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[054]  上つ巻(建速須佐之男命10)

2014.03.21(金) [055] 上つ巻(建速須佐之男命11) 
故 其櫛名田比賣以 久美度邇起而
所生神名謂 八嶋士奴美神【自士下三字以音下效此】

故(かれ)、其(そ)の櫛名田比売(くしなだひめ)を(以)久美度邇(くみどに)起(おこ)して[而]
生(う)みし[所の]神の名は、 八嶋士奴美神【「士」自(よ)り下(しも)つかた三字(みじ)音(こゑ)を以(も)ちゐる。下つかた此れに効(なら)ふ。】(やしまじぬみのかみ)と謂ふ。


又娶大山津見神之女名神大市比賣
生子大年神
次宇迦之御魂神【二柱 宇迦二字以音】

又、大山津見神(おほやまつみのかみ)之女(むすめ)、名は神大市比売(かむおほいちひめ)を娶(めあは)せて、
子(みこ)、大年神(おほとしのかみ)、
次に宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)【二柱。「宇迦」の二字音を以ちゐる。】を生みき。


兄八嶋士奴美神 娶大山津見神之女名木花知流【此二字以音】比賣
生子 布波能母遲久奴須奴神

兄(あに)の八嶋士奴美神、大山津見神之女、名は木花知流【此の二字音を以ちゐる】比売(このはなのちるひめ)を娶(めあは)せて、
子、布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)を生みき。

此神娶淤迦美神之女名 日河比賣
生子 深淵之水夜禮花神【夜禮二字以音】

此の神、淤迦美神(おかみのかみ)之女、名は日河比売(ひかわひめ)を娶(めあは)せ、
子、深淵之水夜礼花神【「夜礼」二字音を以ちゐる】(ふかふちのみづやれはなのかみ)を生みき。


此神娶天之都度閇知泥/上/神【自都下五字以音】
生子 淤美豆奴神【此神名以音】

此の神、天之都度閉知泥〔上声〕神【「都」自り下つかた五字音を以ちゐる。】(あめのつどへちねのかみ)を娶(めあは)せて、
子、淤美豆奴神【此の神の名は、音を以ちゐる。】(おみづぬの)を生みき。


此神娶布怒豆怒神【此神名以音】之女名 布帝耳/上/神【布帝二字以音】
生子 天之冬衣神

此の神、布怒豆怒神【此の神の名は、音を以ちゐる。】(ふぬづぬのかみ)之女、名は布帝耳〔上声〕神【「布帝」の二字音を以ちゐる。】(ふてみみのかみ)を娶せて、
子、天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)を生みき。


此神娶刺國大/上/神之女名 刺國若比賣
生子 大國主神
亦名謂大穴牟遲神【牟遲二字以音】
亦名謂葦原色許男神【色許二字以音】
亦名謂八千矛神
亦名謂宇都志國玉神【宇都志三字以音】幷有五名

此の神、刺国大〔上声〕神(さしくにおほのかみ)之女、名は刺国若比売(さしくにわかひめ)を娶せて、
子、大国主神(おほくにぬしのかみ)を生み、
亦の名は大穴牟遅神【「牟遅」の二字は音を以ちゐる。】(おほなむぢのかみ)と謂ひて、
亦の名は葦原色許男神【「色許」の二字は音を以ちゐる。】(あしはらしこをのかみ)と謂ひて、
亦の名は八千矛神(やちほこのかみ)と謂ひて、
亦の名は宇都志国玉神【「宇都志」の三字は音を以ちゐる。】(うつしくにたまのかみ)と謂ひて、并(あは)せて五名(いつつのな)有り。


 さて、その櫛名田比売(くしなだひめ)と、寝所での交わりを盛大にして、 生んだ神の名は、 八嶋士奴美神(やしまじぬみのかみ)と言います。
 又、大山津見神(おほやまつみのかみ)の女子、名は神大市比売(かむおほいちひめ)を娶(めと)り、 子、大年神(おほとしのかみ)、 次に宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を生みました。
 兄の八嶋士奴美神は、大山津見神の女子、名は木花知流比売(このはなのちるひめ)を娶り、 子、布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)を生みました。
 この神は、淤迦美神(おかみのかみ)の女子、名は日河比売(ひかわひめ)を娶り、 子、深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)を生みました。
 この神は、天之都度閉知泥神(あめのつどへちねのかみ)を娶り、 子、淤美豆奴神(おみづぬの)を生みました。
 この神は、布怒豆怒神(ふぬづぬのかみ)の女子、名は布帝耳神(ふてみみのかみ)を娶り、 子、天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)を生みました。
 この神は、刺国大(さしくにおほのかみ)神之女、名は刺国若比売(さしくにわかひめ)を娶り、 子、大国主神(おほくにぬしのかみ)を生み、 またの名を大穴牟遅神(おほなむぢのかみ)と言い、 またの名を葦原色許男神(あしはらしこをのかみ)と言い、 またの名を八千矛神(やちほこのかみ)と言い、 またの名を宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)と言い、併せて五つの名が有ります。


【久美度邇起】
 第34回で一度出てきたときに、既にその意味を考えた。
 改めて辞書を見ると、
くみど(隠処)…夫婦の寝所。
おこす(起こす、興す)…もともと内部に在る活力を奮い立たせる意。[例]火など急ぎおこして(枕草子) 君もしひて御心をおこして(源氏物語・夕鶴)
 この二語からなる「くみどにおこす」は「まぐはひをす」と同じ意味であることが確認できる。

【系図に載る神々】
 須佐之男命のから大国主命までを中心とした系図を、右図に示した。(クリックで拡大)
 系図の内、須佐之男命の二世の孫が娶った日河比売の親、淤迦美神について。闇淤加美神(くらおかみの神)は、伊邪那岐の命が迦具土(かぐつち)の神を斬ったとき、流れた血から神になった。 神生みの段の一書7では、高龗神(たかおかみの神)が、3段に切り分けられた迦具土の神の体から現れる。迦具土の神は生まれたときに伊邪那美に火傷を負わせて死なせるので、怒った伊邪那岐に斬り殺された。
 伊邪那岐・伊邪那美の神生みによって生まれた大山津見神(おおやまつみの神)からは、足名椎のほか、木花知流比売が生まれた。 しかし、それらがどのような意味を持つかは不明である。
 その他の神は、ここ以外は登場しない。

【大国主と、その別名】
 さまざまな場面で、その行動に関係深い名前になっている。具体的にはそれぞれの場面で考察したい。記ではそれぞれが同一の神だと判断して、ここでまとめている。 そのうち「大国主」は、個人名と言うより「大いなる、国の主」という地位を表すような名称になっている。

【書紀・本文】
乃相與遘合而生兒大己貴神。因勅之曰「吾兒宮首者、卽脚摩乳・手摩乳也。」
故、賜號於二神曰稻田宮主神。已而素戔鳴尊、遂就於根國矣。
乃(すなは)ち相(あひ)与(あづか)り遘合(まぐはひ)て[而]児(こ)、大己貴神(おほなむちのかみ)を生みき。因りて勅(のたま)ひしく[之]「吾(あ)が児の宮の首(おびと)者(は)、即ち脚摩乳(あしなづち)・手摩乳(てなづち)也(なり)。」と曰(のたま)ひき。
故、二(ふた)はしらの神に[於]号(なづ)け賜(たま)ひて、稲田宮主神(いなだのみやぬしのかみ)と曰ふ。已而(すでにして)素戔鳴尊(すさのをのみこと)、遂(つひ)に根の国に[於]就(むか)ひき[矣]。

――書紀では、この部分は極めて簡潔である。出雲国の大国主の数々の面白い話も素通りし、直ちに天孫降臨を巡る場面に移る。
 さらに、宮主の神の名も「稲田宮主」とされている。名称の一部に入っていたはずの「須佐」(あるいは「須賀」)は、出雲の大神としての足跡を示すものだが、名前からもその痕跡を消すほど徹底している。
 もともと書紀では、素戔嗚尊は高天原から根の国に直行する筈であったにも拘わらず、途中に八岐大蛇を退治する話が入ったのは、草薙の剣の由来を示すためである。 草薙の剣は、三種の神器のひとつだから、神聖な起源が必要であった。しかし、草薙の剣を天に献上してしまえば、以後の行動にもう関心はない。さっさと根の国に行けばよいのである。
 このように、出雲の国の大神としての須佐之男命の足跡は、完全に無視される。
 ただ、大己貴神(大国主命)に関しては、この後天孫降臨の妨害勢力の首領として重要な役割を果たすから、一応その出自を述べている。 しかし、ここでも複雑な系図は全部すっ飛ばし、簡単に素戔鳴の一世の子になった。

【書紀一書1】
一書曰、素戔鳴尊、自天而降到於出雲簸之川上。
則見稻田宮主簀狹之八箇耳女子號稻田媛、乃於奇御戸爲起而生兒、
號淸之湯山主三名狹漏彥八嶋篠。一云、淸之繋名坂輕彥八嶋手命、又云、淸之湯山主三名狹漏彥八嶋野。
此神五世孫、卽大國主神。
篠、小竹也。此云斯奴。
一書曰(あるふみにいふ)、素戔鳴尊、天(あめ)自(よ)り[而]降り出雲の簸之川(ひのかは)の上(かみ)に[於]到りき。
則ち稲田宮主簀狹之八箇耳(いなだのみやぬしすさのやつみみ)の女子(むすめ)、号(な)は稲田媛を見(め)し、乃(すなは)ち奇御戸(くみど)に[於]為起(おこし)て[而]児を生み、
清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠(すがのゆやまぬしみなさるやひこやしましぬ)と号(なづ)けき。 一(ある)は、清之繋名坂軽彦八嶋手命(すがのゆいなさかかるひこやしまてのみこと)と云ひ、 又、清之湯山主三名狹漏彦八嶋野(すがのゆやまぬしみなさるやひこやしまの)と云ふ。
此の神の五世(いつよ)の孫(むまご)、即ち大国主の神なり。
篠、小竹也。此れ斯(し)奴(ぬ)と云ふ。

――記でも素戔鳴尊の子、八嶋士奴美を起点として、大国主は五世の孫になるので、この点は一致している。
 「稲田宮主」の名称には一書2と同様、須佐の地名を含む。但し、八嶋士奴美神には「須佐」ではなく「須賀」の方が付いている。 一書1の最大の特徴は、八岐大蛇が登場しないことだが、省略しただけかも知れない。
 ここで「篠」を「しぬ」と読むのは異例であるが、記における名称も「八嶋士奴美」なので「奴=ぬ」とする限り、篠を「しぬ」と読まねばならない。 逆に「奴」を「の」と読むのでは?という疑問は、理屈としては成り立つが、ウェブで万葉仮名の研究を複数見たところでは、まずあり得ない。
 また八嶋士奴美の名称の中には「清之湯山主」が入っているので、須賀は湯の湧く地だったかも知れない。そこで試しに須賀神社の周辺の温泉を検索したら、4km以内に3か所あった。またその近くに「湯岩」という地名もある。 きっと温泉につかって山々から立ち上る美しい八雲を眺め、清々しい気分になれる土地なのであろう。一度行ってみたいものである。

【書紀一書2】
〔素戔鳴尊が八岐大蛇を退治した後〕
是後、以稻田宮主簀狹之八箇耳生兒 眞髮觸奇稻田媛、遷置於出雲國簸川上、而長養焉。
然後、素戔鳴尊、以爲妃而所生兒之六世孫、是曰大己貴命。
大己貴、此云於褒婀娜武智。
是後(こののち)、稲田宮主簀狹之八箇耳(いなだのみやぬしすさのやつみみ)を以ちて児を生み、 真髮触奇稲田媛(まかみふるくしいなだひめ)、出雲国の簸川(ひのかは)の上に[於]遷(うつ)し置きて[而]、長く養ひき[焉]。
然る後、素戔鳴尊、[以]妃(きさき)と為(し)て[而]生みし[所の]児之六世(むつよ)の孫(むまご)は[是]大己貴命(おほなむちのみこと)と曰ふ。
大己貴、此れを「於(お)褒(ほ)婀(あ)娜(な)武(む)智(ち)」と云ふ。
真髮触奇稲田媛…櫛に変身させた話しに因み、枕詞「真髮触る」が追加されている。
 一書2では、八岐大蛇が襲ったときは、奇稲田媛はまだお腹の中で、生まれた後、素戔鳴尊の妻となった。 「六世の孫」とするのは、記に一致している。

【書紀一書6】
一書曰、大國主神、亦名大物主神、亦號國作大己貴命、亦曰葦原醜男、亦曰八千戈神、亦曰大國玉神、亦曰顯國玉神。其子凡有一百八十一神。
〔この後、少彥名命、三輪山に祀る神の話が続く〕
古事記書紀本文書紀一書二書紀一書六
大国主神大国主神
大物主神
大穴牟遅神大己貴神大己貴命国作大己貴命
葦原色許男神葦原醜男
八千矛神八千戈神
大国玉神
宇都志国玉神顕国玉神
 ここで挙げられている大国主の「亦の名」:
 大物主神(おほものぬしのかみ)、国作大己貴命(くにつくりおほあなむちのみこと)、葦原醜男(あしはらしこを)、 八千戈神(やちほこのかみ)、大国玉神(おおくにたまのかみ)、顕国玉神(うつしくにたまのかみ)。
 ここで注目されるは、大物主が大国主の「亦の名」リストに含まれる点である。(右表参照)
 この文の後で、神光照海して現れた神が、大国主に向かって「私は、お前の幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)である」と名乗り、三輪山に祀られる話がある。 ここには「大物主」の名前そのものは出てこないが、「三輪山に坐す神=大物主」であることは、記紀全体から明らかである。 神光照海してやってきた神は大国主と対話しているので、大国主とは別神のように見えるが、その神は「私はお前(大国主)の幸魂・奇魂である」という。何しろ神なので、一柱の神の魂を自在に分けることができるのである。 結局この会話は自分と自分の魂との対話であるから、大物主と大国主を同一としても差支えないということになる。
 記にも「光り海より来し」神と会う場面があり、その内容も基本的に一書6と同じである。ただ「私はお前(大国主)の幸魂・奇魂である」という発言はないので、こちらは別の神と読める。

