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[050]  上つ巻(建速須佐之男命3)

2014.02.10(月) [051] 上つ巻(建速須佐之男命7) 
於是 八百萬神共議而
於速須佐之男命負千位置戸
亦切鬚及手足爪令拔而
神夜良比夜良比岐

於是(ここに)八百万(やほよろづ)の神、共(とも)に議(はか)りて[而]
速須佐之男命(はやすさのをのみこと)に[於]千位置戸(ちくらおきど)を負(おほ)せて、
亦(また)鬚(ひげ)を切り、[及]手足の爪抜か令(し)めて[而]、
神夜良比(かむやらひ)に夜良比(やらひ)岐(き)。


又食物乞大氣津比賣神
爾大氣都比賣自鼻口及尻種種味物取出而
種種作具而進時

又(また)食物(くらひもの)を大気津比売(おほげつひめ)の神に乞ふ。
爾(ここに)大気津比売の、鼻と口と尻に及びて自(よ)り種種(くさぐさ)の味物(ためつもの)を取り出でて[而]
種種(くさぐさ)に作り具(そな)へて[而]進(すす)めし時、


速須佐之男命立伺其態爲穢汚而奉進
乃殺其大宜津比賣神

速須佐之男命、立ち伺(うかか)ふに、其の態(さま)穢汚(きたな)く為(し)て[而]奉進(すすめまつ)り、
乃(すなは)ち其の大宜津比売の神を殺しき。


故所殺神於身生物者 於頭生蠶 於二目生稻種 於二耳生粟 於鼻生小豆 於陰生麥 於尻生大豆
故是 神產巢日御祖命 令取茲成種

故(かれ)、殺さえし神の身(み)に[於]生(お)ひし物(もの)者(は)、頭に[於]蚕(こ)生(お)ひ、二目(ふたつのめ)に[於]稲種(いなだね)生(お)ひ、 二耳(ふたつのみみ)に[於]粟(あは)生(お)ひ、 鼻に[於]小豆(あづき)生(お)ひ、陰(ほと)に[於]麦(むぎ)生(お)ひ、 尻に[於]大豆(まめ)生(お)ふ。
故(かれ)、是(これ)神産巣日御祖命(かむむすひのみおやのみこと)に取ら令(し)め茲(ここ)に種(たね)と成しき。


 ここに、八百万(やほよろず)の神は共に論議し、 速須佐之男(はやすさのお)の命(みこと)に、千位置戸(ちくらおきど)[物品供出の刑]を科し、 また鬚(ひげ)を切り、手足の爪を抜き取り、 神の世界から追放しました。
 また、食物を大気津比売(おおげつひめ)の神に乞いました。
 すると、大気津比売の、鼻・口と尻から種々のおいしい物を取り出し、 様々に調理して具(そな)え、献上する時、 速須佐之男命は、それを窺うと、その様子は汚く、そのまま献上しようとしていました。 そこで、その大宜津比売の神を殺しました。
 すると、殺された神の身から生った物があり、頭には蚕が生り、二つの目には稲が生り、 二つの耳には粟が生り、 鼻には小豆が生り、 陰部には麦が生り、 尻には大豆が生りました。
 そこで、これらを神産巣日御祖命(かみむすひのみおやのみこと)に取らせ、ここに作物の種としました。


…[動] はか-る。
ちくらおきど(千位置き戸、千座置き戸)…[名] 祓のとき、罪を償うために出す多くの品物。また、それを載せる台。
ためつもの(味物)…[動] おいしい飲食物。〈時代別上代〉所引『貞観儀式』:「多米都者」〔ためつもの〕
たち-(立ち)…[接頭] 動詞の上につけて意味を強める。(立つ意味がある場合は動詞とする)
うかかふ(窺ふ)…[他]ハ行四段 こっそり見る。

【蚕は「こ」とよむ】
 万葉集13巻3258番「あらたまの年は来ゆきて玉梓の…」に、「母之養蚕之〔母が養(か)ふ蚕(こ)の〕という部分がある。古語辞典でも、見出し語に「こ(蚕)」がある。

【小豆のよみ】
 万葉集では「小豆」が4か所に出てくるが、すべて借訓である。「小豆奈九=あづきなく」は、あづきなし(ふさわしくない)のために使われている。だから、「小豆」は「あづき」と読まれたことがわかる。

【大豆のよみ】
 万葉集から「まめ」を検索すると、20巻4352番に一例があった。
 「みちのべの うまらのうれに はほまめの からまるきみを はかれかゆかむ」(道の辺の 茨の末に 延ほ豆の からまる君を 別れか行かむ) 「うまら」は「いばら」の東国方言、「はほ」は「這ふ」の東国方言における連体形とされる。
 なお、万葉集では漢字の「」は大量に使われているが、すべて万葉仮名の「」であった。
 豆に「まめ」以外のよみは見つからないので、大豆は、「おほまめ」あるいは「まめ」か。

【「神産巣日御祖命令取茲成種」におけるの日本語用法】
 漢文では、使役文「」という構文をとり、人物に行動をさせるという意味になる。 漢文では「兼語文」(の目的語と、の主語を兼ねる)とも言うが、英語の目的格補語のようにを補語と位置づけるのが合理的だと思う。
 ところが、記ではを助動詞「しむ」として使い、「」などと書き、「せしむ。」と読む。これは日本語用法である。 他にもいくつかのパターンがあるので、例を挙げる。
(1) 予母都志許売…「」「」と本来は使役動詞であるものを二重に使う。「黄泉醜女を遣(や)り追はしむ。」漢文では「令」は不要である。
(2) 其八雷神副千五百之黄泉軍…被命令者に「」をつける。「其の八雷神に千五百之黄泉軍を副え、追はしむ。」
(3) 高御産巣日神之子思金神…被命令者を主語とする。「高御産巣日神之子、思金神に思はしむ。」
(4) 伊斯許理度売命作鏡…「」(おほす)によって被命令者に義務付ける。「石凝姥命に科し、鏡を作らせむ。」
 この「神産巣日御祖命取茲成種」の場合は、の直前に置かれた神産巣日御祖命が主語ではあるが、上記の(3)と同じく、被命令者である。

【書紀・本文】
 書紀の本文では、簡潔である。食物神の話はでてこない。
然後、諸神歸罪過於素戔鳴尊、而科之以千座置戸、遂促徵矣。
然(しか)る後(のち)、諸神(もろもろのかみ)罪過(つみとが)を素戔鳴尊に[於]帰(かへ)して[而]、之(こ)を科(おほ)すに千座置戸(ちくらおきど)を以ちゐて、遂(つひ)に徴(しるし)を促(うなが)しき[矣]。
帰罪過…罪過を素戔鳴尊のものとして認定する。
――「遂促徴矣」は、千座置戸では不十分で、〔さらに罪を償うしるしを示すよう促す。〕
至使拔髮、以贖其罪。
髪を抜か使(し)むに至り、以ちて其の罪を贖(あか)ひき。
――〔髪を抜かせて、やっと罪の贖(あがな)いをすべて終えた。〕
亦曰、拔其手足之爪贖之。已而竟逐降焉。
亦(また)曰(い)ふ、其の手足之(の)爪を抜き之を贖ふ。已(すで)に[而]竟(を)へ逐(や)らひ降(おろ)しき[焉]。
亦曰…「一説には。」…[助]語気詞。断定など。已而竟〔これまでに一切を終え。〕逐降焉〔天地から追放され、根の国に降りたのであった。〕
――素戔鳴尊の罪過を認定し千座置戸(物品による贖い)を科すが、それだけでは不十分で、何かしるしを表せと促され、髪を全部抜く。手足の爪を抜くのは「そういう話もある」という扱いになっている。

【一書2】
 「素戔鳴尊之爲行也甚無状」の一書2には、罪の贖いの内容を記す。
已而科罪於素戔鳴尊、而責其秡具。
已而(すでにして)素戔鳴尊(すさのをのみこと)に[於]罪を科(おほ)せて[而]、其の秡具(はらへつもの)を責(おほ)す。
是以、有手端吉棄物、足端凶棄物。
是以(こをもちて)、手端吉棄物(たなすゑのよしきらひもの)、足端凶棄物(あなすゑのあしきらひもの)有り。
亦以唾爲白和幣、以洟爲青和幣、
亦(また)、唾(つはき)を以ちて白和幣(しらにきて)と為(し)、洟(すすばな)を以ちて青和幣(あをにきて)と為(し)、
用此解除竟、遂以神逐之理逐之。
此れを用ゐて解除(はらへ)竟(を)へ、遂(つひ)に神逐(かむやらひ)之(の)理(ことわり)を以(も)ちて逐之(はら)ふ。
(この部分に関わる注記)
秡具、此云波羅閉都母能。手端吉棄、此云多那須衞能餘之岐羅毗。逐之、此云波羅賦。
――〔それぞれの読み方。秡具=はらへつもの。手端吉棄=たなすゑのよしきらひ。逐之=はらふ。〕
 「はらへつもの」は「祓へ」+連体修飾の古い格助詞の「つ」+「もの」である。 特別に読みが示されるので、「はらへつもの」は古い表現であると思われる。
 手端は「たなすゑ」と読む。確認のために辞書を引いてみる。
たなすゑ(手末)…[名] 手の先。指先。「な」は上代の助詞で「の」と同じ。
 そこで、手を足に替えて「足末」を辞書で引くと、「あなすゑ」と読むことがわかる。
きらふ…[他]ハ行四段 除く。好ましくないものとして取り除く。
 「棄」は、普通「すつ」「うつ」である。「きらふ」と読むのは特別である。
 「逐」は、ここでは「はらふ」と読むとされる。

【一書3】
 「素戔鳴尊之爲行也甚無状」の一書3は、追放後の素戔鳴の苦難を描く。
卽科素戔鳴尊千座置戸之解除。
即ち素戔鳴尊に千座置戸(ちくらおきど)の解除(はらへ)を科(おほ)す。
以手爪爲吉爪棄物、以足爪爲凶爪棄物、
手の爪(つめ)を以ちて吉爪棄物(よしきらひもの)と為(し)、足の爪を以ちて凶爪棄物(あしきらひもの)と為(す)。
吉爪棄物、凶爪棄物…一書2の注記における「手端吉棄」のよみ「たなすゑのよしきらひもの」に準える。
乃使天兒屋命、掌其解除之太諄辭而宣之焉。
乃(すなは)ち、使天児屋命(あまこやのみこと)に、其の解除(はらへ)の太(ふと)諄辞(のりと)を掌(つかさど)り、之(これ)を宣(の)ら使(し)む[焉]。
世人愼收己爪者、此其緣也。
世の人慎みて己(おの)が爪を収むは、此れ其の縁(よし)なり。
既而諸神、嘖素戔鳴尊曰、汝所行甚無頼、故不可住於天上。亦不可居於葦原中國。
既に諸神(もろもろのかみ)、素戔鳴尊に嘖(こら)びて曰はく「汝(いまし)が所行(おこなひ)甚(はなは)だ無頼(あぢきな)し。故(かれ)、天(あめ)の上(うへ)に住(す)まふ不可(べから)ず。亦(また)、葦原中国(あしはらのなかつくに)にも居(を)る不可(べから)ず。」
宜急適於底根之國、乃共逐降去。
急ぎ底根の国に適(ゆ)くべし」と宜(のたま)ひ、乃ち共に逐(やら)ひ降去(お)ろしき。
于時、霖也。素戔鳴尊、結束青草、以爲笠蓑、而乞宿於衆神。
時に、霖(ながあめ)なり。素戔鳴尊、青草を結ひ束ね、衆神(もろもろのかみ)に宿(やど)を乞ふ。
衆神曰、汝是躬行濁惡。而見逐謫者、如何乞宿於我。遂同距之。
衆神曰はく「汝(いまし)是れ躬(み)の行(おこなひ)濁悪(にごり)、[見]逐謫(はらへ)なさゆれば、如何(いか)にか我(われ)に宿を乞ふや。」といひて、遂に同(ともに)之を距(さ)けり。
是以、風雨雖甚、不得留休、而辛苦降矣。
是(こ)を以ちて、風雨(かぜあめ)甚(はなは)だしくあれ雖(ど)、留(とど)まりて休むを不得(えず)、辛苦(くる)しみて降(お)りけり。
自爾以來、世諱著笠蓑、以入他人屋內。
爾(それ)自(よ)り以来(このかた)、世に笠蓑を著(つ)け、以ちて他人(ひと)の屋(や)の内に入(い)ることを諱(い)む。
又諱負束草、以入他人家內。有犯此者、必債解除。此太古之遺法也。
又、束(たばり)の草を負ひて[以]他人(ひと)の家(や)の内に入るを諱(い)む。此れを犯(をか)すこと有らば[者]、必ず解除(はらへ)を債(おほ)す。此れ太古(いにしへ)之(の)遺(のこ)れる法(のり)也(なり)。
是後、素戔鳴尊曰、諸神逐我。我今當永去。
是後(こののち)、素戔鳴尊曰(い)はく、「諸神(もろもろのかみ)我(われ)を逐(やら)ひき。我(われ)は今当(まさ)に永く去(い)ぬべし。
如何不與我姉相見、而擅自俓去歟。廼復扇天扇國、上詣于天。
如何(いか)に我(あ)が姉(あね)与(と)相(あひ)見(まみ)え不(ず)て[而]、擅(ほしきまにま)に自(おのづか)ら径(ただ)ちに去(い)ぬる歟(や)。廼(すなは)ち復(また)天(あめ)を扇(あふ)ぎ国を扇ぎ、天に[于]上り詣(まゐ)らむ。」といふ。
〔どうして、我が姉と会わずに、(姉の)ほしいままに、自らすぐに去ることがあろうか。〕
時天鈿女見之、而告言於日神也。
時に天鈿女(あめのうずめ)之(こ)を見て[而]、日の神に[於]言(こと)を告げき[也]。
日神曰、吾弟所以上來、非復好意。必欲奪之我國者歟。吾雖婦女、何當避乎、
日の神曰はく、「吾(あ)が弟(せ)所以上(のぼ)り来(く)る所以(ゆゑ)は、復(ま)た好(よ)き意(こころ)に非ず。必ずや之(これ)我(あ)が国を奪(うば)ふを欲しき者(は)[歟]。吾(われ)婦女(をみな)なれ雖(ども)、何当避乎(なにそさくべきや)。」
乃躬裝武備、云々。
乃(すなは)ち躬(み)に武(たけ)き備へを装(よそ)ふ、云々(しかしか)。
於是、素戔鳴尊誓之曰、吾若懷不善、而復上來者、吾今囓玉生兒、必當爲女矣。如此則可以降女於葦原中國。
於是(ここに)、素戔鳴尊誓(うけひ)して[之]曰はく、「吾(あれ)若(も)し不善(よから)ぬことを懐(おも)ひて[而]復(ま)た上(のぼ)り来たら者(ば)、吾(われ)今玉を囓(か)み生(な)す児(こ)は、必ず[当]女(をみな)為(な)る当(べ)し[矣]。如此(かく)あらば則(すなは)ち以ちて女(をみな)を葦原中国(あしはらのなかつくに)に[於]降ろす可し。
可以降女…接続詞「以」が、助動詞「可」と動詞「降」の間に入ることはあり得ないのだが、「可以」と熟してほぼ「可」と同様に使う場合がある。
如有淸心者、必當生男矣。如此則可以使男御天上。
如(も)し清き心有ら者(ば)、必ず[当]男(をのこ)を生(な)す矣(なり)。如此(かく)あらば則ち以ちて男(をのこ)をして天上(あまのうへ)を御(をさ)め使(し)む可(べ)し。
且姉之所生、亦同此誓。
且(また)姉之(の)生(な)す所は、亦(また)此の誓(うけひ)と同じくす。於是(ここに)、日の神先に十握剣(とつかのつるぎ)を囓(か)み、云々(しかしか)。
(この部分に関わる注記)
太諄辭、此云布斗能理斗。
太諄辞、此れを「ふとのりと」と云ふ。
千座置戸…[名] 罪人が罪を償うために出す多くの品物。また、その置台。
解除(げじょ、はらへ)…[名] ①穢れをはらい除くこと。②罪を償うために、罪人に物を出させたり罪を科したりすること。
…[形] たすける。[形] 心を込めて教えるさま。
ふとのりと(太諄辭)…[名] 接頭語「太」は、美称。「諄辞」を検索すると、神社の祭詞などを集めた『諄辞集』(本居豊穎 撰)という書があった。
…[動] 言い争う。叫ぶ。
…[名] 身体。
…[動] せむ。罪をせめ、とがめる。
…[動] さる。へだつ。
…[動] はばかりさける。
…[動] (金を)借りる。
…[動] ほしいままにする。
…[副] ただちに。
…[接] すなわち。
あふぐ(仰ぐ)…[他動] 上を見上げる。
 天児屋命(あまこやのみこと)、天鈿女(あめのうずめ)に役割が与えられている。
 一書3は、他と順番が大きく異なる。日神・素戔嗚尊は、初めは共に天にいて営田する。しかし、素戔嗚尊の乱暴な行いにより、日神は天岩戸に閉じこもる。 日神が出て、諸神によって素戔嗚が追放された後、再び上って誓(うけ)ひの場面になる。日神が女神を生んだ部分は「云々」として省略され、素戔嗚は日神の瓊の端を噛み、六男神を生む。 この後、素戔嗚は六男神を日神に託し、自身は納得して根国に降る。

