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[060]  上つ巻(大国主命5)

2014.04.28(月) [061] 上つ巻(大国主命6)

爾 握其神之髮其室毎椽結著而
五百引石取塞其室戸
負其妻須世理毘賣 卽取持 其大神之生大刀與生弓矢及其天詔琴而
逃出之時
其天詔琴拂樹而 地動鳴
故其所寢大神聞驚而 引仆其室
然 解結椽髮之間 遠逃

爾(かれ)、其の神之髪を握り、其の室(や)の椽(たるき)毎(ごと)に結(ゆ)ひ著(つ)けて[而]、
五百引石(いほびきのいは)にて其の室戸(やど)を取り塞(さ)へ、
其の妻須世理毘売(すせりびめ)を負(を)ひ、即ち其の大(おほ)神之生(いく)大刀(たち)与(と)生(いく)弓矢(ゆみや)と、及(また)其の天詔琴(あめののりごと)を取り持ちて[而]、
逃げ出(い)でし[之]時、
其の天詔琴(あめののりごと)の樹(き)を払(はら)ひて[而]、地(つち)の動(とよ)み鳴りし故(ゆゑ)、
其の[所]寝(い)ねたる大(おほ)神聞き驚きて[而]其の室(や)を引き仆(たふ)しき。
然(しか)るに椽(たるき)に結はれし髮を解(と)きし[之]間(ま)、遠(とほ)く逃げき。


故爾 追至黃泉比良坂 遙望呼謂大穴牟遲神曰
其汝所持之生大刀生弓矢以而
汝庶兄弟者追伏坂之御尾
亦 追撥河之瀬而
意禮【二字以音】爲大國主神 亦爲宇都志國玉神而
其我之女須世理毘賣爲嫡妻而
於宇迦能山【三字以音】之山本
於底津石根宮柱布刀斯理【此四字以音】
於高天原氷椽多迦斯理【此四字以音】而 居 是奴也

故爾(しかるゆゑ)追ひ、黄泉比良坂(よもつひらさか)に至(いた)り、遥(はる)けく望み大穴牟遅神(おほむちのかみ)に呼び謂(の)りて曰はく、
「其れ、汝(な)が持ちし[之][所の]生(いく)大刀(たち)と生弓矢とを以ちて[而]、
汝が庶(まま)兄弟(あにおと)者(は)坂之御尾(みを)に追ひ伏せ、
亦(また)、河(かは)之瀬に追ひ撥(をさ)めて[而]、
意礼(おれ)【二字(ふたもじ)、音(こゑ)を以てす。】大国主(おほくにぬし)の神と為(な)り、亦(また)宇都志国玉(うつしくにたま)の神と為(な)りて[而]、
其れ、我之(わが)女(むすめ)須世理毘売(すせりびめ)を嫡妻(こなみ)と為(し)て[而]、
宇迦能(うかの)山【三字(みもじ)、音を以てす。】之山本に[於]
底津石根(そこついはね)に[於]宮柱布(ふ)刀(と)斯(し)理(り)【此の四字、音を以てす。】、
高天原(たかあまのはら)に[於]氷椽(ひき)多(た)迦(か)斯(し)理(り)【此の四字、音を以てす。】て[而]居(を)れ。是奴也(こやつめ)。」


故 持其大刀弓 追避其八十神之時 毎坂御尾追伏 毎河瀬追撥
始作國也

故(かれ)、其の大刀(たち)弓を持ち、其の八十神を追ひ避(やら)ひし[之]時、坂の御尾(みを)毎(ごと)に追ひ伏せ、河の瀬毎に追ひ撥(をさ)め、
始めて国を作りき[也]。


 そこで、その神の髪を掴み、その部屋の垂木毎に結びつけ、、 五百引(いおびき)の岩[大きな岩]によってその入口の戸を塞ぎ、 妻、須世理毘売(すせりびめ)を背負い、すぐにその大神の生大刀(いくたち)と生弓矢(ゆみや)、そして天詔琴(あめののりごと)を持って、 逃げ出した時、 その天詔琴が樹の枝(き)を払い、大地が大音響を立てたので、 寝ていた大神はそれを聞いて驚き、部屋を引き倒しました。 ところが、垂木に結はれた髮を解いている間に、遠くまで逃げてしまいました。
 それを追いかけ、黄泉比良坂(よもつひらさか)まで来たところで、 遥かに望み、大穴牟遅神(おほむちのかみ)に叫び、こう告げられました。 「おーい、お前が持ち出した生大刀と生弓矢で、 お前の庶(まま)兄弟を坂の峰に追い詰めて倒し、 また、川の瀬に追い詰めて屈しさせ、 貴様は大国主の神となり、また宇都志国玉(うつしくにたま)の神となり、 それ、私の娘、須世理毘売(すせりびめ)を正妻とし、 宇迦能(うかの)山の山本の、 地の底の岩に巨大な宮柱が立ち、 高天原(たかまのはら)に届く千木が立つ宮に居れ。この野郎。」
 このようにして、その大刀と弓を持ってその八十神を追い立て、坂の峰毎に追い詰めて倒し、河の瀬毎に追い詰めて屈しさせ、 ようやく国を作ったのでした。

…[名] 屋根瓦をうけ支える丸い木材。たるき。
…[名] たるき。丸いたるき(椽)、四角いたるき(桷)の総称。
たるき(垂木、椽)…[名] 棟から軒に渡して、屋根を支える長い木材。
ゆふ(結ふ)…[他]ハ行四段 結ぶ。
ちびきのいは(千引きの石)…[名] 千人で引くほどの大きな岩。
いほ…[名] ①五百。②接頭語的に用いて、数の多いさま。
とり-(取り)…[接] 動詞の前に置き、語調を強める。
さふ(障ふ)…[他]ハ行下二 邪魔をする。遮る。
やど(屋戸)…[名] わが家。家の戸。
おふ(負ふ)…[他]ハ行四段 背負う。
いく-(生く)…[接頭] (体言の上について)生き生きした、などの意味を加えてほめたたえる語。
たち(太刀、大刀)…[名] 奈良時代以前、長く大きな刀剣の総称。
あめののりごとあめのぬごと(天詔琴)…[名] 神の詔(のり)を聞くときに用いる琴。
あめのぬごと(天沼琴、天瓊琴)…[名] 玉で飾られた神聖な琴。
にぐ(逃ぐ)…[自]ガ行下二 逃げる。
はらふ(払ふ)…[他]ハ行四段 払いのける。
とよむ(響む)…[自]マ行四段 鳴り響く。
…[動] 倒れる。倒す。
たふる(倒る)…[自]ラ行下二 倒れる。
たふす(倒す)…[他]サ行四段 倒す。
はるけし(遥けし)…[形]ク 距離や時間が遠く離れている。
…[助] 言い出しの言葉。特に訳出する必要はない。
それ(夫)…[接] そもそも。漢文訓読体の文章で、改まった気持ちで物事を述べようとするときに用いる。
…[名] 妾の生んだ子。(対)嫡。
まま-(継、庶)…[接頭] ①実の親子ではないことを表す。②母親違いの兄弟・姉妹を表す。「まま兄弟(あにおと)」
(峰)…[名] ①峰の続いたところ。尾根。②山の高いところ。峰。
(瀬)…[名] 川の流れの浅いところ。
…[動] 服させる。従わせる。
ふす(伏す)…[他] サ行下二 前向きに倒す。押し倒す。
…[動] 治める。排除する。絶滅する。
はなつ(放つ)…[他] タ行四段 追放する。
をさむ(治む)…[他] タ行下二 平定する。
…[名] 正妻。正夫人。
こなみ(前妻、嫡妻)…[名] (上代語)一夫多妻制で、前にめとった妻。本妻。
そこついはね(底つ石根)…[名] 地底にある大岩。「つ」は上代の格助詞(「の」と同じ)。
ひぎ(氷木)、ちぎ(千木)…[名] 屋根の棟の両端に、交差させて突き出させた長い二本の木。神社建築に見られる。
ふとしく(太敷く)…[他]カ行四段 ふとしると同じ。
ふとしる(太知る)…[他]ラ行四段 宮殿などの柱をしっかり立てる。
たかしる(高知る)…[他]ラ行四段 宮殿などをしっかり造営する。
おれ…[代] 二人称の人称代名詞。目下に対して言う。
こやつ(此奴)…[代] 二人称の人称代名詞。相手を見下して言う。
…[助] 文末に置いて、さまざまな語気(断定、反語、詠嘆など)を表す。
…[終助] 文末に置いて、感動、詠嘆を表す。
-め(奴)…[接尾] 人名や人を表す語について、相手をいやしめ、ののしる意を表す。
はじめて(初めて、始めて)…[副] 最初に。ようやく。

【文の区切りとしの「其」】
 魏志倭人伝にも多用され、漢文にはもともと句読点がなかったので、文の区切りを明確にする役割がある。 記の場合は、文頭の「爾」、文末の「也」が特定の意味を持たずに、文の区切りとして使われる場合がある。

【こなみ・うはなり】
 上代語で、「こなみ」には、先妻、「うはなり」は後妻という字を宛てる。 しかし、先妻・後妻の意味は現代とは異なり、一夫多妻制においては両方とも同時に妻である。 中巻、神武天皇の最初の歌謡にその用例がある。抜粋すると、
 こなみが なこはさば たちそばの みのなけくを こきしひゑに うはなりが なこばさば いちさかき みのおほけくを こきだひゑに
 先妻が肴乞はさば 立ち柧棱(1)の実の無けくをこきし(2)ひゑ(3)(4)  後妻が肴乞はさば(5)実の多けくをこきだひゑね
(1) 蕎麦の木のように内容が貧弱なことを表し「実の無けく」への枕詞。 (2) [副] たくさんの。 (3) ひう(聶う…[他]ワ行下二 薄く削り取る)の連用形。 (4) 完了の助動詞「ぬ」の命令形。~してしまえ。 (5) イチサカキは植物名(ツバキ科の常緑低木)であるが、ここでは「実の多けく」への枕詞。
 こなみがおかずを求めたら貧弱な実を食べさせ、うわなりがおかずを求めたら、たっぷりと実を食べさせようという。 昔結婚した正夫人より、新しく結婚した夫人の方が可愛いのである。 この例から、こなみ・うはなりの意味は明確である。 

【和名類聚抄より】
《琴》
琴【絃徽等附】 帝王世説云炎帝作五絃琴世本云神農作之琴操云伏犠作之以具宮商角徴羽 至於周文王増二絃一説云文王武王各加一絃【音与弦同和名古止乃乎】文選琴賦云徽以鍾山之玉 【今案俗説琴体有龍池鳳池龍舌龍尾蜂腰鳳足弦門絃納古人肩等名】
琴【絃徽等を附す】…『帝王世説』に云はく、炎帝、五絃琴を作る。 『世本』に云はく、神農、之を作る。『琴操』に云はく、伏犠、之を作る。 以て「宮商角徴羽」を具(そな)ふ。 周の文王に至り、二絃を増す。一説に云はく、文王・武王各一絃を加ふ。 【[絃の]音は弦に同じ。和名、古止乃乎(ことのを)】『文選琴賦』に云はく、徽、鍾山之玉を以ってす。 【今案ずるに、俗説に、琴の体に龍池・鳳池・龍舌・龍尾・蜂腰・鳳足・弦門・絃納の有るは、 古人(いにしへびと)の肩等の名なり。】
『』内は古代の文献名。 炎帝…夏の神、太陽神。または神農。 神農伏羲…中国古代の伝説上の帝王。 文王武王…武王は周(古代中国王朝、BC1046~BC256)の創始者。文王は武王の父。 宮商角徴羽…中国伝統音楽の階名。ドレミソラにあたる。 ことのを…「を」(緒)は、糸。琴に張る糸、つまり弦。 鍾山…現在の紫禁山(南京市北東部)。 …絃を押える点を示すマーク(ギターのように指で弦を押えることによって音程を変える)。 龍池・鳳池…裏面に開けられた2つの穴の名称。共鳴箱から音を外部に出す。
 和名類聚抄には、琴の仲間の楽器として、さらに瑟(シツ)、筝(ショウ)が記載されている。
《瑟》
 『孫愐切韻』云瑟【所櫛反】。楽器似瑟而大三十六絃。
 音はシツ。筝に似た楽器で、大型で36弦。なお、漢和辞典には春秋時代に流行し、25または16弦とある。
《筝》
筝【柱附】 (抜粋)【爼耕反。俗云象乃古止】十三絃。【一二三…十斗為巾。】筝柱【和名古止知】
 音はショウ。俗に「しょうのこと」と言い、13弦。筝柱(和名は「ことぢ」)。
 琴は弦を指で分割するが、筝・瑟は、琴柱(ことじ)を用い、弦の音程を定める。
 和名類聚抄には、琴、箏自体の和名は書かれていないが、 その付属品が「ことのを」「ことぢ」とされることから、琴・瑟・箏に類似する楽器の総称が「こと」であったのは間違いない。
古 琴 (クリックで拡大) 

【琴】
 中国の古琴は、漢代末に楽器として形が定まり、以来古楽器として伝わっている。 日本には、遣唐使の時代に伝わったが平安時代の中期に途絶え、江戸時代に再興されたという。 弦にはもともとは絹糸を使っていたので、音量は小さく静かに室内で演奏し、幽玄の境地を奏でるものであった。
 はじめは宮商角徴羽(ドレミソラ)の五弦であったが、後に二弦(オクターブ下のソラ)が追加された。 琴柱はなく、(ぎ)と呼ばれる13の位置を目印にして、左手で弦を押えて音程を変える。
 弦の二等分点が7徽、4等分点が4徽、10徽、8等分点が1徽,13徽、3等分点が5徽,9徽、 6等分点が2徽,12徽、5等分点が3徽,6徽,8徽,11徽である。(参考資料琴學入門) 解放弦を仮に一点ハ音とした場合、弦の分割による振動比から音程(純正律)を割り出すと、図のようになる。
 各部に名称のうち、下面の2か所の穴は龍池・鳳池という。
 和名抄の「琴」の説明は、このような古琴の特徴とよく一致する。 ただ、龍舌・龍尾を除き、今日まで伝わる各部位の名称は、和名抄と相違がある。
 なお、十三弦で琴柱を用いる楽器は、和名抄では「琴」ではなく「筝」とされる。