まとめ
 以上のように、記書紀で大国主と大物主の同一性について、混乱がある。
 恐らく書紀の編纂中に、大国主が出雲国で隠退した後に、三輪山の大物主になったという見解が確定したので、記で光を放つ神と出会う場面を、そのままにはしておけなくなった。 そこで、書紀一書6では、大物主を「亦の名」のリストに追加し、神光照海して来た神は、大国主の幸魂・奇魂つまり「分身」であるという言葉を補なった。 つまり書紀の一書を使って、記を事実上、訂正したのである。
 ところで、書紀の本文は出雲を特別扱いせず、普通の律令国と捉えている。だから古代に国土を支配していたころの大国主の足跡は、必要な部分(天照や天孫に関わる部分)以外は、すべて取り除かれた。
 一方、書紀の「一書」は、本文に採用しなかった部分を保存しておく他、記を補完する機能もあることが今回明らかになった。 そう言えば、以前にも記だけでは意味不明な部分が、一書によって明確になったところもあった。これも、記で分かりにくかった部分のために、意識的に補足した可能性がある。

2014.03.27(木) [056] 上つ巻(大国主命1) 
故此大國主神之兄弟八十神坐 然皆國者避於大國主神
所以避者 其八十神各有欲婚稻羽之八上比賣之心 共行稻羽時
於大穴牟遲神 負帒 爲從者率往
於是到氣多之前時 裸菟伏也
爾八十神謂其菟云 汝將爲者 浴此海鹽 當風吹而 伏高山尾上
故 其菟從八十神之教而 伏爾其鹽隨乾 其身皮悉風見吹拆 故痛苦泣伏者
最後之來大穴牟遲神 見其菟言 何由汝泣伏

故(かれ)此の大国主神(おほくにぬしのかみ)之(の)兄弟(あにおと)の八十(やそ)の神坐(いま)し、然(しかれども)皆(みな)の国者(は)大国主神を[於]避(やら)ひき。
避(やら)ひし所以(ゆゑ)者(は)、其の八十の神各(おのもおのも)稲羽(いなば)之(の)八上比売(やがみひめ)に婚(よば)はむと欲(ねが)ひへる[之]心有り、共に稲羽に行(ゆ)かむとせし時、
大穴牟遅神(おほなむちのかみ)に[於] 袋を負(お)ほし、従者(つかひひと)と為(し)て率(ひきゐ)往(ゆ)きき。
於是(ここに)気多之前(けたのさき)に到りし時、裸(あかはだか)の菟(うさぎ)伏(ふ)しき[也]。
爾(ここに)八十の神は其の菟に謂ひしく「汝(いまし)の[将(まさ)に]為(せ)むとすること者(は)、此の海の塩(しほ)を浴(あ)み、風の吹くに当たりて[而] 高き山の尾(を)の上に伏せ。」と云ひき。
故(かれ)其の菟は八十神之(の)教(のり)の従(まにま)に[而]伏して、爾(ここに)其の塩乾(かわ)く隨(まにま)に其の身の皮(かは)、悉(ことごと)く風に吹かれ[見]、拆(さ)けき。故(かれ)痛く苦しく泣き伏せ者(ば)、
最後(いやはて)に[之]来(こ)し大穴牟遅神、其の菟を見て言ひしく「何由(いかなるゆゑ)に汝(いまし)は泣き伏すや。」といひき。


菟答言僕在淤岐嶋
雖欲度此地無度 因故 欺海和邇【此二字以音下效此】言
吾與汝競 欲計族之多小 故汝者隨其族在悉率來
自此嶋至于氣多前 皆列伏度
爾吾蹈其上走乍讀度 於是知與吾族孰多
如此言者 見欺而列伏之時 吾蹈其上讀度來
今將下地時 吾云汝者我見欺言竟

菟答へて言ひしく「僕(やつかれ)は淤岐(おき)の嶋に在り。
[雖]此の地に度(わた)らむと欲(おも)へど度(わた)り無く、因故(よりて)海の和(わ)邇(に)【此の二字以音(こゑ)を以ちゐる。下つかた此れに効ふ】を欺(あざむ)きて言はく
『吾(われ)は汝(いまし)与(と)競(きほ)ひて族(うがら)之(の)多(おほ)かるか小(すくな)かるか計(はか)るを欲(ほ)りす。故(かれ)汝(いまし)者(は)其の族(うがら)在るを隨(したが)へ悉(ことごと)率(ひき)ゐ来て、
此の嶋自(よ)り気多(けた)の前[于]至(ま)で皆(おのおの)を列(つら)ね伏し度(わた)せ。
爾(ここに)吾(われ)は其の上を踏み走り乍(つつ)読み度(わた)り、於是(ここに)吾(わ)が族(うがら)与(と)孰(いづれ)の多(おほ)かるかを知らむとす。』と、
此如(かく)言へ者(ば)、欺(あざむ)かえ[見]て[而]列(つら)ねて伏しし[之]時、吾其の上を踏み読み度(わた)り来たり。
今将(まさ)に地(つち)に下(お)りむとせし時に、吾云はく『汝(いまし)者(は)我(われ)に欺(あざむ)かえ[見]てあり。』と言ひ竟(を)へて、


卽伏最端和邇捕我悉剥我衣服
因此泣患者 先行八十神之命以誨告
浴海鹽 當風伏故 爲如教者 我身悉傷
於是大穴牟遲神教告其菟
今急往此水門以水洗汝身
卽取其水門之蒲黃敷散而
輾轉其上者汝身如本膚必差

即ち伏しし最(もと)も端(はし)の和邇(わに)我を捕へ、我(わ)が衣服(きぬ)を悉(ことごと)く剥(は)ぎき。
此(こ)に因(よ)りて泣き患(わづら)へ者(ば)、先に行(ゆ)きし八十神之命(みこと)、誨(をし)へ告(の)りことを以(も)ちゐて
海の塩を浴み、風に当たり伏しき。故(かれ)教(のり)の如(ごと)為(す)れ者(ば)我(あ)が身悉(ことごと)に傷(やぶ)れき。」といひき。
於是(ここに)大穴牟遅の神、其の菟に教(をし)へて告(の)たまはく
「今急ぎ此の水門(みと)に往(ゆ)き、水を以ちて汝(な)が身を洗へ。
即(すなは)ち其の水門(みと)之(の)蒲黄(かまのはな)を取り、敷き散らして[而]
其の上を輾(めぐ)り転(まろ)べ者(ば)汝(いまし)が身(み)は本の如(ごと)きに膚必ず差(い)ゆべし。」とのたまふ。


故爲如教其身如本也
此稲羽之素菟者也 於今者謂菟神也
故其菟白大穴牟遲神 此八十神者必不得八上比賣 雖負帒汝命獲之

故(かれ)教(をしへ)が如く為(し)てあれば、其の身は本(もと)の如し[也]。
此れが稲羽之素菟(いなばのしろうさぎ)なる者(もの)[也]にて、今に[於]者(は)菟の神と謂ふ[也]。
故(かれ)其の菟、大穴牟遅神に白(まを)さく「此の八十神者(は)必ず八上比売を不得(えじ)。袋を負(お)ほせども[雖]汝(な)が命(みこと)之(これ)を獲(う)べし。」とまをす。

 さて、この大国主(おおくにぬし)の神の兄弟に八十(やそ)神がいらっしゃるのですが、彼らの国は大国主神を斥(しりぞ)けました。 斥けた訳とは、その八十神には、それぞれに稲羽の八上姫と一緒になりたい思いがあり、共に稲羽に行く時、 大穴牟遅神に袋を背負わせ従者として連れて行くためでした。
 ここに、気多(けた)の前[浜辺]に到着した時、裸に剥かれた菟が伏せっておりました。 そこで八十神は、その菟に言った言葉は「お前がすることは、この海の塩水を浴び、風が吹くに当たり、高い山の尾根の上で横になりなさい。」 よってその菟は、八十神之教えに従って伏し、そのままその塩が乾くに従い、その全身の皮膚が悉く風に吹かれ裂けたために、痛く苦しく泣いて伏せっていたところ、 最後になって来た大穴牟遅(おおあなむち)の神[大国主の神の別名]、その菟を御覧になり「どうして、お前は泣き伏せっているのか?」と言いました。
 菟は答えてこのように言いました。「私めは淤岐(おき)の島におりました。 この地に渡りたかったのですが、渡るすべがなく、そこで海のワニ[古く鮫の呼び名]を欺いてをこのように言いました。
 『私はお前と競い、一族の数の多少を計りたいと思う。そこでお前はその一族をいるだけ従え、悉く率いて、 この島より気多の前[浜辺]まで、それぞれを連ね、伏せさせて渡せ。 そこで私はその上を踏み走りながら、数えつつ渡り、こうやって私の一族とどちらが多いかを調べよう。』
 このように言って、[ワニたちが]騙されて並び伏せた時、私はその上を踏み数え、渡ってきました。 今、まさに地面に下りようとした時、私が『お前たちは、私に騙されたのさ。』と言い終えるか否や、 伏せていた一番端のワニが私を捕え、悉く私の衣服[毛皮]を剥ぎました。
 これにより、泣き患っていたところ、先に行った八十神の命に教えていただいたことにより、 海の塩水を浴び、風に当たって伏しました。こうして教わった通りにしたところ、私の全身は悉く傷つきました。」
 そこで大穴牟遅の神は、其の菟にこのように教えられました。
 「今から急いでこの河口に行き、真水でお前の全身を洗いなさい。 そして、その河口近くの蒲黄(ほおう)[蒲の花粉]を取り、敷き散らして その上を転がれば、お前の体は、元通りに必ず膚は癒えるであろう。」
 そこで、教えられた通りにしたところ、その身は元通りになりました。 これが稲羽の素菟(いなばのしろうさぎ)というものであり、今では、菟の神と伝わります。
 さて、その菟は、大穴牟遅神にこう申し上げました。「この八十神は絶対に八上比売を得ることはできません。袋を背負っていたとしても、あなた様が姫を獲得できます。」


気多郡(けたのこほり)…[地名] 因幡国にかつて存在した郡。
所以(ゆゑ)…[名] 理由。
…袋(ふくろ)の異体字。
あむ…[自]マ行二段 浴びる。
…[動] さく。ひらく。
さく(裂く、割く)…[他]カ行四段 一つの線を境にして二つに離す。
いやはてに…[副] 最後に。〈時代別上代〉イヤハテは後に一語化するが、この当時では、〔中略〕一語と認めてよいかどうか分からない。
…[名] なかま。
うから(親族)…[名] (上代はうがら)血縁の一族。
いづれ(何れ、孰れ)…[指代]
よむ(読む)…[他]マ行四段 数を数える。
…[助動] 受け身を表す。
みと(水門)…[名] 河口。
輾転(てんてん)…寝返りをうつ。ぐるぐる回って一定しないさま。

【稲羽国】(いなばの国)
 稲羽国が「因幡国」であるのは、「気多」郡も出てくるので間違いないと思われる。
 これに関して注目されるのが「於今者謂菟神也」と書いていることである。記では、いろいろな箇所で実在の地名や神を取り上げ、その由来神話(起源譚)を語る。 この箇所でも、白兎伝説は、既に祀られている「兔神」の由来を語る形をとっている。
 だから白兎伝説は記による創作ではなく、因幡国に既に存在していた伝説をここに収めたと考えられる。

【八十神】
 「八十神」は一柱の神の名前ではなく、「多数の神」を示す。それは、しばしば「」や「」がついていることからわかる。
 これ以後も個別の名が出ることはなく、終始集合体として書かれる。

【皆国者避於大国主神】
 「国者」は「くにのもの」(国民)ではなく、「」は係助詞「」である。
 「国」は、広く葦原中国(あしはらなかつくに)つまり国土全体や、出雲国のように一つの分国、さらには「郷土」のように地域の共同体も表す。
 「皆国」の意味は、複数の国(「どの国も」)ではなく、「皆(=八十神)が住む国」である。つまり、兄弟が属する共同体を意味する。
 また「於」は「に」と訳すことが多いが、もともと「」には行為の対象(動詞の目的語)を表す場合があり、その場合は「」と訳す。
 以上から「避」は兄弟たちによる私的な仲間外れに留まらず、大国主を社会における下位の階級、つまり奴婢のような立場に落としたことを意味する。
 ここで「大国主」の名前が「大穴牟遅」に変わるのは、袋を持たされる立場に堕ちたからだろうか。

【所以避者~】
 「所以」は理由・原因などの他、単に接続詞(=以)の意味もある。しかし、ここでは前の文の「」を繰り返し、係助詞「」をつけているから「このように斥けた訳は…」と理由を語っているのは明白である。
 問題は、その理由とは何かということだが、文脈から「求婚の旅には従者が必要だから、その役割を一人に押しつけた」と考えるのが一番合理的である。 とすると、袋の中身は兄弟それぞれが用意した贈り物や荷物ということになり、次のような相談が想像される。
  八十神A 「これから八上姫に求婚しに、みんなででかけよう。」
  八十神B 「ちょっと待て、皆からの贈り物や荷物を持たせる者がいない。」
  八十神C 「ならばあいつの身分を落とし、家来にして連れて行けばいい。」

 それが、大国主を下の身分に追いやった理由であるとする。


白兎海岸 観光客は小島を見て、あれが淤岐嶋だと思うことであろう。

白兎神社 参道の「波にうさぎ」の像。
【淤岐嶋】(おきのしま)
 稲葉の国が舞台だから、地理的に隠岐島が思い浮かぶ。サメを並べて飛び移るには随分距離があるがが、空想上の話だから問題にならない。 ただ、現在の「白兎海岸」には、近くに小島が見える。
 もし、この話が他の土地に広まれば、それぞれの土地で「おきの島」が舞台になったであろう。

