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⇒ [083] 上つ巻(天降り3) |
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2014.10.25(土) [084] ▼▲ |
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![]() 伊都能知和岐知和岐弖【自伊以下十字以音】 於天浮橋宇岐士摩理 蘇理多多斯弖【自宇以下十一字亦以音】 天降坐于竺紫日向之高千穗之久士布流多氣【自久以下六字以音】 故爾(しかるがゆゑに)、天津日子番能邇邇芸(あまつひこほのににぎ)の命(みこと)に詔(おほせごと)のたまひて[而]、天之石位(あまのいはくら)を離れ、天之(あまの)八重(やへ)多那(たな)【此(こ)の二(に)字(じ)音(こゑ)を以ちゐる。】雲を押し分けて[而] 伊都能(いつの)知和岐知和岐(ちわきちわき)弖(て)【「伊」自(よ)り[以]下(しもつかた)十(とをつ)の字(じ、な)音(こゑ)を以ちゐる。】 [於]天浮橋(あめのうきはし)に宇岐士摩理(うきじまり) 蘇理(そり)多多斯(たたし)弖(て)【「宇」自り[以]下十一(とをじあまりひとつ)の字亦(また)音を以ちゐる。】 [于]竺紫(ちくし)の日向(ひむか)之(の)高千穂(たかちほ)之(の)久士布流(くしふる)多気(たけ)【「久」自り[以]下六字音を以ちゐる。】に天降(あも)り坐(ましま)す。 故爾 天忍日命天津久米命二人 取負天之石靫 取佩頭椎之大刀 取持天之波士弓 手挾天之眞鹿兒矢 立御前而仕奉 故其天忍日命【此者大伴連等之祖】天津久米命【此者久米直等之祖也】 故爾(しかるがゆゑに)、天忍日命(あまのおしひのみこと)天津久米命(あまつくめのみこと)の二人(ふたり)、天之石靫(あめのいはゆき)を取り負(お)ひ、頭椎之大刀(くぶつちのたち)を取り佩(は)け、天之波士弓(あめのはじゆみ)を取り持ち、天之真鹿児矢(あめのまかごや)を手挟(たばさ)み、御前(みまへ)に立ちまつりて[而]仕(つか)へ奉(まつ)る。 故(かれ)、其の天忍日命、此者(こは)大伴(おほとも)の連(むらじ)等(ら)之(の)祖(おや)、天津久米命、此者(こは)久米(くめ)の直(あたひ)等(ら)之祖(おや)也(なり)。 於是詔之 此地者向韓國眞來通 笠紗之御前而 朝日之直刺國 夕日之日照國也 故此地甚吉地 詔而 於底津石根宮柱布斗斯理於高天原氷椽多迦斯理而坐也 於是(ここに)詔[之](のたまはく)「此の地(くに)者(は)韓国(からくに)に向(むか)ひて真(ま)来(き)通(かよ)ふ笠紗(かささ)之(の)御前(みさき)にて[而]、朝日(あさひ)之(の)直(ひた)刺(さ)す国、夕日(ゆふひ)之(の)日照(ひで)る国也(なり)。故(かれ)、此の地(くに)甚(いと)吉(よ)き地(ところ)そ。」と詔(のたま)ひて[而]、 [於]底津石根(そこついはね)に宮柱(みやはしら)布斗斯理(ふとしり)[於]高天原(たかまがはら)に氷椽(ひき)多迦斯理(たかしり)て[而]坐(ましま)す[也]。 そこで、天津日子番能邇邇芸命(あまつひこほのににぎのみこと)に命じ、天の磐座(いわくら)を離れ、天の八重の棚雲を押し分け、 御稜威(いつ)の道を拓き進み、 天の浮橋から進むと浮き島があり、 なだらかな丘にお立ちになり、 筑紫の日向国の高千穂の奇しふる岳に天降りされました。 そこで、天忍日命(あまのおしひのみこと)天津久米命(あまつくめのみこと)の二人(ふたり)は、天の石靫(いしゆき)を背負い、頭椎の大刀(くぶつちのたち)を帯び、天の櫨弓を持ち、天の真鹿児矢(まかごや)を挟み持ち、御前にお仕えしました。 ところで、この天忍日命、この神は大伴(おおとも)の連(むらじ)の先祖、天津久米命、この神は久米の直(あたい)の先祖です。 そこで邇邇芸命がおっしゃるには、「この国はからの国に向かい、往来するのに適した笠紗(かささ)の岬があり、 朝日が直接差し夕日が明るく照らす土地なので、この国はとてもよい土地であることよ。」とおっしゃり、 地の底に宮柱太く、天に千木の高い宮を建て、お住まいになりました。 いはくら(磐座、石位)…神の鎮座するところ。(万)1368 石倉之 小野従秋津尓 發渡 雲西裳在哉 いはくらの をのゆあきづに たちわたる くもにしもあれや。 たなくも(棚雲)…[名] 空いっぱいにたなびく雲。 たなくもる(棚雲る)…[自]ラ行四段 空が一面に曇る。(万)0188 旦覆 日之入去者 たなぐもり ひのいりゆけば。 いつ(厳、稜威)…[名詞] (上代語)神聖で厳粛なこと。 ちわく(道別く)…[他]カ行四段 勢いよく道を分け開いて進む。 うきはし(浮橋)…[名] 船や筏を浮かせ、その上に板を渡した仮設の橋。 しまる…[自]ラ行四段 かたく結ぶ。(記下巻歌謡) みこのしばがきやふじまりしまりもとほし
くしび-なり(奇しび、霊しび)…[形動] 霊妙な働きをする。 くしぶ(奇しぶ、霊しぶ)…[自]バ行上二 霊妙なはたらきをする。神秘的な力をもっている。 ゆき(靫)…[名] 矢を入れて背負う細長い箱状の用具。 くぶつちのたち(頭椎の太刀)…[名] 柄の先が槌のように丸い形をした古代の刀剣。 はじゆみ(櫨弓、黄櫨弓)…[名] ハゼノキで作った弓。 まかごゆみ(真鹿児弓)…[名] 鹿や猪など、大きな動物を射るのに用いる弓。 たばさむ(手挟む)…[他]マ行四段 手に挟んで持つ。脇に抱えて持つ。 あたひ(値)…[名] 上代の姓(かばね、氏族の格を示す称号)の一。 ま-(真)…[接] (体言、用言、副詞の上について)完全な。真実の。 くに(国)…[名] (万)0904 地祇 くにつかみ。 ただ(直)…[名・形動] まっすぐ(だ)。[副] 一直線に。すぐ。 ひた-(直)…[接頭] (体言の上について)まっすぐ。 【故爾】 万葉集では「爾」が、「に」の借音により大量に使われる。 「故」は「理由」という意味の名詞で、万葉集では「故に」という接続詞として使われることは少ないが、「故爾」は「ゆゑに」だと思われる。 【石位】 よみ方は、書紀の注記「天磐座、此云阿麻能以簸矩羅。」(あまのいはくら)に示されている。 「磐座」は全国各地にあり、古代に巨大な天然石を見た人々が、神が座すところとして信仰の対象にしたと思われる。 高天原にある磐座を想像し、その中に座した邇邇芸命(ににぎのみこと)が岩から離れ、地上への歩みをスタートしたのである。 【於天浮橋宇岐士摩理蘇理多多斯弖】 「うきしまる」「うきじまる」という動詞は辞書にないが、書紀を見ると漢字による表記は「浮渚在」なので、「浮島+在り」であることが分かる。上代には、母音が連続すると結合して発音される。 「浮島」は実際に水面を漂い、風で移動する島を指す場合と、通常の中州や島を比喩的に表す場合がある。 「そりたたして」については、辞書では「そり立つ」の意味は不明とされるが、少なくとも天孫が天空の川の浮橋を渡り中州に立ち、高千穂の峰を眼下に見下ろす姿を描いたのは明らかである。 ところが一書2・4では前後の関係が逆転し、天浮橋や中州は高千穂から下った後の地上の地形を表すことになっている。 それでも矛盾は起こらないが、高千穂から降りた後で中州に立つ理由が分からない。降りる前なら、降下地点を探す意味があった。 書紀本文では、文章の順序こそ高千穂の後ろだが、「既而皇孫遊行之状也者、則」つまり「高千穂に降りる前の皇孫の行動は以下の通りである」を挟むことにより、行動の順序を古事記に合わせている。 【そり立たす】 書紀では、本文・一書とも「そり」は無視され、代わりに「たひら」が入っている。漢字は「平処」「平地」が宛てられているので、地形のひとつを意味する。 「たひら」がつく地形と言えば、「日本平」が代表的である。日本平は、地層の撓曲によるなだらかな丘陵である。遠景にはゆるやかに湾曲して見えるので、「反る」とも言える。これが「平(たひら)」という地形だとすれば、 書紀の一書2・4の原文の作者は、記を「天の浮橋に浮島あり、反り、立たして」と読んだ可能性がある。そのように見える風景が、どこかにあったのかも知れない。 とは言っても、これはほぼ想像であるから根拠は乏しいが、 仮に「そり」という語から「ゆるやかに反る地形」を連想したとするなら、書紀の筆者は記の「蘇理」を「反り」とよんだことになる。
