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⇒ [046] 上つ巻(建速須佐之男命2) |
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2014.01.15(水) [047] 上つ巻(建速須佐之男命3) ▼▲ |
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故其先所生之神多紀理毘賣命者坐胸形之奧津宮
次市寸嶋比賣命者坐胸形之中津宮 次田寸津比賣命者坐胸形之邊津宮 此三柱神者胸形君等之以伊都久三前大神者也 故(かれ)、其の先に生まれし[所之]神、多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)者(は)、胸形(むなかた)之(の)奧津宮(おきつみや)に坐(いま)し、 次に市寸嶋比売(いちきしまひめ)の命者(は)、胸形之中津(なかつ)宮に坐し、 次に田寸津比売(たきつひめ)の命者(は)、胸形之辺津(へつ)宮に坐し、 此の三柱の神者(は)、胸形君(むなかたきみ)等(ら)の之(こ)を以(も)ちて伊(い)都(つ)久(く)三前(みまへ)の大(おほみ)神(かみ)者(なり)[也]。 故此後所生五柱子之中 天菩比命之子建比良鳥命 【此出雲國造 无邪志國造 上菟上國造 下菟上國造 伊自牟國造 津嶋縣直 遠江國造 等之祖也】 故(かれ)、此の後(のち)に生(あ)れましし[所の]五柱(いつはしら)の子之(の)中(うち)、天菩比命(あめのほひのみこと)之(の)子、建比良鳥命(たけひらとりのみこと)は 【此れ、出雲(いづも)の国造(くにのみやつこ)、无邪志(むさし)の国造、上菟上(かみつうなかみ)の国造、下菟上(しもつうなかみ)の国造、 伊自牟(いじむ)の国造、津嶋(つしま)の県直(あがたのあたひ)、遠江(とほつあふみ)の国造等(ら)之(の)祖(おや)也(なり)】。 次天津日子根命者 【凡川內國造 額田部湯坐連 茨木國造 倭田中直、山代國造 馬來田國造 道尻岐閇國造 周芳國造 倭淹知造 高市縣主 蒲生稻寸、三枝部造 等之祖也】 次に天津日子根命(あまつひこねのみこと)者(は) 【凡川内(おほしかふち)の国造(くにのみやつこ)、額田部湯坐連(ぬかたべのゆゑのむらじ)、茨木(むばらき)の国造、倭田中(やまとのたなか)の直(あたひ)、 山代(やましろ)の国造、馬来田(うまくた)の国造、道尻岐閉(みちのしりのきへ)の国造、周芳(すはう)の国造、 倭淹知(やまとのあむち)の造(みやつこ)、高市県主(たけちのあがたぬし)、蒲生稲寸(がまふのいなき)、三枝部(さきくさべ)の造(みやつこ)等(ら)之(の)祖(おや)也(なり)】。 そして、その前に生みなされました神、多紀理毘売(たぎりひめ)の命は、胸形(むなかた)の奧津(おきつ)宮に御座(おわしま)して、 次に、市寸嶋比売(いちきしまひめ)の命は、胸形の中津(なか)宮に御座して、 次に、田寸津比売(たきつひめ)の命者は、胸形の辺津(へつ)宮に御座す。 この三柱の神は、胸形君(むなかたきみ)ら、これをもってお祀りする御前(みまへ)の大神とするものです。 また、この後に生みなされました五柱の子の中、天菩比命(あめのほいのみこと)の子、建比良鳥命(たけひらとりのみこと)は、 すなわち、出雲(いづも)の国造(くにのみやつこ)、武蔵(むさし)の国造、上海上(かみつうなかみ)の国造、下海上(しもつうなかみ)の国造、 伊甚(いじむ)の国造、津島(つしま)の県直(あがたのあたい)、遠江(とおとうみ)の国造らの祖先であります。 次に、天津日子根命(あまつひこねのみこと)は、 大河内(おおしかわち)の国造(くにのみやつこ)、額田部湯坐連(ぬかたべのゆえのむらじ)、茨城(いばらき)の国造、倭田中(やまとのたなか)の直(あたい)、 山城(やましろ)の国造、馬来田(うまくた)の国造、道尻岐閉(みちのしりのきへ)の国造、周防(すおう)の国造、 倭淹知(やまとのあむち)の造(みやつこ)、高市県主(たけちのあがたぬし)、蒲生稲寸(がもうのいなき)、三枝部(さきくさべ)の造(みやつこ)らの祖先であります。 