【わに】
 現在でも、出雲地方ではサメを「わに」と呼ぶ。(例えば方言辞典)
 出雲に限らず、一般的に「わに」はサメの古語で、例えばサメの一種、学名Carcharias taurusは、和名を「シロワニ」という。 余談だがシロワニは興味深い生まれ方をする。雌の胎内で最初に孵化した子が、遅れて孵化する子や孵化前の卵を食い尽くしてから生まれてくるのである。だから生まれてくるのは、結果的に左右の子宮から各一体だけである。(「卵食」という)
 話を戻すと、日本周辺はサメの生息域に含まれるが、ワニの生息域は熱帯だから、日本民族が直接その目で見ることができたのは、ワニではなくサメである。 人々はそれを「わに」と呼んでいたのだから、白兎伝説の「わに」は、間違いなくサメである。
 ただ、伝説上の魚としてが伝わったことはあったかも知れない。ワニはアジアでは、インドから東南アジアに生息する。3世紀の黒塚古墳の三角縁神獣鏡には、ラクダやゾウの姿が書かれたものがあるから、文化としての「鰐」の流入は十分考えられる。 未知の生き物「鰐」(ガク)の伝説が伝わり、「鋭い刃が並んだ大きな口を持ち、水中から獣や人を襲う凶暴な生物」だと聞けば、それを「わに」と呼ぶのも、また自然であろう。 サメは水中から身を乗り出して陸上の動物を襲うことはないが、鰐にはある。
 古代、遠い国の民族から伝わった鰐の話が、我が国の白兎伝説に多少の影響を与えかも知れない。仮にそうであったとしても、白兎伝説を聞いた出雲の子どもたちが「わに」と聞いて思い浮かべたのは、間違いなくサメであった。

【汝者我見欺】
 漢文ではここの「」は受け身を表す助動詞で、「見欺」は「欺かれる」という意味になる。
 受動文では、動作主は「於」をつけて後置する。これは、英語の受動態における"by<実行者>"に似ている。それによれば本来「汝者見欺於我」とすべきところである。
 ただ、この文のように動作主に「於」をつけず「見」の前に置くこともできる。その場合は「<動作主>に」と訓読する。

【言竟、即伏最端和邇】
 この「」は<漢辞海>在る行為や事情がその前の事態に対して時間的に密着して起こることを表し、「ただちに」「すでに」と訳す</漢辞海>場合にぴったりあてはまる。 古語辞典でも「すなはち」には「すぐに。即座に。」の意味がある。ここで直前につけた「」(をふ)が生きてきて、「言い終わるや否や」という語感が生まれる。
 次の部分は、文法的に「伏」は和邇を連体修飾する。本来「所伏」とすべきところだが、「所」はなくても構わない。 漢文は、動詞・前置詞の目的語は後置(英語と同じ)だが、修飾語はすべて前置(日本語と同じ)である。
 菟は最後の和邇を飛び終え、もう大丈夫だと思って「お前たちは騙された」と言ったが、最も端に伏せた和邇は、まだ飛びつけば届く距離にいたのである。 聞く者は「余分なことを言わなければいいのに」と楽しめるところである。

倭名類聚抄
二十巻本
巻第二十草木部草類
【衣服】
 古語辞典によれば、衣類のことを上代は「きぬ」「ころも」と言ったが、「ころも」は平安時代以降、僧衣または、和歌のために使われるようになったという。
 漢語の「服」は衣服であるが、特に喪服の意味があり、日本の古語では「ぶく」は喪服、あるいは服喪を指していた。「ぶく」は呉音(遣隋使以前に流入していた音読み)である。従って「服」は日本語化して喪服になっていたが、記では「衣服」を漢語の意味を使っていることに注意を払う必要がある。
 ここでは、菟の毛皮を剥ぎ取ることを擬人化して「我が衣服を悉く剥ぎき」と表現している。

【蒲黄】
 蒲黄は漢方薬である。
蒲黄(ほおう)…[薬名] (漢方薬)ヒメガマ、ガマ、コガマ、その他の成熟した花粉を乾燥したもの。 止血、通経、利尿薬として利用する。
 蒲と蒲黄について、和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう、平安時代、930年代編纂の辞書)には、次のように記載されている。
 「 蒲【蒲黄附】:唐韻云蒲【簿胡反和名加末】草名似藺可以為席也陶隠居本草注云蒲黄【和名加末乃波奈】蒲花上黄者也
 〔蒲【蒲黄を附す】…唐韻に蒲【薄胡反。和名;加末(かま)】と云ふ。草の名。藺[リン=いぐさ]に似て、以て席(むしろ)と為す可し。陶隠居の『本草注』に蒲黄【和名;加末乃波奈(かまのはな)】と云ふ。蒲の花の上、黄なれ者(ば)也(なり)。〕
 『唐韻』は、唐代の漢字を発音で分類した書。「薄胡反」は一種の発音記号で、「薄」の声母(頭の子音)と「胡」の韻母(声母以外の部分)を組み合わせて表す。このような発音の表し方を反切と言い、「反」をつけて示す。
 ガマは、和名「かま」で、イグサに似るというが、花は余り似ていない。 本当にガマで筵(むしろ)を編むものなのか、国語辞典で調べてみると、
がまむしろ(蒲筵、蒲蓆)…夏の涼を呼ぶ敷物に使用する。
 という項目があったので間違いない。次に、陶隠居について調べると、
陶隠居…陶弘景(456-536)の号。陶弘景は南北朝時代を代表する医薬学者で、『本草経集注』などを著した。
 とあるから、『本草注』は『本草経集注』のことだろう。それによれば「蒲黄」(和名かまのはな)の名は、蒲の花の上(花粉)が黄色だから、とある。

【差】
 ここの「差」は意味が取りにくいので、改めて確認する。
さす(差す)…[自]サ行四段 枝や草が伸びる。雲が湧きあがる。潮が満ちてくる。色が出てくる。
 その他に、漢和辞典によれば「差」には「病気がなおる」という意味もあり「瘥に通ず」とある。この場合の訓は、「いゆ」である。
いゆ(癒ゆ)…病気や傷がなおる。
 中国の歴史書から実例を探してみたところ、例えば『後漢書』43巻の列伝『朱楽何列伝』に 父母有病、輒不飲食、差乃復常。(父母病有り、輒(すなは)ち飲食せず、差(い)え乃(すなは)ち常に復す。)という一文があった。 序文で考察したように、太安万侶の周囲では、中国人スタッフが補佐していたと思われ、序文では多様な漢字が使われているので、「差」を「癒」の意味に使うのは特別のことではないと思われる。
 とは言え、日本語の「差す」には「頬に血の気が差す」という使い方もあるので、皮膚が蘇る様子が伝わる「さす」も捨てがたい。

【雖負袋】
 構文「」の意味は、「であるにもかかわらず、である。」である。
 ここでは「袋を背負うと言えども」、つまり従者の身分でありながら、お前こそが八上姫の心に叶うと菟は予言する。 この部分からも「皆国避」の意味が、「大国主の身分を落とす」であることを確認できる。

 

気多郡・八上郡 平安時代に八上郡から分かれて八東郡が成立した。
【稲羽之素菟】
 素菟が何故白菟になったか、「素」の本来の意味から探ってみたい。
…[名] 色を染めていない絹。もと。はじめ。[形] しろい。もともとの。
しろし(白し)…[形] 色が白い。生地のまま。明るくはっきり見える。
 「素」を含む熟語、「素人」「素面」(しらふ)は「染まっていない」意味から派生したと思われる。
 実際のウサギは多くの種類があり、白色とは限らないが、ニホンノウサギは、積雪地帯に生息するものに限り、冬季に白色に生え変わるという。
 漢字「素」には白色の意味もあるから、素菟は「白色のウサギ」と書かれるようになったと思われるが、「毛を剥がされて素になったウサギ」と解釈することもできる。
 あるいは、初めは悪意のあったウサギがひどい目に遭い、大国主に救われて素直になれたという、教訓を込めた名前かも知れない。

【白兎神社】
 <wikipedia要約>かつては、兔の宮、大兔大明神などと呼ばれた。戦国時代に焼失した後、慶長年間に再興されたという。</要約> 白兎神社から数百m行くと白兎海岸に出る。ここが「気多の前」にあたる海岸とされる。
 内陸の八頭町にも白兎神社が3社あるが、これらは大正時代に賀茂神社に合祀され、形の上では廃された。
 この地域には遺跡が多く、また、天照大御神の降臨伝説が残っているという。 それによると、この地に天照大御神が降臨したとき、白兎が道案内し、その後姿を消したという。それは兔が月読尊(つくよみのみこと)の化身だったからである。 この類型の伝説は、他の地域には見られない独特なものだという。

陸行一月 魏志倭人伝から推定。
 私は魏志倭人伝の「投馬国から邪馬台国まで水行十日陸行一月」を、水行=出雲国から青谷上寺地遺跡付近まで、陸行=智頭街道経由で畿内へというコースであると仮定した(右図)。 とすれば、八頭町は、畿内の3世紀ごろの倭政権と、当時の大陸への表玄関・因幡の海岸を繋ぐ、重要な街道上にある。 そう考えれば、この地に天照大御神の伝説が残ることに納得がいくのである。

【大国主命の足取り】
 出雲国の外側、少なくとも因幡国までは大国主の伝説が残っているということである。日本海側の広い範囲に、古代出雲勢力が広がっていたことのひとつの現れではないかと思われる。

まとめ
 蒲黄については、それが皮膚病の治療に使われていたことが想像され、人々の生活の一端が伺われる。
 さて、書紀との関連で言うと、「稲羽の素菟」は、書紀では本文・一書とも、完全に無視される。 というのは、書紀にとって大国主は、天照勢力との対立から服従の関係に転ずる部分こそが重要なのである。 それ以外の、大国主を単独で描く逸話のようなものは、政治的に無意味ということだろう。
 ところが、記には載せられた。
 その理由は、面白い童話だからである。 現在でも、さまざまな絵本が出版されている。当時から、小さい子どもが喜んだであろう。 彼らは幼いころ聞いた童話を入り口として、古事記に親しみを覚えながら大人になる。そうやって天照の国の形を刷り込まれ、人々の精神が統合されていくのである。 特に出雲周辺地に浸透することが、重要であったと思われる。ここにも、記紀の役割の違いがくっきり現れている。
 最後に、八頭町の天照降臨伝説は興味深い。もともと因幡国は、中国地方から北陸までの勢力圏を誇る古代出雲の一部であった。 その後、倭の天照勢力の支配に屈した後は、出雲勢力は出雲の国に封じ込められ、因幡国は倭勢力の日本海側の玄関となった。 以上のような因幡国を巡る支配勢力の交代が、天照降臨伝説に繋がったのではないかと想像される。

2014.04.01(火) [057] 上つ巻(大国主命2) 
於是八上比賣答八十神言 吾者不聞汝等之言 將嫁大穴牟遲神
故爾八十神怒 欲殺大穴牟遲神 共議而 至伯伎國之手間山本 云

於是(ここに)八上比売(やがみひめ)、八十神(やそのかみ)に答へて言ひしく「吾(われ)者(は)汝等(いましら)之(の)言(こと)を不聞(きか)ず、[将に]大穴牟遅(おほあなむち)の神に嫁(めあは)さむ。」といひき。
故(かれ)爾(ここに)八十神怒(いか)りて、大穴牟遅の神を殺さむと欲(おも)ひて、共に議(はか)りて[而] 伯伎国(ははきのくに)之(の)手間山(てまやま)の本(もと)に至りて云はく、


赤猪在此山 故和禮【此二字以音】共追下者
汝待取 若不待取者必將殺汝

「赤き猪(ゐ)此の山に在る故(ゆゑ)、和(わ)礼(れ)【此の二字音(こゑ)を以ちゐる】共(ども)が追ひ下(お)とさ者(ば)、
汝(いまし)待ちて取れ。若(も)し待ちて取ら不(ざ)ら者(ば)、必ず[将に]汝(いまし)を殺さむ。」


云而 以火燒似猪大石而 轉落
爾追下取時 卽於其石所燒著而死

と云ひて[而]、火を以ちて焼きし大(おほ)き石(いは)を猪(ゐ)に似(に)せて[而] 転(まろ)ばし落としき。
爾(ここ)に追ひ下(お)り取りし時、即ち其の石(いは)に[於]焼かるる所著(いちしろ)くありて[而]死にせり。


爾其御祖命哭患而 參上于天請神產巢日之命時
乃遣𧏛貝比賣與蛤貝比賣 令作活
爾𧏛貝比賣 岐佐宜【此三字以音】集而
蛤貝比賣持承而 塗母乳汁者 成麗壯夫【訓壯夫云袁等古】而出遊行

爾(ここ)に其の御祖命(みおやのみこと)哭(な)き患(わづら)ひて[而] 天(あめ)に[于]参上(まひのぼ)り、神産巣日之命(かむむすびのみこと)に請(こ)ひし時、
乃(すなは)ち、𧏛貝比売(きさぎひめ)与(と)蛤貝比売(うむぎひめ)とを遣(つか)はし 活(い)く作(な)ら令(し)めて、
爾(すなは)ち𧏛貝比売(きさがひひめ)、岐(き)佐(さ)宜(げ)【此の三字は音(こゑ)を以ちてす】集めて[而]
蛤貝比売(うみがひひめ)持ち承(う)けて[而]母[の]乳汁(ちしる)を塗りてあれ者(ば)、麗(うるは)し壮夫(をとこ)【壮夫を訓み、袁等古(をとこ)と云ふ】と成りて[而]出(い)で行(ゆ)き遊(あそば)しき。