本文の注は、これを「立二於浮渚在平處一」と訓読している。 しかし、注のように「浮渚在」を「羽企爾磨梨」(うきじまり)とよむと「在り」が連用形となり、訓読が成り立たない。 これに対して一書4では「立於浮渚在之平地」と「之」を挟むことによって「在」が連体形であることを明示し、「羽企爾磨流」だと読み取れる。 ただ、文法的に正しくても「浮島の有る丘陵」では意味が通じない。 本文の注のように「浮島あり、たひらに立たして」とすれば皇孫は「浮島を経て丘陵に立つ」となり、漢文としては順序が変だが、意味は通る。 さらに、「うきじまり」を固有名詞だとする考え方もある。それなら「うきじまり平」も「うきじまり之平」も成り立つ。しかし「浮渚在」という字面からは、文に見える。 いずれにしても、書紀の注記者は、文法上の無理を承知の上で押し通したか、固有名詞だと解釈したかのどちらかである。 【移動経路とされる地名】 《(筑紫)日向(襲)》 筑紫は、筑紫島=九州を指す。日向国は、律令国が成立した以後は現在の宮崎県の地域で、記でも律令国の日向国であるが、もともとは火の国(肥前・肥後)と一体となった広い国で、政権に服従しない熊襲に向かう国という意味であったと思われる。 第42回で考察したように、「日向」は、「建日別にむかう」意味だった可能性がある。日向襲という表記も、それを裏付けている。
高千穂は、宮崎・鹿児島県境の高千穂峰とする説と、宮崎県西臼杵郡高千穂町の高千穂峡とする説がある。 高千穂峰は、霧島連邦に属し、そのうちの韓国岳(からくにだけ)に次ぐ高さで、成層火山である。 一方、高千穂峡は、 <wikipedia>古代においては、この臼杵群の高千穂町一帯を上高千穂と呼び、外輪山を含む阿蘇山全てを下高千穂と呼</wikipedia>んでいたとされる。 確かに、『倭名類聚抄』には、肥後国阿蘇郡に「知保」、日向国臼杵郡に「智保」がある。右図には、恐らくこの辺りであろうと考えられる位置を示した。 「高千穂」は、記紀以前に地名として存在した「ちほ」に美称「高」がつけられたと思われる。 《くしふるたけ(槵觸之峯)》 「くしふる」は、記紀に書かれたときには「奇しふ」(霊験あらたかであるなどの意)の連体形で、高千穂峰を修飾する。後に、神社や峰の名称として固有名詞に転じた。 《槵日二上峯》 書紀本文と一書2で言及される。 「くしひ」は「くしふ」の連用形が名詞化したもので、形容動詞「くしひ-なり」の語幹にもなる。 「二上峯」(ふたがみたけ)については、<みやざきの神話と伝承101>五ヶ瀬町と高千穂町の境に、二上山と呼ばれる信仰の山がある。標高1060mの山頂は男岳と女岳の2つの峰に分かれ、高千穂町から遠望する山容は、2つの峰がそびえ立って特に秀麗である<みやざきの神話と伝承>という。 《添山峯》 一書6では、二上峯の代わりに、添山峯(そほりのやまのたけ)となっている。 「そほり」については、大国主が伊怒比売との間に生んだ5神の中に、「曽富理神」(そほりのかみ)がいて(第70回)、朝鮮系の神ではないかと考えられているが、朝鮮半島との関わりは分らない。 また、神武天皇が東征の途上で船中で嵐に遭い、それを鎮めるために添利山(祖母山)に祈願したという伝承を見つけた。その出典を探った結果、 <加藤数功「祖母大崩山群」(昭和三十四年しんつくし山岳会発行)>「彼の山は我が祖母の神霊の在すところなり。希く神威顕現して、海苦を鎮め、皇孫の危難を救護せよ」と、茲に於て海波忽ち静まりたり、これより添利山を祖母岳と改称するに至れり</加藤数功> までたどり着いたが、その原典文書は今のところ見つけられずにいる。 《天降りした山が特定できない問題》 このように降臨の地としてさまざまな山が挙げられているのは、むしろこの地域の人々の間に実際に降臨伝説があったことを物語っている。 伝承が広がる中で、祖神が降りた山が、それぞれの地域の部族が毎日崇拝する山になるのは、自然の成り行きである。 《頓丘》 「ひた」の「尾(を、=尾根)」であろう。「ひた」は『倭名類聚抄』に日高郡があり、「比多」と訓がつけられている。日高郡は、<wikipedia>概ね現在の日田市全域にあたる</wikipedia>とされ、『倭名類聚抄』では海部郡に含まれるとされる「日田」も正しくは日高郡に属すると言われている。 《吾田長屋笠狭之御碕》 高千穂峯に降りた後、天孫は吾田長田の笠狭の御前(御碕)に移動した。 薩摩半島にはかつて「笠沙町」があったが、明治時代になってから記紀に因んで命名されたものである。 『倭名類聚抄』を見ると、「薩摩国」に「阿多郡阿多」の地名がある。 阿多郡は薩摩半島の南西部で、<鹿児島県上野原縄文の森>金峰町小中原(こなかばる)遺跡では「阿多」の刻書土器や、帯金具などが出土し、掘立柱建物跡も多く発見されていることから 阿多郡の郡役所の可能性も考えられている。</縄文の森> 隣接する河辺郡には坊津(ぼうのつ)があり、遣唐使船の寄港地であった。薩摩半島先端は海流の関係で大陸から来た船の船の到着地となり、坊津は鑑真の上陸地でもある。 海上交通の要地であったから、記には「向韓国真来通」(からくににむかひてまさにきかよふ)地と語られたのである。「からくに」は朝鮮半島に限らず、中国も指す。(【韓国】の項参照) 春秋戦国時代には百越人がこの地域に渡来したと思われる。あま族の上陸地点としても、妥当性がある。そして上陸して最初に国を拓いた場所が、民族の記憶に長く留められたと思われる。 飛鳥時代になってもなお、「最初の国は、今の阿多のところにあったのだよ。」と言い伝えられ、それが記紀の材料となったわけである。 《竹嶋》 現在、薩摩半島周辺に「竹島」は南方に1つ(鹿児島郡三島村)、天草諸島近辺に3つある。しかし、『倭名類聚抄』には全く記載がなく確かなことは分らない。 【降臨伝説が「ちほ」地域に伝わる理由】 薩摩半島に上陸後、あま族は東へ移動して畿内に中心地を築く。それが神話化して神武天皇の東征になった。日本海側を占めていた古代出雲を征服するのは、実際にはその後のことであるが、神話では順序が逆転している。 ところが、鹿児島地域は古墳時代から飛鳥時代までの期間は「熊襲」が占拠していた。大和政権は、何度もその征伐を試みた。 上陸直後は薩摩半島に居住していたあま族は、新たにこの地を占めた熊襲に押し出される形で、阿蘇・臼杵方面に移動したものと想像される。だから、最初の国を阿田に築いたという話も残り、同時に降臨の地は移動先のそれぞれの地域で信仰された山となった。 熊襲が出現した可能性について、①先住民、②あま族の後に新たに渡来した民族、③あま族の一部が反対勢力に転じた、の3つが考えられるが、そのうちどれなのかは不明である。
朝鮮半島の南部にも神が天降りした神話があると言われるので、調べてみると、高橋俊隆氏など複数のWebページが見つかった。 それによると、『三国遺事』(さんごくいじ)の巻二に、駕洛国の建国神話があるという。 内容は、天降りした六個の卵からそれぞれ男の子が生まれ、伽耶六部族国家の長となった。後にこれらの部族国家を中心に、一番最初に殻を破って出てきた金首露の下に統合されて伽耶国が建国された。 この『三国遺事』という書は、<wikipedia>1280年前後に高麗の高僧一然(1206-1289)によって書かれ、最古の正史である『三国史記』(1145年完成)からこぼれた話を拾い集めた</wikipedia>ものという。 古墳時代の倭国と朝鮮半島南部との関わりを見ると、好太王碑には、4世紀末から高句麗の好太王が半島南部で倭と戦った記録がある。 また、5世紀後半から6世紀半ばの間に作られた前方後円墳が、当時の任那地域の西部や半島の南端部に存在する。 書紀に書かれた「任那日本府」(巻第19、欽明天皇)の実態については議論があるが、少なくとも前方後円墳が造られた時期に、倭の一定の勢力がこの地域に進出していたことは確かである。 これを『三国遺事』が書かれた時代と合わせて考えると、駕洛国の降臨神話が倭国の神話と関係があるとすれば、古墳時代に倭の氏族が持ち込んだ降臨神話に由来すると思われる。 【接頭語「取り」】 反復することによって、声に出して読んだときの心地よさがある。以前考察したように、記には民衆向けに声で聞かせる性格がある。 【天之波士弓・天之真鹿児矢】 かつて、高御産巣日神が天若日子を地上に派遣するときに、天之麻迦古弓(まかごゆみ)と天之波波矢(ははや)を持たせた。(第72回) 【天之石靫】 岩戸山古墳(福岡県八女市)から、石人・石馬とともに石靫が出土している。これらは、<wikipedia>5~6世紀の福岡県・大分県・熊本県を中心に見られ、埴輪を石にうつしたものと考えられている。</wikipedia> その後古墳が崩れたりして発見した人々が、神代に神が背負っていたものだと想像した可能性がある。
