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[066]  上つ巻(大国主命11)

2014.05.20(火) [067] 上つ巻(大国主命12) 
爾其后取大御酒坏立依指擧而歌曰
爾(すなは)ち其の后(きさき)大御酒坏(おほみさかづき)を取らし、立たして指(さ)し挙げたるに依りて[而]歌よみして曰はく、

夜知富許能 加微能美許登夜 阿賀淤富久邇奴斯 那許曾波 遠邇伊麻世婆 宇知微流斯麻能 佐岐耶岐加岐微流
伊蘇能佐岐淤知受 和加久佐能 都麻母多勢良米 阿波母與 賣邇斯阿禮婆 那遠岐弖 遠波那志 那遠岐弖 都麻波那斯
阿夜加岐能布波 夜賀斯多爾牟斯夫須麻 爾古夜賀斯多爾 多久夫須麻 佐夜具賀斯多爾 阿和由岐能
和加夜流牟泥遠 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐 曾陀多岐 多多岐麻那賀理
麻多麻傳多麻傳 佐斯麻岐 毛毛那賀邇 伊遠斯那世 登與美岐 多弖麻都良世

やちほこの かみのみことや あがおほくにぬし なこそは をにいませば うちみるしまの さきやきかきみる
いそのさきおちず わかくさの つまもたせらめ あはもよ めにしあれば なをきて をはなし なをきて つまはなし
あやかきの ふはやがしたに むしぶすま にこやがしたに たくぶすま さやぐしたに あわゆきの
わかやるむねを たくづのの しろきただむき そだたき たたきまながり
またまでたまで さしまき ももながに いをしなせ とよみき たてまつらせ


如此歌卽爲宇伎由比【四字以音】而宇那賀氣理弖【六字以音】至今鎭坐也
此謂之神語也

此の歌の如(ごと)即ち宇伎由比(うきゆひ)【四字(よつのじ、よな)音(こゑ)を以ちゐる】為(し)て[而]
宇那賀気理弖(うながけりて)【六字以音を以ちゐる】今に至り鎭(しづ)まりて坐(い)ます[也]。
此(ここ)に[之(これ)]謂ふは、神語(かむかたり)也(なり)。


かくて、お妃(きさき)は杯に大酒を盛り、寄りかかって立ち、杯を高々と上げてこのように歌われました。

八千矛の 神の命や 吾が大国主 汝こそは 男に坐せば 打ち見る嶋の 先や来掻き廻る
磯の埼落ちず 若草の 妻持たせらめ 吾はもよ 女にしあれば 汝招きて 男は為し 汝招きて 妻は為し
綾垣の ふはやが下に 苧衾 柔やが下に 栲衾 さやぐ下に 沫雪の
若やる胸を 栲綱の 白き腕 素手抱き 手抱きまながり
真玉手玉手 差し枕き 股長に 寝を為寝させ 豊御酒 奉らせ
《大意》
 「八千矛の神の命」ですって?いえ、私にとってはあくまでも「大国主」ですの。あなたのみが男らしい男でいらっしゃいますから、 遠くに見える島の先から来て漕ぎ巡り、この磯の岬を見落とさず、妻にしてしまいなされませ。 私だって女ですことよ、あなたを招いて夫とし、あなたを招いて妻となり、 綾織の帳(とばり)の揺れる下で、ふわふわした苧(からむし)の布団の下で、ざわざわした栲(たく)の布団の下で、 淡雪のような若い胸を、真白な腕を、愛撫し、 あなたの御手で床に抱き、やがて私を横にして眠らせなさいませ。おいしいお酒を差し上げますわ。


 この歌の通り、杯を交わして愛を誓い、首をもたせかけ、そのまま鎮座し今に至ります。
 この謂れは、神の語りでございます。


こそ…[係助] あることがらを取り立てて示し、強調する。係り結びにより、文末に已然形を置く。
(男)…[名] 男性。
かきみる(掻き回る)…[自]マ行上一 (上代語)水を掻いて回る。
おち-ず(落ちず)…[自・助動]タ行上二(未然)+(連用) 漏らさず。残らず。 
ら-む…[助動・助動] り(完了)の未然形+む(推量)。
は-も…[係助・係助]…(上代語) ~は。上の語を取り立てて示す。
も-よ…[係助・間投詞] ~よ。感動を表す。
をく(招く)…[他]カ行四段 招きよせる。呼び寄せる。
なす(為す)…[他]サ行四段 物事を過程を踏んで出来上がらせる。
あやかき(綾垣、文垣)…[名] 綾織の布で作った帳(とばり)。奈良時代以前、室内の隔てに用いた。
ふはや…[名] ふわふわした様子。
むし(苧)…[名] からむし。イラクサ科の草本。また、カラムシから作った繊維。
ふすま(衾、被)…[名] 寝る時上にかける寝具。
にこや(和や、柔や)…[名] やわらかいこと。
たくぶすま(栲衾)…[名] 栲(たく)の繊維で作った衾。
さやぐ…[自]ガ行四段 ざわざわと音がする。
とよみき(豊御酒)…[名] 酒の美称。

うきゆひ(結)…[名] (上代語)杯を交わしてお互いの心が変わらないことを誓うこと。
うながける(頂懸ける)…[動]自ラ行四段 互いに首に手をかけて親しみあう。
かたり(語り)…[名] 話し伝える事。またその話。

【万葉集に見る訓み】
《酒坏》坏は「つき」、酒坏は「さかづき」と訓まれる。
《指》さす。
《至》いたる。まで。
《語》かたり。

【むしぶすま にこやがしたに】
 むし(苧)の使用例を万葉集で探していたら、たまたま類似した部分を含む歌が見つかった。
 万葉集―「524 蒸被 奈胡也我下丹 雖臥 与妹不宿者 肌之寒霜
 (むしぶすま なごやがしたに ふせれども いもとしねねば はだしさむしも)
 「なごや」も柔らかいことを表す。ただ「むし」が「蒸」の訓を借りて「苧」を表したものかどうかは、判らない。
 なお、万葉集にこれ以外に「苧」の可能性のある歌はなかった。
 本居宣長は、記でも「蒸被」として、「蒸す」という語句から「温かい衾」としている。ところが、「多久夫須麻」の方は「栲衾」とするので、一方は属性、他方は原料名となり、一貫性がない。 他には「むし=蚕」をし、絹衾という解釈も見られる。しかし蚕は、万葉集では「こ」である。
 カラムシ(苧麻=ちょま)は古くから繊維として広く使われて、魏志倭人伝にも 「種禾稻紵麻蚕桑緝績出細紵縑緜」 (禾稲(かとう)、紵麻(ちょま)を種(う)え、蚕桑(さんそう)す。緝績(しゅうせき)し、細紵(さいちょ)縑綿(けんめん)を出ず。) という一節がある。従って、むしぶすまは「苧衾」とするのが最も常識的である。

【八千矛神命と大国主命】
 係助詞あるいは間投助詞の「や」の機能は疑問であるから、ここでは
(沼河比売が呼ぶところの)八千矛神って誰の事?私にとっては大国主なのよ。」と言い張っている。
 沼川比売からの呼び名である、八千矛神は気に入らないのである。

【あはもよ めにしあれば】
 沼河比売の歌謡の「ぬえくさの めにしあれば」に対抗している。 間投助詞「」は、相手に働きかけて注意を喚起する。 八千矛神に「か弱い女子であるから」と言っている沼河比売を押しのけて、「私だって女子ですから。」と入り込んで来る。 「吾はもよ」は「私もよ」という現代語の語感に近い。

【命令を表す文法】
 動詞、助動詞は命令の連続である。
《なこそは~つまもたせらめ》
 持たせらめ持た("持つ"の未然形)+(尊敬の助動詞"す"の命令形)+(完了の助動詞"り"の未然形)+(推量の助動詞"む"の已然形)。
 係助詞「こそ」により、已然形で係り結びする。 「せ」は命令形であるが、助動詞の接続のための活用形であり、命令の意味はない。 「こそ~め」という構文が、事実上の命令である。完了の助動詞は命令形の場合、「~してしまえ」の意味になる。 即ち「妻をお持ちになってしまいませ」。
《ももなかに いをしなせ》
 沼河比売の歌謡に対応する部分がある。
 「ももなかに いはなさむ」(股長に寝は寝さむ)。
 寝は寝さむ(い=名詞、寝ること)+(係助詞)+寝さ("寝す"=寝かしつける)の未然形+推量の助動詞""。
 一人称で用いる「む」は意思を表す。男性側が主体になって愛しむ。 なお、「腿長に」は足を伸ばして横になる様子で、辞書にはそのようには書いてないが「寝」への枕詞と考えてよいだろう。
 それが、このように言い直される。
 「ももなかに いをしなせ」(股長に寝を為、寝せ)。
 寝を為寝せ(い=名詞)+(格助詞)+(代動詞"す"の連用形)+寝せ("寝(な)す"の命令形)。
 「為」は、男性側から寝かせることを意味する。命令形の「寝せ」は、女性から男性に「私を寝かしつけなさい」と命令している。
 つまり、ここでは「あなたが沼河比売にしたのと同じことを、私にもしなさい」と命令している。ここでも、沼河比売に対する行動と同じ行動を、須勢理毘売にもしろと言う。
《とよみき たてまつらせ》
 たてまつらせたてまつら("たてまつる"の未然形)+(上代の尊敬の助動詞"す"の命令形)。
 ここでは、貴人を主語とした尊敬語。 記の編者は、この酒を「取大御酒坏」と表現する。普通「大」は美称だが、ここでは大量の酒を意味すると思われる。

【沼河比売の歌謡との関係】
 以上から、この歌謡は沼河比売の歌を下敷きにして、八千矛の神が沼河比売に向けた関心の向きをあからさまに変え、須勢理毘売の方に向けようとしている。
 この強引さから、須勢理毘売は相当酔っている。

【うながける】
 辞書の解釈は、宣長が、師と仰ぐ賀茂真淵の説に同意したものである。曰く「師ノ説に、互に項(うなじ)に手を懸け、親く並居(ならびを)るをあり。信(まこと)に然るべし。
 しかし互いに両手を懸けるとするより、女性が自分の首を相手の胸、あるいは頭にもたれかけると解釈する方が自然な動作に思える。

【大国主は同席したか】
 記の編者は、大国主と同席して杯を交わし、契りを再確認する歌、「和解の歌」として扱っている。 そして、寄り添った姿のまま永遠に神として鎮座するという、映画の終了シーンのように締めくくる。
 しかし、文脈的には大国主が倭国へでかけた後、一人でヤケ酒をして盛り上がっていると読み取ることも可能である。

【神語】
 シャーマンは踊りなどによりトランス状態になり、神の言葉を語る。(平常の状態で語ることもある)これが神語である。
 ここで神語とされる範囲は、どこからどこまでを指すのだろうか。最も広く取れば、大国主が生まれて以後全部である。 しかし、ならば記全部が神語であってもよいはずで、どうして大国主の部分だけが神語なのだろうか。 そこでもう少し狭めて、4編の歌謡は声に出して歌われるものなので、その範囲に限定して神語と見ることもできる。
 さらに、直前の須勢理毘売の歌謡のみに限定することもできる。この歌謡は酒に酔って出る言葉が特別に生々しいので、 特別に「この歌は、神の言葉そのままである」と言うのかも知れない。

まとめ
 沼河比売の歌と関連付けられた歌なので、双方を比較することによって、文法的に相当正確につきとめることができる。 日本語は、論理的というより情緒的な言語であると俗に言われるが、こと古文の助動詞に関しては相当に論理的である。 一方、漢文は大和言葉における精密な助動詞にあたるものがなく、ほとんどは文脈によって解釈することになる。 その代わりに漢字一文字がその構造により、現代まで意味を伝えてくれる。なかなか興味深いものがある。


2014.05.30(金) [068] 上つ巻(大国主命13) 
故 此大國主神 娶坐胸形奧津宮神多紀理毘賣命
 生子阿遲【二字以音】鉏高日子根神
 次妹高比賣命亦名下光比賣命
 此之阿遲鉏高日子根神者 今謂迦毛大御神者也

故(かれ)、此(こ)の大国主(おほくにぬし)の神、胸形(むなかた)の奧津宮(おきつみや)の神、多紀理毘売(たきりひめ)の命を娶(めあは)せ坐(ま)して、
子(みこ)、阿遅【二字(ふたつのじ、ふたな)以音(こゑを以ちゐる)】鉏高日子根(あぢすきたかひこね)の神を、
次に妹(いも)、高比売(たかひめ)の命(みこと)、亦(また)の名は下光比売(したてるひめ)の命を生みたまひき。
此之(この)阿遅鉏高日子根の神こそ者(は)、今に謂(い)へる迦毛大御神(かものおほみかみ)者(は)也(や)。


