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⇒ [054] 上つ巻(建速須佐之男命10) |
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2014.03.21(金) [055] 上つ巻(建速須佐之男命11) ▼▲ |
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![]() 所生神名謂 八嶋士奴美神【自士下三字以音下效此】 故(かれ)、其(そ)の櫛名田比売(くしなだひめ)を(以)久美度邇(くみどに)起(おこ)して[而] 生(う)みし[所の]神の名は、 八嶋士奴美神【「士」自(よ)り下(しも)つかた三字(みじ)音(こゑ)を以(も)ちゐる。下つかた此れに効(なら)ふ。】(やしまじぬみのかみ)と謂ふ。 又娶大山津見神之女名神大市比賣 生子大年神 次宇迦之御魂神【二柱 宇迦二字以音】 又、大山津見神(おほやまつみのかみ)之女(むすめ)、名は神大市比売(かむおほいちひめ)を娶(めあは)せて、 子(みこ)、大年神(おほとしのかみ)、 次に宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)【二柱。「宇迦」の二字音を以ちゐる。】を生みき。 兄八嶋士奴美神 娶大山津見神之女名木花知流【此二字以音】比賣 生子 布波能母遲久奴須奴神 兄(あに)の八嶋士奴美神、大山津見神之女、名は木花知流【此の二字音を以ちゐる】比売(このはなのちるひめ)を娶(めあは)せて、 子、布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)を生みき。 此神娶淤迦美神之女名 日河比賣 生子 深淵之水夜禮花神【夜禮二字以音】 此の神、淤迦美神(おかみのかみ)之女、名は日河比売(ひかわひめ)を娶(めあは)せ、 子、深淵之水夜礼花神【「夜礼」二字音を以ちゐる】(ふかふちのみづやれはなのかみ)を生みき。 此神娶天之都度閇知泥/上/神【自都下五字以音】 生子 淤美豆奴神【此神名以音】 此の神、天之都度閉知泥〔上声〕神【「都」自り下つかた五字音を以ちゐる。】(あめのつどへちねのかみ)を娶(めあは)せて、 子、淤美豆奴神【此の神の名は、音を以ちゐる。】(おみづぬの)を生みき。 此神娶布怒豆怒神【此神名以音】之女名 布帝耳/上/神【布帝二字以音】 生子 天之冬衣神 此の神、布怒豆怒神【此の神の名は、音を以ちゐる。】(ふぬづぬのかみ)之女、名は布帝耳〔上声〕神【「布帝」の二字音を以ちゐる。】(ふてみみのかみ)を娶せて、 子、天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)を生みき。 此神娶刺國大/上/神之女名 刺國若比賣 生子 大國主神 亦名謂大穴牟遲神【牟遲二字以音】 亦名謂葦原色許男神【色許二字以音】 亦名謂八千矛神 亦名謂宇都志國玉神【宇都志三字以音】幷有五名 此の神、刺国大〔上声〕神(さしくにおほのかみ)之女、名は刺国若比売(さしくにわかひめ)を娶せて、 子、大国主神(おほくにぬしのかみ)を生み、 亦の名は大穴牟遅神【「牟遅」の二字は音を以ちゐる。】(おほなむぢのかみ)と謂ひて、 亦の名は葦原色許男神【「色許」の二字は音を以ちゐる。】(あしはらしこをのかみ)と謂ひて、 亦の名は八千矛神(やちほこのかみ)と謂ひて、 亦の名は宇都志国玉神【「宇都志」の三字は音を以ちゐる。】(うつしくにたまのかみ)と謂ひて、并(あは)せて五名(いつつのな)有り。 さて、その櫛名田比売(くしなだひめ)と、寝所での交わりを盛大にして、 生んだ神の名は、 八嶋士奴美神(やしまじぬみのかみ)と言います。 又、大山津見神(おほやまつみのかみ)の女子、名は神大市比売(かむおほいちひめ)を娶(めと)り、 子、大年神(おほとしのかみ)、 次に宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を生みました。 兄の八嶋士奴美神は、大山津見神の女子、名は木花知流比売(このはなのちるひめ)を娶り、 子、布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)を生みました。 この神は、淤迦美神(おかみのかみ)の女子、名は日河比売(ひかわひめ)を娶り、 子、深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)を生みました。 この神は、天之都度閉知泥神(あめのつどへちねのかみ)を娶り、 子、淤美豆奴神(おみづぬの)を生みました。 この神は、布怒豆怒神(ふぬづぬのかみ)の女子、名は布帝耳神(ふてみみのかみ)を娶り、 子、天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)を生みました。 この神は、刺国大(さしくにおほのかみ)神之女、名は刺国若比売(さしくにわかひめ)を娶り、 子、大国主神(おほくにぬしのかみ)を生み、 またの名を大穴牟遅神(おほなむぢのかみ)と言い、 またの名を葦原色許男神(あしはらしこをのかみ)と言い、 またの名を八千矛神(やちほこのかみ)と言い、 またの名を宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)と言い、併せて五つの名が有ります。 【久美度邇起】 第34回で一度出てきたときに、既にその意味を考えた。 改めて辞書を見ると、
須佐之男命のから大国主命までを中心とした系図を、右図に示した。(クリックで拡大) 系図の内、須佐之男命の二世の孫が娶った日河比売の親、淤迦美神について。闇淤加美神(くらおかみの神)は、伊邪那岐の命が迦具土(かぐつち)の神を斬ったとき、流れた血から神になった。 神生みの段の一書7では、高龗神(たかおかみの神)が、3段に切り分けられた迦具土の神の体から現れる。迦具土の神は生まれたときに伊邪那美に火傷を負わせて死なせるので、怒った伊邪那岐に斬り殺された。 伊邪那岐・伊邪那美の神生みによって生まれた大山津見神(おおやまつみの神)からは、足名椎のほか、木花知流比売が生まれた。 しかし、それらがどのような意味を持つかは不明である。 その他の神は、ここ以外は登場しない。 【大国主と、その別名】 さまざまな場面で、その行動に関係深い名前になっている。具体的にはそれぞれの場面で考察したい。記ではそれぞれが同一の神だと判断して、ここでまとめている。 そのうち「大国主」は、個人名と言うより「大いなる、国の主」という地位を表すような名称になっている。 【書紀・本文】
故、二(ふた)はしらの神に[於]号(なづ)け賜(たま)ひて、稲田宮主神(いなだのみやぬしのかみ)と曰ふ。已而(すでにして)素戔鳴尊(すさのをのみこと)、遂(つひ)に根の国に[於]就(むか)ひき[矣]。 ――書紀では、この部分は極めて簡潔である。出雲国の大国主の数々の面白い話も素通りし、直ちに天孫降臨を巡る場面に移る。 さらに、宮主の神の名も「稲田宮主」とされている。名称の一部に入っていたはずの「須佐」(あるいは「須賀」)は、出雲の大神としての足跡を示すものだが、名前からもその痕跡を消すほど徹底している。 もともと書紀では、素戔嗚尊は高天原から根の国に直行する筈であったにも拘わらず、途中に八岐大蛇を退治する話が入ったのは、草薙の剣の由来を示すためである。 草薙の剣は、三種の神器のひとつだから、神聖な起源が必要であった。しかし、草薙の剣を天に献上してしまえば、以後の行動にもう関心はない。さっさと根の国に行けばよいのである。 このように、出雲の国の大神としての須佐之男命の足跡は、完全に無視される。 ただ、大己貴神(大国主命)に関しては、この後天孫降臨の妨害勢力の首領として重要な役割を果たすから、一応その出自を述べている。 しかし、ここでも複雑な系図は全部すっ飛ばし、簡単に素戔鳴の一世の子になった。 【書紀一書1】