【宗像氏】 古代は、宗像地方と響灘西・玄界灘を支配する海洋の豪族であった。 645年、大化の改新により、筑前国宗像郡の大領(郡司の最高位)と宗像大社の神主を務める。 胸形君徳善の女、尼子娘は天武天皇の妃となり、高市皇子を生む。高市皇子は後に太政大臣になる。 平安時代には武士化し、戦国大名となった。
書紀では、號曰田心姬。次湍津姬。次市杵嶋姬。〔名付けて田心姫(たごりひめ)、次に湍津姫(たぎつひめ)、次に市杵嶋姫(いちきしまひめ)と曰ふ。〕 奧津宮など、祀られる場所は書いてないが、市杵嶋姫と湍津姫の順番が、記と逆転している。一書1~3でも、順番はばらばらである。書紀本文同様に、宗像君の祭神になったと見られるのは一書2だけである。 一書1では、三女神の行き先は宗像君ではなく、日神の指示により、三女神に天孫(邇岐志;にぎし)の降臨を助けた。一書3では、水沼君の祭神になっている。 「宗像大社」は沖ノ島の沖津宮、筑前大島の中津宮、宗像市田島の辺津宮の三社の総称である。(右図1) ・沖ノ島は、福岡県宗像市の旧大島村域に属する、九州本土から約60キロ離れた玄界灘の真っ只中に浮かぶ周囲4kmの孤島である。宗像大社の神領で、沖津宮が鎮座する。 ・大島は、響灘と玄界灘の境に浮かぶ島。筑前大島ともいい、宗像大社中津宮が鎮座する。 ・宗像市田島に、辺津宮が鎮座する。辺津宮のみが「宗像大社」と呼ばれる場合もある。 実際の宗像大社は、田心姫神(たごりひめのかみ)が沖津宮(おきつぐう)、湍津姫神(たぎつひめのかみが中津宮(なかつぐう)、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)が辺津宮(へつぐう)。三女神の名称と順番は書紀に従ったようだ。 沖ノ島は海の正倉院と呼ばれ、中国、新羅、ペルシアで作られたものを含み、祭祀遺跡出土品の全て(約8万点)が国宝に指定されている。それらは宗像大社の神宝館に収蔵されている。 膨大な出土物と、宗像市田島・大島・沖ノ島の並びを見れば、これらを結ぶ線が朝鮮半島に繋がる強力な海上交通路であったのは明らかである。 かつて、九州北部から北陸まで、日本海沿岸に古代出雲文化圏というものがあり、朝鮮半島との間で人や物の活発な交流があったと考えられている。 古代宗像氏は、海域を支配する強大な氏族で、辺津宮を起点として周辺の海上交通に関わっていたと思われる。
【一書1における三女神の役割】 日神方知素戔鳴尊固無惡意。乃以日神所生三女神令降於筑紫洲。因教之曰、汝三神宜降居道中奉助天孫。而爲天孫所祭也。
つまり、九州に降りるが、助ける相手は宗像君ではなく、天孫(ニニギ)の降臨をサポートする役割が与えられる。 【一書3における三女神の行き先】 卽以日神所生三女神者、使降居于葦原中國之宇佐嶋矣。今在海北道中。號曰道主貴。此筑紫水沼君等祭神是也。 〔日の神が生んだ三女神は、葦原中国(あしはらのなかつくに=国土)の宇佐島に降り、今は海の北道にいて、道主貴(ちぬしのむち)と名付けられた。筑紫の水沼君(みぬまのきみ)らが祀る神がこれである。〕 宇佐島は、なぜ「島」とされるか分からないが、大分県宇佐市の「宇佐」であろう。「水沼君」は「九州北部の氏族で、宗像君ほど有力ではない」ことは推定できるが、これ以外に確実な資料は見つからない。 「海の北道」は、玄界灘など九州の北の航路である。船舶が頻繁に行き来するルートを、当時の人々も「海上の道」と表現しているのは面白い。 【海上交通網】 魏志倭人伝によれば、帯方郡の使者は、九州北部に上陸後、陸路は不弥国までで、次は投馬国に向けて「水行」する。魏志倭人伝の内容や宗像大社の配置から、右図2のような会場交通網があったと思われる。 