大國主神 亦娶神屋楯比賣命
 生子事代主神

大国主(おほくにぬし)の神、亦(また)神屋楯比売(かむやたてひめ)の命を娶(めあは)せ、
子(みこ)、事代主(ことしろぬし)の神を生みたまひき。


亦娶 八嶋牟遲能神【自牟下三字以音】之女 鳥耳神
 生子鳥鳴海神【訓鳴云那留】

亦、八嶋牟遅能神(やしまむぢのかみ)【「牟」自(よ)り下つかた三字(みつのじ、みな)音を以ちゐる。】之女(むすめ)、鳥耳(とりみみ)の神を娶(めあは)せ、
子(みこ)、鳥鳴海(とりなるみ)の神【「鳴」を訓(よ)み那(な)留(る)と云ふ】を生みたまひき。


此神娶 日名照額田毘道男伊許知邇神【田下毘又自伊下至邇皆以音】
 生子國忍富神
此神娶葦那陀迦神【自那下三字以音】亦名八河江比賣
 生子速甕之多氣佐波夜遲奴美神【自多下八字以音】
此神娶天之甕主神之女 前玉比賣
 生子甕主日子神
此神娶淤加美神之女 比那良志毘賣【此神名以音】
生子多比理岐志麻流美神【此神名以音】
此神娶比比羅木之其花麻豆美神【木上三字花下三字以音】之女 活玉前玉比賣神
 生子美呂浪神【美呂二字以音】
此神娶敷山主神之女 青沼馬沼押比賣
 生子布忍富鳥鳴海神
此神娶若盡女神
 生子天日腹大科度美神【度美二字以音】
此神娶天狹霧神之女 遠津待根神
生子遠津山岬多良斯神

此の神、日名照額田毘道男伊許知邇(ひなてりぬかたびちをいこちに)の神【「田」より下(しもつかた)「毘」、又「伊」自り下つかた「邇」に至り皆、音(こゑ)を以ちゐる。】を娶(めあは)せまし、
子、国忍富(くにおしとみ)の神を生みたまひき。
此の神、葦那陀迦(あしなだか)の神【「那」自り下に三字、音を以ちゐる。】、亦の名は八河江比売(やかはえひめ)を娶(めあは)せ、
子、速甕之多気佐波夜遅奴美(はやみかのたけさはやぢぬみ)の神【「多」自り下つかた八字(やじ)、音を以ちゐる。】
此の神、天之甕主(あめのみかぬし)の神之女(むすめ)、前玉比売(さきたまひめ)を娶せ、
子、甕主日子(みかぬしひこ)の神を生みたまひき。
此の神、淤加美(おかみ)の神之女 比那良志毘売(ひならしびめ)【此の神の名、音を以ちゐる。】を娶せ、
子、多比理岐志麻流美(たひりきしまるみ)の神【此の神の名、音を以ちゐる。】を生みたまひき。
此の神、比比羅木之其花麻豆美(ひひらぎのはなまづみ)の神【「木」の上(かみつかた)三字、「花」の下(しもつかた)三字、音を以ちゐる】之女 活玉前玉比売(いくたまさきたまひめ)の神を娶せ、
子、美呂浪(みろなみ)の神【「美呂」の二字音を以ちゐる。】を生みたまひき。
此の神、敷山主(しきやまぬし)の神之女、青沼馬沼押比売(あをぬまぬおしひめ)を娶せ、
子、布忍富鳥鳴海(ぬのしとみとりなるみ)の神を生みたまひき。
此の神、若尽女(わかつくしめ)の神を娶せまし、
子、天日腹大科度美(あめのひはらおほしなどみ)の神【「度美」の二字、音を以ちゐる】を娶せ、
此の神、天狭霧(あめのさぎり)の神之女、遠津待根(とほつまちね)の神を娶せ、
子、遠津山岬多良斯(とほつやまさきたらし)の神を生みたまひき。

右件自八嶋士奴美神以下遠津山岬帶神以前稱十七世神
右の件(くだり)、八嶋士奴美(やしまじぬみ)の神自(よ)り以下(しもつかた)、遠津山岬帯(とほつやまさきたらし)の神の以前(さきつかた)を、十七世(とをあまりななよ)の神と称(とな)ふ。

 さて、この大国主(おおくにぬし)の神は、宗像の沖津宮の祀神、多紀理毘売(たきりひめ)の命を娶(めと)られ、 御子、阿遅鋤高日子根(あじすきたかひこね)の神を、 次に妹、高比売(たかひめ)の命(みこと)、またの名は下光比売(したてるひめ)の命を生みなされました。 この阿遅鋤高日子根の神は、今に言う迦毛大御神(かものおほみかみ)なのでございます。
 大国主(おほくにぬし)の神、亦(また)神屋楯比売(かむやたてひめ)の命を娶られ、 御子、事代主(ことしろぬし)の神を生みなされました。
 また、八嶋牟遅能神(やしまむじのかみ)の息女、鳥耳(とりみみ)の神を娶られ、 御子、鳥鳴海(とりなるみ)の神を生みなされました。
 この神は、日名照額田毘道男伊許知邇(ひなてりぬかたびちおいこちに)の神を娶られ、 御子、国忍富(くにおしとみ)の神を生みなされました。
 この神は、葦那陀迦(あしなだか)の神、またの名は八河江比売(やかわえひめ)を娶られ、 御子、速甕之多気佐波夜遅奴美(はやみかのたけさはやぢぬみ)の神を生みなされました。
 この神は、天之甕主(あめのみかぬし)の神の息女、前玉比売(さきたまひめ)を娶られ、 御子、甕主日子(みかぬしひこ)の神を生みなされました。
 この神は、淤加美(おかみ)の神の息女、比那良志毘売(ひならしびめ)を娶られ、 御子、多比理岐志麻流美(たひりきしまるみ)の神を生みなされました。
 この神は、比比羅木之其花麻豆美神(ひひらぎのはなまずみ)の息女 活玉前玉比売(いくたまさきたまひめ)の神を娶られ、 御子、美呂浪(みろなみ)の神を生みなされました。
 この神は、敷山主(しきやまぬし)の神の息女、青沼馬沼押比売(あをぬまぬおしひめ)を娶られ、 御子、布忍富鳥鳴海(ぬのしとみとりなるみ)の神を生みなされました。
 この神は、若尽女(わかつくしめ)の神を娶られ、 御子、天日腹大科度美(あめのひはらおおしなどみ)の神を生みなされました。
 この神は、天狭霧(あめのさぎり)の神之息女、遠津待根(とおつまちね)の神を娶られ、 御子、遠津山岬多良斯(とおつやまさきたらし)の神を生みなされました。

 右の件(くだり)、八嶋士奴美(やしまじぬみ)の神以下、遠津山岬帯(とおつやまさきたらし)の神以前は十七世(よ)の神と称せられます。


…[動] 嫁を迎える。めとる。
…[名] 草を除いたり、土をすき返す農具。すき。鋤に通ず。
となふ(称ふ、唱ふ)…[他]ハ行下二 声に出して言う。声高に読み上げる。

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【此阿遅鉏高日子根神者今謂迦毛大御神者也】
 迦毛大御神を祀る大社について語る。 「~者~者也」の構文は、住吉大社のところの文、 「此三柱神者、胸形君等之以伊都久三前大神者也」(この三柱の神は、胸形君(=宗像氏)等が御前に斎する神である)と同じである。 これらは何れも、記紀編纂時代に現存していた(そして現代まで続く)社の由来譚である。
 「者也」の2つの「(は)」は共に係助詞で、 の「は」は主題であることを示し、の「は」は、強調である。 即ち「此の阿遅鉏高日子根神は、今に言う迦毛大御神なのである。

【他の箇所や関連する文献に現れる神】
《多紀理毘売命》
 天照大御神(あまてらすおおみかみ)、須佐之男命(すさのをのみこと)による誓約の場面で、 天照は須佐之男の剣を所望し、噛み折り、吹き出した霧から神と成った三女神の長女が多紀理毘売(たきりびめ)である。 天照の見解によれば、この神は須佐之男の所持品を与えられて生まれたので、須佐之男の子である。
 三女神は宗像氏の許に降り宗像大社に祀られ、そのうち多紀理毘売は沖津宮に祀られた。 「胸形奧津宮神、多紀理売命を娶り坐す」はこの経過を受けている。
 大国主命自身が、須佐之男命の7世の孫であり、娶った妻のうち、須勢理毘売、多紀理毘売命は(出雲国風土記によれば、八野若日女命も)須佐之男命の娘である。 このように、大国主命の系図は須佐之男命と密接に繋がっている。
《阿遅鉏高日子根神》
 阿遅須枳高日子命(あぢすきたかひこのみこと) は、『出雲国風土記』(第63回)に登場するし、 大穴持神の子のうちで、最も詳しく書かれる。昼夜泣いてばかりいて、なかなか言葉を話せなかった。 記では多紀理毘売(たきりびめ)を娶って生まれたとされるが、出雲国風土記には母が誰かについては言及されていない。
 神名に「」を含むことから、農業神と言われている。
 ここでは阿遅須枳高日子命が、今、祀られている迦毛(かも)大御神であると特記している。それは、今日の高鴨神社に繋がると考えられる。
 高鴨神社(奈良県御所市鴨神)
 京都の上賀茂神社、下鴨神社を始めとする全国の鴨・賀茂・加茂神社など「かも社」の総本宮を称する。 <高鴨神社御由緒より抜粋>『延喜式』神名帳には「高鴨阿治須岐詫彦根命(たかかもあじすきたかひこねのみこと)神社」とされる。 弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじた。 鴨の一族はひろく全国に分布し、その地で鴨族の神を祀った。 建国の歴史にまつわる由緒ある土地のため、鴨族の神々の活躍は神話の中で大きく物語られている。</同抜粋>
《事代主神》
 この神は、後に国譲りの重大な場面で登場する。大国主が国譲りを求められたとき、 「僕者不得白。我子八重言代主神、是可白。」(僕(やつかれ)は不得白(まをしえ)ず。我が子、八重言代主神、是れ可白(まをすべ)し。) つまり、私は判断しない、事代主(ことしろぬし)に聞いて来いと言った。 事代主神は美保神社の祭神である。
 美保神社(島根県松江市美保関町美保関)
 『出雲国風土記』によると、島根郡美保郷は、大国主が高志国の奴奈宜波比売命との間に生んだ子、御穂須須美(みほすすみ)の命が鎮座する地であることを、地名の由来とする。 同書の島根郡の社として記載された「美保社」は当然、御穂須須美命を祀る社であろう。 <wikipedia>元々の当社の祭神は御穂須須美命のみであったのが、記紀神話の影響により事代主神と三穂津姫命とされたものとみられる。</wikipedia>
 三穂津姫命は、大物主の后である。紀「天照大神之子…娶高皇産霊尊之女」の段の一書2に、高皇産霊(たかみむすひ)の尊は、大物主に対して 「汝若以国神為妻、吾猶謂汝有疏心。故今以吾女三穗姫、配汝為妻。」 (お前が国津神を妻にするようことがあれば、私はお前に依然として疏心(天照に従おうとしない心)があると言わざるを得ない。だから私の娘、三穗姫をお前の妻にせよ。) と言って、娘を嫁がせた。
《闇淤加美神》
 闇淤加美(くらおかみ)は、伊邪那岐が迦具土(かぐつち)の神を斬ったとき、 「御刀の鍔の上の血が、指の間から漏出して」出現した神である。火の神である迦具土は、生まれる時に伊邪那美の陰部を焼き、死に至らしめたので伊邪那岐の怒りを買った。
《敷山主神》
 敷山神社(福井県鯖江市河和田町)
 敷山(しきやま)神社は、敷山主(しきやまぬし)の神などを祭神とする。
《天狭霧神》
 天狭霧神(あめのさぎりのかみ)は、大山津見(おほやまつみ)の神と鹿屋野比賣(かやのひめ)の神(別名、野椎(のづち)の神)の間に生まれた子。 大山津見と鹿屋野比売は、伊邪那岐命・伊邪那美命の神生み 第36回によって生まれた。
《八河江比売》
 矢川神社(滋賀県甲賀市甲南町森尻)
 矢川神社は、<wikipedia>大己貴命と矢川枝姫命(やがわえひめのみこと)を主祭神とする。 創建は、聖武天皇の紫香楽宮造営(742年)の頃</wikipedia>と言う。
《前玉比売》
 前玉神社(さきたまじんじゃ、埼玉県行田市埼玉宮前)
 祭神は、前玉彦命(さきたまひこのみこと)・前玉比売命(さきたまひめのみこと)。 埼玉古墳群(5世紀末~7世紀)に隣接するので、その祭祀の場を起源とすると考えられている。 なお、「さいたま」は「さきたま」が音韻変化したものと考えられている。 <wikipedia>神亀3年(726年)の戸籍帳には「武蔵国前玉郡」の表記がある</wikipedia>という。
 同古墳群には、金錯銘鉄剣で有名な稲荷山古墳が含まれる。

【鴨氏】
 これまで述べてきたように、記に各地の氏族の発祥神話を含めることには、彼らの精神を朝廷に統合する狙いがある。 ところが、鴨氏は大国主命の子を祭神とすると書かれ、出雲系に位置づけられているところに、特徴がある。これは天照一族による国家統一以前に、大国主の支配下にあったとする、鴨氏に語り継がれた神話が否定できなかったことを意味する。 高鴨神社御由緒にも、鴨氏は弥生中期(BC200~0年頃)には既に存在したと書かれている。