【天詔琴・天沼琴】
 記の中巻に、琴の音色が神懸かりになった神功皇后に、神の言葉(詔(の)り)を導く話が書かれている。 琴の音には、詔を導く力があるから、天詔琴というのであろう。
 ところが、写本によって「」になっているものがあるという。
 天沼琴だとすれば、伊邪那岐命と伊邪那美命が未だ「ただよへる」国土を掻いた天沼矛と類似した名称と言える。 紀には「天之瓊【瓊、玉也、此云努】矛」とあり、つまり瓊は玉であり、これを"ぬ"と読む。
 前項で調べたように、平安時代の「琴」は中国から伝わったタイプのものを意味し、その徽に宝石が使わているので、 「天沼(=瓊)琴」とする説は説得力がある。
 しかし、もともと天沼矛は、文字通り沼のようなところを掻く矛を意味し、 紀において初めて瓊の字を宛て、玉のような、あるいは玉に装飾されたものとした可能性がある。 その場合には、天沼矛から天沼琴を類推するのはむずかしくなる。

【持ち出した「琴」】
 我が国の「こと」については、演奏している姿を描いた埴輪が残り、また、3世紀中頃の青谷上寺地遺跡からも箱型の一弦のことが出土している。 このように、古くから祭祀で神の調べを奏でたり、シャーマンによるお告げのために伝統的に使用されてきたと思われる。
 大穴牟遅神が持ち出した楽器には、漢字「」が使われている。 神話におけることは、神話であるから、必ずしも和名抄定義のと同じものである必要はないが、 少なくとも、記の編纂に関わった中国人スタッフは、和名抄定義のに類似した楽器を、頭に描いていたと思われる。
 もちろん、記の読者や朗読を聞く者は、琴でも、箏でも自由に想像すればよいのである。
 現実の琴は、音量に限界があるが、そこは神話だから、少し木の枝に触れただけで、大地を揺るがす大音響を放つ。

【黄泉比良坂】
 黄泉比良坂(よもつひらさか)は、黄泉の国の入り口に通ずる坂だとされる。伊邪那岐命はここを通って黄泉の国から脱出し、 伊邪那美命が遣わした醜女(しこめ)・雷神、そして伊邪那美命自身も、黄泉比良坂を通って地上の国まで追ってくることはできなかった。
 根堅州国に居を構えた須佐之男も同じで、やはり黄泉比良坂を越えて地上の国に出ることは出来ず、遥か遠くを逃げる大穴牟遅神に向かって大声で叫ぶのみである。 だから、やはり根堅州国は黄泉の国のことである。 もともと須佐之男は 妣(はは、伊邪那美)の国である根堅洲国に行きたいと言っていたのだから、辻褄は完全に合っている。

【坂之御尾・河之瀬】
 最後のところで「毎」をつけて「坂の御尾毎に追ひ伏せ 、河の瀬毎に追ひ撥(をさ)む」と書いているので、特定の坂・川を指すのではなく、 国土の各地にある坂・川という意味だと考えられる。 山の斜面を追い登り、尾根まで追いつめて屈服させ、川の中まで追い込み支配下に置くという意味であろうか。
 結局八十神は出雲の多数の国津神であり、大国主による制覇を妨害する者として、立ちはだかる存在であった。
中日新聞 2000年4月29日

【出雲国風土記に見る八十神の追放】
《大原郡/来次郷》(きづきのさと)
所造天下大神命詔 八十神者不置青垣山裏 詔而 追撥時此處追次坐 故云来次
天下を造りし大神(おほかみ)の命、詔らさく「八十神(やそかみ)は青垣山の裏に置かじ」と詔らして、 追ひ払ひし時、此の所追(お)ひ次ぎ坐(ま)せる故(ゆゑ)来次(きつぎ)と云ふ。
 青垣山は一般名詞で「青々とした垣のように連なる山」の意味。八十神が青垣山の麓に居るのは許さないと言って、追いかけてきた。
《大原郡/城名樋山》(きなひ山)
所造天下大神大穴持命 為伐八十神 造城 故云城名樋也
 八十神を討伐するために城(き)を造ったので、城名桶(きなひ)と云う。
 (城)…[名] 戦争の拠点として、柵、垣、堀などで囲った場所。
 大穴持命が八十神と戦ったことは、このように風土記にも書かれている。 記では、八十神を「まま兄弟」と言うから、出雲国は、共通の先祖を持つ多数の部族が、それぞれの土地にいたのであろう。 それを大穴持命が戦いによって服従させ、あるいは追放し国内を統一したと思われる。

【於底津石根宮柱布刀斯理於高天原氷椽多迦斯理】
 「地下深く、岩の上に宮柱を立て、千木は天まで届く」ような、巨大神殿を意味する。 ここで言う「於高天原」は、「高天原にも届きそうな」という比喩である。 巨大神殿を意味する同じ表現が、この場所を含めて3か所ある。
  須佐之男命が、逃げる大穴牟遅神に向かって叫ぶところ。
  大国主命が国を明け渡すところ。
  天津日子番能邇邇藝命が降臨するところ。
 これらの関係であるが、次の宇迦能山の項で考察するように、を予言するものだと思われる。 一方、とは別の神殿であると思われる。 以下に述べるように、にあたる巨大神殿の現実性が高まったので、についても、今後九州のどこかで遺跡として出土する可能性がある。
 さて、2000年に発表された、現出雲大社の地下に埋まっていた宇豆柱(うずばしら)の発見は衝撃的であった。 <島根県立古代出雲歴史博物館のページから要約> スギの大木3本を1組にし、直径が約3mにもなる巨大な柱が3カ所で発見され、 この柱は、鎌倉時代前半の宝治2年(1248年)に造営された本殿を支えていた柱である可能性が極めて高く</同博物館> なってきたという。その柱は、正に「底津岩根に宮柱太知り」と書かれ得るものである。 また伝承によれば、高さは十六丈(約48m)に及び(記事中の復元図)、これも「高天原に氷木(千木)高知り」と書かれ得るものである。
推古天皇601法隆寺創建か。
618唐の建国
齊明天皇659出雲国造に修厳を命ずる。
天智天皇663白村江(はくすきえ)の戦いで敗北。
672壬申の乱。
天武天皇673大来皇女を伊勢神宮に斎宮として派遣。
681川嶋皇子等12人に帝紀・古い諸事を記すを令す。
685式年遷宮の制を制定。
元明天皇712古事記成立。
元生天皇720日本書紀成立。
聖武天皇743大仏建立の詔。(758年東大寺大仏殿完成)
970口遊(源為憲)編纂。「雲太、和二、京三」
12482000年出土の巨大な宇豆柱による造営か。

 神殿は実際に何度も倒壊したという記録があるというのだから、1248年の造営も倒壊後の再建だったのだろう。
 遡ると、口遊(くちずさみ、藤原誠信、970年。子どもの教育用に学習内容を歌にして覚えやすくした書)に「雲太、和二、京三」という歌があり、 建築物の高さが、出雲の大社、東大寺大仏殿、平安京大極殿の順であったことを示すという。 それ以前の記録としては、紀に「齊明天皇五年(659)…是歲、命出雲國造【闕名】修嚴神之宮。(この歳、出雲の国造(くにのみやつこ)【名を欠く】に神の宮を修厳せしむ。)と記載される。
 飛鳥時代の建築様式は、聖徳太子による法隆寺の創建など、中国建築の影響を受けた反面、復古的な社の建設もあった。 618年に唐が建国して以来、東方への進出が、倭にとっても脅威となっていた。 それに対抗する国造りとして、天武天皇は倭国に新しい集権的な体制の構築を急いでいた。 精神面では我が国独自の伝統文化を重んじ、外来の仏教建築が盛んであった時代に、敢えて弥生時代の建築様式によって伊勢神宮を再興した。 民族意識の統一も課題のひとつで、記では、今だに古代の敵対関係の残滓を引きずる出雲勢力・天皇の勢力を、この際融合しようという意図が色濃く感じられる。
 そのような時代背景から、出雲大社の巨大神殿の改修も、伊勢神宮と同様、倭の伝統の再興を期す国家的事業として行われたと想像される。(年表参照) 恐らく、記紀編纂時には、出雲に巨大な神殿が既に建っていたか、少なくとも造営中だったと思われる。 記に書かれた大国主の神殿の記事は、現実にそびえ立つ出雲の巨大神殿と一体となって民衆の心に染み込んでいったのである。

【宇迦能山】
 大国主が国を天照の子孫に譲ったあと、杵築大社を自らの住居にした。なお、杵築大社が現在の出雲大社に改名されたのは、1871年(明治4)である。
 宇賀郷と杵築大社の位置関係を調べと、宇賀郷は出雲郡の、楯縫郡に接する位置にある。 宇賀郷の南には山脈があり、現在の太々山(341m)、天台ヶ峰(490m)、鼻高山(536m)、旅伏山(412m)が東西に並ぶ。 杵築大社は、山脈の南西の麓にある。宇賀郷とは反対側にあたり、やや距離が離れている。しかしこの山脈を宇賀の山だとすれば、杵築大社は確かにその山本にある。

 だから、須佐之男命が言う、宇迦能山の山本の大神殿は杵築大社を指し、大国主の将来の住居を予言していることになる。

【大国主命の住居】
《いわゆる国譲りについて》
 須佐之男命の予言に関連して、大国主命が造った国を天照勢力に明け渡した後、大神殿を住居にした部分を予め調べておきたい。 それは以下の文章である。
① 唯 僕住所者 如天神御子之天津日繼 所知之 登陀流天之御巢而
② 於底津石根宮柱布斗斯理於高天原氷木多迦斯理而、
③ 治賜者 僕者於百不足八十坰手 隱而侍。

 この部分をもって、大国主が自らを祀る大神殿の建造を交換条件に、天照に国を譲ったと一般には解釈されている。 ところが、どうしてそう読み取れるのか確認しようと思って原文を読んだが、実際にはとても難しい。
 それでも、ここは古事記上巻の要なので、正確な理解を目指してがんばりたいと思った。
 ここで手掛かりになったのが、須佐之男命による「於底津石根宮柱布刀斯理 於高天原氷椽多迦斯理 而 居」という言葉である。その最後の「居れ」に対応する部分を探したところ、どうやら「隠而侍」がそれに当たる。
 従って、この部分の骨格は「唯 僕者 於底津石根宮柱布斗斯理於高天原氷木多迦斯理而 隱而侍」である。 ここに天照の御子への服従を認める長い語句が、挿入されているらしい。以下、順次確認していく。
 「唯」は重要で、以下大国主命側による交換条件を提示する。
 の元の意味は鳥や虫の巣であるが、人間の住家を指す場合は「盗賊の巣窟」の例のように、貶めるニュアンスがある。 だから、巣のようなものでもいただければ、と遜(へりくだ)ってお願いしている。 そこに更に「天神御子之天津日継の支配されるところの」という連体修飾語を付け加える。天津日継とは、天照から繋がる系図に位置づけられた、神と天皇のことである。
 但し、「天の御巣」の"天"は、"天津日継"の「天」とは別の出雲固有の神で、「天の御巣」は、地上の巨大神殿のモデルとなる、天界の神殿を意味する可能性がある。(第63回の該当部分参照)
 巨大神殿を意味する特別な言い回し。
 「治賜」は尊敬語なので、その主語は「天神御子之天津日継」である。「」は謙譲語なので、「隠而侍」の主語は大国主命である。 「隠而侍」の前に、その理由「治賜者 僕者於百不足八十坰手」が挿入されている。
 「すみ(坰、隅)…[名] 中央から離れたところ。」なので、ここでは国の隅々を指すと思われる。
 「百不足(ももたらず)…[枕詞] 八十、五十などにかかる。」 よって「治賜者於百不足八十坰手隠」は、「天神御子之天津日継に統治を委ねるからには、国の隅々の多くから私は手を引く」という意味である。
 なおこの表現は、紀でもほぼそのまま用いられている。
 (紀)「今我當於百不足之八十隅、將隱去矣。
 今、我、百不足(ももたらず)八十(やそ)の隅を当て、将(まさ)に隠り去らむとす。
 以上から、①②③の骨子は、須佐之男命の言葉と同じである。挿入されたのは「天神御子之天津日継」による支配を再確認する語句である。そこで、文章の流れを追ってみると、 で、大神殿に祀らせることは、天津日継の統治行為(「知ろしむ=国を治める」)だと述べ、大国主を目下に置く。 ところが、で描いた大神殿が余りに立派だから、大国主命が国の最高位にあるとの誤解を生む恐れが出てきた。それを打ち消すためにで、改めて大国主自身に「この世は皇孫が治められますから、この国の大半から私の手を引き引退します」と言わせるのである。
 以上の解読の結果に基づいて、①②③を読み下す。
 唯(ただ)、僕(やつかれ)の住所(すみか)は、〖天つ神の御子の天津日継ぎの知ろしめし、とだる天つ御巣の如く、〗
 底つ石根に宮柱太知り、高天原に氷木高知りて、
 〖治(をさ)めたまはむは、僕は百不足(ももたらず)八十(やそ)の坰(すみ)手の〗隠りて侍らむ。
 〖〗を省けば、随分解りやすくなる。
 これまで述べたように、大国主命の住居となった大神殿は「所造天下大神」(出雲風土記に於ける、大国主命への称号)に相応しい立派なものである。 だから、もし〖〗の部分がなければ、大国主命こそが国造りの大神という印象を与えてしまう。
 ところが、大国主命は天神御子天津日継に屈したのだから、大国主命をあまり持ち上げてはならない。板挟みとなった執筆者は悩んだ末、最終的に〖〗を挿入したと思われる。 だがその結果、大国主命側が条件を述べる強気の文章中に、それを打ち消す「天神御子之天津日継」の優位性が混在する分かりにくい文章になった。
 わかりにくくさせる原因は、他にもある。
 ・「天孫」の二文字で済むところを「天神御子之天津日継」という長大な語句を使う。これは天孫の優位を強調するための、尊敬表現である。
 ・「出雲国だけは私のものである」と言いたいところを「国の隅々のうち大半を治めることを遠慮します」と間接的に表現する。 この間接表現がよく考えられたものであることは、紀でもそのまま採用されたことから判る。
 このように解読に苦労したが、これで大国主命は「出雲の国だけは私のもので、私は出雲の大神殿に祀られる」と主張し、天神御子之天津日継がそれを認めたという趣旨は明確になった。
《とだる》
 「とだる」は、古語辞典には意味不明と書いてある。「とだる天の御巣」はひとかたまりで「所知之」によって連体修飾されることから、 「とだる」は「天の御巣」との結合が強く、枕詞かも知れない。現在、なお勉強中である。
《紀における神殿の扱い》
 紀では太知り・高知りの宮については触れられない。大国主側の交換条件を呑むような妥協は、公式には認めないのであろう。
《出雲国風土記より》
 「国土の隅の多くは、治めるのを遠慮します」という言葉は、それでも僅かな部分は自分で統治する余地を残そうとする。 その僅かな部分とは、実は出雲国のことである。出雲国風土記は、意宇郡・母理郷の地名由来文の中でこう述べる。
 (大穴持命の言葉)
我造坐而 命國者 御皇孫命 平世 所知依奉 但八雲立出雲國者我静坐國
我(わ)が作り坐(ま)して命(まか)せむ国は、御皇孫(すめみま)の命(みこと)の世を平らげ知依(しろし)め奉(たま)はる所なり。 但(ただ)、八雲立つ出雲の国は我が静(しづ)まり坐す国なり。
私が作り、これから委ねようとする国は、御皇孫の命(みこと)が世を平定し統治なさります。 ただし、八雲立つ出雲の国は、私が静かにおさまる国です。
 記紀の「百足らず」は枕詞であるが、「八十」ではやや物足りないと、否定的に形容する意味合いがある。 ここでは風土記の具体的な記述から、「大国主が差し上げたのは、国土のすべてではない」ことを暗示していることが分かる。