「~之祖」は、割注として書かれているが(右図=真福寺本)、文としては「故其」から始まる本文から繋がっている。 このように解釈しなければ、天忍日命・天津久米命が「詔」の主語だという、おかしなことになる。「詔」は尊敬語だから、この言葉の主はもちろん邇邇芸命である。 「故」は、ここでは話題を転ずる機能をもつ接続詞で、「ところで」に相当する。 《天忍日命・天津久米命》 天孫の天降りには、五部(いつとものを)の神など様々な神が随伴するが、さらにこの二神も天降りを援ける。これもまた、奈良時代の朝廷を支える氏族からの売込みであろう。 【高千穂から笠紗の岬までの道】 高千穂に降りてから笠紗の岬に至る経路については、記は何も語らないが、書紀では日田から痩せた土地を嫌って移動し、阿多に至ったことを補っている。 書紀には、天孫の天降りという重大な事柄を、より具体的に描くことによって権威を高めたいとする意図が感じられる。 【於底津石根宮柱布斗斯理於高天原氷椽多迦斯理】 大国主に与えた大宮殿と同じ表現であるが、古墳時代から奈良時代の間の大規模建造物の遺跡が南九州で発掘されたという話は、今のところ聞いたことがない。 大国主に与えた宮殿を「天孫の住処に匹敵するもの(第79回参照)」としたことに辻褄を合わせるために、天孫の瓊瓊杵尊のために同規模の神殿を築いたことにしたと思われる。 なお、書紀では、吾田の大宮殿の存在には全く触れられていない。書紀の本文では、大国主に大神殿を与えたこと自体がなかったから、ここで辻褄合わせする必要はないからである。 【「詔」の重複】 瓊瓊杵が国を作るのに適した地だと語る会話文は、2つの「詔」で挟まれている。後ろの「詔」を明示するのは、記では珍しい。 この段の最初の「詔天津日子番能邇邇芸命」の「詔」が会話文を伴わないので、「今度は会話文付きである」ことを明確に示すためだと思われる。 【韓国】 「から(唐、韓、漢)」は「狗邪(くや)韓国」の「くや」が音韻変化した「駕洛」(から)が語源である。やがて、朝鮮半島から中国(唐=から)、さらに中世以降は広く海外を指すようになった。「韓国」の字を宛てたとしても、中国を指す場合がある。 朝鮮半島への窓口は北部九州で、薩摩半島は長江下流域への窓口なので、ここの「韓国」は中国をさすことになる。 【朝日之直刺国 夕日之日照国】 「朝日」「日照」の用例が、記の下巻にある。 (記・下巻―大長谷若建命(雄略天皇)の段の歌謡) 阿佐比能比傳流美夜 あさひのひでるみや(朝日の日照る宮) 「直」の訓は、万葉集に「ただ」、「ただに」(直、直爾)、「ひた」がある。 (万)0550 直相左右二 ただにあふまでに。 (万)0710 直一目 ただひとめ。 (万)0892 直土尓 藁解敷而 父母波 枕乃可多尓 ひたつちに わらときしきて ちちははは まくらのかたに。 (万)0169 茜刺 日者雖照有 あかねさす ひはてらせれど。 《その土地は、どこが優れているか》 逆に朝夕に陽が当たらない土地は、山間部である。だから、一般的に海に面する土地を意味する。 また、薩摩半島の先端は、太平洋側における大陸との海上交通の拠点だから、阿蘇方面に定住していた人々が南方に進出し、敵対勢力に占拠されていた薩摩半島を奪回した歴史を反映しているのかも知れない。 【書紀本文】
皇孫乃(すなは)ち天磐座(あまのいはくら)を離(はな)れ、【「天磐座」、此(これ)阿麻能以簸矩羅(あまのいはくら)と云ふ。】 且(また)天(あま)の八重雲(やへたなくも)を排(お)し分け、稜威之(みいつの)道別道別(ちわきちわ)きて[而]、日向襲(ひむかのそ)之(の)高千穂(たかちほ)の峯(たけ)に[於]天降(あも)りき[矣]。 既而(すでにして)皇孫(すめみま)遊行之(ゆきあそば)す状(かたち)[也(なる)]者(は)、 則(すなは)ち槵日(くしひ)二上(ふたかみ)の天浮橋(あめのうきはし)自(よ)り[於]浮渚在(うきじまり)平処(たひら)に立たし【「立於浮渚在平処」、此(こ)は羽企爾磨梨陀毗邏而陀陀志(うきじまりたひらにたたし)と云ふ。】而(て)、 膂宍之空国(そししのむなくに)、頓丘(ひたを)自(よ)り国覓(ま)ぎ行去(とほる)。 【「頓丘」、此は毗陀烏(ひたを)と云ふ。「覓国」、此は矩貳磨儀(くにまぎ)と云ふ。「行去」、此は騰褒屢(とほる)と云ふ。】 [於]吾田(あた)の長屋(ながや)の笠狭(かささ)之(の)碕(さき)に到(いた)りき[矣]。 其の地に一人(ひとりのひと)有り、自(みづか)ら事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)と號(なの)りき。 皇孫(すめみま)問(と)ひて曰(のたまはく)「国在耶以不(くにありや、もちてあらずや)。」とのたたまひて、対曰(こたへまをさく)「此(こ)の有りし国を焉(を)へ、請(ねが)はくは、任意(ほしきまにま)に[之]遊(あそば)したまへ。」とまをして、故(かれ)皇孫(すめみま)就(つ)きて[而]留(とど)まり住(す)みたまふ。
高皇産霊(たかみむすひ)の尊は、皇孫を真床覆衾(まとこおふふすま=神聖な寝具)でくるみ、天降りさせました。 皇孫は天の磐座(いわくら)を離れ、天の八重雲を推し開き、御稜威をもち道を開き、日向国の高千穂岳に天降りしました。 それまでに皇孫が行き遊ばした経過は、奇しき二上山の天の浮橋から浮島を経て丘陵に立たれたことでした。[そして高千穂に天降りしました] そして、膂宍の空国(そししのむなくに=痩せた土地)を頓(ひた=地名)の尾根から国を求めて進みました。 そして、吾田(あた)の長屋(ながや)の笠狭(かささ)の岬にに到着しました。 その地には一人の人が居て、自分を事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)と名乗りました。 皇孫は「この国を放棄する気はあるか」と問い、対して「私の国はこれで終えます。これからはあなたの意のままになさってください。」と答えました。 よって、皇孫はその地に定住しました。 《真床覆衾》 「床」も「ふすま(掛け布団)」も前後の文と無関係に現れるので、皇位に就かせるために定められた儀式を指すと考えられる。 《既而》 「既」は、万葉仮名「け」の他に「すでに」がある。(万)2986 既心齒 すでにこころは。 「而」は、助詞「て」が大多数であるが、「にて」や「に」もある。 (万)0213 灰而座者 はひにてませば。(万)1996 水左閇而照 みづさへにてる。(万)2002 然叙年而在 しかぞとしにある。 以上から、「既而」は「すでに」が妥当である。 《既而皇孫遊行之状也者》(すでにすめみまのゆきあそばししかたちは) 「既に」はここでは「以前にそうなってしまった」を意味する。「遊ばす」は動作主を尊敬する。「かたち」は、いきさつ。 「也」は万葉集ではほとんど「や」であるが、置き字の場合もある。 (万)0052 高知也 天之御蔭 たかしるや あめのみかげ。 (万)0217 朝露乃如也 夕霧乃如也 あさつゆのごと ゆふぎりのごと。(置き字の例) 仮にここの「也者」が「やは」だとすると、係助詞となり全体が疑問、または反語になる。ところが、続く「則(すなは)ち」以下は確定的な文であり、疑問・反語ではない。 ここでは文末に置き「なり」と訓読する「也」であろう。だから、置き字とするか、「…状なるは」である。 以上から訳は、「高千穂に降る前に、皇孫が行いあそばした様子は」である。 《「爾」の音》 「爾」の音読みは、万葉集では「に」であり「じ」は見つからない。「に」は呉音、「じ」は漢音である。 書紀の神代はβ群とされるから、呉音とされている。しかし、ここでは「羽企爾磨梨」は古事記を照合すると明らかに「うきじまり」だから、注は本文が書かれた後、改めて別人が漢音によって書き加えたことになる。 ※ 日本書紀のうち、純正の漢語による巻はα群、倭習(倭独自の表現を含む)を含む巻はβ群とされている。 《「まぐ」と「もとむ」》 どちらも、「求める」意。万葉集に「もとむ」((万)1166 覓乍 もとめつつ。)がある。書紀の注では「まぐ」となっている。 《自号》 なのる(名告る)…自分の名前を相手に告げる。 (万)1726 海未通女等 汝名告左祢 あまをとめども ながなのらさね。(あま乙女ら、お前の名を名乗ってほしい) 《任意》 (万)0412 君之随意 きみがまにまに。 【一書1】