【各地の女神との婚姻】
 一応、大国主が天孫に膝を屈した後の系図であるから、その一族が滋賀や埼玉の女神を娶ったとしても、あくまでも天照一族の支配下のことである。 ただ、各国を大国主が支配していた頃の古い記憶と、関係ないとは言い切れない。埼玉の豪族の祖先は、古墳時代から数百年前に、出雲勢力に服従していたかも知れない。 矢川神社、敷山神社、前玉神社の配置は、古代出雲が北陸から本州内陸部に向かって勢力を拡大していった様子を伺わせる。

のよみ】
 遠津山岬多良斯、遠津山岬帯という2種類の表記があることから、「」は「たらし」と訓まれたことが分かる。 これは、記の序文にある通りである。 「於名帯字、謂多羅斯、如此之類、隨本不改」(名[神名など]に於けるの字、多羅斯(たらし)と謂ふ、此の如き類(たぐひ)、本(もと)の隨(まま)改めず。)

【十七世神】
 須佐之男(すさのを)の命は、櫛名田比売(くしなだひめ)の間に八嶋士奴美(やしまじぬみ)の神を生む。
 須佐之男命を一世とすれば、八嶋士奴美神は二世…大国主命は七世にあたり、さらに大国主命を一世とすれば遠津山岬帯神は十世にあたる。 これを単純に足し算すれば十七世となるが、これでは大国主命を二重に数えることになるので、計算としては間違っている。
 他の可能性としては、
 ・本当は「此神娶 八嶋牟遲能神…」であったのを、あるとき「亦娶…」と誤写したのが、今日まで伝わる。
 ・誤写ではなく、「十七世神」を書き加えた校訂者が「亦娶」を誤って「此神娶」と読んでしまった。
 ・「此神娶…」がもう一文あったのが、筆写を繰り返すうちに脱落した。
 ・別腹の阿遅鉏高日子根神、事代主神を加え、須佐之男の命を除き、15+1+1と数える。
 などが考えられる。

をどう訓むか】
 「娶(めと)」は近世語であり、上代にはなかったようである。それでは、上代語ではどういう語にあたるかというと、これがなかなか難しい。 まず、古語辞典から結婚に関わる語を拾い出してみることにする。
あふ(会ふ、逢ふ)…[自]ハ行四段 ①対面する。②恋愛関係になる。結婚する。③争う。
まく(枕く、婚く)…[他]カ行四段 ①枕にする。②(のちに「まぐ」とも)一緒に寝る。妻とする。
よばふ(呼ばふ)…[他]ハ行四段 ①呼び続ける。②(婚ふ)求婚する。
おとこす(男す)…[自]サ変 夫を持つ。男の恋人を持つ。
めあはす(妻合はす)…[他]サ行下二 結婚させる。妻として添わせる。
めとる(娶る)…[他]ラ行四段 妻として迎える。一部の古語辞典には掲載がない。
まぐはひ(目合ひ)…[名] ①目と目を見かわして愛情を通い合わせること。②性交。結婚。
みとあたはす(みと婚はす)…[自]サ行四段 (尊敬語)神が結婚なさる。性交なさる。
くみどにおこす
 くみど(隠処)…[名] 夫婦の寝所。
 おこす(興す、-起す)…[他]サ行四段 もともと内部にある活力をふるい立たせる意。

【万葉集に見る「娶」など】
 以上の語は、万葉集ではどのように使われているか。
 「娶」は歌には使われないが、題詞に「娶」が7例見られる。
 その一例を挙げると、
123 三方沙弥娶園臣生羽之女未経幾時臥病作歌三首
 (三方沙弥[=飛鳥時代の歌人]、園臣(そののおみ)生羽(いくは)之女(むすめ)を娶、幾(いく)時を未(いま)だ経(へ)ず病に臥(ふ)し作りし歌、三首)
 がある。この文を解説しているサイトをいくつか見たが、様々な訓が宛てられ、定説はないようである。「娶」については「まぎ」「あひ」中には「めとり」もあった。
 万葉集の歌そのものについては、「あふ」(「あひ」などに活用したものを含む。以下同じ)は100例以上、「まく」は20例以上、「よばふ」は9例が確認できた。 けれども「おとこす」「まぐはひ」「みとあたはす」「くみどにおこす」は、一例もない。
 ここで、「よばふ」の一例を挙げる。
2906 他國尓 結婚尓行而 大刀之緒毛 未解者 左夜曽明家流
 (ひとくにに よばひにゆきて たちがをも いまだとかねば さよぞあけにける)
 「さよ」の「さ」は接頭語で、語調を整える。「ぞ~ける」は係り結び。
 よその国に行って妻になるよう呼びかけるが、太刀の紐も解かぬまま、世を明かす。つまり、その夜はとうとう家に入れてくれなかった。 この短歌は、八千矛の神が沼河比売をよばふ歌謡にぴったり重なるので、この歌謡の影響を受けたと考えられる。ここで「よばふ」は求婚する意味である。
 次は「あふ」の例。判り易い短歌が見つかった。
2029 天漢 梶音聞 孫星 与織女 今夕相霜
 (あまのがは かぢのおときこゆ ひこほしと たなばたつめと こよひあふらしも)
 梶はこうぞの一種。七夕には詩歌や願いを七枚の梶の木の葉に書いて供え、芸能の向上や恋の成就を祈る風習があったという。
 「孫」は、『和名類聚抄』によると「むまご」または「ひこ」と訓む。与は"and"。織女(=棚機津女、たなばたつめ)の"つ"は古い格助詞(=の)。 七夕の願い事を書く梶の音が聞こえる。今日は七夕らしい。ということは、恋人に恵まれない今の私には関係ないと嘆いている。 ここで「あふ」の意味は、彦星と織姫が1年に1回逢うことである。
 次は、「まく」の例である。
2844 比日 寝之不寝 敷細布 手枕纒 寝欲
 (このころの いのねらえぬは しきたへの たまくらまきて ねまくほりこそ)
 「しきたへの」は枕詞で、寝床、枕、黒髪などにかかる。「ねまく」は「まく」ではなく、「寝る」の名詞化(ク用法)である。 最近は共に寝ていないが、手枕をまくらにして(まき、まぎ)寝たいという心の叫びである。
 次の歌は、「あふ」「まぐ」が両方使われる。
0535 敷細乃 手枕不纒 間置而 年曽経来 不相念者
 (しきたへの たまくらまかず あひだおきて としぞへにける あはなくもへば)
 手枕をまくことなしに、何年も過ぎた。逢わないまま、ただ思うだけである。
 なお、「あふ」の連用形「あひ」は大量に使われるが、そのほとんどは「相見之」(あいみし、互いに会った)である。
 万葉集で使われる「あふ」は、どちらかと言えば恋が順調に進まず、嘆く場面が多い。 「よばふ」は、求婚であり、「まく」は枕することである。いずれも、恋人や妻との悩ましい場面を描くが、結婚自体を意味する使い方は出てこない。 これは当然であろう。男女が不安定な情況にあるからこそ歌が生まれるのであって、安定的な結婚生活からは歌は生まれ得ないのである。

【倭名類聚抄】
 巻二の『夫妻類第二十九』の「」の項に、又用夫妻婦妻一云【米阿波須】がある。
 つまり、「妻」の関連事項として、「また、夫妻の婦妻(よめ、息子の妻)とすを、あるいは【めあはす】と云ふ。」とする。

に相応しいやまとことば】
 ただ、いくら歌だからとしても、制度としての結婚を表すやまとことばを全く見つけることができないのは、不思議である。 ことによると、万葉集の時代には「結婚」という概念自体がなかったのかも知れない。ここは腰を据えて、文化的な考察をしてみる必要がある。
 近・現代では、単なる生物的な結びつきに留まらず、社会的、経済的な基本的単位を新たに成立させるのが「結婚」である。そのために神に誓ったり周囲の承認を得る儀式を伴う。 それでは上代の庶民の生活ではどうであったか。
 「結婚」は上代語では、「あふ」や「まぐはひ」である。これらは、周囲との関係にこだわることなく、互いに対等な立場で気に入れば単純に結ばれる語感がある。 つまり動詞「あふ」の一つの場合に過ぎない。
 「みとあたはす」は御処(性器の尊敬語)+与ふ(ここでは、行為をする意と見られる)の未然形+(軽い尊敬を表す上代の助動詞)で、生物としての行為の表現である。 「くみどにおこす」も同様である。 当時、庶民はお互いに合意すれば、直ちに「みとあたはす」や「くみどにおこす」関係を持つが、それによる社会的な立場の大きな変化はなかったのではないかと想像される。
 また「よばふ」についても、上代の助動詞「ふ」は「繰り返し~する」を意味し、 もともと「繰り返し呼び掛ける」である。「男が女に求婚する」は、その一つの場合に過ぎない。 このように、これらの語からは儀式を伴う明確な「結婚」は見えてこない。
 ただし、一族の王など権力者にとっては、 妻を迎えることは多かれ少なかれ、政略結婚の意味合いをもったと思われる。それは古今東西の王室に共通する、重要な出来事である。 例えば、八千矛神が沼河比売を娶る例では、一族の反対を押えていることからも、政略婚を示唆する。
 さて、次の「めあはす」は、もともと」+「あふ」の未然形+使役の助動詞「である。
 この語は社会がある程度発達した後に、形式としての婚姻を求め、周囲の命令や勧めによって結婚させるようになったことを意味する。 もちろん、権力者が自らの妻を「めあはす」場合もあるだろう。
 「めとる」は、古語辞典によっては項目のないものがある。項目がある『学研全訳古語辞典』では、文例は『雨月物語』で、これは江戸時代末期なので近世語だと思われる。
 ここで、漢語「」を考察する。その字義は、親の立場に立ち、息子に妻を迎えることである。逆に娘を結婚させることは「嫁」という。 中国では王朝の成立は倭国よりはるかに古く、男子中心の家族制度もそれなりに早くから確立していたと思われる。
 記で、神の結婚に「娶」を用いたのは、後の天皇の男子継承制度を神の世界に投影したものと考えられる。 このように、神が妻を迎える語は、倭国の庶民の生活実感から生まれた語ではなく、外来語の概念を用いたのである。
 このように考えると、「娶」の意味に一致するやまとことばを上代に求めること自体が難しい。
 本居宣長は、「娶」を「みあふ」と読む。これは、「あふ」に「」をつけたものである。 しかし、「あふ」は、古代の庶民の男女が対等の立場で結ばれることなので、「娶」とは必ずしも一致しない。 ただ、既に述べた通り、古事記を「和風漢文を宣長が翻訳したもの」と定義すれば、それはそれで差支えない。
 このように見ていくと、血統の男子継承を目的とする「娶」には、「めあはす」が一番近い。
 ただし古語辞典の「めあはす」の文例は、狂言の台詞である。狂言の成立は室町時代なので、それより600年も前の記紀の時代に「めあはす」という語があったかどうかは分らない。
 そう思っていたら、倭名類聚抄に「めあはす」を発見したので、少なくとも930年ごろまでは遡ることになった。
 「よばふ」にもどると、もともと求婚の意味ではあるが、その結果としての結婚に意味を拡張しても、それほど不自然ではない。 「まぐ」も同様に、枕を共にする行為を、結婚そのものを指す語に拡張するのは自然である。
 ただし、「あふ」だけはよくない。これまでに述べたように、「あふ」は男女間の、平等でハードルの低い結びつきを意味するからである。
 それに対して「よばふ」「まぐ」は何れも男子優位を表し得るから、「娶」の訓にすることができると考える。
 「めあはす」に戻ると、万が一上代にこの語がなかったとしても、「め」と「あはす」は、それぞれ一般的であった。 だから「めあはす」という語を当時の人が聞いても、理解はできたはずである。

まとめ
 大国主命は天照に服従したので、それ以後の系図は分国の地方政権のそれであるはずだである。 しかし、娶る相手は全国規模の地方豪族なので、国譲り以前の出雲による国土制覇の歴史が、伝説となってここに反映されている可能性がある。
 実際には、大国主命の前後の系図を示すことは、天皇の系図に肩を並べて誇示しているのである。国土を支配した古代の王国の、思い出を語っているかのようである。 記に記載があるということは、天武天皇は国土の基礎を築いたものとして、その伝統を認めていたのである。 国譲り後に大国主命を大神殿に祀るのを認めたということは、古代出雲の宗教的権威を精神的資源として、天照一族の国造りに役立てることをも意味する。 また政治的には、出雲勢力を国家に包み込み、国内勢力を大きく統一しようとする政策の一環であると言える。
 はその土地の一族の王の娘、あるいは古代的な女王自身を妻に迎えることにより豪族を支配下に組み入れ、勢力を広げていった経過を物語る。 その意図は、沼河比売を巡る歌のやり取りに詳しい。その婚姻は政治的な意味を持つので、伊邪那岐・伊邪那美の間で描かれたような、庶民の素朴な恋愛とは区別される。
 今回詳細に検討したように、漢字「」の選択は、朝廷に準ずる王朝における男子継承制下の婚姻を表すためである。それは同時に、天照以前に古代の王国の存在したことを認めていることになる。


