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[070]  上つ巻(大国主命15)

2014.07.07(月) [071] 上つ巻(国譲り1) 
天照大御神之命以 豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者 我御子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命之所知國 言因賜而天降也
於是 天忍穗耳命 於天浮橋多多志【此三字以音】而詔之
豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者 伊多久佐夜藝弖【此七字以音】有那理【此二字以音下效此】告而更還上請于天照大神

天照大御神(あまてらすおほみかみ)之(の)命(おほせこと)を以(も)ちて、「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいほあきのみづほのくに)者(は)、我(わ)が御子(みこ)正勝吾勝勝速日天忍穂耳(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみ)の命(みこと)之(の)知らす[所の]国なり」と言因(ことよ)らし賜(たま)ひて[而]天降(あも)らしき[也]。
於是(これに)、天忍穂耳(あめのおしほみみ)の命、天浮橋(あまのうきはし)に[於]多多志(たたし)【此三字以音】て[而]詔之(のたまはく)
「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国者(は)伊多久佐夜芸弖【此七字以音】有(いたくさやぎてあ)る那理(なり)【此の二字(ふたじ)音(こゑ)を以ちゐる。下(しも)つかた此に効(なら)ふ】。」と告(のたま)ひて[而]更に還(かへ)り上(のぼ)り天照大神(あまてらすおほみかみ)に[于]請(ねが)ひき。


爾高御產巢日神天照大御神之命以 於天安河之河原 神集八百萬神集而 思金神令思而詔
此葦原中國者 我御子之所知國 言依所賜之國也 故以爲於此國道速振荒振國神等之多在 是使何神而將言趣
爾思金神及八百萬神 議白之天菩比神是可遣
故遣天菩比神者 乃媚附大國主神 至于三年不復奏

爾(ここに)、高御産巣日(たかみすび)の神と天照大御神と之(の)命(おほせこと)を以ちて、天安河(あめのやすかは)之(の)河原(かははら)に[於]八百万(やほよろづ)の神、神集(かむつどひ)に集(つどへ)て[而] 思金神(おもひかねのかみ)に思(おも)は令(し)めて[而]詔(のたま)はく、
「此の葦原中国(あしはらのなかつくに)者(は)、我が御子之(が)所知(しらす)国と、言依(よ)せ賜(たま)ひし[之]所の国也(なり)。故(しかれども)、以為(おもほせ)らく[於]此の国(くに)道(みち)は速振(はやぶ)り荒振(あらぶ)る国つ神等(ら)之(の)多(さは)に在りとおもほす。是(これ)、何(いづれ)の神を使はして[而]、将(まさ)に言趣(ことむ)けせしめむや。」とのたまひき。
爾(ここに)、思金神及(と)八百万神と議(はか)りて白之(まをさく)「天菩比(あめのほひ)の神、是れ遣(つかは)す可(べ)し。」とまをしき。
故(かれ)、天菩比神を遣はせ者(ば)、乃(すなは)ち大国主神に媚(こ)び附(つ)き、三年(みとせ)に[于]至り不復奏(かへりまをさざ)りき。


 天照大御神(あまてらすおおみかみ)の詔(みことのり)により、「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国(とよあしはらのちあきながいおあきのみずほのくに)は、私の御子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみ)の命(みこと)の統治する国です。」と依頼して差し上げ、天下りさせました。
 そこで、天忍穂耳(あめのおしほみみ)の命は、天浮橋(あまつうきはし)にお立ちになって仰(おっしゃ)るには、
 「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国はひどく騒がしい。」と仰りそのまま天に戻り、天照大御神に申し上げました。
 そこで、高御産巣日(たかみすび)の神と天照大御神の詔により、天安河(あめのやすかわ)の河原に八百万(やおよろず)の神を招集し、思金神に案じさせて仰るには、
 「この葦原中国(あしはらなかつくに)は、私の御子が統治する国と、依頼して差し上げた国です。しかるに、思うにこの国を行く道には、猛々しく荒々しい国津神たちが多くいます。そこに、どの神を遣わして、説得に向かわせましょうか。」とおっしゃいました。
 そこで、思金神と八百万神は議論して申し上げるに、「天菩比(あめのほひ)の神を遣わすべきです。」と申し上げました。
 そこで、天菩比神を遣わしたところ、そのまま大国主の神に媚びへつらい、三年経っても復命することはありませんでした。


ことよる…[自]ラ行四段 物事が一方に定まる。
よる(依る、因る)…[自]ラ行四段 基づく。任せる。
さやぐ…[自]ガ行四段 ざわざわと音がする。
たり…[助動](ラ変型) 完了。存続。連用形につく。
なり…[助動] 音として聞こえる。ようだ(推定)。終止形(平安時代以降はラ変の場合連体形)につく。
なり…[助動] 断定。連体形につく。
つどふ(集ふ)…[自]ハ行4段 集まる。[他]ハ行下二 集める。
-ぶ…[接尾]バ行上二(体言や形容詞の語幹などについて上二段活用動詞をつくる) ~な状態になる。
あらぶ(荒ぶ)…[自]バ行上二 荒れる。乱暴する。
ことむく(言向く)…[他]カ行下二 ことばによって説得し、従わせる。
…[動] 献上する。進言する。なしとげる。奏でる。
かへりまうし(返り申し)…[名] 勅命を果たし、帰って奏上すること。復命。
まをす(申す、白す)…[他]サ行四段 (上代語)「言ふ」の謙譲語。
こびつく(媚び付く)…[他]カ行四段 へつらって服従する。

【~之命以】
 「天照大御神之命以」「高御産巣日神天照大御神之命以」の2文で使われる。
 「之命」は、""=属格の格助詞、""=「御言」すなわち天皇や神が下に与えた言いつけである。 従って「天照大御神之命」は体言である。
 「」の使い方は、主に次の4つがある。
 動詞「もつ」「もちいる」。
 前置詞「OV」(OをVする;目的語を強調のために倒置(動詞の前に置く)する場合)
 接続詞「AB」(文Aを以って文B。)
 副詞「SV」(はなはだ、すでに)
 このうち、は全く成り立たない。は可能性がある。「豊葦原之~」を、「言因」の目的語とし、それを倒置するための「以」である。但しこれでは、「天照大御神之命」が浮いてしまう。
 は「命」を「みことす」と動詞化すれば成り立つが、文脈上「~を命し、もって」とするほどの、独立した文にはならない。
 ②③④に無理があるとすれば、「以」は動詞「以つ」で、その目的語が「天照大御神之命」である。 つまり「天照大御神の御言を以って...」となる。 但し、このように目的語を動詞の前に持ってくる語順は漢文本来ではなく、和風である。この語順は『出雲国風土記』では多用されるが、古事記では比較的少ない。

【所知国】
 漢文における「」は、続く動詞を名詞化する。この機能を利用して古事記や万葉集では、動詞が連体形であることを明示するために「所」をつける。 例えば、万葉集0768今所知」は「いましらす」と訓み、次の「久邇(くに)」を連体修飾する。「知る」は「統治する」意味で、その未然形「しら」に上代の尊敬の助動詞「す」をつけたものである。

【言因賜而天降也】
《言因賜》
 「(たま)ふ」が(漢語における)助動詞だとすれば、続く動詞は「天降」である。両者に挟まれた「」は可能の助動詞(=能)となるが、「使役動詞+可能の副詞+動詞」の形は異例である。 この解釈によって読み下せば、「~と言(の)らし、因ってよく天降(あも)ら賜(し)めしき」となる。 だが、この場合「」が気になる。天照が下位の神に向かって言うときは、通常「言」ではなく「」やく「」を使う。記は全体として「告・言・白」を厳密に使い分けている。
 それよりも、「言因賜」を塊りとして、動詞「言因」+尊敬の補助動詞「賜(たま)ふ」と考えた方がずっと自然である。 「言葉により任ずる」という意味の「ことよる」は古語辞典には載っていないが、「言」は「御言」を受けた「こと」だと考えられるので、「こと」と「依る」の合成語ではないかと思われる。
《天降》
 「天降(あも)る」は、万葉集に6例ある。一例を示す。
 3227葦原笶 水穂之國丹 手向為跡 天降座兼 五百万 千万神之 神代従 云續来在 甘南備乃 三諸山者…(後略)…
 (あしはらの みづほのくにに たむけすと あもりましけむ いほよろづ ちよろづかみの かむよより いひつぎきたる かむなびの みもろのやまは)
 「かむなびの」は「神が鎮座する」意味。「葦原の水穂の国にお供えすれば、天下りされた多くの神々の、神代から言い伝えられてきた神のいらっしゃる三諸山は…」
 この歌から、「葦原の瑞穂の国」は特に神が降りた国と特徴づけるときの倭国の呼称であり、御諸山は多数の神々が降臨された山であるとする伝承があったことが判る。古事記は、このような自然発生的な伝承を、神学として定式化したと思われる。

【於天浮橋多多志】
 同じ一節が、伊邪那岐・伊邪那美が地上を見下ろすところにある。 第33回二柱神立【訓立云多多志】天浮橋
 「立つ」の未然形+上代の尊敬の助動詞「す」の連用形である。

【はやぶ】
 手許の古語辞典には、動詞「はやぶ」は載っていないが、形容詞「はやし」の語幹に接尾語「」がついたものである。
 「はやし」には「速い・早い」の他「激しい、強い」という意味がある。また「勇み立つ」意味の「逸(はや)る」という動詞がある。 また、猛々しい神(そして、多くは刃向かってくる)神の名前にしばしば「はや~」が冠せられる。
 「はやぶ」は、さらに「あらぶ」と並べて使われていることもあり、「猛々しいさま」を示す動詞だと考えられる。

【詔之】
 「」は、英語の関係代名詞thatを想起させる。ここでは指示代名詞「これ」が、会話文を導く。 和文の、引用文を引き出す「未然形+く」(いはく、のらさく、まをさく)に対応すると考えられる。しかし、多くの場合「之」は省略されている。

【いたくさやぎて有なり】
 動詞「さやぐ」は万葉集に二例ある。
 2134 葦邊在 荻之葉左夜藝 秋風之 吹来苗丹…(以下略)あしへなる をぎのはさやぎ あきかぜの ふきくるなへに =葦の生え際の荻の葉が「さやぎ」秋風の=
 4431 佐左賀波乃 佐也久志毛用尓…(以下略)ささがはの さやぐしもよに=小竹の葉の「さやぐ」霜夜に=
 いずれも、葉が風に揺れ、音を立てる意味である。
 「有るなり」と読めば、「連体形+なり」で、断定の助動詞、 「有りなり」と読めば、「終止形+なり」で、「音に聞く」あるいは伝聞の助動詞である。
 文脈では、「地に降りる途中、天の浮橋に立って下界を見ると騒がしい様子であった」の意味であるから、伝聞ではない。 因みにこの文はある古語辞典で「さやぐ」の文例に使われ、「日本の国はひどく乱れているそうだ。」と訳されていたが、これは不適切である。
 ここでは、騒がしい音が聞こえるという意味の「なり」("鳴り"に通ず)あるいは、断定の「なり」である。 一方、断定の助動詞だとすれば、「下界は騒がしいから、とても降りていくことはできない」と断定する気持ちを表現する。 また、「てあり」は「たり」かも知れない。「たり」はこの時代には、本来「てあり」だとする意識があり、編者が分解した形でかなを振った可能性がある。
 以上から「いたくさやぎたるなり」と読むことができる。これは「いたくさやぎてありなり」より自然な和文のように感じられる。

【神産巣日(かむむすび)の神】
 天地初発のとき2番目に現れた神産巣日(かむむすび)の神は、大国主命と積極的に関わってきたが、 ここから後は神武天皇の登場までの間、天照大御神と並んで天の支配者として振る舞う。

【於天安河之河原 神集八百萬神集】
 以前、同様に八百万神に召集をかけたのは、天岩戸立て籠もり事件への対応を協議する場面であった。 第44回 八百萬神於天安之河原神集集而【訓集云都度比】 高御產巢日神之子 思金神令思【訓金云加尼】
 書き方に多少の違いがあるが、両方とも「神集ひ(に)集ふ」である。主語(目的語)を2つの「集」で挟む形は、 第48回の「逆剥天斑馬剥」 (天斑馬を逆剥ぎに剥ぎ)と同じである。

【復奏】
 「」(=奏上する)、「かへりまうし」(=復命)から、「復奏」は「復命する=かへりまをす」であろう。 「まをす」は上代語なので、「かへりまをす」が名詞化した「かへりまうし」が残ったと思われる。