(猿田彦)対(こた)へ曰(まをさ)く「天神之子(あまつかみのみこ)、則(すなは)ち[当]到筑紫(ちくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)の槵觸(くしふる)[之]峯(たけ)。…」 〔中略〕 皇孫(すまみま)、於是(ここに)、天磐座を脱(ぬ)け離れ、天(あま)の八重(やへたな)雲を排(お)し分け、稜威(みいつ)の道別道別(ちわきちわ)きて[而]、[之]天降(あも)りき[也]。 先(さき)に期(ちぎ)りし如(ごと)く果(は)たして、皇孫、則(すなは)ち筑紫(ちくし)の日向(ひむか)の高千穂の槵触之峯(くしふるたけ)に到りき。
【一書2】
膂宍胸副国(そししのむなくに)を、頓丘(ひたを)自(よ)り国覓(ま)ぎて行去(とほ)り、[於]浮渚在(うきしまり)平地(たひら)に立たし、 乃(すなは)ち国主(くにのぬし)事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)を召(め)して[而][之に]訪(たづ)ねたまひき。対(こた)へて(まを)さく「是(ここ)に国有れど[也]、取り捨(う)てて勅(みことのり)に隨(したが)はむ。」とまをす。 【一書4】
則(すなは)ち天(あま)の磐戸(いはくら)を引き開(あ)け、天(あま)の八重(やへたな)雲を排(お)し分け、以ちて奉降之(おろしまつる)。 于時(ときに)、大伴連(おほとものむらじ)の遠祖(とほつおや)天忍日(あめのおしひ)の命(みこと)、来目部(くめべ)の遠祖(とほつおや)天槵津大来目(あめくしつのおほくめ)を帥(ひき)ゐて、 背(そびら)に天磐靫(あまのいはゆき)を負(お)ひ、臂(ただむき)に稜威(いつ)の高鞆(たかとも)を著(つ)け、手に天梔弓(あまのはじゆみ)天羽羽矢(あまのははや)を捉(と)り、及(また)八目(やつめ)の鳴鏑(かぶら)を副(そ)へ持ち、 又(また)頭槌剣(くぶつちのつるぎ)を帯(は)きて[而]、天孫(あまつみま)之(の)前(みまへ)に立ちまつりき。 遊行(ゆきあそば)し降(お)り来(き)て、日向襲(ひむかのそ)之(の)高千穂の槵日(くしひ)二上(ふたがみ)峯(たけ)の天(あま)の浮橋(うきはし)に[於]到(いた)らして[而]、 [於]浮渚在之(うきじまる)平地(たひら)に立たし、膂宍空国(そししのむなくに)を、頓丘(ひたを)自(よ)り国覓(ま)ぎ行去(とほ)り、[於]吾田長屋の笠狭(かささ)之(の)御碕(みさき)に到らせたまひき。 時に彼処(そこ)に一(ひと)はしらの神有り、名は事勝勝長狹(ことかつくにかつながさ)と曰(い)ふ、故(かれ)天孫(あまつひこ)其の神に問ひて曰(のたま)はく「国在(くにありや)。」とのたまひ、 対(こた)へて曰(まを)さく「在(ありまつる)[也]。」とまをして、因(よ)りて曰(まを)さく「勅(みことのり)に隨(まつろ)ひ奉(たてまつ)る[矣]。」とまをす。故(かれ)天孫[於]彼処(ここ)に留(とど)まり住みたまひき。 其(そ)の事勝国勝(ことかつくにかつ)の神者(は)、是(これ)伊弉諾尊(いざなぎのみこと)之(の)子(みこ)也(なり)、亦(また)の名は塩土老翁(しほつちのをぢ)。
塩椎神(しほつちのかみ、記の表現)は、海幸彦・山幸彦の話に登場し、弟の火遠理(ほをり、山幸彦)が兄から借りた釣針をなくしたのを許してもらえず、悲しんでいるときに知恵を授けた。 【一書6】(抜粋)
――吾田の笠狭(かささ)之御碕(みさき)に[于]到りて、遂(つひ)に長屋(ながや)之(の)竹嶋(たけしま)に登りたまひき。 乃(すなは)ち其の地を巡(めぐ)り覽(め)せ者(ば)、彼(かの)人(ひと)有り[焉]、名のりて曰はく事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)といふ。天孫(あまつみま)因(よ)りて[之に]問ひて曰(のたま)はく「此(こ)は誰(た)が国歟(か)。」とのたまひき。 対(こた)へ曰(まを)さく「是(ここ)は長狭(ながさ)の住みし[之]所の国也(なり)。然(しかれども)今乃(すなは)ち天孫(あまつひこ)に奉上(たてまつ)る[矣]。」とまをしき。 〔それでは、今すぐにこの国を差し上げましょう〕 ――添山、此(こ)を「曽褒里能耶麻(そほりのやま)」と云ふ。
生(あ)れましし児(みこ)、天照国照彦火明(あまてるくにてるひこほあかり)の命、是(これ)尾張(をはり)の連(むらじ)等(ら)の遠祖(とほつおや)也(なり)、次に天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵(あまつにぎしくににぎしあまつひこほのににぎ)の尊と号(なづ)く。 此の神、大山祇(おほやまつみ)の神の女子(むすめ)木花開耶姫(このはなさくやひめ)の命を娶(めあは)し、妃と為(し)たまひて[而]、 生(あ)れましし児(みこ)、火酢芹(ほすせり)の命、次に彦火火出見(ひこほほでみ)の尊と号(なづ)く。 《尊・命》 書紀一巻の注に「至貴曰尊、自餘曰命、並訓美舉等也。下皆效此。」 たふときにいたり尊といひ、あまりより命といひ、なべてみこととよむ。したみなこにならふ。 (貴い神は「尊」、その他は「命」。両方とも「みこと」と訓む。下皆これにならう。) とある。ここでは、日嗣の系列に属する神を「尊」としている。 まとめ ――皇祖・高皇産霊 書紀では、真床覆衾という特別の儀式を行って天降りを主導したのは高皇産霊尊である。高皇産霊は、瓊瓊杵尊が生まれたときから「皇祖高皇産靈尊、特鍾憐愛、以崇養」(すめおやたかみむすひのみこと、ことにしくうるはしむをもちたかくやしなふ)(第71回、第81回参照)として、高皇産霊こそが皇祖=日嗣の泉源であり、 瓊瓊杵を特別に慈しんで育てた。記では天武天皇が天照を特別に崇拝したことを反映して天照が天降りを主導したが、書紀は高皇産霊を皇祖として確定するために、名前の表記を高御産巣日から高皇産霊に変え、天照は傍の存在になった。瓊瓊杵は天照の孫であるが、同時に高皇産霊の孫でもあるから、書紀でいう「天孫」は事実上「高皇産霊の孫」である。 前回述べたように、朝廷内の反伊勢神宮派による巻き返しの結果かも知れない。 ――渡来民族として 国生み神話や、次の段の山幸彦・海幸彦神話において、南方の民族の神話との共通点が指摘されている。 それでは降臨神話も南方由来かも知れないと思って探してみたが、今のところ見つからない。わが国以外で唯一見つかったのは朝鮮半島南部の降臨神話だが、どうも倭国の神話が元になったらしい。 従って、降臨神話はもともと阿蘇地域の先住民のもので、この住民は上陸してきたあま族と融合した可能性もある。 以下は完全な想像であるが、ある時、阿蘇山の大規模噴火があり、火山灰によって村落はほぼ全滅したが、そこで生まれた子がその地の王となったので、灰と共に天から降臨したという神話はどうだろうか。そう考えると、阿蘇山は巨大な磐座であり、その噴煙が八重の棚雲であると言えないこともない。 渡来民族の話に戻すと、薩摩半島に達する前、島伝いにやってきたことを僅かに示しているのが、一書6の「竹嶋」である。この地域には、「天草」とか「奄美」とか「甑島」など「あま」や「こし」の経由地を暗示する島名が目立つ。 ――上陸地の奪還? 【朝日之直刺国 夕日之日照国】の項で述べたように、吾田長屋の笠狭岬へは山岳地帯から移動してきた可能性がある。 祖先の上陸地は、長らく熊襲に奪われていた。後に朝廷軍がやってきて阿蘇から南進し、取り返した。その地に改めて国を開いたことが、降臨神話の一部になったという筋書きもあるかも知れない。 |
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2014.10.31(金) [085] 上つ巻(天降り5) ▼▲ |