水行の出発位置は、海上交通の要地、辺津宮付近の可能性が強い。 ただ、不弥国(ふみこく)が古代宗像とすると、距離が合わないという問題がある。 右図3のAを伊都国(いとこく)、Bを奴国(なこく)と推定し得る。「奴国から100里」という倭人伝の記述に従えば、Cを不弥国(ふみこく)とするのがよい。しかし、宗像に近いのはDである。 とは言え、Cを不弥国(ふみこく)として、そこから出航し、辺津宮には上陸せず立ち寄るだけで、出雲に向かうとすれば、それもあり得るように思われる。 【記・書紀における宗像氏】 宗像氏は、記紀では胸形君・胸肩君と書かれる。 記では、多紀理毘賣命が大国主の妻となる。それ以外、胸形君は登場しない。 書紀では、三女神について、記と同じように「此則筑紫胸肩君等所祭神是也」と書いている。 次に出てくるのは、29巻・天渟中原瀛眞人天皇下 天武天皇の673年の記事で、「次納胸形君德善女尼子娘、生高市皇子命。」 つまり、胸形君徳善の娘、尼子娘が天武天皇の2人目の妃となり、高市皇子を生む。 福岡県福津市に、宮地嶽古墳(古墳時代終末期の円墳、7世紀前半か)があり、宗形君徳善が埋葬されているとする説がある。 書紀は、それ以外に出てこない。 【「胸形君」の文身説】 以下、古代の宗像氏と宗像信仰(亀井輝一郎)から引用する。 金関丈夫氏の説くの文身(入墨)説は注目される。氏によれば、「胸」の字の「×」も元は「文」で、甲骨文によれば文様を意味する「文」の字は胸の入墨の形から起こった字である。 三角を含むのちの鱗形はシナ海沿岸の竜蛇信仰と関係する蛇の鱗形であって、北九州の宗像は、「もとは胸形と書かれた。 胸に鱗形の入墨をした海部の子孫、これが北九州のムナカタ氏である」といわれる。 『三国志』(魏書東夷伝倭人条)には「倭の水人、好く沈没して魚蛤を捕え、文身して亦以て大魚小禽を厭す」とあり、埴輪にも鱗文の文身をみることができる。 (引用終わり) 【阿曇連との共通点・相違点】 三柱の綿津見神は、阿曇連等の「伊都久神」であるという表現がある。また筒之男命三神は「墨江之三前大神」とされる。 「伊都久三前大神」が、これらと同じ表現であることが注目される。海洋系氏族は、海路の守り神として三神を祀るという共通性がある。 また、「阿曇目」という黥面、胸形君の胸の文身における入れ墨の習慣にも注目した。 反面、相違点もある。胸形君は、イザナギ~アマテラスの系統の内部に起源を持たない。また東遷していく阿曇連とは違い、ずっと宗像市に定着する。 また、阿曇連が朝廷の官僚として書紀にしばしば登場するのに対して、胸形君は天武天皇に娘を嫁がせるまでは、全く登場しない。 【胸形君の独立性】 多くの氏族が、天皇の系図の枝分かれとして位置付けられる中で、胸形君は例外である。 その独立性に関して、先に取り上げた亀井輝一郎氏の論文から再び引用する。 (『宗像大菩薩御縁起』所収の『西海道風土記』によれば)天降った宗像大神が青玉・紫玉・鏡を「神體之形」と成して、三宮に納め置いたことから「身形郡」といい、後人が「宗像」に改めたという。 (引用終わり) ここに書かれた「胸形」の由来の信憑性はともかくとして、あまてらす族とは別の起源神話をもつ点が注目される。自らの先祖を記紀に組み込むことを許容すれば、あまてらす族と同根になる。それを、胸形君の方から拒否したのかも知れない。 それが、書紀にほとんど登場しないことに通ずる。要するに、敵対はしないが、疎遠なのである。集権国家を目指す天武天皇は、距離があるが故にその距離を縮めようとして、胸形君徳善の娘を妃の一人としたと考えられる。 一方、記紀が三女神を宗像君と結びつけたのは、宗像君を出雲系として扱ったことを示唆する。 というのは、書紀の本文と、記によれば、三女神はスサノヲの子と判定されたが、そのスサノヲは、もともとは古代出雲の神であったと思われるからである。母の国に行きたいと言って泣くのも、そのためである。 