥火火出見尊、自有山幸。
始兄弟二人相謂曰「試欲易幸。」遂相易之、各不得其利。
兄悔之、乃還弟弓箭而乞己釣鉤、弟時既失兄鉤、無由訪覓、故別作新鉤與兄。
兄不肯受而責其故鉤。弟患之、卽以其横刀、鍛作新鉤、盛一箕而與之。
兄忿之曰「非我故鉤、雖多不取。」益復急責。

兄火闌降(ほのすそり)の命、自(おのが)海の幸(さち)有り、弟(おと)彦火火出見(ひこほほでみ)の尊、自(おのが)山の幸有り。
始めに兄弟(はらから)二人相(あひ)謂(かたら)ひ曰はく「試(こころみ)に幸を易(か)ふを欲し。」といひ、遂(つひ)に相(あひ)易(か)へ[之]れど、各(おのおの)其の利(とく)を不得(えず)。
(まず兄弟二人は「試しに弓矢と釣り針を交換してみよう」と話し合い遂に交換したが、両方とも獲物は得られなかった。)
兄之(これ)を悔ひ、乃(すなは)ち弟(おと)に弓箭(ゆみや)を還(かへ)して己(おのが)釣鉤(つりち)を乞ひ、弟(おと)時に既に兄の鉤(ち)を失せしめ、訪(たづ)ね覓(ま)ぐ無由(よしな)き故(ゆゑ)に、別(こと)に新(あらた)しき鉤(ち)を作り兄に与ふ。
(兄はこれを悔い弟に弓矢を返し、自分の釣り針を求めたが、弟は既に釣り針を失い、探しにいく手段もないので、別に新しい釣り針を作り兄に渡した。)
兄肯(あ)へ受けずして其の故(もと)の鉤(ち)を責む。弟之を患(わづら)ひ、即ち其の横刀(たち)を以ち鍛(きた)へ、新(あらた)しき鉤(ち)を作り、一箕(ひとみ)に盛りて之を与ふ。
兄忿(いか)りて[之]曰はく「我が故(もと)の鉤(ち)に非(あら)ざれば、多(おほ)かれ雖(ども)不取(とらず)。」といひ、益(いか)り復(また)急(すみやか)く責めき。
(……怒り、再び速やかに返せと請求した。)
…(万)0546 妻跡 おのづまと。(万)1778 己行 道者不去而 おのがゆく みちはゆかずて。
…(古訓)こころみる。こころみに。
…(古訓)とくす。
くゆ…(万)0410 後雖 のちにくゆとも。
よし(由)…[名] 理由。原因。手段。
たづぬ(訪ぬ)…[他]ナ行下二 (万)0085 山多都祢 やまたづね
…(万)2832 不肯 もりもあへず
せむ(責む)…[他]マ行下二 悩ます。催促する。
…(古訓)ゆゑ。かれ。ふるし。まことに。もと。
…(万)4255 秋時花 種尓有等 色 あきのはな くさぐさにあれど いろごとに。(万)0133 別来礼婆 わかれきぬれば。
わづらふ(煩ふ)…[自]ハ行四段 病む。悩む。
横刀…<世界大百科事典>奈良時代から平安時代の初期には大刀または横刀と書いて「たち」と読ませ</世界大百科事典>た。
きたふ(鍛ふ)…[他]ハ行四段 金属を熱し、打つ。
もる(盛る)…(万)0142 家有者 笥尓飯乎 いへにあれば けにもるいひを。
箕 ja.wikipedia.org
(箕)…[名] 穀物を入れ、あおって、その中の殻・ごみをふるいわけるもの。ふじづる・柳・割り竹などで編んで作る。 (万)1737 大瀧乎 過而夏箕尓 傍為而 おほたぎを すぎてなつみに ちかくして。「なつみ」は吉野町の地名(菜摘)。「箕」は借訓。
…(万)1020 すむやけく。
すみやけし…[形] (上代語)早い。

 文章は、記よりさらに簡潔明快である。

【一書1】
一書曰、兄火酢芹命能得海幸、弟彥火火出見尊能得山幸。時兄弟欲互易其幸。
故兄持弟之幸弓、入山覓獸、終不見獸之乾迹。
弟持兄之幸鉤、入海釣魚、殊無所獲、遂失其鉤。
是時、兄還弟弓矢而責己鉤、弟患之、乃以所帶横刀作鉤、盛一箕與兄、兄不受曰「猶欲得吾之幸鉤。」

兄火酢芹(ほすせり)の命よく海の幸を得(え)、弟(おと)彦火火出見(ひこほほでみ)の尊よく山の幸を得(う)。時に兄弟(はらから)互(たがひ)に其の幸を易(か)ふを欲し。
故(かれ)兄、弟の幸の弓を持ち、山に入(い)り獣(けもの)を覓(ま)ぎ、終(つひ)に獣の乾(かわき)迹(あと)も見ざりき。
弟、兄の幸の鉤(ち)を持ち、海に入り魚(いを)を釣り、殊(こと)に所獲(とりしところ)無く、遂(つひ)に其の鉤(ち)を失せき。
この時、兄、弟に弓矢を還(かへ)して己(おの)が鉤(ち)を責め、弟これを患ひ、乃(すなは)ち所帯(みはかし)の横刀(たち)を以ち鉤を作り、一箕(ひとみ)に盛り兄に与へども、兄受けず曰はく「猶(なほ)吾之(わが)幸の鉤を得(う)を欲る。」といひき。
(兄は弟に弓矢を返して自分の釣り針を請求し、弟はそれを気に病み、やむを得ず帯びていた太刀によって釣り針を作り、箕いっぱいに盛り兄に与えたが、兄は受け取らず「そんなものはいらない。私の釣り針が欲しいのだ。」と言った。)
…(古訓)たがひに。
けもの…[名] (倭名類聚抄)獣【和名介毛乃(けもの)】
けだもの…[名] (倭名類聚抄)畜 畜生【和名介太毛乃(けたもの)】
かわく(乾く)…(万)1186 雖干跡不 ほせどかわかず。

《乾迹》
 漢和辞典・汉典・中国哲学書電子化計画の何れを見ても熟語「乾迹」はない。と同じなので、「乾燥した足跡」の意味かと思われる。 「とみ(跡見)」という語があり、意味は狩猟のとき、鳥や獣の足跡から行動を探ること。(万)0926 野上者 跡見居置而 ののうへには とみすゑおきて。
 岩波文庫版では「乾迹」に「かちと」という訓がついているが、その出典の説明はない。