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![]() 此立御前 所仕奉猨田毘古大神者 專所顯申之汝送奉 亦其神御名者汝負仕奉 是以猨女君等 負其猨田毘古之男神名而 女呼猨女君之事是也 故爾(しかるがゆゑに)天宇受売(あめのうずめ)の命(みこと)に詔(のたまはく) 「此(これ)御前(みまへ)に立ち猿田毘古(さるたひこ)の大神(おほみかみ)に仕(つか)へ奉(まつ)る[所]者(は)、専(もはら)顕(あらは)し申(まを)しし[所][之]汝(な)が送(おく)り奉(まつ)れ。亦(また)其(そ)の神の御名(みな)を者(ば)汝(な)が負(お)ひ仕(つか)へ奉(まつ)れ。」とのたまひき。 是以(これをもちて)、猿女君(さるめのきみ)等(ら)、其の猿田毘古(さるたひこ)之(の)男神(をのかみ)の名を負(お)はして[而]、女(をみな)を猿女君(さるめのきみ)と呼(よ)びし[之]事(こと)是(これ)也(なり)。 故其猨田毘古神 坐阿邪訶【此三字以音地名】時爲漁而 於比良夫貝【自比至夫以音】其手見咋合而沈溺海鹽 故其沈居底之時名謂底度久御魂【度久二字以音】 其海水之都夫多都時名謂都夫多都御魂【自都下四字以音】 其阿和佐久時名謂阿和佐久御魂【自阿至久以音】 故(かれ)其(そ)の猿田毘古(さるたひこ)の神、阿邪訶(あざか)【此の三字(みじ)音(こゑ)を以ちゐて、地名(ところのな)】に坐(ま)す時に為漁(すなど)りて[而]、 [於]比良夫(ひらふ)貝【「比」自(よ)り「夫」至(ま)で音を以ちゐる。】に其の手を見咋合(くひあはせ)えて[而]海塩(うしほ)に沈み溺(おぼ)ほる。 故(かれ)其の底に沈み居(を)りし[之]時、名(なづけ)て底度久御魂(そこどくのみたま)【「度久」二字(ふたつのじ、ふたな)音(こゑ)を以ちゐる。】と謂(い)ひ、 其の海水(うみのみづ)之(の)都夫多都(つぶたつ)時、名(なづけ)て都夫多都御魂(つぶたつのみたま)【「都」自(よ)り下に四字(よつのじ、よな)音を以ちゐる。】と謂ひ、 其の阿和佐久(あわさく)時、名(なづけ)て阿和佐久御魂(あわさくみたま)【「阿」自(よ)り「久」に至り音を以ちゐる。】と謂う。 於是送猨田毘古神而還到 乃悉追聚鰭廣物鰭狹物以問言 汝者天神御子仕奉耶 之時 諸魚皆仕奉白之中 海鼠不白 爾天宇受賣命 謂海鼠云 此口乎不答之口 而 以紐小刀拆其口 故於今海鼠口拆也 是以御世嶋之速贄獻之時 給猨女君等也 於是(ここに)、猿田毘古(さるたひこ)の神を送りて[而]還到(かへりた)り、乃(すはは)ち悉(ことごと)鰭広物(はたのひろもの)鰭狭物(はたのせばもの)を追ひ聚(あつ)め以(も)ち問ひ言(のたまひしく)「汝(いまし)者(は)天神(あまつかみ)の御子(みこ)にや仕(つか)へ奉(まつ)る耶(か)。」とのまひし[之]時、 諸魚(もろを)皆(みな)仕(つか)へ奉(まつ)ると白(まを)す[之]中(なか)、海鼠(こ)の不白(まをさざ)りき。 爾(ここに)天宇受売(あまのうずめ)の命(みこと)、海鼠(こ)に謂(い)ひて云はく「此の口(くち)乎(や)不答(こたへざる)[之]口なり。」といひて[而] 紐小刀(ひもがたな)を以(も)ち其の口を拆(さ)きき。故(かれ)、[於]今に海鼠(こ)の口拆(さ)くるなり[也]。 是(これ)を以(も)ちて御世(みよ)の嶋(しま)之(の)速贄(はやにへ)を獻(まつ)る[之]時、猿女(さるめ)の君(きみ)等(ら)に給(たま)はる[也]。 故に天宇受売命(あめのうずめのみこと)に仰るには、 「猿田彦大神(さるたひこおおみかみ)の御前にお祀りする社に向かうにあたっては、専ら猿田彦大神を出現させたあなたが、送って差し上げなさい。またその神の御名を、あなたが受けて差し上げなさい。」と仰いました。 よって猿女君(さるめのきみ)の人々は、男神、猿田彦神の名を負いました。女に猿女君と呼ぶのは、女に「君」をつけて呼ぶことの初めです。 そして、その猿田彦の神は、阿邪訶(あざか、地名)に滞在された時に漁をし、 比良夫(ひらふ)貝(或いは、拾っていた貝?)にその手を挟まれて潮(うしお)に沈み溺れました。 そして、底に沈んでいた時、現れた御魂の名を底度久御魂(そこどくみたま)と言い、 その海水の粒が飛び散った時、現れた御魂の名を都夫多都御魂(つぶたつみたま)と言い、 その泡が弾けた時、現れた御魂の名を阿和佐久御魂(あわさくみたま)と言います。 このようにして、猿田彦の神を送り帰ってきた後、鰭の広い魚、鰭の狭い魚たちを追い集め、「お前たちは天つ神の御子にお仕え申し上げるか。」と尋ねた時、 魚たち皆がお仕えしますと申し上げる中、海鼠(なまこ)は申し上げませんでした。 そこで天宇受売命(あまのうずめのみこと)は、海鼠に「この口か、答えぬ口は。」と仰って、紐小刀(ひもがたな)でその口を裂いたために、今でも海鼠の口は裂けているのです。 これを以って、代々、島々から速贄(はやにえ、初物の漁獲物)を献上する時は、猿女の君の人々に(献上を)任せられました。 あらはす(顕す)…[他]サ行四段 目の前に示す。(万)3808 顯者如何 あらはさばいかに。 まをす(申す、白す…[他]サ行四段 (上代語)①「言う」の謙譲語。②謙譲の意を添える補助動詞。(万)0199 申賜者 まをしたまへば。(万)1743 獨去兒尓 屋戸借申尾 ひとりゆくこに やどかさましを。(「まをし→まし」の借訓) を-ば…[格助-格助] 動作・作用の対象を取り立てて示す。 すなどる(漁る)…[他]ラ行四段 漁をする。(万)0625 吾漁有 わがすなどれる。 見…[助動] 続く動詞句を目的語として、所相(受け身)にする。~られる。 くひあはす(食ひ合はす)…[他]サ行下二 ①歯を噛みあわせる。②一緒に食べると害になるとされる食物を同時に食べる。 うしほ(潮)…[名] ①潮の干満によって起こる海流。②海水。③食塩。 しほ(塩)…[名] 食塩。 しほ(潮)…[名] 海水。干満。 ひれ(鰭)…[名] 魚のひれ。 はた(鰭)…[名] 魚のひれ。 さし(狭し)…[形] 狭い。(万)0892 安我多米波 狭也奈里奴流 あがためは さくやなりぬる。(吾が為は狭くや成りぬる=私にとっては狭くなったか) もろ-(諸)…[接頭] 体言の上について、①2つそろっている。②いっしょの。③多くの。 こ(海鼠)…[名] なまこ。(倭名類聚抄)「和名 古(こ)」。 くち(口)…[名] (万)0478 口抑駐 くちおさへとめ。 ひもがたな(紐刀、紐小刀)…[名] 懐剣の一種。刀身が抜きでないように柄・鞘を紐で巻いた小刀。 (倭名類聚抄)大刀【和名太知】小刀【和名加太奈】(大刀=たち、小刀=かたな) あへ(饗)…[名] 酒食でもてなすこと。(万)3880 父尓獻都也 身女兒乃(※) ちちにあへ(異訓:まつり)つや みめこのとじ。※屓、尼、[上が刀、下が自の字]など。 まつる(奉る)…[他]ラ行四段 差し上げる。(「与ふ」の謙譲語) はやにへ(速贄)…[名] 初物の供え物。 【立御前、所仕奉猿田毘古大神】 この部分の意味は、「天宇受売命が猿田彦に仕え奉る」ではなく、その地で猿田彦が大神として祀られるという意味である。 そう考えられる理由は、この部分が住吉大社に盛大に祀られる「三柱神者、墨江之三前大神」(第43回)と同じ表現だからである。 「御前+大神」の表現は、記紀執筆時(飛鳥時代)に実際に存在した社について述べたものだと思われる。 【専所顕申之汝送奉】 「猿田彦を大神として祀る宮まで送るのは、専ら、猿田彦を登場させたお前の役目である。」という意味。 一書1を参照すると(第82回)、同じことをより解りやすく「発顕我者汝也。故汝可以送我而致之矣。」 (私(=猿田彦)を出現させたのはあなたなのです。だからあなたが私を五十鈴川の川上まで送るべきです。) と書いている。 【負其猿田毘古之男神名而女呼猿女君】 この文は、要するに「男神に対する呼称であるところの「君」を女につけることの始まりである。」という意味である。 一書1には、同じ内容が「猿女君等男女、皆呼為君、此其縁也」 (猿女の君など、男女とも「君」と呼ぶようになったのは、これがその由来である。) と書かれ、より明瞭である。 これがわざわざ書かれるということは、女なのになぜ「君」なのかという疑問が当時の人にもあったわけである。 「きみ」は、もともと君主や主君を意味し、また名前の下に「~のきみ」をつけて尊称とする。古代の天皇は、諸族の「きみ」の上に立つ「きみ」であるから「おほきみ」と呼ばれた。 また「きみ」は、遊女の敬称としても使われた。これは、おそらく洒落であろう。歌・踊りを奉って仕えた女性の一団を「~のきみ」と呼んだのも、同じような感覚だったと思われる。