 そこで、八上比売(やがみひめ)が、八十神(やそがみ)に答えて言うには「私はお前たちの言うことは聞きません。大穴牟遅(おおあなむち)の神と結婚します。」
 これに八十神は怒り、大穴牟遅の神を殺そうと思い、相談して 伯耆の国の手間山の麓に来て言いました。
 「赤い猪が此の山にいるので、我々が追い落としたら、 お前が待ちかまえて捕えよ。もし待ちかまえて捕えなければ、必ずお前を殺す。」
 このように言って、大きな岩を火で焼き、猪に似せて転げ落としました。 それを追い、降りて行って取ったところ、すぐにその岩にひどく焼かれ、死にました。
 そのため、その御母の命(みこと)は、泣き悲しみ、 天に参上し神産巣日之命(かむむすびのみこと)にお願いしたところ、 すぐに、𧏛貝比売(きさぎひめ)と蛤貝比売(うみぎひめ)を遣わし 活き返らせるよう命じられました。 そこで、𧏛貝比売(きさぎひめ)が、きさ貝[赤貝]の殻を砕き集め、 蛤貝比売(うみがひひめ)がうむ貝[蛤]の絞り汁を受けて作った、母乳のような汁を塗ったところ、
[別解釈:𧏛貝比売(きさがひひめ)が剥ぎ集め、蛤貝比売(うみがひひめ)がお持ちになった貝で作った母乳汁を塗ったところ、]
麗しい男性となって現れ、行きあそばされました。


しし(獣、鹿、猪)…[名] 食用となる獣。特に鹿・猪。
…[名] ブタ。
(猪、豕)…[名] イノシシとブタの総称。特にイノシシ。
みおや(御祖)…[名] 親や先祖の敬称。多く母・祖母に対していう。
わづらふ(煩ふ)…[自]ハ行四段 悩む。苦しく。病む。
…[名] 壮年。三十歳前後の男盛りの者。
をとこ…[名] 男。成人した若い盛りの男性。立派な男性。
あそばす(遊ばす)…[補動] (尊敬語)~される。

【将嫁】
 通常の漢文のように将を再読文字として「将(まさ)に嫁はんとす」と訓読しても構わないと思う。 大切なことは、原文が意味するところを正確に理解することである。
 しかし、万葉集では「将」は読まずに、動詞の後に推量の助動詞「む」を加えることを意味する。なお、「む」は一人称では意思を表す。 この万葉集の表記法は明確なので、これを用いることにしている。

【われ】
 「あれ」、「われ」は両方とも一人称の代名詞だが、『古典基礎語辞典』によると、「あれ」は独り言、または親密な相手に向かって使い、「われ」は他人の前で自己主張するときに使う。
 ここでは後者にあたり、八十神が大穴牟遅神に向かって威圧的に言い放つところで使われている。 わざわざ万葉仮名を使ったのは、「ここは必ず『われ』と訓め」ということである。ということは、漢字の「吾」や「我」は選択を読み手に任せている。

【以火焼似猪大石】
 動詞「」は二重の目的語「猪」「大石」を持つ。または、目的語「猪」+目的補語「大石」を持つ構造と見ることもできる。

【於其石所燒著】
 ここでは「於~所~」で、受け身を表す。動作主は「其の石」。「所~」は名詞句として述語「著」の主語となる。 「その石によって焼かれたところ(=さま)は、著しく」

【御祖命】
 本居宣長は親には父親もいるが、母親の方が子と親密だから、親と言えばまず母親であると言っている。
 大穴牟遅の母は、刺国若比売である。

【神産巣日之命(かむむすびのみこと)】
 天地開闢のとき、最初に現れた三柱のうち三番目で、すぐに姿を隠した。

【手間山】
 手間山(標高331.7m)には、中世になると城郭が築かれ、現在では、要害山、あるいは手間要害山と呼ばれる。

【𧏛貝比売・蛤貝比売】
 この二神が、母乳汁を製造したことは判るが、文章からは何をどう処理して作ったかを読み取ることが難しい。 直感的には、𧏛貝比売が𧏛貝を処理し、蛤貝比売が蛤貝を処理したのかなと想像される。そこで、まずそれらの貝について調べてみる。
 すると、𧏛貝赤貝のことで、蛤貝は「うむ貝」と読むと言う。
 しかし、その根拠を要領よく説明した解説文がなかなか出てこないので、腰を据えて探ることにした。
 まずは漢和辞典で、関係する漢字の意味を調べてみる。
𧏛(きさ)…[名](国字) 赤貝の古名。
(カン)…[名] フネガイ科の二枚貝。食用にする。アカガイ。
…[名] マルスダレガイ科の総称。アサリ・ハマグリを含む。
 「蚶」「海蛤」は和名類聚抄にはどのように書かれているのだろうか。

【和名類聚抄に見る蚶】
 和名類聚抄は、特に江戸時代に興った国学以後、古い時代の日本語を知る重要な資料として広く使われている。 現代でも写真製版で出版されている。(右図) ネット上では画像データが公開されているが、文字データ化したものの公開は、今のところないようである。
《見出し語の部分の原文》
 唐韻云蚶【乎談反辨色立成云和名木佐】蚌属状如蛤円而厚外有理縦横即今蚶也
蚶 唐韻云はく「蚶」【乎談反[=発音表記]にて、『弁色立成』に和名を木佐(きさ)と云ふ】。蚌に属し状(かたち)は蛤の如く、円(まる)く[而]外は厚く理の縦横有り、即ち今、「蚶」也(なり)。
乎談反…乎の発音は"ho"だが、当時日本には[h]がなかったので、[k]とした。談は[tan]。組み合わせて[han]だが、日本人は[kan]と聞き取った。
…ドブガイ。…木目。
辨色立成…『弁色立成』は奈良時代の辞書とされるが、逸文(他の文書に引用された断片)が残るのみである。
 蚶は和名は「きさ」、貝殻には縦横に筋目があるという。

【𧏛貝】
 さて、それではなぜ𧏛=蚶なのか。
 本居宣長は『古事記伝』で、「𧏛と作るを誤れるものなり」と書いている。 漢字は、その偏(へん)と旁(つくり)を上下に並べかえることがある。「嶋」→「嶌」が、その一般的な例である。
 宣長はさらに、出羽国の「きさかた」に『延喜式』では「蚶方」があてられていることなどから、「蚶」は「きさ」と読むとする。
 宣長は、𧏛は蚶とする根拠として、度会延佳〔1615‐90。江戸初期の神道家、国学者〕の説を長文で引用している。 引用部分を要約すると、
①𧏛の字は字書にない。
②『旧事紀』(聖徳太子と蘇我馬子による書とされたが、平安時代に作られた偽書と判明)の「訓黒貝」は𧏛貝→黒貝→訓黒貝と二重の誤写をしている。
③仮に黒貝が正しかったとしても、和名類聚抄で黒貝を貽貝(イガヒ)としているのは間違い。
④いろいろな可能性を考えたがうまくいかず、辛うじて思いついたのが蚶である。
 結局、延佳と宣長による判断が後世まで引き継がれ、現代の辞書にも「𧏛貝=蚶貝」説が採用されている。
 これで、𧏛が蚶を指すと判断した経過は分かったが、では実際このような誤写が起こり得るのか、実はもっと別の貝があったのではないかなど、疑問は残る。
 
【和名類聚抄に見る海蛤】
《見出し語海蛤の部分の原文》
海蛤 本草云海蛤一名魁蛤【和名宇無木乃加比】蘇敬注云亦謂之㹠耳蛤也
海蛤 本草云はく、海蛤、一(ある)ひは名を魁蛤【和名、宇無木乃加比(うむきのかひ)】。蘇敬注に云はく、亦(また)之(これ)を㹠[=豚]耳蛤と謂ふ也(なり)。
蘇敬…<維基百科(wikipedia中国語版)より>唐代の蘇敬(599~674)は657年『本草集注』の改修を願い出て、唐の高宗により22名の学者を与えられ『新修本草』を完成させた。</維基百科>という。
 和名類聚抄には、「」がつく貝として、「蚌蛤(はまくり)」「海蛤(うむきのかひ)」「文蛤(いたやかひ)」「馬蛤(まて)」の4種類が載っている。

【蛤貝比売の読み】
 出雲風土記に、枳(支)佐加比売(きさかひめ)という神が登場する。「枳佐加比比賣」とする写本もあり、これが、記の「きさ貝ひめ」と一致するので、宣長はこれらを同じ神であると考えている。 それでは、「~貝姫」は他にないかというと、宇武賀比売(うむがひめ)がある。
 宣長は、書紀で白蛤を膾(なます)に料理したものを「うむぎ」と呼ぶことと、和名抄で海蛤を「うむぎのかひ」とするところから「蛤貝比賣」を「うむぎひめ」としている。 また出雲国風土記の宇武賀比売と同じ神とも考えられ、もともとは「うむがひひめ」だったとも言われる。
 なお、同風土記で「…かひめ」と読める名前は、この二神以外にない。

【出雲国風土記の枳佐加比売命、宇武賀比売命】
 それではこれらは出雲国風土記では、どのような神として描かれるか。枳佐加比売命の話は特に面白いので、関連部分を全文引用する。
《枳佐加比売命》
 加賀郷と加賀神埼の節に、それぞれ枳佐加比売命の神話が載っている。
加賀神埼 即有窟 高一十丈許 周五百二歩許 東西北通 所謂佐太大神之所産生處也
所産生臨時 弓箭亡坐
爾時 御祖神魂命之御子 枳佐加比賣命 願 吾御子麻須羅神御子坐者 所亡弓箭出願坐
爾時 角弓箭随水流出 爾時 取之詔 此者非弓箭 詔而 擲廃給
又金弓箭流出来 即待取之坐而 闇鬱窟哉詔而 射通坐
即御祖 支佐加比賣命社坐此処
今人 是窟邊行時 必声磅礚而行 若密行者 神現而飄風起 行船者必覆
加賀の神埼:即ち窟(いはや)有り。 高一十丈(とをつゑ)許(ばかり)、周(めぐり)五百二歩(いほあまりふたあし)許。東西北に通ず。所謂(いはゆ)る佐太大神(さたのおほかみ)之(の)産生(う)まれし[所]処(ところ)也(なり)。
産生(うまる)る[所]に臨(のぞ)みし時、弓箭(ゆみや)亡(な)くし坐(ま)しき。
爾(しかくありし)時、御祖(みおや)の神魂命(かむむすびのみこと)之(の)御子(みこ)、枳佐加比売命(きさかひめのみこと)願はく「吾(あ)が御子が麻須羅神(ますらのかみ)の御子に坐(ま)さ者(ば)亡(な)くなしき[所]弓箭(ゆみや)出(い)でむ。」と願ひ坐(ま)しき。
爾る時、角(つの)の弓箭(ゆみや)水の随(まにま)に流れ出(い)で、爾る時 之を取り詔(のたま)はく「此(こ)者(は)弓箭に非(あら)ず。」と詔ひて[而]擲廃(なげう)て給(たま)ひき。
又金(こがね)の弓箭流れ出(い)で来たり。即ち待ち之(これ)を取り坐(ま)して[而]「闇(くら)く鬱(ふさ)がりてある窟(いはや)哉(や)。」と詔ひて[而]射(い)通(とほ)し坐しき。
即ち御祖(みおや)、支佐加比売命(きさかひめのみこと)の社(やしろ)此処(ここ)に坐(い)ます。
今の人、是(これ)窟(いはや)の辺りを行く時、必ず声磅礚(いかづちのこゑあ)げて[而]行(ゆ)くべし。若(も)し密(ひそか)に行か者(ば)、神現(あらは)れて[而]飄風(つむじ)起こし、行く船者(は)必ず覆(くつがへ)らむ。

 磅磕(礚)(ほうかい)…かみなりの音。
――雷の古語は「いかづち」なので、「いかづちの声上げて」と仮の訓をつけた。余談だが、「いかづちのこゑ」で検索をかけたら軍艦マーチの歌詞が出てきた。
 飄風(つむじ風)とは、回転構造を持つ風系のことで、竜巻あるいは、嵐(台風や低気圧)の風の回転を知っていたかも知れない。ここには島根半島沖が、海上交通の要所だったことが反映していると思われる。船が無事に通るためには、乗員が皆で雷のような大声を上げなければならないとされる。
 加賀の神岬には、2つの洞窟があり、そのうち新潜戸と呼ばれる海中洞窟は3つの入り口があり、内部はひとつになっている。それが「東西北通」と表現されている。
 物語の続きは、加賀郷の条に書かれる。

加賀郷 郡家西北二十四里一百六十歩。佐太大神所生也
御祖神魂命御子 支佐加比比賣命 闇岩屋哉 詔
金弓以射給時 光加加明也 故 云加加 神亀三年改字加賀
加賀郷(かがのさと):郡家(こほりのみやけ)の西北(いぬゐ)二十四里(はたあまりよさと)一百六十歩(ももあまりむそあし)。佐太大神の生まれし所也(なり)。
御祖(みおや)の神魂命の御子、支佐加比比売命(きさかひひめのみこと)「闇(くら)き岩屋(いはや)哉(や)。」と詔(のたま)ひき。
金の弓以ちて、射(い)給(たま)ひし時、光、加加(かか)明(あ)かきなりき[也]。故、加加と云ふ。神亀三年字を「加賀」に改む。