【媚附大国主神】
 はじめは、下界が「ひどく騒がしい」とか「荒ぶる神たちが多数いる」などと言って大国主を直接名指しすることを避けていた。 ところが、この「大国主に媚び付く」のをいまいましく思う一文により、敵は大国主であることがあからさまになる。

【日本書紀本文】
 紀の本文から、対応する部分を抜き出す。
● 天照大神之子正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊、娶高皇産靈尊之女𣑥幡千千姬、生天津彥彥火瓊瓊杵尊。
 天照大神(あまてらすおほみかみ)之(の)子(みこ)、正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)之(の)女(みむすめ)栲幡千千姫(たくはたちぢひめ)を娶(めあは)せて、天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)を生みたまひき。
 なお、紀の本文における正式名は「日孁貴」であったはずだが、いつの間にか天照大神が使われている。
● 故、皇祖高皇産靈尊、特鍾憐愛、以崇養焉、遂欲立皇孫天津彥彥火瓊瓊杵尊、以爲葦原中國之主。
 故(かれ)、皇祖(すめろき)高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、特(こと)に憐愛(あはれみ)を鍾(あつ)めたまひ、以ちて崇(たか)く養ひ[焉]て、遂に皇孫(すめみま)天津彦彦火瓊瓊杵尊を立たして、以ちて葦原中国(あしはらなかつくに)之(の)主(ぬし)と為(せ)むと欲(おもほ)しき。
● 然、彼地多有螢火光神及蠅聲邪神、復有草木咸能言語。
 然れども、彼の地多(さは)に蛍火(ほたるひ)光(て)る神、及(また)蠅声(さばへなす)邪(よこしま)なる神有りて、復(また)草木有り、咸(みな)能(よ)く言(こと)語(かた)りき。
● 故、高皇産靈尊、召集八十諸神而問之曰「吾、欲令撥平葦原中國之邪鬼。當遣誰者宜也。惟爾諸神、勿隱所知。」
 故、高皇産霊尊、八十(やそ)諸(もろもろの)神を召(よ)び集めたまひて[而]之(これ)に問ひたまひて曰はく「吾(われ)、葦原中国之(の)邪(よこしま)なる鬼(おに)を撥平(をさ)め令(し)めむと欲(おも)ほす。誰(たれ)を遣(つかは)さ者(ば)宜(よろし)とす当(べ)き也(や)。惟爾(これをおも)ふに、諸神(もろもろのかみ)は所知(しるところ)を勿隠(なかくしまつりそ)。」ととひたまふ。
● 僉曰「天穗日命、是神之傑也。可不試歟。」
 僉(みな)曰(まを)さく「天穂日命(あめのほひのみこと)、是(これ)神之(くしき)傑(いさを)也(なり)。可不試歟(こころみざるべきや)。」とまをす。
 〔神の皆が言うには「天穂日命こそ、傑出した神である。どうして彼にさせないことがあろうか。」〕
● 於是、俯順衆言、卽以天穗日命往平之。
 於是(ここに)、衆(みな)の言(こと)に俯(ふ)し順(したが)ひ、即ち以ちて天穗日命往(ゆ)きて之を平(たひら)げき。
● 然此神侫媚於大己貴神、比及三年、尚不報聞。
 然れども此の神大己貴神(おほなむちの神)に[於]佞媚(こびへつら)ひ、比(このころ)三年(みとせ)に及(およ)びて、尚(なほ)不報聞(かへりごとまをさ)ず〔復命しない〕
 報(むく)ゆ…報いる。…[動]①口がうまく弁が立つ。②おもねる。
● 故、仍遣其子大背飯三熊之大人【大人、此云于志】、亦名武三熊之大人、此亦還順其父、遂不報聞。
 故(かれ)、仍(すなは)ち其の子大背飯三熊之大人(おほせひのみくまのうし)、亦の名は武三熊之大人(たけみくまのうし)を遣(つか)はせど、此れ亦(また)其の父に還(かへ)り順(したが)ひ、遂(つひ)に不報聞(かへりごとまをさず)。
 名前の「大背飯」に「大いに背叛した」意味が込められている。
 記では「僕者將降裝束之間、子生出、名天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命。此子應降也。〔私が天下る支度をしていたところで、子が産まれた。この子を天下る任務に応じさせたい〕 として、正勝吾勝勝速日天忍穗耳命が降りる予定であったが、直前にその子に変更する。 それに対して紀では、最初から正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊の子を天下りさせることになっている。
 また、天下りの采配は、紀では高皇産霊尊が単独で行うが、記では天照大御神と連名である。
 次に記の「さやぐ」「速ぶる神、荒ぶる神多し」の内容を紀に見ると「彼地多有螢火光神及蠅聲邪神、復有草木咸能言語。」としている。 「光神」と「邪神」は、それぞれ天照方と敵方の神を指し、神々が入り乱れて戦っていると読み取れる。 「さばへなす」は邪神への枕詞であるが、邪悪な蠅に対して、正義の「蛍」を対置しているということであろうか。 また、「草木が皆言葉を話す」とは、人民がそれぞれに自分の立場を声高に主張し合っている意味であろうか。 あるいは「さやぐ」のもともとの意味、葉が風を受けて揺れる音から、それが言葉のように聞こえるという意味かも知れない。
 なお邪神には大己貴神も含まれるわけで、日本書紀における大国主への冷やかな視線が、ここにも感じられる。

【豊葦原之千秋長五百秋之水穂国】
 この長大な国名は、すぐに短縮して「葦原中国」になる。また、島産みの段では「大八島国」と表現される。 「水穂」=「瑞穂」であり、秋は穀物の実る季節を意味すると見られる。 「葦原」から連想されるのは、魏志倭人伝で本土への上陸地、末盧国(まつろこく)について、 「草木茂盛行不見前人〔草木がいっぱい茂り、前を行く人の姿も見えない〕と書いていることである。
 倭国を訪れた使者が海から上陸したとき、一面の葦原が強い印象を与えたことが分かる。 天照族が渡来した時、葦が茂っていた印象が民族の記憶に残り、それが国名になったのかも知れない。または、帯方郡からの使者が倭国の印象を語った言葉に影響されたものかも知れない。
 もう一つの特徴は、弥生時代に伝わった稲作が盛んなことで、一面に広がる水田には毎年秋になると瑞々しく稲穂が垂れる。以上2つの特徴がこの国名に表れている。
 さて、それでは豊葦原之千秋長五百秋之水穂国の範囲は、どこからどこまでだろう。
 奈良時代、律令国が確立した後は、九州から東北(南部?)までと、五島列島、壱岐、対馬である。 記に記された古い国土は、第35回の島産みによる島々、 九州・四国・本州と、五島列島、壱岐、対馬である。問題は本州(大日本豊秋津島)内の範囲はどこまでかということである。次の項でそれを考察する。

【葦原中国の東方への進出】
《景行天皇の時代》
 日本武尊(やまとたけるのみこと)は、焼津(駿河国)の地で敵によって火に包まれる。 また、書紀『景行天皇』(4世紀初頭か)で東方の様子に触れている。 いわく、武內宿禰、自東國還之奏言「東夷之中、有日高見國、其國人男女、並椎結文身、爲人勇悍、是總曰蝦夷。…(後略)…」 景行天皇に諸国の視察を命じられた武内宿祢が、東国を視察後に復命し「日高見国では、男女とも髷を結い文身(体の入れ墨)し勇敢で、まとめて蝦夷(えみし)と言う…」と述べている。 日高見国は、もともと大和政権から見て東方の国の美称である。
《金錯銘鉄剣》
辛亥年(定説は471年)七月」と刻まれた金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)は、埼玉県(武蔵国)行田市稲荷山古墳から出土した。 獲加多支鹵大王(わかたけるおほきみ=雄略天皇)の文字が刻まれるので、少なくとも関東南部は倭国の領土に含まれる。
《常陸国・陸奥国》2022.3.22.改定
 日高見国は、7世紀には次のように、後の常陸国の一部〔信太郡〕を指した。 『常陸国風土記』(逸文)に「御宇難波長柄豊前宮之天皇〔孝徳〕御世癸丑年〔白雉四;653〕…(中略)…分筑波茨城郡七百戸信太郡。此地本日高見国云々」とある。 〈斉明天皇〉五年〔659〕には、陸奥と越の蝦夷に対して懐柔と制圧の両面作戦によって支配に乗り出し、初めて「陸奥〔と〕越国司」の語が見える。 〈景行天皇11〉《伊吉連博徳書》で見るようにその頃は倭国に服さない「蝦夷国」が事実上存在した。 同時に倭国による形式上の統治区域として「道奥国」と呼んでいる。これは、常陸国を北に伸ばして分割した形になっている。
 〈続紀〉によると、その後708年に「陸奥守」を任命するが反抗は続き、やっと710年に戸籍整備に着手した。 712年の時点で実際上の「陸奥国」の北限は仙台付近と見られる (《六月雪也》)。
 奈良時代は、防人を徴兵した範囲(右図)から見て、関東地方まで朝廷の安定した支配下にある。
《初期大和政権の時代》
 以上から、葦原中国の東の境界は、古墳時代から奈良時代にかけて、東海地方⇒関東地方⇒東北地方南部と拡大していった。 時計の針を逆に回せば、初期大和政権の3世紀半ばの勢力圏は、東は尾張、美濃ぐらいまでと想像される。
《国譲り以前》
 一方、大国主による国譲りは、倭国大乱が終結した2世紀末であったと思われる。 その直前の大国主の領土は九州北部・山陰・紀伊国・近畿北部・北陸・信濃であった。 当時の天照勢力の領土は大国主の領土を除き、さらに南九州には及んでいなかったと思われるので、 九州中部、瀬戸内海周辺、近畿中部に過ぎなかったことになる。 とすれば、天照勢力が大国主の領土を併合したとすれば、小が大を呑みこむ大戦争が行われたことになる。

まとめ
 大国主が山陰から北陸、信濃までの広大な国土を支配していたこと、天照勢力が大国主の勢力を服従させようと したことは、記に明確に書かれている。 豊葦原之千秋長五百秋之水穂国は、奈良時代はじめには東北地方南部までと認識されていたが、その大きな部分を占める大国主の地域が戦乱状態にあったということになる。
 その戦乱の過程で、独立勢力が各地に出現し、戦国時代のように敵味方が入り乱れるものになったであろう。 だから、紀でいうように、蛍火光る神(天照方)、蠅声邪なる神(大国主方)が入り乱れて争っていたということである。
 その過程で、敵に降伏を迫る使者が、逆に相手に「媚び付く」ようなことは、いくらでも起こり得る。
 記紀によれば戦争の結末は、政治的な妥協であった。出雲の宗教を、大国主を祀る国の宗教とすることと引き換えに、大国主勢力を出雲国内に封じこめることで決着した。 大乱を終わらせたのは、大局的には戦国時代の終結と同じく、それ以上の犠牲に耐え切れなくなった人民の意思である。
 しかし、それまで激しく対立していた国内を統一するためには、強烈な宗教的支配者が必要であった。 男子王たちが女王を「共立」したという魏志倭人伝の記述は、まさにこのことであったとも考えられる。
 卑弥呼が出雲出身かどうかは不明であるが、天照大御神は、種族名「アマ」を冠せているようにあま族は、最高神に位置づけるのは、自らの神である。 他方、出雲勢力側は、大国主と三諸山の神が対等の立場で協力して国造りをしたという見解である。三諸山の神は、出雲側から見れば天照側の神である。 いずれの側も、自分の勢力を中心として描こうとするのである。
 記には、歴史的事実をある程度反映した部分と、支配勢力の正統性を裏付けるための創作神話が共存している。


2014.07.13(日) [072] 上つ巻(国譲り2) 
是以 高御產巢日神天照大御神 亦問諸神等 所遣葦原中國之天菩比神久不復奏 亦使何神之吉
爾思金神答白 可遣天津國玉神之子天若日子
故爾 以天之麻迦古弓【自麻下三字以音】天之波波【此二字以音】矢賜天若日子而遣
於是 天若日子降到其國 卽娶大國主神之女下照比賣 亦慮獲其國至于八年不復奏