<wikipedia>『延喜式神名帳』伊勢国壹志郡に「阿射加神社三座」とあり、現在では三重県松阪市小阿坂町の阿射加神社と大阿坂町の同名神社</wikipedia>がある。 倭名類聚抄の「伊勢國」に「壹志【伊知之】」(いちし)があるが、壹志郡の項に「あざか」は載っていないので、郷ではなく山または社の名前であろうか。 「三座」が記の3柱の「御魂」に対応することは明らかなので、現在残る二社の他にもう一社があったか、あるいは元々は一社に三神が祀られていたのだろう。 水底、水滴、水泡からそれぞれ御魂が生ずるという話は、伊邪那岐が禊して水中で3神を生じた話(第43回)と類似している。 漁労族由来の氏族が三神を祀るのは、宗像三女神(第47回)、住吉三神・海神三神(第43回)と共通性がある。 ルーツを共有しているのかも知れない。 【比良夫貝】 「ひらふ貝」とはいかなる貝であろうか。まず、頼りの『倭名類聚抄』を見ても載っていない。また、万葉集にも一例も出てこない。Webで検索をかけても、記の引用以外は一件もヒットしない。 ことによると「ひらふ貝」は種の名ではなく、「拾ふ貝」なのかも知れない。動詞「ひらう」を載せる辞書もある。 動詞だとすると助動詞を伴わず、単独の連体形である。従って完了でも意思でもなく、「拾っているところの」という意味になる。 本来なら「所拾之貝」と書かれるべきところであるが、万葉仮名で表記されているので、記の編者は伝統的な発音にこだわったか、種名だと判断したかのどちらかである。 《国語辞典における扱い》 広辞苑…「比良夫貝」の項目があり、「古事記にあるが不詳」とする。動詞「ひらう」は収録されない。 角川国語中辞典・大辞泉…「比良夫貝」は収録なし。動詞「ひらう」は収録され、文例付き。:ひらう【拾う】→ひろう。「筒落米(つつおちめ)―・ひしことを別れたかと」[浮世草子・子息気質] 《本居宣長の説》 宣長は、貝の正体は不明だが、日本書紀に人名「比良夫」があるので「比良夫貝」は実在し、倭名類聚抄を作成したときにはもう名前が変わっていたと推定する。 そこで書紀を確認すると、巻二十一(用明天皇~崇峻天皇)に巨勢臣比良夫、巻第二十四(皇極天皇)に阿曇山背連比良夫の名がある。 《記では貝の種名》 人名が存在したことを考慮すると、次のように想像される。 もともと、猿田毘古が溺れた一節は、阿邪訶の地の伝承を挿入したものである。 伝承の蒐集者は、現地の語り手が「ひらふ貝」と語ったとき、「比良夫」という人名を連想し「比良夫貝」は種名だと聞き取った。 その結果、記には架空の種名「比良夫貝」が出現したのである。割注が「貝」の後ろに書かれているのも、「比良夫貝」が一つの単語であることを示している。 しかし、もともとの伝承では「拾う貝」だったと思われる。 現在でもなお、松坂弁講座のページに「ひらう」が載っており、意味は「拾う」で「ひろうの古い形」と書いてある。つまり、松坂地方で地面の物を手に取る動作は、古代から現代まで「ひらふ(う)」であった。 【見】 万葉集には「見」は大量にあるが、ほとんどが「み」と読まれる(借訓を含む)。例外は、尊敬語「御見=めす」、「(万)1582 希将見 めづらしき。」など。※ しかし受け身の助動詞(る・らる)は、一例もない。 一方記には、「る・らる」として使われる場合があり、例えば因幡の白兎(第56回)で、 「其身皮悉風見吹拆」(そのみのかはみなかぜにふきさかれ) 、「見欺而列伏之時」(あざむかれてならびふししとき)がある。 「被」にも同じ機能があるが、記では中・下巻に限られる。 ※「(万)1749 雖不見在 あらねども(異訓:あらずとも、みなとまて)」は異例である。 【「海塩」の訓】 ここでは「塩」(しほ)は、「潮」(しほ)の代わりに使われている。 「海潮」という熟語があり、音読みで「かいちょう」であるが、「潮」(しほ、うしほ)に「海」を冠せたものなので、訓はおそらく「うしほ」であろう。 だから、「海塩」も「うしほ」だと思われる。 【「海水」の訓】 《海》 万葉集では、海底(わたのうみ)、海原(うなはら)など特別な熟語以外は、みな「うみ」とよまれる。 《水》 特別なよみをする熟語としては、(万)3211 水手出牟船尓 こぎ(い)でむふねに。(万)3333 水手 かこ。(万)4189 水烏 う。(鵜)(万)2743 白水郎 あま。がある。 また、「みな」とよむ例は多いが、これは古い語(「み」+格助詞「な」)で特定の複合語に限定される。水沫(みなわ)、水門(みなと)、水尾(みなを)。 これら以外は確実に「みづ」である。例:(万)2833 葦鴨之 多集池水 あしがもの すだくいけみづ。(万)3017 山川水之 やまがはみづの。(万)1714 流水之 磐觸水 ながるるみづの いはにふれ。 《海水》 万葉集には「海水」は出てこないが、「川水」が「かはみづ」と訓まれるのに倣えば、海水は「うみみづ」となる。 宣長は、これも「うしほ」とよむ。 それが間違いだとは言えないが、漢熟語に個人的な嗜好によってルビを振りようなものであろう。 【3御魂の名称】 「底度久」の"doku"は、「着く」"duku"(※)が音韻変化したものと思われる。つまりそれくら長い間、言い慣わされてきたことを示す。 他の2柱の、「粒立つ=水の粒が空中に飛び散る」、「泡裂く=泡が水面で弾ける」は明らかである。 ※ 「つ」の上古の発音は、[tsu]ではなく[tu]。[du]は連語による濁音化。 【猿田彦は水死したのか】 「猿田彦は死んだ。」と直接的には書いてないが、水中で3柱の御魂を生じたとあるので、溺れ死んで御魂を残したと読み取るのが自然である。 松坂市には阿射加神社がある。しかし、生前の「猿田毘古大神」を祀る社も五十鈴の川上にあると書かれ、実際、内宮の近くに猿田彦神社がある。 そもそも神であるから、溺れ死んだ後も変幻自在である。 もともと、村はずれの別れ道に置かれた石像だったのが、象のような姿をした怪物になったと思えば、人の姿になって天孫の道案内をして、その後は海人となって潜水漁をする。 そして最後は、名前を祭祀に舞踊を捧げる女子集団に譲って退場したのが猿田彦であった。 【鰭広物鰭狭物】 《「鰭」の訓》 大国主の国譲り(10)(第80回)で、スズキの鰭について考察した。 (万)4191 鸕河立 取左牟安由能 之我波多波 うかはたち とらさむあゆの しがはたは。 万葉集では「ひれ」は、振ることによって魔よけとなる布の意味で使われる。魚のひれは「はた」である。 《表現法》 一書の保食神(うけもちのかみ)の中に同じ表現がある。 (次生海次生川次生山の段。一書11)鰭廣鰭狹亦自口出・毛麁毛柔亦自口出 第44回 「毛の麁(あら)き毛の柔(やはらか)なる」が哺乳類全般を表し、「鰭の広き鰭の狭き」が魚類全般を表す。「魚悉」と同じ意味だが、物語として耳で聴いたときの心地よさがある。 【諸魚】 魚(な)は食料としての魚で、魚(いを)は生き物としての魚。「もろな」を検索すると、大中臣諸魚(おおなかおみ もろな)という奈良時代の人物がいた。 「いを」のよみを用いる場合は、母音結合の法則から「もろを」と発言すると予想される。 【皆仕奉白之中】 「之」は多くの場合「し」と発音されるが、この部分を「まをしし中」とするのは不自然である。 文の重心は「海鼠不白」にあるので、その前置きとなる部分は軽い方がよい。 ここでは「之」は単に、連体形を示す置き字である。いつも「し」と発音するとは限らない。 この段落では、「し」のない「之」が目立つ。
ナマコは、棘皮動物門ナマコ綱に属するなかま全般を指す。古語は「こ」で、ナマコは、「生のコ」の意味。 棘皮動物はヒトデ・ウニが属する仲間で、「管足」というつくりが特徴。ナマコの仲間も基本的に管足をもつ。 すべて海産で、前端に水平に向く口と触手、後端に肛門がある。 わが国では古代から漁獲されたと思われ、『出雲国風土記』にも記載がある。
【給猿女君等】 ここは魚が仕え奉る話の続きだから、「速贄」はシーズン最初に獲れた様々な海産物を意味する。 島々から献上された海産物を、奉納するのは猿女君の役目であるとする。歌舞に限らず、祭祀における様々な役割を担っていたのだろう。 【書紀における猿女君】 書紀では一書1を除き、猿女君には触れられない。 猿女君は<wikipedia>大和国添上郡稗田村(現在の奈良県大和郡山市稗田町)に本拠地を移し、稗田姓を称したという。</wikipedia> その一人であろう稗田阿礼は、記の作成に大きな役割を果たしたが、書紀には関わらなかったと思われる。 そのせいか、猿女君の遠つ祖(とほつおや)の天宇受売命の活躍場面は、書紀ではずっと縮小する。 【一書1】