――「」のよみが「いはや」であることが、ここで確定する。
 暗黒の洞窟を黄金の矢で射ぬいたことにより、<松江観光協会のページ>夏至の頃、神潜戸に早朝お参りすると、的島あたりから昇る朝日の光は、一直線に洞内に射し込</松江観光協会のページ>むようになったという訳である。
 この洞窟の中で、支佐加比売命は佐太大神を生む。そのとき弓矢を無くし、もし、父親が正しく麻須羅神であったら、弓矢が出てくるだろうと願をかけた。最初に流れてきた弓矢は骨角製で、これは違うと言って投げ捨てた。 すると次に黄金の弓矢が流れて来たので手に取り、洞窟が真っ暗だと言って黄金の矢を射たところ洞窟が貫通し、明るい光が差したという。
 「かか」=「赤赤」で光り輝く様子を表す接頭語かと思って調べたが、辞書には接頭語とは認定していなかった。しかし「かか(が)やく」や「かがみ」などの語があるので、意味がつながっているように思われる。
 舞台は海中の洞窟であるが、貝と直接のつながりはない。
《宇武賀比売命》
 宇武賀比売命は、嶋根郡の法吉郷の条に載っている。
(嶋根郡) 法吉郷 神魂命御子、宇武賀比賣命、法吉鳥化而飛度、辞坐此処。故云法吉
 神魂命(かむむすびのみこと)の御子(みこ)、宇武賀比売命(うむがひめ)、法吉鳥(ほほきとり)と化(な)りて飛び度(わた)り、[飛ぶのを]辞(や)め此の処(ところ)に坐(い)ます。故(かれ)法吉(ほほき)と云ふ。
――法吉鳥は、ウグイスを指すと言われている。現在の法吉(ほほき)神社の旧社地は「鶯谷」と呼ばれていたという。
 こちらは、宇武賀比売命が法吉鳥に姿を変えて飛んできて、この地に降りたという。これも、貝の関係には触れられていない。

【生命を蘇らせる力をもつ貝】
 以上のように、二神とも貝とは無関係であるが、海岸地帯であるから、貝の採集をする人々の間で、「貝姫」としての言い伝えがあった可能性はある。
 貝殻と貝汁に秘められた神の力を前提として、出雲地方の「きさかひめ」「うまかひめ」という名前に近い名称の貝を選んだ印象を受ける。

【𧏛貝比売岐佐宜集而蛤貝比売持承】
 「持承」は写本によって相違があり、「待承」「持水」とするものもある。
 「承」は「承知する」、「受ける」、「うけたまはる」などが考えられる。
 そこで文脈を考えてみると、二神が「母乳汁」を製造する過程を分担して、𧏛貝比売は貝殻を細かく砕き、それを集める。蛤貝比売は□□する。 である。この□□が「持承」に当たるが、それでは実際どういう役割を果たしたのか。
 漢和辞典を見ると、「承」の別の意味に「命を救う」がある。しかし、命を救ったのは、蛤貝比売一人ではなく、二人で協力したのである。
 しかし、二神が最終的に薬を作ったことだけは間違いない。そこで「貝殻を原料とする漢方薬」を検索してみると、牡蠣の殻と肉汁がそれぞれ薬用にされてきたことが分かった。
 ちなみに、「グリコ」キャラメルは、1919年に創業者がカキの煮汁からグリコーゲンを採取して加えたことからスタートしたとされる。
 飛鳥、奈良時代に貝汁が薬として使われたのなら、「持承」は貝の煮汁または絞り汁を「手にった容器にける」とする解釈は可能である。
 しかし、ある校訂者は「持」が意味不明だったので、𧏛貝比売の作業を「待ち受けた」に直したのかも知れない。 だが、これでは働いたのは𧏛貝比売だけで、蛤貝比売は待つだけになってしまう。
 また「持水」については、汁は水であるから承を水に変えたかも知れないが、「承」を「水」の誤記とするのは、苦しい。
 いろいろ疑問はあるが、貝を原料として、母乳のような治癒力をもつ薬を作ったという大筋だけは確かであろう。

【神名と貝名の関係について】
 二神と貝の書き方が不明確である点について、本居宣長はニ説を上げている。
…𧏛貝比売・蛤貝比売は、𧏛貝・蛤貝そのもの差す。貝たちに、功績大として美名を与えたものである。
…「𧏛貝比売が《𧏛貝を》きさげ焦がし、蛤貝比売が《蛤貝の》水を用いた」という文の《 》内を省略したものである。
  (注) 宣長は「集」を「焦」の誤りとし、「持水」を採用している。
 宣長は、基本的に説を取るが、も捨てがたいとしている。
 しかし、説では、神産巣日之命が「お前自身の殻をくだき、体の汁を絞って提供せよ」と""に命じることになり、不自然である。 また、出雲国風土記の二神と同じとするのであれば、金の弓を射る人格神と海の貝とはかけ離れ過ぎていて、同一視は無理である。 既に【𧏛貝比売・蛤貝比売】の項で述べた通り、自然に読み取ればであろう。

【他の解釈の可能性】
 「母乳汁」は、実は牡蠣を原料とする薬の名前だとすると、貝の名前の迷宮から解放され、非常に解りやすくなる。
 牡蠣は固着生活に入ると筋肉が衰え、ほとんど内臓(特にグリコーゲンを蓄えた肝臓)だけになり、栄養豊かである。前述したように、殻、肉汁とも漢方薬になっている。 「きさぐ」は「割く」で、岩から生きた貝を剥ぎ取ってくる意味とすることができる。「きさぐ」も「さく」も下二段活用である。
 薬がよく知られたものなら、𧏛貝比売は牡蠣を岩から剥しとって集め、蛤貝比売はそれを受け取り、あとは製造工程を省略しても「母乳汁を塗る」と書いてあれば充分である。 つまり、ここに書いてあるのは製造工程ではなく、「原料の貝を岩から剥して集めてきた」、つまり採取作業だけである。 仕事をする神は、出雲国風土記の中から、貝と似た名の神が選ばれた。そして、神の名前は原料名とは無関係である。 このように考えれば、「きさ貝やうむきの貝が本当に薬になり得るのか?」という釈然としない気分から解放される。 また、「」を「」にわざわざ直す必要もなくなる。
 なお、出雲国風土記の提出は記の成立の後だから、正確には貝の神の名称は風土記以前の言い伝えによる。
 出雲国に近い牡蠣の産地は、現在は広島県であるが(但し養殖)、奈良時代は不明である。
 母乳汁が、実際に牡蠣から作られたかどうかはもちろん不明であるが、少なくとも人々に知られた薬が物語に登場し、 さまざまな貝の神が原料の採集と製造にあたったという解釈は可能である。
 
【母】
 「はは」は、上代には「おも」とも言った。試しに万葉集から拾い出してみると、「はは」を含む歌が73首、「おも」が10首あった。 面白いのは「父母」は「ちちはは」と読み、「母父」は「おもちち」と読むことである。
 個別に見ると「おも」は、主に幼児と母の感情を描く傾向が感じられる。 上代語「おも」は、「母」の呉音「モ」、朝鮮語の母「 어머니 (オモニ)」と共通性がある。 また、英語ではmother、ラテン語ではmaterである。 人が生まれて初めてコミニュケーションを取る相手が母である。言語として最初に獲得する発音[ma]が、母を呼ぶ語になったという法則が成り立つように思われる。
 一方「はは」は、「たらちねの母」のように、どちらかと言えば大人になってから懐かしく思い浮かべる場合であり、一定の距離感を感じさせる。
 ここでは「母の乳汁」そのものではなく、比喩的に「母の乳汁のような薬」と使うものなので、「はは」が相応しいと思われる。

【遣~令作活】
 と、使役動詞を二重に使用する用法は、第50回に触れた通りである。
 も実は使役動詞で、漢文本来の構文で「作大穴牟遅命活」(大穴牟遅命をして活きしむ)の意味である。これが𧏛貝比売岐・而蛤貝比売への命である。

まとめ
 今回の部分は、大穴牟遅が八十神に謀り殺され、悲しんだ母の努力によって復活する部分である。 内容的には、特に問題になるところはないと思われた。
 ところが、「𧏛貝比賣岐佐宜蛤貝比賣持承」が実は大問題であった。ここで使われている語句の多くは、よみ・語意とも辞書に載るレベルまで確定していない。 単に本居宣長による解釈が、慣習として引き継がれてきただけであった。
 これまでは、記だけで意味が取れないところも、日本書紀に別表現があればほぼ確定させることができた。また、誤写についても、長い歴史の中で、書紀によって誤りを正す機能が働いてきたと思われる。
 ところが白兎の後、赤猪の話も書紀に無視されて続けているから、どうしても解釈上の問題が残るのである。
 書紀に無視されているのは、どうやら、大穴牟遅が出雲の国の外でうろうろしていることが原因のようである。大国主命は、やがて広い範囲で国造りを始める。 ところが天照の勢力が国土を平らげる以前に、国土全体の支配者が存在していたことは、公式には認められないのである。

2014.04.07(月) [058] 上つ巻(大国主命3) 
於是 八十神見且欺率入山而
切伏大樹 茹矢 打立其木 令入其中
卽打離其氷目矢而 拷殺也

於是(ここに)、八十神(やそのかみ)見(み)て、且(また)欺(あざむ)き山に率(あども)ひ入りて[而]、
大(おほ)き樹(き)を切り伏せ、矢を茹(ひ)めて、其の木を打ち立て、其の中に入(い)ら令(し)めて、
即ち其の氷目矢(ひめや)を打ち離(はな)ちて[而]拷(たた)き殺しき[也]。


爾 亦其御祖命 哭乍求者得見
卽 拆其木而 取出活 告其子言

爾(ここ)に、亦(また)其の御祖命(みおやのみこと)哭き乍(つつ)求(もと)むれ者(ば)、得(え)見(み)ゆ。
即ち、其の木を拆(さ)きて[而]取り出(い)で活(い)けて、其の子(みこ)に告(の)たまひしく


汝有此間者 遂爲八十神所滅
乃 違 遣於木國之大屋毘古神之御所

「汝(いまし)此の間に有ら者(ば)、遂(つひ)に八十神に滅(け)たるる[所]と為(な)らむ。」と言(のたま)ひき。
乃(すなは)ち 違(たが)へ、木の国之大屋毘古神(おほやびこのかみ)之(の)御所(みところ)に[於]遣(や)りき。


爾 八十神覓追臻而 矢刺之時
自木俣漏逃而 云
可參向須佐能男命所坐之根堅州國
必其大神議也

爾(ここに)、八十神覓(ま)ぎて追ひ臻(いた)りて[而]矢刺(やざ)しし[之]時、
木の俣(また)自(よ)り漏(く)きて逃げて[而]〔御祖命告(の)たまひて〕云はく、
「須佐能男命(すさのをのみこと)の坐(いま)せし[之][所の]根堅州国(ねのかたすくに)参(まゐ)り向(む)かひ、
必ず其の大神(おほかみ)に議(はか)る可(べ)し[也]。」とのたまひき。


 八十神(やそかみ)はそれを見て、再び騙して、山に連れて行き、、
大樹を切り倒し、矢[秘密の支柱?]を秘めてその木を立て、その中に入るや否や その秘め矢を取り外し、拷(たた)き殺しました。
 そして再び、その御母の命(みこと)は泣きながら行方を捜したところ、発見できました。 すぐにその木を裂き、取り出して生き返らせ、その子にこのように言われました。
 「お前はこのままでは、最後に八十神に完全に消されてしまいます。」
 そこで逃れさせ、木の国の大屋毘古神(おほやびこのかみ)のいらっしゃる所に行かせました。
 それでも、八十神は行方を探し求め、追って行き、矢を向けた時、 木の股を潜り抜けて逃げ、御母の命はこうおっしゃいました。 「須佐能男命(すさのをのみこと)が御行きになった根堅州国(ねのかたすくに)にお向かいし、 必ずその大神(おおかみ)に相談すべきです。」


あどもふ(率ふ)…[他]ハ行四段(上代語) 声をかけて誘う。
…[動] くらう。ふくむ。つつみこむ。
うち(打ち)…[接頭] 必ずしも「打つ」意味を持たず、語調を整えるために使用する場合もある。
さく(放く、離く)…[他]カ行下二 遠ざける。
…[動] たたく。
…[動] 至る。
うす(失す)…[自]サ行下二 なくなる。死ぬ。紛失する。
けつ(消つ)…[他]タ行四段 消す。消滅させる。
くく(漏く)…[自]カ行四段 すきまをくぐりぬける。
…[動] もとむ。
もとむ(求む)…[他]マ行下二 手に入れようとして探す。まぐ?
やさす(矢刺す)… 矢を弓につがえる。
ひめや(氷目矢)…[名] <大修館書店『古語林』>記を割るときに割れ目に入れる楔のようなものかという。
いく(生く、活く)…[自]カ行四段 生きる。
いく(生く、活く)…[他]カ行下二 生かす。生き返らせる。
…[動] ①こふ(請う、乞う) ②あたふ(与う)
…[名](国字) また。

【率】
 万葉集で「」には次のような、さまざまな訓がつけられている。
  いざ…間投詞
  …間投詞(上代)
  あどもふ…(上代) 声をかけて誘う。
  ゐる…ワ行上一 引き連れる。
 その他、率爾(ゆくりなく)がある。
 「ひきゐる」は直接には万葉集にないが、「ひく(引く)」と「ゐる(率る)」の連語として形成されたと見られる。

【令入】
 「入(い)る」は、自動詞(現代語の"はいる")の場合は四段活用、他動詞(現代語の"いれる")の場合は下二段活用。
 使役の助動詞「令(し)む」は、動詞の未然形に接続する。 ここでは自発的に「はいる」よう促す意味だから、自動詞「いる」の未然形につないで「いらしむ」となる。

【離】
 万葉集では「」は、次のように訓読みされる。
  ひなざかる(鄙への枕詞)6例。さかる―14例。さく―4例。はなる―3例。さる―3例。かる―3例、はなつ―1例。わかる―1例。ゆく―1例。
 併せて、類似した「」の訓読みも調べてみる。
  ひなざかる―1例。さかる―4例。さく―21例。はなる―6例。さかる―6例。はなつ―7例。
 このように、距離が増えていく動き、あるいはその結果を表す。 ここでは、これまで接続していた器具が外される意味だから、「はなつ」が適当である。