スサノヲはその後、出雲の地で大国主の父(あるいは祖先)となった。それにも関わらず、スサノヲをアマテラスの弟にしたのは、出雲が、最後は「国譲り」によって、倭の統治下に組み込まれたからである。 しかし、かつて倭と出雲地域が、敵対関係にあった名残が記のあちこちに残る。出雲・島根地方を「黄泉」と描くこともそうだし、スサノヲが高天原にいるときは、否定的に描かれるのもそれである。 ところが、胸形君が古代出雲の一部だとすると、問題が残る。海洋からの渡来氏族として、阿曇連との共通性が説明できなくなるのである。 もともと、私の仮説は、百越人が「越」の文字をもって紀元前4世紀ごろに渡来。当時の先住民に「こし=来し」と呼ばれ九州南部→九州北部→日本海岸と勢力を広げ、古代日本海文化圏を形成する大勢力となった。そこに西暦1世紀ごろ南方からあま族が渡来し、東遷の過程で倭国大乱を引き起こしたとする。 だから、胸形君が元々こし族の一部だったとすると、阿曇族との類似性が説明できない。 そこで、全くの想像ではあるが、宗像君の祖先はあま族に属するが、この一派は拡張主義を取らず、宗像地方を離れなかったとする。この地域の支配を維持しつつ、こし族とは協調する道を選んだ。 古代出雲が敗北した後は、もともと地域限定・協調重視という特徴があるので、一転してアマテラス族とも協調することができた。ただし、独立心が強く、自らの起源譚は手離さないのである。 【「国造」の性格】
したがって、712年成立の記に書かれた「国造」は、「かつて国造であった氏族」である。与えられた姓「直」が書かれたものもある。 【天菩比命の子孫】 書紀では、次天穗日命。【是出雲臣・土師連等祖也。】として、姓の臣、連で表されている。 記では、天菩比命の子、建比良鳥命が祖とされる。それぞれの地域を示す。
【天津日子根命の子孫】 書紀では次天津彦根命。【是凡川內直・山代直等祖也。】とされる。 以下、地域などを調べたが、一部は未確認である。
まとめ 各地の氏族の出発点を天皇の家系から分岐させることによって、各地の氏族を天皇と親戚関係に位置づけ、国家への統合を強めようとする。 記を学ぶ中で、自分の氏族のルーツが載っていれば、祖先を共通とする朝廷への一体感を持つこととなる。 その中で、胸形君については系図に組み込まれることはない。スサノヲが生んだ三女神を、祭神として与えたことによって親しくなるに留まる。 しかし、一書1と一書3は全くそれとは違うことが書かれているから、実際にアマテラス族と宗像君との関係は、本当はそんなに親密でもなさそうである。 船の出航地と経由地にあたる浜、大島、沖ノ島には古く記紀以前から、三神を祀っていたのであろう。現在の三神の名前が書紀と完全一致することから、書紀が成立した後で改めて三神の正式な名としたに違いない。 記紀は、どちらかと言えば、三女神が生まれたものの、その行き先をどうしたものかと、持て余している感がある。 |
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2014.01.19(日) [048] 上つ巻(建速須佐之男命4) ▼▲ |
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爾速須佐之男命白于天照大御神 我心淸明 故我所生子得手弱女 因此言者自我勝云
爾(ここに)、速須佐之男(はやすさのを)の命(みこと)天照大御神(あまてらすおほみかみ)于(に)白(まを)さく、「我(あ)が心清く明かし。故(かれ)我(あ)が生(な)せる[所の]子、手弱(たよわ)き女(め)を得(う)に因(よ)りて此れの言ふ者(は)自(おのづか)ら我(われ)勝(か)てり」と云(まを)す。 而 於勝佐備【此二字以音】離天照大御神之營田之阿【此阿字以音】埋其溝 亦 其於聞看大嘗之殿 屎麻理【此二字以音】散 而(しかるがゆゑ)に、勝ち佐(さ)備(び)【此の二字、以音(こゑ)を以ちゐる。】