【一書3】
一書曰、兄火酢芹命、能得海幸、故號海幸彥。
弟彥火火出見尊、能得山幸、故號山幸彥。
兄則毎有風雨、輙失其利。弟則雖逢風雨、其幸不忒。
時兄謂弟曰「吾試欲與汝換幸。」弟許諾因易之。

兄火酢芹(ほのすせり)の命、よく海の幸を得、かれ海幸彦と号(なづ)く。
弟(おと)彦火火出見(ひこほほでみ)の尊、よく山幸を得、かれ山幸彦と号く。
兄則(すなは)ち風雨(かぜあめ)有る毎(ごと)、すなはちその利(とく)を失せき。弟則(すなは)ち風雨に逢(あ)へども、その幸忒(たが)へず。
(兄は風雨のたびに漁獲できるはずの獲物を失ったが、弟は風雨に遭っても間違いなく獲物を得ることができた。)
時に兄、弟謂(の)らさく「吾(あれ)試(こころみ)に汝(なれ)と幸を換(か)ふを欲る。」とのらしき。弟、許諾(う)け、因(よ)りこれを易(か)ふ。

時兄取弟弓失、入山獵獸。弟取兄釣鉤、入海釣魚。
倶不得利、空手來歸。兄卽還弟弓矢而責己釣鉤、
時弟已失鉤於海中、無因訪獲、故別作新鉤數千與之。
兄怒不受。急責故鉤、云々。

時に兄、弟(おと)が弓失を取り、山に入り獣を猟(と)る。弟、兄が釣(つり)鉤(ち)を取り、海に入り魚(いを)を釣る。
倶(ともに)利(とく)を得ず、空手(むなて)に来(き)帰(かへ)りき。兄即ち弟に弓矢を還(かへ)して己(おのが)釣鉤を責む。
(共に獲物は得られず、手ぶらで帰ってきた。そこで兄は弟に弓矢を返し、自分の釣り針も返すよう請求した。)
時に弟已(すで)に鉤を海の中に失せ、訪(たづ)ね獲(と)る因(よし)なく、かれ別(こと)に新(あらた)しき鉤(ち)千(ち)を数(かぞ)ふるを作りこれを与ふ。
兄怒(いか)り受けず。急(すみやけ)く故(もと)の鉤(ち)を責め、云々。

…[接] すなわち。
…[動] (古訓)うたかふ。たかふ。(国際電脳漢字及異体字知識庫)変更。差錯(食い違う。誤る)。疑惑。邪悪。
…[動] (万葉集)0003 朝尓 あさがりに。
…[副] ともに。(古訓)とも。ともに。
かぞふ(数ふ)…[他]ハ行下二 (万)0219 そらかぞふ


【一書4】
一書曰、兄火酢芹命、得山幸利。弟火折尊、得海幸利、云々。

【一書の特徴】
 一書1・3とも内容は本文と同じであるが、やや脚色が加えられている。 もともとは、このような表現豊かな伝承として伝えられていたものを、本文は要点だけに絞ったと述べているのである。 ただ、同じ内容ばかりでさすがにくどいと感じたのか、一書4では省略されて「云々」になってしまった。

まとめ
 ここから始まる話は「釣針喪失譚」と呼ばれ、オセアニアや環太平洋地域のモンゴロイドの間に広く分布しているという。 天孫が南九州から、国土の掌握に乗り出す話の前に、天孫族の出自が中国大陸または海洋の島々であることを確認するかのように、この話が挿入される。 これがどうしても書かれる必要があったことは、書紀の扱いによっても裏付けられる。 書紀は、大国主が北陸地方に進出していく部分の神話をばっさり削除したのとは対照的に、山幸彦海幸彦の話は一書も交えてきっちり収録しているのである。
 この件については、第93回で詳しく述べる予定である。

 


2014.12.03(水) [089] 上つ巻(山幸彦海幸彦2)

於是其弟泣患居海邊之時 鹽椎神來問曰
何虛空津日高之泣患所由
答言
我與兄易鉤而失其鉤 是乞其鉤故雖償多鉤不受 云猶欲得其本鉤 故泣患之

於是(ここに)其(そ)の弟(おと)泣き患(わづら)ひ海辺(うみへ)に居(を)りし[之]時、塩椎神(しほつちのかみ)来(き)問ひ曰(まを)さく、
「何ぞや、虚空津日高(そらつひこ)之(の)泣き患ふ所由(ゆゑよし)は。」とまをひき。
答へたまはく[言]、
「我(われ)与(と)兄(あに)鉤(ち)を易(か)へて[而]其の鉤(ち)失せ、是(ここ)に其の鉤(ち)乞(こ)はれし故(ゆゑ)、多(おほ)き鉤を償(あが)へ雖(ども)不受(うけられ)ず、 云(い)はく『猶(なほ)其の本(もと)の鉤も欲得(がも)』といひし故(ゆゑ)、之(これ)に泣き患ふ。」とこたへたまひき。


爾鹽椎神云
我爲汝命作善議
卽造无間勝間之小船 載其船以教曰
我押流其船者差暫往 將有味御路
乃乘其道往者 如魚鱗所造之宮室 其綿津見神之宮者也
到其神御門者 傍之井上有湯津香木
故坐其木上者 其海神之女見 相議者也【訓香木云加都良木】

爾(かれ)塩椎神云(まを)さく
「我(われ)汝(な)が命(みこと)の為(ため)に善(よ)き議(はかりこと)を作(な)しまつらむ。」とまをし、
即ち无間(まなき)勝間(かつま)之(の)小船(をふね)を造り、其の船に載せ、以ち教(をし)へ曰(まを)さく、
「我(われ)其の船を押(お)し流しまをさ者(ば)、差し暫(しば)し往(ゆ)き、[将に]味(うまし)御路(みち)有らむ。
乃(すなは)ち其の道に乗り往(ゆ)きたまは者(ば)、魚鱗(いろこ)の如(ごと)造(つく)りし[所][之]宮(みや)室(むろ)、其(それ)綿津見神(わたつみのかみ)之(の)宮(あらか)者(は)也(や)。
其の神の御門(みかど)に到(いた)ら者(ば)、傍(かたはら)之(の)井(ゐ)の上に湯(ゆつ)津香木(かつら)有らむ。
故(かれ)其の木の上に坐(ま)さ者(ば)、其の海神(わたつみ)之(の)女(むすめ)見え、相(あひ)議(はか)らさ者(ば)也(や)。」とまをしき。【「香木」を訓み「加都良」と云ふ。こは木なり。】