是(これ)を以ちて、高御産巣日(たかみむすひ)の神と天照大御神(あまてらすおほみかみ)と、亦(また)諸神(もろもろのかみ)等(ら)に問(とひたま)はく「葦原中つ国に遣(つかは)しし[所の][之]天菩比(あめのほひ)の神、久しく不復奏(かへりごとまをさざ)りき。亦(また)何(いづ)れの神を使(つかは)すが[之]吉(よ)しや。」ととひたまへば、
爾(ここ)に思金神(おもひかねのかみ)答へ白(まを)さく、「天津国玉神(あまつくにたまのかみ)之(の)子、天若日子(あめのわかひこ)を遣(つかは)す可(べ)し。」とまをす。
故爾(このゆゑ)に、天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)【「麻」自(よ)り下(しも)つかた三字(みつのじ、みな)音(こゑ)を以ちゐる】と天之波波【此の二字、音を以ちゐる】矢(あめのははや)とを以ちて天若日子に賜(たま)ひて[而]遣(つかは)し、
於是(ここに)、天若日子其の国に降り到り、即ち大国主(おほくにぬし)の神之(の)女(むすめ)下照比売(したてるひめ)を娶(めあは)せ、亦(また)其の国を獲(と)らむと慮(おもひはか)りて、八年(やとせ)に[于]至り不復奏(かへりごとまをさざ)りき。


 これを以って、高御産巣日神と天照大御神は、再び神々に問われました。「葦原中つ国に遣した天菩比(あめのほひ)の神は、久しく復命しません。もう一度、どの神を遣わすのがよいでしょうか。」
 これに思金神(おもいかねのかみ)が答え申し上げるに「天津国玉(あまつくにたま)の神の子、天若日子(あめのわかひこ)を遣すべきです。」
 このゆえに、天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)と天之波波矢(あめのははや)とを天若日子に授けて遣しました。
 そして、天若日子はその国に降り到りました。ところが大国主(おおくにぬし)の神の息女下照比売(したてるひめ)を娶り、これまたその国を獲ろうと画策し、八年を経ても復命しませんでした。


まかごゆみ(真鹿児弓)…[名] 鹿や猪など、大きな獣を射るのに用いる弓。「ま」は美称の接頭語。
ははや(羽羽矢、波波矢)…[名] 羽が広く大きな矢。
…[動] おもんばかる。深く考える。
おもひはかる(思ひ量る)…[他]ラ行四段 考えをめぐらす。

【基本的な語の万葉集におけるよみ】
 「問」「答」「獲」「吉」の訓を、万葉集によって確認する。
《問(と)ふ》
 「問」を「とふ」とよむ例は無数にある。その一部を挙げる。
0167 御言不御問 みこととはさず
0230 何如問者 なにかととへば
0448 何在登問者 語将告可 いづらととはば かたりつげむか
 0167のように、上代の尊敬の助動詞「す」がつく場合もある。
《答(こた)ふ》
 ハ行下二段活用。「こたふ」とよむのは4例ある。その一例を挙げると、
2545 誰彼登 問者将答 為便乎無 君之使乎 還鶴鴨  たそかれと とはばこたへむ すべをなみ きみがつかひを かへしつるかも
なみ…形容詞「無し」の語幹に原因・理由を表す接尾語「み」がついたもの。「ないので。」
「あの人はだれ?と聞かれても答える術が無いので、あなたの使いを帰してしまうかも」。
 遠距離恋愛ではありがちなことである。「たそかれ」は「黄昏」の語源として有名である。
《答(いへ)り》
1740(抜粋) 吾者来南登 言家礼婆 妹之答久 われはきなむと いひければ いもがいへらく
 「いへらく」の「いへ」は命令形だから、続く「ら」は完了の助動詞「り」の未然形である。 
《獲(と)る》
 「獲」を用いた歌は、一首だけある。
4182 霍公鳥 雖聞不足 網取尓 獲而奈都氣奈 可礼受鳴金  ほととぎす きけどもあかず あみとりに とりてなつけな かれずなくがね (ホトトギス 聞けども飽かず 網取りに 獲りて懐けな 離れず鳴くがね)
懐けな…「懐く」の命令形+願望の助詞「な」
がね…終助詞(または接続助詞)。理由・根拠を述べる。尾張地域の方言、語尾に付ける「~がね」に通ずるか。
「ホトトギスの鳴くを聞き、飽きることはない。網で獲って懐かせたいものだ。離れず鳴くために。」
 以上から、「獲」は意味は「獲得」で、よみは「とる」だと考えられる。
《吉(よし)》
 奈良に係る枕詞「あをによし」を「青丹吉」と表記する例が、0017など13例ある。 従って、「吉」は、「よし」である。

【答白】
 上記、万葉集1740に「答久=いへらく」があったが、「いふ」は中立なので「白(まを)す」の謙譲の意が表しきれない。 そこで謙譲語「まをさく」に置き換えると、結局「白さく」となり、「答」は直接読まれず意味のみを表す。 しかし「こたふ」も万葉集にあり、更に「白す」は補助動詞になり得るので「こたへまをす」とよむのも可能である。このように訓読が複数あり、どちらも妥当である場合もある。

【まかごゆみ】
 万葉集に「まかごや」が一例ある。
4465(抜粋) 波自由美 多尓藝利母多之 麻可胡也乎 多婆左美蘇倍弖  はじゆみを たにぎりもたし まかごやを たばさみそへて (櫨弓を手握り持たし 真鹿児矢を 手挟み添へて)
櫨弓…櫨(はぜ)の木で作った弓。
 すなわち、「まかご矢」「まかご弓」は、ある型の弓矢を示す普通名刺だと思われる。

【下照比売】
 下照比売は、第68回の系図に登場する。 大国主命と多紀理毘売との間の子。その兄は阿遅鉏高日子根(あちすきたかひこね)の神。

【日本書紀本文】
故、高皇産靈尊、更會諸神、問當遣者、僉曰「天國玉之子天稚彥、是壯士也。宜試之。」
於是、高皇産靈尊、賜天稚彥天鹿兒弓及天羽羽矢以遣之。
此神亦不忠誠也、來到卽娶顯國玉之女子下照姬【亦名高姬、亦名稚國玉】。
因留住之曰「吾亦欲馭葦原中國。」遂不復命。
故(かれ)、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、更に諸神(もろもろのかみ)に会はして、遣(つかは)さす当(べ)き者(もの)を問ひたまへば、僉(みな)曰(まを)さく「天国玉(あまつくにたま)之子天稚彦(あめのわかひこ)、是れ壮士(をとこ、たけきひと)也(なり)。宜(よろ)しく之を試(こころみ)るべし。」とまをす。
於是(ここに)、高皇産霊尊、天稚彦に天鹿児弓(あめのまかごゆみ)及(と)天羽羽矢(あめのははや)とを賜(たま)ひて、以ちて遣(つか)はしき[之]。
此の神亦(また)不忠誠(まめなら)ざりや[也]、来到(きた)りて即ち顕国玉(うつしくにたま)之(の)女子(むすめ)下照姫(したてるひめ)【亦の名は高姫(たかひめ)、亦の名は稚国玉(わかくにたま)】を娶(めあは)せき。
因(よ)りて留(とどま)りて住み[之]曰(まを)さく「吾(われ)も亦(また)葦原中つ国を馭(をさ)まむと欲(ほ)り。」とまをして、遂(つひ)に不復命(かへりごとまをさざ)りき。

《壮士》
 『倭名類聚抄』には、「日本私記云はく壮士【太介木比止】」(たけきひと)とある。 この『日本私記』について調べると、<wikipedia>『日本書紀私記』(にほんしょきしき)は、平安時代に行われた『日本書紀』の講書の内容をまとめた書物</wikipedia>である。 日本書紀完成(720年)直後の721年から平安時代の965年までの間に、書紀の訓読法の講義が7回行われたという。『私記』はその記録だと考えられている。 完成直後からこのような講義を必要としたということは、当時の官僚には殆ど訓読できない代物であったということである。
 話を「壮士」に戻すと、記では「壮夫」を「をとこ」と訓ませているので、書記の編者自身は「壮士」を「をとこ」と訓んだかも。『私記』はあくまでも一つの解釈であり、絶対的ではないと思われる。
《顕国玉神》
 顕国玉神は大己貴神の別名であるが、それが書かれたのは、一書6(「降到於出雲國簸之川上」の段)であって本文ではない。 従って、「一書」を公式の文書として認めない立場に立てば、正体不明の神になってしまう。
《馭》
 「馬車を操る」(馭者)から転じて「統率する」意。
《復命》
 この語が使われていることにより、記の「復奏」が「復命」の意味であることが確認できる。

【天若日子】
 天若日子は与えられた任務に背き、大国主の娘婿になることによって支配者の地位の禅譲を受け、自ら葦原中津国の支配者になることを狙う。
 ここで想起されるのが、大国主も須佐之男の娘を娶り、試練を経て国の主となったことである。古代出雲には、娘婿が権力を継承する習慣があったのかも知れない。
 紀における「吾亦」(われもまた)という表現は、地方の支配者の誰もが「天下の主になるチャンスあり」と、野心を露わにした戦国時代を彷彿とさせる。 乱世には主君を裏切り敵方に与し、あわよくば自ら天下の主を狙う者も出現するものである。まことに欲望と駆け引きに満ちた、下克上の時代であった。

まとめ
 この次の段では、また雉が口を利いたり矢が天界まで届くなど、空想的な話になる。そのような空想を取り除いてみると、現実の国盗りの渦中にある王としての振る舞いが浮かび上がる。 ここに、記の構造「古い歴史的事実が塗り込められ、表面に、種々の神々の物語が盛られる」の例が見られる。
 これは、神話の法則かも知れない。新約聖書においても、現実の人として迫害に遭い悩むイエスと、空想的な奇跡の実行者としてのイエスが共存している。


2014.07.28(月) [073] 上つ巻(国譲り3) 
故爾 天照大御神高御產巢日神 亦問諸神等 天若日子久不復奏 又遣曷神以問天若日子之淹留所由
於是諸神及思金神答白 可遣雉名鳴女
時詔之 汝行問天若日子狀者 汝所以使葦原中國者 言趣和其國之荒振神等之者也 何至于八年不復奏
故爾鳴女自天降到 居天若日子之門湯津楓上而 言委曲如天神之詔命

故爾(しかるがゆゑに)、天照大御神(あまてらすおほみかみ)と高御産巣日(たかみむすひ)の神と、亦(また)諸神等(もろもろのかみら)に問ひたまひしく、「天若日子(あめのわかひこ)久しく不復奏(かへりごとまをさざ)りき。又(また)曷(いづれ)の神をや遣はし、以(も)ちて天若日子之(が)淹留(ひさにとど)まる所由(よし)を問はしむや。」ととひたまひき。
於是(これに)諸神(もろもろのかみ)及(と)思金神(おもひかねのかみ)と答へ白(まを)さく、「雉(きぎす、きじ)、名は鳴女(なきめ)を遣はしたまふ可(べ)し。」とまをしき。
時に詔之(のたま)ひしく「汝(いまし)行(ゆ)きて天若日子に問ふべき状(ありさま)者(は)『汝(いまし)を以(も)ちて葦原中国(あしはらなかつくに)に使(つか)はす[所]者(は) 其の国之(の)荒振(あらぶ)る神等(ら)を言趣(ことむ)け和(やは)すためなれ[之]者(ば)[也]何そ八年(やとせ)に[于]至りて不復奏(かへりごとまをさざ)りける。』なり」とのりたまひき。
故爾(しかるがゆゑに)鳴女(なきめ)天(あめ)自(よ)り降(お)り到り、天若日子之(が)門(と)の湯津楓(ゆつかつら)の上に居(を)りて[而]天(あま)つ神之(の)詔命(みことのり)の如(ごと)く委曲(つばら)を言ひき。


爾天佐具賣【此三字以音】聞此鳥言而 語天若日子言
此鳥者 其鳴音甚惡故 可射殺 云進
卽天若日子 持天神所賜天之波士弓天之加久矢 射殺其雉
爾其矢自雉胸通而逆射上 逮坐天安河之河原 天照大御神高木神之御所
是高木神者 高御產巢日神之別名

爾(ここに)天佐具売(あめのさぐめ)【此の三字音(こゑ)を以ちゐる。】此の鳥(とり)の言(こと)を聞きて[而] 天若日子に語りて言(まを)さく、
「此の鳥者(は)、其の鳴く音(こゑ)甚(いと)悪しき故(ゆゑ)に、射(い)殺(ころ)す可し。」と云(まを)し進めて、
即ち天若日子、天つ神に賜はりし[所の]天之波士弓(あめのはじゆみ)、天之加久矢(あめのかくや)を持ちて、其の雉を射(い)殺(ころ)しき。
爾(すなは)ち其の矢、雉の胸自(ゆ)通(とほ)りて[而]逆(さか)しまに射上(いあ)がり、天安河之河原坐(ましま)す天照大御神と高木神(たかきのかみ)と之(の)御所(みところ)に逮(いた)りき。
是(これ)、高木神者(は)高御産巣日神之(の)別名(またのみな)なり。