於(に)天照大御神之(の)営田(つくだ)之(の)阿(あ)【此の「阿」の字、音(こゑ)を以ちゐる。】を離(はな)ち其の溝を埋む。 亦(また)其(それ)大嘗之殿(おほにへのとの)を聞き看(み)るに於(お)きて、屎(くそ)麻(ま)理(り)【此の二字、音を以ちゐる】散らす。 故 雖然爲 天照大御神者登賀米受而 故(かれ)、然(しか)為雖(すれども)、天照大御神者(は)登(と)賀(が)米(め)受(ず)て[而]、 告 如屎 醉而吐散登許曾【此三字以音】我那勢之命爲如此 又 離田之阿埋溝者 地矣阿多良斯登許曾【自阿以下七字以音】我那勢之命爲如此 告(のたま)はく、「屎の如きは 醉(ゑ)ひて[而]吐(たぐ)り散らす登(と)許(こ)曾(そ)【此の三字、音を以ちゐる。】我(あが)那勢之命(なせのみこと)此如(かく)為(な)れ。 又、田之阿(たのあ)離(はな)ち溝を埋(うづ)む者(は)、地(つち)[矣]阿(あ)多(た)良(ら)斯(し)登(と)許(こ)曾(そ)【「阿」自(よ)り下を以て七字、音を以ちゐる。】我(あが)那勢之命此如(かく)為(な)れ。」 登【此一字以音】詔雖 直猶其惡態不止而 登(と乙)【此の一字、音を以ちゐる。】詔(のたま)へ雖(ど)も、直(た)だ猶(な)ほ其の悪しき態(さま)不止(やまず)て[而]、 轉天照大御神坐忌服屋而 令織神御衣之時 穿其服屋之頂 逆剥天斑馬剥而 所墮入時 天服織女見驚而 於梭衝陰上而死【訓陰上云富登】 転(かへ)りて、天照大御神、忌服屋(いみはたや)に坐(ましま)して[而]、神御衣(かむみけ)を織ら令(し)めし[之]時、 其の服屋(はたや)之頂(いただき)を穿(うが)ち、天(あめ)の斑馬(ふちこま)を逆剥(さかは)ぎに剥ぎて[而]、墮(お)とし入(い)る[所の]時、 天(あめ)の服織女(はたおりめ)見て驚きて[而]、梭(ひ)於(を)陰上(ほと)に衝(つ)きて[而]死につ【「陰上」を訓(よ)み、富(ほ)登(と)と云ふ。】。 さて、速須佐之男命(はやすさのおのみこと)が天照大御神(あまてらすおおみかみ)に申し上げるに、「私の心が清明だったからこそ、私が生んだ子に、か弱い女子を得たのです。ですから、これが物語るのは、自(おのずか)ら私が勝ったということです。」と。 そして、勝ち誇り、天照大御神の営田(つくだ)の畔を毀損し、その溝を埋めてしまいました。 また、御殿で大嘗祭(だいしょうさい)があると聞き、出かけて糞をし散らかしました。 ところが、こんなことをしたと言うのに、天照大御神は咎(とが)めず、 仰るには、「糞のようなことは、酔って吐きちらすと、弟はこの程度をしたに過ぎません。」と。 また、「田の畔を毀損して溝を埋めたのは、土が新しくするために、弟はこういうことをしたのです。」と。 このように仰ったにも関わらず、相変わらずで、そのまま悪態を止めませんでした。 却って、天照大神が斎服殿(いみはたでん)にいらっしゃり、神御衣(かむみけ)を織るよう命じなされた時に、 その斎服殿の屋根のてっぺんに穴を開け、天斑馬(あめのふちこま)を逆剥(さかは)ぎに剥ぎ墜(お)とし放り込み、 天(あめ)の服織女(はたおりめ)はそれを見て驚き、杼(ひ)[織機で用いる器具]によって陰部を衝(つ)き、死んでしまいました。 たよわし…[形] か弱い。「た」は接頭語。 云…[助] 文末に置いた場合、文の内容をまとめ結ぶ。「~といふ」と訓読。 さぶ(荒ぶ、寂ぶ)…[自動]バ行上二 荒れる。古びる。 -さぶ…[接尾] ~らしいようすだ。 つくだ(佃、営田)…[名] 耕作する田地。 あ…[名] 畔(あぜ) 屎(くそ)…[名] 大便。 まる(放る)…[他動]ラ行四段 大小便をする。 とがむ(咎む)…[他動]マ行下二 非難する。責める。 ゑふ…[自動]ハ行四段 酔う。 と…[副]このように 直(ただ)…[副]まっすぐに。すぐに。 猶(なほ)…[副]依然として。 やむ(止む)…[自動]ヤ行四段 やまる。[他動]ヤ行下二 やめる。 転…[副]却って。 はたや…[名] 機(はた)を織る建物。〈時代別上代〉イミハタヤは、特に神の御衣を織る神聖な機屋の意味であろう。 方…[副]まさに。 神御衣(かむみそ)…[名]神が着る神聖な衣装。また、神にささげる衣服。 【爾】