 そして、その弟は泣きながら思い悩み海辺にいた時、塩椎神(しおつちのかみ)が来て問いました。
「どうしたのか、虚空津日高(そらつひこ)よ。泣きながら思い悩む理由を言ってみなさい。」と問い、 答えますに、
「私は兄から釣り針を借りてその釣り針を失っていたところに、その釣り針を請求されたので、多くの釣り針で償なおうとしたのですが、受け入れられず、『私はなお、元の釣り針が欲しいのだ』と言われたので、ここで泣きながら思い悩んでいるのです。」と答えました。
 それを聞き、塩椎神が言いますには、
「私があなた様のために、良い手立てを用意いたしましょう。」と言い、 すぐに目の詰まった緻密な竹籠の小船を造り、その船に載せて、このように教えました。
「私がその船を押し流しますので、そのまま暫く行くと、美(うま)し御路(みち)がございます。 そしてその道を通って行けば、魚鱗のように造られた宮殿、つまり海神(わたつみ)の神殿がございますよ。 その神の御門に着いたなら、その傍らの井戸の上に斎(ゆつ)桂(かつら)の木があることでしょう。 その木の上にしばらくいれば、海神の息女が現れるので、そこで互いに相談していただきたいのです。」と言いました。


うみへ(海辺)…[名] 海岸。(万)0954 朝波 海邊尓安左里為 暮去者 倭部越 鴈四乏母 あしたには うみへにあさりし ゆふされば やまとへこゆる かりしともしも。
…[動] (万)0050 泉乃河尓 持越流 真木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須良牟 いづみのかはに もちこせる まきのつまでを ももたらず いかだにつくり のぼすらむ。 (古訓)つくる。なす。ゆく。をさむ。
はかる…[自]ラ行下二 (議る)協議する。(謀る)くわだてる。
まなし…[形]ク ①すきまがない。(万)0420 竹玉乎 無間貫垂 たかたまを まなくぬきたれ。(竹玉を隙間なく垂らして) ② 絶え間ない。(万)3087 鳴千鳥 間無吾背子 吾戀者 なくちどり まなしわがせこ あがこふらくは。③間もなく。
かつま(勝間)…[名] 目の細かい竹籠。筐(かたみ)ともいう。
…[動] (万)1727 妾名者不 わがなはのらじ。(古訓)せしむ。のり。をしふ。
さす(差す、指す)…[他]サ行四段 一定の方向に直線的に動かす。
うまし(旨し、美し)…[形]①シ 味が良い。②シク 十分整って美しい。
…[名] (倭名類聚抄)唐韻云鱗【音鄰和名以呂久都俗云伊呂古】也文字集略云龍魚之属衣曰鱗 (『唐韻』に云はく鱗【音"りん"、和名「いろくつ」俗に「いろこ」と云う】なり。『文字集略』龍魚の属(つ)ける衣を鱗と曰ふ。)
…[名] (万)1737 大瀧乎 過而夏箕尓 為而 おほたぎを すぎてなつみに ちかくして。 (古訓)かたはら。ちかし。そふ。ほとり。
かたはら(傍ら)…[名] わき。そば。

【文末の「はや」】
 「者也」の訓は、万葉集では「はや」である。
(万)1390者也将経去 としはやへなむ。
 しばしば、「者」は" is ."を表すが、この段の2つの例はいずれも該当しない。 ここでは、終助詞+間投助詞(詠嘆)で、 会話文の中で、文末に軽く「~だよ。」と添えたような感じだと思われる。
 なお、最後の「議者也」は、「はからばや」あるいは尊敬の助動詞「す」を加えて「はからさばや」かも知れない。 未然形+終助詞ばや」は話し手の願望を表す。ここでは相手への勧誘(「相談するとよい」)と取ることができる。

【尊敬表現】
 上下関係を厳格に示したい場合は「」「」を用いるが、この段では中立的な「」「」「」が使われる。
 「虚空津日高」に「」が付けられていない点は対等な関係を、「汝命」は軽い尊敬だが、どちらかというと親しみを示す。 一方「坐其木上」の「」は尊敬語である。従って全体として、軽い尊敬を伴う親しみの感情が支配していると思われる。
 ここでは、すべての動詞に「たまふ」「まつる」をつけて訓読するとかなり不自然になる。ここでは、神の上下関係より物語としての自然な流れを優先し、所々に自然な尊敬語を交えた形が基調だと思われる。
 ここは古来から人々の間に語り継がれた物語を取り入れた部分と見られ、このような場合尊敬表現は厳格ではない。

【塩椎神】
 書紀「天照大神之子正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊」の段の一書4では、事勝国勝(ことかつくにかつ)の神の別名とされている(第84回参照)。 事勝国勝神は火瓊瓊杵尊が天降りした後、阿多で国を開いたとき、その前に阿多の地を治めていた国つ神である。
 ただし一書4以外には、塩土神を事勝国勝神の別名とする記述はない。また記には、事勝国勝神自体が登場しない。
 「しほつち」は「潮つ魂」(は古い格助詞)の意味だから、「わたつみ」と類似した名である。 「やまつみ」などと同じく、もともとは一般的に海の神として自然崇拝されてきた神であろう。 海神が一度姿を変えてやってきたことにすると、物語としては面白い。

【虚空津日高】
 虚空津日高(そらつひこ)は火遠理(ほをり)の命・天津日高日子穂穂手見(あまつひこひこほほてみ)の命の別名である。 ただ、記に於いては最初に神が登場するときに、予めすべての「亦名」が明示されるのが通例である。 本来ならば火中出産の際(第86回)のところで、 「次生子御名火遠理命亦名天津日高日子穗穗手見命」の文の次に「亦名虛空津日高命」が書かれるべきであるが、抜け落ちている。
 注目されるのは「あまつ」ではなく「そらつ」となっていることである。 第30回で、「天(てん)」にある神の世界はもともと「そら」だったのを、 「あま」族の国家支配の確立に伴い、自らの種族の名を神の世界に冠せて「あま」としたのではないかという、独自説を提示した。 ことによると、天上の世界がある時期まで「そら」と呼ばれていたことの、名残ではないかと想像する。