2014.06.15(日) [069] 上つ巻(大国主命14) 
故大國主神 坐出雲之御大之御前時
自波穗 乘天之羅摩船而 內剥鵝皮剥 爲衣服 有歸來神
爾 雖問其名 不答 且 雖問所從之諸神 皆白 不知
爾 多邇具久 白言【自多下四字以音】此者 久延毘古 必知之
卽 召久延毘古 問時 答白
此者 神產巢日神之御子 少名毘古那神【自毘下三字以音】

故(かれ)大国主神(おほくにぬしのかみ)、出雲之御大之御前(みほのみさき)に坐(ましま)しし時、
波の穗自(よ)り天之羅摩(あめのかがみ)船に乗りて[而]、鵝(かり)の皮を内剥(うちはぎ)に剥(は)ぎて衣服(ころも)と為(し)帰(かへ)り来たる神有り。
爾(すなは)ち其の名を問へども[雖]不答(こたへ)ず。且(また)諸神(もろもろのかみ)に之れ従(よ)る所(ところ)を問へども[雖]、皆不知(しら)ずと白(まを)しき。
爾(すなは)ち多邇具久(たにぐく)白(まを)して言はく【「多」自(よ)り下(しもつかた)四字(よつのじ、よな)、音(こゑ)を以ちゐる。】「此(こ)者(は)久延毘古(くえびこ)必ず之(これ)を知らむ。」とまをして、
即ち久延毘古を召(め)し問はしし時、答へ白(まを)さく、
「此(こ)者(は)、神産巣日(かむむすび)の神之(の)御子(みこ) 少名毘古那(すくなびこな)の神【「毘」自(よ)り下(しもつかた)三字(みつのじ)、音を以ちゐる。】なり。」とまをす。


故爾 白上 於神產巢日御祖命 者
答告 此者實我子也
於子之中 自我手俣 久岐斯子也【自久下三字以音】
故 與汝葦原色許男命 爲兄弟而 作堅其國

故爾(そのゆゑ)に、神産巣日御祖(かむむすびみおや)の命(みこと)に[於]白(まを)し上げたれ者(ば)、
答へて(のたま)はく「此者(こは)実(まこと)我が子(みこ)也(なり)。
子(こら)之(の)中(うち)に於(お)きて、我が手俣(たなまた)自(よ)り久岐斯(くきし)子(こ)也(なり)【「久」自り下三字、音を以ちゐる。】
故(かれ) 汝(いまし)、葦原色許男(あしはらしこを)の命与(と)兄弟(あにおと)と為(な)りて[而] 堅く其の国を作れ。」とのたまひき。


故 自爾 大穴牟遲 與 少名毘古那 二柱神 相並 作堅此國
然後者 其少名毘古那神者 度于常世國也
故 顯白 其少名毘古那神
所謂 久延毘古者 於今者 山田之曾富騰者也
此神者 足雖不行 盡知天下之事神也

故(かれ)、自爾(これよ)り大穴牟遅(おほあなむち)与(と)少名毘古那(すくなびこな)と二柱の神、相(あひ)並びて堅く此の国を作りき。
然(しか)る後(のち)者(は)、其の少名毘古那の神者(は)常世(とこよ)の国に[于]度(わた)りき[也]。
故(かれ)、顕(あき)らけく、其れ少名毘古那の神と白(まを)す。
所謂(いはゆる)久延毘古(くえびこ)者(は)、於今者(いまには)山田之曽富騰(そほど)者(は)也(や)。
此の神者(は)、足(あゆ)み雖不行(ゆかざれど)、盡(ことごと)く天下(あめのした)之事を知る神也(なり)。


於是 大國主神愁而 告吾獨何能得作此國
孰神 與吾 能相作此國 耶
是時 有 光海依來之神
其神言 能治我前者 吾 能共與相作成
若不然者 國難成

於是(ここに)、大国主(おほくにぬし)の神愁(うれ)へて[而]告(のたま)ひしく「吾(われ)独(ひと)り、何(いか)に能(よ)く此の国を作り得るや。
孰(いづれ)の神吾(われ)と与(とも)に、此の国を能(よ)く相(あひ)作らむ耶(や)。」とのたまひき。
是の時、光る海に依(よ)り来(き)し[之]神有り。
其の神言はく、「我が前に能(よ)く治(をさ)め者(ば)、吾(われ)能(よ)く共に与(くみ)し相(あひ)作り成す。
若し不然(しかざ)ら者(ば)、国成り難(かた)し。」といふ。


爾 大國主神曰
然者治奉之狀奈何
答言 吾者 伊都岐奉 于倭之青垣東山上
此者 坐御諸山上神也

爾(ここに)大国主の神曰く
「然者(しくあらば)治(をさめ)奉(まつ)る状(かたち)は、奈何(いかにせむ)。」といひて、
答へて言はく「吾(われ)者(は)、倭(やまと)之(の)青垣(あをかき)の東(ひむがし)の山(やま)の上に[于]伊都岐(いつき)奉(まつ)らむ。」といひき。
此者(こは)、御諸山(みもろやま)の上(へ)に坐(ましま)す神也(なり)。

 さて、大国主神(おおくにぬしのかみ)が、出雲で食膳の前におられた時、 波頭の間から、天之羅摩(あめのかがみ)船に乗り、ガチョウを剥いだものを衣服とし、帰って来た神がおられました。 そこでその名を問はれましたが答えず、また神々にあなたの所の神ではありませんかと尋ねても、皆が知らないと申されました。
 その時、蟇蛙(ひきがえる)の申し上げるには「これは、久延毘古(くえびこ)が、必ずこれを知っているでしょう。」
 そこで久延毘古を招き、尋ねたところ、答え申し上げるに、 「これは、神産巣日(かみむすび)の神の御子、少名毘古那(すくなびこな)の神です。」と。
 そのため、神産巣日御祖(かみむすびみおや)の命に申し上げたところ、 答へて仰るに「これは、本当に私の子です。 子らの中で、私の指の間から漏れ落ちた子なのです。 なので、お前、葦原色許男(あしはらしこを)の命とで兄弟となり、堅くその国を作りなさい。」
 そこで、これより大穴牟遅(おほあなむち)と少名毘古那(すくなびこな)の二柱の神は、肩を並べて堅くこの国を作りました。 その後、その少名毘古那の神は常世(とこよ)の国に渡ってしまいました。 そこで、高らかに少名毘古那の神と申します。 いわゆる久延毘古(くえびこ)は、今では山田のそほど(案山子)と言います。 この神は、歩くことはできませんが、あらゆる天下の事を知る神です。
 さて、大国主(おおくにぬし)の神が憂いて仰るには「私一人で、どうやってこの国を作ることができよう。 誰かの神と私で、協力してこの国を作ることはできないだろうか。」と。
 この時、光る海から近づいてきた神がいました。 その神は言いました。「私を祭り、御前に斎すれば、私は協力して国を作り上げることができます。 もしそうしなければ、国は成り難いでしょう。」
 そこで、大国主の神は言いました。 「それなら、どのような形でお祀りしたらよろしいのでしょうか。」
 それ答えて言われました。「私を、大和国を囲む緑の、東の山上に祀って差し上げなさい。」
 これが、御諸山(みもろやま)の山上に鎮座される神なのです。


羅摩…[名] ガガイモ。ガガイモ科ガガイモ属のつる性多年草。
…[名] ガチョウ。
たにぐく(谷蟇)…[名] ヒキガエル。
かたし(堅し、固し)…[形] しっかりしていて崩れない。
くく(漏く、潜く)…[自] カ行四段 漏れる。すきまを潜り抜ける。
…[形] あきらか。ほまれあるさま。[動] あらわる。
うつし(現し、顕し)…[形]シク 現実に生きている。
あきらけし(明らけし)…[形]ク ①清らか。②明白。③賢明。すぐれている。
そほど(案山子)…[名] かかし。「そほづ」とも。
…[動] まかす。思いのままにさせる。[副] ことごとく。
うれふ(愁ふ、憂ふ)…[他]ハ行下二・上二 心配する。
…①[助動]可能。肯定文は「よく~す」比定文は「あたはず」と訓読。②[副]限定・強調・反語。万葉集(155)で「よし」と訓む。
をさむ(治む)…[他]マ行下二 造営する。
奈何…①いかんせん。「いかに処置する」と訳す。②いかんぞ。反語、「どうして」と訳す。
…[名] ①かたち。形状。②景色。③裁判の陳述書。④手紙。

三穂之碕は、島根半島の先端の美保関とされる。同地に美保神社がある。
かたち(形)…[名] ありさま。ようす。
いつく(斎く)…[自]カ行四段 心身を清めて謹んで仕える。
あをかき(青垣)…[名] 垣のように周りを囲んで青々と茂っている山々。

【御大之御前】
 天つ神が二神を伊那佐の小浜に降ろしたとき、大国主の子、八重言代主は「御大之前」に遊びに行っていた。 その場所を書紀では「三穂之碕」と見做している(第78回)。ここでは、ひとまずそれはないことにして話を進める。
 「御大之御前」は一見「大国主が祀る出雲の神の前で」と読める が、大国主がどのような神を祀ったのかは、どこにも触れられていない。 また大国主が向いていたのは神殿ではなく海の方向だから「御大之御前」が神の御前とは考えられない。
 同じところを、紀一書6では「海岸で飲食していたら、海に声を聞いた」とあるので、 御大を神殿ではなく、御台(=食膳)と解釈したと考えられる。
 「御前」は一般的には「神や高貴な人の前」であるが、ここでは「膳の前」を意味し、「御」はその動作主(=大国主)を敬う接頭語である。

ガガイモの花(左)と実
【天之羅摩船】
 『倭名類聚抄』によれば、羅摩は「芄蘭」の別名で、和名をかがみ(加加美)という。 毛の生えた種子を入れるさや状の実をつける。天之羅摩船は、そのさやの片側を船にしたものと想像されている。

【内剥鵝皮剥】
 『倭名類聚抄』にはの和名はなく、音よみの「」だけが載っている。 ガチョウは<wikipedia>野生の雁(ガン・かり)を家禽化したもので、ニワトリに並ぶ歴史がある</wikipedia>。
 「内剥ぎに剥ぐ」という重複表現は、須佐之男が天照の織殿に馬を投げ入れたときの、「逆剥ぎに剥ぐ」と共通する。 接頭語「うち」は、語調を整える。
 ガチョウの体長は84cmとされ、この皮を剥いでなめした衣服は普通の大人サイズである。
 一方一書6では「鷦鷯」(ミソサザイ)の羽とされ、この鳥は体長10cmである。)である。この方が、少名毘古那の体の大きさに合っている。
アヅマヒキガエル

【たにぐく】
 万葉集に「たにぐくのさわたるきはみ(谷蟇のさ渡る極み)」が2例ある。「ヒキガエルが行き来する果て」から陸の果てを意味する慣用句だという。 万葉集で既に慣用句になっているということは、「ぐく」は相当古い語であることになる。
 なお、紀伊山地、中国山脈を境として、太平洋側がニホンヒキガエルの生息域、日本海側がアズマヒキガエルの生息域とされるので、たにぐくはアズマヒキガエルである。

【水田との関わり】
 水田が広がった環境では蛙は身近な存在で、その姿から鳥獣戯画ではユーモラスに擬人化される。 大国主は農耕神でもあるから農地を歩き、時にヒキガエルと対話したであろう。
 また、水田のあちこちに無言で立ち続ける案山子もまた、民衆の間で何でも知る神と言い伝えられていたようである。
 <wikipedia>かかしはその形状から神の依代とされ、地方によっては山の神信仰と結びつき、 収獲祭や小正月行事のおりに「かかしあげ」の祭礼をともなうことがある。また、かかしそのものを「田の神」と呼称する地域もある。</wikipedia>
 記が民間信仰をとり上げることによって民衆を引き付ける、ひとつの例であると考えられる。

【神産巣日の神】
 神産巣日(かむむすび)の神は、天地初発のとき2番目に現れた無性神である。そこにはすぐに姿を隠したと書いているが、 実際には活動が続き、𧏛貝比売・蛤貝比売を派遣して大国主の命を蘇らせたり、多数の神を産み、また大国主の使者に応対する。 この神には、八百万の神の生命を支配する役割があったようである。

【大国主の呼称】
 大国主と大穴牟遅の使い分けに、特別の意図は感じられない。 ただ葦原色許男のみ、神産巣日の会話文に現れる。須佐之男がやはり会話文で葦原色許男と呼んだように、親しみをこめた呼び名だと思われる。

【堅国】
 「しっかりしていて崩れない国」を意味する。注目されるのは、須佐之男命の追放先の「根之堅洲国( 第44回)」との関連である。嶋根郡はかつて堅き国として築かれたが、天照勢力と対立していた時期は貶められ、黄泉の国と同一視されたと想像される。