書紀でも同様である。しかし、記だけは頻繁に文頭に「爾」を置き、接続詞「故」と同じように使う。これは日本語用法である。 【我心清明、故我所生子得手弱女】 私の心が清明だからこそ、か弱い女子を生んだと速須佐之男は言う。 一方、前回見たように書紀の本文・すべての一書で、請ひは「心が清明ならば男子が生まれる」とされ、天照大御神による定義「与えた持ち物の所有者が生み主である」によれば、速須佐之男は濁心である。 それに従えば、速速須佐之男の主張は無力な言い訳である。しかし、記には速須佐之男の言い分に耳を貸してやろうとする雰囲気が漂う。それは、天照大神の母性的な対応を、万葉仮名を使ってリアルに載せるところにも表れている。 前回に述べたように、記は速速須佐之男に対して、より同情的である。 【勝ちさぶ】 動詞「さぶ」の訳「荒れる」は暴れるというより、「荒れ果てる」という意味である。したがってここでは接尾語の「~らしいようすを見せる」を用いて「勝ち誇る」と訳した方がよいと思われる。 自分勝手な理屈を言い張って暴れまくる。本当は自分の理屈は通らないことが分かっていて、その悔しさがあるから暴れるのである。 【離天照大御神之営田之阿】 同じ場面を書紀では、「毀其畔。【毀、此云波那豆。】」として、毀(そこなう)を「はなつ」と読むよう指示している。 だから、記の離も「はなつ」と読むと判断してよい。畔は破壊された結果、切れて離れる。 【登賀米受】 この4文字は万葉仮名なので、注に「登以下四自字以音」が必要だが、ここでは忘れられている。 【~とこそ】
もともと「こそ+已然形」は、後続節への逆接あるいは順接を意味した。ところが已然形の接続機能は次第に失われ、単なる強調になる。その変化は既に万葉集の一部に見られるという。 ここでも後続節がない形で、本当は重大なことなのに、大したことないと言い繕う。暗黙裡に「だから、もうこんなことをしちゃ駄目よ」という気持ちを込めている。 このように生の和文を投入することによって、書紀一書2、一書3の「恩親之意、不慍不恨。皆以平心容焉」より、生々しくなる。書紀・本文は、そもそも初めのうちは「不レ恨」と許容していたことにすら触れていない。 【大嘗】 書紀では、「新嘗」になっている。
【屎をまり散らす】 記では、文字通り会場にまき散らす。書紀では、物陰に隠れて脱糞する。 一書2がもっとも詳細で、屎を天照大御神の席にそっと置き、天照は気付かずに直接その上にすわった。 いずれにしても神聖な新嘗祭の会場を屎で汚す。 【埋溝】 灌漑用の溝を埋める。一書3では「廢渠槽(ひはなち)、及埋溝」である。「ひ」(樋)は、竹や木で作った水を通す管(とい)、または堰き止めた水を出し入れする戸。 字は「渠槽」だから、水を溜めておく構造物か。破壊すれば水が「放た」れる。 一書2の「塡渠」は、溝あるいは、地下の管を指し、土を充填する。 飛鳥時代の水田はもう、畔、溝、暗渠などを備えた進んだものであったことがわかる。 【地矣阿多良斯登許曾】
係助詞「こそ」は、動詞の已然形に呼応する。「為す」の已然形は「為せ」、「す」の已然形は「すれ」。
とは言え、畔・溝を破壊すれば、その後修復して土が新しくなるのだから、ここでは「新し」の方が意味が通る。 なお、文学における「中古」は平安時代(794~1192年)である。 【飲酒の習慣】 酒に酔い、吐く行為が出てくることから、当時、飲酒の習慣があったことが分かる。それは、弥生時代末期には一般的になっていたようで、 魏志倭人伝には「父子男女無別人性嗜酒」つまり、大人・子ども・男女の別なく酒を好むとされる。 【登詔雖】2021.2.9加筆 「告~登詔」の構成は、〈時代別上代〉「イハク~ト(イフ)のように前後から引用句を包む形となることが多い」の確例と言えよう。 これによって、「告」もまたノタマフと訓まれたと考えてよいだろう。 【忌服屋】 書紀の「斎服殿」も同じ意味と見られる。「忌む」も「斎む」も「いむ」と読む。では「服」はどう読むか? 古語辞典によれば、これは「ぶく」である。 しかし、「忌服屋」は一般に「いみはたや」、斎服殿は「いみはたどの」と読まれている。「機織り」の「はた」である。