 そこで、天照大御神(あまてらすおほみかみ)と高御産巣日(たかみむすひ)の神が、再び諸神たちに問うには、「天若日子(あめのわかひこ)なかなか復命しない。今度はどの神を遣わし、天若日子が淹留(えんりゅう)する理由を尋ねさせようか。」
 これに神々と思金神(おもひかねのかみ)が答へ申し上げるに、「雉、名は鳴女(なきめ)と言うを遣はすのが適当です。」
 そこで命じられましたのは「お前が行って天若日子に様子を問うことばは『お前を以って葦原中国(あしはらなかつくに)に遣わしたのは、その国の荒ぶる神たちを説得し、帰順させるためなのに、何故に八年に至り復命しないのか。』である。」
 このようにして、鳴女は天より降(くだ)って行き、天若日子の門のところの湯津楓(ゆつかつら)の枝に留まり、天つ神の詔(みことのり)をそのまま、詳細に話しました。
 すると天佐具売(あめのさぐめ)が、この鳥の言葉を聞き 天若日子に進言申し上げるには、 「この鳥は、その鳴き音がはなはだ悪いので、射殺してしまいましょう。」と申し上げ、 直ちに、天若日子は天つ神に賜わった天之波士弓(あめのはじゆみ)、天之加久矢(あめのかくや)を持ち、その雉を射殺しました。
 すると、その矢は雉の胸を貫き、逆に射上(いあ)がり、天安河(あめのやすかわ)の河原の天照大御神と高木神(たかぎのかみ)のいらっしゃるところに達し、掴みとられました。
 ここで、高木神は高御産巣日神の別名です。


…[代] いづれ。
…[動] ひたす。とどまる。いたる。
淹留…長くとどまる。
ゆゑよし(故由)…理由。わけ。
ゆゑん(所以)…理由。わけ。
所由(しょゆう、よるところ)…よって立つところ。ゆえん。
やはす(和す)…[他]サ行四段 帰順させる。
ゆつかつら(斎つ桂)…[名] 神聖な桂の木。
委曲…詳細なさま つばら
つばら…[形動](-なり) まんべんない。細かく詳しい。 
すすむ(進む、勧む)…[他]マ行下二 促す。
はじゆみ(櫨弓)…[名]はぜのきで作った弓。
いる(射る)…[他]ヤ行上一 矢などを放つ。射当てる。
とほす(通す)…[他]サ行四段 貫く。穴などを通り抜けさせる。
…[動] ①およぶ。②とらえる。
およぶ…[自]バ行四段 至る。追いつく。達する。
とらふ…[他]ハ行下二 手でつかむ。つかまえる。
こと-(異)…[接頭] (体言の上について)別の。他の。 

【久】
 「ひさし」。万葉集に例を見る。
0082 久堅乃 ひさかたの 0232 久尓有勿國 ひさにあらなくに
0310 不相久美 あはずひさしみ 0311 不見久有者 みずひさならば
0315 長久 ながくひさしく

【雉】
 倭名類聚抄によれば、「和名木々須一云木之(和名「きぎす」あるいは「きじ」という)。 「きじ」という呼び名も、平安時代には既にあったことがわかる。

【留】
 万葉仮名の「家留=ける」として無数に使われる。訓読みでは、
0230 立留 たちとまり
0254 留火之 ともしびの
0461 留不得 とどめえぬ
などとよまれる。

【淹留】
 万葉集の大伴池主(おほとものいけぬし)の歌の序文に漢詩が付され、この語が使われる。
3973(序文抜粋) 縦酔陶心忘彼我 酩酊無處不淹留 縦酔陶心、彼我(かは)を忘れ、酩酊し無淹留(えんりう)せ不る処無し。
 酔いを縦(はな)ち、陶(こころよ)い心に自他の区別がつかなくなり、酩酊して所構わず座りこんだ。
 ここでは、「長く滞在する」を「座り込んで腰を上げない」意味で使っている。

【所由】
 「所以」と同じく「ゆゑん」とよむことができる。ただし、「ゆゑん」は漢文訓読語の「故(ゆえ)になり」の音変化「ゆえんなり」によると考えらるので、平安時代以後のよみだと思われる。 万葉集では、0187「所由無」があるが、「つれもなき」とよみ、現代語の「つれない」に通ずる。
 類例を検索すると、
つれもなき0167 由縁母無 0460 都礼毛奈吉 3326 津礼毛無
つれもなく0717・0928 都礼毛無 3341・3343 津煎裳無 4184・4198 都礼毛奈久
つれなきものを2247 都礼無物乎
がある。このうち訓読みによる「由縁」「所由」から、「つれ」の意味は「ゆかり」あるいは「ゆゑ」であると考えられる。 即ち「わけもなく」「ゆかりもなく」により切なさを表現しているのである。だが「つれ」単独で「ゆかり」の意味で使われることはないので、今回の部分では「つれ」と訓むことはできない。

【状】
 万葉集に、2481・2941 跡状 たどき があるが、「たどきなし」「たどき知らず」に用いるばかりである。 古訓に「かたち」。
ありさま(状)…[名] 状態。

【和】
 「やはす。
 万葉集に、0199 人乎和為跡 ひとをやはせと がある。

【鳥】
 倭名類聚抄に、「…曰禽【和名与鳥同土里】」(…禽と曰う。【和名、鳥と同じく「とり」】)とある通り、 鳥は「とり」である。

【湯津楓】
 書紀本文は、「湯津杜木之杪。【杜木、此云可豆邏也。】」つまり、「湯津杜木」は「ゆつかつら」である。 ならば、記の「湯津楓」も「ゆつかつら」とよむかも知れない。そこで『倭名類聚抄』を見ると、
桂…和名 女加豆良(めかつら)」
楓…和名 乎加豆良(をかつら)」
 とあり、それぞれに「かつら」を分類した名称となっている。
《漢和辞典に見る楓・桂》
 それでは、漢語としてはどのような植物を指したのであろうか。漢和辞典によれば、
…①フウ(マンサク科)②トウカエデ(カエデ科)などの別称。
…①ニッケイ(ク②モクセイ(モクセイ科) ③(日本語用法)カツラ(カツラ科)

 このように、それぞれ複数の植物を指す。
《楓》
フウ…楓、学名: Liquidambar formosana。フウ科フウ属の落葉高木。 種名は「台湾の」の意味。別名タイワンフウ(台湾楓)、カモカエデ(賀茂楓)など。古名、オカツラ(男桂)。
トウカエデ…唐楓。学名:Acer buergerianum。カエデは、カエデ属 (Acer) の木の総称。
《桂》
ニッケイ…肉桂。学名:Cinnamomum sieboldi。クスノキ科。樹皮から香辛料シナモンを得る。
ヤブニッケイ…藪肉桂。学名: Cinnamomum tenuifolium。クスノキ科クスノキ属の植物の一種。別名ウスバヤブニッケイ、ナンジャモドキ。
モクセイ…木犀。学名: Osmanthus fragrans。モクセイ科モクセイ属の常緑小高木。別名ギンモクセイ(銀木犀)。中国名は桂花。
カツラ…桂。学名:Cercidiphyllum japonicum。カツラ科カツラ属の落葉高木。 <wikipedia>高さは30mほど、樹幹の直径は2mほどにもなる。葉はハート型に似た円形が特徴的で、秋には黄色く紅葉する。</wikipedia>
 書記の注記により、記紀編纂の時代に遡れば「雌」も「雄」も付けず桂・楓とも「かつら」と呼ぶことがあったことが分かる。倭名類聚抄の成立は、その200年ほど後の平安時代である。 <wikipedia>中国の伝説では「桂」は「月の中にあるという高い理想」を表す木であるが、中国で言う「桂」はモクセイ(木犀)のことであって、日本では古くからカツラと混同されている。</wikipedia> カツラは、日本各地に生育する。伝説上の植物として伝わった「桂」に、倭国では身近に生育するカツラを当てはめたと思われる。

【天佐具売】
 天若日子に、雉の鳴き女を射殺すよう進言するのが、唯一の登場場面である。 天若日子が万が一にも高御産巣日神の説得に応じ、天に戻ってしまうことを警戒する立場であったと考えられる。

【天之波士弓・天之加久矢】
 天若日子に与えられたときの名称は、天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)・天之波波矢(あめのははや)だったのに、いつの間にか名称が変わっている。 これらが同一であることは、次の段で「高木神告之此矢者所賜天若日子」(高木の神のらさく「この矢は天若日子に賜ひしなり」)ように明白である。
 途中で簡単に名称が変わるということは、特別の意味を持たせた名称ではなく、ごく一般的な呼び方であったことを示している。(「雉」を、他の文で「その鳥」というようなもの。)
 なお、前回見たように万葉集の
4465  はじゆみを たにぎりもたし まかごやを たばさみそへて
 においては、「まかごや」をつがえるのが「はじゆみ」である。 また、神々の世界の話なのですべて美称「天の」がつけられている。
 なお書紀では、記で名称が途中で変わることを問題視したためか、統一されている。

【通】
 万葉集には「かよふ」が多いが、「とほる」という訓もある。
 0135 衣袖者 通而沾奴 ころものそでは とほりてぬれぬ

【逆射上】
 「」がつく語を古語辞典で見ると「さかしま」「さかさま」「さかふ」「さかまく」「さかはぎ」が載っている。
 古語辞典で「さかしま」の文例に、「心にさかしま悪(あしきこと)を懐(なつ)きて」(書紀巻14、雄略天皇)があった。 原文は、「心懷悖惡」である。「悖」は「もとる」(道理にはずれる)であるから、「さかしま」は意訳である。
 万葉集には、2430 水阿和逆纒 みなあわさかまき のように「逆まく」がある。 万葉集では「射」は、音が「ざ」「ざ」訓が「い」である。
 弓矢は天若日子と共に、地に降りたものである。それが射られて天に届くのだから、「逆に射上って」くるのである。 一度放たれた矢が鳥を射殺した後、向きを上方に変えて天に届くというのは神話ならではであるが、使者が殺された事実を天の高御産巣日神らに伝えようとする、矢あるいは雉の意思がはたらいたと捉えることができる。

【逮】
 「とらふ」について調べると、万葉集2943 偽乎 好為人乎 執許乎 いつはりを よくするひとを とらふばかりを がある。
 「およぶ」だとすれば、万葉集に例はないが、古語辞典では詳細な説明を伴う重要語である。文例は、平家物語(13世紀)からが多い。 書紀には「及」は多く、例えば巻七(景行~成務)「日本武尊、幼有雄略之氣、及壯容貌魁偉」には「およぶ」「いたる」が当てはまると思われる。 巻九(神功皇后)「『先日教天皇者誰神也、願欲知其名。』逮于七日七夜、乃答曰神功皇后が、「先日、天皇に教えられたのはどの神か、その名を知りたい」と尋ね、七日七夜待ってやっと(天照大御神であるという)答を得た。
 今回の段では尊敬の補助動詞「(ます)」がついているので、主語は天照大御神・高木神となり、「手に取る」意味で、「とらふ」が適当だと思われる。

【別名】
 「高木神は、高御産巣日神の別名である。」の意味する所に誤解の余地はないが、「別名」の訓読みは何であろうか。「別」の訓は「わかつ」「わけ」「こと」である。
 万葉集には「わかれ」が多い。また記では固有名詞において、国生みの段「土左国謂建依別(土佐の国はたけよりわけと言う)など、「わけ」とよまれる。 「和気」が各地の地名に残ることから、「わけ」は古く「国」に相当する区分を表した可能性がある。
 一方、天地初発から最初に現れた5柱の神は特別に「別天神」と呼び「ことあまつかみ」とよむ。「こと」は「異」に通ずる。 古語辞典によれば、接頭辞「こと-」は「別の」という意味で使われる。