則ち稲田宮主簀狹之八箇耳(いなだのみやぬしすさのやつみみ)の女子(むすめ)、号(な)は稲田媛を見(め)し、乃(すなは)ち奇御戸(くみど)に[於]為起(おこし)て[而]児を生み、 清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠(すがのゆやまぬしみなさるやひこやしましぬ)と号(なづ)けき。 一(ある)は、清之繋名坂軽彦八嶋手命(すがのゆいなさかかるひこやしまてのみこと)と云ひ、 又、清之湯山主三名狹漏彦八嶋野(すがのゆやまぬしみなさるやひこやしまの)と云ふ。 此の神の五世(いつよ)の孫(むまご)、即ち大国主の神なり。 篠、小竹也。此れ斯(し)奴(ぬ)と云ふ。 ――記でも素戔鳴尊の子、八嶋士奴美を起点として、大国主は五世の孫になるので、この点は一致している。 「稲田宮主」の名称には一書2と同様、須佐の地名を含む。但し、八嶋士奴美神には「須佐」ではなく「須賀」の方が付いている。 一書1の最大の特徴は、八岐大蛇が登場しないことだが、省略しただけかも知れない。 ここで「篠」を「しぬ」と読むのは異例であるが、記における名称も「八嶋士奴美」なので「奴=ぬ」とする限り、篠を「しぬ」と読まねばならない。 逆に「奴」を「の」と読むのでは?という疑問は、理屈としては成り立つが、ウェブで万葉仮名の研究を複数見たところでは、まずあり得ない。 また八嶋士奴美の名称の中には「清之湯山主」が入っているので、須賀は湯の湧く地だったかも知れない。そこで試しに須賀神社の周辺の温泉を検索したら、4km以内に3か所あった。またその近くに「湯岩」という地名もある。 きっと温泉につかって山々から立ち上る美しい八雲を眺め、清々しい気分になれる土地なのであろう。一度行ってみたいものである。 【書紀一書2】 〔素戔鳴尊が八岐大蛇を退治した後〕
然る後、素戔鳴尊、[以]妃(きさき)と為(し)て[而]生みし[所の]児之六世(むつよ)の孫(むまご)は[是]大己貴命(おほなむちのみこと)と曰ふ。 大己貴、此れを「於(お)褒(ほ)婀(あ)娜(な)武(む)智(ち)」と云ふ。
【書紀一書6】
この文の後で、神光照海して現れた神が、大国主に向かって「私は、お前の幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)である」と名乗り、三輪山に祀られる話がある。 ここには「大物主」の名前そのものは出てこないが、「三輪山に坐す神=大物主」であることは、記紀全体から明らかである。 神光照海してやってきた神は大国主と対話しているので、大国主とは別神のように見えるが、その神は「私はお前(大国主)の幸魂・奇魂である」という。何しろ神なので、一柱の神の魂を自在に分けることができるのである。 結局この会話は自分と自分の魂との対話であるから、大物主と大国主を同一としても差支えないということになる。 記にも「光り海より来し」神と会う場面があり、その内容も基本的に一書6と同じである。ただ「私はお前(大国主)の幸魂・奇魂である」という発言はないので、こちらは別の神と読める。 まとめ 以上のように、記書紀で大国主と大物主の同一性について、混乱がある。 恐らく書紀の編纂中に、大国主が出雲国で隠退した後に、三輪山の大物主になったという見解が確定したので、記で光を放つ神と出会う場面を、そのままにはしておけなくなった。 そこで、書紀一書6では、①大物主を「亦の名」のリストに追加し、②神光照海して来た神は、大国主の幸魂・奇魂つまり「分身」であるという言葉を補なった。 つまり書紀の一書を使って、記を事実上、訂正したのである。 ところで、書紀の本文は出雲を特別扱いせず、普通の律令国と捉えている。だから古代に国土を支配していたころの大国主の足跡は、必要な部分(天照や天孫に関わる部分)以外は、すべて取り除かれた。 一方、書紀の「一書」は、本文に採用しなかった部分を保存しておく他、記を補完する機能もあることが今回明らかになった。 そう言えば、以前にも記だけでは意味不明な部分が、一書によって明確になったところもあった。これも、記で分かりにくかった部分のために、意識的に補足した可能性がある。 |
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2014.03.27(木) [056] 上つ巻(大国主命1) ▼▲ |
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![]() 所以避者 其八十神各有欲婚稻羽之八上比賣之心 共行稻羽時 於大穴牟遲神 負帒 爲從者率往 於是到氣多之前時 裸菟伏也 爾八十神謂其菟云 汝將爲者 浴此海鹽 當風吹而 伏高山尾上 故 其菟從八十神之教而 伏爾其鹽隨乾 其身皮悉風見吹拆 故痛苦泣伏者 最後之來大穴牟遲神 見其菟言 何由汝泣伏 故(かれ)此の大国主神(おほくにぬしのかみ)之(の)兄弟(あにおと)の八十(やそ)の神坐(いま)し、然(しかれども)皆(みな)の国者(は)大国主神を[於]避(やら)ひき。 避(やら)ひし所以(ゆゑ)者(は)、其の八十の神各(おのもおのも)稲羽(いなば)之(の)八上比売(やがみひめ)に婚(よば)はむと欲(ねが)ひへる[之]心有り、共に稲羽に行(ゆ)かむとせし時、 大穴牟遅神(おほなむちのかみ)に[於] 袋を負(お)ほし、従者(つかひひと)と為(し)て率(ひきゐ)往(ゆ)きき。 於是(ここに)気多之前(けたのさき)に到りし時、裸(あかはだか)の菟(うさぎ)伏(ふ)しき[也]。 爾(ここに)八十の神は其の菟に謂ひしく「汝(いまし)の[将(まさ)に]為(せ)むとすること者(は)、此の海の塩(しほ)を浴(あ)み、風の吹くに当たりて[而] 高き山の尾(を)の上に伏せ。」と云ひき。 故(かれ)其の菟は八十神之(の)教(のり)の従(まにま)に[而]伏して、爾(ここに)其の塩乾(かわ)く隨(まにま)に其の身の皮(かは)、悉(ことごと)く風に吹かれ[見]、拆(さ)けき。故(かれ)痛く苦しく泣き伏せ者(ば)、 最後(いやはて)に[之]来(こ)し大穴牟遅神、其の菟を見て言ひしく「何由(いかなるゆゑ)に汝(いまし)は泣き伏すや。」といひき。 菟答言僕在淤岐嶋 雖欲度此地無度 因故 欺海和邇【此二字以音下效此】言 吾與汝競 欲計族之多小 故汝者隨其族在悉率來 自此嶋至于氣多前 皆列伏度 爾吾蹈其上走乍讀度 於是知與吾族孰多 如此言者 見欺而列伏之時 吾蹈其上讀度來 今將下地時 吾云汝者我見欺言竟 菟答へて言ひしく「僕(やつかれ)は淤岐(おき)の嶋に在り。 [雖]此の地に度(わた)らむと欲(おも)へど度(わた)り無く、因故(よりて)海の和(わ)邇(に)【此の二字以音(こゑ)を以ちゐる。下つかた此れに効ふ】を欺(あざむ)きて言はく 『吾(われ)は汝(いまし)与(と)競(きほ)ひて族(うがら)之(の)多(おほ)かるか小(すくな)かるか計(はか)るを欲(ほ)りす。故(かれ)汝(いまし)者(は)其の族(うがら)在るを隨(したが)へ悉(ことごと)率(ひき)ゐ来て、 此の嶋自(よ)り気多(けた)の前[于]至(ま)で皆(おのおの)を列(つら)ね伏し度(わた)せ。 爾(ここに)吾(われ)は其の上を踏み走り乍(つつ)読み度(わた)り、於是(ここに)吾(わ)が族(うがら)与(と)孰(いづれ)の多(おほ)かるかを知らむとす。』と、 此如(かく)言へ者(ば)、欺(あざむ)かえ[見]て[而]列(つら)ねて伏しし[之]時、吾其の上を踏み読み度(わた)り来たり。 今将(まさ)に地(つち)に下(お)りむとせし時に、吾云はく『汝(いまし)者(は)我(われ)に欺(あざむ)かえ[見]てあり。』