【常世】
 <中国哲学書電子化計画>によって「常世」を検索すると漢代より後に数例あるが、意味は「この世の常」である。一例を挙げると、 『太平広記』(10世紀成立。<wikipedia>前漢から北宋初期までの奇談7000篇余りを集めた書</wikipedia>)より: 「酒肴珍備、果實豐衍、非常世所有」(酒肴、果実の豊かさは、この世に常にあるものではない)
 中国では「常世」は「この世」のことなので、不老長寿の国を意味する和語の「とこよ」とは異なる。とこよは、<wikipedia>死後の世界</wikipedia>とも言われるが、 中国の神仙思想に影響を受け「蓬莱」のようなものを指すと考えるのが自然である。 蓬莱(ほうらい)は東の海にある伝説上の島で、不老長寿の仙人が住む島である。

【御諸山上神】
 御諸山(みもろやま)、別名三輪山は、<wikipedia>弥生時代あるいは縄文時代から自然信仰の対象だったと考えられている。 麓には大神(おおみわ)神社(三輪神社)がある。また、その近くの神坐日向(みわにいますひむかい)神社は、延喜式(927年)に記載があり、もともと山頂にあったとも言われている。</wikipedia>
 記では出雲の海に出現し御諸山に祀られたときの神の名は「御諸山上神」で、「大物主」の名称が初めて現れるのは、中巻の神武天皇のところ(「美和之大物主神」)である。
 御諸山は、「倭之青垣東山」と表現されるので、ここで言う「(やまと)」は現在の纏向(まきむき)遺跡の付近を指したことが分かる。 纏向には、纏向古墳群(前方後円墳発生期、2世紀末~3世紀中葉)、少し北上したところにも4世紀初頭の崇神天皇綾景行天皇陵があり、大和政権創始期における中心的な祭神だったと考えられる。 「日向神社」という名称から、纏向方面から御諸山を仰ぎ、その山頂から上る太陽を拝んだものと思われる。 太陽信仰については、天照大御神の岩戸隠れや卑弥呼の三角縁神獣鏡について考察した通りである。

【紀一書六(その1)】
 「素戔鳴尊、自天而降到於出雲國簸之川上」の段の一書第六は、記の今回の部分に対応している。 記と比較すると、注目すべき相違点があるので全文を読解する。
(1)一書曰、大國主神、亦名大物主神、亦號國作大己貴命、亦曰葦原醜男、亦曰八千戈神、亦曰大國玉神、亦曰顯國玉神、
(2)其子凡有一百八十一神。
(3)夫大己貴命與少彥名命、戮力一心、經營天下。
(4)復、爲顯見蒼生及畜産、則定其療病之方。又、爲攘鳥獸昆蟲之災異、則定其禁厭之法。
(5)是以、百姓至今、咸蒙恩頼。
(1)一書(あるふみ)に曰ふ、大国主神(おほくにぬしのかみ)、亦(また)の名は大物主神(おほものぬしのかみ)、亦の号(な)は、国作大己貴命(くにつくりおほなむちのみこと)、亦曰はく葦原醜男(あしはらのしこを)、亦曰はくく八千戈神(やちほこのかみ)、亦曰はく大国玉神(おほくにたまのかみ)、亦曰はく顕国玉神(うつしくにたまのかみ)、
(2)其の子凡(おほよそ)一百八十一(ももはしらあまりやそはしらあまりひとはしらの)神有り。
(3)夫(それ)大己貴命与(と)少彦名命(すくなひこなのみこと)と、戮力(ちからをあ)はせ、心一(ひと)つに、天下(あめのした)を経営(いとな)みき。
(4)復(また)、顕見蒼生(うつしきあをひとくさ)及(と)畜産(やしなへるけだもの)との為(ため)に、則(すなは)ち其の療病之(やまひをいやす)方(すべ)を定めき。又、鳥獣(とりけもの)昆蟲(もものむし)之(の)災異(わざはひ)を攘(はら)ふ為に、則ち其の禁厭(まじなひ)之法(のり)を定めき。
(5)是以(これをも)ちて、百姓(みたみ、おほみたから)は今に至(いた)り、咸(みな)恩頼(みたまのふゆ)を蒙(かがふ)る。

 …殺す。力を合わせる(戮力)。
 経営(けいえい)…建物を建てること。物事を行うこと。
 顯見蒼生(うつせみのあをひとくさ)…「うつせみの」は枕詞。青人草(あをひとくさ)=人民。
 …『和名類聚抄』には、六畜(家畜になる牛・馬・羊・犬・鶏・豚)を指すという説明と共に、音はキュウ、チュウ。和名は「けたもの」としている。
 …払いのける。
 …避ける。いとふ。
 国作大己貴命(くにつくりしおほなむちのみこと)…『出雲国風土記』における「所造天下大神大穴持命」(天下を造りし大神、おほあなむちの命)を受ける。
 …兄。後裔。のち。むれているさま(「昆虫」)。
 災異…天変地異。
 禁厭(まじなひ、呪ひ)…神仏に祈り、その霊力によって病気を取り除いたり、他人に災いを与えたりすること。
 …すべて。みな。ことごとく。
 (かうぶる、かうむる)…上からの恩恵、命令、懲罰などを受ける。
 百姓(ひゃくせい、おほみたから(大御宝))…人民。天皇を敬って言う。百姓は、もともとさまざまな姓を持つ者=氏族の意味であった。農民の意味で使われるようになったのは江戸時代である。
 恩頼(みたまのふゆ)…神や天皇から受ける恩徳。
《漢熟語のよみ》
 ここで、「経営」や「昆虫」に正確に一致するやまとことばを見つけることは、なかなかむずかしかった。 これらの熟語は、中国の歴史書の語句をそのまま用いた可能性があるので、<中国哲学書電子化計画>によって検索してみた。
 その結果、中国の歴史書に「戮力一心」が7例あった。一例を挙げると、『国語』の『晋語四』に「晉、鄭兄弟也,吾先君武公與晉文侯戮力一心」があった。 『国語』は春秋時代の歴史書。BC481までの周・魯・斉・晋・楚・呉・越・鄭の各国別に編集されている。
 この文は、鄭の文公36年(BC637)、晋の重耳(=晋の文公)が鄭を訪れたとき、鄭の文公が礼を失する対応をしたのを、弟の叔詹(しゅくせん)が諫めた言葉の一部である。
 大意は、「晋、鄭はもともと兄弟の関係であった。我が先の君主、武公と晋の文侯は"戮力一心"(力を合わせ、心を一つに)したものである。
 「戮」は「殺す」であるから、もともとの軍事的な意味だったものを拡張して、一般的な「力を合わせる」になったと思われる。
 記の、少名毘古那神を「汝葦原色許男命と兄弟となり」の語句からこの文を想起して、"戮力一心"を使った可能性がある。
 次に、「經營天下」は11例ある。例えば、司馬遷の『史記』(BC91頃成立)の『項羽本紀』に、項羽は 「欲以力征經營天下(力を以って征し、天下を経営すを欲す)」者と述べる。ここでは、「経営天下」は「権力を握り国を支配する」意味となる。
 また「鳥獸昆蟲」は7例ある。『呉越春秋』(後漢の趙曄(ちょうよう)撰。春秋時代の呉・越両国の興亡を記したもの)の『越王無余外伝』には、 越王無余(在位BC372~361)は、「国周辺の地理(地理、鉱物、鳥獣昆虫之類、民俗など)を山海経にまとめた」とある。『山海経』(せんがいきょう)は<wikipedia>戦国時代から秦朝・漢代にかけて徐々に付加執筆されて成立した</wikipedia>最古の地理書である。 その「鳥獣昆虫之類」はさまざまな動物全般を指す語だと考えられる。
 「畜産」は4例。『説文解字』(後漢時代の辞書)に「:畜産疫病也」がある。またはという珍しい文字の意味は、この説明通り「畜産の疫病」である。
 以上から、いくつかの熟語は中国の歴史書を出典としていることが確定した。 記の編纂に中国人スタッフが参加して中国の歴史書から語句を借用していることは、序文で、天皇を誤って「王」と表現した部分が見過ごされたところで指摘した。 紀にも同じスタッフが関わっていたと思われる。
 これらの語は現代ならそのまま音読みするところであるが、 上代には、やまとことばによる訓をつけた。例えば「天下」は、「あめのした」と訓ずる。 「経営」などにも訓をつけたのであろう。しかし意識して中国の語を用いたのが明らかな場合は、漢語自身の意味が定まれば十分である。当時の訓を知ることは、さほど重要な問題ではない。 むしろ訳した和語を読むだけでは、もともと漢語によって表現したかった内容が失われる場合がある。
 それでも、一応の訓をつけるとすれば、「経営天下」は『出雲国風土記』の「所造天下大神大穴持命」の表現を生かして「あめのしたをつくりき」でよいと思う。
 「戮力」には漢和辞典に「ちからをあわす」という訓があるので、これを採用する。
 「鳥獣昆虫」については倭名類聚抄を見ると、「鳥=とり」「獣=けもの」「虫=むし」はあるが、「昆虫」はない。「昆」の意味「むらがる」をとり「群鳥(むらどり)」に準じて「むらむし」かも知れないが、古語辞典には載っていない語である。 なお、岩波文庫版『日本書紀』では「はふむし」と訓むが、この語も古語辞典に載っていない。あるいは「鳥獣昆虫」は文脈上は動物の総称なので、思い切り意訳して「いけるもの」でもよいかも知れない。
 「」は倭名類聚抄には「けだもの」とある。そこで「畜産」は「けだものうみ」としてみたが、根拠は薄い。
 これらとは逆に、漢語にないのが「禁厭」「恩頼」である。これらは中国の歴史書には一例もなく、手許の漢和辞典にも載っていない。これらは伝統的に「まじなひ」「みたまのふゆ」と読まれる、純粋な和語である。
 さらに「百姓」は、中国歴史書にも無数に出てくる。和語では、この語を天皇と人民の関係を意識して使う場合に「おほみたから」と意訳される。
《記との関係》
 (1)は、第55回で述べたように、大国主の別名に「大物主」が加えられる。 それ以外の別名は記を踏襲するので、「記が大物主を大国主と別神としていたのを訂正する」意図が、明確である。 一方で大国主が越を征服したときの呼称「八千矛神」を書紀が載せるという、皮肉な現象が起こっている。 出雲勢力の越への進出は、紀本文では無視という方法で、否定しているところである。
 (2)『出雲国風土記』には、大穴持命が各地で子を生んでいるが、181神という数が書かれるのは、紀一書6のみである。
 (3)国造りは少彦名命との共同作業である。この文は記と同じだが、中国の歴史書の表現を借りて美文にしている。
 (4)(5)は「所造天下大神」を称える儀礼文。農業神の性格が見える。
 ここで注目されるのは、大国主に対する民衆の信仰を否定しないところである。かつては大国主の勢力を敵として屈服させたが、今も地方豪族として一定の力を維持している。その影響力を民族の精神的共同資産として取り込もうとしている。

【紀一書六(その2)】
(6)嘗大己貴命謂少彥名命曰「吾等所造之國、豈謂善成之乎。」
(7)少彥名命對曰「或有所成、或有不成。」是談也、蓋有幽深之致焉。
(8)其後、少彥名命、行至熊野之御碕、遂適於常世鄕矣。
(9)亦曰、至淡嶋而緣粟莖者、則彈渡而至常世鄕矣。
(10)自後、國中所未成者、大己貴神、獨能巡造、遂到出雲國、
(11)乃興言曰「夫葦原中國、本自荒芒、至及磐石草木咸能强暴。然、吾已摧伏、莫不和順。」
(12)遂因言「今理此國、唯吾一身而已。其可與吾共理天下者、蓋有之乎。」
(6)嘗(かつ)て大己貴の命、少彦名命(すくなひこなのみこと)に謂ひて曰はく「吾等(われら)の所造之(つくりし)国、豈(あに)善成之(よくこれをなしき)と謂う乎(か)。」
 〔「私たちが造った国は、はたして善く成ったと言えるのだろうか。」〕
(7)少彦名命、対(こた)へて曰はく「或るところは成れる所有り、或るところは不成(ならざ)る[所]有り。」という。是れ談(かた)るや[也]、蓋(けだ)し幽深之(かすかにふかめ)て有るに致(いた)りき[焉]。
 〔「できたところもあれば、できなかったところもあります。」このように語るとき、物静かに深く考えている様子になりました。〕
(8)其の後、少彦名命、熊野之御碕(みさき)に行き至り、遂に常世郷(とこよのさと)に[於]適(ゆ)けり[矣]。
(9)亦(また)曰はく、淡嶋に至り[而]粟の茎に縁(そ)へ者(ば)、則ち弾(は)ね渡りて[而]常世郷(とこよのさと)に至りき[矣]。
 〔(粟はイネ科の雑穀である。)その茎をしならせ、その反動で海を渡り、遠く常世の国に到着した。〕
(10)後(のち)自(よ)り、国中(くぬち)の未成(ならざ)る所(ところ)者(は)、大己貴神、独(ひとり)り能(よ)く巡(めぐ)りて造り、遂に出雲国に到り、
(11)乃(すなは)ち言(こと)を興(おこ)して曰はく「夫(それ)葦原中つ国、荒芒(いにしへ)自(よ)り本(もと)、及(すなは)ち磐石(いはいし)草木(くさき)咸(みな)[能]強(こわ)く暴(あら)く至る。然るに、吾(われ)已(すで)に摧伏(おひふ)せ、和(やは)し順(したがは)不(ざ)るは莫(な)し。」といひて、
 〔昔は荒々しかった国土を押え、従わせた。〕
(12)遂に因りて言はく「今此の国を理(をさ)むは、唯(ただ)吾(わが)一(ひとり)身(み)[而]已(のみ)。其れ吾(われ)与(と)共に天の下を理(をさ)む可き者、蓋し之れ有り乎(や)。」
 〔今や、国を治めていくのは私一人のみである。私と共に天下を治めるだろう者は、いないものだろうか。〕