【无間】
《万葉集》
 で、「まなし」。書紀では「無目」が宛てられ、これは恐らく隙間無く編んだ籠の意味で、「間無し」も同じであろう。
 「まなし」は万葉集では、ク活用の形容詞である。その活用の例を挙げる。
連用形…(万)2746 庭浄 奥方榜出 海舟乃 執梶間無 戀為鴨 にはきよみ おきへこぎづる あまぶねの かぢとるまなき こひもするかも。 (万)3293 其雨 無間 そのあめの まなきがごと。
終止形…(万)3087 真菅吉 宗我乃河原尓 鳴千鳥 間無吾背子 吾戀者 ますがよし そがのかはらに なくちどり まなしわがせこ あがこふらくは。
 「まなし」は「千鳥」への述語であると同時に「吾恋らく(=恋すること)は」への述語でもある。「吾がせこ」(女性から見た男性の恋人)への連体修飾語ではない。
連体形…(万)2746 海舟乃 執梶間無 戀為鴨 あまぶねの かぢとるまなき こひもするかも。
《伝統的な訓》
 ところが記においては、伝統的に「まなかつま」と訓読されている。これだと「まなし」はシク活用で、その語幹である。(後述「うまし国」参照) しかし、万葉集ではク活用の連体形「まなき」が使われている。 誤った(?)訓読の出発点を探るべく、本居宣長の『古事記伝』を見ると「无間勝間」に「まなしかつま」と訓をつけているが、その根拠は示されていない。「まなし」と訓む伝統は、恐らく宣長から始まったのだろう。
《不適切な学説の固定化》
 ある分野の研究が大衆的に広がってくると、最初に学説を唱えた学者の権威が高まり、その学説にたまたま誤りがあったとしても、権威に覆い隠されて誤りのまま伝播していく。 従って研究人口が多い分野では、逆に誤りが固定化するというパラドックスが出現する。
《無目と大目》
 一書3によれば、目を開けた編み方をした竹籠では人が乗ると沈むが、「無目」ならば目が詰まっているから荷重がかかっても浮かせておくことができる。
竹 籠

【勝間】
 書紀本文には「」と表され、 一書1の注記に「いわゆる堅間(かつま)は、今の竹籠である。」とあるので、 「かつま」は奈良時代初期の時点で既に日常語から消えた、古い語であったことがわかる。 「目を堅く詰めた籠」という意味であろうか。
 万葉集には、枕詞「たまかつま」(玉勝間)がある。(万)2916 玉勝間 相登云者 たまかつま あはむといふは。
 竹籠は、蓋と身があうことから「逢う」にかかると言われる。「たま」は美称をつくる接頭語。 万葉集にはこの他に2例、(万)3152 安倍嶋山 あべしまやま。(万)3193 嶋熊山 しまくまやま。がある。 この2例について古語辞典では、いかなる意味で係るかは不明とされている。なお、後世『玉勝間』と題された宣長の随筆集がある。 万葉集の時点では枕詞としてのみ残っていたのではないだろうか。

【差暫往将有味御路】
 「差し」は「そのまままっすぐ」。書紀には同じ意味で「自然」「」(ともに、「おのづから」)が使われたと見られる。
 「」は置き字で推量の助動詞「べし」を示す。 「有味」については、書紀の注記で「可怜」を「うまし」と訓ませている。また一書3の「可怜御路」は記の「味御路」に対応するので、 書紀の編者は、記のこの箇所の「」を「うまし」と訓んだことがわかる。
 「御路」は「みち」である。「美しみち」だから「道」の美称として、「御路」の字を宛てたと思われる。一書3はこの表現を引き継いでいる。

【海神の宮は海底か陸上か】
 記では、塩椎神に押された船は、そのまままっすぐ進み「うまし御路(道)」に達する。 これだけでは、道があったのが陸地か、海底かわからない。
 注目されるのは、書紀本文が「御路」を「小汀(浜)」に変えている点で、記の「御路」のままでは海底だと誤解されるので、訂正したかのようである。 しかし、海神の宮は始めは「海神宮」とされ陸地かと思わせるが、その後は「海宮」と表現され、結局海底に戻ってしまう。
 また、一書1ではその「小汀」が海底にあると明記される。一書4では「海中」で、「海中」の本来の意味は海に囲まれた島であるので陸地かも知れない。 さらに一書3には、「可怜御路」(うましみち)は沈んだところ、つまり海底だとはっきり書いてある。
 書紀では、蒐集したさまざまな変種が、本文と多様な一書に記録されたのであろう。元の伝承には「海底」としてものも「陸上」としたものもあったわけである。
 もう少し広く当たると、この話は浦島伝説との共通性が見出される。 万葉集の時代には浦島伝説の原型があったようで、「(万)1740 浦嶋兒之… うらしまのこが…。」にはその筋書きが含まれている。 浦島伝説では竜宮城があったのは海底であるが、この歌では「海界(うなさか)を越えた先」(海の彼方にある、この世と別の世界)とされる。
 さらに、インドネシアのセレベス島(現スレウェシ島)で蒐集された類似の神話(松本信弘『日本神話の研究』による。第93回で詳しく述べる) によると、水中に没したカヴルサンは、海底に「一つの道」を見つける。
 さて、話を記に戻す。記を厳密に読むと「海底」とは明示されていない。だから海底かも知れないが、海の彼方にある別世界かも知れない。 ただ、「目無き勝間」という表現があるので、浸水を防ぐ編み方をした籠ともとれる。それを船として海面を水平に移動したのなら、やがて海岸に打ち上げられるから、美し道は陸上である。
 何れにしても、海神の住む処はこの世から隔絶した世界である。

【うまし】
 形容詞「うまし」の連体形は「うまき」であるのに、書紀の注記には「うましをばま(小浜)」というよみが示される。
 参考になるのは「うまし国」の例である。((万)0002 怜憾國曽 蜻嶋 八間跡能國者 うましくにぞ あきづしま やまとのくには。) 古語辞典には「美(うま)し」の意味で使うときはシク活用で、その語幹「うまし」が「国」に直接接続したものと解説されている。

【かつら(植物)】
 天若日子の住居の門前にも、「かつら」の木があった(第73回参照)。

【海神之女見相議】
 この部分だけを見ると、「見相」(みあふ、=結婚する)でも意味は通じるが、その場合目的語「海神之女に」が動詞の前にあることが問題となる。
 そこで「海神之女」を主語、「見ゆ」(自動詞、=現れる)が述語とし、副詞「」(あひ、=互いに)は「議る」(はかる)を連用修飾すると考えれば、 この語順のまま正しい文法で理解することができる。
 実際に、次の段で「其香木以坐」していると、豊玉姫の従婢が井戸水を汲みにやって来たときに樹上の男を見付け、次にその話を聞いた豊珠姫がやって来る。 以上から「海神之女見」で区切り、「海神の娘がやって来る」とすべきである。