【吉棄物(よしきらひもの)・凶棄物(あしきらひもの)】
 一書2は秡具(はらへつもの、罪を償うもの)の一部として、一書3は千位置き戸として、手の爪、足の爪を差し出す。
 頭に「よし」「あし」がついているが、「足=悪し」だから、「手=良し」とする単なる語呂合わせであって、深い意味はないように思われる。 どちらも「罪を償うために差し出すもの」であり、それらに本質的な差異がないからである。

【千位置き戸(ちくらおきど)】
 罰としての財産没収である。この単語があるということは、飛鳥時代から奈良時代に、こういう刑があったのだろうと思われる。
 素戔嗚は、頭髪あるいは髭、手足の爪、唾液、鼻汁を差し出しているが、一書2では「千位置き戸として科せられたもの」、書紀・本文では「千位置き戸とは別に科せられたもの」である。
 爪を抜く、頭髪を抜いて供出すれば苦痛を伴うからあり得るが、一書2のように白和幣に唾液、青和幣に鼻汁を代用すれば、諸神は「ふざけている」と言って怒りを買うであろう。その結果、容赦なく追放されたと読み取れる。

【頭髪または髭】
 記で髭を切るとするのは、速須佐之男命には八束の髭が伸びていたのだから、筋が通っている。ただ、それが刑罰としてどの程度の重みがあるかは別である。
 書紀本文では、千位置き戸の物品だけでは不十分で、頭髪を抜かれてやっと罪の贖いとして認められた。ことによると一書2のように唾液と鼻水を和幣として、千位置き戸に置いたのかも知れない。 だとすれば、話は「唾液と鼻汁では贖いにならないと諸神の怒りを買い、とうとう頭髪を抜かれてしまった」ことになり、話の筋が通る。
 一方、記ではその辺りの事情には深入りしない。この後、出雲の国で業績を上げるので、早く切り上げてそちらの話に移りたいという気持ちが感じられる。どうも、須佐之男命を英雄視する方に軸足を置いている。 対照的に一書3では、素戔嗚の罪の償いと、追放後の惨めな姿が長々と書かれる。

【爪を抜く刑】
 これも、飛鳥・奈良時代の社会に、こういう刑罰があったことが反映されたと想像される。何かその資料はないかと思って検索をかけたら、出てくるのは拷問史ばかりで、気分が悪くなった。本格的な拷問に比べれば、爪を抜くことなどごく軽いものである。

【刑罰と秡い】
 「はらい」とは穢れを除くことであるが、刑罰によって罪を贖うことも「はらい」という。犯罪に手を染めることを、一種の穢れとする感覚があったようである。

【やらふ・はらふ】
 一書2の注記から、「追い払う」意味で、「やらふ」「はらふ」のどちらも使われていたことがわかる。 だから「逐」のよみは、「はらふ」も「やらふ」もあり得たのだろう。だから、記は、確実に「やらふ」と発音させたいからこそ、万葉仮名にしたのである。

【大気津比売】
 「け」は「食」、「つ」は連体修飾のための古い格助詞。つまり「大いなる食の女神」である。
 国生みで、四国を生んだときに、その4つの国のひとつ「粟の国」の別名が「大宜都比売(おほげつひめ)」である。(第35回)「粟」が食物に通ずるからであろう。
 また、国生みの後の神生みにおいて、その32柱目に生んだのが「大宜都比売」である(第37回)。この神に関しては、整理が不完全であるが、なにしろ神なので、何通りの姿も持ちうるから問題はないだろう。
 ここと同様の話は、書紀の一書(「次生海」の部分の一書11)に、月読命が保食神(うけもちのかみ)を殺した話としてでてくる(第44回)。そこでは、保食神の死体の各部から生った穀物の種子を採取して、人民に農耕を始めさせようと言ったのは天照大神である。 須佐之男命の方の話では、種を採取したのは、神産巣日御祖命(かみむすひのみおやのみこと)である。神産巣日命は、天地初発(第30回)から3柱目に登場し、現れてすぐに姿を隠した。

【出雲風土記との関連】
 「出雲風土記によれば、須佐之男命が各地を開拓した後に当地(須佐)に来て最後の開拓をし…」という解説が見られる。
 念のために出雲風土記の関連部分を整理すると、
 須佐乃袁の子のうち、7柱はそれぞれ座す郷を選び、また、その内1柱は山に麻を蒔いた。
 須佐乃袁自身が立ち寄った地は、郷が1か所、山が2か所ある。
 須佐乃袁は飯石郡須佐郷が気に入り、自らの鎮魂の地とし、この地に大須佐田・小須佐田を定めた。
 これらが「須佐之男命が各地を開拓した」と解釈されてきたと思われる。詳しくは次回以後に取り上げる。
 前項の「次生海」の一書11には、死体に生じた穀物の種子を栽培させ、 「顕見(うつし)き蒼生(あおひとくさ)、之を食らひ活く可し。〔現在の人民がこれを食糧として、生きていくべきである〕と書かれている。 これは須佐之男命が各地で開拓を行い、新たに畑を作り出したことに通ずる。 従って、ここに置かれた大気津比売の話は、古い出雲神話に残る須佐乃袁の開拓事業を暗示していると考えられる。ここを出雲地域の人々が読めば「あ、あの話だ」と思い出し、記を身近に思うことだろう。 須佐之男命の業績を取り上げることにより、過去に倭に征服された記憶を起源とする反中央感情をなだめる目的もあったかも知れない。

まとめ
 「令」の使い方は、正統的な漢文とは異なる。独特な使い方は他にも「爾」の接続詞的な用法があり、また動詞の連体形につく「之」は、特に完了の助動詞「き」の連体形「し」を表している可能性がある。 さらに、「所+動詞」は、万葉集と同じく動詞の連体形を表す記号であり、いちいち「~ところの」とは読まないようである。
 これらには、書紀ともまた相違点がある。記の和文解釈は、平安時代からの重い伝統があり大切なものであるが、思い切って解釈の歴史をすべてなかったものとして、記の原文そのものから、その表現ルールを洗い出したいと考えている。
 次に一書3では、誓(うけ)ひと磐戸立てこもりの順序が逆転している。このように、素材神話には、同一起源から派生した変種があり、記紀はそれらから選んで綴り合わせたと思われる。 従って、食物神のように、同じ話が須佐之男命にでてきたり、月読命の話ででてきたりする。
 しかし、素材神話の置き場所は、充分その効果を考えたようである。 食物神の話には、「出雲風土記との関連」で述べたように、地域に伝わる須佐乃袁の開拓神話への配慮がある。 以前、記の目的は民衆を精神的に統合することだと述べたが、その一つの現れであると言える。
 それに対して書紀は官僚向けだから、素戔鳴が追放される場面に大気津比売の話は必要ないのである。

2014.02.19(水) [052] 上つ巻(建速須佐之男命8) 
故 所避追而 降出雲國之肥/上/河上名鳥髮地
此時箸從其河流下

故(かれ)、所避追(やらひおはえて)[而]、出雲国(いづものくに)之肥〔上声〕河上(ひのかはかみ)の鳥髪(とりかみ)と名(なづく)地(ところ)に降(お)りき。
此の時、箸(はし)其の河従(ゆ)流れ下(くだ)る。


於是須佐之男命 以爲人有其河上而
尋覓上往者 老夫與老女二人在而 童女置中而 泣

於是(ここに)、須佐之男(すさのを)の命(みこと)、其の河上(かはかみ)に人有りと以為(おも)ひて[而]、
尋(たづ)ね覓(もと)め上(かみ)に往(ゆ)け者(ば)、老夫(おきな)与(と)老女(おみな)と二人在(あ)りて[而]、童女(わらはめ)を中(なか)に置(お)きて[而]泣きつ。


爾問賜之 汝等者誰
故其老夫答言 僕者國神大山/上/津見神之子焉
僕名謂 足/上/名椎 妻名謂 手/上/名椎 女名謂 櫛名田比賣

爾(ここに)、之(こ)を問ひ賜(たま)はく「汝等(いましら)者(は)誰(た)そ。」ととひたまひ、
故(かれ)、其の老夫(おきな)答へてまをさく、「僕(やつこ)者(は)国神(くにつかみ)、大山〔上声〕津見神(おほやまつみのかみ)之(の)子焉(なり)。
僕名(やつこがな)は足〔上声〕名椎(あなつち、あしなづち)と謂(まを)し、妻(つま)の名は手〔上声〕名椎(たなつち、てなづち)と謂(まを)し、女(むすめ)の名は櫛名田比売(くしなだひめ)と謂(まを)す。」と言(まを)す。


亦問 汝哭由者何
答白言 我之女者自本在八稚女
是高志之八俣遠呂智【此三字以音】毎年來喫
今其可來時故泣

亦(また)問ひたまはく「汝(いまし)が哭(な)くや由(よし)者(は)何(なに)そ」ととひたまひ、
答(こた)へ白(まを)さく「我之(あが)女(むすめ)者(は)自本(もとより)八(やたり)の稚女(をさなきむすめ)在(あ)りき。
是(これ)、高志(こし)之(の)八俣(やまた)の遠(を)呂(ろ)智(ち)【此の三字音(こゑ)を以ちゐる。】毎年(としごと)に来(き)て喫(くら)ひき。
今其れ来(く)可(べ)き時なるが故(ゆゑ)に泣けり。」と言(まを)す。


爾問 其形如何
答白 彼目如赤加賀智而 身一有八頭八尾
亦其身生蘿及檜榲 其長度谿八谷峽八尾而
見其腹者悉常血爛也【此謂 赤加賀知 者今 酸醤 者也】

爾(ここに)、「其の形(かたち)如何(いか)に」と問ひたまひ、
答へ白(まを)ししく「彼(か)の目は赤(あか)加賀智(かがち)の如(ごと)くありて[而]、身一つに八つの頭(かしら)、八つの尾(を)有り。
亦(また)其の身に蘿(こけ)、檜(ひ)、榲(すぎ)に及びて生(お)ひ、其の長さは谿(たに)は八谷(やたに)、峡(かひ)は八尾(やを)〔=尾根〕を度(わた)して[而]、
其の腹(はら)を見れ者(ば)悉(ことごと)く常(つね)に血(ち)爛(ただ)る[也]。」【此の「赤加賀知」と謂ふ者(は)、今の酸醤(かがち)者(なり)[也]。】とまをしき。


 さて、追放されて、出雲国の肥河(ひのかわ)の川上、名を鳥髪という地に降りました。 この時、箸がその川を流れ下りました。
 そのため、須佐之男(すさのを)の命は、人がその川上にいるだろうと思い、 尋ね求めて上に行くと、老夫と老女の二人がおり、童女を間に置いて泣いておりました。
 そこで、この様子に「あなた方はだれか。」と問われました。 それにその老夫が答え、「私めは国津神、大山津見(おおやまつみ)の神の子でございます。 私めの名は足名椎(あしなつち)と言い、妻の名は手名椎(てなつち)と言い、女子の名は櫛名田比売(くしなだひめ)と言います。」
 また「あなた方は、どうして泣いているのか。」と問われ、 答え申し上げるに、「私の娘は、もともと八人の女子がおりました。 それが、越の八俣(やまた)の大蛇(おろち)が毎年来て食われてしまいました。 今また、来るであろう時となったので、泣いておりました。」
 そして「其の形はどのようであるか。」と問われ、 答え申し上げるに、「その目はホオヅキの如くして、体一つに八つの頭と八つの尾がございます。 またその身に苔と檜、杉が生え、その長さは八つの谷、八つの尾根に渡り、 その腹を見れば、どこも常に、血爛(ただ)れておるのでございます。」


おる(降る、下る)…[自]ラ行上二 くだる。
より…[格助] 起点、経由、比較など。
ながる(流る)…[自]ラ行下二 流れる。おちる。
おつ(落つ)…[自]タ行上二 落ちる。流れ下る。
たづぬ(尋ぬ)…[他]ナ行下二 さがし求める。
…[動] もとむ。探し求める。
…[終助] 体言または連体形につき、話し手自身が判断がつかないという疑問の意を表す。上代は「誰か」など係助詞として、疑問詞の下に直接付いた形で疑問を表すことが多い。
おゆ(老ゆ)…[自] ヤ行上二 年をとる。
おきな(翁)…[名] 年をとった男。
おみな…[名] 年をとった女。
おうな(嫗、媼、老女)…[名] 「おみな」の音便形。
…[形] をさなし。
わかし…[形]ク 年齢が少ない。幼い。
また(股・胯・叉・岐・俣)…[名] ひとつのものがふたつ以上に分かれる部分。
としのは(毎年)…[名] 毎年。「としごと」と同じだが、「としのは」は万葉集に多数の例がある。
…[動] くらふ。のむ。
くらふ…[他動]ハ行四段 食べる。飲む。
わらはめ(童女)…[名] 女の子。
(尾)…[名] 尾。
谿…[名] 外界と通じない山中の川。深い谷間。
…[名] たにがわ。たにあい。
かひ(峡)…[名] 峡谷。
(尾、峯)…[名] 尾根。
…[形] ただる。熟しすぎたさま。(資料[09]参照)
いかに(如何)…[副] どのように。
あかかがち(赤酸漿)…[名] 赤く熟したほおずき。
…[名] ヨモギの一種。かずら。
こけ(苔、蘚、蘿)…[名] コケ植物や、地衣類・シダ類、種子植物のごく小形のものなどの総称。湿地や岩石・樹木などに生える。
…[名] ひのき。
…[名] すぎ。