 …①なめる。②こころみる。[副]かつて。
 豈~乎(あに~や)…①反語。②推量。③願望。
 …かたる。
 (けだ)…①おそらく。もしかしたら。②もし。③単なる強調。
 幽深(ゆうしん)…静かで奥深いこと。
 致(いた)す…思いを述べる。
 荒芒…<百度百科>愚かなこと。上古の時を指す。</百度百科>
 摧伏(さいぶく)…打ち砕いて屈服させること。
 …代名詞、英語のnoneと同じ。「莫不」は二重否定。
 和順…穏やかに従うこと。和(やは)す。順(したが)へる。
 (をさ)…統治する。
《熊野之御碕》
 出雲国風土記は、意宇郡(おうのこほり)に熊野山、熊野大社がある。
 仁徳天皇紀に「皇后遊行紀國、到熊野岬」がある。一説には潮岬と言われているが、現在の熊野市北部の海岸にもたくさんの岬がある。
 第54回で見たように、一書5で素戔鳴尊の子、五十猛命など三神を紀伊の国に送ったとされる。 従って紀伊国に移った一族が、出雲国の地名を紀伊国の地にもつけたのであろう。
 意宇郡の熊野は山間地であるのに対して、この「熊野」には岬があるので、紀伊国の可能性が高い。
《淡嶋》
 淡嶋は国生みで2番目に生まれたが、「子の例に入れず」とされ島として公認されない。 「淡=阿波」から阿波の国周辺と想像されるが、比定地は特定されていない。なお、和歌山市に淡嶋神社がある。
《記との関係》
 大己貴命と少彦名命が協力して堅き国を造った後、少彦名命が常世の国に旅立った部分である。 このうち、特に一書6で加えられた部分は、(8)(9)の、常世の郷に渡る細かい言い伝えである。
 (10)(11)は、大国主が生まれてから第60回の「追避其八十神、始作國也。」までの長い部分を、たったこれだけに要約する。
 一書6は、大国主が敵を討ち伏せるまでの期間と、これから統治していく期間を区別し、前者は一人でできたが後者は一人では無理であるとする構成になっている。

【紀一書六(その3)】
(13)于時、神光照海、忽然有浮來者、
(14)曰「如吾不在者、汝何能平此國乎。由吾在故、汝得建其大造之績矣。」
(15)是時、大己貴神問曰「然則汝是誰耶。」對曰「吾是汝之幸魂奇魂也。」
(16)大己貴神曰「唯然。廼知汝是吾之幸魂奇魂。
(17)今欲何處住耶。」
(18)對曰「吾欲住於日本國之三諸山。」故、卽營宮彼處、使就而居、此大三輪之神也。
(19)此神之子、卽甘茂君等・大三輪君等・又姬蹈鞴五十鈴姬命。
(20)又曰、事代主神、化爲八尋熊鰐、通三嶋溝樴姬・或云玉櫛姬而生兒、姬蹈鞴五十鈴姬命。
(21)是爲神日本磐余彥火火出見天皇之后也。
(13)時に[于]、神(くすしき)光海を照らし、忽然(たちまちに)浮き来たる者有り、
(14)曰はく「吾(われ)不在(あらざ)る如(ごと)くあら者(は)、汝(いまし)何(いか)にや此の国を平(たひら)ぐこと能(あた)ふ乎(や)。由(よ)りて吾(われ)在るが故(ゆゑ)に、汝(いまし)其の大(おほきなる)造(つくり)之(の)績(つぎ)を建つを得(う)[矣]。」
 〔…私が居ないようなことで、お前はどうやってこの国を治めることができるのか。私がいれば、お前の大いなる国造りを続けることができるのだ。〕
(15)是(こ)の時、大己貴神問ひて曰はく「然れども、則(すはは)ち汝(なむち)は是れ誰(たれ)なる耶(や)。」というに、対(こた)ひて曰へらく「吾(われ)は是れ汝(な)之(が)幸魂(さきみたま)奇魂(くすみたま)也(なり)。」といへり
 〔…私はお前の幸魂(さきみたま)・奇魂(くすみたま)である。〕
(16)大己貴神曰はく「唯(ただに)然(しか)り。廼(すなは)ち、汝は是れ吾之(わが)幸魂奇魂なると知りぬ。
 〔…はい。あなたは私の幸魂・奇魂であることが分かりました。〕
(17)今、何処(いづく)にや住まむと欲(ほ)りするか[耶]。」
 〔それでは、あなたはどこに住みたいのか。〕
(18)対(こた)へて曰はく「吾は、日本(やまと)の国之三諸山(みもろやま)に[於]住まむと欲り。」といひ、故(かれ)、即ち宮を彼処(そこ)に営み、就(ゆ)かしめて[而]居(を)ら使めまつる、此れ大三輪之神(おほみわのかみ)也(なり)。
(19)此の神之子(みこ)は、即ち甘茂君(かものきみ)等(ら)大三輪君(おほみわのきみ)等、又姫踏鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)なり。
(20)又曰はく、事代主神、八尋熊鰐(やひろわに)と化為(なり)、三嶋溝樴姫(みしまみぞくひひめ)、或るは玉櫛姫(たまくしひめ)と云ふ、に通ひて[而]生(あ)れましし児(みこ)、姫踏鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)なり。
(21)是、神日本磐余彥火火出見天皇之(の)后と為(な)りたまふ[也]。

 忽然…突然。たちまちに。
 …つぐ。継承する。
 みもろやま(三諸山、御諸山)…または三輪山。三輪明神が大正時代に大神神社(おおみわじんじゃ)となった。
 神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといはれひこほほでみすめらみこと)…神武天皇。
《記との関係》
 記と同内容なのは(13)(14)(17)(18)(21)である。
 (19)は大神氏の起源譚を挿入する。鴨氏の由来は記と異なる。(第16回参照)
 (20)は、姫踏鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)の生まれの別説。
 (19)(20)とも、記と相違する。記では大物主が勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)との間に比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)を生む。
 (15)(16)は重要である。これらを挿入することによって、大物主を大国主と同一神であったことにする。

【紀一書六(その4)】
(22)初、大己貴神之平國也、行到出雲國五十狹々小汀而、且當飲食。
(23)是時、海上忽有人聲。乃驚而求之、都無所見。
(24)頃時、有一箇小男、以白蘞皮爲舟、以鷦鷯羽爲衣、隨潮水以浮到。
(25)大己貴神、卽取置掌中而翫之、則跳囓其頰。
(26)乃怪其物色、遣使白於天神、
(27)于時、高皇産靈尊聞之而曰
(28)「吾所産兒、凡有一千五百座。其中一兒最惡、不順教養。
(29)自指間漏墮者、必彼矣。宜愛而養之。」此卽少彥名命是也。
(30)顯、此云于都斯。蹈鞴、此云多多羅。幸魂、此云佐枳彌多摩。奇魂、此云倶斯美拕磨。鷦鷯、此云娑娑岐。
(22)初めに、大己貴神之(これ)国を平(たひ)らげしとき[也]、出雲国の五十狭々小汀(いささのおはま)に行き到りて[而]、且(また)[当]飲食(くらひもの)す。
(23)是の時、海の上忽(たちま)ち人の声有り。乃(すなは)ち驚きて[而]之を求(ま)ぎ、見る所に都(つと)無し。
(24)頃時(このころ)、一箇(ひとつ)の小男(ちひさきをのこ)有り、[以]白蘞(やまかがみ)の皮を舟と為(し)、[以]鷦鷯(ささき)の羽(は)を衣(きぬ)と為(し)、潮水(しほ)の隨(まにま)[以]に浮き到りき。
(25)大己貴神、即ち取りて、掌中(たなうら)に置きて[而]之を翫(もてあそ)べば、則(すなは)ち跳(と)びて其の頰(つら)を噛(か)みき。

(26)乃(すなは)ち其の物色(かたち)を怪(あやし)びて、使(つかひ)を遣(まだ)して[於]天神(あまつかみ)に白(まを)して、
(27)時に[于]、高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)之を聞きて[而]曰(のたま)はく、
(28)「吾(わが)[所]産みし児(みこ)、凡(およ)そ一千五百座(ちくらあまりいほくら)有り。其の中の一児(ひとりこ)最(もと)も悪(あ)しく、教養(をしへ)に不順(したがは)ず。
(29)指(および)の間(ま)自(よ)り漏(く)きて墮(お)つれ者(ば)、必ず彼(かれ)なるや[矣]。宜(よろし)く愛(いつくし)み[而]之を養(やしな)ふべし。」とのたまひ、此れ即ち少彦名命(すくなひこなのみこと)是(これ)也(なり)。
 〔指の間から漏れ落ちたことがあり、間違いなく彼です。大切に育てていただくよう、よろしく願います。〕
(30)顕、此を于都斯(うつし)と云ふ。踏鞴、此を多多羅(たたら)と云ふ。幸魂、此を云佐枳彌多摩(さきみたま)と云ふ。奇魂、此を云倶斯美拕磨(くしみだま)と云ふ。鷦鷯、此を云娑娑岐(ささき)と云ふ。

ミソサザイ (体長10cm)
 五十狭々小汀(いささのおはま)…五十田狭之小汀(いたさのおはま、天神の使者が大国主を訪れた場所)と同じと見られる。現在、稲佐(いなさ)の浜と呼ばれる海岸が、出雲大社の近くにある。
 …まったく。否定の不・無とともに用いる。
 …ビャクレン(白蓮)はブドウ科ノブドウ属。別名カガミグサ。 『倭名類聚抄』には「白=やまかがみ」異体字辞典(中華民国教育部編)によるとの異体字。
 鷦鷯…ミソサザイ(スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ目)。紀の注記に娑娑岐、和名類聚抄に佐々木、いずれも「さざき」である。「さざき→さざい」の音韻変化だと思われる。
 たなうら(掌中)…てのひら。
 教養…教え育てる。
 …再読文字として「よろしく~べし」。~するのが当然である。

《記との関係》
 (22)~(29)の粗筋は記と概ね一致しているが、脚色が加えられている。
 相違するのは、以下の点である。
 ・記にあった多邇具久(ヒキガエル)、久延毘古(くえびこ)が一書6にはない。
 ・船が、記では天之羅摩(かがみ)船、一書6では白蘞(やまかがみ)の樹皮の船。 名称の「かがみ」が共通しているが、辞書によると「カガミグサ」を別名とする植物はさらに、ヤマブキ、マメヅタ、ウキクサ、アサガオ、イチヤクソウがある。
 ・衣は、記では鵝(ガチョウ)の皮。一書6では鷦鷯(ミソサザイ)。
 (22)「飲食」とあるのは、記の「御大」を「御台」(食膳)と解釈したと思われる。
 (29)の「宜」以下は、大国主への依頼である。
 (22)~(29)は、(5)と(6)の間に入るべき部分である。紀の編者は(21)まで書き終えてから書き落としに気づき、 「先に」をつけて追加した。一書6は、急いで書かれたことが伺われる。

【大物主とは何者か】
 記では、大物主は海の彼方からやってきて、大国主と協力して国を治める。ということは渡来民族の神である。 記紀の中心となる筋書きは、大国主は国譲りによって天照に屈するが、その宗教的権威はその後まで尊重される。
 同じ国譲りを起源として、大物主出現の話ができた可能性がある。 こちらは、「もともと、国土を支配していた大国主は、あるとき海からやってきた別の氏族の神と協力して新しい国造りをした。」という話になった。 「天照族」の起源は、神話の共通性から南方から渡来した海洋民族だと考えられている。
 大国主が渡来民族の支配を受け入れたことについて、「大国主は、一人で国造りを続ける自信がない。一緒に収めてくれる者が、だれかいないか」と求め、それに応えて御諸山の神が登場する形になっている。 これは、国譲りを別の形で表現したと考えることができる。 つまり、同じ出来事を扱った、もうひとつの物語が共存している。
 とすれば、出雲側から見た大物主は、もともとは天照族が御諸山に祀っていた神である。 そこでなるほどと思わせるのは、海から忽然と現れた神の起源が、全く書かれていないことである。つまり、出雲の海から姿を現した神はよそ者だから、その発祥を知る由もない。
 しかしこの筋書きは、天照の氏族にとって具合が悪かった。天照大御神以外に最高神がいたのでは、伊弉諾・伊弉美から始まった精緻な筋書きが根底から覆されてしまうのである。 (しかし、初期の纏向政権の時代は、実際に御諸山の神が最高神だったのだろう。)
 記の編纂の時点では、まだこの問題には気づかなかったが、紀を編纂中にこの問題が発見された。 驚いて神学上の研究を急いた結果、得られた結論は、大物主を大国主と同一神であったとすることである。要するに、御諸山の神を出雲勢力側に押し付けることによって、問題を解決した。 その要となる台詞が、「吾是汝之幸魂奇魂也」である。即ち海の彼方からやってきた神は、お前は誰かと聞かれて「私はお前の幸魂・奇魂である」と名乗る部分を挿入し、大物主を大国主と同一化するのである。
 とは言え、出雲の人々が大物主に親近感があったのも、また確かだろう。国譲りの後は 人の交流が盛んになり、その結果大和地方に移った出雲出身者は、大物主を自分の神として大切に祀ったと想像される。それ故に、出雲勢力側もこの話を大国主の話に加えたのである。
 その後、古事記成立の712年ごろから、書紀完成の720年までの間にこのような神学研究の発展があったことになる。
 この研究の過程で、記の各文を厳密に読解したのに伴い、一書6の字数が増加したと考えられる。