即(すなは)ち天鈿女(あまのうずめ)の命、猿田彦の神の乞ふ[所]に隨(したが)ひ、遂(つひ)に[以]侍(さもら)ひ送りき[焉]。 時に皇孫(すめみま)天鈿女の命に勅(の)らさく「汝(なれ)、顕(あらは)せし[所の]神の名(みな)を以(も)ち姓氏(かばね)と為(す)るが宜(よろ)し[焉]。」とのらし、因(よ)り猿女(さるめ)の君(きみ)之(の)号(な)を賜(たまは)る。 故(かれ)、猿女君等(ら)男(をのこ)女(をみな)、皆(みな)君(きみ)と呼(よ)び為(な)す、此れ其の縁(よし)也(なり)。
まとめ 宗像氏、安曇氏、住吉氏と同様に、3神を祀る海洋氏族がここ松坂の地にもいた。しかし、その氏族の実態は不明である。 猿田彦が直接祖神になったとされる氏族はなく、ただ猿女君の名の由来になっただけである。 猿田彦の話は、登場から退場までいくつかの伝承を別々に取り込んだ印象を受ける。そのうち阿射加の地の話は、伊勢国壱志郡の住民にとっては地元の伝承が収録されているので、古事記への親近感を持つかもしれない。 |
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2014.11.06(木) [086] 上つ巻(天降り6) ▼▲ |
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![]() 於是 天津日高日子番能邇邇藝能命 於笠紗御前遇麗美人 爾問誰女 答白之大山津見神之女名神阿多都比賣【此神名以音】亦名謂木花之佐久夜毘賣【此五字以音】 又問有汝之兄弟乎 答白我姉石長比賣在也 爾詔吾欲目合汝奈何 答白僕不得白僕父大山津見神將白 於是(ここに)、天津日高日子番能邇邇芸能命(あまつひこひこほのににぎのみこと)、笠紗(かささ)の御前(みさき)で[於]、麗美人(くはしきおみな)に遇(あ)ひたまひき。 爾(かれ)問(と)ひたまはく「誰(たが)女(むすめ)ぞ。」ととひたまひて、答へ白(まを)さく[之]「大山津見(おほやまつみ)の神之(の)女(むすめ)、名は神阿多都比売(かむあたつひめ)【此の神の名(みな)音(こゑ)を以ちゐる。】亦(また)の名は木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)【此の五字音を以ちゐる。】と謂(まを)す。」とまをす。 又問ひたまはく「有汝之兄弟乎(ながはらからやある)か。」ととひたまひて、答へ白さく「我(わが)姉(あね)の石長比売(いはながひめ)在り[也]。」とまをす。 爾(かれ)詔(のたま)はく「吾(われ)、汝(いまし)と目合(めあ)はさむと欲(おも)ふ。奈何(いかに)。」とのたまひて、答へ白(まを)さく「僕(われ)不得白(まをしえず)、僕父(わがちち)大山津見の神の[将]白(まを)さむ。」とまをす。 故乞遣其父大山津見神之時大歡喜而 副其姉石長比賣令持百取机代之物奉出 故爾其姉者因甚凶醜見畏而返送 唯留其弟木花之佐久夜毘賣 以一宿爲婚 故(かれ)其(そ)の父大山津見の神に遣(つか)はさむと乞(ねが)ひし[之]時、大(はなはだ)歓喜(よろこ)びて[而]、其の姉石長比売を副(そ)へ、百取(ももとり)の机代之物(つくえしろのもの)を持た令(し)め、奉出(いでまつり)き。 故爾(しかるがゆゑに)、其の姉者(は)、甚(いと)凶醜(しこめ)きに因(よ)りて、畏(かしこ)ま見(え)て[而]返(かへ)し送(おく)り、唯(ただ)其の弟(おと)木花之佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)を留(とど)め、一(ひと)宿(ね)に[以]婚(みとのまぐはひ)為(し)たまふ。 爾大山津見神 因返石長比賣而 大恥白送言 我之女二並立奉由者 使石長比賣者 天神御子之命雖雨零風吹 恒如石而常堅不動坐 亦使木花之佐久夜毘賣者 如木花之榮榮坐 宇氣比弖自【宇下四字以音】貢進 此令返石長比賣而 獨留木花之佐久夜毘賣故 天神御子之御壽者木花之阿摩比能微【此五字以音】坐 爾(ここに)大山津見の神、石長比売を返(かへ)さゆるに因りて[而]、大(はなはだ)恥(は)ぢて、白(まを)し送りて言(まを)さく、 「我之(わが)女(むすめ)二(ふた)並(なら)び立てて奉(たてまつ)る由(よし)者(は)、石長比売を使(つか)はしまつる者(は)、天神(あまつかみ)の御子(みこ)之(の)命(みこと)、雨零(ふ)り風吹け雖(ども)、恒(つね)に石(いは)に如(ごと)くありて[而]、常(つね)に堅(かた)く不動坐(うごかざりましま)す、 亦(また)木花之佐久夜毘売を使はしまつる者(は)、木花(このはな)の如(ごと)く[之]栄栄(さかえさかえ)坐(ましま)すことを宇気比弖(うけひて)自(より)【「宇」の下(しもつかた)四字は音を以ちゐる。】進め貢(まつ)りき。 此(これ)に石長比売を令返(かへし)て[而]、独(ひとり)木花之佐久夜毘売を留(とど)めたまひき。故(かれ)、天神(あまつかみ)の御子(みこ)之(の)御寿(みいのち)者(は)、木花(このはな)之(の)阿摩比能微(あまひのみ)【此の五字(いつつのじ、いつな)音(こゑ)を以ちゐる。】坐(ましま)さむ。」とまをす。 故是以至于今 天皇命等之御命不長也 故(かれ)是(ここ)に今に[于]至るに[以]、天皇命(すめらみこと)等(ら)之(の)御命(みいのち)不長(ながから)ず[也]。
皇孫(すめみま)此(こ)の美人に問(と)ひて曰(のたま)はく「汝(いまし)、誰之(たが)女子(むすめ)耶(や)。」とのたまひ、対(こた)へ曰(まを)さく「妾(われ)是(これ)、天神(あまつかみ)の大山祇神(おほやまつみのかみ)を娶(めあは)し、所生(あれましし)児(こ)也(なり)。」 皇孫因而(よりて)幸(めぐみたま)ひ[之]、即ち一夜(ひとよ)に而(て)有娠(はら)みき。
磐長姫を添えて瓊瓊杵尊に送る云々の話は、本文では省かれ、一書に回される。省いた理由については一書2のところで併せて考察する。 【一書2】 一書2では、大筋において記の話を再録しているが、磐長姫が返された後の部分にいくらか相違がある。
皇孫(すめみま)問ひたまひて曰はく「汝(いまし)是(これ)誰之(たが)子にある耶(や)。」ととひたまふ。 対(こた)へ曰(まを)さく「妾(われ)是(これ)大山祇(おほやまつみ)の神之(の)子、名は神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)、亦(また)の名は木花開耶姫(このはなさくやひめ)なり。」とまをす。 因(よ)りて白(まを)さく「亦(また)吾(わが)姉(あね)磐長姫(いはながひめ)在(あ)り。」 皇孫(すめみま)曰(のたまはく)「吾(われ)は汝(なれ)を以(も)ちて妻(つま)と為(せ)むと欲(おも)ほす、如之何(これそいかに)。」とのたまふ。 対へ曰(まを)さく「妾(わが)父(ちち)大山祇(おほやまつみ)の神在り。以(も)ちて問ひ垂(た)るるを請(こ)ふ。」とまをす。 皇孫(すめみま)、因(よ)りて大山祇神に謂(のたま)はく[曰]「吾(われ)汝(なれ)之(の)女子(むすめ)を見(め)し、以(も)ちて妻と為(す)と欲(ねが)ふ。」とのたまふ。 於是(ここに)、大山祇神、乃(すなは)ち二(ふたりの)女(むすめ)を使(つか)はし、百机(ももとりのつくゑもの)を持ちて飲食(を)したまへと進め奉(まつ)りき。 時に皇孫(すめみま)、姉(あね)の醜(みにく)き為(ため)に不御(むかへ)ずと謂(のたま)ひて[而]罷(まか)らしめて、妹(いも)の国色(くはしきことならぶべきひとなく)有り、之(これ)を引(ひ)かして[而]幸(あはれ)び、則(すなは)ち一夜(ひとや)に有身(はら)みき。 故(かれ)磐長姫(いはながひめ)、大(はなはだ)慙(は)ぢて[而][之を]詛(そし)りて曰(まを)さく、 「仮(もし)天孫(あまつひこ)を使(し)て、妾(われ)を不斥(さけ)ずして[而]御(むか)へたまはしめ者(ば)、生(う)まれむ児(こ)永(なが)き寿(いのち)有り、磐石(いはいし)の如(ごと)く之(これ)常(つね)に存(あ)らむ。 今既に不然(しからざ)りて、唯(ただ)弟(おと)独(ひとり)御(むか)へたまは見(え)て、故(かれ)其の生まれむ児、必ず木花(このはな)之(の)如(ごと)移(うつろ)ひ落ちむ。」とまをす。 一云(あるにいふ)、磐長姫恥(は)ぢ恨(うら)みて[而]唾(つは)き泣きて[之]曰(まを)さく「顕見蒼生(うつしきあをひとくさ)者(は)、木花(このはな)の如(ごと)く[之]、俄(にはか)に遷(うつろ)ひ転(まろ)びて当(まさ)に衰(おとろ)へ去(ぬ)べし[矣]。」とまをす。此(これ)世の人短く折(を)るる[之]縁(よし)也(なり)。