【書紀本文】
故彥火火出見尊、憂苦甚深、行吟海畔。
時逢鹽土老翁、老翁問曰「何故在此愁乎。」
對以事之本末、老翁曰「勿復憂。吾當爲汝計之。」
乃作無目籠、內彥火火出見尊於籠中、沈之于海。

故(かれ)彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、憂(うれ)へ苦(わづら)ひ甚(いと)深かり、海畔(うみへ)に行(ゆ)き吟(うめ)きたまひき。
時に塩土老翁(しほつちのをぢ)に逢ひ、老翁(をぢ)問曰(とはさく)「何故(なにゆゑ)に此(ここ)に在り愁(うれ)へ乎(や)。」
対(むか)ひ事の本末(もとすゑ)を以ち、老翁曰はく「復(また)憂(ふれふ)なかれ。吾(あれ)汝がためにこれを計(はか)りたまわむ。」
乃(すなは)ち無目(めなき)籠(こ、かつま)を作り、彦火火出見尊を籠の中に内(い)れ、これを海に沈(しづ)めき。

卽自然有可怜小汀。【可怜、此云于麻師。汀、此云波麻。】
於是、棄籠遊行、忽至海神之宮。其宮也、雉堞整頓、臺宇玲瓏。
門前有一井、井上有一湯津杜樹、枝葉扶疏。
時彥火火出見尊、就其樹下、徒倚彷徨。

即ち自然(おのづか)ら可怜(うまし)小汀(おはま)有り。
是(ここ)に、籠を棄(う)て遊(あそ)び行(ゆ)き、忽(たちまち)に海神(わたつみ)の宮(あらか)に至りき。その宮(あらか)や、雉堞(かきうへのをかき)整頓(ととの)ひ、台(うてな)の宇(のき)玲瓏(うるは)し。
門(かど)前(さき)に一(ひとつ)の井(ゐ)有り、井の上に有一湯津(ゆつ)杜樹(かつら)有り、枝葉(えだは)扶疏(しげ)れり。
時に彦火火出見尊、その樹の下に就(つ)き、徒(いたづら)に倚(よ)り彷徨(さまよ)ひたまひき。

 塩土老翁(しおつちのおじ)の質問に対してことの一部始終を話されたところ、翁は「私はあなたのために計画をしましょう。」と申されました。 そして目の詰まった籠を作り、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を入れ、海に沈めました。 そのまま行くと美(うま)し小浜(おばま)があったので籠を捨て、あちこち見ながら行くと、間もなく海神(わたつみ)の宮殿に着きました。 門前にはひとつの井戸があり、井戸の上には一本の斎(ゆ)つ桂の木が枝葉を茂らせてありました。 そこで彦火火出見尊は、その木の下に近づき、何するともなく行ったり来たりされていました。

憂苦(ゆうく)… (汉典)忧愁苦恼;忧愁痛苦(憂愁苦悩;憂愁痛苦)
…苦痛からうめく。なげく。
さまよふ(吟ふ)…[自]ハ行四段 嘆き苦しんでうめく。(万)0892 憂吟 うれへさまよひ。
海畔(かいはん)…うみべ。 (塩)土老翁… 伝統的に「しほつちのをじ」と読まれる。
… (万)2649 山田守 やまだもるをぢ(倭名類聚抄)和名於岐奈。(おきな)
おぢ(小父、翁、老翁)…[名] 年老いた男性。
(うれふ)…思い悩む。
うれふ(憂ふ、愁ふ)…[他]①ハ行下二 嘆きを人に訴える。②ハ行上二 思い悩む。
もとすゑ(本末)…[名] ①草木の根もとと枝葉。②根元と先。 
…[名] (倭名類聚抄)和名古(こ)。
…[動] はいる。いれる。
…[前] =於。
自然… (万)3235 自然 成錦乎 おのづから なれるにしきを。
うまし(美し、旨し)…[形] 十分整って美しい。
…[名] ①水際の平地。なぎさ。②川の中の洲。
すさぶ(荒ぶ、進ぶ、遊ぶ)…[自]バ行四段。気の向くままに物事を行う。
あそぶ(遊ぶ)…[自]バ行四段 ①芸能、行楽などを楽しむ。((万)1076 遊今夜之 月清左 あそぶこよひの つきのさやけさ。)②目的なしにあちこち動く。
…[副] にわかに。たちまち。
たちまち…[副] にわかに。突然。
雉堞(ちちょう)…城壁の上にあるたけの低いかき。(汉典)古代城墙上掩护守城人用的矮墙。(古代、城の墙(垣)の上に、城を守る人を掩(覆)い护(まも)るのに用いる矮墙(小さな垣))
整頓…きちんとしているさま。
…[名] (古訓)うてな。
うてな(台)…[名] 楼閣。御殿。
…[名] ひさし。大きな屋根。(古訓)のき
玲瓏…玉が涼やかに鳴る。もゆらに第86回参照 (古訓)てる。かかやいて。なかかやく。
(井)…[名] 井戸。
杜樹…かつら。(書紀の注記)「杜木、此云可豆邏也。第73回参照。
扶疏(ふそ)…木の枝葉が広がるさま。(汉典)枝叶繁茂分披貌。
…[動] よる。他の力にたのむ。したがう。
いたづら-なり(徒)…[名、形動] ひまだ。役に立たない。むなしい。(万)0562 いたづらに。
彷徨(ほうこう)…さまよいあるく。(古訓)たたすむ。
さまよふ(彷徨ふ)
たたずむ(佇む)…[自]マ行四段 ①その辺りにしばらくとどまる。②うろうろする。

《沈之于海即自然有可怜小汀》
 そのまま沈み落ちたと読めば、小浜は海底である。沈むことは沈むが、それ以上沈まずそのまま水平に進み打ち陸に打ち上げられたと読めば、小浜は海岸である。 「無目」を水が入らない緻密な編み方と読み取り、「海底でなく海岸」を強調するために「うまき御路」を「うまき小浜」に変えたと解釈することは可能である。

【一書1】
於是、彥火火出見尊、不知所求、但有憂吟、乃行至海邊、彷徨嗟嘆。
時有一長老、忽然而至、自稱鹽土老翁、乃問之曰「君是誰者。何故患於此處乎。」
彥火火出見尊、具言其事。
老翁卽取嚢中玄櫛投地、則化成五百箇竹林。