と言ひ竟(を)へて、 卽伏最端和邇捕我悉剥我衣服 因此泣患者 先行八十神之命以誨告 浴海鹽 當風伏故 爲如教者 我身悉傷 於是大穴牟遲神教告其菟 今急往此水門以水洗汝身 卽取其水門之蒲黃敷散而 輾轉其上者汝身如本膚必差 即ち伏しし最(もと)も端(はし)の和邇(わに)我を捕へ、我(わ)が衣服(きぬ)を悉(ことごと)く剥(は)ぎき。 此(こ)に因(よ)りて泣き患(わづら)へ者(ば)、先に行(ゆ)きし八十神之命(みこと)、誨(をし)へ告(の)りことを以(も)ちゐて 海の塩を浴み、風に当たり伏しき。故(かれ)教(のり)の如(ごと)為(す)れ者(ば)我(あ)が身悉(ことごと)に傷(やぶ)れき。」といひき。 於是(ここに)大穴牟遅の神、其の菟に教(をし)へて告(の)たまはく 「今急ぎ此の水門(みと)に往(ゆ)き、水を以ちて汝(な)が身を洗へ。 即(すなは)ち其の水門(みと)之(の)蒲黄(かまのはな)を取り、敷き散らして[而] 其の上を輾(めぐ)り転(まろ)べ者(ば)汝(いまし)が身(み)は本の如(ごと)きに膚必ず差(い)ゆべし。」とのたまふ。 故爲如教其身如本也 此稲羽之素菟者也 於今者謂菟神也 故其菟白大穴牟遲神 此八十神者必不得八上比賣 雖負帒汝命獲之 故(かれ)教(をしへ)が如く為(し)てあれば、其の身は本(もと)の如し[也]。 此れが稲羽之素菟(いなばのしろうさぎ)なる者(もの)[也]にて、今に[於]者(は)菟の神と謂ふ[也]。 故(かれ)其の菟、大穴牟遅神に白(まを)さく「此の八十神者(は)必ず八上比売を不得(えじ)。袋を負(お)ほせども[雖]汝(な)が命(みこと)之(これ)を獲(う)べし。」とまをす。
稲葉の国が舞台だから、地理的に隠岐島が思い浮かぶ。サメを並べて飛び移るには随分距離があるがが、空想上の話だから問題にならない。 ただ、現在の「白兎海岸」には、近くに小島が見える。 もし、この話が他の土地に広まれば、それぞれの土地で「おきの島」が舞台になったであろう。 【わに】 現在でも、出雲地方ではサメを「わに」と呼ぶ。(例えば方言辞典) 出雲に限らず、一般的に「わに」はサメの古語で、例えばサメの一種、学名Carcharias taurusは、和名を「シロワニ」という。 余談だがシロワニは興味深い生まれ方をする。雌の胎内で最初に孵化した子が、遅れて孵化する子や孵化前の卵を食い尽くしてから生まれてくるのである。だから生まれてくるのは、結果的に左右の子宮から各一体だけである。(「卵食」という) 話を戻すと、日本周辺はサメの生息域に含まれるが、ワニの生息域は熱帯だから、日本民族が直接その目で見ることができたのは、ワニではなくサメである。 人々はそれを「わに」と呼んでいたのだから、白兎伝説の「わに」は、間違いなくサメである。 ただ、伝説上の魚として鰐が伝わったことはあったかも知れない。ワニはアジアでは、インドから東南アジアに生息する。3世紀の黒塚古墳の三角縁神獣鏡には、ラクダやゾウの姿が書かれたものがあるから、文化としての「鰐」の流入は十分考えられる。 未知の生き物「鰐」(ガク)の伝説が伝わり、「鋭い刃が並んだ大きな口を持ち、水中から獣や人を襲う凶暴な生物」だと聞けば、それを「わに」と呼ぶのも、また自然であろう。 サメは水中から身を乗り出して陸上の動物を襲うことはないが、鰐にはある。 古代、遠い国の民族から伝わった鰐の話が、我が国の白兎伝説に多少の影響を与えかも知れない。仮にそうであったとしても、白兎伝説を聞いた出雲の子どもたちが「わに」と聞いて思い浮かべたのは、間違いなくサメであった。 【汝者我見欺】 漢文ではここの「見」は受け身を表す助動詞で、「見欺」は「欺かれる」という意味になる。 受動文では、動作主は「於」をつけて後置する。これは、英語の受動態における"by<実行者>"に似ている。それによれば本来「汝者見欺於我」とすべきところである。 ただ、この文のように動作主に「於」をつけず「見」の前に置くこともできる。その場合は「<動作主>に」と訓読する。 【言竟、即伏最端和邇】 この「即」は<漢辞海>在る行為や事情がその前の事態に対して時間的に密着して起こることを表し、「ただちに」「すでに」と訳す</漢辞海>場合にぴったりあてはまる。 古語辞典でも「すなはち」には「すぐに。即座に。」の意味がある。ここで直前につけた「竟」(をふ)が生きてきて、「言い終わるや否や」という語感が生まれる。 次の部分は、文法的に「伏」は和邇を連体修飾する。本来「所伏」とすべきところだが、「所」はなくても構わない。 漢文は、動詞・前置詞の目的語は後置(英語と同じ)だが、修飾語はすべて前置(日本語と同じ)である。 菟は最後の和邇を飛び終え、もう大丈夫だと思って「お前たちは騙された」と言ったが、最も端に伏せた和邇は、まだ飛びつけば届く距離にいたのである。 聞く者は「余分なことを言わなければいいのに」と楽しめるところである。
古語辞典によれば、衣類のことを上代は「きぬ」「ころも」と言ったが、「ころも」は平安時代以降、僧衣または、和歌のために使われるようになったという。 漢語の「服」は衣服であるが、特に喪服の意味があり、日本の古語では「ぶく」は喪服、あるいは服喪を指していた。「ぶく」は呉音(遣隋使以前に流入していた音読み)である。従って「服」は日本語化して喪服になっていたが、記では「衣服」を漢語の意味を使っていることに注意を払う必要がある。 ここでは、菟の毛皮を剥ぎ取ることを擬人化して「我が衣服を悉く剥ぎき」と表現している。 【蒲黄】 蒲黄は漢方薬である。 蒲黄(ほおう)…[薬名] (漢方薬)ヒメガマ、ガマ、コガマ、その他の成熟した花粉を乾燥したもの。 止血、通経、利尿薬として利用する。 蒲と蒲黄について、和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう、平安時代、930年代編纂の辞書)には、次のように記載されている。 「 蒲【蒲黄附】:唐韻云蒲【簿胡反和名加末】草名似藺可以為席也陶隠居本草注云蒲黄【和名加末乃波奈】蒲花上黄者也」 〔蒲【蒲黄を附す】…唐韻に蒲【薄胡反。和名;加末(かま)】と云ふ。草の名。藺[リン=いぐさ]に似て、以て席(むしろ)と為す可し。陶隠居の『本草注』に蒲黄【和名;加末乃波奈(かまのはな)】と云ふ。蒲の花の上、黄なれ者(ば)也(なり)。〕 『唐韻』は、唐代の漢字を発音で分類した書。「薄胡反」は一種の発音記号で、「薄」の声母(頭の子音)と「胡」の韻母(声母以外の部分)を組み合わせて表す。このような発音の表し方を反切と言い、「反」をつけて示す。 ガマは、和名「かま」で、イグサに似るというが、花は余り似ていない。 本当にガマで筵(むしろ)を編むものなのか、国語辞典で調べてみると、
【差】 ここの「差」は意味が取りにくいので、改めて確認する。 さす(差す)…[自]サ行四段 枝や草が伸びる。雲が湧きあがる。潮が満ちてくる。色が出てくる。 その他に、漢和辞典によれば「差」には「病気がなおる」という意味もあり「瘥に通ず」とある。この場合の訓は、「いゆ」である。 いゆ(癒ゆ)…病気や傷がなおる。 中国の歴史書から実例を探してみたところ、例えば『後漢書』43巻の列伝『朱楽何列伝』に 父母有病、輒不飲食、差乃復常。(父母病有り、輒(すなは)ち飲食せず、差(い)え乃(すなは)ち常に復す。)という一文があった。 序文で考察したように、太安万侶の周囲では、中国人スタッフが補佐していたと思われ、序文では多様な漢字が使われているので、「差」を「癒」の意味に使うのは特別のことではないと思われる。 とは言え、日本語の「差す」には「頬に血の気が差す」という使い方もあるので、皮膚が蘇る様子が伝わる「さす」も捨てがたい。 【雖負袋】 構文「雖A、B」の意味は、「Aであるにもかかわらず、Bである。」である。 ここでは「袋を背負うと言えども」、つまり従者の身分でありながら、お前こそが八上姫の心に叶うと菟は予言する。 この部分からも「皆国避」の意味が、「大国主の身分を落とす」であることを確認できる。