【須佐之男命との「議」】
 もともと大穴牟遅神が須佐之男命を訪ねた目的は、八十神から受けた迫害への対抗策を相談することであった。 ところが、大穴牟遅神は須佐之男命に苛められ、最後は生大刀と生弓矢を持ち出し、妻と共に逃げ出した。 それに対して須佐之男命は、後ろから「須世理毘売を正妻とし、太刀・弓矢によって八十神を屈服させよ」と大声で叫ぶしかできなかった。 何のことはない。初めから大穴牟遅神を、助けてやるつもりだったのだ。しかし、父として娘をやるのが惜しく、婿に少し嫌がらせをしたのが残念な結果になった。 最初から素直にことを議り、結婚を認め太刀と弓を与えればよかったのである。須佐之男命は、最後まで人生に不器用であった。

【始作国也】
 文末の「也」は確認の語気を表す。和文にする場合は無視しても問題ないが、 ここでは苦労して八十神を倒した末にやっと国を作ることができたという意味合いを含むので、何らかの感情を込めたいところである。 和語に対応させる場合は、断定の「なり」や詠嘆付過去の「けり」などが考えられる。
 さて、この「初めて国を作ったのである」という表現は、極めて重要である。 大国主命の歩みは、これまでに出雲国に収まらず、因幡国、伯耆国、紀伊国まで足を伸ばしている。 今後は八千矛の神となって沼河比賣を娶り、越の国まで勢力圏に収める予定である。 出雲国風土記でも「越八口 平賜(越の八口を平定された)と述べ、大穴持命が北陸まで勢力圏に収めたことを示唆している。
 大国主命は、天照大御神が皇孫を地上に降ろす前に、既に広い国土をもつ国を確立していたことを、ここで認めている。 出雲風土記で、大穴持命を「所造天下大神命」(天下を造りし大御神の命)と称するのは、それを反映している。 「始作国」の一文は、葦原中国を最初に築いたのは大国主であり、天照一族がそれを収奪したことを認めてしまっている。
 だから、紀において大国主の足取りがばっさり削除されたのは、当然である。 「始作国」を担ったのは天照一族であり、その前に誰かが作った立派な国を乗っ取ったことは、正史では伏せておかなければならない。

まとめ
 天武天皇は、大国主命を国造りの大神としてきた出雲の伝統を重んじ、国の基盤を築いた大神として認めようとする考えがあったと思われる。
 出雲の宇豆柱の発掘を報じた2000年当時の記事に「平安時代になっても、中央から独立した財力をもつ出雲氏族が存在した」という評論があったが、 実際のところは、中央政権自身の事業として維持・再建を行ったと考えられる。そこには次の事情がある。
 白村江(はくすきえ)の敗北以来、唐の東方進出に対抗するため集権国家の構築を進める中、 出雲の宗教的権威を、倭民族が共有する精神的支柱として位置づけようとした。 そうやって、今なお独自性を誇る出雲勢力を、中央政権に取り込もうとしたのである。
 ところが、いざ記紀に出雲国の神話を取り入れてみたところ、 大国主が作り上げた国を奪い取ったという、天照一族の原点が赤裸々になってしまった。 それを改竄しようにも、出雲の人々にとっては、自らの神話とは違うので、絶対に受け入れられない。 特に古事記は、肝心の出雲の民衆に読んでもらえなければ意味がないのである。
 そこをどう処理したかに、執筆者の苦労が伺われる。 要するに大国主の側から天照に統治をお願いした印象を、極力与えるようにした。 特に、大国主が「出雲国だけは私の物ですから、差し上げられません。」と言ったのを、 「国土の多くから、私の手を引きます。」とぼかした理由は、中央政権の面子以外に考えられない。 「百足らず」という枕詞に「全部を差し上げるわけではありません」という大国主側の主張を暗示する仕掛けがある。 まるで政治交渉のような、玉虫色の表現である。というか、記紀は実際に政治文書である。
 大国主を低めるためにこれだけ苦労したのは、大神殿の威容が大国主の存在を無条件に感じさせたからであろう。 ということは、記紀編纂の時代に、「底つ岩根に宮柱太知り、高天原に氷木高知る」大神殿が現実に建っていたに違いない。


2014.05.05(月) [062] 上つ巻(大国主命7)

故 其八上比賣者 如先期 美刀阿多波志都【此七字以音】
故 其八上比賣者 雖率來 畏其嫡妻須世理毘賣而
其所生子者刺挾木俣而 返故
名其子云木俣神 亦名謂御井神也

故(さて)、其(か)の八上比売(やがみひめ)者(は)先に期(ご)しし如(ごと)、美刀阿多波志都(みとあたはしつ)【此の七字音(こゑ)を以てす。】。
故(かれ)其(そ)の八上比売者(は)率(ゐ)て来たれ雖(ども)、其の嫡妻(こなみ)須世理毘売を畏(かしこ)みて[而]、
其の生まれし[所の]子者(は)木俣(このまた)に刺し挾みて[而]返(かへ)りし故(ゆゑ)、
其の子に名づけ木俣(このまた)の神と云ひ、亦の名は御井(みゐ)の神と謂ふ[也]。


 さて、例の八上比売(やがみひめ)とは、以前に結婚したと述べた通り、夫婦の交わりをお持ちになっていました。
 そこで、八上比売は子を連れて来たのですが、正妻の須世理毘売に遠慮し、 生まれた子を木の又に挟んで帰ったので、 その子は木俣(このまた)の神と名付けられ、またの名を御井(みい)の神と言います。


さて…[接] (上代から例がある)①前の話題を受けて話を続ける。それから。②いったん話を切って話題を転ずる。ところで。
…[動] 会うことを約束する。ちぎる(=約)。[名] ①約束した時間。②1年など、周期的な時間。
(期)…[名] ①折り。時。②期限。
きす(期す)…[他]サ変 約束する。誓う。
ごす(期す)…[他]サ変 ①覚悟する。②期待する。
ちかふ(誓ふ)…[他]ハ行四段 ①神仏と約束する。②固く人と約束する。
ちぎる(契る)…[他]ラ行四段 ①約束する。愛を誓う。②夫婦・恋人の関係になる。
みとあたはす(みと婚はす)…[自]サ行四段 (尊敬語)神が結婚なさる。性交なさる。
…[助動] 完了。活用する語の連体形につく。て、て、つ、つる、つれ、てよ。
ゐる(率る)…[他]ワ行上一 引き連れる。
かしこむ(畏む)…[自]マ行四段 ①おそれうやまう。②こわがる。
さし-(差し、指し)…[接頭] 動詞の上について意味を強めたり、語調を整える。
はさむ(挟む)…[他]マ行四段・下二 間に入れて両側から押える。
かへす(返す)…[他]サ行四段 ①(帰す)もとの場所や状態に戻す。②(覆す)逆にする。
かへる(帰る、返る)…[自]ラ行四段 ①もとの場所や状態に戻る。②元の状態の逆になる。

【期が「ちぎり」と読まれた理由】
 「」は上巻に2箇所あり、1つ目は伊邪那岐・伊邪那美がまぐわう「如此之期」、2つ目がここである。
 一般的に、これらの「期」は「ちぎり」と読まれる。これは、本居宣長が「期」を「ちぎり」と訓んだことに由来する。 宣長は、「期」を「ちぎり」と読む理由を、『古事記伝』の中で、
期は知岐理弖(ちぎりて)と訓(よ)むべし。蜻蛉日記に、かくいひちぎりつれば、思ひかへるべきにもあらず。 と書いている。
 「ちぎり」と読む字には「」もある。「天之御柱を互いに反対方向に回って遭おう」と言った後の「約竟廻時("約"を終えて回った時)がある。 宣長はこれも「ちぎり」と訓み、その内容は「上の三段の約(ちぎり)総(すべ)て(体のつくりの違いを問うてから、御柱を反対方向から回って会おうと言うまで)を受けるとしている。
 そこでまず蜻蛉日記で、宣長引用の「ちぎり」がどのような文脈中で使われたかを調べる。 すると、天禄3年2月の記事に、「かくいひ契りつれば、思ひ返るべきにもあらず。」が見つかった。 (「つれ」は、完了の助動詞「」の已然形。即ち「このように言って契りをしたのだから」)
 天禄3年は西暦972年にあたる。
 蜻蛉日記は、著者は藤原道綱の母で、天暦8年(954年)~天延2年(974年)の出来事が月単位で書かれており、成立は天延3年(975年)前後と推定されると言う。
 「かくいひ契りつれば」の記事は、著者の夫が外で作った娘を、著者の家に迎える件りである。その産みの母は、娘が大切にされるかどうか、不安を感じていたが、 「それでもそう言って約束したことだから、今更覆すわけにいかない」と思って我慢するのである。 ここでは「ちぎり」は一般的な意味での「約束」を意味していることになる。
 一方、記の「如此之期」や「如先期」の「」について調べる。一般的な古語辞典では「」「ごす」「きす」があり、「ご」は時期あるいは期限。「きす」は①期間を定める。②約束する・誓う。である。 また、漢和辞典(《漢辞海》)では、「」は、①(呉音「ご」漢音「き」)会うことを約束する。②(呉音・漢音)「き」期間。である。 従って、「会う約束」を意味する場合の「期」の発音は、古語辞典で「きす」、漢和辞典で「ご」というねじれがある。
 それはともかくとしても、記の2箇所の「期」は何れも「結婚を約束する」意味で使われているので、「契り」という訳語を宛てることには根拠がある。
 ところが、古語辞典で「ちぎる」に宛てられた漢字は「」のみで、「期」は無視されている。 またその時代を考えると、蜻蛉日記は平安時代中期の文学であり、記の編纂は、それより300年も遡る。だから、平安中期に「契り」が使われたとしても、記の編纂時期に「期」を「ちぎる」と訓んだ根拠にはならない。 仮に、もし万葉集に「ちぎる」あるいは「ちぎり」という語が一例でもあれば「期の訓=ちぎり」が本当の意味で確認できるはずである。ところが、実際に検索してみると皆無なのである。 結局「期」を「ちぎる」と読むのは、記編纂の時代の漢文の読みの推定ではなく、平安時代のスタイルへの翻訳である。
 それでは、記紀編纂時期には、「期」は本当はどう訓んだのか?
 それを探るため、万葉集を検索すると、は、全部万葉仮名の「ご」である。例えば「わご大王(おほきみ)」(=わが大王)などがある。 一方、動詞「ちぎる」は、語幹「ちぎ」で検索してみたが、一例もなかった。
 古語辞典では「ご」にサ変の「す」をつけて動詞化したごす」は、時期が来たと覚悟を決めるという意味のみだが、漢和辞典では「期」の呉音の「ご」の方に「約束する」意味があるから、「ごす」に「約束する」意味もあることは、十分に期待できる。 それでは、「ごす」が和語として定着したのは、記紀編纂の前か後かと言うと、「」は呉音なので、遣隋使以前、即ち記紀以前である。
 実は、漢語の流入は飛鳥時代に始まったものではない。純粋な和語かとも思われる「うま」も古い表記は「むま」で、「馬」の呉音"ma"が転じたものだと考えられている。 他にも <日本語千夜一夜>「塞」の古代中国語音は塞[sək]であり、日本語の「せき」は古代中国語の「塞」の借用語である蓋然性がある</日本語千夜一夜> など、多数ある。
 古墳時代に漢字が使われていたの物的証拠としては、稲荷山古墳出土の鉄剣の例がある。 漢語の流入は弥生時代まで遡るとも言われる。ただし、漢語に「す」をつける動詞化は、比較的新しいと思われるが飛鳥時代にはあったかも知れない。 このように考えれば、記紀編纂時代に、「ごす」が既に「会うことを約束する」意味で使われていたことは否定できない。
 もし「記編纂時期の訓」の再現を最優先とするなら、300年後の時代の「ちぎり」を実証抜きで適用するより、万葉集で「期」をすべて「ご」と発音した事実を重んずる方が適切である。
 しかし、話はこれで終わらない。まだ「約竟廻時」の"約"の訓み方が残っている。実は「」の方が、「期」より「契り」の意味が強い。 もし「約」を「ちぎる」と訓ずる根拠があれば、「期=ちぎり」説が復活するのである。
 さて、「ちぎる」の同義語に「むすぶ」がある。「むすぶ」を「約束する」意味で使うのは「紐を結ぶ」から派生したものである。万葉集では「ちぎる」が皆無であるのとは対照的に「むすぶ」は大量に使われている。
 ただそのほとんどの用法は、紐や草などを「結ぶ」であったが、中に「約束する」または「誓う」意味が「3797 しにもいきも おやじこころと むすびてし ともやたがはむ われもよりなむ」 (死も生きも同じ心と結びてし友や違はむ吾も依りなむ―「おやじ」(上代語)…「同じ」の古い形)にあった。
 記で使われた「」を単純な約束を意味する「結ぶ」と解釈すれば、その直前の「天之御柱を互いに反対方向から回って遭おう」を直接受けると思われる。 宣長は「約」も婚姻の意味を含む「ちぎり」と訓んだので、「以此吾身成余処…」以下の広い部分を受けざるを得なかったが、軽い約束なら直前の一文を受けるだけで済む。 結局、「約」についても「記の編纂時期に広く使われていた」ことを優先すれば「約」は「むすぶ」と訓むのが適切であろう。
 以上から、書かれた時代を優先して「期=ごす」「約=むすぶ」が適切だと考える。