【一書(1)の、対応する部分】
【一書(2)の、対応する部分】
【一書(3)のうち、対応する部分】
その内容は、廢渠槽(ひはがち)、埋溝(みぞうめ)、毀畔(ひはなち)、重播種子(しきまき)、捶籤(くしざし)、伏馬(ふせこま)である。 このうち、伏馬は書紀・本文の「放天斑駒、使伏田中」を意味すると思われる。
延喜式(えんぎしき)は、律令の細則として、編纂されたもの。平安時代の927年に完成し、967年に施行された。 その第8巻の「祝詞」に、天津罪・国津罪の項目がある。そのうち天津罪には、8種が列挙されている。 右の表は、天津罪の各項目に、記紀にあるスサノヲの行為を対応させたものである。 これを見ると、天津罪は書紀本文と一書にある、さまざまなものを整理して作られたと思われる。但し、「伏馬」は含まれない。 【重播種子(しきまき)】 「しきまき」は種子を蒔いて生育を始めたところに、再び種子を蒔くことだと思われる。確かにこれでは、計画的な農作業を不可能にし、まともな収穫は期待できない。しかし、現実の農作業にこういう妨害行為があったのか、単なる想像かは不明である。 【捶籤(くしさし)】 漢字がもつもともとの意味は、「捶」は鞭打つ、「籤」はくじである。籤とは、もともと細い竹に字を書いたもので、今日もおもくじを引くときに使う。竹筒を振って出す、番号を欠いた棒の束がそれである。 一書3の注釈がなければ、この熟語が「田に打ち込む杭」であることは、分からない。 しかし、それでもまだ、行為の意味が分からない。しかし一書2の「冒以絡繩」は「他人が所有する田に勝手に縄張りをして奪い取る」と読めるので、これを組み合わせれば、縄張りするための杭打ちだと考えることができる。 【田の蹂躙】 このような田の破壊行為は、もともと部族間の争いに由来するものだと考えることができる。 一旦紛争が起これば、畔や水路は破壊され、稲を馬が踏み倒したり、力づくで自分のものにして縄張りしたりする。 このような悪辣な行為が、素戔嗚尊一柱に集約されるのである。ここでも「かつて男子王による戦乱の時代を女王が終わらせた」記憶に繋がっていくように思われる。 【逆剥ぎ、生剥ぎ】 速須佐之男による数々の荒っぽい行為の中で、これだけはやり方が想像つかない。現在の馬革を使った工芸品を検索すると、バッグなどが販売されている。当時も利用されていただろう。 しかし、生きたままの馬から皮を剥ぎ取るような行為は、実際にはまず不可能である。馬を奪って殺し、利用価値の高い尻の皮などを剥ぎ、残った死体を家に放り込むようないやがらせが、実際にあったのだろうか。 あるいは、単に物語を面白くするための、想像上の残虐行為か。全く不明である。 ただ、ここに出てくる営田、養蚕、機織りとともに、馬も弥生時代から奈良時代の人々の生活に関わりが深いのは確かである。 【天照大御神の態度の変化】 スサノヲが高天原に昇って来ようとするときには、厳しい姿勢で武装を完全にして待ち構えた。 ところが、3女神・5男神を生んだ後、その対応は、父性原理から一転し、母性原理に変わる。 何しろ糞をまき散らしても、「この程度のことは酔って吐きもどすのと大差ない」と言うのである。 さらに、暴れて大切な佃を破壊されても、「これで土を新しくできるからいいのだ」と言って庇う。ただし「こうやって大目に見てあげますから、もう二度としてはいけません。」という願いを語っている。 現代でも、暴れる子どもに世間が迷惑しているときの、家族の心情はさもありなん、というところである。