素菟が何故白菟になったか、「素」の本来の意味から探ってみたい。 素…[名] 色を染めていない絹。もと。はじめ。[形] しろい。もともとの。 しろし(白し)…[形] 色が白い。生地のまま。明るくはっきり見える。 「素」を含む熟語、「素人」「素面」(しらふ)は「染まっていない」意味から派生したと思われる。 実際のウサギは多くの種類があり、白色とは限らないが、ニホンノウサギは、積雪地帯に生息するものに限り、冬季に白色に生え変わるという。 漢字「素」には白色の意味もあるから、素菟は「白色のウサギ」と書かれるようになったと思われるが、「毛を剥がされて素になったウサギ」と解釈することもできる。 あるいは、初めは悪意のあったウサギがひどい目に遭い、大国主に救われて素直になれたという、教訓を込めた名前かも知れない。 【白兎神社】 <wikipedia要約>かつては、兔の宮、大兔大明神などと呼ばれた。戦国時代に焼失した後、慶長年間に再興されたという。</要約> 白兎神社から数百m行くと白兎海岸に出る。ここが「気多の前」にあたる海岸とされる。 内陸の八頭町にも白兎神社が3社あるが、これらは大正時代に賀茂神社に合祀され、形の上では廃された。 この地域には遺跡が多く、また、天照大御神の降臨伝説が残っているという。 それによると、この地に天照大御神が降臨したとき、白兎が道案内し、その後姿を消したという。それは兔が月読尊(つくよみのみこと)の化身だったからである。 この類型の伝説は、他の地域には見られない独特なものだという。
【大国主命の足取り】 出雲国の外側、少なくとも因幡国までは大国主の伝説が残っているということである。日本海側の広い範囲に、古代出雲勢力が広がっていたことのひとつの現れではないかと思われる。 まとめ 蒲黄については、それが皮膚病の治療に使われていたことが想像され、人々の生活の一端が伺われる。 さて、書紀との関連で言うと、「稲羽の素菟」は、書紀では本文・一書とも、完全に無視される。 というのは、書紀にとって大国主は、天照勢力との対立から服従の関係に転ずる部分こそが重要なのである。 それ以外の、大国主を単独で描く逸話のようなものは、政治的に無意味ということだろう。 ところが、記には載せられた。 その理由は、面白い童話だからである。 現在でも、さまざまな絵本が出版されている。当時から、小さい子どもが喜んだであろう。 彼らは幼いころ聞いた童話を入り口として、古事記に親しみを覚えながら大人になる。そうやって天照の国の形を刷り込まれ、人々の精神が統合されていくのである。 特に出雲周辺地に浸透することが、重要であったと思われる。ここにも、記紀の役割の違いがくっきり現れている。 最後に、八頭町の天照降臨伝説は興味深い。もともと因幡国は、中国地方から北陸までの勢力圏を誇る古代出雲の一部であった。 その後、倭の天照勢力の支配に屈した後は、出雲勢力は出雲の国に封じ込められ、因幡国は倭勢力の日本海側の玄関となった。 以上のような因幡国を巡る支配勢力の交代が、天照降臨伝説に繋がったのではないかと想像される。 |
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2014.04.01(火) [057] 上つ巻(大国主命2) ▼▲ |
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![]() 故爾八十神怒 欲殺大穴牟遲神 共議而 至伯伎國之手間山本 云 於是(ここに)八上比売(やがみひめ)、八十神(やそのかみ)に答へて言ひしく「吾(われ)者(は)汝等(いましら)之(の)言(こと)を不聞(きか)ず、[将に]大穴牟遅(おほあなむち)の神に嫁(めあは)さむ。」といひき。 故(かれ)爾(ここに)八十神怒(いか)りて、大穴牟遅の神を殺さむと欲(おも)ひて、共に議(はか)りて[而] 伯伎国(ははきのくに)之(の)手間山(てまやま)の本(もと)に至りて云はく、 赤猪在此山 故和禮【此二字以音】共追下者 汝待取 若不待取者必將殺汝 「赤き猪(ゐ)此の山に在る故(ゆゑ)、和(わ)礼(れ)【此の二字音(こゑ)を以ちゐる】共(ども)が追ひ下(お)とさ者(ば)、 汝(いまし)待ちて取れ。若(も)し待ちて取ら不(ざ)ら者(ば)、必ず[将に]汝(いまし)を殺さむ。」 云而 以火燒似猪大石而 轉落 爾追下取時 卽於其石所燒著而死 と云ひて[而]、火を以ちて焼きし大(おほ)き石(いは)を猪(ゐ)に似(に)せて[而] 転(まろ)ばし落としき。 爾(ここ)に追ひ下(お)り取りし時、即ち其の石(いは)に[於]焼かるる所著(いちしろ)くありて[而]死にせり。 爾其御祖命哭患而 參上于天請神產巢日之命時 乃遣𧏛貝比賣與蛤貝比賣 令作活 爾𧏛貝比賣 岐佐宜【此三字以音】集而 蛤貝比賣持承而 塗母乳汁者 成麗壯夫【訓壯夫云袁等古】而出遊行 爾(ここ)に其の御祖命(みおやのみこと)哭(な)き患(わづら)ひて[而] 天(あめ)に[于]参上(まひのぼ)り、神産巣日之命(かむむすびのみこと)に請(こ)ひし時、 乃(すなは)ち、𧏛貝比売(きさぎひめ)与(と)蛤貝比売(うむぎひめ)とを遣(つか)はし 活(い)く作(な)ら令(し)めて、 爾(すなは)ち𧏛貝比売(きさがひひめ)、岐(き)佐(さ)宜(げ)【此の三字は音(こゑ)を以ちてす】集めて[而] 蛤貝比売(うみがひひめ)持ち承(う)けて[而]母[の]乳汁(ちしる)を塗りてあれ者(ば)、麗(うるは)し壮夫(をとこ)【壮夫を訓み、袁等古(をとこ)と云ふ】と成りて[而]出(い)で行(ゆ)き遊(あそば)しき。 そこで、八上比売(やがみひめ)が、八十神(やそがみ)に答えて言うには「私はお前たちの言うことは聞きません。大穴牟遅(おおあなむち)の神と結婚します。」 これに八十神は怒り、大穴牟遅の神を殺そうと思い、相談して 伯耆の国の手間山の麓に来て言いました。 「赤い猪が此の山にいるので、我々が追い落としたら、 お前が待ちかまえて捕えよ。もし待ちかまえて捕えなければ、必ずお前を殺す。」 このように言って、大きな岩を火で焼き、猪に似せて転げ落としました。 それを追い、降りて行って取ったところ、すぐにその岩にひどく焼かれ、死にました。 そのため、その御母の命(みこと)は、泣き悲しみ、 天に参上し神産巣日之命(かむむすびのみこと)にお願いしたところ、 すぐに、𧏛貝比売(きさぎひめ)と蛤貝比売(うみぎひめ)を遣わし 活き返らせるよう命じられました。 そこで、𧏛貝比売(きさぎひめ)が、きさ貝[赤貝]の殻を砕き集め、 蛤貝比売(うみがひひめ)がうむ貝[蛤]の絞り汁を受けて作った、母乳のような汁を塗ったところ、 [別解釈:𧏛貝比売(きさがひひめ)が剥ぎ集め、蛤貝比売(うみがひひめ)がお持ちになった貝で作った母乳汁を塗ったところ、] 麗しい男性となって現れ、行きあそばされました。 しし(獣、鹿、猪)…[名] 食用となる獣。特に鹿・猪。 猪…[名] ブタ。 ゐ(猪、豕)…[名] イノシシとブタの総称。特にイノシシ。 みおや(御祖)…[名] 親や先祖の敬称。多く母・祖母に対していう。 わづらふ(煩ふ)…[自]ハ行四段 悩む。苦しく。病む。 壮…[名] 壮年。三十歳前後の男盛りの者。 をとこ…[名] 男。成人した若い盛りの男性。立派な男性。 あそばす(遊ばす)…[補動] (尊敬語)~される。 【将嫁】 通常の漢文のように将を再読文字として「将(まさ)に嫁はんとす」と訓読しても構わないと思う。 大切なことは、原文が意味するところを正確に理解することである。 しかし、万葉集では「将」は読まずに、動詞の後に推量の助動詞「む」を加えることを意味する。