【如先期】
 「先に期した」とは、稲羽国で八上比売が大穴牟遅神を選んだ時のことであろう。 その直後から、大穴牟遅神は二度も命を失うほどの難に遭い、最後は須佐之男大神に会いにに根堅州国まで出かけた。 一体、いつの間に「みとあたはす」ことができたのであろうか。
 八十神をすべて屈服させた後、八神比売が大国主を訪れようとしたときは、すでに子を連れていたのだから、 可能性があるのは、八十神が怒って大穴牟遅神を連れて行くまでの間である。 その僅かな時間にことを済ませたわけである。

【畏】
 「」は「こわがる」意味に加え、神への敬虔さも表す。
 もともと恐怖を意味する言葉が転じて、身勝手に振る舞うことを控えたり、立派さを称えたる言葉になるところは、 「かしこむ」「おそる」も同様である。
 少なくとも、子を連れて大国主を訪れているのだから、妻として大国主を迎えようとしたわけである。 しかし、大国主が既に須世理毘売に夢中だったのか、須世理毘売に追い返されたのかは分からないが、もう八神比売の居場所はなかった。 そこで、腹いせに子を木俣に差して稲羽国に帰ったのである。

【木俣神】
 この段は、八上比売がそのまま放置されていたのに気づき、その後始末をするために挿入したと思われる。
 ただ、木俣神への民間信仰が存在し、この際それを取り入れようとした可能性もある。 木俣は、紀伊国で大穴牟遅神が潜って難を逃れる話があり、何らかの霊力が信じられていたかも知れない。 木俣とは「潜って逃れる」ところなので、枝分かれする部分ではなく、根元の太い根が分かれている部分を指すと思われる。 そこが霊力を持つのは、形が女性の股と類似するためであろう。 とすれば、「この子は木の股から生まれた子だから、もう私には関係ないのよ。」と言っているのかも知れない。

まとめ
《和語としての読み取りについて》
 平安時代の文学に現れる麗しい語を記に取り入れるのは、単純な漢文訓読よりも幅の広い、一種の「翻訳」である。しかし、そもそも古事記を「漢文と後世の解釈が一体となったもの」と定義すれば、問題はない。
 ただ、このサイトの目的は、漢文体の古事記本体から民族の古い記憶の痕跡を見出すところにある。 その立場からは、後世に加えられた解釈はなるべく取り除きたい。 しかしそれを厳密に行おうとすると、宣長の研究結果を実証科学的なものと文学的なものに選り分けるという、難しい作業が必要になる。


2014.05.10(土) [063] 上つ巻(大国主命8)

此八千矛神 將婚高志國之沼河比賣 幸行之時 到其沼河比賣之家 歌曰
此の八千矛(やちほこ)の神、[将に]高志(こし)の国之沼河比売(ぬなかわひめ)と婚(よば)はむとし、 幸行(みゆき)しし[之]時 其の沼河比売之家(いへ)に到(いた)り歌ひ曰はく。

 この八千矛(やちほこ)の神は、越の国の沼河比売(ぬなかわひめ)と結婚しようとして出かけ、 その沼河比売の家に到着して、このように歌われました。

みゆき(行幸)…[名] 天皇の外出。
こし(越、高志)…[固名] 律令国以前の国名。のちに越前、越中、越後に分かれ、さらに越後から加賀、能登が分割された。

【沼河比売(ぬなかわひめ)】
 出雲国風土記では、嶋根郡(しまねのこほり)美保郷(みほのさと)に
(高志國坐神)意支都久良為(おしつくらし)の命の子、奴奈宜波比売(ぬながはひめ)の命を娶り、御穂須々美(みほすすみ)を生む。
とある。

【沼川郷】
 現在の糸魚川市付近。『和名類聚抄』に、「越後国頸城郡沼川郷」がある。 同市には、「神様の飛び比べ」 という神話がある。それによると、この地はもともと奴奈川姫という賢く美しい姫が国を治めていたが、 大国主命がその噂を聞き、出雲国から日本海を渡って沼川郷にやってきた。 地元の神はそれを拒み、駒ケ岳の頂上からどちらが遠くまで飛べるかを勝負して決めようということになった。 結果は大国主の勝ちで、大国主と奴奈川姫は結婚し力を合わせて国造りをした。
 この神話の成立が記の前か後かは不明である。しかし仮に後だったとしても、少なくとも記以前に女神の信仰そのものは存在し、 地元の人が記を読んだことをきっかけとして、更に脚色したしたと思われる。 何れにしても、旧沼川郷にこの神話が残っているということは、記が各地の地元の神話を重視したことを示している。民衆の精神的統合という目的の、一つの現れであろう。
 また、この神話では、大国主命が出雲国から越後国まで、海路を取ったとされる点が注目される。古代、日本海側は大陸への表玄関で、海上交通網が発達していたと思われる。 八岐大蛇の所で論じたように、中国山地から出雲国を襲った大蛇が「高志から来た」とされているところは、やはり不自然である。

【大国主命の国】
 北陸地方まで進出し、その国の王女を夫人に迎えることによって勢力を広げる政策が伺われる。 『出雲国風土記』の方が、もう少し鮮明に書かれているので、ここで同書に描かれた大国主の業績について、 越への遠征を中心として調べてみたい。

【出雲国風土記に見る越への進出とその後】
 出雲国風土記では、大国主命は、「大穴持命」および、その枕詞として「所造天下大神」(あめのしたをつくりしおおかみ)を冠せ、 あるいは「所造天下大神」単独で表される。
《越への遠征》
 意宇郡(おうのこおり)拝志郷(はやしのさと)は「将平越八口為(越の八口を平らげむとし)て出かけるときに、 「私の心は逸(はや)し=心が躍る)と言ったことに由来する。「行く」に「」を用いるところに、記の「幸行」との共通性がある。 ここでは、「平らげむ」と軍事的な制圧を目的とすることを隠さない。従って、越八口とは越の国の諸地域を指すと思われる。
《遠征からの帰還》
 意宇郡(おうのこおり)母理郷(もりのさと)の初めに、「越八口平賜而還坐」(越の八口を平げ賜はりて、還(かへ)り坐(ま)しき) と書く。
《大神の宮の造営》
 楯縫郡(たてぬいのこほり)のところで、天で設計し、結び目を付けた縄を降ろして寸法を示し、 出雲郡(いづものこほり)杵築郷(きづきのさと)のところで、皇神(すめかみ、各地を担当する神)による杵築(建設工事)により造営されたと書かれる。
《大神の宮での籠城》
 楯縫郡(たてぬいのこほり)で、所造天下大神の宮を造営後、 「退下来坐而大神宮御装楯(引き下がり来坐(ま)して大神の宮に楯を装(そな)へき)として、 城に籠って楯を装備し、守りを固める局面があったことを示す。
《天照勢力への降伏》
 意宇郡(おうのこおり)母理郷(もりのさと)で《遠征からの帰還》に続けて、 「我造坐而命國者、御皇孫命平世所知依奉、但八雲立出雲國者我静坐國(私が造り治めた国は皇孫が世を平らげ、支配されるところに従うが、この出雲の国だけは私が静かに治める国である。) つまり、自分が獲得した国土の大半を譲り渡したが、出雲の国だけは自分が治めると頑なに言い張る。
 以上のように、大国主命の越の国の平定から明け渡しに到る話や、その大宮について、記紀よりは相当詳しく述べられている。 これらを含め、所造天下大神たる大穴持命が登場するのは、出雲国全61郷の凡そ3分の1、22郷に及ぶ。 この機会に、『出雲国風土記』から、大穴持命に言及する部分をすべて抜き出し、原文と解釈を次に載せる。
  越の八口
 ここでは越の範囲に、大国主の子、建御名方神(たけみなかたのかみ) を祭神とする諏訪大社まで含めた。
  奴奈川神社
 天津神社(糸魚川市)の境内社。<wikipedia>奴奈川姫命を主祭神とし、後に八千矛神が合祀された</wikipedia>。


【出雲国風土記に描かれた大穴持神】
《意宇郡(おうのこほり)
母理郷(もりのさと)―第61回参照。
所造天下大神 大穴持命 越八口 平賜而 還坐時 来坐長江山而
詔 我造坐而 命國者 御皇孫命 平世 所知依奉 但八雲立出雲國者我静坐國
青垣山廻賜而 玉珍 置賜而守 詔
故云文理 神亀三年 改字母理

造天下を造りし大神(おほかみ)大穴持命(おほあなもちのみこと)越(こし)の八口を平(たひら)げ賜(たま)ひて
還(かへ)り坐(ま)せる時、長江山に来(き)坐(ま)して、詔(の)らさく
「我が造り坐して命(みこと)する国は、御皇孫(すめみま)の命の世を平(たひら)げ知依(しろしめ)し奉(たま)ふ所なり。
但、八雲立つ出雲(いづも)の国は、我が静(しづ)まり坐す国なり。
青垣山を廻(めぐ)り賜(たま)ひ、玉珍(たまたから)を置き賜ひて守(も)りせむ。」と詔らしき。
故(かれ)文理と云ふ。 神亀三年 字(もじ)を母理と改む。

 越の国に遠征して広大な国土を手に入れたが、その後天照一族の侵攻を受け、最後は和睦して国土の大半を譲り渡す。 ただ、交渉の結果出雲国だけは自分の国として守ることができた。
 神亀三年は西暦726年。<wikipedia>和銅6年(713年)5月に畿内と七道諸国の郡(こおり)・郷(さと)の名に好字(よいじ)を付けるように命じた</wikipedia> ことによる改字だと思われる。出雲風土記では、多数のの郡・郷が神亀三年に改字されている。
山代郷(やましろのさと)
所造天下大神 大穴持命 御子 山代日子命坐 故云山代也
 山代日子命(やましろみこのみこと)が坐(い)ますことに因んだ地名。
拝志郷(はやしのさと)
所造天下大神命 将平越八口為而幸時 此處樹林茂盛 爾時 詔 吾御心之波夜志詔 故云林
所造天下大神命(あめのしたをつくりしおほかみのみこと)、越八口を平らげむと為(し)て幸(ゆ)かれし時、此の処に樹(き)林(はやし)茂(しげ)く盛(さか)え、 爾(しか)る時、詔(の)らさく「吾が御心、之れ波夜志(はやし)」と詔らしし故(ゆゑ)林と云ふ。
 越の八口(おそらく北陸地方)の制覇に出かけようとしたとき、林を見て「私の心、はやし(=はやる)」と言ったことが、地名の由来である。
 「将」は、推量(一人称の場合は意思)の助動詞「む」を表す。従って大穴持命が遠征に出かける時に通ったのが拝志郷で、戻ってきたのが意宇郡長江山である。
宍道郷(ししじのさと)
所造天下大神命 之追給猪像 南山有二…至今猶在 故云宍道
"所造天下大神命"が追ったししの像があるので、ししの道、ししじと言う。
出雲神戸(いづものかむべ)
所造天下大穴持命二所大神等依奉 故云 神戸 他郡等神戸且如之
 神戸とは「依りまつる」つまり「村人が神の許により集まって祀る」ところで、他の郡の神戸も同様であるとする。 すなわち、社を中心とする集落で、神官の食料となる作物を育てたり、祭祀を担うと思われる。
賀茂神戸(かものかむべ)
所造天下大神命之御子 阿遅須枳高日子命 坐葛城賀茂社  阿遅須枳高日子命(あぢすきたかひこねのみこと)は、記では 此大國主神 娶坐胸形奧津宮神 多紀理毘賣命 生子 阿遲鉏高日子根神  つまり、大国主神が、胸形氏の奥津宮の多紀理毘売命との間に生んだ子である。  多紀理毘売命は、遡ると須佐之男命が雄性、天照大神が雌性の役割により生まれた三女神のうちの一柱である。
《嶋根郡(しまねのこほり)
手染郷(たしみのさと)
所造天下大神命詔 此國者丁寧所造國在 詔而故丁寧負給 而今人 猶誤謂 手染郷之耳
丁寧は「たしなみ」と読むのではないだろうか。
たしなむ…①(困む)[自・他] 悩む。苦しめる。②(嗜む)[他] 愛好する。③[自] 慎む。注意して気を付ける。 漢和辞典では丁寧は「言い方がねんごろなさま」という訳があるので、③であろう。

天の下を造りし大神の命詔らさく「此の国は丁寧(たしな)み造りし国に在り」と詔らしき。而故(これゆゑ)丁寧(たしなみ)を負ほし給ひき。 而(しか)るに今の人、猶(なほ)誤ちて、手染(たしみ)の郷(さと)と之を謂(い)ふ耳(のみ)。
 この国の人は、たしなみのある国造りをしたから、「たしなみ」という名を負わせた。しかし、今の人は誤って手染「たしみ」の郷と言い、ずっと改めずにいる。
美保郷(みほのさと)
所造天下大神命 娶高志國坐神 意支都久良為命子 俾都久良為命子 奴奈宜波比賣命 而令産神 御穂須々美命 是 神坐矣 故云美保
高志国に坐(ま)せし神、意支都久良為(おしつくらし)の命の子、奴奈宜波比売(ぬながはひめ)の命に産ま令(し)めし神、御穂須々美(みほすすみ)の命、是の神坐(い)ます。故(かれ)美保と云ふ。
 記では、大国主命は八千矛神の名で高志の国の沼河比売と婚姻関係を結ぶ。それにより越の国を大国主の国にに併合したと思われるが、この話はそれに符合する。
《楯縫郡(たてぬいのこほり)
神魂命詔
吾十足 天日栖宮之縦横御量 千尋栲紲 持而百結結 八十結結下 六十結結下而
此天御量 持而 所造天下大神之宮 造奉 詔而
御子 天之御鳥命 楯部為而 天降給之 爾時退下来坐而 大神宮御装楯 造始給所是也
仍至今 楯桙 造而 奉於皇神等 故云楯縫