【少名毘古那の存在理由】
 大国主は一人で十分国を作り得る、能力の高い神であった。しかし、御諸山の神が海から登場し、二神の共同作業とすることを受け入れる。 これは、事実上の「国譲り」である。しかし、大国主を崇める出雲の神官はそれを認めたくなかったのであろう。
 そのため、大国主には最初からパートナーが居たことにして、そのパートナーが去り途方に暮れていたところに、都合よく新しいパートナーが現れたという筋書きにする。こうして「国譲り」させられた屈辱から逃れたのである。
 この書き変えは、逆に国譲りが出雲の神官の心理に落とした影を感じさせる。
 ここで当初のパートナーとされたのが少名毘古那で、名前の""は大国主の""と兄弟関係としたためである。そこから小人でなので、母の指の間から漏れ落ちたり草の実の小さな船に乗ったりという想像が生まれる。 さらに一書6では、大国主の頬に噛みつくなどの脚色が加えられる。
 大国主の国譲りの相手は、実は御諸山の神であったかも知れないのである。その時期、纏向の地にあった初期大和政権が御諸山の神を祀っていた。 記のこの部分は、出雲一族の側の伝承によると思われる。紀においては、御諸山の神が天照登場前の最高神であったことを認めていないから、その修正に迫られた。それが一書6である。
 書紀の立場では、大国主の最初のパートナーは必要ないから、最初は少名毘古那の登場を無視したが、 記の「大物主を受け入れたのは、少名毘古那が去ったためである」という筋書きをそのままにしたので、 少名毘古那の登場に触れないのは不自然になり、後から「初~」として付け加えたように読み取れる。

まとめ
 御諸山の神は、纏向にあった初期大和政権(仮に纏向政権と呼ぶ)の神であった可能性が高い。 そして、大国主勢力とは敵対関係であったが、結末は殲滅ではなく、和解による連合化である。 大国主の国は政治的には地方の一分国・出雲国に縮小したが、纏向政権を支える宗教的権威となった。 それを出雲側からは、国土を「我よく共に与(くみ)し相作り成す」という大物主の言葉を受け入れたと表現する。
 魏志倭人伝の内容から見て、卑弥呼の時代には、出雲(=投馬国)は倭の支配下にあるので、纏向政権の前身と古代出雲の和解は倭国大乱の終結の頃(2世紀末)には完了していたであろう。 そして、卑弥呼から数代の大王(3世紀末ぐらいまでか)の時代は、まだ御諸山の神が最高神であった。 大和に移ってきた出雲勢力の一部も、御諸山に神を祀って両者の神々は渾然一体になったかも知れない。
 その後、これまでに述べてきたように、卑弥呼の偉大さが民族の記憶に残り天照大御神になり、御諸山の神は次第に霞んでいった。
 このように、記と紀の大物主の扱いの違いは、纏向政権と古代出雲政権の関係において重要な位置を占める。 


2014.06.25(水) [070] 上つ巻(大国主命15) 
故其大年神 娶神活須毘神之女 伊怒比賣
生子大國御魂神
次韓神
次曾富理神
次白日神
次聖神【五神】

故(かれ)、其の大年神(おほとしのかみ)、神活須毘神(かむいくすびのかみ)之女(むすめ)、伊怒比売(いのひめ)を娶(めあは)せ、
子(みこ)、大国御魂神(おほくにみたまのかみ)、
次(つぎ)に韓神(からのかみ)、
次に曽富理神(そほりのかみ)、
次に白日神(しらひのかみ)、
次に聖神(ひじりのかみ)【五(いつ)はしらの神】を生みましき。


又娶香用比賣【此神名以音】
生子大香山戸臣神
次御年神【二柱】
又香用比売(かよひめ)【此の神の名は音(こゑ)を以ちゐる】を娶(めあは)せ、
子(みこ)、大香山戸臣神(おほかぐやまとみのかみ)、
次に御年神(みとしのかみ)【二(ふた)柱】を生みましき。


又娶天知迦流美豆比賣【訓天如天亦自知下六字以音】
生子奧津日子神
次奧津比賣命 亦名大戸比賣神
此者諸人以拜竈神者也
次大山/上/咋神 亦名山末之大主神
此神者坐近淡海國之日枝山
亦坐葛野之松尾用鳴鏑神者也
次庭津日神
次阿須波神【此神名以音】
次波比岐神【此神名以音】
次香山戸臣神
次羽山戸神
次庭高津日神
次大土神 亦名土之御祖神【九神】

又、天知迦流美豆比売(あまちかるかみづひめ)【「天」は天(あま)の如く訓(よ)み、亦(また)「知」自(よ)り下つかた六字(むじ)音を以ちゐる。】を娶(めあは)せ、
子(みこ)、奧津日子神(おきつひこのかみ)
次に奧津比売(おきつひめ)の命、亦の名は大戸比売神(おほべひめのかみ)、
此(こ)者(は)、[以(すで)に]諸(もろ)人(ひと)の拝(をが)む竈(かまど)の神たる者(は)[也]、
次に大山{上声}咋神(おほやまくひのかみ)、亦の名は山末之大主神(やますゑのおほぬしのかみ)、
此の神者(は)近淡海(ちかつあはうみ)の国之(の)日枝山(ひえのやま)に坐(ま)し、
亦(また)葛野(かどの)之(の)松尾(まつのを)に坐(ま)し、鳴鏑(なりかぶら)を用(も)つ神[者]也(なり)、
次に庭津日神(にはつひのかみ)、
次に阿須波神(あすはのかみ)【此の神の名、音を以ちゐる。】、
次に波比岐神(はひきのかみ)【此の神の名、音を以ちゐる。】、
次に香山戸臣神(かぐやまとみのかみ)、
次に羽山戸神(はやまとのかみ)、
次に庭高津日神(にはたかつひのかみ)、
次に大土神(おほつちのかみ)、亦の名は土之御祖神(つちのみおやのかみ)【九(ここの)はしらの神】を生みましき。


上件大年神之子自大國御魂神以下大土神以前幷十六神
上の件(くだり)、大年神之子、大国御魂神自(よ)り以下(しもつかた)、大土神を以前(さきつかた)、并(あは)せて十六神(とをはしらあまりむはしらのかみ)。

羽山戸神娶大氣都比賣【自氣下四字以音】神
生子若山咋神
次若年神
次妹若沙那賣神【自沙下三字以音】
次彌豆麻岐神【自彌下四字音】
次夏高津日神 亦名夏之賣神
次秋毘賣神
次久久年神【久久二字以音】
次久久紀若室葛根神【久久紀三字以音】弥豆麻岐神(みづまきのかみ)

羽山戸(はやまと)の神、大気都比売(おほげつひめ)【「気」自(よ)り下(しもつかた)四字(よじ)音を以ちゐる。】の神を娶(めあは)せ、
子(みこ)、若山咋神(わかやまくひのかみ)、
次に若年神(わかとしのかみ)、
次に妹若沙那売神(いもわかさなめのかみ)【「沙」自り下三字音を以ちゐる。】、
次に弥豆麻岐神(みづまきのかみ)【「弥」自り下四字音をもちてす。】、
次に夏高津日神(なつたかつひのかみ)、亦の名は夏之売神(なつのめのかみ)、
次に秋毘売神(あきびめのかみ)、
次に久久年神(くくとしのかみ)【「久久」の二字音を以ちゐる。】、
次に久久紀若室葛根神(くくきわかむろつなねのかみ)【「久久紀」の三字音を以ちゐる。】を生みましき。


上件羽山之子以下若室葛根以前幷八神
上の件(くだり)、羽山之子以(よ)り下つかた、若室葛根以(よ)り前(さき)つかた、并(あは)せて八神(やはしらのかみ)。

 さて、その大年神(おおとしのかみ)は、神活須毘神(かむいくすびのかみ)の息女、伊怒比売(いのひめ)を娶り、
 御子、大国御魂神(おおくにみたまのかみ)、
 次に韓神(からのかみ)、
 次に曽富理神(そほりのかみ)、
 次に白日神(しらひのかみ)、
 次に聖神(ひじりのかみ)をお生みになりました。
 また、香用比売(かよひめ)を娶り、
 御子、大香山戸臣神(おおかぐやまとみのかみ)、
 次に御年神(みとしのかみ)をお生みになりました。
 また、天知迦流美豆比売(あまちかるかみづひめ)を娶り、
 御子、奧津日子神(おきつひこのかみ)
 次に奧津比売(おきつひめ)の命、またの名は大戸比売神(おほべひめのかみ)、 この神は、以前から人々皆が拝む竈(かまど)の神なのです、
 次に大山咋神(おほやまくひのかみ)、またの名は山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)、 この神は近江の国の、比叡山にいらっしゃり、 また葛野(かどの)郡の松尾(まつのお)にいらっしゃり、鳴鏑(なりかぶら)をもつ神です、
 次に庭津日神(にわつひのかみ)、
 次に阿須波神(あすはのかみ)、
 次に波比岐神(はひきのかみ)、
 次に香山戸臣神(かぐやまとみのかみ)、
 次に羽山戸神(はやまとのかみ)、
 次に庭高津日神(にわたかつひのかみ)、
 次に大土神(おおつちのかみ)、亦の名は土之御祖神(つちのみおやのかみ)をお生みになりました。

 上の件(くだり)、大年神の子は、大国御魂神以下、大土神まで、併せて十六柱の神。

 羽山戸(はやまと)の神は、大気都比売(おおげつひめ)の神を娶り、
 御子、若山咋神(わかやまくいのかみ)、
 次に若年神(わかとしのかみ)、
 次に妹若沙那売神(いもわかさなめのかみ)
 次に弥豆麻岐神(みずまきのかみ)、
 次に夏高津日神(なつたかつひのかみ)、またの名は夏之売神(なつのめのかみ)、
 次に秋毘売神(あきびめのかみ)、弥豆麻岐(みづまき)、夏高津日(なつたかつひ)、秋毘売(あきびめ)、久久年(くくとし)
 次に久久年神(くくとしのかみ)、
 次に久久紀若室葛根神(くくきわかむろつなねのかみ)をお生みになりました。

 上の件(くだり)、羽山之子以下、若室葛根まで、併せて八柱の神。


…[副] すでに。もとより。
…[名] やじり。「かぶら」の訓を与えるが、「鳴鏑」と熟した時、初めて「かぶらや」の意となる。

【諸人以拝竈神者也】
 「」は、主語と動詞の間に置かれたばあいは副詞で、ここでは「以前からそうなっている」「当然のことである」という意味である。
 「」は、漢文として見ると、主述構造「諸人以拝竈神」を体言化するので「諸人の以(すで)に拝みたるところの竈神」を意味する。
 和文にする場合、「者」はしばしば係助詞「」に置き換えられ、特に語尾にある場合は強調の機能がある。 本居宣長は、語尾の「者」を強調の係助詞「ぞ」に置き換えている。
 基本的に2つの「者」は、挟まれた部分を体言化する機能文字だと考えられる。 後の「者」を置き字とするか、強調の係助詞とするかは、文意による。

ミニチュア竈形土器 古墳時代
奈良県北葛城郡新庄町大字笛吹字遊ヶ岡出土
(画像提供:東京国立博物館)

【竈(かまど)】
 『三国志』魏書三十の「弁辰伝」に、「施竈皆在戶西。」(どの家も、西側に竃を施す)とある。三国志の時代(3世紀)は、朝鮮半島南部は三国に分かれ、三韓と呼ばれた。 弁辰はそのうちの一国で、さらに十二の小国の集合体である。三韓のうち残りの「」「辰韓」の条、また倭人伝にも竈は触れられていないので、弁辰特有のものと思われる。 <wikipedia>古墳時代には、「韓竈(からかまど)」と呼ばれる、儀式用の模型のような竈が出土する。 日本では6世紀に竪穴式住居の北側・東側の壁面に設けられ、奈良時代・平安時代には全国的に普及した。</wikipedia>
 従って記紀編纂の時代は普及の途上であるが、「諸人」と書いてあるので、大和国や山城国では既にある程度広まっていたかも知れない。 竈の神も同時に広まったはずである。
 ただ「韓竈」は渡来民が持ちこんだものだが、それが日本の竈の起源となったかどうかは、分らない。