なお、「む」は一人称では意思を表す。 この万葉集の表記法は明確なので、これを用いることにしている。 【われ】 「あれ」、「われ」は両方とも一人称の代名詞だが、『古典基礎語辞典』によると、「あれ」は独り言、または親密な相手に向かって使い、「われ」は他人の前で自己主張するときに使う。 ここでは後者にあたり、八十神が大穴牟遅神に向かって威圧的に言い放つところで使われている。 わざわざ万葉仮名を使ったのは、「ここは必ず『われ』と訓め」ということである。ということは、漢字の「吾」や「我」は選択を読み手に任せている。 【以火焼似猪大石】 動詞「似」は二重の目的語「猪」「大石」を持つ。または、目的語「猪」+目的補語「大石」を持つ構造と見ることもできる。 【於其石所燒著】 ここでは「於~所~」で、受け身を表す。動作主は「其の石」。「所~」は名詞句として述語「著」の主語となる。 「その石によって焼かれたところ(=さま)は、著しく」 【御祖命】 本居宣長は親には父親もいるが、母親の方が子と親密だから、親と言えばまず母親であると言っている。 大穴牟遅の母は、刺国若比売である。 【神産巣日之命(かむむすびのみこと)】 天地開闢のとき、最初に現れた三柱のうち三番目で、すぐに姿を隠した。 【手間山】 手間山(標高331.7m)には、中世になると城郭が築かれ、現在では、要害山、あるいは手間要害山と呼ばれる。 【𧏛貝比売・蛤貝比売】 この二神が、母乳汁を製造したことは判るが、文章からは何をどう処理して作ったかを読み取ることが難しい。 直感的には、𧏛貝比売が𧏛貝を処理し、蛤貝比売が蛤貝を処理したのかなと想像される。そこで、まずそれらの貝について調べてみる。 すると、𧏛貝は赤貝のことで、蛤貝は「うむ貝」と読むと言う。 しかし、その根拠を要領よく説明した解説文がなかなか出てこないので、腰を据えて探ることにした。 まずは漢和辞典で、関係する漢字の意味を調べてみる。
和名類聚抄は、特に江戸時代に興った国学以後、古い時代の日本語を知る重要な資料として広く使われている。 現代でも写真製版で出版されている。(右図) ネット上では画像データが公開されているが、文字データ化したものの公開は、今のところないようである。 《見出し語蚶の部分の原文》 蚶 唐韻云蚶【乎談反辨色立成云和名木佐】蚌属状如蛤円而厚外有理縦横即今蚶也 蚶 唐韻云はく「蚶」【乎談反[=発音表記]にて、『弁色立成』に和名を木佐(きさ)と云ふ】。蚌に属し状(かたち)は蛤の如く、円(まる)く[而]外は厚く理の縦横有り、即ち今、「蚶」也(なり)。
さて、それではなぜ𧏛=蚶なのか。 本居宣長は『古事記伝』で、「𧏛は蚶を ![]() 宣長はさらに、出羽国の「きさかた」に『延喜式』では「蚶方」があてられていることなどから、「蚶」は「きさ」と読むとする。 宣長は、𧏛は蚶とする根拠として、度会延佳〔1615‐90。江戸初期の神道家、国学者〕の説を長文で引用している。 引用部分を要約すると、
これで、𧏛が蚶を指すと判断した経過は分かったが、では実際このような誤写が起こり得るのか、実はもっと別の貝があったのではないかなど、疑問は残る。 【和名類聚抄に見る海蛤】 《見出し語海蛤の部分の原文》 海蛤 本草云海蛤一名魁蛤【和名宇無木乃加比】蘇敬注云亦謂之㹠耳蛤也 海蛤 本草云はく、海蛤、一(ある)ひは名を魁蛤【和名、宇無木乃加比(うむきのかひ)】。蘇敬注に云はく、亦(また)之(これ)を㹠[=豚]耳蛤と謂ふ也(なり)。 蘇敬…<維基百科(wikipedia中国語版)より>唐代の蘇敬(599~674)は657年『本草集注』の改修を願い出て、唐の高宗により22名の学者を与えられ『新修本草』を完成させた。</維基百科>という。 和名類聚抄には、「蛤」がつく貝として、「蚌蛤(はまくり)」「海蛤(うむきのかひ)」「文蛤(いたやかひ)」「馬蛤(まて)」の4種類が載っている。 【蛤貝比売の読み】 出雲風土記に、枳(支)佐加比売(きさかひめ)という神が登場する。「枳佐加比比賣」とする写本もあり、これが、記の「きさ貝ひめ」と一致するので、宣長はこれらを同じ神であると考えている。 それでは、「~貝姫」は他にないかというと、宇武賀比売(うむがひめ)がある。 宣長は、書紀で白蛤を膾(なます)に料理したものを「うむぎ」と呼ぶことと、和名抄で海蛤を「うむぎのかひ」とするところから「蛤貝比賣」を「うむぎひめ」としている。 また出雲国風土記の宇武賀比売と同じ神とも考えられ、もともとは「うむがひひめ」だったとも言われる。 なお、同風土記で「…かひめ」と読める名前は、この二神以外にない。
それではこれらは出雲国風土記では、どのような神として描かれるか。枳佐加比売命の話は特に面白いので、関連部分を全文引用する。 《枳佐加比売命》 加賀郷と加賀神埼の節に、それぞれ枳佐加比売命の神話が載っている。
産生(うまる)る[所]に臨(のぞ)みし時、弓箭(ゆみや)亡(な)くし坐(ま)しき。 爾(しかくありし)時、御祖(みおや)の神魂命(かむむすびのみこと)之(の)御子(みこ)、枳佐加比売命(きさかひめのみこと)願はく「吾(あ)が御子が麻須羅神(ますらのかみ)の御子に坐(ま)さ者(ば)亡(な)くなしき[所]弓箭(ゆみや)出(い)でむ。」と願ひ坐(ま)しき。 爾る時、角(つの)の弓箭(ゆみや)水の随(まにま)に流れ出(い)で、爾る時 之を取り詔(のたま)はく「此(こ)者(は)弓箭に非(あら)ず。」と詔ひて[而]擲廃(なげう)て給(たま)ひき。 又金(こがね)の弓箭流れ出(い)で来たり。即ち待ち之(これ)を取り坐(ま)して[而]「闇(くら)く鬱(ふさ)がりてある窟(いはや)哉(や)。」と詔ひて[而]射(い)通(とほ)し坐しき。 即ち御祖(みおや)、支佐加比売命(きさかひめのみこと)の社(やしろ)此処(ここ)に坐(い)ます。 今の人、是(これ)窟(いはや)の辺りを行く時、必ず声磅礚(いかづちのこゑあ)げて[而]行(ゆ)くべし。若(も)し密(ひそか)に行か者(ば)、神現(あらは)れて[而]飄風(つむじ)起こし、行く船者(は)必ず覆(くつがへ)らむ。
飄風(つむじ風)とは、回転構造を持つ風系のことで、竜巻あるいは、嵐(台風や低気圧)の風の回転を知っていたかも知れない。ここには島根半島沖が、海上交通の要所だったことが反映していると思われる。船が無事に通るためには、乗員が皆で雷のような大声を上げなければならないとされる。 加賀の神岬には、2つの洞窟があり、そのうち新潜戸と呼ばれる海中洞窟は3つの入り口があり、内部はひとつになっている。それが「東西北通」と表現されている。 物語の続きは、加賀郷の条に書かれる。
御祖(みおや)の神魂命の御子、支佐加比比売命(きさかひひめのみこと)「闇(くら)き岩屋(いはや)哉(や)。」と詔(のたま)ひき。 金の弓以ちて、射(い)給(たま)ひし時、光、加加(かか)明(あ)かきなりき[也]。故、加加と云ふ。神亀三年字を「加賀」に改む。 ――「窟」のよみが「いはや」であることが、ここで確定する。 暗黒の洞窟を黄金の矢で射ぬいたことにより、<松江観光協会のページ>夏至の頃、神潜戸に早朝お参りすると、的島あたりから昇る朝日の光は、一直線に洞内に射し込</松江観光協会のページ>むようになったという訳である。 この洞窟の中で、支佐加比売命は佐太大神を生む。そのとき弓矢を無くし、もし、父親が正しく麻須羅神であったら、弓矢が出てくるだろうと願をかけた。最初に流れてきた弓矢は骨角製で、これは違うと言って投げ捨てた。 すると次に黄金の弓矢が流れて来たので手に取り、洞窟が真っ暗だと言って黄金の矢を射たところ洞窟が貫通し、明るい光が差したという。 「かか」=「赤赤」で光り輝く様子を表す接頭語かと思って調べたが、辞書には接頭語とは認定していなかった。しかし「かか(が)やく」や「かがみ」などの語があるので、意味がつながっているように思われる。 舞台は海中の洞窟であるが、貝と直接のつながりはない。 《宇武賀比売命》 宇武賀比売命は、嶋根郡の法吉郷の条に載っている。