【打ち離つ】
 「打ち」は接頭語で、「さっと」、あるいは特定の意味を持たずに語調を整える。
 「拷殺」も「うち殺す」と読むこともできるが、 「うち離ちてうち殺す」とすると「うち」には、軽くという語感があるので、「拷」の残酷さが薄められてしまう。

本居宣長の二つの説
A 楔を打ち込み、隙間に大穴牟遅神を入れる。
B 鎹(かすがい)を外すと大樹が倒れて、横に立たせた大穴牟遅神を拷殺する。
【切伏大樹~拷殺】
 この部分は理解しにくいので、なるべく精密に読み取ってみたい。
 最初に、「其の中に入れる」とはどこに入れるのかを考えてみる。可能性として、
   大樹を繰り抜き、内部に空間を作って入れる。
   幹に楔上の物を打ちこみ、隙間に体を入れさせる。
   「付近の樹木の間に立たせる」という意味である。
 が考えられる。
 は、「其の中に入れる」を最も直接的に表すが、その状態で「氷目矢を含め、離ちて殺す」がどういうことなのか解らない。
 については、本居宣長が「其(の)木の割りかけたる間(はさま)に入りしむなり」として、この説を支持している。 但し、宣長は「そんな広さのところに人が入るかという疑いがあるだろうが」として、 「特に根拠はないが、大穴牟遅の神の体が甚だ小さかった」と言う。だがそのすぐ後、「少彥名命を掌に乗せるから、そんなには小さくない」という割注をつけている。
 仮に、宣長の言う程度に体を小さくしても、ある程度の空間を作る楔が必要である。この幅厚の楔が、果たして「矢」と言えるであろうか。 またこれ以外に、宣長は別説として「大木の切断面を、鎹(かすがい)で留める。」を併記している。
 は、大木の周辺を「其の中」と言うかどうかが問題である。
 このように、何れも決め手に欠く。そこでもう一度、原文そのものを整理してみる。
  ● まず大樹について書いてあることは、切り倒される。打ち立てられる。被害者を救出するには拆(さ)かねば[または、折らねば]ならない。の3点である。
  ● また氷目矢については、秘められる。打ち離たれる。②の結果、大穴牟遅の神は拷殺される。の3点である。
  ● そして大穴牟遅の神は、「其の中」に入れられる。
 これですべてである。以上から確実なことは、次のX~Zである。
   ある「装置」が作られ、その装置を構成する2つの要素が、大樹と氷目矢である。
   この装置の中に、大穴牟遅の神が入れられる。
   この装置は、氷目矢を打ち離つことによって、大穴牟遅の神を拷殺する仕掛けである。
 以上のX~Zを満たす解を、求めればよい。
 その解を、飛鳥時代の人々の生活で、実際にあり得るものから探ることにして、 拷殺装置を、狩猟用の罠を応用したものであると仮定してみる。
 罠は、古くは縄文時代に遺跡が出土するという。もちろん狩りもしていたが、 罠は、それほどの労力を払わずに済むので、古くから使用された。 代表的なものが、落とし穴である。穴を掘り、底に杭を立てた遺跡がある。

 また他に、「圧殺罠(あっさつわな)」というものがある。 圧殺罠とは辞書によれば「戸板や丸太格子の上に岩石をのせ,一端を支柱で支えて地上に置き,餌にひかれて下に入った獲物を支柱をはずして圧殺する」ものとされる。 説明の通り図を書くと、右図のようになる。仮に大穴牟遅の神を殺した装置が、狩猟用の罠を大型化したものだとすれば、上記X~Zに合致するように思われる。巨大な丸太を使えば充分な重量があるので、岩石は必要ないだろう。
 これに近いのが度会延佳(江戸初期の神道家、国学者)の説である。宣長の引用によれば 「「切り伏せたる大木を、矢をもって支へ荷(もた)せて、仮に立つ」とある。
 さて、ここで問題になるのが、支柱に「矢」の名がつけられていることである。宣長は、木を立たせる支柱が『矢』であるわけはない(「大木を支え荷(もた)するものを、矢とはいうべくもあらず」)と言う。 しかしそれを言うなら、楔や鎹を氷目矢と言うのも、五十歩百歩であろう。
 試しに「矢」が、他のものの名称に用いる場合がないか探してみたところ、平安・鎌倉時代の牛車の部品「幅()」というものが見つかった。「幅(や)」とは、細い木で車輪と車軸を繋ぐ、自転車で言えばスポークに当たる部品である。
 もし圧殺罠の支柱を矢に準えれば、その矢は相手を騙す仕掛けの一部だから「秘めた矢=ひめ矢」という名称が理解できる。 小型の罠なら、本物の矢でも使えそうである。もしそれが「ひめ矢」の語源だとすれば、極めて合理的である。
 それでは圧殺罠説について、順に原文との対応を確認しよう。
 切伏大樹(大樹を切り伏す)=大木を切り出す。
 茹矢(矢を茹(ひ)める)=打立てた木に、氷目矢(支柱)を宛がう。
 打立其木(其の木を打ち立つ)=数本を束ね、縛って起こし、氷目矢で支える。岩石を載せてもよいが、丸太に十分な重量があれば必要ないであろう。 一人が氷目矢に繋いだ綱を持ち、身を隠す。
 令入其中(其の中に入ら令む)=大穴牟遅の神を、起こした丸太の下に誘導する。つまり、「其の中」とは「罠の中」である。
 卽打離其氷目矢(即ち其の氷目矢を打ち離つ)=罠の下に誘導したところで、合図を送る。担当の者は合図を受け、縄を引き氷目矢を外す。
 而拷殺也(拷(たた)き殺しき)=丸太が落下し、大穴牟遅の神を圧殺する。
 拆[折]其木而取出(其の木を拆きて[折りて]取り出(い)でき)=この状態で救出するためには、木を拆(さ)いて[折って]取り除かなければならない。

 以上のように、圧殺罠説はX~Zを比較的うまく説明できる。 少なくとも、宣長の説のように大穴牟遅の神を小人にするよりは現実味がある。当時の圧殺罠の支柱の名称が「氷目矢」であったとすれば、聴衆はこの文章のままで理解できるであろう。 もしも、小型の圧殺罠の遺跡から本物の矢が出土すれば、この説は決定的になるであろう。
 
【拆其木・折其木】
 写本によって、があるようだ。現在一般の研究者によって、どちらが選択されているか調べてみる。 ネット上で検索してみると、即拆其木…10件、即折其木…6件である。(注)
 辞書で意味を確認すると、
…分ける。裂ける。開く。
…曲げて断ち切る。折り曲げる。
 宣長は、楔説には「拆」、鎹説には「折」が合うとする。
 物理的に表現すれば、円柱を割るとき、断面が円柱の底面に垂直だと「拆」で、平行だと「折」である。被害者の上の木材を取り除こうとして割る場合は、どちらもあり得るだろう。
(注)…yahooの検索結果は、検索ワードを完全な形で含むページが上位に表示され、その後に、分解したものや、一部を含むものが続く。 ここで数えたのは、検索ワードを完全に一致するものと、句読点を入れた「即、拆其木」、返り点を入れた「即、拆其木」の範囲まで加えた件数である。

【求】
 万葉集に出てくる「」を洗い出したところ、現在の解釈ではすべて「もとむ」と訓まれている。逆に、万葉仮名で書かれた「まぐ」のうち、「求ぐ」を宛てるべきものは皆無であった。 よって、「求」を特に「まぐ」にする理由はないと思われる。

【取出活】
 「いく」は他動詞で「生き返らせる」。宣長は「この度(たび)も前の如く、活かす方術(わざ)ありけむを、其(そ)は伝えざりしなるべし。〔今回も何らかの方法で生き返らせたのであろうが、今回はその方法は書いていない。〕と指摘している。

【此間】
 この場合、「ま()…[名] 一定の時間。期間。」に該当し「危険がずっと続く日々」という意味であろう。

【為八十神所滅】
 「」は受け身の意味を伴いながら「」を名詞化する。実行主は「所」の直前の「八十神」。「為」は形式動詞で、英語の"does"に相当する。 「八十神によって滅ぼされる所をなす。」

【違(たが)へ】
 このままではまた殺されるから、行動を変えようと言う意味であろう。現代語訳は「逃れさせ」とした。
 ここでも写本によって「」が「」になっている場合がある。これも、それぞれのネット上の引用数を比較すると、
 乃速遣於木國…11、乃違遣於木國…10(注…同上)となっている。
 「速」は、形容詞「すみやか」と、動詞「呼び寄せる」である。
 辞書によれば、「速」は副詞(「急いで」)にはなり得ない語なので、この場合は「手許に呼び寄せ」という意味になる。

【木の国】
 木の国が紀伊国のことだとすると、これまでの出雲国・伯耆国・因幡国から突然遠距離を移動して紀伊国に来て、この後また出雲国内の根堅州国まで行くので、その経路はかなり不自然な印象を受ける。
 そこで、第54回で引用した、書紀「素戔鳴尊、自天而降到於出雲國簸之川上」の段の一書4・一書5をもう一度見てみる。
 一書5では、須佐能男命の3人の子(五十猛の命、大屋津姫の命、枛津姫の命)が、森林の種を全国に蒔き、紀伊の国で祀られたとある。 このことは、やはり「紀伊の国」の国名の由来が「木の国」であることを示唆する。
 木の国に来た大穴牟遅の神が、三たび八十神に追い詰められたとき、今度は木の俣を潜り抜けて逃れることができた。 木の国は文字通り森林の国であり、木の俣には、霊力が宿ると思われる。
 第54回で述べたように 出雲国から一部の集団が古く木の国に移住したのかも知れない。

【大屋毘古神】
 前項で取り上げた一書5を根拠に、本居宣長は大屋毘古神は紀伊国の五十猛命と同一神だとしている。ただ大屋毘古神は、かつて伊邪那岐命と伊邪那美命が生んだ神のうちの一柱にもいる。 それぞれ親が違うから、<wikipedia>同名の二柱の神がいる</wikipedia>とされることもある。

【矢刺乞・矢刺之】
 これも写本によって、「乞」と「之」がある。現在どちらが重視されているか、検索して引用頻度を調べると、
 臻而 矢刺乞…19件、臻而 矢刺之…4件であった。(注…同上)
 ここで「乞」の使い方を見ると、他の場所では必ず、目的語を伴うか、省略された場合でも内容は明確である。 ここでは目的語は、大穴牟遅の神の命(いのち)であるが、 それ奪う前に、大穴牟遅、母、大屋毘古神の何れに対しても、「お願いする」ことなど必要としない。 そもそも、弓矢を構えてからお願いするのは、不自然にすぎる。
 字形から「之」と「乞」の読み誤りはありそうなので、ここは「之」の筆写ミスであろう。

【逃而云】
 「」の主語は、次の段の最初に「故隨詔命」とあるから、その詔命を大穴牟遅の神に与えた御祖命である。 従って、ここでは「云」の前に、「御祖命告」を補うべきである。

【須佐能男命所坐之根堅州国】
 これまでの例では、「"所"+動詞+"之"」は、動詞の連用形+「し」(完了の助動詞「き」の連体形)である。 「坐」は「有り」の尊敬語であるが、「行く」「来」の尊敬語でもある。完了の助動詞がついていれば、「行く」でないと辻熊が合わない。 従って、「須佐能男命が(現在)いるところの根堅州国」ではなく、「須佐能男命が(過去に)行ったところの根堅州国」となる。
 実質的な意味は同じであるが、原則の適用範囲か例外かを、その都度押えておくことが大切である。
 さて、須佐能男命の最終的な行き先は、記では根之堅洲国、書紀では根国である。
 記では、伊邪那岐命が活動していたころ、本人が「欲罷妣国根之堅洲国」(第44回) つまり根の堅洲国へ行きたいと言った。
 最後は、八百万の神によって「神夜良比夜良比岐」(第51回)つまり、追放されるが、 その途中で寄り道をして、八岐大蛇を退治して須賀の宮に行き、6世の孫として大国主命が生まれる。その後、足取りは消える。
 やがて、大国主命が葦原中国でいろいろな目に遭っている間に、いつの間にか根堅州国に来ている。
 一方、書紀本文には、素戔嗚の尊は清(すが)の宮で、その子として大己貴神を生み、直ちに「遂就於根国矣」(とうとう根国に行った)と書いている。 (第55回)

【参向】
 辞書を見ると、「参り(まゐり)~」の語に、
  参り通ふ、参り来、参り着く、参り集う、参り寄る、参り渡す。
 があるのを見ると、「参り」は接頭語のように使われ、動詞を謙譲語にする機能がある。
 「向」のよみ方については、「向く」が、回転するだけで位置の移動がないのに対し、 「向かふ」は、位置を移動する意味もある。ここでは根の堅州国に出かけるから、「向かふ」の方である。

まとめ
 大国主命は、しばらく天照大御神との国土争奪戦から離れて諸国を旅している。 この機会に、今回の段落で突き当たったいくつかの問題を通して、古事記を読む作法を考えてみたい。
氷目矢の考察から》
 言葉面から考えようとしても迷宮に陥る場合は、「人間の生活の有り様が、神の世界に反映される」 法則を適用すれば、解決の鍵が得られる可能性がある。今回は氷目矢の解明のために、狩猟用の罠を糸口にした。
の読みから》
 改めて考えてみると、もともと和文の古事記なるものは存在せず、和風漢文の古事記が全てである。
 今日、一般に「古事記」として知られる和文は、辞書にも頻繁に引用されたりするが、江戸時代に、もし飛鳥時代だったらこの単語を使ったであろうと想定して書き下したものである。長年の研究に基づくとは言え、本質的に「上代語もどき」である。 結局「古事記」原文と、和文「古事記」は、別物である。本居宣長の選んだ訳語には、必ずしも原文の語感を表し切れない箇所がある。 編者の太安万侶自身、漢文の訓読は一義に定まらなくてもよいと考えていた節がある。漢文でどうしても意が表せない部分だけ万葉仮名を用いたと、序文に書いている。
 正確な文意は研究結果を学びつつ、訳語を通してではなく、漢文から直接受け取るべきである。但し、純正の漢文ではなく特有の日本語用法を含むので、その約束事に注意を払わなければならない。
乞-之違-速拆-折
 写本による不一致が、これだけあった。前回にも書いたように、書紀との重複がない部分には訂正機能が働かないのである。