【万葉集からよみを探る】
◎  
 万葉集では、大量に使われ「おる」「ふる」「おつ」「くたつ」(日が傾く、夜が更ける)がある。
 また、「あま」と「おる」が合体した「天降る」(あもる)もある。
◎ 
 万葉集では、「より」または「
 「ゆ」は古い格助詞で、起点・経由・比較・手段。つまり「より」とほぼ同じ。
 万03-0318「田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留」(たごのうらゆ うちいでてみれば ましろにぞ ふじのたかねに ゆきはふりける)が有名。
◎ 老夫
 おきな、おひびと。万葉集には一例がある。16-3794 「老夫之歌丹=おきなのうたに」
◎ 汝等
 万葉集に一例がある。06-0973 「汝等之=いましらし」ここでは「今知らし」(知る=国を治める)をあらわすために、よみを借りたものである。
◎ 
 あたま。かしら。
 「かしら」が一例ある。万20-4346 「知〃波〃我 可之良加伎奈弖」(ちちははが かしらかきなで)

【所避追】2021.2.13改
 前段の「(かむ)やらひにやらふ」を受け身にしたとすれば、「かむやらひにやらはゆ」となる。 ただ「やらひ-やらは」は語呂がよくないから、やはり「やらひ」は一回のみか。

【以為】
 「思ふ」という意味。漢文では「おもへらく」と読み下し、引用文を導く。ここでは引用文にするには短いので、目的語に組み込んだ。

【大山津見神】
 神生みの21柱目。第36回参照。 「やまつみ」は「山の霊」の意味で、「大」がつくから、そのうちの代表格である。

【国神(くにつかみ)】〔地祇〕
 記ではじめて、「くにつかみ」の表現が出てくる。「大山津見神」は山の霊(ち)なので、地上世界の神なのだろう。
 もともと天神(あまつかみ)・国神の区別は、天神を祀る天照の勢力が、先住民を制圧した歴史を反映している。天照の天孫が降りる前に、もともといた、土着の神が国神である。
 伊邪那岐・伊邪那美が神生みした中に、天神(あまつかみ)、国神がしばしば対になって現れる。例を上げる。
・あめのさつち(天之些土)・くにのさつち(国之些土)
・あめのさぎり(天之狭霧)・くにのさぎり(国之狭霧)
・あめのくらど(天之暗処)・くにのくらど(国之暗処)
 書紀では天津神と国津神は、いずれも伊邪那岐・伊邪那美から生まれたものとして統合される。 これは、天照の勢力と出雲の勢力が和解した結果である。
 かつての敵対関係にあったことの名残が、さまざまな場面に現れることは、しばしば言及している通りである。

【足名椎・手名椎の訓み】
 発音の指定「上」の意味と併せて、後述する。

【蘿】
 森林の構造のうち、地表に這うように存在するコケ層、およびシダ植物など草本層のさまざまな植物を指すと思われる。 もともと「蘿」であるところのヒカゲノカズラや、蔓性植物なども含むだろう。注目されるのは、これとヒノキ、スギの組み合わせが、通常の針葉樹林の構造を表すことである。 つまり、八俣大蛇の姿は、それが通過して揺れ動く森林が一体となっているのである。

【其長度谿八谷峽八尾】
 「其長」(其の長さ)が主語、「度」(渡る)が動詞である。残りの「谿八谷峡八尾」が目的語であるが、この部分の解釈は頭を悩ませる。八尾を八岐大蛇の尾だとすると、意味が通らなくなる。 そうではなく「」を「尾根」と解釈すれば、「」と対の表現になる。つまり、「谿は八谷、峡は八尾。」この場合「谿」は「谷」の意味でなくてはならないが、谿には「深い谷」の意味があるから、OKである。 それに加えて、「」がの意味であれば、対応は完全となる。ところが、例えば「山峡」(やまがい、さんきょう)は、「山峡のいで湯」などと使われ、「山と山の間の低くなったところ」の意味であるからうまくいかない。 ただ、「地峡」という語もあり、両側を海に挟まれた、細い陸地が盛り上がっている。
 さらに、和語の「かひ」を調べると、「かふ」の名詞形。「かふ」の基本的な意味は「交ふ」(交わる)で、「買ふ」「替ふ」などが派生する。「かひ」には、谷間のほかに、交差した状態や、物と物の間を表現する。 ならば、谷を裏返した、山脈の意味もあり得るかも知れない。
 なお、書紀ではこの部分が「蔓延於八丘八谷之間」(蔓性植物が多くの山谷に伸びる)と書かれ、ずっと判り易くなっている。

【~者~者】
 漢文では、「」を文末におくのは、文中に疑問詞(誰、何など)を置き疑問文にする場合があるが、ここでは該当しない。 記の日本語用法では、「者」は専ら係助詞・終助詞の「」や、接続助詞「」を意味する。終助詞にした場合の「は」は感動、詠嘆となっている。 文末の「」を置き字とせず、「なり」として動詞にすれば、2つ目の「」は強調の係助詞である。
 だから、現代語では「~は、今の『酸醤』なのである。」というニュアンスになる。 一方、漢字を見れば、2つの「者」に挟まれた部分が視覚的に浮かび上がり、随分判り易くなる。 もともと漢文、和風漢文とも句読点がないので、文章の切れ目を表すために特定の漢字を使用する。 魏志倭人伝では「其」が、しばしばその役割をする。記では「」「」がそれにあたる。 だからそれらを読み下す場合、適当な和語の接続詞に置き換えるか、場合によって置き字にしても構わないと思われる。

【書紀・本文】
 書紀の本文は、ほぼ記と同内容である。
是時、素戔鳴尊、自天而降到於出雲國簸之川上。
是の時、素戔鳴尊(すさのをのみこと)、天(あめ)自(よ)り[而]降(くだ)りて、出雲国の簸之川上(ひのかはかみ)に[於]到りき。
…[接] 副詞的修飾語と動詞をつなぐ。
時聞川上有啼哭之聲。
時に、川上に啼哭(いさちる)[之]声(こゑ)の有るを聞けり。
故尋聲覓往者、有一老公與老婆、中間置一少女、撫而哭之。
故(かれ)、声を尋(たづ)ね、覓(もと)め往(ゆ)け者(ば)、一(ある)老公(おきな)与(と)老婆(おうな)と有り、中間(はざま)に一(ひとりの)少女(わらはめ)を置きて撫(な)でて[之]哭(な)けり。
素戔鳴尊問曰、汝等誰也。何爲哭之如此耶。
素戔鳴尊(すさのをのみこと)問ひたまひて曰(い)はく「汝等(いましら)は誰(た)そ[也]。何そ[之]為哭(いさちること)此の如き耶(や)。」ととひたまひ、
對曰、吾是國神。號脚摩乳。我妻號手摩乳。此童女是吾兒也。號奇稻田姬。
対(こた)へ曰(まを)さく「吾(われ)は[是]国神(くにつかみ)にて、脚摩乳(あしなづち)と号(なづ)け、我(わが)妻は手摩乳(てなづち)と号け、此の童女(わらはめ)は[是]吾児(あがこ)[也]なりて、奇稲田姫(くしなだひめ)と号く。
所以哭者、往時吾兒有八箇少女。毎年爲八岐大蛇所呑。今此少童且臨被呑。無由脱免故以哀傷。
哭(いさち)る所以(ゆゑ)者(は)、往(ゆ)きし時、吾児に八箇(やたり)の少女(わらはめ)有り。毎年(としごと)に八岐大蛇(やまたのをろち)の為に所呑(のま)ゆ。今此(この)少童(わらは)も且(また)被呑(のまゆる)に臨(のぞ)めり。脱(ぬ)け免(のが)るる由(よし)無かるが故(ゆゑ)を以ちて哀(かな)しく傷(いた)みまつる。」とまをす。
 中国のネット百科『漢典』によれば「脱免…脱身免禍或免罪」⇒情況から抜け出し、禍から免れる。或いは罪から免れる。(脱身…或る状況から抜け出す)
 哀傷…死を悲しみいたむ。
〔中略〕
頭尾各有八岐、眼如赤酸醤【赤酸醤此云阿箇箇鵝知】松柏生於背上而、蔓延於八丘八谷之間。
頭(かしら)、尾(を)各(おのもおのも)八岐(やつまた)に有り、眼は赤酸醤(あかかがち)の如く、松、柏(このてかしは)は背の上に[於]生(お)ひ、蔓(かづら)は八丘(やをか)八谷(やたに)之(の)間(ま)に延(の)べり。
 このてかしは(柏)…[名] ヒノキ科の常緑高木。「柏」(かしわ)とは異なる。高地の針葉樹林なので、中国の「柏」の原義による、檜の一種だと思われる。(右図)
――記との相違点は、①「誰かいるかも知れない」と思った理由が、「箸を見つけた」のではなく、泣き声を聞いたこと。②アシナヅチ・テナヅチを「大山津見の子」の子とする部分が省かれていること。である。

【一書2】
是時、素戔鳴尊、下到於安藝國可愛之川上也。
是の時、素戔鳴尊(すさのをのみこと)、下(くだ)りて安芸国(あきのくに)可愛之(えの)川上(かはかみ)に[於]到(いた)りき[也]。
彼處有神。名曰脚摩手摩。其妻名曰稻田宮主簀狹之八箇耳。此神正在姙身。
彼処(そこ)に神有り。名を脚摩手摩(あしなづてなづ)と曰ふ。其の妻、名を稲田宮主簀狭之八箇耳(いなだのみやぬしすさのやつみみ)と曰ふ。此の神正(まさ)に姙身(はらめるみ)在(な)り。
夫妻共愁、乃告素戔鳴尊曰、我生兒雖多、毎生輙有八岐大蛇來呑。不得一存。
夫妻(めをと)共に愁(うれ)へ、乃(すなは)ち素戔鳴尊に告(つ)げて曰(まを)さく「我(あ)が生(な)しし児(こ)多かれ雖(ど)も、生(な)す毎(たび)に輒(すなは)ち八岐大蛇(やまたのをろち)来たりて呑(の)めり[有]。一(ひとり)も存(たも)ち不得(えず)。
ごとにする。
今吾且産。恐亦見呑。是以哀傷。
今吾(われ)且(ま)た産まむ。亦(また)見呑(のまゆること)を恐りまつる。是(こ)を以ちて哀(かな)しく傷(いた)めり。」とまをす。
――一書2では、真髪触奇稲田姫(まかみふるくしなだひめ)はまだ生まれず、稲田宮主簀狹之八箇耳(いなだのみやぬしすさのやつみみ)は妊娠中で、生まれてくる子の宿命を案じている。 この点と、夫婦神の名前が本文と異なる。

【一書3】
素戔鳴尊、欲幸奇稻田媛而乞之。
素戔鳴尊(すさのをのみこと)、奇稲田媛(くしなだひめ)に幸(めぐみ)せむと欲(おもほ)して[而]之を乞ひたまひき。
…[動] 寵愛する。
脚摩乳・手摩乳對曰、請先殺彼蛇、然後幸者宜也。
脚摩乳(あしなづち)・手摩乳(てなづち)対(こた)へて曰(まを)さく「請はくは、先に彼(か)の蛇(をろち)を殺し、然る後(のち)に幸(めぐみ)たまわ者(ば)、宜(よろ)し[也]。
彼大蛇、毎頭各有石松。兩脇有山。甚可畏矣。將何以殺之。
彼(かの)大蛇(をろち)、毎頭(かしらごとに)各(おのもおのも)石(いは)松(まつ)有り。両(ふたつの)脇(ほとり)に山有り。甚(いと)畏(おそ)る可(べ)き矣(や)。将(まさ)に何(いかに)以ちて之(これ)を殺(ころ)さむか。
――一書3では、奇稲田姫を「妻にする」のではなく、「寵愛」するという表現になっている。 素戔鳴尊の「奇稲田姫を下さい。」という申し出に対し、脚摩乳・手摩乳は、「その前に大蛇を殺してください。娘はその後に差し上げます。」との条件を出している。

【一書4】
是時、素戔鳴尊、帥其子五十猛神、降到於新羅國、居曾尸茂梨之處。
是の時、素戔鳴尊、其の子五十猛神(いそたけるのかみ)を帥(ひき)ゐて、[於]新羅国に降(お)り到(た)り、曽尸茂梨(そしもり)之処(ところ)に居(ましま)す。
乃興言曰、此地吾不欲居、遂以埴土作舟、乘之東渡、到出雲國簸川上所在鳥上之峯。
乃(すなは)ち興言(ことあげ)して曰(い)はく「此の地は吾(われ)居(ましま)すを不欲(ほりせず)。」といひて、遂(つひ)に埴土(はにつち)を以ちて舟を作り、之(こ)に乗り東(ひむかし)に渡り、出雲国簸川上(ひのかはかみ)に[所]在りし鳥上(とりかみ)之(の)峯(みね)に到りき。
はに(埴)…[名] 赤土色の粘土。瓦や陶器の原料。
時彼處有呑人大蛇。
時に彼処(そこ)に、人を呑む大蛇(をろち)有り。
――その後、五十猛神は天下りの時に持ってきた多数の樹木の種を、筑紫をはじめとして全国に蒔いた。 「五十猛神」は神の名とされているが、古くは「多数の猛き神」だったとも考えられる。 その理由は「帥きゐる」(もともと軍を統帥する意味)という表現、「莫不播殖」(植えざるところなし)つまり広汎に植えたという表現があり、また出雲風土記では複数の子を各地に置いたと書いているところである。
 朝鮮半島から渡来した神であるとするところは、一書5と共通している。また、一書4・一書5では五十猛神は紀伊国で大神になる。紀伊国は森林が豊富であったことに関係すると思われる。 これらの件については次回以後に考察する。

【箸】
 箸が登場するのは、他に、書紀の第5巻『崇神天皇』の、倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)の話がある。こちらは小さな蛇ではあるが、姫・蛇・箸の三点セットが共通している。 これらにかかわる、古い伝承があったのかも知れない。ただし、日本で箸の使用が始まったのは、聖徳太子のころと言われる。

【斐伊川(ひいかわ)】
 島根県を流れる一級水系の本流。洪水が多く、江戸時代には川を流れを変える土木工事(川違え)が繰り返された。 一番規模の大きい川違えは(1635年)。この工事によって、それまで日本海に注いでいた斐伊川を東向きに変え、宍道湖に注ぐようにした。 斐伊川の氾濫が八岐大蛇の伝説のもとになったとする説がある。

【鳥上村】
 島根県仁多郡の鳥上村は、1889年から1957年の間存在した村。現在は奥出雲町の一部。斐伊川水源近くの流域にある。

【江の川(ごうのかわ)】
 一書2では、伝説の舞台は可愛川(えのかわ)上流とされている。
江の川(ごうのかわ)広島県の山岳地帯から島根県を流れて日本海に注ぐ。広島県内は可愛川(えのかわ)とも言う。
 八岐大蛇の伝説は、島根・広島両県の県境付近の山岳地帯の住民に伝わっていたものと想像される。