――法吉鳥は、ウグイスを指すと言われている。現在の法吉(ほほき)神社の旧社地は「鶯谷」と呼ばれていたという。 こちらは、宇武賀比売命が法吉鳥に姿を変えて飛んできて、この地に降りたという。これも、貝の関係には触れられていない。 【生命を蘇らせる力をもつ貝】 以上のように、二神とも貝とは無関係であるが、海岸地帯であるから、貝の採集をする人々の間で、「貝姫」としての言い伝えがあった可能性はある。 貝殻と貝汁に秘められた神の力を前提として、出雲地方の「きさかひめ」「うまかひめ」という名前に近い名称の貝を選んだ印象を受ける。 【𧏛貝比売岐佐宜集而蛤貝比売持承】 「持承」は写本によって相違があり、「待承」「持水」とするものもある。 「承」は「承知する」、「受ける」、「うけたまはる」などが考えられる。 そこで文脈を考えてみると、二神が「母乳汁」を製造する過程を分担して、①𧏛貝比売は貝殻を細かく砕き、それを集める。②蛤貝比売は□□する。 である。この□□が「持承」に当たるが、それでは実際どういう役割を果たしたのか。 漢和辞典を見ると、「承」の別の意味に「命を救う」がある。しかし、命を救ったのは、蛤貝比売一人ではなく、二人で協力したのである。 しかし、二神が最終的に薬を作ったことだけは間違いない。そこで「貝殻を原料とする漢方薬」を検索してみると、牡蠣の殻と肉汁がそれぞれ薬用にされてきたことが分かった。 ちなみに、「グリコ」キャラメルは、1919年に創業者がカキの煮汁からグリコーゲンを採取して加えたことからスタートしたとされる。 飛鳥、奈良時代に貝汁が薬として使われたのなら、「持承」は貝の煮汁または絞り汁を「手に持った容器に受ける」とする解釈は可能である。 しかし、ある校訂者は「持」が意味不明だったので、𧏛貝比売の作業を「待ち受けた」に直したのかも知れない。 だが、これでは働いたのは𧏛貝比売だけで、蛤貝比売は待つだけになってしまう。 また「持水」については、汁は水であるから承を水に変えたかも知れないが、「承」を「水」の誤記とするのは、苦しい。 いろいろ疑問はあるが、貝を原料として、母乳のような治癒力をもつ薬を作ったという大筋だけは確かであろう。 【神名と貝名の関係について】 二神と貝の書き方が不明確である点について、本居宣長はニ説を上げている。 ①…𧏛貝比売・蛤貝比売は、𧏛貝・蛤貝そのもの差す。貝たちに、功績大として美名を与えたものである。 ②…「𧏛貝比売が《𧏛貝を》きさげ焦がし、蛤貝比売が《蛤貝の》水を用いた」という文の《 》内を省略したものである。 (注) 宣長は「集」を「焦」の誤りとし、「持水」を採用している。 宣長は、基本的に①説を取るが、②も捨てがたいとしている。 しかし、①説では、神産巣日之命が「お前自身の殻をくだき、体の汁を絞って提供せよ」と"神"に命じることになり、不自然である。 また、出雲国風土記の二神と同じとするのであれば、金の弓を射る人格神と海の貝とはかけ離れ過ぎていて、同一視は無理である。 既に【𧏛貝比売・蛤貝比売】の項で述べた通り、自然に読み取れば②であろう。 【他の解釈の可能性】 「母乳汁」は、実は牡蠣を原料とする薬の名前だとすると、貝の名前の迷宮から解放され、非常に解りやすくなる。 牡蠣は固着生活に入ると筋肉が衰え、ほとんど内臓(特にグリコーゲンを蓄えた肝臓)だけになり、栄養豊かである。前述したように、殻、肉汁とも漢方薬になっている。 「きさぐ」は「生+割く」で、岩から生きた貝を剥ぎ取ってくる意味とすることができる。「きさぐ」も「さく」も下二段活用である。 薬がよく知られたものなら、𧏛貝比売は牡蠣を岩から剥しとって集め、蛤貝比売はそれを受け取り、あとは製造工程を省略しても「母乳汁を塗る」と書いてあれば充分である。 つまり、ここに書いてあるのは製造工程ではなく、「原料の貝を岩から剥して集めてきた」、つまり採取作業だけである。 仕事をする神は、出雲国風土記の中から、貝と似た名の神が選ばれた。そして、神の名前は原料名とは無関係である。 このように考えれば、「きさ貝やうむきの貝が本当に薬になり得るのか?」という釈然としない気分から解放される。 また、「集」を「焦」にわざわざ直す必要もなくなる。 なお、出雲国風土記の提出は記の成立の後だから、正確には貝の神の名称は風土記以前の言い伝えによる。 出雲国に近い牡蠣の産地は、現在は広島県であるが(但し養殖)、奈良時代は不明である。 母乳汁が、実際に牡蠣から作られたかどうかはもちろん不明であるが、少なくとも人々に知られた薬が物語に登場し、 さまざまな貝の神が原料の採集と製造にあたったという解釈は可能である。 【母】 「はは」は、上代には「おも」とも言った。試しに万葉集から拾い出してみると、「はは」を含む歌が73首、「おも」が10首あった。 面白いのは「父母」は「ちちはは」と読み、「母父」は「おもちち」と読むことである。 個別に見ると「おも」は、主に幼児と母の感情を描く傾向が感じられる。 上代語「おも」は、「母」の呉音「モ」、朝鮮語の母「 어머니 (オモニ)」と共通性がある。 また、英語ではmother、ラテン語ではmaterである。 人が生まれて初めてコミニュケーションを取る相手が母である。言語として最初に獲得する発音[ma]が、母を呼ぶ語になったという法則が成り立つように思われる。 一方「はは」は、「たらちねの母」のように、どちらかと言えば大人になってから懐かしく思い浮かべる場合であり、一定の距離感を感じさせる。 ここでは「母の乳汁」そのものではなく、比喩的に「母の乳汁のような薬」と使うものなので、「はは」が相応しいと思われる。 【遣~令作活】 遣・令と、使役動詞を二重に使用する用法は、第50回に触れた通りである。 作も実は使役動詞で、漢文本来の構文で「作大穴牟遅命活」(大穴牟遅命をして活きしむ)の意味である。これが𧏛貝比売岐・而蛤貝比売への命である。 まとめ 今回の部分は、大穴牟遅が八十神に謀り殺され、悲しんだ母の努力によって復活する部分である。 内容的には、特に問題になるところはないと思われた。 ところが、「𧏛貝比賣岐佐宜蛤貝比賣持承」が実は大問題であった。ここで使われている語句の多くは、よみ・語意とも辞書に載るレベルまで確定していない。 単に本居宣長による解釈が、慣習として引き継がれてきただけであった。 これまでは、記だけで意味が取れないところも、日本書紀に別表現があればほぼ確定させることができた。また、誤写についても、長い歴史の中で、書紀によって誤りを正す機能が働いてきたと思われる。 ところが白兎の後、赤猪の話も書紀に無視されて続けているから、どうしても解釈上の問題が残るのである。 書紀に無視されているのは、どうやら、大穴牟遅が出雲の国の外でうろうろしていることが原因のようである。大国主命は、やがて広い範囲で国造りを始める。 ところが天照の勢力が国土を平らげる以前に、国土全体の支配者が存在していたことは、公式には認められないのである。 |
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2014.04.07(月) [058] 上つ巻(大国主命3) ▼▲ |