於是(ここに)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、求(ま)ぐところを知らず、但(ただ)憂(うれ)へ吟(うめ)く有り、乃(すなは)ち行(ゆ)き海辺(うみへ)に至り、彷徨(さまよ)ひ嗟嘆(なげ)きき。
時に一(ひとり)の長老(おきな)有り、忽然而(たちまち)に至り、自(みづか)ら塩土老翁(しほつちのをぢ)と称(なの)り、乃(すなは)ち問曰(とはさく)「君(きみ)是(は)誰(たれ)ぞ。何故(なにゆゑ)此処(ここ)に患(わづら)ふや。」ととひき。
彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、具(つぶさ)にその事を言ひき。
老翁(をぢ)即ち嚢(ふくろ)の中の玄櫛(くろくし)を取り地に投げ、則(すなは)ち五百箇(いほつ)竹林(たけはやし)に化成(な)れり。

因取其竹、作大目麁籠、內火火出見尊於籠中、投之于海。
一云、以無目堅間爲浮木、以細繩繋著火火出見尊而沈之。【所謂堅間、是今之竹籠也。】
于時、海底自有可怜小汀、乃尋汀而進、忽到海神豐玉彥之宮。
其宮也城闕崇華、樓臺壯麗。

因(よ)りその竹を取り、大目(めおほき)麁籠(あらこ)を作り、内火火出見尊を籠の中に内(い)れ、これを海に投げき。
一(ある)云(い)はく、無目(めなき)堅間(かしま)を以ち浮木と為(し)、細縄(ほそなは)を以ち火火出見尊を繋(か)け著(つ)けてこれを沈(しづ)めき。【所謂(いはゆる)堅間、是今の竹の籠(こ)也。】
時に、海底(わたのそこ)に自(おのづか)ら可怜(うまし)小汀(をはま)有り、乃(すなは)ち汀(はま)を尋(たづ)ねて進み、忽(たちまち)に海神(わたつみ)豊玉彦(とよたまひこ)の宮(あらか)に到りき。
その宮(あらか)や、城闕(やくら)崇華(うるは)しく、楼台(たかとの)壮麗(おほくくは)し。

 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は釣り針を探す術もなく、嘆き彷徨ううちに塩土老翁(しおつちのおじ)に出会い、一部始終を打ち明けた。 老翁(おじ)は袋から黒櫛を出して放り投げると、竹林になった。 その竹で隙間の大きな籠を作り、火火出見尊を入れて海中に投じた。
 また他の言い伝えによれば、目の詰まった籠を浮きとして、紐を繋ぎ水中に火火出見尊を吊るし、海流のままに籠を流した。
 そのまま流れに任せていくと、海底に美(うま)し小浜(をばま)があった。何があるのかと思って歩いていくと、海神(わたつみ)豊玉彦(とよたまひこ)の宮殿に着いた。 その宮殿は、城闕(=櫓)は崇華で、楼台は壮麗であった。

…[動] 嘆息する。(万)2988 羽将息 なげきはやめむ。
憂吟…漢和辞典・中国古典にはこの熟語はない。
つぶさに(具に)…(大国主の歌謡・第66回)久路岐美祁斯遠 麻都夫佐爾 登理與曾比 くろきみけしを まつぶさに とりよそひ。 (黒い御衣を真つぶさに(=細かくきちんと)取り装い)
ふくろ(袋、嚢)…[名] (万)0746 生有代尓 吾者未見 事絶而 如是憾怜 縫流 いけるよに あれはいまだみず ことたえて かくおもしろく ぬへるふくろは。(生まれて以来、こんなに見事に縫った袋は見たことがない。)
あらこ(荒籠)…[名] 網目の荒い籠。
うきき(浮木)…[名] ①浮かぶ木。②筏。船。
…(万)1056 嫺嬬等之 續麻 をとめらが うみをかくといふ。
かく(掛く、懸く)…[他]カ行下二 ひもなどをかけてつなぐ。
わたのそこ(海底)…(万)0083 海底 奥津白波 わたのそこ おきつしらなみ。(枕詞)
城闕(じょうけつ)…物見台のある城門。
崇華…(魏志)青龍三年秋,洛陽崇華殿災,改名九龍殿(曹叡は崇華殿の再建を命じ、九龍殿と改めた。)
楼台…高い建物。たかどの。
壮麗…壮大で美しいさま。

《海神豊玉彦》
 海神(わたつみ)の名、豊玉彦が出てくるのは、この一書1だけである。豊玉姫は、他の一書・本文・記と同じく海神豊玉彦の娘である。
《五百箇竹林》
 そう言えば、出雲が平定されて以来、吉数八をあまり目にしなくなる。「五」の方が古い吉数と考えられるので、釣針喪失譚は古くから伝わる話ということになる。 恐らく「八」は古墳時代末期に朝廷が八卦に傾倒したことによる。また、「やまとの国」の「や」でもある。特に、制圧した出雲に対しては「やまと」の「や(八)」を神聖数として、その恩恵を押し付けたと考えられる。
《海底自有可怜小汀》
 「そのまま海底に沈むと美し小浜が有った」という意味なので、海神の住む処は海底だと明示される。
《大目麁籠と無目堅間》
 隙間を大きく、麁(あら)く編んだ籠と、隙間を詰めて堅く編んだ籠。前者は水が素通しであるが、後者は水が入ってこない。 「かつま」は「かたま(堅き間)」が音韻変化したものと思われる。
《城闕崇華楼台壮麗》
 「楼台」は、銅雀台(どうじゃくだい)が有名である。これは三国時代の魏の太祖曹操が鄴(ぎょう)に建てたものである。(『魏志倭人伝をそのまま読む』第86回参照) もちろんそれほど豪華でなくとも、2階建て以上の建物はすべて「楼台」と言うが、 文脈から見れば異国の壮麗な建造物を想定しているのは明らかである。
 城闕(じょうけつ)は城壁の門の上に建てた物見櫓のことで、これまた崇華であるとする。
 この文の伝統的な訓読は、 「かきや たかく かざり たかどの うてな さかりに うるはし」(岩波文庫版)とされる。 「かきや」は、垣屋(城壁の上の部屋)を意味する。また、「たかどの」「うてな」は、それぞれ「楼」、「台」の訳語である。 さらに、「崇華」「壮麗」は、熟語が一字ずつに解体して訳されている。 しかし、「かきや」、「たかどのうてな」は国語辞典・古語辞典にない語で、書紀だけに使われた造語だと見られ、普及もしなかった。
 強いて適切な訓を求めると、「楼台」は「たかどの」「うてな」のどちらか一方でよい。結合して「たかどのうてな」とすると、意味が分からなくなる。
 また「城闕」と意味が一致する語は「やぐら」である。「」の古訓に「やくら」がある。 (古訓は学研新漢和辞典による。同辞典の古訓は『類聚名義抄』(平安時代後期―1100年前後)に基づいている)
 つまり、物見櫓付きの城門は「櫓」ではなく「城闕」とし、高い建築物は「高殿」ではなく「楼台」としているので、 中国風の表現を用いている。
 さらに、述語の部分も中国由来である。 熟語としての「壮麗」について、一例として『後漢書』を見ると、列伝/宦者列伝に「皆競起第宅、樓觀壯麗」(皆競い第宅(でいたく、=やしき)を起(た)て、楼観(=楼台)壮麗なり。)がある。 ここでは「壮麗」は大きく、美しい建造物を指す。
 次に「崇華」を検索してみたところ、面白い逸話を見つけた。
 (『金樓子』の「立言上」より) 往者承華殿災,詔問高堂隆:「此何災?」隆曰:「殿名崇華、而為天災所除。是天欲使節儉、勿復興崇華之飾也。」
 (通りかかった者が崇華殿の火災を知り、高堂隆に「これは何が災いしたのか?」と聞いた。高堂隆は 「崇華という殿名がよくない。だから天の意思により災を受け除かれたのだ。天は倹約を望んでいる。崇華な装飾を復元してはならない。」と答えた。)
 これは、曹叡が崇華殿を再建後、改名した理由がよく分かる話である。またこの文から、「崇華」が「節倹」(=無駄を省いて倹約する)の反対語であることも確認できる。
 このように「城闕崇華楼台壮麗」は完全に中国の文なので、第87回で考察したように、編集段階では直接漢語から音読みして草案を検討したと思われる。 熟語として固有の意味を持つ語を、岩波文庫版の例のように、一字毎に分解して翻訳することは、適切ではない。