【足名椎(あしなつち)・手名椎(てなつち)】
 古く、手は「た」であった。そこで「たなつち」で検索をかけたが皆無で、100%「てなつち」であった。 だから、これらの神名は手を「て」いうようになってから登場したことになる。
 また、「つ」「づ」のどれが使われるかというと、つ:356万件、づ:28万件、ず:211万件であった。〔「ず」は「づ」の現代仮名遣い〕 書紀では「脚摩乳手摩乳」である。ナヅ(撫)に「摩」を当てたと思われるから、濁音である。
 なお、手足を名前に割り振った例は、以前の手端吉棄物(たなすえのよしきらいもの)・足端凶棄物(あなすえのあしきらいもの)にもあったが、それらの関係は不明である。
《足名椎・手名椎の訓み》2021.2.13付記
 足名椎は「アシナツチ」、手名椎は「テナツチ」と訓むのが一般的である。 しかし、足名椎はアナスヱ〔足末;子孫の意〕に準えてアナツチも可能である。アは足の意だが複合語のみに使わる。〔アト(跡)、アユヒ(足結)など〕 手名椎も、タナゴコロ〔掌〕に準えてタナツチも可能である。テは複合語においてタに変化する場合が多い。〔タスキ(襷)、タモト(袂)、タヒ(手火;=たいまつ)など〕
 ここで、この二語に添えられた「上」はイントネーションの記号で、高い音〔振動数が多い〕を指示するものと仮定すると、その音声も明るくなり、ア母音の一音節語(ア、タ)であったかも知れない。 イントネーション記号は話者への指示で、古事記の第一巻が口承文学の延長線上にあったことを示すと考えられる。 かつ、ここにその記号が必要だったのは、記が書かれた時代でも一般的に知られた名前ではなかったからであろう。
 ただ、書紀の表記「脚摩乳」はアシナヅチが確定的だから、古事記筆者がアナツチのつもりで書いたとしても、 既に当時からアシナヅチと訓む人が主流だったと推定される。
 なお、ツチは土・地であるが、「土をつかさどる神のことも指す」〔『古典基礎語辞典』大野晋2011〕。 八岐大蛇の襲来を畏れる民の土着性を表す名前であろう。

【根の国】
 須佐之男が大泣きして行きたいと言った先は、「〔ははの)〕国、根之堅洲国」つまり、伊邪那美が黄泉津大神となって支配する黄泉の国である。
 また、書紀本文では、伊邪那岐の方から「遠く根の国に適(い)くべし」と命じている。 さらに、書紀『是後素戔鳴尊之為行也甚無状』の段落の一書3の、「扇天扇国〔天を仰ぎ、国を仰ぐ〕という表現から見ても、追放先が「根国〔=根之堅洲国、=底つ根国〕すなわち、地下の黄泉の国であることは確定する。
 さて、追放された須佐之男は再び天に昇るが、天照の岩戸立て籠もり事件の騒動の後、八百万神によって再び追放された。
 ところが、2回目の追放で降り立った地は、黄泉の国ではなく、葦原中津国(地上の国)の、出雲国の肥の河(簸之川)上流なのである。
 その事情を整理するために、もう一度黄泉の国を振り返ってみる。黄泉の国の入り口である黄泉比良坂は「今に言う出雲国の伊賦夜坂」と書かれ、出雲国にある。また出雲国の地名「島根郡」も「根の国」に由来する。 そして黄泉の国の地域は、鉄の産地でもあった。だから、根の国は黄泉の国と同じところで、出雲の国の中にある。
 その黄泉の国の色合いの強い出雲の国が、宗教的な権威をもつ特別な国に変貌したのは、大国主の国譲りのときである。それ以前は、出雲地域は敵国として征服の対象であった。 天照の勢力にとって敵であるから、出雲地域は貶められて、黄泉の国の所在地にされてきたのである。
 したがって、出雲地域は過去の記憶に基づく「黄泉の国の地」、そして「葦原中津国に属する神聖な国」という二重性をもっていることがわかる。

【「速」がつかなくなった須佐之男命】
 「速」は、確かなことは言えないが「はやる」(勇み立つ)のような意味かも知れない。また、「建速須佐之男命」の「」は武装している意味がある。
 それが、出雲国に降りると同時に消え、単に「須佐之男命」になる。出雲風土記では「須佐乃袁命」あるいは「須佐乃乎命」の名であるので、出雲寄りの名称になったと言える。 ただ、次の段落で「」が復活するので、これは絶対的ではない。
 出雲寄りになったと言えば、高天原では手のつけられない乱暴者であった須佐之男が、出雲の地に下った後は一転、英雄となる。八岐大蛇を退治して、呑まれようとしていた娘を救う。また出雲風土記によれば、農地を開拓して豊かな国を築いた。
 これは、須佐乃袁が、もともとは出雲国の土着の神として、崇められていたことを示している。 それが、国譲りにより天照族に出雲が統合されたことに伴い、高天原に須佐之男を天照の弟として迎え入れた。 とはいえ、かつて激しく対立していた出雲地域から来た神を大歓迎することは、感情的には受け入れ難いことである。結局暴れ者として罪を負わされ、とうとう追放されてしまった。 そして出雲に戻ったとき、やっと本来の英雄の姿を取り戻したのである。最後は須賀の地に宮を立てて、その地に隠遁したことを示唆する。しかし、その後いつの間にか根堅州国に住むようになる。ここでも、黄泉平坂が根堅州国からの出口とされるので、根の国が黄泉の国と同じ意味であることが裏付けられる。
 なお、須佐之男は最初の追放後、一度は天に上る。その目的は、結局は誓(うけ)ひによって、天孫に半分血を残すためである。天皇の系図は天照から始まるが、同時に出雲系の神との混血にしなければならない。それが、天武天皇が号令をかけた国家統合なのである。

【須佐之男が最後に住む地】
 前項で須佐之男に「地元の英雄」と「高天原の乱暴者」の二面性を見たので、その最後は地上の国か、それても黄泉の国かを確認しておく必要がある。
 記では、大穴牟遅神(おおなむぢの神。大国主の別名)の物語の最後で、大穴牟遅神は「須佐能男命所坐之根堅州國」(須佐之男命がいる根の堅州(かたす)国)を訪ねる。前項で見たように、いつの間にか根の国に来ている。そして大穴牟遅神は、須佐之男の娘を連れてそこから逃げ出す。 追う須佐之男は「故爾追至黃泉比良坂、遙望、呼謂大穴牟遲神。」つまり、黄泉平坂まで追うが。それ以上は追わず、遠くから、逃げていく大穴牟遅神に向かって叫ぶ。それが、記に残る須佐之男の最後の姿である。
 書紀では、奇稲田姫との間に大己貴神(おほなむちの神。大穴牟遅神と同じ)を生み、「遂就於根國矣〔最後に根の国に行った〕。また、その一書5にも「遂入於根国」とある。
 出雲風土記では、須佐能袁命は須佐を自らの鎮魂の地とし、自身は安来の地に座す。
 これらから読み取れるのは、記紀は根の国を、出雲国内の狭い範囲に限定することによって、辛うじて一貫性を保っていることである。(出雲地域が敵であった時代は、出雲全体が根の国であったと思われる) また、記紀と出雲風土記で、それらの辻褄を合わせようとすると、根の国、つまり黄泉の国は安来の地となり、地元にとって迷惑なことになる。
 なお、詳しいことは、改めてその段で見る。

八俣大蛇が象徴するもの】
 八俣大蛇とはどのような姿であったかを、見てみよう。
 ・目は熟れたホオヅキの実のように真っ赤である。
 ・頭は8頭に分かれ、尾も8本に分かれている。

 ところがここからは、大蛇の体は幻想的に拡大する。
 ・が生える、つまり山岳地帯の針葉樹林そのものの姿となる。 一書3では、頭には石が転がり、松が生えている。「石」は、現在の語感では「岩」にあたる。
 記にもどると、
 ・体長は、8つの谷・峰に渡ると表現されている。
 八は吉数であると同時に、その繰り返しは、語調を整える。 書紀の本文では、体に松と檜類の植物が生え、体から延びた蔓〔かずら=つる性の植物〕を、8つの丘、8つの谷まで引きずっているとする。この表現の方が、記よりは分かり易い。
 そして、腹部は血で爛れる。つまり、腫れて血が滲んでいる。
 一般には、八岐大蛇は川の氾濫が伝説化したとされるが、「血で爛れる」部分は洪水には合わない。また、流路を変えるような氾濫は下流で起こるが、八岐大蛇が襲ったのは上流である。
 「血で爛れる」表現は、洪水というよりは、むしろ戦闘を想像させる。大量の軍勢が峰を越え、森林を揺らしながら複数の谷に沿って襲撃し、大量の血を流し、人々の命を奪ったのである。それが八岐大蛇の記述に最も符合すると思われる。
 注目すべきは、出雲地域にとっては恐怖の襲撃なのに、その憎むべき相手が、吉数、すなわち八頭・八尾を持つことである。
 結局これは、八を吉数とする勢力、つまりの侵略軍が、瀬戸内海側から山越しに、出雲の山岳地方を襲撃する様子を描いたと見ることができる。つまり、八岐大蛇は倭の側に立つ目出度い存在なのである。
 ただし、ひとつ気になることがある。それは八岐大蛇の上に「高志の」がついていることである。つまり越(北陸方面)から襲撃されたことを匂わせる。
 もし、本当に越から来たのなら、中国山地越えではなく海岸側からであろう。もともとの伝承では「山を越えてきた」とあったことを利用して、倭が、自分が襲撃したことを隠蔽するために「越」に濡れ衣を着せたと考えることができる。
 しかし、吉数八によって、正体はもうばれている。須佐之男は倭から遣わされた大蛇をずたずたに切り裂いた、出雲の大英雄である。その須佐之男が高天原に上れば、乱暴者として忌み嫌われるのは当然であろう。
 実は「やまのをろち」は、もともとは「やまのをろち」だったのかも知れない。

【「をろち」とは】
 「を」は尾根。「ち」は「やまつ」「みづ」などに共通する「」。「ろ」は「の」が訛ったものとする説がある。 尾根を越えて襲撃する怪物(あるいは軍勢)を支配する霊(ち)は、山の尾根の「霊」なのである。

まとめ
 畿内の政権と、出雲の王国の間に厳しい対立関係があったことが、神武天皇の東征と、大国主の国譲りの話から読み取ることができる。
 神武天皇は、日向国から、豊国、筑紫国、安芸国、吉備国を経由して畿内に達する。山陰側を避けて、山陽側を征服しながら進む。
 一方、大国主命は、高天原の神と間で交渉した末「此葦原中国者、隨命既献也。」(この葦原中つ国は、命(めい)に随い既(すなわ)ち[=直ちに]献ず)と言って、 「天神御子之天津日継所知」(天照の子が代々治めるところ)に委ねた。こうして、今まで支配していた国土を献上した。 記から、国譲りの前に、出雲王国の平定に相当苦労したことがわかる。
 以上の物語から、かつて九州に上陸したアマテラス族が、出雲の王国を避けて移動し畿内に拠点を築いた後に、山陰側への侵攻を繰り返し、最後に国を譲り受ける形で勢力圏に加えたことを示している。
 記紀では、神武東征と国譲りが相前後しているが、もともとが複数の言い伝えをつづり合わせたものだから、あり得ることである。 アマテラス族の東征から、出雲が屈服するまでの時期は、二大勢力は、挟まれた小国を巻き込んで戦闘が繰り返されたのだろう。それが中国で倭国大乱(西暦140~190年ぐらい)とされ、その後「女王共立」により戦乱が収まった時が、国譲りではないかと思われる。 それは、魏志倭人伝(大体3世紀前半の倭国を描く)では、「投馬国」(古代の出雲国)は既に女王国の支配に組み込まれた後だからである。 畿内の勢力は、出雲を屈服させるまで、山陽側から中国山地越しに、繰り返し進攻した。それが、八岐大蛇の中国山地越しの来襲として、出雲地方の記憶に残ったのだと考えられる。
 その後、出雲の大神である須佐之男命を、高天原にいる天照の弟として迎え入れることにより、出雲勢力の末裔に政権との一体感を強めようとする。

2014.03.02(日) [053] 上つ巻(建速須佐之男命9) 
爾速須佐之男命詔 其老夫是汝之女者奉於吾哉
答白恐不覺御名
爾答詔吾者天照大御神之伊呂勢者也【自伊下三字以音】故今自天降坐也
爾足名椎手名椎神白 然坐者恐立奉
爾速須佐之男命乃 於湯津爪櫛 取成其童女而 刺御美豆良

爾(ここに)、速須佐之男命(はやすさのをみこと)、其の老夫(おきな)に詔(のたま)はく「是れ汝(いまし)之(が)女(むすめ)を者(ば)吾(われ)に[於]奉(たてまつ)らむ哉(や)。」とのたまひ、
答へて白(まを)さく「恐りらく、御(み)名(な)を不覚(さと)りまつらず。」とまをし、
爾(ここに)、答へ詔(のたま)はく「吾(われ)者(は)天照大御神(あまてらすおほみかみ)之(の)伊呂勢(いろせ)者(なり)[也]。【「伊」自(よ)り下(しもつかた)三字音(こゑ)を以ちゐる。】故(かれ)今天(あめ)自(ゆ)り降(お)り坐(ま)しき[也]。」とのたまひ、
爾(ここに)足名椎(あなつち、あしなづち)手名椎(たなつち、てなづち)の神白(まを)さく、「然(しか)り坐(ましま)せ者(ば)、恐り立奉(たてまつ)る。」とまをして、
爾(ここに)速須佐之男命、乃(すなは)ち湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に[於]其の童女(わらはめ)を取り成して[而]御(おほみ)美豆良(みづら)に刺したまひき。


告其足名椎手名椎神 汝等釀八鹽折之酒
亦作廻垣於其垣 作八門毎門結八佐受岐【此三字以音】
毎其佐受岐 置酒船而
毎船盛其八鹽折酒而待

其の足名椎手名椎の神に告(のり)たまはく「汝等(いましら)は八塩折(やしほをり)之(の)酒(さけ)を醸(かも)し、
亦(また)、垣(かき)を作り廻(めぐ)らし、其の垣に[於]八門(やかど)を作り、門(かど)毎(ごと)に八(や)佐(さ)受(ず)岐(き)【此の三字音を以ちゐる】を結(ゆ)ひ、
其の佐受岐毎に酒船(さかふね)を置きて[而]、
船(ふね)毎に其の八塩折(やしほをり)の酒を盛(も)りて[而]待て。」とのりたまふ。


故隨告而如此設備待之時
其八俣遠呂智信如言來
乃 毎船垂入己頭飮其酒
於是飮醉留伏寢

故(かれ)、告(のり)の随(まにま)に[而]此如(かく)設(まうけ)を備(そな)へて待ちてありし[之]時、
其の八俣遠呂智(やまたのをろち)信(う)け言(こと)の如(ごと)く来たり。
乃(すなは)ち船毎(ごと)に己(おのもおのも)頭(かしら)を垂(た)れ入れ其の酒を飲みき。
於是(ここに)飲み醉(ゑ)ひ留(とど)まり伏して寝(い)ねき。