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![]() 切伏大樹 茹矢 打立其木 令入其中 卽打離其氷目矢而 拷殺也 於是(ここに)、八十神(やそのかみ)見(み)て、且(また)欺(あざむ)き山に率(あども)ひ入りて[而]、 大(おほ)き樹(き)を切り伏せ、矢を茹(ひ)めて、其の木を打ち立て、其の中に入(い)ら令(し)めて、 即ち其の氷目矢(ひめや)を打ち離(はな)ちて[而]拷(たた)き殺しき[也]。 爾 亦其御祖命 哭乍求者得見 卽 拆其木而 取出活 告其子言 爾(ここ)に、亦(また)其の御祖命(みおやのみこと)哭き乍(つつ)求(もと)むれ者(ば)、得(え)見(み)ゆ。 即ち、其の木を拆(さ)きて[而]取り出(い)で活(い)けて、其の子(みこ)に告(の)たまひしく 汝有此間者 遂爲八十神所滅 乃 違 遣於木國之大屋毘古神之御所 「汝(いまし)此の間に有ら者(ば)、遂(つひ)に八十神に滅(け)たるる[所]と為(な)らむ。」と言(のたま)ひき。 乃(すなは)ち 違(たが)へ、木の国之大屋毘古神(おほやびこのかみ)之(の)御所(みところ)に[於]遣(や)りき。 爾 八十神覓追臻而 矢刺之時 自木俣漏逃而 云 可參向須佐能男命所坐之根堅州國 必其大神議也 爾(ここに)、八十神覓(ま)ぎて追ひ臻(いた)りて[而]矢刺(やざ)しし[之]時、 木の俣(また)自(よ)り漏(く)きて逃げて[而]〔御祖命告(の)たまひて〕云はく、 「須佐能男命(すさのをのみこと)の坐(いま)せし[之][所の]根堅州国(ねのかたすくに)参(まゐ)り向(む)かひ、 必ず其の大神(おほかみ)に議(はか)る可(べ)し[也]。」とのたまひき。 八十神(やそかみ)はそれを見て、再び騙して、山に連れて行き、、 大樹を切り倒し、矢[秘密の支柱?]を秘めてその木を立て、その中に入るや否や その秘め矢を取り外し、拷(たた)き殺しました。 そして再び、その御母の命(みこと)は泣きながら行方を捜したところ、発見できました。 すぐにその木を裂き、取り出して生き返らせ、その子にこのように言われました。 「お前はこのままでは、最後に八十神に完全に消されてしまいます。」 そこで逃れさせ、木の国の大屋毘古神(おほやびこのかみ)のいらっしゃる所に行かせました。 それでも、八十神は行方を探し求め、追って行き、矢を向けた時、 木の股を潜り抜けて逃げ、御母の命はこうおっしゃいました。 「須佐能男命(すさのをのみこと)が御行きになった根堅州国(ねのかたすくに)にお向かいし、 必ずその大神(おおかみ)に相談すべきです。」 あどもふ(率ふ)…[他]ハ行四段(上代語) 声をかけて誘う。 茹…[動] くらう。ふくむ。つつみこむ。 うち(打ち)…[接頭] 必ずしも「打つ」意味を持たず、語調を整えるために使用する場合もある。 さく(放く、離く)…[他]カ行下二 遠ざける。 拷…[動] たたく。 臻…[動] 至る。 うす(失す)…[自]サ行下二 なくなる。死ぬ。紛失する。 けつ(消つ)…[他]タ行四段 消す。消滅させる。 くく(漏く)…[自]カ行四段 すきまをくぐりぬける。 覓…[動] もとむ。 もとむ(求む)…[他]マ行下二 手に入れようとして探す。まぐ? やさす(矢刺す)… 矢を弓につがえる。 ひめや(氷目矢)…[名] <大修館書店『古語林』>記を割るときに割れ目に入れる楔のようなものかという。『古語林』> いく(生く、活く)…[自]カ行四段 生きる。 いく(生く、活く)…[他]カ行下二 生かす。生き返らせる。 乞…[動] ①こふ(請う、乞う) ②あたふ(与う) 俣…[名](国字) また。 【率】 万葉集で「率」には次のような、さまざまな訓がつけられている。 いざ…間投詞 ゐ…間投詞(上代) あどもふ…(上代) 声をかけて誘う。 ゐる…ワ行上一 引き連れる。 その他、率爾(ゆくりなく)がある。 「ひきゐる」は直接には万葉集にないが、「ひく(引く)」と「ゐる(率る)」の連語として形成されたと見られる。 【令入】 「入(い)る」は、自動詞(現代語の"はいる")の場合は四段活用、他動詞(現代語の"いれる")の場合は下二段活用。 使役の助動詞「令(し)む」は、動詞の未然形に接続する。 ここでは自発的に「はいる」よう促す意味だから、自動詞「いる」の未然形につないで「いらしむ」となる。 【離】 万葉集では「離」は、次のように訓読みされる。 ひなざかる(鄙への枕詞)6例。さかる―14例。さく―4例。はなる―3例。さる―3例。かる―3例、はなつ―1例。わかる―1例。ゆく―1例。 併せて、類似した「放」の訓読みも調べてみる。 ひなざかる―1例。さかる―4例。さく―21例。はなる―6例。さかる―6例。はなつ―7例。 このように、距離が増えていく動き、あるいはその結果を表す。 ここでは、これまで接続していた器具が外される意味だから、「はなつ」が適当である。 【打ち離つ】 「打ち」は接頭語で、「さっと」、あるいは特定の意味を持たずに語調を整える。 「拷殺」も「うち殺す」と読むこともできるが、 「うち離ちてうち殺す」とすると「うち」には、軽くという語感があるので、「拷」の残酷さが薄められてしまう。
この部分は理解しにくいので、なるべく精密に読み取ってみたい。 最初に、「其の中に入れる」とはどこに入れるのかを考えてみる。可能性として、 A 大樹を繰り抜き、内部に空間を作って入れる。 B 幹に楔上の物を打ちこみ、隙間に体を入れさせる。 C 「付近の樹木の間に立たせる」という意味である。 が考えられる。 Aは、「其の中に入れる」を最も直接的に表すが、その状態で「氷目矢を含め、離ちて殺す」がどういうことなのか解らない。 Bについては、本居宣長が「其(の)木の割りかけたる間(はさま)に入りしむなり」として、この説を支持している。 但し、宣長は「そんな広さのところに人が入るかという疑いがあるだろうが」として、 「特に根拠はないが、大穴牟遅の神の体が甚だ小さかった」と言う。だがそのすぐ後、「少彥名命を掌に乗せるから、そんなには小さくない」という割注をつけている。 仮に、宣長の言う程度に体を小さくしても、ある程度の空間を作る楔が必要である。この幅厚の楔が、果たして「矢」と言えるであろうか。 またこれ以外に、宣長は別説として「大木の切断面を、鎹(かすがい)で留める。」を併記している。 Cは、大木の周辺を「其の中」と言うかどうかが問題である。 このように、何れも決め手に欠く。そこでもう一度、原文そのものを整理してみる。 ● まず大樹について書いてあることは、①切り倒される。②打ち立てられる。③被害者を救出するには拆(さ)かねば[または、折らねば]ならない。の3点である。 ● また氷目矢については、①秘められる。②打ち離たれる。③②の結果、大穴牟遅の神は拷殺される。の3点である。 ● そして大穴牟遅の神は、「其の中」に入れられる。 これですべてである。以上から確実なことは、次のX~Zである。 X ある「装置」が作られ、その装置を構成する2つの要素が、大樹と氷目矢である。 Y この装置の中に、大穴牟遅の神が入れられる。 Z この装置は、氷目矢を打ち離つことによって、大穴牟遅の神を拷殺する仕掛けである。 以上のX~Zを満たす解を、求めればよい。 その解を、飛鳥時代の人々の生活で、実際にあり得るものから探ることにして、 拷殺装置を、狩猟用の罠を応用したものであると仮定してみる。 罠は、古くは縄文時代に遺跡が出土するという。もちろん狩りもしていたが、 罠は、それほどの労力を払わずに済むので、古くから使用された。 代表的なものが、落とし穴である。穴を掘り、底に杭を立てた遺跡がある。
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2014.04.12(土) [059] 上つ巻(大国主命4) ▼▲ |