…つなぐ。尋…長さの単位。一尺の8倍。千尋(ちひろ)は、非常に長い(深い)ことを形容する語。 …(日本語用法) タク(クワ科の低木)。樹皮から縄をなう。 たくなは(栲縄)、たくづの(栲綱)…楮などの皮で作った白い縄(綱)。  …湯あみ用の盆。(日本語用法)=鉾(ほこ)。
神魂命(かむむすびのみこと)詔(の)らさく
「吾(われ)十足(とだる)天日栖宮(あめのひすみのみや)之縦横を御(み)量(はか)り、 千尋(ちひろ)の栲紲(たくづの)持ちて、百結(ももゆひ)に結(ゆ)ひ[おろし]、八十結(やそゆひ)に結ひ下(お)ろし、六十結(むそゆひ)に結ひ下ろして、
此の天(あめ)の御(み)量(はか)り持ちて、天の下を造りし大神の宮を造り奉(たてまつ)らせむ」と詔らして、
御子(みこ)天之御鳥命(あめのみとりのみこと)楯部(たてぬひべ)と為(し)て天降(あまくだ)らせ給(たま)ひき。爾(しか)る時、退(ひ)き下(さ)がり来坐(ま)して、 大神宮(おほかみのみや)に楯を御(み)装(よそ)ひ造り始め給ひし所、是(これ)也なり。
仍(すなは)ち今に至(いた)り、楯桙(たてほこ)造らせて皇神(すめかみ)等(ら)に奉(たてまつ)りし故(ゆゑ)、楯縫(たてぬひ)と云ふ。

 神魂命は、「私は天日栖宮の縦横の寸法を基にして、非常に長い縄を用意し、100結び、80結び、60結びを地上に降ろし、 その長さを用いて所造天下大神の宮を造営させよう」と仰り、 その御子の天之御鳥命を天下りさせ、楯部(たてぬいべ)[革製の楯を作る職能集団]を始めさせた。 そのとき、所造天下大神は敵の攻撃を受け、大宮に撤収し、防御の楯を整えた。それが、この大宮に楯を奉納する初めである。 そのまま現在に至り、楯鉾を皇神に奉納する故に、楯縫と言う。
 大神宮は、大穴持神の宮だから、杵築大社(後の出雲大社)と同一だとするのが自然である。 記の天御巣に付く「とだる」が、天日栖宮にも使われていることがそれを裏付ける。 高天原の天日栖宮を模して、地上で現実化したものが、杵築大社である。 「とだる」は、大きな宮への枕詞であろう。
 所造天下大神は敵から攻撃を受け、大神の宮に籠って防戦する。防御のために楯を製作したことが、楯部(たてぬいべ)の起源であるとする。 楯部は、楯縫郡に今もなお存続し、楯鉾の奉納を続けていると言う。 従って、杵築大社が出雲郡にあるのに、大神の宮が楯縫郡にあるのは何故か?という疑問に悩まされる必要はない。 楯縫郡は大宮の所在地ではなく、楯部の所在地なのである。
 当時、大きな建築物の縄張りをする場合、一定間隔に結び目をつけた長い縄を用いたと思われる。 ここでは、高天原の天日栖宮に基づき、その寸法を縄の結び目で表して地上に送ったという。 この100結び、80結び、60結びという、数値の組み合わせが注目される。 こられの間には、ピタゴラスの定理、a2+b2=c2の関係が成り立っている。 これらの数値は、古代出雲大社の巨大神殿の階段の、高さ、底辺、斜面長を表している可能性がある。
 1尋は両手を広げた長さで、1.5~1.8mだとされる。 仮に1結=1尋だとすれば高さは90m~108mとなり、出雲大社の言い伝え「中古には16丈(約48m)、上古には32丈(約96m)」のうち、上古の高さに一致する。
 実際のことろは、歴史上古代出雲が攻撃を受けた時代(2~3世紀ごろ?)には巨大神殿ではなく城であり、神殿が立ったのは遥か後の世のことだと想像される。 しかし、時代が下り既に神殿が聳え立っていたときに、このような神話が生まれたのだろう。
玖潭郷(くたみのさと)
所造天下大神命 天御飯田之御倉 将造給而 覓巡行給 故云忽美
天(あめ)の御飯田(みいひだ)之御倉(みくら)造り給はむとて覓(ま)ぎ巡(めぐ)り行(ゆ)き給ひし故(ゆゑ)、忽美(くたみ)と云ふ。
 実際には御飯田、御倉、覓巡行の何れかが、「くたみ」に近い訓であるはずだが、今のところ不明である。
《出雲郡(いづものこほり)
杵築郷(きづきのさと)
八束水臣津野命 之國引給之後 所造天下大神之宮将奉而
諸皇神等参集 宮處杵築 故云寸付

すめかみ(皇神)…①皇室の先祖にあたる神。②一定の区域を支配する神。また、神々の尊称。
まゐりつどふ…(謙譲語)貴人の許に集まる。き(杵)…(上代語)きね。杵…米をつく道具。あるいは土壁などを突き固める木槌。
つく(築)…土や石を突き固めて積み上げる。

八束水臣津野命(やつかみづおみつぬのみこと)の国引き給(たま)ひし後、天の下を造りし大神之宮を奉(まつ)らむとして、 諸(もろもろ)の皇神(すめかみ)等(ら)の参(まゐ)り集(つど)ひ、宮処(みやどころ)を杵(き)築(つき)し故(ゆゑ)寸付(きつき)と云ふ。
 参集は謙譲語であるから、皇神はここでは②で、所造天下大神からは目下の神々を意味する。 杵築は熟語として、土木工事の意味になる。
美談郷(みだみのさと)
所造天下大神御子 和加布都努志命 天地初判之後 天御領田之長 供奉坐之 即彼神 坐郷中 故云三太三
和加布都努志命(わかふつぬしのみこと)天地(あめつち)初めて判之後(わかれしのち)天(あめ)の御領田(みた)之長(をさ) 供(そな)へ奉(まつ)り、之に坐(いま)しき。 即ち彼の神、郷(さと)の中に坐(いま)しし故(ゆゑ)、三太三(みたみ)と云ふ。
宇賀郷(うがのさと) 所造天下大神命 誂坐 神魂命御子 綾門日女命
爾時女神 不肖逃隠之時 大神伺求給所 是則此郷也 故云宇賀

…誘惑する。いど(誂)む…戦いを挑む。恋を仕掛ける。あやか(肖)る…不安定に揺れ動く。 うかが(窺)ふ…尋ね求める。
所造天下大神命、神魂(かみむすび)の命の御子、綾門日女命(あやとひめのみこと)に誂(いど)み坐(ま)し、
爾(しか)る時女神(ひめかみ) 不肖(あやから)ず逃げ隠之(かくれし)時、 大神の伺(うかが)ひ求(ま)ぎ給ひし所、是れ則(すなは)ち此の郷(さと)也(な)り。故(かれ)宇賀(うか)と云ふ。

 不肖は、ここでは「心を動かされず」の意か。伺は謙譲語なので、窺うにこの字を宛てたものと思われる。
出雲御埼山(いづもみさきやま)
所謂天下大神之社坐也
"謂"は"造"の誤写か。…やしろ。坐(いま)す…「有り」の尊敬語。
《神門郡(かむどのこほり)
朝山郷(あさやまのさと)
神魂命御子 真玉著玉之邑日女命 坐之 爾時 所造天下大神大穴持命娶給而 毎朝通坐 故云朝山
神魂命(かむむすびのみこと)の御子、真玉著玉之邑日女命(またまつくたまのむらひめのみこと)…娶(よば)ひ給ひて、朝毎(ごと)通ひ坐(ま)しし故、朝山と云ふ。
八野郷(やぬのさと)―第54回参照。
須佐能袁命御子 八野若日女命 坐之 爾時 所造天下大神大穴持命 将娶給為而 令造屋給 故云八野
須佐能袁命(すさのをのみこと)の御子、八野若日女命(やのわかひめのみこと)…将娶給為(よばひたまわむとし)令造屋給(みやをつくらしめたま)ひし故、八野(やぬ)と云ふ。
高岸郷(たかぎしのさと)
所造天下大神御子 阿遅須枳高日子命 甚昼夜哭坐 仍其處 高屋造而坐之 即 建高椅而登降養奉 故云高峯
…椅子(いす)。
阿遅須枳高日子命(あぢすきたかひこのみこと)、甚(はなは)だ昼夜(ひるよる)に哭き坐(ま)しき。 仍(すはは)ち其の処に高き屋(や)を造りて之に坐しき。 即(すなは)ち高き椅(いし)を建てて登り降り養(やしな)ひ奉(まつ)りし故(ゆゑ)云高峯(たかきし?)と云ふ。
 椅子は古くは「いし」と言った。峯は本来「みね」だか、「きし」と訓んだとしか考えようがない。
滑狭郷(なめさのさと)―第54回参照。
須佐能袁命御子 和加須世理比賣命 坐之 爾時 所造天下大神命 娶而 通坐時彼社之前有磐石 其上甚滑也 即詔 滑磐石哉 詔 故云南佐
な(滑)める…ぬるぬるとすべる。
和加須世理比売命(わかすせりひめのみこと)…通ひ坐(ま)しし時、彼の社(やしろ)之前に磐石(いは)有り。 其の上甚(はなは)だ滑(な)めりき。即ち詔(の)らさく「滑(な)める磐石(いは)哉(なり)」と詔らしき故(ゆゑ)南佐(なめさ)と云ふ。
多伎郷(たきのさと)
所造天下大神之御子 阿陀加夜努志多伎吉比賣命 坐之 故云多吉
阿陀加夜努志多伎吉比売命(あだかやぬしたききひめのみこと)。
吉栗山(よしくりやま)
有檜杉也 所謂天下大神宮 材造山也
 所謂は、所造の誤りか。
《飯石郡(いひしのこほり)
多禰郷(たねのさと)
所造天下大神大穴持命與須久奈比古命 巡行天下時 稲種堕此處 故云種
所造天下大神大穴持命与(と)須久奈比古命、天の下を巡り行きし時、稲種此の処に堕(お)としし故、種と云ふ。
 大神大穴持命と協力して国を作った須久奈比古(すくなひこ)の命が登場する。
琴引山(ことびきやま)
古老傳云 此山峯有窟 裏所造天下大神之御琴 長七尺 広三尺 厚一尺五寸 又有石神 高二丈 周四丈 故云琴引山
古老(おきなひと)伝へて云はく「此の山峯の窟(いはや)有り。裏に所造天下大神之御琴、長七尺、広三尺、厚一尺五寸。又石神、高二丈 周四丈 有り。」故(かれ)琴引山と云ふ。
《仁多郡(にたのさと)
所以號仁多者 所造天下大神大穴持命
詔 此國者 非大非小 川上者木穂加布 川下者阿志婆布這[遮?]度之 是者爾多志枳小國在 詔故仁多

仁多と号(なづ)かれし所以(ゆゑん)者(は)、所造天下大神大穴持命の詔(の)らさく
「此の国者 非大(おほから)ず非小(ちひさから)ず、 川上(かはかみ)者(は)木穂(このほ)刺し加布(かふ)。川下(かはしも)者(は)阿志(あし)婆布(はふ)。之(これ)度(わた)るを遮(せ)く。 是れ者(は)爾多志枳(にたしき)小(を)国(くに)在り。」と詔らしし故に仁多なり。

 」が「はう」を表すのは日本語用法で、中古以後のこと。音は漢音のみで、ゲン(迎える)、シャ(この)。
 万葉集にはこの字は皆無である。後世になってから、直前の「はふ」に影響されて誤写されたかも知れないので、「遮」に直して「せく」と訓んでみる。 すると、「上流は両岸から小枝の先が交差し、下流は葦が這うように生い茂り、川を渡れない」と解釈することができる。
 また、形容詞「にたし」は、全く意味不明である。
三處郷(みところのさと)
大穴持命詔 此地 田好 故吾御地占 詔 故云三處
大穴持命詔(の)らさく「此の地、田好(よ)き故(ゆゑ)吾(われ)御地(みつち、みところ?)に占む」と詔らしし故、三処と云ふ。
三津郷(みつのさと)
大神大穴持命御子阿遅須伎高日子命 御須髪八握于生 昼夜哭坐之 辞不通
爾時御祖命御子 乗船而率巡八十嶋 宇良加志給鞆 猶不止哭之
大神夢願給 告御子之哭由 夢爾願坐 則夜夢見坐之 御子辞通 則寤問給
爾時御津申 爾時 何處然云問給 即御祖御前立去 出坐而 石川度 坂上至留 申是處也
爾時 其津水活出而 御身沐浴坐 故國造 神吉事奏 参向朝廷時 其水汲出而用初也
依此 今産婦 彼村稲 不食 若有食者 所生子 已云 也 故云三津