爾 速須佐之男命拔其所御佩之十拳劒
切散其蛇者肥河變血而流
故 切其中尾時
御刀之刄毀
爾思怪以御刀之前刺割而見者
在都牟刈之大刀

爾(ここに)、速須佐之男命、其の所御佩(みはかし)之(の)十拳(とつか)の剣(つるぎ)を抜き、
其の蛇(をろち)を切り散らせ者(ば)、肥(ひ)の河は血に変はりて[而]流れき。
故(かれ)、其の中(うち)の尾(を)を切りし時、
御(み)刀(たち)之(の)刃(は)、毀(こほ)れり。
爾(ここ)に怪(あや)しと思ほし、御刀を以ちて之(こ)の前(さき)を刺し割(さ)きて[而]見れ者(ば)
都牟刈之大刀(つむかりのたち)在り。


故取此大刀 思異物而
白上於天照大御神也
是者草那藝之大刀也【那藝二字以音】

故(かれ)此の大刀(たち)を取り、異(あや)しき物と思ほして[而]、
天照大御神に[於]白(まを)し上(たてまつ)れり[也]。
是れ者(は)、草那芸之大刀(くさなぎのたち)也(なり)【「那芸」の二字音(こゑ)を以ちゐる。】。


 そこで、速須佐之男(すさのを)の命が、その老夫に「このお前の娘を、私にいただけないものだろうか。」と仰られました。 答えて「恐れながら、あなたのお名前を存じ上げませんが。」と申し上げました。 それに答えて仰るには「私は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の同腹の兄弟です。そして、天から降りてまいりました。」 そこで、足名椎(あしなつち)手名椎(てなつち)は「そういうことでしたら、恐れながら差し上げさせていただきます。」と申し上げました。 さて、速須佐之男命は、たちまちその娘の姿を湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に変え、御(おん)鬟(みづら)に刺しこまれました。
 その足名椎手名の神に告げられますに「お前たちは八入折(やしおおり)の[何度も繰り返し醸造した]酒を醸(かも)し、 また、周囲に垣を廻(めぐ)らし、その垣に八つの門を作り、門ごとに八つの桟敷[仮の載せ台]を結び、 その桟敷毎に 酒船(さかふね)を置き、 船ごとにその八入折の酒を盛って待ちなさい。」
 そこで、言われました通り、その備えを設けて待っておりました時、 その八岐大蛇(やまたのおろち)がお言葉通り、やって来ました。 すぐに、船ごとにおのおの頭を垂れ入れ、その酒を飲みました。 そして、飲んで醉い、動きを止め、突っ伏して寝てしまいました。
 そこで速須佐之男命は、その佩(お)びられた十拳の剣(とつかのつるぎ)を抜き、 その大蛇(おろち)を切り散らしたところ、肥(ひ)の川は血に変わって流れました。 そして、そのうちの尾を切った時、 御刀の刃が、毀(こぼ)れました。 これは怪しいと思われ、御刀によってこの前を刺し割って見たところ、 つむがり[摘む刈り?]の太刀がありました。
 そこでこの太刀を取ったところ、異(い)なる物と思われ、 天照大御神に謹んで献上しました。 これが、草那芸(くさなぎ)の太刀であります。


おそる(恐る)…[自]上代はラ行上二 うやまいつつしむ。 
いろせ(いろ兄・いろ弟)…[名] 同じ母から生まれた兄または弟。
ゆつ-(斎つ)…[接頭] 名詞の上について、神聖な。清浄な。
ゆつつまぐし(斎つ爪櫛)…[名] 神聖な櫛。
かむ(醸む)…[他]マ行四 酒を醸造する。(古代は口に噛んで酒をつくった)
ふね(船)…[名] 桶。
まうく…[他]カ行下二 用意する。
そなへ…[名] 用意。
さずき(桟敷)…[名] 仮に設けた台、床。
やしほをり(八入折り・八塩折り)…[名] 幾度も繰り返して醸造または、精錬する。(「しほ」は回数の量詞)
…[動] まか-す。(手を加えることなく、目的語の動きにそのまま従う)
まかす(任す、信す)…[他]サ行下二 するがままにさせる。従う。
とどまる(止まる、留まる、停まる)…[自]マ行四段 動きがなくなる。 
…[動] こぼつ。やぶる。破壊する。
こほつこぼつ(毀つ)…[他]タ行四段 壊す。
けし(異し、怪し)…[形]シク 異様な。 
 
【いろせ】
 厳密に言えば、天照と須佐之男は、伊邪那岐が禊をして、左目と右目を洗ったときに無性的に現れたもので、母から生まれたのではない。
 しかし、いつの間にか姉・弟として同じ母の腹から生まれたことになっていることに、誰も気に懸けない。須佐之男が高天原を追放される前に「妣(母)の国=根の国=黄泉」に行きたいと言って泣いたように、母は伊邪那美になった。

【足名椎・手名椎の神】
 老夫と老女は、須佐之男と出会ったときは村人のような印象であるが、須佐之男との会話の途中からと呼ばれるようになる。

【つむがりの太刀】
 辞書には「切れ味のよい太刀の意か。一説に草薙の剣のこととも」と書いてある。 「摘む刈り」と解釈すれば、草を摘んで刈り取るのだから「草薙」と同じ意味となり、自然である。 ただし、「摘む刈り」は農作業用の刀を連想させる。須佐之男が、もともと農耕の神であったことと関係するのであろうか。
 案外、もともと「草薙」は中国地方で使われた農耕用の鉄刀に由来し、それを天照大御神のところに上げ、天照は葦原中国(あしはらなかつくに、地上の国)に天孫を降ろす時に持たせたのが元々の話かも知れない。 だとすれば、草薙の剣は農業生産力を高め、人民を豊かにさせる平和的な意味を含むことになる。

【異(あや)し】2021.2.13改
 「異(け)し」は、本来「普通と違ってよくない」、「怪訝に思う」など否定的な語感があり、もっぱら心につく。 また、異の古訓に「あやし」がある。 須佐之男命は神の御稜威を感じたのだろう、私物化せず天照大御神の許に送った。

【書紀本文】
素戔鳴尊勅曰「若然者、汝當以女奉吾耶。」對曰「隨勅奉矣。」
素戔鳴尊(すさのをのみこと)勅(みことのり)曰(のたま)はく「若然者(もししくあらば)、汝(いまし)[当]女(むすめ)を以ちて吾(われ)に奉(たてまつ)るべきや[耶]。」とのたまひ、 対(こた)へて曰(まを)さく「勅(みことのり)の随(まにま)に奉(たてまつ)らむ[矣]。」とまをす。
故、素戔鳴尊、立化奇稻田姬、爲湯津爪櫛、而插於御髻。
故(かれ)、素戔鳴尊、奇稲田姫を立ち化(かは)らしめ、湯津爪櫛(ゆつつめくし)と為(し)たまひて[而]、御(み)髻(たぶさ)に[於]挿(さ)したまひき。
乃使脚摩乳・手摩乳釀八醞酒、幷作假庪【假庪、此云佐受枳】
乃(すなは)ち脚摩乳、手摩乳をして八醞(やしほをり)の酒を醸(か)ま使(し)め、并(あは)せて仮庪(さずき)を作らしめき。【「仮庪」、此れ佐受枳(さずき)と云ふ。】
八間、各置一口槽而 盛酒 以待之也。
八(や)間(ま)に、各(おのもおのも)一口(ひとくち)の槽(うけ)を置きて[而]、酒を盛(も)り以ちて[之を]待ちき[也]。
至期果有大蛇、
期(かぬ)に至(いた)り、果(は)たして大蛇(をろち)有り。
頭尾各有八岐、眼如赤酸醤【赤酸醤、此云阿箇箇鵝知】、松柏生於背上而蔓延於八丘八谷之間。
頭尾(かしらを)各(おのもおのも)八岐(やまた)有り、眼は赤酸醤【赤酸醤、此阿箇箇鵝知(あかかがち)と云ふ】の如し、松柏[於]背の上に生(お)ひて[而]蔓(かづら)[於]八丘(やをか)八谷(やたに)之(の)間(ま)に延ぶ。
及至得酒、頭各一槽飲、醉而睡。
至りて酒を得(う)るに及び、頭(かしら)各一(ひと)槽(うけ)を飲み、醉(ゑ)ひて[而]睡(ねぶ)りき。
時、素戔鳴尊、乃拔所帶十握劒、寸斬其蛇。
時に、素戔鳴尊、乃(すなは)ち所帯(みはかし)の十握剣(とつかのつるぎ)を抜き、寸(つだつだ)に其の蛇(をろち)を斬(き)りき。
至尾劒刃少缺故、割裂其尾視之、中有一劒。此所謂草薙劒也。【草薙劒、此云倶娑那伎能都留伎。】
尾に至り剣の刃少しき缺(か)けし故(ゆゑ)に、其の尾を割裂(きりさ)き[之を]視(み)せば、中に一(ひとつ)の剣(つるぎ)有り。此れ所謂(いはゆる)草薙剣(くさなぎのつるぎ)也(なり)。【「草薙剣」此れ倶(く)娑(さ)那(な)伎(ぎ)能(の)都(つ)留(る)伎(ぎ)と云ふ。】
割裂…切り裂く。
【一書曰「本名天叢雲劒。蓋大蛇所居之上、常有雲氣故以名歟。至日本武皇子、改名曰草薙劒。」】
【一書(あるふみ)に曰ふ、本(もと)は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と名づけ、大蛇(をろち)の居(を)りし[之][所の]上を蓋(おほ)ひ、常(つね)に雲の気(け)有る故(ゆゑ)を以ちて名づけし歟(か)。日本武(やまとたける)の皇子(みこ)に至り、名を改め草薙剣と曰ふ。】
素戔鳴尊曰「是神劒也。吾何敢私以安乎。」乃上獻於天神也。
素戔鳴尊曰はく「是れ神剣(かむつるぎ)也(なり)。吾(われ)何そ敢へて私(わたくし)して以ちて安まらむや[乎]。」乃(すなは)ち天神(あまつかみ)に[於]上げて献(たてまつ)りき[也]。
神~…不思議で計り知れないさま。神将、神童など。何敢私以安乎…どうして私物化して平気でおられようか。(反語)

【一書2】
素戔鳴尊乃教之曰「汝、可以衆菓釀酒八甕。吾當爲汝殺蛇。」二神隨教設酒。
素戔鳴尊(すさのをのみこと)乃(すなは)ち教(をしへ)して[之]曰(のたま)はく「汝(いまし)、衆(もろもろ)の菓(このみ)を以ちて酒(さけ)八(や)甕(かめ)を釀(か)む可し。吾(われ)汝(いまし)の為(ため)に蛇(をろち)を殺す当(べ)し。」とのたまひ、 二(ふたはしら)の神、教(をしへ)の随(まにま)に酒を設(まう)けき。
至産時、必彼大蛇、當戸將呑兒焉。
産まむ時に至り、必(かなら)ず彼(か)の大蛇(をろち)、戸(と)に当たりて将(まさ)に児を呑(の)まむとす[焉]。
素戔鳴尊勅蛇曰「汝是可畏之神。敢不饗乎。」
素戔鳴尊蛇(をろち)に勅(みことのり)して曰(のたま)はく「汝(いまし)は[是]可畏(おそるべ)き[之]神なり。敢へて不饗(あへざ)らむ乎(や)。」とのたまひ、
敢不饗乎…敢えてもてなしをしないことがあろうか。(反語)
乃以八甕酒、毎口沃入。其蛇飲酒而睡。
乃(すなは)ち八(や)甕(かめ)の酒を以ちて、口毎(ごと)に沃(そそ)き入れき。其の蛇(をろち)酒を飲みて[而]睡(ねぶ)りき。
素戔鳴尊、拔劒斬之、至斬尾時、
素戔鳴尊、剣を抜き之れを斬り、尾を斬るに至りし時、
劒刃少缺割而視之、則劒在尾中。是號草薙劒。
剣の刃少しき缺(か)け割(わ)れて[而]之れを視(み)れば、則(すなは)ち剣(つるぎ)尾の中に在り。是(これ)草薙剣(くさなぎのつるぎ)と、号(なづ)く。
此今在尾張國吾湯市村、卽熱田祝部所掌之神是也。
此れ今、尾張の国の吾湯市(あゆち)村に在り、即(すなは)ち熱田祝部(はふりべ)の掌(つかさど)る所(ところ)之(の)神は是(これ)也(なり)。
はふり(祝)…[名] 神に仕えることを職にする人。
其斷蛇劒、號曰蛇之麁正、此今在石上也。
其の蛇(をろち)を断ちし剣(つるぎ)は、号(なづ)けて蛇之麁正(をろちのあらまさ)と曰ひ、此れ今石上(いそのかみ)に在り[也]。
石上(いそのかみ)神宮…奈良県天理市。石上布都魂(いそのかみふとたま)神社(岡山県赤磐市)から、八岐大蛇を斬った剣である布都御魂が、崇神天皇の時代に石上神宮に移されたという。
 一書2では、草薙剣を天照大神のところに送ったことは、書いていない。

【一書3】
素戔鳴尊、乃計釀毒酒以飲之、蛇醉而睡。
素戔鳴尊(すさのをのみこと)、乃(すなは)ち毒酒(あしきさけ)を釀(か)み以ちて之れを飲ましむるを計り、蛇(をろち)醉(ゑ)ひて[而]睡(ねぶ)りき。
素戔鳴尊、乃以蛇韓鋤之劒、斬頭斬腹、
素戔鳴尊、乃ち蛇韓鋤之剣(をろちからすきのつるぎ)を以ちて、頭を斬り腹を斬る。
其斬尾之時、劒刃少缺。
其れ尾を斬りし[之]時、剣の刃少しき缺(か)けき。
故裂尾而看、卽別有一劒焉、名爲草薙劒、
故(かれ)尾を裂きて[而]看(み)れば、即ち別(こと)に一(ひとつ)の剣(つるぎ)有り[焉]、名は草薙剣(くさなぎのつるぎ)と為しき。
…[助] 語気詞。句末に置き、いったん区切る。
此劒昔在素戔鳴尊許、今在於尾張國也。
此の剣昔素戔鳴尊の許(ところ)に在りて、今は尾張の国に[於]在り[也]。
其素戔鳴尊斷蛇之劒、今在吉備神部許也。出雲簸之川上山是也。
其の素戔鳴尊の蛇(をろち)を断ちし[之]剣は、今、吉備(きび)の神部(かむべ)の許に在り[也]。出雲の簸之川上(ひのかはかみ)の山是(これ)也(なり)。
かむべ(神戸)…[名] 古く、神社に属し、その修理などにあたった人々。
 一書3も、草薙剣を天照大神に送ったことは、書いていない。