【近淡海国】
 倭名類聚抄(平安中期、930年代)には「近江国」。<wikipedia>和銅6年(713)5月に郡・郷の名に好字(よいじ)を付けるように命じ、全国の国名が漢字2文字に統一されている。</wikipedia> 淡海は淡水湖のことで、湖のうち奈良から近い琵琶湖に近淡海(ちかつあはうみ)、遠い浜名湖に遠淡海(とほつあはうみ)と呼ばれた。それがそのまま国名になり、次に「漢字2文字化」により近淡海国が近江国、遠淡海国が遠江国となった。 さらに「ちかつあはうみ」は「ちかつ」が省略され「おうみ」と発音され、そのまま現代に到る。あるいは、「近」は漢字をつけただけで、発音は最初から「あはうみ」だったかも知れない。
 ここで「近淡海国」の表記が使われていることは、序文の日付「和銅五年正月廿八日(712年3月10日)」の信憑性を裏付ける。

【日枝山】
 近江国の「ひえの山」は、比叡山に比定される。その東にある大津市の日吉(ひよし)大社(滋賀県大津市坂本5丁目)は、最近(終戦後)まで「ひえ神社」と呼ばれた。
 <日吉大社のQ&A要約>古くは「日枝」「比叡」と書き、平安時代頃より「エ」の文字を 縁起の良い「吉」に替え「ヒヨシ」という訓みも生まれた。明治時代には「日吉神社(ヒエジンジャ)」が公称。 終戦後「神社」を「大社」、訓みを「ヒヨシ」とした。 </日吉大社Q&A>
 終戦(1945)後、官幣大社の制度が廃止されたので、全国の「ひえ神社」と区別するために「ひよし大社」としたという。

【葛野郡】(かどののこほり)
 倭名類聚抄によれば、山城国に葛野(加止乃=かどの)の郡(こほり)がある。 葛野郡は<wikipedia>山城国、京都府にかつて存在した郡で、現在の京都市北区・下京区・南区・中京区・右京区・西京区</wikipedia>の地域。

【松尾山】
 松尾山は全国各地にあるが、京都府の松尾山は西京区(旧葛野郡内)にあり、 山歩きサイトを閲覧すると「松尾山」の三等三角点の写真が載っていて、276.1mとされる。 しかし、二万5000分の一の地形図で該当する場所を見ると、北緯35°00’14”東経135°40’34”に△の表示があり、標高275.6mとなっていて、やや不一致がある。(測量年の違いであろう) その南側一体が、地名としての「松尾山」である。
 その尾根を東から望む位置に、松尾大社がある。 松尾大社のよみは「まつのお」なので、松尾山の「松尾は」「まつのを」で「松が茂る尾根」の意味だと思われる。
 松尾大社の起源は、5~6世紀まで遡るとされるので、京都府の松尾山は記の「松尾山」の比定地と考えられる。

【松尾大社】(まつのおたいしゃ)
 京都市西京区嵐山宮町。<御由緒要約>古くは頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に山霊を祀っていた。 5・6世紀に秦(はた)氏がこの地に来住する。秦氏は秦の始皇帝の子孫を自称するが、新羅の豪族とする研究もある。 秦氏は農地を開拓から、やがて経済力を高め大和政権の官僚となる。 文武天皇の大宝元年(701)に秦忌寸(はたのいみき)都理(とり)が勅命を奉じて、山麓の現在地に霊を移し神殿を営む。</御由緒>
 秦氏について、記紀に数か所の記述がある。そのうちの一例を示す。 <紀―持統天皇10年(696年)>五月壬寅朔甲辰(3日)、詔大錦上秦造綱手、賜姓爲忌寸。</紀> 秦綱手(はだのつなて)は、天武天皇9年(680年)5月21日没。壬申の乱の功臣で、死後16年を経て「忌寸」(いみき)という姓(かばね)を賜った。 忌寸は、天武天皇の定めた八色の姓(やくさのかばね)のうち、真人、朝臣、宿祢に次いで上から4番目である。

【大山咋神】
《鳴鏑》
 大山咋神は、日枝山と松尾に祀られる。「坐~亦坐~」の構造からみて、「用鳴鏑」は日枝山、松尾の両方に懸ると思われる。 両山に祀られるから、京都市から大津市の一帯を占めた一族の神と思われる。秦氏と共に渡来した神が、土着神と習合したのかも知れない。
 大山咋神は、二三のサイトで「『賀茂縁起』に丹塗矢に化して」玉依姫(たまよりひめ)に子を生ませたという一文があった。ところが、そこには『賀茂縁起』はどのような文書なのか書いていないので探したところ、次の解説が見つかった。 <平凡社/日立ソリューションズ・ビジネス 世界大百科事典第2版>
かもでんせつ〖賀茂伝説〗
 『釈日本紀』所引の『山城国風土記』逸文にみえる賀茂神社の縁起譚。 山城の賀茂建角身(かもたけつのみ)命には、玉依日子(たまよりひこ)、玉依姫(比売)(たまよりひめ)の2子があった。 タマヨリヒメが瀬見(せみ)の小川(賀茂川の異称)のほとりに遊ぶとき丹塗矢(にぬりや)が川上より流れ下り、 これを取って床の辺に挿し置くうちについにはらんで男子を産んだ。

</世界大百科事典第2版>
 これ以外に『加茂縁起』の実体は検索に懸らないので、所謂「加茂縁起」とは、上記の逸文(原文は失われ、部分的に引用されて残ったもの)のことだと思われる。 それでは、その「加茂縁起」に「丹塗矢」は大山咋神の鳴鏑と同一だと書いてあるのだろうか。さらに検索してみたところ、 <wikipedia>丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいう。<wikipedia>
 ということは、「大山咋神の鳴鏑=『賀茂縁起』の丹塗矢」と「加茂縁起」に書いてある訳ではなく、結局想像である。
 それでは「鳴鏑を用いる」とは、何を意味するのか? 以前に鳴鏑が出て来たのは、須佐之男が大国主に試練を与える場面であった。 鳴鏑とは、戦いに臨んで音を鳴らし神に勝利を祈願する矢であろう。しかし、「用鳴鏑神」の本当のいわれは不明である。
《咋》
 「くひ」を「」として、大山咋神を土木の神とする解釈がある。「杭=くひ」が古語にあるか確認するために万葉集を検索したところ、3263に「かみつせに いくひをうち しもつせに まくひをうち(上瀬に斎杭を打ち、下瀬に真杭を打ち)…」という用例があった。
《別名》
 「山末」は、山の麓だと思われる。「山末之大主神」は、山麓に社(日枝社、松尾社)を築いたときに山頂の神の分霊を祀り、「山末の神」と呼んだことに由来するかも知れない。

【大山咋神を取り上げた意義】
 ここで秦氏が祀る大山咋神を掲載したのは、朝廷を支える有力氏族としての秦氏の存在感を示すものである。 さらに、大山咋神を伊邪那岐・伊邪那美から始まる系図に位置づけたことで、朝廷の臣とする根拠を示している。

【大國御魂神以下、大土神以前の神】
 右図は、大年神の系図である。(図をクリックすると拡大)
《併せて16柱の神》
 天知迦流美豆比売の子を数えると10柱あるので、実際には17柱である。 そのうち、奧津日子神・奧津比売命は夫婦神である。夫婦神を2神合わせて一代と数えた例が天地開闢のところにあるが、併せて一柱とは言わないだろう。
《韓神など》
 韓神については、
<kotobank.jp―朝日日本歴史人物事典より>新羅国の都である徐伐(現在のソウル)をそのまま名とした第3子の曾富理神と共に、古代朝鮮との密接な関係を反映する。</朝日日本歴史人物事典>
 という解説がある。
 また白日神については、 <三井寺―新羅神社考地名の白浜の「白」は斯羅、即ち新羅という意味らしく、白日神は新羅の日の神(ひのみ)子のことである</新羅神社考>という説がある。
 伊怒比売の間に生まれた五神はまとめて新羅由来であるとも考えられる。
 次に、阿須波神・波比岐神は、坐摩巫祭神(いかすりのみかんなぎのまつるかみ)の五神に含まれる。 <wikipedia>『延喜式神名帳』では、月次・新嘗の幣帛に預る</wikipedia>とあるので、収穫に関係するか。
《大年神》
 子、孫に「御年神」「若年神」がいるので、複数の「年神」たちの上に立つ神と思われる。 年神は、<wikipedia要約>・正月に家庭を来訪する神、・秋の実りの神、・先祖の霊、などの性格</wikipedea>をもつ神だという。 記では、大年神は、須佐之男と、大山津見神の子との間に生まれた子として、伊邪那岐・伊邪那美からの系図に位置づけられている。
《庭津日神~大土神》
 土神に関連しては、興味深い解説がある。
<デジタル大辞泉> 
どくじん(土公神):
 陰陽道(おんようどう)で土をつかさどる神。春は竈、夏は門、秋は井戸、冬は庭にあって、その季節にその場所を動かせばたたりがあるとされる。
</デジタル大辞泉>
 陰陽道は、<wikipedia>遅くとも百済から五経博士が来日した512年ないし易博士が来日した554年の時点までに、中国大陸(後漢・隋)から直接、ないし高句麗・百済経由で伝来した。</wikipedia>
 「には(庭)」は邸内の空き地、神事や狩猟の場所、土間などの意味で、ほぼ現代語の「庭」と同じである。 「庭津日神」「高庭津日神」は庭を照らす太陽の神か。また、奧津比売は竈の神とされている。 他の阿須波神などの性格は不明であるが、これらを含め邸内の施設に関連する神かも知れない。

【羽山戸の神の子】
 母の大気都比売は、第51回で須佐之男命に殺されたが、その死体のあちこちから農作物の種を生じた。そのためか、その子も農耕に関係する。
 弥豆麻岐(みづまき)夏高津日(なつたかつひ)秋毘売(あきびめ)久久年(くくとし)はそれぞれ、 水撒き、夏の高い陽、秋姫、茎年を連想させ、四季の農作業の神と取ることができる。 また久久紀若室葛根(くくきわかむろつなね)は、<wikipedia>新しい室を建てて葛の綱で結ぶ意</wikipedia>ともいう。
 若年神は、一年をサイクルとする農作業の神、若山咋神も山の作物を実らせ、食わせる意味なのかも知れない。

【新羅との関係】
 韓神、曽富理神、白日神など新羅由来の神が登場する。 また、大山咋神を祀る秦氏は、新羅から渡来したとも言われる。さらに、竈は渡来した「韓竈」が広まったかも知れない。 これらから、大年神の子とされる神々には、新羅から渡来した神々が含まれていると見られる。
 大年神は、須佐之男命の子である。須佐之男命は出雲の国降りる前に、その子と共に新羅に立ち寄ったという記述が、紀の一書にある。
《「素戔鳴尊、自天而降到於出雲國簸之川上」の段一書4》
 素戔鳴尊、帥其子五十猛神、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處。乃興言曰「此地、吾不欲居。」
〔素戔鳴(すさのを)の尊は、その子五十猛(いそたける)の神を伴って新羅の国の居曽尸茂梨(こそしもり)に降りたが、「この地には私は居たくない」と言った。〕

居曽尸茂梨…〈欽明天皇紀〉二十三年に「居曽山」があるので、おそらく「居曽尸茂梨」ではなく「居曽尸茂梨」という地名である。
《同一書5》
 素戔鳴尊曰 韓鄕之嶋、是有金銀。〔(韓郷(からさと)の島には金銀がある〕として朝鮮半島南部の土地を話題にしている。
 筆者はこれまでに、出雲の人々の先祖は、百越人ではないかという仮説を持っているが、それははるか昔の紀元前4世紀ごろの話であり、 古墳時代には既に全くの倭人である。
 それとは別に、新羅(356年成立)から5~6世紀ごろに豪族が渡来し、 記紀編纂時代には政権の有力構成員になっていたと思われる。
 系図を見ると、大年神を祖とする新羅系の神は大国主命とは別系統で、須佐之男命から直結している。 一書4によれば、須佐之男命は新羅に立ち寄っている。 このように、記紀の一部には、須佐之男命と新羅国とを関係づける記述がある。

まとめ
 ここまで見て来たように、須佐之男命や大年神の子は新羅国からの渡来族と関係するが、だからと言って倭国の民族の由来が朝鮮半島にあるわけではない。 秦氏など、新羅から渡来した一族が倭国の豪族となり、朝廷を支える勢力のひとつになったということである。 ここで彼らを取り上げたのは、天武天皇が朝廷への諸族の統合を図る一環として、新羅から渡来した一族の存在も取り上げ、重んじていることを示すためである。
 この段は、一旦大国主とは切り離されている。ここで取り上げられた神々のひとつのグループは、今述べたように新羅系である。
 他のグループは、農耕や住居など、庶民の生活の片隅にいつもいる神々である。こちらは、民衆を古事記の世界に引き寄せるためである。
 この段もまた、民族の精神的な統合を促している。、


[071]  上つ巻(国譲り1)