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![]() 其女須勢理毘賣出見 爲目合而 相婚還入 白其父言 甚麗神來 爾 其大神出見而 告此者謂 之葦原色許男 故(かれ)、詔命(おほせこと)の隨(まにま)にして[而]、須佐之男命(すさのをのみこと)之(の)御所(みところ)に参到(まゐた)れ者(ば)、 其の女(むすめ)須勢理毘売(すせりひめ)出(い)で見て、目合(まぐはひ)を為(し)て[而] 相(あひ)婚(よば)ひて還入(かへりい)りき。 其の父に白(まを)し言はく「甚(いと)麗(うるは)しき神来(き)たり。」とまをし、 爾(ここに)其の大神(おほみかみ)出(い)で見(み)て[而]此の者に告(のたま)はく「之(これ)葦原色許男(あしはらしこを)なり。」と謂(のたま)ふ。 卽喚入而 令寢其蛇室 於是 其妻須勢理毘賣命 以蛇比禮【二字以音】授其夫 云 其蛇將咋以此比禮三擧打撥 故 如教者 蛇自靜 故 平寢出之 即ち喚(よ)び入れて[而]、其の蛇(へみ)の室(むろ)に寝(い)ね令(し)めき。 於是(ここに)、其の妻(つま)須勢理毘売命、蛇(へみ)比(ひ)礼(れ)を【二字、音(こゑ)を以ちゐる。】を[以]其の夫(つま)に授(さづ)けて云ひしく、 「其の蛇(へみ)[将]咋(か)まむとせば、此の比礼(ひれ)を以ちて三(み)たび挙(ふ)き打ちて、撥(はら)へ。」といひき。 故(かれ)、教(のり)の如(ごと)くすれ者(ば)、蛇(へみ)自(みずから)静(しづ)まりき。 故、平(たひら)ぎ寝(い)ねて、之(ここ)ゆ出(い)でき。 亦 來日夜者 入吳公與蜂室 且 授吳公蜂之比禮 教如先 故平出之 亦(また)日夜(ひるよる)の来たれ者(ば)、呉公(むかで)与(と)蜂(はち)との室(むろ)に入りき。 且(また)、呉公蜂之比礼(むかではちのひれ)を授(さづ)け、先(さき)の如(ごと)く教(をし)へ、 故(かれ)、平(たひら)ぎて、之(ここ)ゆ出(い)でき。 亦 鳴鏑射入大野之中 令採其矢 故 入其野時 卽 以火廻燒其野 亦 鳴鏑(なりかぶら)を大野(おほの)に射(い)入(い)れし[之]中に、其の矢を採(と)ら令(し)め、 [故] 其の野に入(い)りし時、即ち火を以ちて其の野を廻(めぐ)り焼きき。 於是 不知所出之間 鼠來 云 內者 富良富良【此四字以音】外者 須夫須夫【此四字以音】如此言故、 蹈其處者 落隱入之間 火者燒過 爾 其鼠咋持其鳴鏑 出來而奉也 其矢羽者 其鼠子等皆喫也 於是(ここに)、出(い)づる所を不知(しらざ)りし[之]間(ま)、鼠(ねずみ)の来て云ひしく、 「内(うち)者(は)富良富良(ほらほら)【此の四字、音(こゑ)を以ちゐる。】、外(と)者(は)須夫須夫(すぶすぶ)【此の四字、音を以ちゐる。】と、如此(かく)言ひき。 故(かれ)、其処(そこ)を踏め者(ば)、落ちて隠り入りし[之]間、火(ほ)者(は)焼き過ぎつ。 爾(ここ)に其の鼠、其の鳴鏑を咋(く)ひ持ち、出(い)で来て[而]奉(たてまつ)りき[也]。 其の矢羽(やばね)者(は)、其の鼠の子等(ら)、皆喫(く)ひき[也]。 そして、〔御母の命の〕仰せに従い、須佐之男命(すさのをのみこと)の御所に伺ったところ、 その息女、須勢理毘売(すせりひめ)が出てきて、一目でお互いを気に入り結婚し、家の中に戻り、 その父に「とても麗しい神が来ましたわ。」と申し上げました。 ところが、その大御神は見に出て、この男にこう仰いました。「お前は、葦原色許男(あしはらしこを)である。」 そしてすぐに招き入れて、御所の蛇室(へびむろ)で寝させました。 そのため、その妻の須勢理毘売命は、蛇ひれ[=魔よけの布]を夫に授けて言いました。 「蛇があなたを噛もうとしたら、このひれを三度振り降ろして鎮めなさい。」 そこで教えられた通りにすると、蛇は自ずと静まりました。 その結果、安らかに眠り、この部屋をでました。 翌日、また夜が来て、むかでと蜂の室(むろ)に入れられました。 また、むかで蜂のひれを授けられ、前と同じように教えられましたので、 無事に、ここを出ました。 また 鳴鏑(なりかぶら)が広野に射入れられた中に、その矢を取りに行かされました。 そしてその広野に入るや否や、火をその野の周囲に放ち、燃やしました。 そのため、出口を見付けられずにいると、鼠が来て言いました。 「内はホラホラ、外はスブスブ。」このように言いましたので、 その場所を踏んだところ下に落ち、隠れている間に、火は燃え過ぎていきました。 すると、その鼠が例の鳴鏑を咥え持って出てきて、お渡ししました。 その矢羽の部分は、その鼠の子ども達皆で食べてしまっていました。 まゐりつく(参り着く)…[自]カ行四段 (謙譲語)貴人のもとに到着する。 みこ(御子、皇子、皇女)…[名] 天皇の子または孫の敬称。男女ともにいう。 みゆ(見ゆ)…[自]ヤ行下二 自然に目に入る意。見える。 まぐはひ(目合ひ)…[名] ①目と目を合わせ、愛情を通わせること。②性交。結婚。 うるはし(美し、麗し、愛し)…[形]シク 立派だ。美しい。 もの(物、者)…[名] 人より低い存在として見る言い方。 しこ(醜)…[名] (多く接頭語のように使う)①武骨で力が強いこと。②醜い。 さづく(授ける)…[他] 目上から目下に与える。 へみ(蛇)…[名] (上代語) へび。 くちなは(蛇)…[名] へび。 ひれ(頒巾、肩巾)…[名] 平安時代初期まで用いられた装飾用の布。首から肩にかけて左右に垂らした細長い布。 魔よけの力があると信じられ、別れの時にこれを振った。 咋…[動] かむ。くらう。 をさむ(治む)…[他]マ行下二 心を平静にする。 蜈蚣(ごこう)…[動] むかで =呉公 なりかぶら(鳴鏑)…[名] 矢の先端につける発音用具。鏑矢(かぶらや)。木,鹿角,牛角,青銅などで蕪(かぶら)の形につくり,中空にして周囲に数個の小孔をうがったもの。矢につけて発射すると,気孔から風がはいって鳴る。 おほの(大野)…[名] 広大な野原。 いる(射る)…[他]ヤ行上一 (例)万葉集1-61「射る的方は」 もとほす(廻す)…[他]サ行四段 巡らす。 すぼし(窄し)…[形] すぼんで細い。 ほら(洞)…[名] 土・岩・古木などにある自然の穴。居住に使われるくらい広いものもある。 おつ(落つ)…[自]タ行下二 上から下へ落ちる。 かくる(隠る)…[自](上代)ラ行四段、(後に)ラ行下二段 かくれる。 咋…[動] ①大声で騒ぎたてる。②かむ。くらう。 くふ…[他]ハ行四段 食べる。くわえる。 くはふ(銜ふ)…[他]ハ行下二 〈平安以後〉口に軽く挟んで持つ。 喫…[動] 食物を口に入れ、砕いてから飲み下す。 まつる(奉る)…[他]ラ行四段 「与ふ」の謙譲語。 【万葉集に見る訓】 麗…13-3330に「麗妹爾(くはしいもに)」がある。「くはし」はこまやかで美しい意。形容の対象は妹である。「愛」(うるはし)も多数ある。04-543の「愛夫者(うるはしづまは)」は、夫を称えている。 平…動詞としては、「たひらけく」「たひらぐ」が多い。多く場合、大王(おほきみ)が主語なので、天下を平定するという意味であるが、もともとは「しずまる」「たいらにする」の意味。その他のよみに、「ならす(均す)」もある。 採…大部分は「摘む」で、その他に「とる」もある。 廻…02-199に「もとほる」(自動詞)がある。その他動詞は、「もとほす」である。 奉…「つかふ」「まつる」と読まれる。 【須勢理毘賣】2021.2.12付記 「毘賣」は、ビメまたはヒメと発音される。ある検索サイトで検索をかけると、 ・「"須世理毘賣" "スセリヒメ”」…50件。「"須世理毘賣" "すせりひめ”」…59件。 ・「"須世理毘賣" "スセリビメ”」…57件。「"須世理毘賣" "すせりびめ”」…79件。 このようになっており、濁音がやや優勢である。ちなみに毘は、呉音ビ、漢音ヒ。音仮名としては両方に使われている。 なお、「比賣」については、ヒメ=17700件、ビメ=257件で、清音が圧倒的である。比・毘・毗の発音は基本的に同一であることを考えると、不思議である。 「毘沙門天」は確実にビと読まれるから、これが影響しているのかも知れない。
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