(こと)…言葉。 うらかす…「うらぐ」は心が浮き立つ意味。ここでは「うらが(未然形)+す(使役の助動詞)」なので四段活用。辞書では下二段活用であるが、四段活用もあると仮定しないと、意味が通じない。 …「とも」矢を射るとき左手首に装着する用具。ここでは「とも」の発音を借りて「と雖(いえど)も」の意味で使う。 朝廷…万葉集では御門、朝廷を「みかど」と訓んでいる。
大神大穴持命の御子、阿遅須伎高日子命(あじすきたかひこのみこと)、御(み)須髪(ひげ)八握(やつか)に生(お)ひ、 昼夜(ひるよる)[之を]哭(な)き坐(ま)し、辞(こと)不通(とほ)らず。
爾(しか)る時、御祖命(みおやのみこと)の御子を船に乗せて[而]、率(ゐ)て八十(やそ)嶋を巡(めぐ)らし宇良加志(うらかし)給へ鞆(ども)、 猶(なほ)[之]哭(な)くを不止(やめ)ず。
大神夢に願ひ給はく「御子之哭く由(よし)を告(の)らしませ」と夢に爾(しか)く願ひ坐(ま)しき。 則ち夜に夢を[之]見(め)し坐(ま)し、御子辞(こと)通(とほ)り、則ち寤(さ)め問ひ給ひき。
爾る時「御津(みつ)」と申(まを)し、爾る時「何処(いずこ)に然ると云ふか」と問ひ給ひき。 即ち、御祖の御前を立ち去り、出(い)で坐(ま)して[而]、石川(いはかは)を度(わた)り、坂上に至り留(とど)まり、「是処(ここ)なり」と申(まを)しき[也]。
爾る時、其の津の水活(い)く出でて[而]御身(おみ)に沐(あ)み浴(あ)み坐しき。 故(かれ)国造(くにのみやつこ)、神の吉事(よごと)を奏(そう)し、朝廷(みかど)に参向(まゐりむかひ)し時 其の水を汲み出だして[而]用ゐる初め也(なり)。
此れ依り今、産婦(うぶめ)は彼(か)の村の稲(いね)不食(くらは)ず、若し食ふ有ら者(ば)、生まむ[所の]子已(や)むと云ふ也(なり)。故(かれ)三津と云ふ。

 御子の阿遅須伎高日子命(あじしきたかひこのみこと)はずっと泣き続けていて、言葉を話せなかった。 船で島々を巡ってなだめようとしたが、泣きやまない。 あるとき、子が泣く訳を夢でお告げしてほしいと願うと、その夜に見た夢の中で、子はもう言葉を話せますよと知らされた。
 目を覚まし、早速子に聞いてみると、「みつ」と言うので、「そのようなところは、どこにあるのか。」と聞くと、 その場を立ち去った。大神が付いていかれると、岩や川を越え、山の上まで行って立ち止まり、「ここだよ」と言う。 そこには神聖な水が湧いていたので、沐浴して身を浄め、それを知った国造が、神の吉事ありと朝廷に奏上した。これが、その水を汲み、献上する初めである。
 それ以来、妊婦はその村の稲を食べず、もし食べれば流産すると言う。以上の言い伝えから、この郷を「三津」と言うのである。

 原文は、かなり読み取りが難しい。
(1)八握の髭は実際に生えたのではなく、須佐之男命に準え 「八握の髭を生やした須佐之男命のように、泣いてばかりでした。」という意味である。
(2)「夢」が3回も出て来るところは、整理が難しいが、"夢願給夢爾願坐"のように重複して、(願う内容)を前後から挟むと思われる。""と同様の形式である。
(3)会話文は、誰が何を言ったのか判りにくいが、敬語の使い方で判別することができる。謙譲語の「申」は御子(阿遅須伎高日子命)の言葉、尊敬語の「問給」は御祖神(大穴持命)の言葉である。 「御津申」は「目的語―動詞」の語順だと考えられる。出雲国風土記には、「目的語―動詞」の語順がかなり多い。 ところが「申是處」は「動詞―目的語」の順なので、一貫しない。なお、初めはここでも「申」で挟む会話文かと思ったが、それでは読み取り不可能であった。
(4)「沐浴」は外来の熟語なので、当時の訓はそれほど重要ではない。記にはしばしば同語反復が見られるので、 風土記でも「あみあみ」と訓んでみたが、これは本サイトの独自説である。
(5)最後のところで「三津」の水で育った稲が、流産を招くとする言い伝えを紹介しているが、その意味は不明である。

《大原郡(おほはらのこほり)
神原郷(かむはらのさと)
古老傳云 所造天下大神之御財 積置給處 則可謂神財郷 而今人猶誤云神原郷耳
…の御財(みたから)積み置き給ひし処、則ち神財(かむたから)の郷と謂ふ可きにて、今の人猶(なほ)誤ちて神原(かむはら)の郷と云う耳(のみ)。
屋代郷(やしろのさと)
所造天下大神之垜立射處 故云矢代
…あづち。矢の的を立てる盛り土。
…の垜に射る処を立てし故、矢代と云う。
屋裏郷(やうちのさと)
古老傳云 所造天下大神 令殖笶給處 故云矢内
=矢。動詞「殖(ふ)やす」の目的語なので、ヤダケ(矢竹、植物名)を意味するか。
来次郷(きすきのさと)―第61回参照。
所造天下大神命詔 八十神者不置青垣山裏 詔而 追撥時此處追次坐 故云来次
天下を造りし大神(おほかみ)の命、詔らさく「八十神(やそかみ)は青垣山の裏に置かじ」と詔らして、 追ひ撥(おさ)めし時、此の所追(お)ひ次ぎ坐(ま)せる故(ゆゑ)来次(きつぎ)と云ふ。
城名樋山(きなひやま)―第61回参照。
所造天下大神大穴持命 為伐八十神 造城 故云城名樋也
八十神を伐つために城(き)を造ったので、「城名樋」(きなひ)と云う。

【出雲国風土記における大穴持命の周りの神】 *)…記に言及がある。
《娶った姫―生まれた子》
(高志國坐神)意支都久良為(おしつくらし)の命の子、奴奈宜波比売命*)(ぬながはひめのみこと)―御穂須々美(みほすすみ)
神魂命(かむむすびのみこと)の子、真玉著玉之邑日女命(またまつくたまのむらひめのみこと)
須佐能袁命(すさのをのみこと)の子、八野若日女命(やのわかひめのみこと)
須佐能袁命の子、和加須世理比売命*)(わかすせりひめのみこと)
(以下、母不明)
山代日子命(やましろみこのみこと)
阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこのみこと)
和加布都努志命(わかふつぬしのみこと)
阿陀加夜努志多伎吉比売命(あだかやぬしたききひめのみこと)
《所造天下大神が振られた姫》
神魂(かみむすび)の命の子、綾門日女命(あやとひめのみこと)
《その他の神》
神魂命*)(かみむすびのみこと)…所造天下大神のために大宮を造営。御子の天之御鳥命は楯部(たてぬいべ)の始祖となる。
八束水臣津野命(やつかみづおみつぬのみこと)…この神は 国引きによって、遠く離れた国の一部を引いてきて、綴り合わせて島根半島にした神であるが、その後、所造天下大神のために大宮を造営する。
須佐能袁命*)(すさのをのみこと)…子を大穴持命に嫁がせる。
須久奈比古命*)(すくなひこのみこと)…所造天下大神と協力して国を造る。

【杵築大社の造営を命じたのはどちらか】
 楯郡の項では、神魂命(かむむすびのみこと)が、天日栖宮(あめのひすみのみや)と同じ寸法の大宮を造れと命じたとする。 一方、出雲郡杵築郷の項では、八束水臣津野命(やつかみづおみつぬのみこと)が皇神を動員して、所造天下大神の宮を、杵築郷に建造させている。
 天日栖宮の「ひすみ」とは、「日の神(=天照大御神)が住む」意味だと思われる。 本来は、楯郡の通り出雲国土着の八束水臣津野命が杵築大社を造ったとされていたのであろう。 しかし天照の皇孫が支配する世を認めた今となっては、高天原にある天照大御神の住居のデザインをいただき、天照側の神である神魂命(記では「神産巣日神」と表記) が命じたことに変更したと思われる。ただ、所造天下大神の宮が天照の宮と同じ大きさでは、天照と同格であると自負していることになるので、遠慮したとはとても言えない。
 一方の、楯郡の八束水臣津野命による建造説は、古い言い伝えが訂正されずに残ったと思われる。

まとめ
 出雲国風土記によれば、まず遠征して越を制覇し、帰国した後に領地を放棄して出雲国以外の領域を皇孫に委ねる。 記でも、その経過は認めている。ところが、紀では大己貴神による越の制覇は黙殺する。その意味についての考えは、以前に述べた通りである。
 出雲国は大国主のものだと承認されたことは、記紀でも間接的表現ながら認めている。 ただ、一般的には大国主命が住む神殿を天照側が作ることを、国譲りの交換条件としたとされているが、記・出雲国風土記にはそのようには書かれていない。 風土記では、神魂命あるいは、出雲の神である八束水臣津野命が、所造天下大神に与えたものである。 それを念頭に置いて記を精読すれば、すでに建造されていた巨大神殿の所有権を、モデルとなった天の神殿ともども「天津日継ぎ」(天照の子孫)に譲り渡した上で、その命令によって大国主が入る形式にすると言っているに過ぎない。(第61回の該当部分)
 記の国譲りのところにある「とだる天の御巣」は、 「とだる天日栖宮(あめのひすみのみや)」を直接受けた可能性がある。 天日栖宮は、「とだる天日栖宮の縦横を御(み)量(はか)り」、地上の大神殿のモデルとなった。 だから、「天の御巣」の「天の」は地上の神殿への美称ではなく、御巣は天上にあったのである。 これで今一つしっくり来なかった「」は、地上の神殿を天の神殿を模して作ったという、はっきりした意味になる。 その場合、記紀の立場ではは「天照の天」ではなく、「出雲の天」つまり正統性を欠く「天」であるから、「天日栖宮」でなく「巣窟」を連想させる「天御巣」に貶めたのである。 ただ、出雲国側は「日住みの宮」つまり天照大御神が居住する神殿と呼び、敬意を払っているつもりである。
 既に書いたように、巨大神殿は記の時代に実在した可能性がある。巨大神殿を見上げる人々が、てっきり「出雲国自身の神殿」だと思っているのを、 「天照の支配下にある神殿」に認識を改めさせるのが、記に課せられた責務であった。


2014.05.13(火) [064] 上つ巻(大国主命9)

夜知富許能 迦微能美許登波 夜斯麻久爾 都麻麻岐迦泥弖 登富登富斯 故志能久邇邇 佐加志賣遠 阿理登岐加志弖
久波志賣遠 阿理登伎許志弖 佐用婆比爾 阿理多多斯 用婆比邇 阿理加用婆勢 多知賀遠母 伊麻陀登加受弖
淤須比遠母 伊麻陀登加泥婆 遠登賣能那須夜 伊多斗遠 淤曾夫良比 和何多多勢禮婆 比許豆良比 和何多多勢禮婆
阿遠夜麻邇 奴延波那伎奴 佐怒都登理 岐藝斯波登與牟 爾波都登理 迦祁波那久 宇禮多久母 那久那留登理加
許能登理母 宇知夜米許世泥 伊斯多布夜 阿麻波勢豆加比 許登能加多理 其登母許遠婆

やちほこの かみのみことは やしまくに つままぎかねて とほとほし こしのくにに さかしめを ありときかして
くはしめを ありときこして さよばひに ありたたし よばひに ありかよばせ たちがをも いまだとかずて
おすひをも いまだとかねば をとめのなすや いたとを おそふらひ わがたたせれば ひこづらひ わがたたせれば
あをやまに ぬえはなきぬ さぬつとり きぎしはとよむ にはつとり かけはなく うれたくも なくなるとりか
このとりも うちやめこせね いしたふや あまはせづかひ ことのかたり そともこをば


八千矛の 神の命は 八洲国 妻求ぎかねて 遠遠し 高志の国に 賢し女を 有りと聞かして
美し女を 有りと聞こして さ婚ひに あり立たし 婚ひに ありか呼ばせ 太刀が緒も 未だ解かずて
襲をも 未だ解かねば 乙女の寝すや 板戸を 押そぶらひ 吾が立たせれば 引こづらひ 吾が立たせれば
青山に 鵺は鳴きぬ 狭野つ鳥 雉子は響む 庭つ鳥 鶏は鳴く うれたくも 鳴くなる鳥か
この鳥も 打ち止めこせね いしたふや 天馳せ遣ひ 事の語り 外面此をば


《大意》
 八千矛神命は、八洲の国中に妻を求められなかったのですが、 遠い遠い高志の国に 賢い女有りとお聞きになり、美しい女有りとお聞きになり、 求婚に何度も通い、求婚に応えてくれるのか呼び尋ね、太刀の紐もまだ解かぬまま、 長衣もまだ解かぬまま、乙女は寝ているかと、板戸を押し揺さぶり、私が立てば戸を強く引き、 私が立てば、青い山に鵺(ぬえ)は鳴いていました。野の鳥は雉が叫びます。庭の鳥は鶏が鳴きます。 いまいましくも鳴く鳥が。この鳥も黙らせてほしい、天に人を遣わして。言葉に語ります、外にいてこれを。


-かぬ…[接尾]ナ行下二 動詞の連用形について、~することができない。
くはし(細し、美し)…[形]シク活用 (上代語)こまやかで美しい。
ありたつ(あり立つ)…[自]タ行四段 繰り返し出かける。
おすひ(襲)…着衣の上に頭からかぶり、全身を裾まで長く垂らす上着。
おそぶる(押そぶる)…押して揺さぶる。
…上代の反復・継続の助動詞。主に四談活用の未然形に接続。
ひこづらふ(引こづらふ)…[他]ハ行四段 強く引っ張る。
ぬえ(鵺、鵼)…[名] トラツグミ(鳥の名)。トラツグミの声で鳴くという架空の動物も、鵺と呼ばれるようになった。
(小、狭)…[接頭] 体言、動詞、形容詞の上について、語調を整える。
きぎし(雉子)…[名] 雉の吉名。
うれたし…[形]ク活用 いまいましい。しゃくにさわる。
うち(打ち)…[接頭] 動詞の上について、ちょっと、何気なくなどの意を付け加える。
こす…[助動] (上代語)~してほしい。命令形・未然形は「こせ」。
…[終助] (上代語)~してほしい。動詞や、動詞型活用をする助動詞の未然形につく。
いしたふや…[枕詞] 本来の意味は不明。
あまはせづかい(天馳せ遣ひ、海人馳せ遣ひ)…[名] 天の使用人、一説に海人の使用人。
そとも(背面、外面)…[名] 後ろ側。外側。

【上代の助動詞「す」】
 この歌は、私(八千矛の神)自身が告げる言葉なのだが、「さあ、八千矛の神の命がいらっしゃいましたよ」と客観視して、語りかける。 そのために、立たす、聞こすなど、上代の尊敬の助動詞「す」が使われている。