皇孫は宮殿を建て、休息をとっていました。その後海浜にお出かけになると、一人の美しい人を見つけました。 皇孫が「あなたは誰の子か。」と聞くと、 「私は大山祇(おほやまつみ)の神の子で、名前を神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)、別名、木花開耶姫(このはなさくやひめ)といいます。」とお答えました。 さらに「もう一人、私の姉に磐長姫(いわながひめ)がいます。」と申し上げました。 皇孫が「私はお前を私の妻にしたいが、どうか。」と問われるのに対し、 「私の父、大山祇(おほやまつみ)の神にお答えいただくことをお願いします。」とお答えしました。 そこで皇孫は大山祇神に「私はあなたの息女を見て、妻にしたいと思います。」と言われました。 そこで、大山祇神はすぐに2人の娘をお送りし、たくさんの飲食物を献上しました。 皇孫はしかし、姉は醜いから要らないと言ってお返しになり、妹は比類なき美貌だったので迎えて妻とされ、そのまま一夜にして懐妊しました。 磐長姫は大いに辱めを受け、謗(そし)り言うには、 「もし天孫が、私を避けず迎えてくだされば、生まれる子には永き寿命があり、その存在は盤石(ばんじゃく)です。 しかし、今となってはそれもならず、ただ妹のみが迎えられたので、生まれる子の命は、必ず木(こ)の花と同じく色あせ、落ちることでしょう。」 別の言い伝えによれば、磐長姫は辱めを受け、嘆き吐き捨てるように「この世の人民は、木の花のように、間もなく姿を転じて衰えてしまうでしょう。」と言いました。これが世の人が短命である理由です。 《因立宮殿》 恐らく、記の「於底津石根宮柱布斗斯理於高天原氷椽多迦斯理而坐也」(第84回)に対応するので、 天孫が吾田の笠紗の岬に宮殿を築いたことを意味する。 《垂問》 『中国哲学書電子化計画』に収録された中国古典には、熟語「垂問」は3例だけである。 「垂」には、「垂訓」「垂示」など、上から下へ教えを垂れる意味がある。 万葉集では、「垂」はほとんどが「たる」とよむ。 ここでは木花開耶姫による言葉の中なので、皇孫への謙譲語である。 よみは、意訳して「とひたまはる」とするか、そのまま「とひたるる」としてもよいと思われる。 《御》 尊敬の意を表す接頭語「み-」の他、「防禦」の「禦」の代わりに使い、またさまざまな動詞として訓まれる。 万葉集では、一部に敬体の補助動詞「ます」((万)0971 早御来 はやくきまさね。)や、尊敬語((万)0956 御食 をす(=治められる))などに使われる。 それ以外は、接頭語「み」で、動詞として使われた例はない。 しかし、一書2では、動詞である。 古訓のうち、該当しそうなものを探すと、「すすむ(勧む)」「そふ(添ふ)」「むかふ(迎ふ)」がある。 「弟独見御」は、受け身の助動詞「見」(る・らる)があるので、妻に「迎ふ」(=むかえる)が適当であろう。すなわち、「おとひとりをむかへたまはる。」 《国色》 (中国の辞書)<汉典>国色 [national beauty]∶有绝顶出众的美貌、冠绝一国的女子</汉典>、つまり、「衆の絶頂に抜きんでた美貌の持ち主で、国家に2人といない女子に冠せる語」を意味する。 奈良時代の倭語のスタイルで読む場合は、音読みの習慣もまだなく、逐語訳も不可能なので意訳しなければならない。記の表現を用いて、「いとくはしきをみな」。 あるいは、竹取物語「うるはしき事ならぶべきものなし」を借りて「くはしきことならぶべきなきをみな」など。 因みに岩波文庫版は、「有国色」に「かほよし」とルビを振り、注記に「国色は、国中で第一の美人。」を添える。 しかし、「顔良し」という訳語では「国中で第一の美人」を表すことはできない。 《幸》 万葉集では、主に「さきく」([副]しあわせに)、「いでます」([自]お出かけになる)であり、「王が寵愛する」用法の例はない。 「幸」を「寵愛す」の意味で使うのは、中国の字義に基づいている。 「幸」が記の「婚」を置き換えたものであることは、一書5を見れば明らかである。 よみは、「幸」と同じ意味の「寵」の古訓に「あはれぶ」がある。「あはれ」は万葉集にあるので「あはれぶ」がよいかも知れない。 《有身》 熟語として、「懐妊する」の意。 <中国哲学書電子化計画>儒家/論衡/奇怪/「…見蛟龍於上。已而有身、遂生高祖。」</中国哲学書電子化計画> (…蛟龍を上に見る。すでに有身す、遂に高祖を生む。) 《唾泣》 「唾泣」という熟語が存在するかどうかを調べたが、「中国哲学書電子化計画」で検索した限り一例もなかった。 中国製の熟語ではなく、「吐き捨てるように言う」と「嘆き悲しむ」を合わせたものと思われる。 《短命にされた対象》 「一云」では、皇孫のえり好みの結果、天皇ではなく庶民が責任を負わされて、短命にされいる。 「一云」でない方でも、短命なのは瓊瓊杵一代に限定され、その後の天皇には触れられていない。また、本文では物語の主要な部分そのものを省いている。 書紀では、天皇に関することを言い訳するような、弱気は見せられないということだろうか。 あるいは、第15代の仁徳天皇辺りまでは人間離れして長寿なのを考慮して、削除したのかも知れない。 【一書5】
【一書6】
答(こたへ)曰(まを)さく「大山祇神(おほやまつみのかみのかみ)之女(むすめ)等(ら)、大(おほき)の号(な)は磐長姫(いはながひめ)、少(すくな)きの名は木花開耶姫(このはなさくやひめ)、亦(また)豊吾田津姫(とよあたつひめ)と号(なづ)く。」云々(しかしか)。 皇孫(すめみま)豊吾田津姫を幸(めぐ)みたまへるに因(よ)り、則(すなは)ち一夜(ひとよ)にて[而]有身(はら)みき。 〔中略〕 「秀起」、此(これ)左岐陀豆屢(さきだつる)と云ふ。
ここでは、ひづ(秀づ)に「抜きんでる」意味があるので、「波頭高く立つ」だと思われる。 《於秀起浪穗之上起八尋殿》 「波の穂高く立つ海に付き出した岬に大きな宮殿を立て…」の意か。一書2と同内容だとすれば、宮殿を建てたのは天孫である。 《織経》 熟語「織経」は漢和辞典にはなく、『中国哲学書電子化計画』には2例のみ。 そのひとつ「婦人曰:採桑力作,紡織経織,以供衣食」は、「桑を採りしっかり働き、糸を紡ぎ布を織り、こうして衣食を供えた」なので、「経織」は布を織る意味である。 なお、『告密羅織経』なる書物が見つかったが、これは武則天(在位690~704)の時代に、官吏が拷問などにより自白に導く技術をまとめた書物の名であり、織物とは無関係である。 おそらく、「織経」は「経糸(たていと)を織る」か、「織り経(ふ、=すごす)」である。 《手玉玲瓏織経之少女》 「玲瓏」(れいろう)が、玉が互いに当たる音だとすると、岩波文庫版の注釈にあるように、 (万)2065 足玉母 手珠毛由良尓 織旗乎 あしだまも ただまもゆらに おるはたを。 と同じ内容で、織機を動かす作業中に腕の玉が当たって音を鳴らす意味である。 《天孫の言葉の翻訳》 「波立つ海の岬に立てた宮殿から見える、腕の宝石を鳴らしながら織機を操っている少女は誰の娘か。」 まとめ 英雄による現地の姫の娶りは、国の領土拡張を象徴するものである。類例には、大国主が八神姫や沼河姫を娶った話がある。 ということは、九州の南端で国を開いたときから、国土を獲得する努力が必要だったのである。倭政権を打ち立てた人々は、元来渡来民だったことを裏付ける。 さて、結婚に際して邇邇芸が相手を選り好みした結果、初期の何代かを除き代々の天皇の寿命は短くなった。 天皇は神でありながら、人間並みの寿命であることを言い訳するような話だが、天皇の神性を庶民や朝廷を支える氏族に定着させるには、様々な説明を尽くす努力が必要であったことが分かる。 ただ、あれもこれも説明する姿勢は、逆に弱気を感じさせるので、書紀はそれを考慮したかも知れない。 |
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⇒ [087] 上つ巻(天降り7) |