【日本書紀本文】
是時、高皇産靈尊、怪其久不來報、乃遣無名雉伺之。
其雉飛降、止於天稚彥門前所植【植、此云多底婁】湯津杜木之杪。【杜木、此云可豆邏也。】
時、天探女【天探女、此云阿麻能左愚謎】見而謂天稚彥曰「奇鳥來、居杜杪。」
天稚彥、乃取高皇産靈尊所賜天鹿兒弓・天羽羽矢、射雉斃之。
其矢、洞達雉胸而至高皇産靈尊之座前也。
是の時、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)、其の久しく不来報(かへりごとまをさざ)ることを怪びて、乃(すなは)ち名の無き雉(きぎす)を遣(つかは)して、之(これ)を伺(うかが)はしめき。
其の雉飛び降(くだ)り、天稚彦(あめのわかひこ)の門(と)の前に植(たてる)【植、此れ多底婁(たてる)と云ふ。】[所の]湯津杜木(ゆつかつら)之(の)杪(こずゑ)に[於]止まりき。【杜木、此れ可豆邏(かつら)と云ふ[也]。】
時に、天探女(あまのさぐめ)【天探女、此れ阿麻能左愚謎(あまのさぐめ)と云ふ。】見て[而]天稚彦(あめのわかひこ)に謂(まを)して曰はく「奇(く)しき鳥(とり)来たり、杜杪(かつらのこずゑ)に居(を)り。」といひて、
天稚彦、乃(すなは)ち高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)に賜(たまは)りし[所の]天鹿児弓(あめのまかごゆみ)、天羽羽矢(あめのははや)を取り雉を射て、之を斃(たふ)しき。
其の矢、雉の胸を洞達(とほ)りて[而]高皇産霊尊之(の)座(ましま)す前(みまへ)に至りき[也]。

…まっすぐに立つ、立てる。訓「たてる」は漢和辞典にも採用されている。  …こずゑ。  洞達…①広く通ずる。②流暢である。③はっきりと理解する。④貫通する。
ぬく(貫く)…付き貫く。  …たおす。傷害を与えて倒す。たおれる。
 天照大神が関わらない点を除き記と一致するが、重複を省き簡潔に書かれる。

【書紀では、天照大神は使者の派遣に関わらない】
 大国主への制圧戦略に関して高皇産霊の尊を責任者とし、天照大御神を外したのは、天照大神を現実的な戦いから超越した立場に置くためであろうか。 天皇の祖である天照が、地上の勢力争いの一方に加担した形になるのを避けようとする意思がはたらいたようにも思われる。 記で二女神で共同して責任を負うことで、既に天照の関わりを薄めようとしているが、さらにそれを徹底したと見ることができる。

まとめ
 雉は古くから狩猟の対象であったことがこの話にも関係するようである。また「桃太郎」などの民話にも登場する。 その鳴き声は「ケーン」と高く目立つが、一般的にそれを不吉とするような言い伝えは見つけることができなかった。 木の枝の上から、周囲に声高に天若日子への詰問を言いたてたことが、天佐具売に不快感を覚えさせたのかも知れない。


2014.08.02(土) [074] 上つ巻(国譲り4) 
故高木神取其矢見者 血著其矢羽
於是高木神告之 此矢者所賜天若日子之矢
卽示諸神等詔者 或天若日子不誤命 爲射惡神之矢之至者不中天若日子
或有邪心者 天若日子 於此矢麻賀禮【此三字以音】
云而取其矢 自其矢穴衝返下者 中天若日子寢朝床之高胸坂以死 【此還矢之本也】
亦其雉不還故 於今諺曰 雉之頓使 是也

故(かれ)高木神(たかきのかみ)、其の矢を取りて見(め)せ者(ば)、血(ち)其の矢羽(やばね)に著きき。
於是(ここに)高木神告之(のたま)はく「此の矢者(は)天若日子に賜ひし[之][所の]矢なり。」とのたまひき。
即ち諸神(もろもろのかみ)等(ら)に示し詔(のたま)へる者(は)「或(ある)は、天若日子(あめのわかひこ)の命(おほせこと)を不誤(あやまたな)ば、悪しき神を射る為(ため)の矢之(の)至(いた)ら者(ば)天若日子には不中(あたらず)、
或(ある)は邪(よこしま)なる心有ら者(ば)、天若日子、此の矢に[於]麻賀禮(まかれ)【此の三字(みつのじ)音(こゑ)を以ちゐる。】。」
と云(のたま)ひて[而]其の矢を取り、其の矢の穴自(よ)り衝(つ)き返(かへ)して下(お)ろせ者(ば)、天若日子の寝(い)ぬる朝床(あさどこ)之(の)高胸坂(たかむなさか)に中(あた)りて[以]死にき。【此れ、還矢(かへしや)之(の)本(もと)也(なり)】
亦(また)其の雉不還(かへらぬ)故(ゆゑ)於今(いまに)諺(ことわざ)に曰はく、雉之頓使(きぎすのひたつかひ)、是(これ)也(なり)といふ。


 そこで高木(たかぎ)の神がその矢をお取りになり御覧になったところ、血がその矢羽に付いていました。 そこで、高木の神が仰るには「この矢は天若日子に与えた矢である。」
 そのまま神々らに示し仰るには「もし、天若日子(あめのわかひこ)が詔(みことのり)に背いていなければ、悪神を射た矢だと考えられるに至るので、天若日子には当たらないであろう。 さにあらず邪心があるなら、天若日子はこの矢に当たってこの世から去れ。」 と仰るや否や、その矢を手に取り その矢穴から突き返し落としたところ、天若日子が寝ていた朝の床で、胸に当たって死にました。【これが、返し矢という言葉の元です。】
 またその雉が帰ってこなかったので、今に伝わる諺にいわく、「雉之頓使(きぎしのひたつかい)」がこれです。


…[代] ①あるひと。②あるいは。或A或Bの形で列挙する。[接] あるいは。[副] ことによると。[動] 存在する。
あるは…[接] あるいは。または。同類の事柄のうち、どれか一つを選択するときに用いる。
あたる(当たる)…[自]ラ行四段 ①当てはまる。②命中する。
よこしま(横しま、邪)…[形動]なり ①横の方向であること。②正しくないこと。邪道。
…[助] ~ば。仮定表現の重文で条件節の後に置き、仮定の意を表す。
…[接助] ①~たら。(未然形について順接の仮定条件)②~ので。(已然形について順接の確定条件)  
…[形] 正しくないさま。[名] よこしま。
まかる(罷る)…[自]ラ行四段 ①出ず、行くの謙譲語。行くの丁寧語。②死ぬ。
あさどこ…[名詞] 朝寝の床。〈時代別上代〉ヨドコ〔夜床〕の対。
たかむなさか(高胸坂)…[名] 胸。仰向けに寝ている人の胸が坂のように見える所から。
ことわざ(事業、諺)…[名] ①行為。故事。②昔から言い習わされてきた、教訓や風刺を含んだ短句。
きぎしのひたつかひ(雉之頓使)…[名] 行ったきり帰ってこない使者。
ひた-(直)…[接頭] ①ひたすら。②じかに。③まったく・純粋な。
…[動] ぬかづく。つまづく。[副] にわかに。頓挫=急に調子が変わる。くじけて行き詰る。
すつ(棄つ、捨つ)…[他]タ行下二 捨てる。身命を投げ出す。

【見者】
 「見れば」でもよいが、主語が神なので尊敬語にする方がよい。
 万葉集の、0052 見之賜者 めしたまへば が参考になる。

【著】
 万葉集では、「つく」が多数ある。その一部を掲げる。
0019 衣尓著成 きぬにつくなす
0041 釼著 手節乃埼二 くしろつく たふしのさきに くしろつく」は「」への枕詞。釧(くしろ)は古代の装身具で手首・腕につける。
0101 神曽著常云 かみぞつくといふ
0250 舟近著奴 ふねちかづきぬ
 また、「着る」もある。
0199 麻衣著 あさごろもきて
 このように、「著」は、ほぼ「付」「着」の意味で使われている。

【示】
 万葉集には4例あり、すべて「しめす」とよむ。
0360 何矣示 なにをしめさむ 0725 情示左祢 こころしめさね 1694 妹尓示 いもにしめさむ 1753 示賜者 しめしたまへば

【よこしま】
 万葉集に用例がある。ただし、「横」の意味である。0904 横風乃 よこしまかぜの

【まかれ】
 「」は「罪を赦す」「任を解く(罷免)」の意味であるが、日本語用法では「退出する」、 さらにこの世を去るということで「死ぬ」意味がある。「みまかる」と同じである。
 「まかれ」はその已然形または命令形となる。已然形だとすれば係り結びなので、係助詞「こそ」を補い「天若日子こそ、この矢に罷れ」(天若日子こそがこの矢にて殺されるべきである)あるいは「天若日子、この矢こそ罷れ」(この矢こそが天若日子を殺すものである)となる。 しかしこの場合、「こそ」の万葉仮名による表記があってもいいのではないかと思われる。
 命令形だとすれば「もし邪心を有するなら、この矢で死ね。」と強く叫ぶ。
 その直後に矢を投げ返すので、ここでは感情的な言葉を発したと考えることができる。 この命令形を確実に表すために、敢えて万葉仮名を使用したとも考えられる。

【為射悪神之矢之至者】
 原文では悪神と矢の関係が分かりにくく、難解である。 ここでは、文法からアプローチしてみる。
 「所+動詞+之+体言」の形は、動詞を連体形にして体言を連体修飾する。漢文では本来「」は不要だが、万葉仮名で「し」とよむことから、しばしば完了の助動詞「き」の連体形「し」を表す。 この形になるように「」を補ってみると、「所為所射悪神之矢之至者」となる。
 内側の節「所射悪神之矢」は、書紀の「蓋与国神相戰而然歟」(けだし、国つ神と相戦ひて然る[=血が着いた]や)を参照すると、「天若日子が悪神に矢を射た」という文を「矢」への連体修飾に変形したと見られる。
[元々の主述構造] 射悪神矢。(主語・天若日子が隠れている。)動詞「」は二重の目的語をとる。「悪神に」が対格。「矢を」が与格。(対格、与格はラテン語文法の用語)
["矢"を連体修飾] 所射悪神之矢 (悪神を射し所の矢)
 次に外側の節「所為~矢」は「」によって体言化し、ここでは「」の目的語となる。「之」は、VOの目的語を倒置する機能(「O之V」となる)がある。 「す」は、ここでは「~と判断できることになる」という意味である。
 また、「至者」の「者」は接続助詞「」である。ここでは仮定条件なので「至」は未然形で「至らば」と訓む。
 以上から、「悪神を射し(所の)矢と為(な)しし(所)に至らば」(悪神を射た矢と判断することができるので)と訓読することができる。

【或A或B】
 これも漢文の構文で、2つの場合を列挙するものである。
 まず「或A」に当たる部分は、前項の解釈から、 或は、天若日子の命(みこと)を誤らず、悪神を射し矢と為(な)ししに至らば、天若日子に中(あた)らざらむ、 (もし天若日子が命令に背かず、(血のついた矢が)悪しき神を射た矢と判断されるに至れば、(投げ返す矢は)天若日子に当たることはないだろう)
 また「或B」は、 或は、邪(よこしま)なる心有らば、天若日子は此の矢にてまかれ。 (もし邪心があれば、天若日子はこの矢によって死んでしまえ。)
 要するに、命令に背いていなければ、矢に付着した血は天若日子が射殺した国つ神のものとなる。それなら、この矢を投げ返しても天若日子に当たることはない。 しかし、命令に背く心があれば、矢は天若日子に当たって死んでしまえと言うのである。
 では「もし命令に忠実だったとすれば、こうであるはずだ」と論理的であるが、は感情を露わにしている。 高木神は、実際には天若日子が命令に従っているとは本当は露ほども思っていないから、はじめに保っていた論理的な物言いは崩れ、感情的に言い放つのである。

【高胸坂】
 書紀では単に「」と書かれる。万葉集で「胸」は「むね」「むな」と読むが、「たかむね」も「むなさか」も出てこない。 手許の古語辞典の他、ネット上で辞書を検索してみても、文例は必ずこの文なので、記のこの文が唯一の用例かも知れない。

【自其矢穴衝返下】
 矢穴は、矢が逆上がってきたときに天界の地面を突き抜けて開けた穴であると読み取れる。 天界は空の上にあるが、独自の地面を持っていると想像されている。
 その穴を通して矢を投げ落とすと、地で寝ていた天若日子の胸に見事命中した。 天若日子は、朝、まだ寝ている間に不意打ちを食らう。

【朝】
 古語辞典の解説によれば、「朝」は、昼に向かうことを意識するときは「あさ」、夜が明けた後を意識するときは「あした」だという。 万葉集には両方とも使われるが「あさ」の方が「あした」より圧倒的に多い。

【雉之頓使】
 「」の訓は、万葉集では形容動詞「たちまち」が二例ある。 1740 たちまちに 3885 頓尓 たちまちに 「たちまちなり」の意味は「突然に」である。
 しかし、ここでの用法は「たちまちに」とは異なる。
 「ひた」は「直接に」なので、「戻ることのない」という意味であろうか。