【「きかす」と「きこす」】
 「きかす」は、上代の尊敬の助動詞「」が、「聞く」の未然形についたものである。 「聞く」の未然形「聞」が「聞」に変化した例には、「聞こゆ」がある。
 「聞こゆ」は、上代の自発の助動詞「ゆ」は未然形につくので「聞かゆ」のはずが、「聞こゆ」になっている。 この歌から、「きかす」と「きこす」は共存していたことがわかる。

【八洲国】
 八洲国とは、もともと伊邪那岐命と伊邪那美命が産んだ島々、つまり国土全体である。 すなわち、古代の出雲勢力が、かつては出雲国をはるかに超えた広い範囲に進出していた歴史を反映していると考えられる。

【あまはせづかひ】
 古語辞典には、天空を飛んで使いをするものの意か。一説に海人部出身で、宮中の使い走りをする者ともいう。とある。 この語は枕詞を伴っているので、一般的な名詞であったと思われる。 ここでは空を翔けて鳥を黙らせて来いと使用人に命じている。

【事の語りそとも此をば】
 沼河比売による返歌と照らし合わせてみると、「以上のように事を語る」という結びの言葉である。 返歌は、戸を開けずに家の中から返しているので、「そとも」は八千矛神が戸の前に立って語ったことを意味すると思われる。

まとめ
 爽やかな鳥の鳴き声を、敢えて黙らせたいと思うのは、不快な者が存在することを暗示している。
 おそらく、沼河比売の率いる一族に、出雲への服従を良しとしない抵抗勢力がいて、婚姻を良しとしないことを、しきりに鳴く鳥に譬えているのであろう。 それは、前回取り上げた「神様の飛び比べ」神話の中で、沼河比売の婚姻に反発し大国主に勝負を挑む神がいたことにも裏付けられる。


2014.05.14(水) [065] 上つ巻(大国主命10)

爾其沼河比賣未開戸自內歌曰

夜知富許能 迦微能美許等 奴延久佐能 賣邇志阿禮婆 和何許許呂 宇良須能登理叙 伊麻許曾婆 和杼理邇阿良米
能知波 那杼理爾阿良牟遠 伊能知波 那志勢多麻比曾 伊斯多布夜 阿麻波世豆迦比 許登能加多理碁登母 許遠婆
阿遠夜麻邇 比賀迦久良婆 奴婆多麻能 用波伊傳那牟 阿佐比能 惠美佐加延岐弖 多久豆怒能 斯路岐多陀牟岐
阿和由岐能 和加夜流牟泥遠 曾陀多岐 多多岐麻那賀理 麻多麻傳多麻傳 佐斯麻岐 毛毛那賀爾 伊波那佐牟遠
阿夜爾 那古斐支許志 夜知富許能 迦微能美許登 許登能迦多理碁登母 許遠婆

故其夜者不合而明日夜爲御合也

爾其(それに)、沼河比売(ぬなかはひめ)は戸を未開(あけ)ず、内(うち)自(よ)り歌(うた)ひ曰はく、

やちほこの かみのみこと ぬえくさの めにしあれば わがこころ うらすのとりぞ いまこそば わどりにあらめ
のちは などりにあらむを いのちは なしせたまひそ いしたふや あまはせづかひ ことのかたりごとも こをば
あをやまに ひがかくらば ぬばたまの よはいでなむ あさひの ゑみさかえきて たくづのの しろきただむき
あわゆきの わかやるむねを そだたき たたきまながり またまでたまで さしまき ももなかに いはなさむを
あやに なこひしきし やちほこの かみのみこと ことのかたりごとも こをば

 とうたひし故(ゆゑ)、其の夜(よ)者(は)不合(あはざ)りて[而]明日(あくるひ)の夜に御合(まぐはひ)為(し)き[也]。


 それに対して、沼河比売(ぬなかはひめ)は戸を開けず、家の中からこのように歌いました。

八千矛の 神の命 萎草(ぬえくさ)の 女にしあれば 吾が心 浦洲の鳥ぞ 今こそば 吾鳥にあらめ
後は 汝鳥にあらむを 命は な殺せ給ひそ いしたふや 天馳せ使ひ 事の語り言も 此をば
青山に 日が隠らば 射干玉(ぬばたま)の 夜は出でなむ 朝日の 笑み栄え来て 栲綱(たくづの)の 白き腕(ただむき)
沫雪の 若やる胸を 素手抱き 手抱きまながり 真玉手玉手 差し枕き 股長に 寝は寝さむを
奇(あや)に 汝恋ひしきし 八千矛の 神の命 事の語り言も 此をば

《大意》
 八千矛の神の命よ、か弱い女でしかない私は、心が揺れ動きます。今はまだ私の鳥ですが、 後は あなたの鳥になるのですから、命は奪わないでください。天馳せ使い(天を馳せる使い)に命じてください。言葉に語ります、これを。
 青い山に日が隠れれば、真っ黒な夜になり、栄えある朝日が微笑み昇れば、白い腕、 沫雪のような若い胸を愛撫し、あなたの御手で床に抱かれ、やがて私は横になって眠ります。 不思議な気持ちで、あなたが恋しいのです、八千矛の神の命よ。言葉に語ります、これを。


 この歌の通りその夜は会わず、翌日の夜に夫婦の交わりをしました。

ぬえくさ(萎草)…[名] しなやかな草。しおれた草。
ぬえくさの(萎草の)…[枕詞] 女(め)にかかる。
…[副助] 体言、または動詞など活用する語の連用形、連体形につく。強調の意だが現代語への翻訳は不可能。
うらす(浦洲)…[名] 海辺や入り江にある洲。
うらすのとり(浦洲の鳥)…心が落ち着かないようすのたとえ。
…[副] 「な+活用語の連用形」の形で禁止を表す。さらに終助詞「そ」が付くとやさしい禁止になる。
しす(殺す、弑す)…[他]サ行下二 死なせる。
ぬばたま(射干玉)…[名] 檜扇(ひおうぎ、アヤメ科の多年草)の実かと言われる。その種子は黒色である。
ぬばたまの(射干玉の)…[枕詞] 黒、神、夜、夕などにかかる。
ゑむ(笑む)…[自]マ行四段 微笑む。
さかゆ(栄ゆ)…[自]ヤ行下二 繁栄する。
…[名] (日本語用法) タク(クワ科の低木)。樹皮から縄をなったりする。
たくづの(栲綱)…[名] 栲などの繊維で作った白色の綱。
たくづのの…[枕詞] 白にかかる。
ただむき(腕)…[名] 手首から肘までの間。 
わかやる(若やる)…[自]ラ行四段 若々しくある。
あわゆきの(沫雪の)…[枕詞] 消(け)にかかる。
そだたく…[他]カ行四段 素手で抱く、の意味か。一説に、なでる。
まがなる…[他]ラ行四段 互いに両手を交わして抱く意味か。または、目を見合わせるとも。
まで(真手)…[名] 左右の手。
またまで(真玉手)、たまで(玉手)…[名] 手の美称。
まく(枕く)…[他]カ行四段 ①枕にする。②一緒に寝る。妻にする。
ももながなり(股長なり)…[形動]ナリ のびのびと足を伸ばす。
(寝)…[名] 眠り。
なす(寝す)…[自]サ行四段 寝(ぬ)の尊敬語。[他]サ行四段 眠らせる。
あやに(奇に)…[副] 何とも不思議に。

【副助詞「し」】
 この歌には「萎草の女にあれば」「奇に汝恋ひしき八千矛の神の命」の二例がある。 『古典基礎語辞典』によれば、副助詞「」は、条件句や推量・打消しの語を伴うことが多く、 話し手の自信のなさの故に、控えめに述べる態度を表明するという。 確かに、第1の例では「か弱い女であるから、心は不安定である」から強くは言えないが「鳥を殺さないでほしい」と言っている。 第2の例では、「あやに」という語に「自分ではどうしようもない不思議な力に支配されて、あなたを恋しくなってしまう」 気持ちに戸惑い、その晩すぐに結ばれるのを躊躇し、明日の夜までまでもう一日待って欲しいという。
 二例とも、なるほどと思わせる。

 ぬばたま (ヒオウギの種子)
【そだたく、まながる】
 『古典基礎語辞典』によると、
《そだたく》
 古事記の歌謡だけにある動詞。そは接頭語か。だたくは文脈から「手抱く」または「叩く」とされてきた。 ところが「刮刷」に、「そだたき」の訓をつけた例があると言う。刮は摩と同じで撫でる、刷はかきとる、拭うの意味なので、 同辞典は、「なでる」「まさぐる」などの語釈をしている。
《まながる》
 古事記の歌謡だけにある動詞。文脈から恋の抱擁の描写と見られるが、語の意味は不明である。
 いずれも、記の歌謡以外に用例がないので、古語辞典の記載も記の文脈の解釈によるのみである。

【真玉手玉手】
 『古典基礎語辞典』によると、「」の形で万葉集に用例があるというので、検索してみた。
 万葉集「804 (前略)…をとめらが さなすいたとを おしひらき いたどりよりて またまでの たまでさしかへ…(後略)」
 万葉集「1520 (前略)…ひれかたしき またまでの たまでさしかへ あまたよも いねてしかも…(後略)」
 同辞典の解説によれば、古代(=上古?)の例は「真玉手(の)玉手」という連なりで用いられる。

【事の語り言も此をば】
 前半と後半の、結びとなっている。 いずれも、天の馳せ使いや八千矛の神に直接語りかけるというよりは、言葉の調子のためのものだろう。 これが同じ旋律て歌われることによって、音楽的な形を整える役割を果たすと思われる。

【政治的な意味】
 前回の「うるさい鳥は、沼川の豪族の中の抵抗勢力を暗示している」という考えを、さらに裏付ける一節である。
―萎草の 女にしあれば 吾が心 浦洲の鳥ぞ
(か弱き女子であるので、私の心は落ち着きません) 
 沼川の一族は、女王を護って侵略者に立ち向かおうとした。 その結果、彼らが殺されるのは当然のことであるが、女王としては耐えられないのである。沼河比売は激しく動揺する。
―今こそば吾鳥にあらめ後は汝鳥にあらむを、命はな殺せ給ひそ
(今でこそ私の鳥ですが、後にあなたの鳥になるのですから、命を奪わないでください)
 そこで、私とあなたが結婚すれば私の一族はあなたの一族になるのですから、 殺さないでくださいと言って説得する。
 沼河比売自身にとっても八千矛神に征服される悔しさと、女性として愛される歓びの両方を感じて複雑である。 だから、今夜はまだ心の整理がつかないので、結ばれるのは明日の夜まで待ってくださいと乞うのである。

【文学としての完成度】
 「栲綱の白き腕、沫雪の若やる胸」と、若い女性の透き通る白い肌を映像的に描く。 それを弄るのは、王の玉のような手である。 その動作「そだたく」「だたく」「まながる」「さしまく」の意味は、必ずしも明確ではないが、 4種類もの動詞を使って、さまざまに愛する様子を表現するのである。横になった女性の足は、「腿長に」すらっと伸びている。
 このように、いよいよ抱かれようとする姫の姿は生々しくも美しく描かれる。 伊邪那岐・伊耶那美の交わりの即物的表現とは、また趣が異なる。
 前項の八千矛神への複雑な思いも含め、この歌には優れた文学性がある。

まとめ
 沼川の郷には、女王を戴く古代的な国があった。一族に慕われた女王が侵略者の八千矛神に服従することは、人々に大きなショックを与えたと思われる。 その強い記憶がこのような歌として残ったのではないだろうか。


2014.05.17(土) [066] 上つ巻(大国主命11)

又其神之嫡后須勢理毘賣命甚爲嫉妬故
其日子遲神和備弖【三字以音】
自出雲將上坐倭國而束裝立時
片御手者繋御馬之鞍片御足蹈入其御鐙而歌曰

又、其の神之嫡后(きさき)須勢理毘売(すせりびめ)の命(みこと)甚(いと)嫉妬(や)き為(な)しし故(ゆゑ)、
其の日子遅(ひこち)の神、和備弖(わびて)【三字(みもじ)音(こゑ)を以ちてす】
出雲自(よ)り[将に]倭(やまと)の国に上り坐(ま)さむとして[而]、束裝(よそ)ひて立たしし時、
片(かた)御手(みて)者(は)御馬(みむま)之鞍に繋(つな)ぎ、片御足(みあし)其の御(み)鐙(あぶみ)に踏み入れて[而]歌ひ曰はく、


奴婆多麻能 久路岐美祁斯遠 麻都夫佐爾 登理與曾比 淤岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許禮婆布佐波受
幣都那美曾邇 奴岐宇弖 蘇邇杼理能 阿遠岐美祁斯遠 麻都夫佐邇 登理與曾比 於岐都登理
牟那美流登岐 波多多藝母 許母布佐波受 幣都那美曾邇 奴棄宇弖 夜麻賀多爾麻岐斯 阿多泥都岐曾 米紀賀斯流邇
斯米許呂母遠 麻都夫佐邇 登理與曾比 淤岐都登理 牟那美流登岐 波多多藝母 許斯與呂志 伊刀古夜能 伊毛能美許等
牟良登理能 和賀牟禮伊那婆 比氣登理能 和賀比氣伊那婆 那迦士登波 那波伊布登母
夜麻登能 比登母登須須岐 宇那加夫斯 那賀那加佐麻久 阿佐阿米能疑理邇 多多牟叙
和加久佐能 都麻能美許登 許登能加多理碁登母 許遠婆

ぬばたまの くろきみけしを まつぶさに とりよそひ おきつとり むなみるとき はたたぎも これはふさはず
へつなみそに ぬぎうて そにどりの あをきみけしを まつぶさに とりよそひ おきつとり
むなみるとき はたたぎも こもふさはず へつなみそに ぬきうて やまがたにまきし あたねつき そめきがしるに
しめころもを まつぶさに とりよそひ おきつとり むなみるとき はたたぎも こしよろし いとこやの いものみこと
むらとりの わがむれいなば ひけとりの わがひけいなば なかじとは なはいふとも
やまとの ひともとすすき うなかぶし ながなかさまく あさあめのぎりに たたむぞ
わかくさの つまのみこと ことのかたりごとも こをば