【一書4】
素戔鳴尊、乃以天蠅斫之劒、斬彼大蛇。
素戔鳴尊(すさのをのみこと)、乃(すなは)ち天蠅斫之剣(あめのははきりのつるぎ)を以ちて。彼(か)の大蛇(をろち)を斬りき。
時斬蛇尾而刃缺、卽擘而視之、尾中有一神劒。
時に蛇(をろち)の尾を斬りて[而]刃は缺(か)け、即ち擘(さ)きて[而][之を]視(み)れば、尾に中に一(ひとふり)の神剣(かむつるぎ)有り。
…[動] 指で割る。さく。
素戔鳴尊曰「此不可以吾私用也。」乃遣五世孫天之葺根神、上奉於天。
素戔鳴尊曰はく「此れ吾(われ)を以ちて私(わたくし)に用ゐる不可(べからず)[也]。」乃ち五世(いつよ)の孫(むまご)天之葺根神(あめのふきねのかみ)を遣はし、天(あめ)に[於]上げ献(たてまつ)りき。
此今所謂草薙劒矣。
此れ今に謂ふ[所の]草薙剣(くさなぎのつるぎ)矣(なり)。

【湯津爪櫛にとり成す】
 櫛名田姫(くしなだひめ)を櫛の姿に変えて、鬟(みずら)に刺して同行させる。 櫛名田姫(奇稲田姫)の「くし」は「奇し」(不思議な)の意味だと思われるが、櫛に変身させたのは、語呂合わせである。 湯津爪櫛は、伊邪那岐(いざなぎ)の命の鬟にも刺してあった。国を拓く英雄の共通像かも知れない。 「つま」は物の本体から見て端の部分を指す。もともと「髪をとかす」ための櫛が、装飾品として使われたことを意味するか。

【白上於天照大御神也】
 記には珍しく簡潔な表現である。一書4では、これを補うかのように、「天之葺根神を遣わし、天に上げ奉った」と書いている。 書紀本文と一書4には、「私物化すべきものではない」とする素戔鳴尊の気持ちも、書き加えられている。
 以上から、「白上於天照大御神」の「白」は謙譲語「申す」、「」は「天に上げる」または「たてまつる」意味であることが確定する。

【大蛇伝説】
 大蛇に酒を飲ませて眠らせるという計略により、須佐之男命は大蛇をずたずたに切り裂いた。 尾を斬ったとき、刃がこぼれたので、裂いてみたら剣があった。これが草薙剣であり、須佐之男命は天に届けた。
 この筋書きは、記紀と4つの一書に共通しているので、広く伝わっていたと思われる。
 ただし、記や書紀本文では、では吉数「」へのこだわりが極端に強いという特徴がある。 これまで繰り返し見て来たように、「」をめでたい数とする文化は7世紀中ごろから始まっている。 だから、原形は古くから中国地方に伝わっていて、それに記紀が「」を付け加えて「八頭八尾」などにしたと思われる。
 大蛇の体は、幾つもの山や谷に渡る巨大なものになったかと思えば、頭の大きさは瞬く間に縮み、酒を入れた桶に入る程度になる。まことに幻想的である。 さらに一書2では大蛇は「あなたは、畏るべき神であらせられますので、おもてなしをさせていただきます」と言われて酒の接待を受けている。大蛇は酒好きで、思わず嬉しくなって飲んでしまうのであろう。 結局、油断して寝入ってしまって、斬られる。この段でも、物語としての面白さは尽きない。
 なお、酒宴の席で相手を殺す例は他にも、神武天皇が忍坂大室で土雲を殺す話、倭武命が女装して熊曽建を殺す話がある。姑息な手段であるが、弥生時代以来の酒好きな文化も伺われる。魏志倭人伝にも「父子男女無別人性嗜酒」と書かれている。

【草那芸剣】 
 倭武命が東征を命じられたとき、途中立ち寄った伊勢神宮で倭比賣命から草那芸剣と、火打石の入った袋を授けられた。 「草なぎ」の名称は、倭武が焼き殺されそうになったときに、自分の周囲の草を薙ぎ、向かい火を放って難を逃れた話による。
 草薙剣は、八岐大蛇と倭武の間にもう一回出てくる。それは、天孫が降るときで、八尺勾瓊、鏡と共に天孫に随伴する。 記紀編纂の時代には、天皇に「三種の神器」が大切なものになっていたことが分かる。
 さて、須佐之男命の十拳の刃が毀れたことから見て、十拳の刃は銅剣で、草那芸剣は優秀な鉄剣だったのだろうか。
 須佐之男命は、草薙剣を自分のところには置かず、天照大御神の元に送っている。
 この文は、中国地方で戦闘を繰り返すうちに、鉄製品の存在が知られるようになり、 やがて、鉄剣を含む鉄製品の大和政権への供給源になっていった歴史を表すと解釈することができる。 第49回では、「中国地方の岡山、広島、島根各県に製鉄遺跡が集中」していたことを見た。
 想像であるが、中国地方の戦闘で、しばしば銅剣と鉄剣を交える機会があり、銅剣の刃が毀れることが続出した。 そこで、倭側は安芸国あるいは吉備国あたりの鉄産地を占領し、武器を含む鉄製品の供給地にしたのかも知れない。それが「須佐之男命は私物化せず、天照大御神の許に送った」という話になった訳である。 考古学的に見て鉄剣の普及状況はどうだったかと言うと、古墳時代前期の造山古墳(島根県安来市)からは鉄剣が出土している。 また、埼玉県稲荷山古墳からは、ワカタケル(雄略天皇)の名や「辛亥年」(おそらく471年)を含む漢字が刻まれた「金錯銘鉄剣」が出土している。 これらのことから、古墳時代前期のうちに、鉄剣が全国的に普及していたことは間違いない。 どの程度「切れる」ものが作られたかは分からないが、当時の精錬方法を推定し、銅剣と鉄剣を交える実験をして、欠け方を調べると面白いと思う。
 なお、三種の神器のうちの一つを、出雲の大神、須佐之男由来としたのは、大和政権への出雲勢力の統合をより強めようとする意志の表れであろう。

【蛇を断った剣】
 蛇を断った剣の名前は、一書2で「蛇之麁正(おろちのあらまさ)」とされる以外、特に触れられていない。「麁(麤)」は「粗」と同じなので、草薙の剣に破れた「粗雑な剣」を語源とするかも知れない。
 一書2では、吉備国の石上布都魂(いそのかみふとたま)神社に置かれ、後に石上神社(奈良県)に移されたとする。 また一書3では、「簸之川上山」の吉備神部(かんべ)の管理下にあるとされる。吉備国は、現在の広島県東部までを含むので、簸之川(ひのかわ)の上流は、当時の吉備国に接している。 蛇之麁正は、吉備国の王の宝の剣かも知れない。(古代の豪族は、それぞれに三種の神器をもっていたとも言われる)しかし、これがなぜ大蛇伝説に結びついたかは謎である。
 記と、書紀の本文でこの部分が採用されなかったのは、本筋にうまく繋がらなかったためかも知れない。

【草薙剣命名の異説】
 書紀では、本文中に異説として、はじめは、天叢雲剣(あめのむらぐものつるぎ)と言ったが、日本武尊のときに草薙剣に改名したという話を紹介している。 その由来は、八岐大蛇の頭上には、常に雲が覆っていることによるという。
 即ち、日本武尊の段で、一曰、王所佩劒藂雲自抽之、薙攘王之傍草。因是、得免。故號其劒曰草薙也。藂雲、此云茂羅玖毛。
 つまり別の謂れとして「王[=日本武尊]が佩(お)びていた剣から、藂雲(むらくも)が抽(ひ)きだされたので、傍らの草を薙ぎ攘(はら)って免れることができた。これに因って、その剣を草薙と号(なづ)けた。」とも書く。 叢雲はもともと大蛇の頭上を覆う、恐ろしい雲だったと思われる。
 なお、現在の名古屋市昭和区村雲町は戦前には叢雲とも書かれ、叢雲剣に縁があると言われる。

【熱田神宮】
 草薙剣は、一書2によれば尾張国吾湯市村の、熱田祝部(ほうりべ)の管理下にある、また一書3でも、尾張国にあるとされる。
 倭武命(書紀でば、日本武尊)は、尾張の国で娶った美夜受姫のところに草那芸剣を置いて、伊吹山の神を成敗しに出かける。
――記中巻「倭建命」――其御刀之草那芸剣、置其美夜受比売之許而、取伊服岐能山之神幸行。
 〈其の御刀之草那芸剣、其の美夜受比売(みやずひめ)之許(ところ)に置きて、伊服岐能(いぶきの)山之神を取りに幸行(いでま)しき。〉
 ところが、倭武命は判断ミス(神の化身の白猪(書紀では大蛇)を、神の使いだと思い殺さずに通り過ぎる。)により、悪神から氷雨による攻撃を受け、体を病み死に至る。
 日本武尊の死後、草薙剣は熱田神宮に祀られる。
――書紀七巻『景行天皇』――初日本武尊所佩草薙横刀、是今在尾張国年魚市郡熱田社也。
 〈初め日本武尊の佩(みはかし)の草薙の横刀(たち)は、今、尾張国年魚市郡熱田社に在り。〉
 熱田神宮は「宮簀姫が創建し、草薙剣を祀った」と伝わる。しかし、この記事は記紀には明記されず「尾張国熱田太神宮縁起」に書かれる。
 その後、天智天皇の668年に草薙剣の盗難という奇妙な事件が起こる。犯人は新羅の僧、沙門道行で、結局捕えられたが、草薙剣は天武天皇の最期の年、686年になって熱田神宮に戻されたとされる。
 また、別伝もある。<wikipediaより>草薙神社(静岡市清水区草薙)の社伝によれば、草薙剣はもともと草薙神社に祀られ、686年に天武天皇の勅命により熱田神宮に移されたとされる。</wikipedia>
 熱田神宮の所在地である愛知郡(明治22年に制定)は、現在の名古屋市と、名古屋市の東側に隣接する日進市、東郷町、長久手市などを含む地域である。 和名類聚抄(平安時代中期)には、尾張国「愛智(あいち)」が記載されている。 書紀の「年魚市郡」「吾湯市村」(いずれも、「あゆち」とよむ)は大体この地域であろう。
 万葉集には有名な「櫻田部 鶴鳴渡 年魚市方 塩干二家良之 鶴鳴渡」(さくらだへ たづなきわたる あゆちがた しほひにけらし たづなきわたる)(三巻0271)など2首に「年魚市潟」が出てくる。 「あゆち潟」は当時の伊勢湾岸の干潟で、現在の名古屋市南区とされている。
 熱田神宮に伝わる草薙剣が、実際にはいつどこで作られたのか、また鉄剣・銅剣の種別も不明であが、少なくとも天武天皇が熱田神宮に移したとされる686年以後は、大切に祀られてきたのは確かである。
 
【尾張氏】
 書紀29巻『天武天皇(下)』によれば、天武天皇13年(684)12月、尾張連を含む五十氏に宿祢(すくね)の姓(かばね)が与えられる。 それに先立つ10月に「更改諸氏之族姓、作八色之姓、以混天下万姓。」として八色の姓(やくさのかばね)を制定し、宿祢は、真人(まひと)、朝臣(あそん)に次ぎ上から3番目の姓である。 従って、古くから阿由知郡(愛智郡)における有力な氏族であったわけであり、記紀にもしばしば名前が出ている。
 倭武命(日本武尊)が娶った姫についても、記では、美夜受姫を「尾張国造の祖」、書紀では宮簀媛を「尾張氏の女」として尾張氏が関わっている。 

【草薙の剣の不思議な旅】
 そもそも、三種の神器の由来は何か。魏志倭人伝の「伊都国」と推定されている福岡県糸島市に、志登支石墓群がある。
<wikipediaから要約>王墓と推定されている三雲遺跡の甕棺墓から前漢鏡35面、ガラス勾玉、銅戈多数が出土</wikipedia> した例のように、弥生時代の王墓からは、しばしば副葬品として、銅鏡・勾玉・銅矛が出土する。このような古代の王の伝統を引き継いだものが、三種の神器であると言われている。
 さて、草薙の剣が歴史的事実として登場するのは、天武天皇の最期の年、686年(朱鳥元年)に熱田神宮に移したのが最初であると思われる。 そこから時を経ずして、712年には記が成立する。記紀では、草薙の剣の由来を神代の出雲国とし、後に本体を尾張国に祀る。 恐らくそれぞれの土地に伝わっていた大蛇神話や、美夜受比売と出会った英雄の話を素材にして組み合わせたと思われる。そしてそれぞれの神聖な剣が、実は「草那芸剣」であったと後から定めたのだろう。
 草那芸剣は、天皇にとって最も大切な三種の神器の一つだから、草薙の剣の由来譚とその後の所在地は、出雲国と尾張国をぐっと朝廷に引き寄せた。これは天武天皇が、各氏族への朝廷の支配を強める政策の一環であったと思われる。
 また、天武天皇が尾張国に草那芸剣を置いたのは、東国の情勢にまだ不安が残り、尾張を軍事的な拠点に位置づける意図があったと考えられる。
 ただ、はるか古い時代には、尾張連が熱田神宮に「叢雲の剣」を祀っていた時期もあったかも知れない。
 草薙の剣が盗まれた件については、新羅の僧がわざわざ尾張国にあった剣を新羅に持ち帰ろうとした理由は不明である。同じような剣は、新羅国内でいくらでも作ることができたと思える。 神剣の盗難自体はあったかも知れないが、その神剣が「草薙の剣」であったとするのは、フィクションかも知れない。 「草薙の剣はずっと昔から置かれていた」ことにするためである。
 また、出雲の国で素戔嗚尊が剣を大蛇から取り出したという話自体は、完全な伝説である。
 だから、物理的には、剣は途切れ途切れであるが、実際のところ神剣は宗教的なものだから、物質的な同一性は必要としない。天皇の身近に鏡・剣の「形代」が置かれているように、必要とあらばいくらでも複製することができる。神聖な儀式によって魂を移せばよいのである。 要するに草薙の剣の旅は、物体の移動ではなく精神世界の旅なのである。

まとめ
 相手を酒に酔わせて打ち負かす作戦がしばしば使われたこと、中国地方が鉄の供給地になったこと、草薙の剣の登場場面などを見てきた。
 ここで三種の神器のうち、武力にかかわる草薙の剣を、朝廷から尾張に移した意味を改めて考えてみる。
 尾張氏は、かつては朝廷とは無関係に、自らの宝である叢雲剣を祀ってきたのかも知れない。それが失われてしばらく後に、草薙剣となって朝廷から届けられた。 同時に、草薙剣の由来を物語る大蛇伝説や日本武尊伝説も伝えられた。そして、今後草薙剣を大切に祀り、朝廷のために東方に睨みを利かせよという詔があったのかも知れない。 このようにして、尾張氏は朝廷による集権的な国家の構築に、一層深く組み込まれていったと考えられる。

2014.03.13(木) [054] 上つ巻(建速須佐之男命10) 
故是以 其速須佐之男命 宮可造作之地 求出雲國
爾 到坐須賀【此二字以音下效此】地而
詔之 吾來此地 我御心 須賀須賀斯而
其地 作宮坐 故其地者 於今云須賀也

故(かれ)是(これ)を以(も)ちて、其の速須佐之男命(はやすさのをのみこと)、宮(みや)を可造作之(つくるべき)地(ところ)を出雲の国に求めたまひき。
爾(すなは)ち須賀【此の二字音(こゑ)を以ちゐる。下(しもつかた)此に効(なら)ふ】の地(ところ)に到(いた)り坐(ま)して[而]、
詔(のたま)はく[之]「吾(われ)此地(ここ)に来たりて、我(あ)が御(み)心は須賀須賀斯(すがすがし)。」とのたまひて[而]、
其地(そこ)に宮(みや)を作り坐(ま)しき。故(かれ)、其地(そこ)者(は)今に[於]須賀(すが)と云ふ[也]。