【一書3】
是時、弟往海濱、低徊愁吟。
時有川鴈、嬰羂困厄。
卽起憐心、解而放去。
須臾有鹽土老翁來、乃作無目堅間小船、載火火出見尊、推放於海中。
則自然沈去、忽有可怜御路、故尋路而往、自至海神之宮。

この時、弟(おと)海浜(うむへ)を往(ゆ)き、低徊(かしらたれさまよ)ひ愁(うれ)ひ吟(うめ)けり。
時に川鴈(かはかり)有り、羂(わな)に嬰(かか)り困厄(いとまと)へり。
即ち憐心(あはれこころ)起こし、解(と)きて放(はな)ちぬ。
須臾(しまし)く有り塩土老翁(しほつちのをぢ)来(き)、乃(すなは)ち無目(めなき)堅間(かしま)の小船(をぶね)を作り、火火出見尊(ほほでみのみこと)を載(の)せ、海中(わたなか)に推(お)し放ち、則(すなは)ち自然(おのづか)ら沈(しづ)みぬ。
忽(たちまち)可怜(うまし)御路(みち)有り、故(かれ)路(みち)を尋(たづ)ねて往(ゆ)けば、自(おのづか)ら海神(わたつみ)の宮に至りき。

 傷心の弟が浜辺を彷徨ううち、雁が罠にかかって苦しんでいるのを見つけ、憐れに思い、解き放ってやった。 しばらくして塩土老翁(しおつちのをじ)がやって来て、目の詰まった籠の小舟を作り、火火出見尊(ほほでみのみこと)を乗せ、海の真ん中に向かって押し離すと、そのまま沈んでいった。 間もなく美(うま)し御路(みち)があり、その道を訪ねて行くと、そのまま海神の宮殿に到着した。

低徊(低回、ていかい)…頭を垂れ、考え事をしながらあちこちさまよう。
かしら…(万)4346 知〃波〃我 可之良加伎奈弖 ちちははが かしらかきなで。
愁吟(しゅうぎん)…心細げに歌うこと。
…まとう。さわる。(古訓)かかる。まとはる。
…わな。網などを用いた仕掛け。
わな…(万)3361 佐須和奈乃 可奈流麻之豆美 さすわなの かなるましづみ。(さす罠のか鳴るましづみ)「かなるましづみ」は古来難解の語とされる。
困厄(こんやく)…困り果てるさま。
まとふ(惑ふ)…途方に暮れる。心乱れる。
おこす(起こす)…[他]サ行四段 (万)0478 大夫之 心振 ますらをの こころふりおこし
須臾(しゅゆ)…①のんびりと気楽に過ごすさま。②少しの間。(万)0969 須臾 去而見壮鹿 しましくも ゆきてみてしか。
しまし(暫し)、しましく…[副] 少しの間。しばらく。

《自然沈去忽有可怜御路》
 「自然に沈んだら、美し道があった。」即ち、海底の世界であることを明示している。「小浜」への言い換えはなく、「」のままである。
《浦島伝説》
 罠にかかった鳥を助けるところは、浦島伝説を想起させる。苦しんでいる動物を助けたら、しばらくして助けられた。仏教的な因果応報思想の影響がある。

【一書4】
弟愁吟在海濱、時遇鹽筒老翁、老翁問曰「何故愁若此乎。」火折尊對曰、云々。
老翁曰「勿復憂、吾將計之。」
計曰「海神所乘駿馬者、八尋鰐也。是竪其鰭背而在橘之小戸、吾當與彼者共策。」

弟(おと)愁(うれ)へ吟(うめ)き海浜(うみへ)に在り、時に塩筒(しほつつ)の老翁(をぢ)に遇(あ)ひ、老翁(をぢ)問曰(とはさく)「何故(ゆゑ)に愁(うれ)ひ此(これ)に若(し)く乎(や)。」火折(ほをり)の尊対(むか)ひて曰はく、云々(しかじか)なりと。
老翁(おぢ)曰はく「復(また)憂(うれ)ふる勿(なかれ)、吾(あれ)これを計(はか)らむ。」
計(はか)らひ曰はく「海神(わたつみ)の乗りたまふ駿馬(ときうま)は、八尋(やひろ)の鰐(わに)也(なり)。是(これ)其の鰭(はた)の背(せ)竪(かた)くして[而]橘(たちばな)之(の)小戸(をど)に在り、吾(あれ)彼(か)の者(もの)与(と)共に策(はか)らむ。」