 また、その神の后(きさき)須勢理毘売(すせりびめ)の命(みこと)はひどく嫉妬しましたので、 その日子遅(ひこち)の神は詫びられ、 出雲から大和の国に上ろうとされて、装束を整えて立たれ、 片手は、御馬(みま)の鞍をつかみ、片足をその鐙(あぶみ)に踏み入れながら、このように歌われました。

射干玉(ぬばたま)の 黒き御衣を 真具さに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたぎも 此れは相応はず
辺つ波磯に 脱ぎ棄て 鴗鳥(そにどり)の 青き御衣を 真具さに 取り装ひ 沖つ鳥
胸見る時 はたたぎも 此も相応はず 辺つ波磯に 脱ぎ棄て 山県に蒔きし あたね突き 染め木が汁に
染め衣を 真具さに 取り装ひ 沖つ鳥 胸見る時 はたたぎも 此し宜し 愛子やの 妹の命
群鳥の 吾が群往なば 引け鳥の 吾が引け往なば 泣かじとは 汝は言ふとも
倭の 一本薄 頂傾し 汝が泣かさまく 朝雨野霧に立たむぞ
若草の 妻の命 言の語り事も 此をば

《大意》
 黒い衣を正装し、胸元を見たり袖の具合をみましたが、これは気に入りません。海辺の磯に脱ぎ棄てます。 青い衣を正装し、胸元を見たり袖の具合をみましたが、これも気に入りません。海辺の磯に脱ぎ棄てます。 山の畑でお前と共に育てた木を突き、染めた衣を正装し、胸元を見たり袖の具合をみましたら、これこそ気に入りました。
 愛しい妻よ、私が出かけたとしても泣くまいとお前は言うけれど、 倭にいても、薄が一本だけ雨・霧に濡れ項垂れた姿を見れば、そこにお前の姿が重なるでしょう。 瑞々しい妻よ。言葉に語ります、これを。
《別解》
 黒い衣を身にまとい、沖の鳥が首を曲げ胸元を見て、羽ばたく如くしてみましたが…(以下略)


…[名] あぶみ。馬の鞍の両側に垂れ、乗る人が足を踏みかけるもの。
わぶ(詫ぶ)…[自]バ行上二 ①気落ちする。②さびしく思う。③辛く思う。④相手に詫びる。⑤落ちぶれる。⑥わびさびの"わび"を味わう。

みけし(御衣)…[名] 貴人の御召し物。
まつぶさなり(真具さなり)…[形動] 完全だ。十分だ。
よそふ(装ふ)…[他]ハ行四段 準備する。とりそろえる。
おきつとり(沖つ鳥)…[枕詞] 鴨にかかる。味経(あぢふ、地名)にかかる。 沖つ鳥の首を曲げて胸を見るようすから「胸(むな)見る」にかかる。
むな(胸)…[接頭] 他の語の上について「むね」の意を表す。
はたたぎ…[名] 袖の端(はた)をたぐり上げる意か。一説に「羽たたぎ」で鳥の羽ばたきの意とも。
…[係助] ~もまた。
ふさふ(相応ふ)…[自] ハ行四段 つり合う。似合う。
へつなみ(辺つ波)…[名] 岸辺に寄せる波。
いそ(磯)…[名] 波打ち際の岩石の多いところ。
うつ(棄つ)…[他]タ行下二 (上代語)捨てる。投げ打つ。
そにどり(鴗鳥)…[名] カワセミ。
そにどりの…[枕詞] 青にかかる。
やまがた(山県)…[名] 山の県(朝廷の直轄田)。転じて山中の田畑。
しる(汁)…[名] 搾り取った液。
しめころも(染め衣)…[名] 染めた衣。
よろし(宜し)…[形]シク 好ましい。満足できる。
いとこ(愛子)…[名] 愛しい人。
いも(妹)…[名] ①いもうと。②妻、恋人。
むらとり(群鳥)…[名] 群がっている鳥。
むらとりの(群鳥の)…[枕詞] 群れ往ぬ、朝立つなどにつく。
ひけとり(引け鳥)…[名] 一羽が飛び立つと、引かれて共に飛び立つ鳥。
とも…[接助] ~でも。動詞などの終止形につく。形容詞の連用形につく。
うなかぶす(頂傾す)…[自]サ行四段 うなだれる。
ま-く…[助動・接尾] 推量の助動詞むの「未然形+く」による名詞化。
…[係助] あることがらをとりたてて強調する。
わかくさの(若草の)…[枕詞] 妻、夫(つま)などにかかる。

【万葉集における訓み】
《嫉妬》…この漢字を直接用いた例はない。動詞「ねたむ」「そねむ」は一例もなく、心を「やく」が4例(5番,755番,1336番,3271番)ある。
《束装》…漢字の装束が3例あり、すべて「よそふ」と訓む。

【汝が泣かさまく】
 泣かさまく=泣くの未然形+(上代の尊敬の助動詞、軽い尊敬の意)の未然形+(推量の助動詞、意思)+(接尾語)。
 いわゆる上古の「ク語法」。「命令形+く」の形で動詞を名詞化する。 ここでは「あなたが泣こうとすること」を、すすきが濡れる様子に譬えている。
 また「汝」に尊敬の表現「す」はそぐわない感もあるが、続けて「妻の命」と尊敬表現しているから、 「汝」はここでは話し手としての上下関係抜きに、親しみを表現すると考えられる。

カワセミ
【鴗鳥(そにどり)】
 カワセミ。ブッポウソウ目カワセミ科カワセミ属。水辺に生息する小鳥で、鮮やかな水色の体色と長いくちばしが特徴。

【この歌の意味】
 この歌は、かなだけでは意味が確定しきれない語句が多いので、まず全体的に何を言おうとしているかを整理してみる。
 骨子は「須勢理毘売命は嫉妬するので、日子遅神は詫びた。」である。 そして装束を整え、倭国に出かけるために、乗馬しようとしたその時に歌う。
 歌の内容で確実なことは、装束をどれにするか迷った。須勢理毘売命をなだめようとする。の2点である。
 大国主命をこの箇所で日子遅神と呼ぶ理由は分からないのであるが、 特徴的なのは、手で鞍を持ち片足を鐙(あぶみ)にかけた時の出来事である点である。 この場面は、まさに出発しようとしている大国主を須勢理毘売が引き止め、言い争いになったと読み取ることができる。
 そこで歌う内容は、須勢理毘売をなだめる言葉である。 装束をいろいろ選んでみたが「黒色でも青色でもなく、出雲の二人の畑で育てた木の染料で染めた装束こそ良い」 と言って大国主と須勢理毘売が一緒に育てた作物を称える。つまり、お前との生活こそ最高だと言う。
 もうひとつ、遠い土地に行っても、朝の雨に、また野の霧に濡れるススキを見てお前を思い出すだろうとして、 妻のことは決して忘れないという気持ちを伝えようとする。
 以後、解釈に迷う語句はこの方向から解釈していきたい。
《みけしを~ふさわず》
 「ぬばたまの くろきみけしを まつぶさに とりよそひ 〖おきつとり むなみるとき はたたぎも〗 これはふさはず」
 〖〗を除けば、明快である。「ぬばたまの」はへの枕詞。「黒き御衣を真つばさに取り装ひ…これは相応ず」も「正装してみたが気に入らない」という意味は明白である。
 三通りの御衣について「此れは相応ず、「此も相応ず、「山県の木で染めた衣此し宜し、と対応している。(は強調の副助詞)
 おきつとり
 枕詞"沖つ鳥"は主に鴨にかかる。しかし、人が自分の胸元に顔を向ける動作を、鳥が首を曲げる動作に譬えた、の解釈は、 辞書間でも統一されていない。
 なお、は、本居宣長が宣長の師、賀茂真淵の説として紹介しているものである。
 曰く「牟那美流登岐(むなみるとき)は、胸見時なり。水鳥は頸(くび)を延居て(のべすえ)て、己が胸を見る如くにする物なるに譬へて云フなりと、師ノ説なり。
 はたたぎも
 前半の「はた=端」はあり得る。問題は後半の「たぎ」である。一般に言われる、袖を手繰り寄せるという解釈は、 「たぐる(手繰る)」の古い形に「たぐ」という動詞(ガ行四段または上二段)があったことを前提にする。
 宣長は、「たく」(髪などをかき上げる意)を「たぐ」と読み、万葉集からいくつか例示(123番、多香根者長寸など)している。 しかし古語辞典に「たく」はあっても、同じ意味で「たぐ」がないということは、この説はまだ公認されていないようである。
 また他の説に、「羽たたぎ」がある。「羽ばたく」と同じであろうと言うのである。この場合「羽」と「叩く」の合成語となるが、 その欠点は、万葉仮名「藝」に[ki]の音はなく、[gi]のみであることである。「叩く」を[tatagu]と発音する地方もあったかも知れないが、想像に過ぎない。
 もし、「羽たたく」だとすれば、「黒き御衣を真具さに沖つ鳥の胸見る時羽たたぎ」が丸ごと鳥の動作として、人の動作を形容する文となる。こうすれば、枕詞「沖つ鳥」の機能に、やや異質なを加える必要はなくなる。
 その後にも「辺つ波」や「群鳥」など、鳥に縁のある語句が続くから、結構自然な解釈であるが、「」の濁点が妨げとなる。これが「」または「」だったら「羽たたき」説で確定できたはずである。
 両説の他に、前文に「束裝」と書かれることから、記の編者は「胸見る時は、立たぎも」と読んだ可能性がある。 尊敬語に「立たす」はあるが「立たぐ」は無いので、今日確立された古語文法から見ればこの解釈は成り立たない。 しかし仮に間違いだったとしても、同時代性という強みがある。
《やまがたにまきし あたねつき そめきがしる》
 やまがた
 山県はもともと「朝廷の直轄田」という意味なので、ここでは夫妻が手厚く育てた畑を指すと思われる。そこで育てた植物の染料で染めた装束が一番いいと語ることにより、 妻への愛を表現している。
茜色
 あたね
 発音が似た「」は根を絞り、暗い赤色(茜色)の染料を古くから得ている。黒色も青色も相応しくないと言うのだから、 残された代表的な色が茜色だとするのは、確かにありそうである。しかし、万葉集では「あかね」は枕詞「あかねさす」として多数あるが、「あたね」は一例もない。 もしも「多」を「加」や「可」の誤写ならば解決するが、勝手に誤写と決めつける訳にも行かない。
《その他、複数の解釈が可能な語句》
 へつなみそに
 格助詞「に」は通常は行き先を指すから、指示詞「そ」は「辺つ波」である。しかし、ここで取り立てて代名詞で受ける必然性はないので、 指示語の「そ」ではなく「辺つ波 磯に」が一体化した可能性がある。母音が連続するとき、一音にまとまることはよく起こる。 次の歌謡「取大御酒坏」の歌の中に「磯」がある。これらを含む4編の歌謡は互いに内容に関連があるので、やはりこの箇所も「磯」かも知れない。
 やまと
 一般的には「山処」と解釈されているが、前文を見れば、少なくとも記の編者は「倭(やまと)の国」と解釈したと思われる。
 ただ、宣長は倭説には反対で、「山処」とする。理由は「此処(ここ)に留りたまふ人のうへを、差シて行クあなたの倭の物にたてへ云ハむこといかゞ」(この地に留まっている人を指して、はるか彼方の倭の国のものに譬えて言おうとするのはいかがなものか)とする。
 しかし、倭だとすれば、遠い倭国にいても雨や霧に濡れるすすきの穂を見て、お前の泣く姿を思い浮かべるぐらいに、私はお前のことを忘れないのだと言う解釈が成り立つ。
 ひともとすすき
 「人本」かも知れないが、万葉集には「4070 ひともとの なでしこうゑし(一本の撫子を植えた)という例があるので、「ひともとすすき」も"一本すすき"であろう。

【倭国に向かう意味】
 万葉集では「やまと」は山跡、倭、日本などと書かれる。単に「山のところ」という意味の普通名詞もあるし、天皇の支配が及ぶ全国も、政権の所在地にあたる分国も「やまと」と呼ぶ。
 前文の「自出雲将上坐倭国」が、分国(大和の国)を指すのは明らかである。古代出雲が北陸に進出した時代は、 まだ天照勢力は瀬戸内海に沿って畿内に向かっている時代であり、後の大和国の地域は、熾烈な戦闘地であったと思われる。 (但し、ここでは後の世の、朝廷の所在地に向かう意味で「上る」が使われる) 当時、大国主が倭の国に向かうということは、乗馬して戦地に向かうのである。記と出雲国風土記の筋書きに従えば、その後倭が優勢となり、大国主は出雲国に追い込められることになる。
 だから、嫡妃が「また、倭の国で新しい妻を娶るのでしょう」と嫉妬するような、のんびりした状況ではない。
 しかしここでは、倭の国に向かうこと自体の意味よりは、各地に進出する度に新しい妻を得る大国主の行動を、快く思わない嫡妻の心理を描くことが目的である。 記の編者は、この場面に相応しい歌を選び出してここに置いたと思われる。 前半の装束を選ぶ歌と、雨・霧に濡れる薄の姿を見て想う歌は、もともと別の歌だったものを組み合わされたように感じられる。

【夫人たちの確執】
 古代の王は、何人夫人を持っても問題なかったはずである。しかし、八上比売のところでもそうであったが、記の編者は何故か夫人間の確執をわざわざ取り上げる。 ここには、もともと独立していた複数の神話をうまく一本に纏めなければばならないとする、編者の義務感が感じられる。
 ところが、ここで用いた歌は倭の国にでかける歌だったので、日本海側で領地を広げる大国主の足取りとは、かえってずれを生じてしまった。

【歌謡としての特徴】
 同語反復が多いのは、旋律に乗せたときの心地よさを生みだす効果がある。

まとめ
 この歌謡の特徴として、前半は海辺を鳥が飛ぶ風景が強く重ねあわされている。 後半は、遠くにいて妻を思う心情を一本のススキの姿に譬える。当時の人々の、自然の風景への感受性が浮かび上がる。 これまでに見たように、この歌謡は大国主の物語の本筋と噛み合わないところがあるが、それでも民衆の歌を取り入れている。
 記には、天照を祖とする民族の歴史観を浸透させるという大切な役割があるが、 それはそれとして、民衆の生活に根差した歌謡を歌い交わす世界に、寄り添っていこうとするのである。


[067]  上つ巻(大国主命12)