2014.04.12(土) [059] 上つ巻(大国主命4) 
故隨詔命而 參到須佐之男命之御所者
其女須勢理毘賣出見 爲目合而 相婚還入
白其父言 甚麗神來
爾 其大神出見而 告此者謂 之葦原色許男

故(かれ)、詔命(おほせこと)の隨(まにま)にして[而]、須佐之男命(すさのをのみこと)之(の)御所(みところ)に参到(まゐた)れ者(ば)、
其の女(むすめ)須勢理毘売(すせりひめ)出(い)で見て、目合(まぐはひ)を為(し)て[而] 相(あひ)婚(よば)ひて還入(かへりい)りき。
其の父に白(まを)し言はく「甚(いと)麗(うるは)しき神来(き)たり。」とまをし、
爾(ここに)其の大神(おほみかみ)出(い)で見(み)て[而]此の者に告(のたま)はく「之(これ)葦原色許男(あしはらしこを)なり。」と謂(のたま)ふ。


卽喚入而 令寢其蛇室
於是 其妻須勢理毘賣命 以蛇比禮【二字以音】授其夫 云
其蛇將咋以此比禮三擧打撥
故 如教者 蛇自靜
故 平寢出之

即ち喚(よ)び入れて[而]、其の蛇(へみ)の室(むろ)に寝(い)ね令(し)めき。
於是(ここに)、其の妻(つま)須勢理毘売命、蛇(へみ)比(ひ)礼(れ)を【二字、音(こゑ)を以ちゐる。】を[以]其の夫(つま)に授(さづ)けて云ひしく、
「其の蛇(へみ)[将]咋(か)まむとせば、此の比礼(ひれ)を以ちて三(み)たび挙(ふ)き打ちて、撥(はら)へ。」といひき。
故(かれ)、教(のり)の如(ごと)くすれ者(ば)、蛇(へみ)自(みずから)静(しづ)まりき。
故、平(たひら)ぎ寝(い)ねて、之(ここ)ゆ出(い)でき。


亦 來日夜者 入吳公與蜂室
且 授吳公蜂之比禮 教如先
故平出之

亦(また)日夜(ひるよる)の来たれ者(ば)、呉公(むかで)与(と)蜂(はち)との室(むろ)に入りき。
且(また)、呉公蜂之比礼(むかではちのひれ)を授(さづ)け、先(さき)の如(ごと)く教(をし)へ、
故(かれ)、平(たひら)ぎて、之(ここ)ゆ出(い)でき。


亦 鳴鏑射入大野之中 令採其矢
故 入其野時 卽 以火廻燒其野

亦 鳴鏑(なりかぶら)を大野(おほの)に射(い)入(い)れし[之]中に、其の矢を採(と)ら令(し)め、
[故] 其の野に入(い)りし時、即ち火を以ちて其の野を廻(めぐ)り焼きき。


於是 不知所出之間 鼠來 云
內者 富良富良【此四字以音】外者 須夫須夫【此四字以音】如此言故、
蹈其處者 落隱入之間 火者燒過
爾 其鼠咋持其鳴鏑 出來而奉也
其矢羽者 其鼠子等皆喫也

於是(ここに)、出(い)づる所を不知(しらざ)りし[之]間(ま)、鼠(ねずみ)の来て云ひしく、
「内(うち)者(は)富良富良(ほらほら)【此の四字、音(こゑ)を以ちゐる。】、外(と)者(は)須夫須夫(すぶすぶ)【此の四字、音を以ちゐる。】と、如此(かく)言ひき。
故(かれ)、其処(そこ)を踏め者(ば)、落ちて隠り入りし[之]間、火(ほ)者(は)焼き過ぎつ。
爾(ここ)に其の鼠、其の鳴鏑を咋(く)ひ持ち、出(い)で来て[而]奉(たてまつ)りき[也]。
其の矢羽(やばね)者(は)、其の鼠の子等(ら)、皆喫(く)ひき[也]。


 そして、〔御母の命の〕仰せに従い、須佐之男命(すさのをのみこと)の御所に伺ったところ、 その息女、須勢理毘売(すせりひめ)が出てきて、一目でお互いを気に入り結婚し、家の中に戻り、 その父に「とても麗しい神が来ましたわ。」と申し上げました。 ところが、その大御神は見に出て、この男にこう仰いました。「お前は、葦原色許男(あしはらしこを)である。」
 そしてすぐに招き入れて、御所の蛇室(へびむろ)で寝させました。 そのため、その妻の須勢理毘売命は、蛇ひれ[=魔よけの布]を夫に授けて言いました。 「蛇があなたを噛もうとしたら、このひれを三度振り降ろして鎮めなさい。」 そこで教えられた通りにすると、蛇は自ずと静まりました。 その結果、安らかに眠り、この部屋をでました。
 翌日、また夜が来て、むかでと蜂の室(むろ)に入れられました。 また、むかで蜂のひれを授けられ、前と同じように教えられましたので、 無事に、ここを出ました。
 また 鳴鏑(なりかぶら)が広野に射入れられた中に、その矢を取りに行かされました。 そしてその広野に入るや否や、火をその野の周囲に放ち、燃やしました。
 そのため、出口を見付けられずにいると、鼠が来て言いました。 「内はホラホラ、外はスブスブ。」このように言いましたので、 その場所を踏んだところ下に落ち、隠れている間に、火は燃え過ぎていきました。 すると、その鼠が例の鳴鏑を咥え持って出てきて、お渡ししました。
 その矢羽の部分は、その鼠の子ども達皆で食べてしまっていました。


まゐりつく(参り着く)…[自]カ行四段 (謙譲語)貴人のもとに到着する。
みこ(御子、皇子、皇女)…[名] 天皇の子または孫の敬称。男女ともにいう。
みゆ(見ゆ)…[自]ヤ行下二 自然に目に入る意。見える。
まぐはひ(目合ひ)…[名] ①目と目を合わせ、愛情を通わせること。②性交。結婚。
うるはし(美し、麗し、愛し)…[形]シク 立派だ。美しい。
もの(物、者)…[名] 人より低い存在として見る言い方。
しこ(醜)…[名] (多く接頭語のように使う)①武骨で力が強いこと。②醜い。
さづく(授ける)…[他] 目上から目下に与える。
へみ(蛇)…[名] (上代語) へび。
くちなは(蛇)…[名] へび。
ひれ(頒巾、肩巾)…[名] 平安時代初期まで用いられた装飾用の布。首から肩にかけて左右に垂らした細長い布。 魔よけの力があると信じられ、別れの時にこれを振った。
…[動] かむ。くらう。
をさむ(治む)…[他]マ行下二 心を平静にする。
蜈蚣(ごこう)…[動] むかで =呉公
なりかぶら(鳴鏑)…[名] 矢の先端につける発音用具。鏑矢(かぶらや)。木,鹿角,牛角,青銅などで蕪(かぶら)の形につくり,中空にして周囲に数個の小孔をうがったもの。矢につけて発射すると,気孔から風がはいって鳴る。
おほの(大野)…[名] 広大な野原。
いる(射る)…[他]ヤ行上一 (例)万葉集1-61「射る的方は」
もとほす(廻す)…[他]サ行四段 巡らす。
すぼし(窄し)…[形] すぼんで細い。
ほら(洞)…[名] 土・岩・古木などにある自然の穴。居住に使われるくらい広いものもある。
おつ(落つ)…[自]タ行下二 上から下へ落ちる。
かくる(隠る)…[自](上代)ラ行四段、(後に)ラ行下二段 かくれる。
…[動] ①大声で騒ぎたてる。②かむ。くらう。
くふ…[他]ハ行四段 食べる。くわえる。
くはふ(銜ふ)…[他]ハ行下二 〈平安以後〉口に軽く挟んで持つ。
…[動] 食物を口に入れ、砕いてから飲み下す。
まつる(奉る)…[他]ラ行四段 「与ふ」の謙譲語。

【万葉集に見る訓】
…13-3330に「麗妹爾(くはしいもに)」がある。「くはし」はこまやかで美しい意。形容の対象は妹である。「」(うるはし)も多数ある。04-543の「愛夫者(うるはしづまは)」は、夫を称えている。
…動詞としては、「たひらけく」「たひらぐ」が多い。多く場合、大王(おほきみ)が主語なので、天下を平定するという意味であるが、もともとは「しずまる」「たいらにする」の意味。その他のよみに、「ならす(均す)」もある。
…大部分は「摘む」で、その他に「とる」もある。
…02-199に「もとほる」(自動詞)がある。その他動詞は、「もとほす」である。
…「つかふ」「まつる」と読まれる。

【須勢理毘賣】2021.2.12付記
 「毘賣」は、ビメまたはヒメと発音される。ある検索サイトで検索をかけると、
 ・「"須世理毘賣" "スセリヒメ”」…50件。「"須世理毘賣" "すせりひめ”」…59件。
 ・「"須世理毘賣" "スセリビメ”」…57件。「"須世理毘賣" "すせりびめ”」…79件。
 このようになっており、濁音がやや優勢である。ちなみに毘は、呉音、漢音。音仮名としては両方に使われている。
 なお、「比賣」については、ヒメ=17700件、ビメ=257件で、清音が圧倒的である。比・毘・毗の発音は基本的に同一であることを考えると、不思議である。 「毘沙門天」は確実にと読まれるから、これが影響しているのかも知れない。

【和名類聚抄】
 …『孫愐切韻』云(いはく)、蛇【食遮反(注)。和名、倍美(へみ)。一云(あるひはいはく)、久知奈波くちなは)。 『日本紀私記』云、乎呂知(をろち)。】毒虫也。
 蜈蚣…『兼名苑』云、蜈蚣【呉公の二音】一名、【疾梨の二音】一名、百足【和名無加天(むかで)】
 を附す】…『説文』云、【峯帯の二音。和名、波知(はち)】人を螫(さ)す虫也。『四聲字苑』云、【音范】蜂の子也。
 …『四聲字苑』云、鼠【昌與反(注)。和名、禰須美(ねすみ)】穴居小獣、種類多物也。
 (注)…発音表記。
 倍美の「美」の下の「大」は「火」になっている。「」(部首は羊、下は火)は子羊のことで、音は「こう」である。 資料は江戸時代の刊行物の写真製版である〔風間書房;1962〕。 だが、よく見ると、禰須美では「美」の下はで、右の点が右下がりである。他でも右下がりが多い。「炎」のは、右の点が左下に向かってはねている。 従って、の下は、本来火ではなく大だと思われる。 「」は、どこでも明らかに「み」と読むために使われている。

【詔命】
 逆転して「命詔」とすれば、そのまま「みことのり」と読める。意味は天皇の言葉だが、神世では格上の神から格下の神への言葉として使われる。
 もともと、詔は単独でも「みことのり」で、命は「みこと」であるから、詔命も「みことのり」と読むと思われが、 語順を気にするなら、詔を命への連体修飾語として「のたまひしおほせごと」も可能か。

【葦原色許男】
 「」は、醜女(しこめ)など、醜いという意味と共に、猛々しさを称える意味もある。
 文脈を追うと、須勢理毘売が「いと麗しい男が来たわ」と嬉しそうに話すのが、父親としては面白くない。 そこで「ふん、葦原中国(=全国)有数の不細工な男が来たもんだ。」と皮肉を込めて、ニックネーム「葦原色許男」をつけた。
 これが尊称に転じて、大国主の命の別名のひとつとなった。神においては醜(しこ)も神性に高められ、力士名を四股名というのはそこから来ているといわれる。

【爾】
 本居宣長は、接続詞「」を機械的に「かれ」と訳すが、ここのは、逆接の「しかるに」「しかれども」だと考えられる。
 は本来は代名詞で、二人称(あなた)、三人称(そのように)である。 日本語の接続詞「しかるに」は「しか(副詞)+ある(「あり」の連体形)+(接続助詞)」の連語で、このうち「しか」が「」の意味と一致する。 ただし「」を接続詞とする使い方は、論語など中国古典には見られないばかりか、書紀にもない。

【鳴鏑射入大野之中】
 目的語「鳴鏑」が、動詞の前に置かれているとすれば抵抗なく「鳴鏑を大野の中に射入り」と読める。 しかし、本来の漢文なら、目的語を動詞の前に持ってくる場合、於や于をつけ「於鳴鏑射入」とすべきである。
 ただ漢文では文脈のみによって受け身を表すこともあるので、「鳴鏑が大野に射入られた」と解釈するのは可能である。 鳴鏑が主語であることを示すために「の」を使おうとすると、格助詞「の」は連体修飾句の中で使う場合が多いので、 「鳴鏑射入大野之」が「中」を連体修飾することにする。即ち「鳴鏑の大野に射入られし中」とする。

【不知所出之間】
 「出づる所を知らざりき」が、連体形(ーし)となって、「間」を連体修飾する。きは完了の助動詞で「せ、〇、き、し、しか」と活用する。
 漢文としては、は助詞で<全訳漢辞海>連体修飾語と被修飾語との間に置き、修飾の関係にあることを明らかにする。訓読の語調から「之」を置き字として読まないこともある。</漢辞海>
 一方、万葉集では、は、連体修飾語の末尾に置いて「し」と読ませることが多い。(は、他には「が」「の」と読む場合がある。)
 記では、文法的には漢文の助詞であるが、敢えて「し」と発音するとうまくいく場合が多い。つまり、漢文における連体修飾の助詞と、和文における完了の助動詞の連体形を兼ねている訳である。