【日本書紀本文】
時高皇産靈尊見其矢曰「是矢、則昔我賜天稚彥之矢也。血染其矢、蓋與國神相戰而然歟。」
於是、取矢還投下之、其矢落下則中天稚彥之胸上。于時、天稚彥、新嘗休臥之時也、中矢立死。
此世人所謂反矢可畏之緣也。
時に高皇産霊(たかみむすひ)の尊(みこと)其の矢を見(め)し曰(のらさ)く「是の矢は則(すなは)ち昔(むかし)我(わが)天稚彦(あまつわかひこ)に賜(たま)ひし[之]矢也(なり)。血の其の矢に染(し)むは、蓋(けだ)し国つ神与(と)相(あひ)戦(たたか)ひて[而]然(しか)る歟(や)。」
〔この矢はまさに、かつて天雅彦に与えた矢である。其の矢に血がついているのは、国津神と相戦ってそのようになったのではあるまい。〕
於是(これに)、矢を取り還(かへ)し投げ下(お)ろし[之]、其の矢下(した)に落ち則(すなは)ち天稚彦之(の)胸の上(うへ)に中(あ)てき。于時(ときに)、天稚彦、新嘗(にひなめ)に休み臥(ふ)しし[之]時に[也]、矢に中(あ)てられ立(ち)死にき。
此れ世人(よのひと)の所謂(いはゆる)「反矢可畏(かへしやおそるべし)」之(の)縁(よし)也(なり)。

《「昔」のよみ》
 「むかし」に類似する語に「いにしへ」がある。どちらが適当であろうか。
いにしへ…①経験したことのある昔。②経験したことのない遠い昔。万葉集の表記は「古昔」「古」。
むかし…①直接経験しない遠い昔。②直接経験した過去。万葉集の表記は「昔」。
《蓋与国神相戦而然歟》「蓋(けだ)し、国つ神と相戦ひて然る歟(や)」
 と、述べている。蓋、歟は、両方とも漢文の反語である。つまり、 国つ神と戦ってこのようになった[=矢に血が付いた]のか?そんなことがあるはずはない。
《中矢立死》
 「矢立」は矢を入れる筒、或いは携帯用筆記具だが、ここでは無関係である。また「立死」は立ったまま死ぬことを表すが、 ここでは臥(ふ)したところに矢が当たって死に、垂直に突き立っているのは矢の方だから、「立」の主語は矢かも知れない。
 しかし、矢が刺さった後一度立ち上がって死ぬという解釈も、可能である。 「中矢」(矢に当てらる)、「死す」の主語は天雅彦だから、それらに挟まれた「立つ」の主語も天雅彦と考えるのは自然である。
《反矢可畏(かへしやおそるべし)
 書紀では、記の「此還矢之本也」よりもやや詳しく述べている。 「矢を射れば射返されることを覚悟しておけ」という意味であろうか。 この諺の元に成る故事とされるが、検索しても他の文献にこの諺は出てこないので、実際の使われ方は不明である。 また書紀には、記の「雉之頓使」はない。
《記との比較》
 この部分はほぼ記の要約であるが、矢に当たったのが朝寝ていた時とは書かれず、新嘗後の休息中と書かれている。 ここでは、天稚彦が既に新嘗祭を主宰する大王(おほきみ)のような地位に就いていたことを示す。
 新嘗祭については、かつて須佐之男命は、天照大御神の新嘗祭の神殿に糞をまき散らすという狼藉をはたらいた。 新嘗祭は、王が新しい作物を神と共に食する神聖な儀式である。その重要な儀式の主宰者を痛めつける場面を描くことにより、その衝撃を際立たせるのである。

まとめ
 天若日子に差し向けられた詰問使を殺した。すると、その矢が天から射返されて天若日子は殺されてしまった。 天照と大国主という2つの勢力の間で、激しい戦闘が繰り広げられた頃の遠い記憶が、このような神話に影を落としているのかも知れない。
 「或は」のところの文は純粋な漢文とは言いきれないが、和風漢文としてこれまでに得た表記ルールによって解を得た。 この表記ルールについては、さらに検討を深めていきたい。


2014.08.15(金) [075] 上つ巻(国譲り5) 
故天若日子之妻下照比賣之哭聲 與風響到天
於是在天 天若日子之父天津國玉神及其妻子聞而 降來哭悲
乃於其處作喪屋而河雁爲岐佐理持【自岐下三字以音】
鷺爲掃持 翠鳥爲御食人 雀爲碓女 雉爲哭女 如此行定而 日八日夜八夜遊也

故(かれ)天若日子(あめのわかひこ)之(の)妻(つま)下照比売(したてるひめ)之(の)哭(な)く声(こゑ)、風と与(とも)に響(とよ)みて天(あめ)に到りき。
於是(ここに)天(あめ)に在る天若日子之(の)父(ちち)天津国玉(の)神及(と)其の妻子(めこ)と聞きて[而]降り来たり哭(な)き悲しびき。
乃(すなは)ち其処(そこ)に[於]喪屋(もや)を作りて[而]河雁(かはかり)を岐佐理持(きさりもち)【「岐」自(よ)り下三字音(こゑ)を以ちゐる。】と為(し)、
鷺(さぎ)を掃持(ははきもち)と為、翠鳥(そにどり)を御食人(みけびと)と為、雀(すずめ)を碓女(つきめ)と為、雉(ききす)を哭女(なきめ)と為、 此の如く行(ゆ)き定(さだ)めて[而]、日(ひ)に八日(やか)夜(よ)に八夜(やよ)遊(あそば)しき[也]。


此時 阿遲志貴高日子根神【自阿下四字以音】到而 弔天若日子之喪時
自天降到天若日子之父 亦其妻皆哭云 我子者不死有祁理【此二字以音下效此】我君者不死坐祁理 云
取懸手足而哭悲也 其過所以者 此二柱神之容姿甚能相似故 是以過也

此の時 阿遅志貴高日子根神(あぢしきたかひこねのかみ)【「阿」自り下つかた四字音を以ちゐる。】到りて[而]、天若日子之(の)喪(も)を弔(とぶら)ひし時、
天(あめ)自(よ)り降り到りし天若日子之(が)父、亦(また)其の妻、皆(みな)哭(な)きて云はく「我子(あがこ)者(は)不死(しなず)有(あり)祁理(けり)【此の二字音を以ちゐる。下つかた此れに效ふ。】。」「我君(あがきみ)者(は)不死(しなざ)りて坐(ましま)し祁理(けり)。」と云ひ、
手足(てあし)を取り懸(か)けて[而]哭き悲びき[也]。其の過(あやま)ちたる所以(ゆゑ)者(は)、此の二柱の神之(の)容姿(かほかたち)の甚(いと)能(よ)く相(あひ)似(に)たるが故(ゆゑ)に、是(こ)を以ちて過(あやま)ちき[也]。


於是阿遲志貴高日子根神 大怒曰 我者愛友故弔來耳 何吾比穢死人 云而
拔所御佩之十掬劒 切伏其喪屋 以足蹶離 遣此者在美濃國藍見河之河上喪山之者也
其持所切大刀名謂大量 亦名謂神度劒【度字以音】

於是(これに)阿遅志貴高日子根の神、大(はなはだ)怒(いか)りて曰はく「我者(われは)愛(うるは)し友故(ゆゑ)弔(とぶら)ひ来たりし耳(のみ)。何(なに)そ吾(われ)を穢(きたな)き死せる人と比(くら)ぶるか。」と云ひて[而]、
御佩(みはかし)[し所]之(の)十掬(とつか)の剣(つるぎ)を抜き其の喪屋を切り伏せ、足を以(も)ちて蹶(け)離(はな)ちて、此(こ)を遣(や)りし者(もの)は、美濃国藍見河之(の)河上(かはかみ)に在る喪山(もやま)之(こ)の者(もの)也(なり)。
其の持ちて切らしし[所の]大刀(おほたち)、名は大量(おほはかり)と謂ひ、亦の名は神度剣(かむどのつるぎ)【「度」の字音を以てす。】と謂ふ。


 そして天若日子(あめのわかひこ)の妻、下照比売(したてるひめ)の泣く声は、風に響き天に届きました。 これを天にいる天若日子の父、天津国玉の神とその[=天若日子の]妻子が聞いて、降りて来て泣き悲しみました。
 そこで、そこに喪屋(もや)を作り、川雁(かり)を岐佐理持(きさりもち)とし、 鷺を掃持(ははきもち)とし、翠鳥(かわせみ)を御食人(みけびと)とし、雀を碓女(つきめ)とし、雉を泣女(なきめ)とし、 このように順次定めて、八日八晩過ごされました。
 この時 阿遅志貴高日子根(あぢしきたかひこ)の神が訪れ、天若日子の喪を弔いした時、 天より降りて来ていた天若日子の父や、その妻らが皆泣いて言うには「我が子は死んではいなかった。」「我が君は亡くなってはいなかった。」と言い、 手足を取りかけて泣き愛おしみました。そのように間違ったわけは、この二柱の神の容姿が互いにとてもよく似ていたので、そのために誤ったのでした。
 これを阿遅志貴高日子根の神は大いに怒り、おっしゃるには「私は親愛な友なので弔いに来ただけだ。どうして私を穢れた死人と同じように見るのだ。」と言い、 御佩刀(みはかし)の十掬(とつか)の剣を抜きその喪屋を切り倒し、足で蹴飛ばし、その行った先は、美濃国藍見川の川上の喪山(もやま)であります。 その切った太刀は、名を大量(おほはかり)と言い、別名を神度剣(かむどのつるぎ)と言います。


…カモ科の大形の水鳥の総称。渡り鳥。がん。かり。
…[名] カワセミ科の小鳥。くちばしは長大で、羽毛は美しい青緑色。カワセミ。
きさり持ち…[名](大辞林) 上代、葬送のとき、死者に供える食物を持つ役。
ははき(帚、箒)…[名] ほうき。
ははきもち(帚持)…[名](広辞苑) 古代の葬送のおり、喪屋(もや)を掃く箒を持つ者。
みけ(御食)…[名] 神や天皇に差し上げる食料。
みけびと(御食人)…[名](大辞林) 死者に供える食膳を調える人。
つきめ(舂き女)…[名] 米をつく(碓で精米する)女。
なきめ(哭女)…[名] <wikipedia>泣き女(なきおんな)または泣女(なきめ)または泣き屋(なきや)は、葬式のときに雇われて号泣する女性である。哭き女、哭女とも書く。</wikipedia>
-か(日)…[接尾] 日にちを数える語。
あそばす(遊ばす)…[他]サ行四段 いろいろな動作をする意の尊敬語。 
もや(喪屋)…葬儀を行う建物。
とぶらふ(弔ふ)…見舞う。訪問する。死を悼む。
あやまつ(過つ、誤つ)…[他] 失敗する。取り違える。(万)3688 安夜麻知之家牟 あやまちしけむ
…[動] つまづく。倒す。踏む。走る。蹴る。
ける…[他]カ行下一 足で突き飛ばす。
所以…[名] いわれ。理由。

【妻】
 倭名類聚抄によれば、「和名 米(め)」であるが、 万葉集では、ほとんどが「つま」とよまれる。0221 妻毛有者 つまもあらば など。

【父】
 (万葉集)0800 父母乎 ちちははを

【妻子】
 (万葉集)ほとんど、「めこ」とよんでいる。3865 妻子之産業乎波 めこのなりをば

【雁(鴈)】
 辞書を見ると、「かり」を用いた、かりのたまづさ(雁の玉章)、かりのたより(雁の便り)、かりのつかひ(雁の使ひ)などの語がある。
(万葉集)3947 登保都比等 加里我来鳴牟 とほつひと かりがきなかむ
 1161 鴈喧度 かりなきわたる
 2124 鴈鳴渡 かりなきわたる

【鷺・雀】
(倭名類聚抄)
 鷺…和名佐木
 雀…和名須々米


【翠鳥】
 カワセミ。翠(スイ)が雄で、翡(ヒ)が雌。翡翠は宝石名でもある。 「そにどり」と言う名で、大国主が嫉妬する須勢理姫に歌った歌謡(第66回)の中に出てきた。

【碓女】
 舂は春と似た形だが別の字で、下が「臼」である。
…穀物などを臼に入れて外皮をとったり砕いたりする。つく。
 (万葉集)3885 辛碓尓舂 庭立 手碓子尓舂 からうすにつき にはにたつ てうすにつき
 書紀では「舂女」と表されている。「碓女」も同様に「つきめ」とよむと思われる。