茲大神初作須賀宮之時
自其地雲立騰
爾作御歌其歌曰

茲(ここに)大神(おほみかみ)初めて須賀の宮を作りたまひし[之]時、
其の地自(よ)り雲立ち騰(のぼ)り、
爾(すなわ)ち御歌(みうた)を作(よ)みたまひき。其の歌曰はく。


夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁
やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを

於是 喚其足名椎神 告言汝者任我宮之首
且負名號 稻田宮主須賀之八耳神

於是(ここに)、其の足名椎(あしなづち)の神を喚(め)し、告(のたま)ひて言ひしく「汝(いまし)を者(ば)我(わ)が宮之(の)首(おびと)に任(おほ)せたまふ。」とのたまひき。
且(また)名を負(おほ)せ、 稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)と号(なづ)けたまひき。


 このようにして、速須佐之男命(はやすさのおのみこと) は、宮を作るべき処を出雲の国に求められました。
 そして、坐須賀の地に到り、 「私はこの地に来て、わが御心は清々しい。」と仰り、 その地に宮を造りました。 この地は今、須賀(すが)といいます。
 〔須佐之男〕大御神が、初めて須賀の宮を作られた時、 その地より雲が立ち騰(のぼ)っておりました。 そこで御歌を詠まれました。それがこの歌です。

――八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

 そして、その足名椎(あしなづち)の神を招かれ、 「お前を私の宮の宮司に任ず。」と命じられました。 また名を負わせ、稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)と名付けられました。


すがすがし(清清し)…[形]シク さわやかできもちがよい。
まく(任く)…[他]カ行下二 官職などに任命する。

【喚】
 万葉集では、「めす(召す)」または「よぶ」と読んでいる。

【妻籠み】
 古語辞典によれば「籠む」は上代は下二段活用、中古から四段活用。いずれも自動詞・他動詞の両方に使われる。
 ここでは「籠み」なので下二段活用ではない。試しに(現代の)出雲弁を検索すると、複数のサイトに「こみ」があり、共通語で「押入れ」のこととされる。(出雲弁の泉など)「籠める」に意味が近い。 よって出雲地方では4段活用または上二段活用だった可能性もあるが、確かなことは言えない。

【八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を】
 立ち騰る雲を眺め、その雲を妻を迎えた屋敷を何重にも取り囲む垣にしたい。そんな思いを語る、美しい歌である。 なお、「八雲立つ」は「出雲」への枕詞である。 文字数が五七五七七なので、歴史上最初の短歌といわれるが、本当の作者はもちろん須佐之男命ではなく、出雲国で嫁を迎えた男だったはずだ。 この歌からは「清々しい」とはこういう気持ちだというのが、よく伝わってくる。須佐之男命はこんな美しい心の持ち主なのに、 高天原にいたときには乱暴者扱いをされたのである。優しくて強い大御神が出雲の国にいたことに対して、天照を信奉する一派が嫉妬したのであろうか。

【地名「出雲」】
 「八雲立つ出雲」の歌がここに置かれたのには、地名譚の役割があり「出雲」の由来を「八雲立つ土地」であるからと説明している。  律令国の成立は、大宝律令(701年)の前後とされ、このとき全国の律令国の地名が漢字2文字に統一されたとされる。  『出雲国風土記』には、「出雲」の表記を用いる理由について、
●所以号出雲者 八束水臣津野命詔 八雲立 詔之 故云八雲立出雲
 出雲と号(なづ)く所以(ゆゑ)は、八束水臣津野命の詔(の)りたまはく「八雲立つ」之を詔りたまひき。故、八雲立つ出雲と云ふ。
 と説明し、併せて枕詞「八雲立つ」も定めている。なお、2つの「詔」で引用文を挟むのは引用符と同じ役割があり、出雲風土記の書法だが、記紀には見られない。 ここで出てくる八束水臣津野命(やつかみづおみつののみこと)は、他国の余った土地を切り取って集め、国土を広げた「国引き神話」の神である。 出雲風土記では、「八雲立つ出雲」と言ったのは八束水臣津野命であり、須佐之男命ではない。
 「いづも」の「」は、室町時代前半までは[du]と発音しており、[idumo]そのものは奈良時代より、遥か昔からのものであると思われる。 出雲方言をサイトで調べたところ、しばしば東北弁との共通性が注目されているが、これはもともと古代出雲は北陸から東北南部まで広がる大国だったためかも知れない。
 魏志倭人伝(3世紀末)の「投馬国」はある写本に「於投馬国」と書かれていて、古代の[idumo]に比定する説がある。

【稲田宮主須賀之八耳神】
 「稲田宮主須賀之八耳神」は、他に書紀の一書2に出てくる。
 一書2では、素戔嗚尊が安芸国可愛之川(えのかわ)の川上に降り立ち、夫婦神と出会ったとき、妻が最初からこの名前で登場する。
彼處有神。名曰脚摩手摩。其妻名曰稻田宮主簀狹之八箇耳。此神正在姙身。
 一書2では「足・手」は男神一柱分の名に集められ、脚摩手摩(あしなづたなづ)とする。その妻が、稲田宮主簀狹之八箇耳(いなだのみやぬしすさのやつみみ)という女神である。よく見ると、こちらは「すさ」になっている。
 『出雲国風土記』(以下「風土記」)では、須佐能袁命がを定め、を建てたのは須佐の地だったので、それに合う名前は一書2の「稲田主・須佐の八つ耳」の方である。 風土記では「須佐」の項には故事が載っているのに対し「須賀」は、地名・社名を記すのみである。とすれば、記紀の宮を建てる話は、もともとは「須佐」の地だったと考えた方がすっきりする。
 それを記紀が「須賀」に変えたのは、「すがすがし」の語呂合わせを優先したためであろう。連動して神名も「~須佐の八つ耳」から「~須賀の八つ耳」に変わった。 そんなに駄洒落が大事かと突っ込みを入れたくなるが、この脚色は、実は民衆に少しでも楽しく聞かせて広めようとする、記の目的によるものだと考えられる。

【且】2021.2.13改
 通常は「而」を使う所に、珍しく「且」が使われる。 「告」の目的語に「負名」を含めるのは不自然なので、目的語は「汝者任我宮之首」までで、 「負名」からは別文であろう。

【書紀・本文】
 書紀の本文の対応する部分と、比較する。
然後、行覓將婚之處、遂到出雲之淸地焉。【淸地、此云素鵝。】
乃言曰「吾心淸淸之。」【此今呼此地曰淸。】於彼處建宮。
或云、時武素戔鳴尊歌之曰、夜句茂多兔、伊弩毛夜覇餓岐、兔磨語昧爾、夜覇餓枳都倶盧、贈廼夜覇餓岐廻。
然る後、将婚之(めあはさむとする)処(ところ)を覓(もと)め行きて、遂に出雲(いづも)之(の)清(すが)の地に到りき[焉]。【清の地、此れ素(す)鵝(が)と云ふ。】
乃ち言ひて曰はく「吾(あ)が心清清之(すがすがし)。」といひ、【此に今此の地を呼(なづ)けて清(すが)と曰ふ。】彼処(そこ)に[於]宮を建てき。
或るに云ふ、「時に、武(たて)素戔鳴尊、之を歌よみして曰はく、やくもたつ いづもやへがき つまごみに やへがきつくる そのやへがきを。」

――(すが)に到着し、「すがすがし」と言って宮を建てる。この大筋は、記と一致する。 ただ、書紀では奇稲田姫と共に住いを探す話になっているのて、「」は神社というより、宮殿である。 そのためか、記の宮司の任命が、書紀にはない。歌の内容の「妻籠み」には、書紀のストーリーの方が相応しい。 ただ、宮司名を書かなかったのは、もともとの名前「~すさの八つ耳」の改竄を避けたためかも知れない。
 歌は、記と完全に一致する。記紀が密接な関連をもって作られたことを示している。ただし、異なる漢字を使用しているところが興味深い。「妻籠み」の「み」が「め」ではないことが、これで完全に確定する。

【出雲風土記より】
 ここで須佐之男命は、出雲国ではもともとどのような神であったか、出雲風土記から探ってみたい。
 『出雲国風土記』の編纂が命じられたのは713年、完成は733年とされる。各律令国のようすを「風土記」として報告させたとされるが、写本が現存するのは5つで、そのうち出雲国の風土記はほぼ完本であるという。 その中で、須佐之男命や大国主命は、記紀とはまた違った姿に描かれている。
 以下、須佐能袁命(または須佐乃乎命)が登場する部分を、抜き出した。 右の地図は、島根県公式サイト内の出雲国の村々を参考にして作成し、該当箇所に本文中の記号を記入した。 なお、図には黄泉平坂の位置、は出雲大社の位置を加えてある。
意宇郡(おうのこほり)
安来郷(やすぎのさと)…()須佐乃袁命が安らぎ平らぐ地。
●神須佐乃袁命 天壁立廻坐之 爾時 来坐此處而詔 吾御心者安平成 詔 故云 安来 也
 神(かむ)須佐乃袁命(すさのをのみこと)天壁立(あめのかべたち)を[之]廻(めぐり)坐(ま)しき。
 爾(しか)る時、此の処に来(き)坐(ま)して[而]詔(のたま)はく「吾(あ)が御(み)心者(は)安らかに平(たひら)ぐ成(な)り。」と詔(のたま)ひき。故(かれ)「安来(やすき)」と云ふ[也]。

――「天壁立廻坐之」…「天壁立」は次の項参照。「坐す」は尊敬の補助動詞。
大草郷(さくさのさと)…(御子)青幡佐久佐日古命(あをはたさくさひこのみこと)
●須佐乃乎命御子 青幡佐久佐日古命 坐。故云大草。
 須佐乃乎命の御子(みこ)青幡佐久佐日古命(あをはたさくさひこのみこと)坐(ましま)す。故、大草(さくさ)と云ふ。
嶋根郡(しまねのこほり)
山口郷(やまぐちのさと)…(御子)都留支日子命(つるぎひこのみこと)
方結郷(かたえのさと)…(御子)国忍別命(くにおしわけのみこと)
秋鹿郡(あいかのこほり)
恵曇郷(えとものさと)…(御子)磐坂日子命(いはさかひこのみこと)
多太郷(ただのさと)…(御子)衝鉾等乎与留比古命(つきほことをよるひこのみこと)
神門郡(かんどのこほり)
八野郷(やぬのさと)…(御子)八野若日女命(やのわかひめのみこと)
●所造天下大神大穴持命 将娶給為而 令造屋給 故云八野
 天の下を造りたまひし[所の]大御神、大穴持命(おほなもちのみこと)、娶(めあは)せ給ふ為(ため)に、屋を造らしむ。故(かれ)、八野と云ふ。
滑狭郷(なめさのさと)…(御子)和加
須世理比売命
(わかすせりひめのみこと)
●所造天下大神命娶而 通坐時 彼社之前有磐石 其上甚滑也 即詔「滑磐石哉」詔 故云「南佐」
 天の下を造りたまひし大御神(=大穴持命)娶(めあは)せ、通ひ坐(ま)せる時、彼(か)の社(やしろ)之(の)前(まへ)に磐石(いは)有り。其の上甚だ滑(なめ)りき。即ち詔(のたま)はく「滑磐石(なめしいは)哉(かな)」と詔(のたま)ひき。 故、南佐(なめさ)と云ふ。
――この部分は、記の「須佐之男命の娘、須勢理毘売(すせりひめ)を大国主の妻とする」部分と一致する。
飯石郡(いいしのこほり)
須佐郷(すさのさと)…()須佐能袁命の鎮魂の地
●神須佐能袁命 詔「此國者雖小國 國處在 故我御名者 非着木石」詔而 即己命之御魂 鎮置給之 然即 大須佐田小須佐田 定給 故云 須佐
 神須佐能袁命(すさのをのみこと) 詔(のたま)はく「此の国者(は)[雖]小(ちひさき)国なれど国の処(ところ)在り。故(かれ)我(わ)が御名(みな)者(は) 木(き)石(いは)に非着(つけじ)。」と詔まひて[而]即ち己(おの)が命(みこと)之御魂(みたま)、之を鎮(しづ)め置き給ひき。然(しかれでも)即ち、大須佐田(おほすさた)小須佐田(をすさた)を定め給ひき。故「須佐」と云ふ。
――〔「小さな国だが、国らしい国だから、「須佐」を木や岩の名ではなく、国の名としよう。」と言い、自らの魂を鎮める地とした。〕
須佐社…在神祇官。現在の須佐神社()
大原郡(おほはらのこほり)
佐世郷(させのさと)…()須佐能袁命の故事
●古老傳云 須佐能袁命 佐世乃木葉 頭刺而 踊躍為時 所刺 佐世木葉墜地 故云 佐世
 古老(ふるおきな)伝へて云はく「須佐能袁命(すさのをのみこと)、佐世(させ)乃(の)木(こ)の葉、頭刺(かざ)して[而]、踊(をど)りに躍(をど)り為(し)たまひし時。所刺(さ)したる佐世の木の葉 地に墜ちき。」 故、「佐世」と云ふ。
須我社…大原郡にある29社の一つとして記載される。比定地は現在の須賀神社()とされる。
高間山()青幡佐草日古命(あをはたさくさひこのみこと)の鎮魂の地
●古老傳云 神須佐能袁命御子 青幡佐草日古命 是山上麻蒔給 故云高麻山 即此山峯坐其御魂也
 古老(ふるきおきな)伝へて云はく「神(かむ)須佐能袁命の御子(みこ)、青幡佐草日古命(あをさくさひこのみこと)、是の山の上に麻(あさ)蒔(ま)き給ふ。故「高麻山」と云ふ。即ち此の山の峯に其の御魂(みたま)坐(いま)す[也]。
須我山(すがやま)…()檜杉〔檜・杉が有る〕  島根県の公式サイトでは、八重山が比定地である。
御室山(みむろやま)…()むろ(室)…[名] 岩屋。
●神須佐乃乎命 御室令造給所宿 故云 御室
 神(かむ)須佐乃乎命 御室(みむろ)を造ら令め宿る所を給はりき。故(かれ)、御室と云ふ。

【天壁立】
富山湾から立山連峰の稜線を望む
 壁立…(へきりつ) 岩山などが壁のように切り立っているさま。
 「中国哲学書電子化計画」のサイトで調べると、漢代より前は、6例あり「4つの壁が立つだけの貧しい家」の意味で使われる。 漢代以後は、109例あり、「壁立千仞」(壁、千仞(せんじん)に立つ)など、山岳を形容する使い方が多くなっている。なお、この時代は外来語「天地」を「あめつち」と読んだように、熟語も訓読みしたとされる。だから、よみは「かべたち」か。
 「天」は美称、あるいは「天までそびえ立つ」意味かも。「天」の読み方は、熟語「壁立」を含む中国の文献がわが国に入ってきた後だから、「あめの」が適当であろう。(「天」は古い順に、あまつ→あまの→あめの)
 ただ、実際には出雲地方の山地はゆるやかで「壁立」というほどの印象は受けない。近くに有名な大山があるが、壁というよりは富士のような独立峰である。日本海側で「壁立」に相応しいのは、何と言っても富山県側から見る立山連邦(写真)であろう。ここには古代出雲王国が、日本海側一体を国土としていた頃の記憶が反映しているかも知れない。