乃將火折尊、共往而見之。是時、鰐魚策之曰、
「吾者八日以後、方致天孫於海宮。
唯我王駿馬、一尋鰐魚、是當一日之內、必奉致焉。
故今我歸而使彼出來、宜乘彼入海。
入海之時、海中自有可怜小汀、隨其汀而進者、必至我王之宮。
宮門井上、當有湯津杜樹。宜就其樹上而居之。」
言訖卽入海去矣。

乃(すなは)ち火折(ほをり)の尊、共に往(ゆ)きて之(これ)を見(め)したまひき。是(この)時、鰐魚(わに)策(はか)りて曰はく、
「吾(あれ)は八日(やか)を以ち後(のち)、方(まさ)に天孫(あまつひこ)を海宮(わたつみのみや)に致(いた)しまつらむ。
唯(ただ)我(われ)は王(きみ)の駿馬(ときうま)なり、一尋(ひとひろ)の鰐魚(わに)、是(これ)一日(ひとひ)の内(うち)に、必(かならず)奉致(いたしまつ)らむ。
故(かれ)今我(われ)帰(かへ)りて彼(かれ)を出(い)で来(こ)使(し)め、宜(よろし)く彼(かれ)に乗り海(うみ)に入(い)らせたまへ。
海に入りし時、海中(わたなか)に自(おのづか)ら可怜(うまし)小汀(をはま)有り、其の汀(はま)に隨(したが)ひて進みまさば、必ず我が王(きみ)の宮(みや)に至りたまはむ。
宮(みや)の門(かど)の井(ゐ)の上、湯津(ゆつ)杜樹(かつら)有らむ。宜(よろし)くその樹の上に就(つ)きて之(ここ)に居(を)りたまへ。」
と言ひ訖(を)へ即ち海に入り去りぬ。

故、天孫隨鰐所言留居、相待已八日矣、久之方有一尋鰐來、因乘而入海、毎遵前鰐之教。

故(かれ)、天孫(あまつひこ)鰐(わに)の言ひしに隨(したが)ひ留(と)め居(を)り、相(あひ)待ち八日(やか)を已(を)へり、久(ひさ)し方に一尋(ひとひろ)の鰐(わに)来たり、因(より)乗らして海に入(い)らし、毎(ことごと)に前(さき)の鰐の教(をし)へに遵(なら)ひたまひき。

 塩筒老翁(しおづつのおじ)は困り果てていた火折尊に、海神(わたつみ)の愛馬である八尋(ひろ)の鰐に相談に行こうと言った。 そうやって会った八尋の鰐が言うには「8日待ってくれれば、海神の宮に天孫を送り届けよう。 ただ、自分は海神の愛馬であるから、代わりに一尋の鰐を寄越す。この鰐は一日以内で必ず海神の宮まで連れて行くことができる。 そして遣わした一尋の鰐が来たら、それに乗って海に入り、そのまま行くと海の中に美(うま)し小浜がある。そのまま浜を進めば必ず海神の宮に着く。 そしたら門前の井戸の上に斎(ゆつ)桂の木があるから、その木に登って待っておれ。」と言い終え、海に戻っていった。 果たして、8日間待ち、久しぶりに一尋の鰐がやって来たので、乗って海に入り、八尋の鰐に教えられた通りにした。

いたす(致す)…[他]サ行四段 到らせる。届かせる。
かど(門)…[名] 門(もん)。門の前。
ことごとに(事毎に)…[副] ことあるたびに。
…(古訓)したかふ。そふ。たふとふ。ならふ。

《我王駿馬》
 八尋の鰐は、海神を我が王と呼んでいる。海神は鰐を駿馬のようにして乗りこなしている。この自由な発想は、まことに楽しいものがある。 王を乗せ、海を高速で泳ぐ姿に似合うのは、鰐でなく鮫の方である。また、背びれがあるのも鮫である。
《駿馬》
(倭名類聚抄)駿馬 穆天子傳云駿【音俊漢語抄云土岐宇萬日本紀私記云須久禮太留宇萬】馬之美稱也
――『穆天子伝』云はく「駿」【音「俊」におなじ。『漢語抄』云はく「ときうま」『日本紀私記』云はく「すぐれたるうま」】馬の美称なり。
 疾しは「速度が速い」。『日本紀私記』は日本紀講筵(こうえん、日本書紀の訓を講義)のために学者が準備したメモ。 つまり、音は「しゅんめ」。訓は「ときうま(疾き馬)」。また平安時代の書紀訓読研究者の間では、「優れたる馬」と訓まれた。
《鰐》
 出雲神話では、「わに」はである。(第56回参照) 日本近海は鮫の生育域であるから、南九州の住民は鮫と受け取めたかも知れない。少なくとも橘の小戸にいたのは鮫である。
 ただ、釣針喪失譚がインドネシアなどにもあることを考慮すると、現地の鰐(クロコダイル科)が伝説上の動物として伝えられた可能性もある。 クロコダイルは、東南アジア一帯に広く生育している。「鰐"魚"」と表記されているが、倭名類聚抄では、鰐は龍魚類に入れられている。
(倭名類聚抄)鰐 和名和仁(わに)。四足有り、「甚利歯虎及大鹿渡水鰐撃之皆中断」(非常に鋭利な歯で川を渡る虎や大鹿を襲い、どれも体躯を断つ)
 つまり、クロコダイル科の動物は、平安時代には知識として正しく知られていた。しかし、一書4では「鰐」の字が使われていても、《我王駿馬》の項で述べたように「鮫」の可能性が濃厚である。
《橘之小戸》
 以前に、伊邪那伎命が禊をしたのが「橘小門」であった。(第42回参照) 記では筑紫の日向国とされているが、もともとは阿波の国かも知れないと論じた。 ただ、火遠理命の生誕の地は薩摩半島であるから、ここでは日向国を想定したものであろう。

まとめ
 海神がいる国は海底なのか、水平線の向こうなのか。先入観なしに読んでも、判断は難しい。 結局どちらともとれる余地を残し、聞き手の想像に任せるのが最善なのだろう。どちらにしても、現実世界から隔絶したところに行く訳だから、その移動は神秘的である。 編者がどこまで考えたかは分らないが、天皇の元に民衆の精神を統合することが古事記本来の目的であるから、少しでも民衆(特に子ども)が古事記から逃げて行かないようにしなければならなかった。 そのための書きっぷりは大切である。
 古事記が民衆向けであるのとは対照的に、日本書紀は官僚向けで、その編集と解釈を巡って政権中枢の内部で主導権争いがあったと見られることは、これまでに述べてきた。 一書1で海神の宮を描いた部分からも、それが伺われる。
 


[090]  上つ巻(山幸彦海幸彦3)