【日八日夜八夜】
 接尾語「-か」は、日数を数える。
(万葉集)  0870 毛〃可斯母 由加奴麻都良遅 ももかしも ゆかぬまつらぢ(百日しも行かぬ松浦道)
 1621 今二日許 有者将落 いまふつかだみ あらばちりなむ
 辞書で「なぬか(七日)」の用例を見ると、七日間、月の七日の両方の例があるので、基数・序数の区別はない。 (英語では、基数"seven days"と序数"seventh day"の区別がある)
 音韻変化によって「ふたか」は「ふつか」、「ななか」は「なぬか」になり、「やか」もやがて「やうか」になった。 上代で既に、「や」の母音[a]の後半が[u]に移行して[au]となったかも知れないが、それを「や」と書くか「やう」と書くかは判断がむずかしい。
 次に「夜(よ)」も同様に接尾語になって夜を数える。 0638 直一夜 ただひとよ
 独立して使う場合は、万葉集では「日=ひ」、「夜=よ」が多い。
 八は記紀において重要な数であった。後には、初七日、四十九日、など七が儀式の数となっている。

【阿遅志貴高日子根】
 大国主が奧津宮神多紀理毘売命との間に生んだ。(第68回)
 出雲国風土記(第63回)によれは、大国主の子、阿遅須枳高日子命は繰り返し登場するが、母の名は書いていない。
 書紀では味耜高彦根は、今回が初めての登場で、この神が大国主の子であることも、下照姫の兄であることも書かかれていない。ただ単に天雅彦と友達であったとするのみである。 しかし、天に作られた喪屋を弔問するために「上ってきた」と書かれるので、事実上国つ神としている。 天若日子と仲が良かったこと、容貌が瓜二つであったことは、記紀の両方に書かれている。

【天津国玉神】
 天若日子の父。第72回に登場した。

【天若日子の妻子】
 天若日子は葦原中つ国に降りて、大国主の娘、下照比売を娶った。それとは別に、天若日子は天下りする前に妻子がいた。 阿遅志貴高日子根を天若日子と間違えたのは天の妻の方である。 下照比売は阿遅志貴高日子根の妹だから、天若日子と間違う訳がない。

【容姿】
 姿は万葉集で「かほ」とよむ。1788 其姿之 そのかほの

【悲し】
 「かなし」は、「愛し=いとしい。せつないくらいかわいい」「悲し・哀し=切なく悲しい」の両方の意味がある。 阿遅志貴高日子根に取りすがって泣くときの感情は、「悲」の字はよみを用いただけで、意味は「愛し」である。 ただ、天若日子と別人であることが本当は分っているのに、「生きている」と思いたい気持ちが押えきれない行動だとすれば、「悲し」である。

【所御佩之十掬劒】
 「みはかし」は「貴人の腰の刀」。
 (は)[=腰に帯びる]の未然形+上代の尊敬の助動詞「が連体形となって名詞化したものに、尊敬の接頭語「」がついたもの。 万葉集の用例。3289 御佩乎 劔池之 蓮葉尓 みはかしを つるぎのいけの はちすばに
 このように、「御佩」は「刀」の意味を含み、独立した名詞となっている。
 ところが、記の文中では「所御佩之」は、動詞が体言化して十掬劒を連体修飾しているように見える。 仮にそうだとすると、「佩」はもともとの動詞「佩く」に戻っている。しかし、ここで問題になるのが「御」の扱いである。「御(み)」は、名詞への接頭語であって、動詞にはつかない。 そこで、「御」は「み」とは読まず、尊敬の助動詞「す」を表すと解釈することができる。 (「御」がなくても「所佩之」は「す」を伴い「佩かしし」とよむと考えられる)
 しかし、直感的には熟語「御佩」が目に入ってくる。
 結局、ここは名詞として定着した「御佩」を意識しながら、動詞(+助動詞)の「佩はす」を連体修飾語「所佩之」にし、さらに「」をつけて尊敬語にしたものである。 そのよみ方は、「みはかしの」、「はかしし」のどちらでもよいと思われる。

【喪の形】
 記紀では亡骸をしばらく置くための一時的な建物として、喪屋を建てる。
 魏志倭人伝には、「喪主哭泣他人就歌舞飲酒」という記述があり、親族以外の参列者は飲食し歌い踊る。喪主側は、そのために酒食を準備しなければならない。 その伝統は飛鳥時代にも受け継がれているようで、葬儀を運営するとされる5つの役のうち、3つは飲食(つきめ=米をつく、みけひと=調理する、きさりもち=死者に料理を供える)に関するものである。
 他は、泣き女ははきもち(ほうき持ち)である。書紀では、さらに、造綿(わたつくり)、尸者(ものまき)、宍人(ししびと)が挙げられている。 尸者は難読である。語源は「尸(=屍)の代理者」、よみは「死者のもの(衣服)を体にまく」であろうか。 宍人は、肉を調理する人とされるが、葬儀の場には違和感がある。魏志倭人伝には、「当時(喪の期間)不食肉」とあり、既に弥生時代末期に肉食を忌む習慣があったことがわかる。「宍人」はここでは御食人と同じで料理人の意味かも知れない。
 書紀の「悲び歌ふ」は、魏志倭人伝の「他人就歌舞飲酒」と共通するところが注目される。
 記紀編纂時代の人の世界の喪の文化によって、神話の喪の場面が描かれる。だから「ははき持ち」「きさり持ち」などの名称も人間社会の喪のものであろう。 しかし、さまざまな鳥たちがそれぞれの役を担うところは、空想的である。

【鳥が喪に働く意味】
 葬送と鳥との関係を探るために「鳥葬」を検索すると、チベットの鳥葬の例がでてくる。<wikipedia要約>遺体を断片にし、鳥に食べさせることによって、天に送り届けようとするもの</wikipedia>である。 これは想像であるが、かつて鳥葬の習慣をもった部族が鳥葬を行わなくなった後も「葬儀には鳥が集まってくる」という記憶が残った結果だと考えることができる。
 しかし、いくつかの文書に残る倭国の葬儀には、鳥の姿は見えない。 例えば隋書(656年完成)には、600年、607年の遣隋使の記事があるので、そこに書かれた風俗の描写は、基本的に飛鳥時代のものである。その葬送に関する部分を見ると、
死者斂以棺槨 親賓就屍歌舞 妻子兄弟以白布製服 貴人三年殯於外 庶人卜日而瘞 及葬 置屍船上 陸地牽之 或以小輿
 死者は衣を着せ、棺槨(二重棺)に納める。親しい客人は屍の前で歌舞し、妻子兄弟は白布で服を仕立てる。貴人は納棺したまま3年間野外(の仮屋)に安置する。 庶民は灼骨占いにより日を定め、埋葬する。葬儀になれば、屍を船上に置いて陸上を牽引したり、あるいは小型の輿に納めて引く。 ((エイ)…埋葬する。)
 この記事に、鳥葬文化を関連づける余地はない。 結局、喪に鳥が登場するのは、記紀の物語上だけのものと思われる。
 もともと天若日子の物語は、雉を使者として送るところから始まっており、 喪で鳥が働くのは、その延長線上にあると思われる。 鳥の擬人化は物語ならではの空想であり、その狙いは 単純に想像を膨らませて話を面白くすることであって、それ以上の意味はなさそうである。

喪山天神社(岐阜県美濃市大矢田)
葬送山 (岐阜県不破郡垂井町)

【喪山の比定地】
 記には、神代の話の舞台を実在の地名に結び付ける例は多く、「美濃国藍見河之河上の喪山」もその一つである。それでは記紀の時代の「喪山」はどこか?
 ここで留意すべきは、ある土地に記紀に一致する言い伝えがあったとしても、後世の人が記紀を読んで作った話だったら、何の証拠にもならないことである。記紀に載る以前からその場所があった、証拠が必要である。
 まず、「藍見河」について調べると、藍見村があった。美濃市の南西部は1954年まで藍見村であったが、 藍見村ができた年は1889年(明治22年)なので、近代に記紀の「藍見河」に因んで命名したと思われる。
 さらに「喪山」については次の説明があった。
国土交通省中部地方整備局木曽川下流河川事務所のページ>
 喪山が府中の葬送山古墳であるとすると、藍見河は当然、相川に相当することになる。 ところが、喪山については、他に美濃市大矢田にある大矢田神社を中心とした一帯にあるとする説もあり、この場合、藍見河は長良川か或いはその支流ということになる。 江戸時代末期の時点では広く一般に知られていたのは垂井説で、これは『木曽路名所図会』(1805年)が垂井宿の東にある小さな山を喪山として紹介した影響が大きいとされている。

</中部地方整備局>
 葬送山(そうぞうやま)説は、江戸時代に古事記を読んだ人がこの山を見て唱えた俗説かも知れない。また「藍見河=相川」説は、「藍=あゐ」「相=あひ」なので疑問が残る。 しかし川の比定については、実際に土地を見ると、日々河川管理にあたっている専門家の見解には重みがある。
 大矢田神社についてさらに調べると、古い歴史があることが分かる。
 <wikipedia>
 創建は孝霊天皇の時代。江戸時代に再建。社伝によれば、 深山に悪竜が棲み付き、困った里人が喪山の天若日子廟所(現・喪山天神社)に加護を祈ったところ、建速須佐之男命を祀るよう夢告があった。 その通り勧請を行うと、建速須佐之男命が現れ、悪竜を退治してくれた。平和を取り戻した里人は、建速須佐之男命と天若日子命を祀る祠を建てた。 716年(養老2)、泰澄大師はこの地(天王山)一帯を開基。天王山禅定寺号した。祠はその一部となり、牛頭天王として習合される。 1870年(明治3年)、廃仏毀釈により牛頭天王を建速須佐之男命に戻して奉祀、大矢田神社に改称。

</wikipedia>
美濃市観光協会
 祭神は須佐之男命・天若日子命・阿遅志貴高日子根命。 現在の本殿は、寛文十二年(1672年)に再建され、建物の妻をはじめ各部に精巧な彫刻と彩色が施されており、国の重要文化財に指定。

</美濃市観光協会>
 孝霊天皇は欠史8代の一人だから、「創建」されたのは伝説上の時代である。ただ大矢田神社は716年に、泰澄大師によって寺域に吸収されたので、記紀の完成時(記は712年、書紀は720年)には、存在していたと思われる。だから、記紀の「喪山」の候補になる資格はある。 ただ『社伝』そのものについては、 「建速須佐之男命」「天若日子命」という表現があり、八岐大蛇伝説の影響が見られるので、古事記の完成後に書かれたと思われる。
 確実に言えることは、記紀成立以前に古代の宮が大矢田の地にあった。記紀完成後に、天若日子命が関わる社と言われるようになった。ことである。
 遡って記紀編纂以前に、この地が喪山と呼ばれていたかどうかとなると、これは分らない。
 なお、喪山天神社に設置されている看板によると、付近には雉射田(きじいだ)、かつら洞、矢落(やおち)街道などの記紀神話にまつわる地名が残るというが、これらは記紀成立後に、人々が想像力で名付けたに違いない。

【以足蹶離遣此者在美濃国藍見河之河上喪山之者也】
 ここで、改めて原文を精読してみよう。まず、「之者」に注目して、万葉集における用例を探すと、
  0776 事出之者 ことでしは
  2101 野邊行之者 のべゆきしかば
 の2例がある。他に前文に使われているものがある。
  0897(前文―山上憶良が病を悲しむ文を付したもの―より) 入於名山而合藥之者 名山に入りて薬を合へしかば
 0776の「しは」は、助動詞「き」の連体形+係助詞(は)である。
 2101の「しかば」は「き」の已然形+接続助詞(ば)である。
 0897では、「合ふ」が、その目的語「薬」を挟んで「しか」に繋がる。
 これに倣えば「在~之者」は「~の在りしかば」と、理由を述べる。しかしこれでは「これを遣った(送った)先は、藍見河の~だったからである。」となり、成り立たない。
 だから、万葉集の「之者」からの類推は、棄てざるを得ない。そこで2つの「者」のうち後ろの方を、区切りのための不読文字と解釈する。そして「之」は代名詞「これ」と すると、「美濃国の~喪山、之(これ)在り。」となる。書紀では「」を「」に置き換えているから、書紀はこの解釈によっている。
 この場合は、実は別の読み方が可能で、「美濃国の~喪山に、之(これ)在り。」、つまり飛んできたのは建造物である喪屋そのもので、「喪山」は飛んできた場所を意味する。 書紀では「喪山という土地に喪屋がある」のではなく、「喪山がこれである」ことを明確にするために「為山」(山となり)を挿入している。