【須佐乃袁命の子】
 出雲風土記には7柱の子が登場するが、記の須勢理毘売(すせりひめ)以外、記紀との共通点はない。 ただ、一書の五十猛神は一柱の神の名ではあるが、古くは須佐乃袁命の多数の子を指したかも知れない。

【出雲風土記に見る須佐乃袁命】
 出雲風土記(以後「風土記」)では、大穴持(おほあなもち)の命(記では大穴牟遅(おほあなむぢ)の神。大国主命の別名)が大きく扱われるが、これについては別の回に述べる。
 須佐乃袁命は、その子、男子5柱、女子2柱を各地に置き、女子は2柱とも大穴持命が娶っている。そのうち、須勢理毘売(すせりひめ)が記と共通する。
 男子のうち、青幡佐久佐日古命は高間山の上に麻を蒔いた。名前も「青畑」「草」と農耕に関係が深い。 「草」の前の接頭語「」には、「小さい・狭い」「生命力のある」「勢いのある」などの意味があると考えられている。「さ草」は「さ蕨(わらび)」同様、芽吹くようすを意味するか。ただ漢字では「」は「」になってしまうので、美称として反対の「」の字に置き換え「大草」にしたと思われる。 風土記の編纂を命じたのと同じ713年に、各国の郡(こほり)、郷(さと)の名に「好字」(よい字)を用いよとの通達があったためである。
 須佐乃袁命自身の話も、各地に残る。意宇郡安来郷は、各地を巡った後、おそらく最後に到達した安住の地である。大原郡では、佐世郷で舞い、御室山の岩屋に宿している。 特に飯石郡須佐郷は狭いが豊かな土地だったようで、大須佐田、小須佐田を定め、自らを鎮魂する社を建てた。 「すさ田」は「荒田」の字を宛てることもできるが、これでは意味が通らない。そこで『古典基礎語辞典』を見ると、「すさぶ」はもともとは良くも悪くも「勢いの赴くまま盛んになる」意味。 万葉集で「咲きすさぶ」が「盛んに咲き乱れる」の意味で使われたが、中古以後は「気ままにする」「自然のまま盛んになったり衰えたりする」のように使われたとある。
 それを万葉集で確認すると、10ー2281がそれであった。
――朝露尓 咲酢左乾垂 鴨頭草之 日斜共 可消所念 朝露に咲きすさびたる月草の日暮るるなへに消(け)ぬべく思ほゆ
 月草は露草の別名。「なへ」は接続助詞で、「~するとともに」。歌の意味は 〔朝露に咲き乱れていた露草も、日暮れと同時に消えてしまうだろうと思える〕
 だから、確かにすさぶは「盛んに~する」意味である。 従って奈良時代の風土記の「すさ田」は「盛んに生育する田」の意であったことになる。 だから神名「すさのを」についても、本来「作物が盛んに育つ」土地を拓いた男(を)であった。しかし、高天原に行ったら「勝手気ままに振る舞う男」にされてしまったのである。
 次に須我について。記紀の「須我社」は風土記では大原郡の「社」にちゃんと出てくるが、特に目立つ扱いにはなっていない。記で取り上げられたのは、「すがすがし」の語呂合わせによって伝説を盛り上げるためだと思われる。 記紀では、もともと須佐の地の話が須賀に置き換えられたと見られる件は、稲田宮主須賀之八耳神の項で考察した。 なお、風土記には櫛名田比売との出会いから大蛇を討つまでの物語はない。
 以上から、風土記の須佐乃袁命は、その多くの子どもたちと共に各地で農耕を創始し、踊り好きの陽気な神であった。

【一書4】
初、五十猛神、天降之時、多將樹種而下、然不殖韓地、盡以持歸。
遂始自筑紫凡大八洲國之內、莫不播殖而成靑山焉。
所以、稱五十猛命、爲有功之神。卽紀伊國所坐大神是也。
初めに五十猛神(いそたけるのみかみ)、天降(あもり)したまひし時、多(さは)に樹の種を将(ともな)ひて下り、然(しかれでも)韓(から)の地(つち)に不殖(うゑず)、尽(ことごとく)以(も)ちて持ち帰りき。
遂(つひ)に筑紫自(よ)り始めて凡(おほよ)そ大八洲(おほやしま)の国之(の)内(うち)、不播殖(うゑざ)るところは莫(な)く青き山を成せり。
所以(ゆゑに)、五十猛命を称(たた)へ、有功之(いさをある)神と為せり。即ち紀伊の国に坐(いま)す大神(おほみかみ)は是れ也(なり)。
 …[動] 伴う。 …[接] ここでは逆説。 …[代] 主語となり、否定を表す。英語のnoneに相当。「莫不」は二重否定。 …[動] 称(たた)える。

【一書5】
一書曰、素戔鳴尊曰「韓鄕之嶋、是有金銀。若使吾兒所御之國、不有浮寶者、未是佳也。」
乃拔鬚髯散之、卽成杉。又拔散胸毛、是成檜。尻毛是成柀、眉毛是成櫲樟。
一書(あるふみ)に曰ふ。素戔鳴尊(すさのをのみこと)曰(のたま)はく「韓郷(からさと)之(の)嶋(しま)、是(ここ)に金(くがね)銀(しろかね)有り。若(も)し吾(あ)が児の御(をさ)むる国に使(つか)はすに、浮宝(うきたから)[=船]不有(もたざ)れ者(ば)、未(いま)だ是(これ)佳(よ)からず。」とのたまふ。
乃(すなは)ち鬚髯(ひげ)を抜き之を散らし、即ち杉を成せり。又胸毛を抜き散らし、是(これ)檜(ひ)を成せり。尻(しり)毛、是柀(まき)を成せり、眉毛、是櫲樟(くすのき)を成せり。

已而定其當用、乃稱之曰「杉及櫲樟、此兩樹者、可以爲浮寶。
檜可以爲瑞宮之材。柀可以爲顯見蒼生奧津棄戸將臥之具。
夫須噉八十木種、皆能播生。」
已而(すでにして)其の当用(もちゐるべき)を定め〔=用途を決め〕、乃ち之を称(とな)へて曰はく「杉及(と)櫲樟(くすのき)と、此の両(ふたつの)樹(き)を者(ば)、以(も)ちて浮宝(うきたから)と為(な)す可(べ)し。
檜(ひ)は以ちて瑞(みづ)宮(みや)之(の)材(き)と為す可し。柀(まき)は以ちて顕見蒼生(うつしきあをひとくさ)の奧津棄戸(おきつすたへ)〔=墓場〕の将臥之具(ふさむとするそなへ)〔=棺〕と為す可し。
夫(それ)須噉(すべからくくらふべき)八十(やそ)木種(こだね)、皆(みな)能(よ)く播(ま)き生(お)ひき。」

――〔食物とすべき木の種を蒔き、生育させることができた〕
于時、素戔鳴尊之子、號曰五十猛命、妹大屋津姬命、次枛津姬命。
凡此三神、亦能分布木種、卽奉渡於紀伊國也。
然後、素戔鳴尊、居熊成峯而遂入於根國者矣。
時に、素戔鳴尊之子、号(なづ)けて曰はく、五十猛命(いそたけるのみこと)、妹(いろど)大屋津姫命(おほやつひめのみこと)、次に枛津姫命(つまつひめのみこと)。
凡そ此の三(みはしら)の神、亦(また)能く木種を分け布(し)き、即ち紀伊の国に渡り奉(まつ)りき。
然(しか)る後、素戔鳴尊、熊成峯に居(ましま)し、遂に根の国に入(い)りませ者(ば)なりけり[矣]。

――〔子の三神を紀伊の国に祀った。というのは、その後、素戔鳴尊は熊成峯に一時的にいた後に、根の国に退いたからである。〕
棄戸、此云須多杯。柀、此云磨紀。
棄戸、此れ須(す)多(た)杯(へ)と云ふ。柀、此れ磨(ま)紀(き)と云ふ。
・万葉集では、郷=「さと」。材=「き」と読む。
 …[名] クスノキ。
 …[名] クスノキ。木材は緻密で家具に適する。
 みづ-(瑞)…[接頭] 体言の上について、美しい。若々しい。
 …[名] 杉。日本語用法:まき(真木)。
 まき…[名] ①(槇)イヌマキ・コウヤマキの別名。②(真樹)良材になる木。
  いぬまき(犬槇)…[名] 杉をマキと呼んだことに対し、この木を卑しんで呼んだことに由来するという。
  こうやまき(高野槇)…[名] 材は建築や家具に用い、庭園にも植える。高野山に多く産するのでこの名がある。
 うつしきあをひとくさ(顕見蒼生)…[名] 現に生活している人民。
 奧津棄戸(おきつすとへ)…[名] 墓所
 …[接] ここでは逆接の接続詞。「須A、B」の構文で「AといえどもBなり」。
 …[副] 動詞の前に置き、可能を表す。「よく~す」と訓読する。
 一書5は、記紀における素戔鳴尊の存在の本質に迫るので、以下、詳しく検討する。

【まき】
 木材としての用途について、次の解説があった。
冨田製材所「槇」保存性が高く、白蟻に対しての抵抗性がある。また湿気にも強く、切削などの加工も特に難しくはない。耐朽性は大。別名=イヌマキ</「槇」>
 「檜は瑞宮に、柀は人民の棺に」という表現から、ここでは一般的に優れた木を表す「真木」ではなく、特定の種「犬槇」を指すと思われる。

【将臥之具】
 「将」は、漢文では「まさに~せんとす」と訓読するが、万葉集では、意思の助動詞「む」を表している。「臥」は「伏す」であり、「之」は、連体修飾を意味する。
 従って「将臥之具」=「伏す」の未然形+意思の助動詞「む」の連体形+「具」(そなへ)=「ふさむそなへ」となり、つまりは遺体を横たえる用具、すなわちである。

【森林開発の功績】
 素戔鳴尊の命は、韓の地の財宝を運ぶ船がなかったので、自らの体毛を抜いて木に育て、船を作らせ、併せて麗しき神社を作る檜から、人民の棺を作る槇に到るまであらゆる木材を提供した。 その種子は食べれるのに敢えて食べず、土に蒔いて森林にした。 その3人の子(五十猛の命、大屋津姫の命、枛津姫の命)もまた、種子を全国に広めた。素戔鳴尊は、3柱の子を紀伊の国に渡らせて、立派に祀らせた。 しかし、素戔鳴尊自身は一時的に熊成峯に滞在し、最後は根の国に入った。 つまり、素戔鳴尊は追放された身の上なので、表舞台に残ることはできない。「者矣」(~ばなりけり)は、前文の「自らの代わりに子を表舞台に出した」原因を、後から述べるものである。(次項参照) 素戔鳴尊は、出雲国では「森林創造の功績大なる神」であるが、同時に高天原からは「追放された神」である。
 書紀の記述は、罪人の功績を子に譲らせることによって、相反する面の辻褄を合わせていると読み取ることができる。
 さて、一書5から紀伊の国の豊かな森林が、都の建材の供給地になっていたことと、「紀伊国」の語源が「木の国」であることが分かる。
 想像であるが、出雲にいた林業に携わる一族を紀伊に移住させたのかも知れない。彼らに紀伊の国で檜・杉を営林し、都に建材を提供する役割を負わせる。 彼らは三神を遷座させると共に、出身地を懐かしんで紀伊にも「熊野」の地名をつけた。一族が三神を祀るのは、宗像氏、安曇氏とも共通する。
 なお、神功皇后の段で、韓の地は金銀を日本に献上する立場にあるとするが、ここでもそれに触れられている。

【~者矣】
 「者」はしばしば、接続助詞「ば」を表す。また漢文の「矣」はさまざまな語気を表し、その一つに「動作の完了」がある。そこでそれらが和語の「~ば けり」に対応すると仮定して検索してみたところ、実際に古語辞典に次の項目が見つかった。
<学研全訳古語辞典より>
ば-なり-けり
分類 連語
〔活用語の已然形に付いて〕…だからであった。
出典土佐日記 一二・二七
「都へと思ふをものの悲しきはかへらぬ人のあればなりけり」
[訳] 都へ(帰るのだ)と思うにつけて何かしら悲しいのは、(死んでしまって)帰らない人(=自分の子)がいるのだからであった。
なりたち
接続助詞「ば」+断定の助動詞「なり」の連用形+過去の助動詞「けり」
</同辞典>
 という訳で、「~者矣」は仮定条件・確定条件を示す節「~ば」を後置したことを表すと考えられる。

まとめ
 弥生時代の後期に、古代出雲が山陰から北陸までの大勢力を誇っていたという説がある。その裏付けの一つは、四隅突出型墳丘墓が、山陰一体に、少し遅れて北陸に分布していることである。 さらに、出雲郡の荒神谷遺跡から358本の銅剣や銅鐸・銅矛が出土し、大国の中心地としての物証となった。 また、出雲地方の言語は「雲伯方言(うんぱくほうげん)と呼ばれ、<wikipedia>島根県東部から鳥取県西部に分布し、音声・音韻面で隣接する地域とはかなりの違いがあるため、方言区画では中国方言と切り離されて扱われる</wikipedia>とされる。 さらに、<wikipedia>雲伯方言ではイ段とウ段の発音が近く中舌母音になり、エの発音もイに近くなるなど、東北方言と共通する特徴</wikipedia>があるという。
 とすれば、日本海沿岸の勢力が倭の勢力の攻勢を受け、残存勢力は周辺地域の東北地方と、出雲国付近の限られた地域に飛び地的に残ったと考えることができる。 そこに記紀や風土記の須佐乃袁命の足取りを重ね合わせると、次の3点が注目点として浮かび上がる。
 書紀一書4で、「筑紫から大八洲(おおやしま、国土全体)を網羅して種を蒔き、森林にした」とされる。ここには北九州・山陰・北陸を繋ぐ古代の大国の姿を見ることができる。
 須佐乃袁命が廻った「天の壁立」が出雲国にはそれらしい山がなく、北陸の立山連峰がこそ相応しい。「立山」の名称も「壁立」と共通性がある。
 記紀での須佐之男命の描き方に、天照勢力による須佐之男命への敵意が満ち満ちている。
 第3の点の理由については、52回で考察した通りである。 地元の英雄で全国に森林の種を蒔いた功績大なる面と、高天原で乱暴狼藉をはたらいた罪人という面の折り合いをつけるために、一書5の項で考察したように、 本人はあくまで根の国に追放し、その功績を子に与えるという細かい処理をしている。
 書紀は、人代になってからは事跡の日付など根拠なしに書きたい放題にしているが、神代の素戔嗚尊の扱いには細心の注意を払っている。
 それに比べて、記は細かい所は気にしない大らかさがある。清々しい土地での幸せな暮しを得た須佐之男命だが、次に登場するときは蛇、蜂、百足を飼う根堅州国の神の姿である。その間には何の説明もない。 また、もともと須佐の話を須賀に変えたことも含め、面白い話で民衆を引き付ける。ここでも官僚向けの歴史書である書紀と、民衆教化の書である記という性格の違いが現れている。

[055]  上つ巻(建速須佐之男命11)