【内はほらほら、外はすぶすぶ】
 「ほらほら」「すぶすぶ」と、鼠は謎の言葉を話す。その言葉は人間の幼児語のようである。 謎解きをすれば、鼠の住む世界は入口は狭い(窄し)が、地下に広い空洞(洞=ほら)があるよと、知らせている。 連想されるのは、「おむすびころりん」である。民話「おむすびころりん」では、おむすびが落とした穴から声がしたので、入っていくと鼠の世界があった。
 <wikipedia>この昔話のような鼠の世界が地中にあるとする観念は、古くからあり室町時代物語の『鼠の草子』や『かくれ里』にも克明に描写されている</wikipedia> という。記にそれがあるということは、「鼠の世界の観念」は、室町時代よりずっと以前、少なくとも飛鳥時代まで遡ることになる。
 さて、火に囲まれて逃げ口を探す大穴牟遅の神のところに、鼠がやってきた。その言葉を聞き、穴に足を踏み入れると地下の世界に落ちた。そこにしばらく潜んでいる間に、地上の火をやり過ごすことができた。
 その後、鼠が鳴鏑をくわえて届けてくれた。しかし、その矢羽の部分は、鼠の子どもたちに食い尽くされていたという、落ちがついている。 この可愛らしい話は、幼児向けである。子供向けの話を入れる意義は、因幡の白兎のところで書いた通りである。

【其矢羽者其鼠子等皆喫也】
 漢文でも、日本語の「今日は天気がよい。」のように、「主語」が2つある、大主語―小主語―述部の構造があり得る。正式には「主術構造(小主語+述部)が大主語の述部になっている。」と説明される (日本語文法でも、「」がつくのは主語とは言わず、主題だとされる)。 大主語は、「この海老は、私が食べる」のように動詞の目的語を表す場合があり、今回はその一例である。
 また〖鳴鏑〗の項で、文脈的に受け身と判断される場合があると述べた。今回もそのように解釈すれば、主語―実行主―受動的な述部という構文になる。
 次に、子等皆喫について。宣長は、子ども全員が協力して矢羽の部分をくわえ、支え持ったと読み取っている。 しかし、矢羽は、子等に食いつくされたと読むこともできる。ここで気をつけたいのは、の使い分けである。 の第一義は噛むだけ、の意味は口に入れたものを胃袋まで収めるという点で、区別される。 文学的にも、矢羽の部分が、まだ道理を知らない子鼠たちに食い尽くされて、跡形もなくなったと読んだ方が面白い。
 記は、全体として感性を刺激する表現に満ち満ちているので、ここでもその方向で読むことにしたい。即ち、皆=矢羽、構文=受動文として「矢羽は残らず、食い尽くされてしまった。」と読む。 このようにして、この文をこの小物語の落ちとして受け取ることにする。

【「因果応報」】
 かつて手間山で焼き殺されたときは貝に救われ、今回は鼠に助けられた。 どうやら因幡の白兎を救った善行が、大穴牟遅の神の身に還ってきたようである。
 仏教の「因果応報」の考えが影響しているように思われる。

【須佐之男命の性格】
 須佐之男命は、久しぶりに登場し、もともとの乱暴な面を見せる。 その住居には、蛇の部屋、百足と蜂の部屋というとんでもない部屋があるが、それは黄泉の国に家があるからかも知れない。
 一面で、若者に課した通過儀礼ともとれ、大局的には婿に対する愛情が感じられる。 根はやさしいが、情緒不安定で時々乱暴をはたらくという性格は、そのままである。

まとめ
 子鼠の行動について、本居宣長が、子鼠が親鼠に従い良い行いをしたと受け止めた背景には、江戸時代の儒教思想がある。 宣長は、古事記を古代の完全な書物として、ひれ伏して受け取る。だから、鼠の親子から儒教道徳を見ようとするのである。
 しかし実際に記が書かれた時代は、民衆の精神はおそらく江戸時代よりずっと自由であった。 私は、天平時代の仏像からは当時の人々の自由な息吹を感じるのであるが、平安後期から室町になると、仏像が随分むずかしい顔になったと感じている。 天武天皇の国づくりの課題は、気ままに行動し自由な方向を向いていた民衆に、国民として統制・秩序を覚えさせるところにあった。
 これまで繰り返し述べてきたように、古事記は、そんな気ままな民衆への教化の書である。 その入り口から道徳を説いても、誰も寄ってこない。まず、惹きつけることが大切である。だから、鼠の家族についても親の心子知らずの面白い話を盛り込み、特に子供を集めようとしたのである。
 記の文意の読み取りについても、これまで漢文としての文法に従う。 特有の日本語用法については、法則を明確にして適用する。ことを原則にしてきたが、 新たに民衆を引き付ける書としての観点から、文学的に表現が豊かになる方向に解釈する。を加えたい。


2014.04.18(金) [060] 上つ巻(大国主命5) 
於是 其妻須世理毘賣者 持喪具而 哭來
其父大神者 思已死訖出立其野

於是(ここに)其(そ)の妻(つま)須世理毘売(すせりひめ)者(は)、喪具(ものそなへ)を持ちて[而]哭(な)きつつ来たり。
其の父大神(おほかみ)者(は)、已(すで)に死にせりと思ほし、訖(つひ)に其の野に出(い)で立たしき。


爾 持其矢以奉之時
率入家而 喚入八田間大室而
令取其頭之虱

爾(ここに)、其の矢を持ち、以ちて奉(たてまつ)りし[之]時、
家(いへ)に率(あども)ひ入れて[而]、八田間(やたま)の大室(おほむろ)に喚(よ)び入れて[而]、
其の頭之虱(しらみ)を取ら令(し)めたまひき。


故爾見其頭者 吳公多在
於是 其妻取牟久木實與赤土授其夫

故(かれ)爾(ここに)其の頭(かしら)を見れ者(ば)、呉公(むかで)多(さは)に在りき。
於是(ここに)其(その)妻(つま)牟久(むく)の木の実(このみ)与(と)赤土(あかつち)とを取り、其の夫(つま)に授(さづ)けき。


故 咋破其木實含赤土唾出者
其大神 以爲咋破吳公唾出而
於心思愛而寢

故(かれ)其の木の実を咋(か)み破り赤土を含(ふふ)みて、唾(つは)き出(い)づれ者(ば)、
其の大神、呉公(むかで)を咋み破りて唾(つは)き出(い)づると以為(おも)ほして[而]、
心に[於]愛(は)しと思ほして[而]寝(い)ねにけり。


 このようにして、その妻須世理毘売(すせりひめ)は、喪の備えを持ち、泣きながらやって来ました。 その父の大神{、須佐之男命}は、{婿が}すでに死んだかとお思いになり、とうとうその野に出て、立っておられました。
 ところが、その矢を手に入れ、このようにしてお持ちしたので、 家に招き入れられ、八咫間(やたま)の大きな室(むろ)[厚く塗り固められた壁の部屋]に呼び入れられて、 その頭の虱(しらみ)を取るよう命じられました。
 そこで、その頭を見たところ、百足がいっぱいおりました。 そのため、その妻は椋(むく)の木の実と赤土を取り、その夫に与えました。
 そして、その木の実を噛み破り、赤土を口に含め、唾とともに出しましたところ、 その大神は、百足を噛み破り、唾とともに出したとお思いになり、 心から愛(いと)おしく思われ、眠りに入られたのでした。


ムクノキの実
おもほす(思ほす)…[他]サ行四段 思ふの尊敬語。
…[動] 終わる。[副] ついに。
たたす(立たす)…[自] (上代)立つの尊敬語。
よびいる(呼び入る)…[他]ラ行下二 声をかけて招き入れる。
やた(八咫)…[名] 大きい。長い。
むく(椋、樸樹)…[名] 実は食用とする。
…[動] ①つばを吐く。②物を口から吐く。
つはく(唾吐く)…[自]カ行四段 唾を吐く。
あか-…[接頭] むきだしの。
あか(赤)…[名] 赤色 
つち(土、地)…[名] ①大地。②土くれ。
やぶる(破る)…[他]ラ行四段 壊す。砕く。損なう。
ふくむ(含む)…[他]マ行下二 口の中に入れる。
はし(愛し)…[形]シク いとしい。
さはに(多に)…[副] たくさん。

【万葉集に見る訓】
《家》
 家(いへ)143例。吾家(わぎへ=わが+いへ)など、連語数例を含む。 なお、万葉仮名として音読みした、家(け)は無数にある。
《室》
 いはや(岩屋)、やど(室戸)
 固有名詞に使われ、「むろ」と読むもの(三室(みむろ)山、室(むろの)木など)、 普通名刺としての室(むろ)
《愛》
 はし10、うつくし、うるはし、めづ、まなこ(愛子)

【和名類聚抄より】
《虱》
蟣虱…『説文』云蟣【音幾。和名木佐々】虱子也。虱【所乙反。和名之良美】齧人虫也。
 熟語を分解して、蟣(きささ)は虱の子、虱(しらみ)は人を齧る虫であると説明している。
…[名] ①シラミの卵(一説にはシラミの幼虫)。② ヒル。…[動] かじる。
 おそらく、蟣虱も「しらみ」と読むのであろう。

【喪具】
 須世理毘売は、夫がもう死んだと思い、喪具を用意して野に出た。それでは、記が書かれた飛鳥時代の喪具とは、どのようなものであろうか。
 和名類聚抄には喪具あるいは葬具という項目はないが、「祭祀具」がある。そこには、、
《十三巻》祭祀具第七十二…木綿(ゆふ)、龍眼木(さかき)、蘿鬘(ひかげかづら)、幣帛(みてくら)、注連(しりくべなは)、他。
 がある。これらは、天照の天の岩戸立て籠もり事件のとき、祭祀で使われたのと( 第49回第50回参照) 一致するものが多い。
 葬儀は、祭祀の一種である。参考のために現代の神式の葬儀を調べたところ、祭壇を設置し米、水、塩、故人の好物などを供え、玉串(榊に紙垂(しで)を付けたもの)を奉じるなどとあった。
 「喪具」は、以上のように祭祀用品のほか、親族の喪であることを示す装飾品などが想像される。

【持其矢以奉之時】
 「」は、ここでは接続詞で、2つの文を原因・結果の関係で繋ぐ。持其矢が原因で、奉之が結果である。
 「」には、やっとの思いで手に入れたものを「持っている」という意味合いが含まれている。 「(まつ)る」は、「与ふ」の謙譲語。 「」は「其矢」を受ける指示代名詞であると同時に、助動詞「き」の連体形「」を読ませると考えられる。

【八咫間の大室】
…[名] ①岩屋。②僧の住居。③家の奥に、壁などを塗り込めて作った部屋。④氷室など。
…[名] ①家、部屋。②屋根。
 黄泉の国に住む大神の寝室として、厚い壁で塗り固められた、神聖な空間を想像させる。 ただ、次の段で頭髪を垂木に結ぶ話がでてくるので、家自体は木造の家屋である。従って、大室はその一室である。
 大室については中巻(なかつまき)で、神武天皇が忍坂で尾の生えた土蜘蛛たちを饗応し、歌を合図にして一気に打ち殺す話がある。 その場所とされた「忍坂大室」は、歌の中で「おさかの おほむろやに ひとさはに きいりをり」(忍坂の大むろやに人多に来入り居り)、 つまり「室」を「むろや」と訓むので、記全体で「室=むろや」かとも思わせる。
 しかし、万葉集では室はすべて「むろ」である。また「忍坂の大室」は、独立した一つの建物だと思われ、「室のような家」を意味する「室屋」なのであろうと考えられる。 「八咫間の大室」は家屋の中の一室なので、「むろ」であろうと思われる。

【赤土】
 ムカデの身のように見せるためのものだから、赤っぽい色の土(現在の赤土と同じ)と解釈して問題ないと思われる。

【須佐之男の心理】
 須佐之男は婿が無事に生きて戻ったことを、歓迎したはずである。そして、シラミの除去を命じるが、頭にいたのは無数のムカデである。まだ飽き足らず、試練というか嫌がらせを繰り返す。 そして、婿がムカデを噛み砕いて処理したと思い、やっと「可愛い奴だ」と満足し、安眠することができた。
 須佐之男がこれほどにしつこい理由は、その成育歴から見出さざるを得ない。 自分がこれまで人から本当に愛された経験がないので、相手の優しさを信用できず、繰り返しひどい目に遭わせ、それでも自分についてくるかどうか確かめざるを得ないのである。

まとめ
 (シラミ)は、「蝨」の異体字である。魏志倭人伝に、中国に使者を送るとき、一人を持衰(じさい)という者に任命し、使者が無事に帰国するまで不潔なままの暮らしをさせる。 持衰は、「不梳頭不去蟣蝨(頭髪を梳(くしけず)らず、蟣虱を除去しない)と書かれる。 現代でもシラミの卵を取り除くために、専用の櫛がある。魏志倭人伝の記述から、弥生時代末期の一般の人々は、櫛を使ってシラミを除去し清潔を保っていたことがわかる。
 これで蟣蝨は、魏志倭人伝と和名類聚抄に出てきた。また、飛鳥時代以来、日本では、異体字の虱が使われていた。細かく調べるといろいろなことが分かるものである。
 さて、須佐之男の頭にいたのはシラミではなく、ムカデであった。二晩目の寝室以来、2回目である。ムカデもハチも刺す虫である。すると、一番目の寝室にいた蛇も、大型のものではなく小型で毒牙をもつニホンマムシであろう。
 もともと、大穴牟遅は八十神による迫害から逃れるにはどうしたらいいかと、須佐之男に相談するためにやってきたのである。 しかし、ここでもひどい目に遭わされたが、須世理毘売やネズミに助けられ辛うじて窮地を脱することができた。 安らぎの日は、いつ訪れるのだろうか。

[061]  上つ巻(大国主命6)