【記紀における「喪山」】
 前項のように、記には、二通りの読み方がある。
 かつて天若日子が蹴飛ばして飛んできたと言われる祠があって、その一帯の山地が「喪山」と呼ばれた。
 喪屋そのものが、山と化して落ちてきたものが「喪山」である。
 喪山天神社について言うと、その裏(北側)に高さ10mくらいの山が迫る(写真)が、これは独立した山ではなく、天王山(標高537.6m)から南方に長く伸びた尾根の端である。
 大矢田神社『社伝』にある「天若日子廟所」(喪山天神社)は祠のようなものを指し、喪山はその一帯の土地を指すと思われる。 従って、大矢田神社説はによる。
 ところが書紀は、「即ち落ちて山となり、今美濃国の藍見川の川上に在る喪山がこれである。」とある通り、完全にである。 葬送山が古墳ならば、造られたのは3世紀後半から7世紀前半までの間だから、記紀編纂時期には間違いなく存在していた。だから記紀の「喪山」の候補となる資格はある。 ただ、葬送山が喪山と書かれたのは江戸時代であり、奈良時代からずっと喪山とされていたかどうかとなると、これは分らない。
 とは言え、の場合、喪山天神社付近の地形は不利で、平地に独立して立つ葬送山(写真)の方が有利である。
 大矢田神社説と葬送山説は、記の読み取り方の違いに関係することになる。 両地とも、記紀成立後にその神話と結び付けられてきた伝統はあるが、古事記の執筆者が認識していた「喪山」と一致するものかどうかは分らないのである。

【日本書紀本文】
天稚彥之妻下照姬、哭泣悲哀、聲達于天。
是時、天國玉、聞其哭聲則知夫天稚彥已死、乃遣疾風、舉尸致天、便造喪屋而殯之。
卽以川鴈、爲持傾頭者及持帚者
【一云、以鶏爲持傾頭者、以川鴈爲持帚者、又以雀爲舂女。】
【一云、乃以川鴈爲持傾頭者、亦爲持帚者、以鴗爲尸者、以雀爲舂者、以鷦鷯爲哭者、以鵄爲造綿者、以烏爲宍人者、凡以衆鳥任事。】
而八日八夜、啼哭悲歌。
先是、天稚彥、在於葦原中國也、與味耜高彥根神友善【味耜、此云婀膩須岐。】故、
味耜高彥根神、昇天弔喪。時此神容貌、正類天稚彥平生之儀。
故、天稚彥親屬妻子皆謂「吾君猶在。」則攀牽衣帶、且喜且慟。
時、味耜高彥根神、忿然作色曰「朋友之道、理宜相弔故、不憚汚穢、遠自赴哀。何爲誤我於亡者。」
則拔其帶劒大葉刈【刈、此云我里、亦名神戸劒】以斫仆喪屋。
此卽落而爲山、今在美濃國藍見川之上喪山是也。
世人、惡以生誤死、此其緣也。
天稚彦(あめのわかひこ)之(が)妻(つま)下照姫(したてるひめ)、哭泣(なくになき)悲哀(かなしぶにかなしび)、声(こゑ)天(あめ)に[于]達(とほ)りき。
是時(このとき)、天国玉(あまつくにたま)、其の哭く声を聞き則(すなは)ち夫(をひと)天稚彦已(すで)に死ぬることを知り、乃(すなは)ち疾風(はやち)を遣はし、尸(かばね)を挙げ天(あめ)に致し、便(すなは)ち造喪屋(もや)を造りて[而][之を]殯(もがり)す。
即ち川雁(かはかり)を以(も)ちて、持傾頭者(きさりもち)及(と)持帚者(ははきもち)と為(し)て
【一云(あるにいふ)、鶏(とり)を以ちて持傾頭者と為(し)、川雁を以ちて持帚者と為、又(また)雀(すずめ)を以ちて舂女(つきめ)と為(す)。】
【一云(あるにいふ)、乃(すなは)ち川雁を以ち持傾頭者(きさりもち)と為(し)、亦(また)持帚者(ははきもち)と為、鴗(そにどり)を以ちて尸者(ものまき)と為、雀を以ちて舂者(つきめ)と為、鷦鷯(さざき)を以ちて哭者(なきめ)と為、鵄(とび)を以ちて 造綿者(わたつくり)と為、烏(からす)を以ちて宍人者(ししびと)と為、凡(およ)そ衆(みな)鳥(とり)を以ちて事(こと)を任(をほ)しき。】
[而]八日(やか)八夜(やよ)、啼哭(なくになき)悲しび歌ひき。
先是(このさき)、天稚彦、葦原中つ国に[於]在(あ)りや[也]、味耜高彦根(あぢすきたかひこね)の神与(と)友善(よしみ)しし【味耜、此れ婀膩須岐(あぢすき)と云ふ。】故(ゆゑ)、
〔以前、天稚彦は(天から降りて)葦原中つ国にいたとき、味耜高彦根の神と仲良くしていた。〕
味耜高彦根の神、天(あめ)に昇り喪(も)を弔(とぶら)ひき。時に此の神の容貌(かほかたち)、正(まさ)しく天稚彦の平生之(はひし)儀(すがた)に類(に)る。
故(かれ)、天稚彦の親属(うがら)妻子(めこ)皆(みな)謂はく「吾(あが)君(きみ)猶(なほ)在り。」といひ、則(すなは)ち衣帯(ころもおび)を攀(よ)ぢて牽(ひ)き、且(また)喜び且(また)慟(とよ)みき。
時に、味耜高彦根の神、忿然(いかりなし)色を作(な)して曰はく「朋友(ふたとも)之(の)道(みち)、相(あひ)弔(とぶらふ)に理(ことわり)宜(よろ)しき故(ゆゑ)、汚穢(きたなき)を不憚(はばから)ず、遠(とほ)き自(よ)り赴(おもぶ)き哀(とぶら)ひき。何(なに)そ我を亡(な)き者に[於]誤(あやま)つことを為すか。」
則ち其の帯(は)かしし剣(つるぎ)、大葉刈(おほはかり)【刈、此れ我里(かり)と云ひ、亦の名を神戸剣(かむどのつるぎ)といふ。】を抜き、[以ちて]喪屋を斫(き)り仆(たふ)しき。
此れ即ち落ちて[而]山と為(な)り、今に美濃国藍見川之(の)上(かはかみ)の喪山(もやま)、是(これ)に在り[也]。
世の人、生けるを以ちて死せるに誤つことを悪(にく)む、此(これ)そ其の縁(よし)也(なる)。
…(倭名類聚抄、以後「倭名抄」)和名「乎宇止(をうと)」一云「乎止古(をとこ)」。 (万葉集、以後「万」)「つま」。0543 愛夫者 うるはしづまは
…とどく。とおす。(万)2794 達而念 とほしておもふ
疾風…はやち、はやて
…あげる。=擧、挙
あらき、もがり(殯)…貴人の死後、埋葬までの間、しばらく遺体を棺に納めて安置すること。  (万)0441 大皇之 命恐 大荒城乃 時尓波不有跡 雲隠座 おほきみの みことかしこみ おほあらきの ときにはあらねど くもがくります
…しかばね。かばね。(万)4094 美都久屍 みづくかばね
便…すなはち。
…とり(ニワトリ)。(倭名抄)「山雞=和名 夜萬土利(やまとり)」なので、「鶏」は「とり」だと思われる。
…そにどり(カワセミ)[第66回の歌謡参照]。(倭名抄)和名「曽比日(そひび)」
…(倭名抄)和名「須々米(すずめ)」
鷦鷯…みそさざい。(倭名抄)和名「佐々木(さざき)」
…(倭名抄)「和名 土比(とび)」
…(倭名抄)「和名 加良須(からす)」
持傾頭…きさりもち。
…穀物などを臼に入れて外皮をとったり砕いたりする。つく。
舂女(つきめ)…米をつく女
尸者(ものまき)…<角川国語中辞典(昭和48年)>死者の着る衣を着て、弔問の人に会う役。</同辞典>
造綿(わたつくり)…死者の衣料を作るひと。
宍人(ししびと)…<角川国語中辞典>肉を料理する人。食事を供する人。</同辞典> 宍=肉(鳥や獣のにく。しし)。京都府の地名に「宍人(ししうど)」がある。
…(音)ア。
…(呉音)ニ。(漢音)ヂ。
(すき)…土をすく。
(も)…(万)ほとんどが訓の「も」を他の語に転用。1806 情苦喪 こころぐるしも
友善…=友誼。友人間のよいつきあい。よしみ。 
容貌(かほかたち) 
平生…(万)3791 平生蚊見庭 はふこがみには はふ(這・延)ふ…植物や人が這う。張り渡す。思い続ける。
…(万)1622 容儀 すがた 1913 光儀 すがた 1925 すがた
うがら(親族)…血縁の一族。
…よじる。しがみつく。(万)1507 攀而手折都 よぢてたをりつ
…ひく。(万)牽牛 ひこぼし
…よみは「おび」と思われる。(万)0742 一重耳 妹之将結 帶乎尚 三重可結 吾身者成 ひとへのみ いもがむすばむ おびをすら みへむすぶべく あがみはなりぬ  妹が一重のみに結ぶ帯を、三重に結ぶ我が身になってしまった。(痩せ衰えた我が身を嘆く)
…大声を上げて鳴く。なげく。(万)1050 鳥賀鳴慟 とりがねとよむ
朋友…[参考](万)0382 朋神之 ふたかみの
…人の道。(万)0347 世間之 遊道尓 よのなかの あそびのみちに
…(万)0605 天地之 神理 あめつちの かみのことわり
…斧で切断する。きる。
…あし。にくし。(万)2562 悪有名國 にくくあらなくに 2704 悪氷木乃 山下動 やましたとよみ
《悪以生誤死》
 この警句は、「世の人、生(いけるひと)を以って死(しにたるひと)に誤つは悪(いむ)」とよむ例が見られる。 意味はまさにその通りであるが、「悪」を「忌む」とよむのは意訳であろう。 万葉集を参照すれば、少なくとも日本書紀完成の時点において「いむ」というよみは存在しなかったと思われる。

【記紀の相違点】
 最大の相違点は、喪屋を建てた場所である。
 記では、喪屋は地上の葦原中つ国に建て、天若日子の父の天津国玉、天若日子の妻子(名前不明)が降りてくる。 それに対して、書紀では天雅彦の亡骸を風を吹かせて天に上げ、喪屋は天に建て、味耜高彦根は弔問のために昇ってくる。
 記のように喪屋を地上に建てた場合、阿遅志貴高日子根は嫁の兄だから喪主側である。喪主側が自ら建てた喪屋を破壊して、どうするんだということになる。 また、弔問のためとは言え天照側の天津国玉が敵地の真っ只中に降りていくのは、不都合がありそうである。
 書紀ではそれらを解決するためか、天国玉の責任で天に喪屋を建てることにした。弔問に訪れた味耜高彦根は、死者と間違われたことを怒って喪屋を切り倒して蹴飛ばす。これなら話として筋が通る。 ただ、これでは天照側はやられっぱなしで面目が立たないが、そのままにされる。

まとめ
 さて、天若日子が射(い)殺され、喪屋が設置された話は、何らかの歴史的事実を反映しているのだろうか。
 大局的には、大国主側と天照側が熾烈な戦争を繰り広げる中の、エピソードの一つと見ることができる。 その喪屋が山になった(上記説による)土地は、美濃国内にあるとされる。 地理的に見て、越の国(北陸)を支配する大国主勢力と倭の国(畿内)を本拠地とする天照勢力が対峙し、激しい戦闘地帯となったのが美濃国だということは、十分に考えられる。
 この地で天照側の大将が敵方に寝返った結果、強い憎しみをもった攻撃にさらされて射殺される事件が起こり、それが長く人々の記憶に残り、祀られた宮(あるいは綾)が何百年も崇拝され続けたことはあり得る。
 あるいは、喪山そのものではなく「喪山伝説」のみが人々に語り継がれ、それぞれの部族ごとに「ここが埋葬の地=喪山である」と別々に決めた結果、喪山が複数になったのだろうか。 (但し、記紀の「美濃国の藍見河の河上の喪山」という書き方は、実在の土地を確定的に示すように思われる)
 また、美濃国を監視する位置にあたる尾張国の豪族に、三種の神器のうち武力を象徴する草薙の剣が預けられたことも、美濃国が前線だったことに関連があるかも知れない。 さらに、比奈守神社(岐阜県岐阜市茜部本郷)が美濃国にあり、魏志倭人伝にもでてくる「ひなもり」(鄙守)がかつて置かれた、辺境の地ではなかったかと想像される。

[076]  上つ巻(国譲り6)