文章の趣が、ずいぶん人情に触れるものに変化してきている。 ここに来て神学的な堅苦しさから解放され、読み物としての面白さが前面に出てきた。書きっぷりを見ても口語そのままの流し込み、書き手も緊張を解いているように感じられる。 【糞の話】 もともと下品な話だが、描き方を見ると、記は書紀よりさらに大袈裟である。書紀で「新嘗」になっているところを、記では「大嘗」にランクを上げる。糞の置き方も、書紀では陰に隠れてそって置くのに対して、記は盛大にまき散らす。 どうも、子どもを喜ばせることを狙っているようだ。かつて、子どもが喜びそうなテレビ番組が、よく世間の非難を受けたが、記には、そういう俗悪番組のような面がある。 記が民衆教化の役割を担っていることは既に述べたが、そのためには子どもを引き付けることが特に重要なのである。 【生殖の否認】 逆剥ぎされた馬が投げ込まれて、驚いた女性の陰部に杼が突き刺さることによって、命を失う。これに類似する話が書紀5巻『崇神天皇』にもある。 第5巻には、シャーマン倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)が登場する。百襲姫は蛇を見て驚き、蛇が実は大物主が変身したことを知り、思わず腰を落としたときに、陰部に箸が刺さって死ぬ。 倭迹々日百襲姫の墓はこの話に因み箸墓古墳と呼ばれる。大市の大型古墳で、「昼は神が作り、夜は人が作った」という表現によって、極めて短期間に作られたことが示唆される。 これらの話には、「子どもを残すことへの否認」という意味が込められているように思われる。 まとめ 箸墓古墳は、古墳時代初頭の大王クラスの大きさを持ち、「卑弥呼の墓」説がある。一方、忌服屋で「杼が刺さって死亡」したのはもともと天照自身だった可能性がある。 これらに共通する、「陰部にものが刺さって死亡」することは、「そこから天皇に血が繋がることの否定」を暗示しているように思われる。もともと記紀の基本的な構図は、天皇の系図が高天原から始まるところにある。だから「現実にいた地上の女王から天皇が始まる」ことをとことん否定するのである。 ここで、記紀において卑弥呼の影をどうやって打ち消しているかを考えてみる。その方法は、次の5つである。 1 女王を太陽神に統合し、神から天皇への接続点を、地上から神代に、それも初めの方に持っていく。 2 卑弥呼を、シャーマンとして崇神天皇を助けた一少女に、矮小化する。 3 魏志倭人伝に登場する卑弥呼は、一時的に天皇を中断し、その摂政となった神功皇后に置き換え、日本を三韓から朝貢を受ける国として描き直す。 4 直接的な血の継承を「剣を噛んで吹き出した霧から化生する」象徴的行為に置き換える。 5 陰部を物理的に破壊することによって、直接的な血の継承を否定する。 逆に言えば、女王卑弥呼についての民族の記憶、あるいは魏志倭人伝が、依然として重くのしかかっているのである。 では、なぜ、ここまでして消滅を図らなければならないのか。 ひとつには、天皇の系図を整然と描いてみたら、はめこむ場所がなくなっていた。そこで残されてきた女王の記憶を処理しなければならない。 もうひとつは、倭が魏に朝貢する国であったことである。記紀編纂の時代に当てはめれば、唐に朝貢することと同じである。 天武天皇は、大国となった唐と対等に渡り合うために、中央集権の確立を急いだ。歴史書「書紀」の確立と民衆への「記」の浸透は、そのための精神的な土台づくりである。その中に、魏に朝貢した古代の女王がいるなど、とんでもない話である。 だから、代々受け継がれた民衆の記憶と、中国の歴史書に残る古代の女王を、うまく処理しなければならなかったのである。 幕末に生まれた、邪馬台国九州説も同様の動機による。それまでは、「倭=大和の国」と思われていた。書紀の神功皇后の記事の注釈に、魏志倭人伝が引用されているのもそれを物語る。 幕末、欧米の列強の東アジアへの進出に対抗するために、中央に結束する強力な国への改革が課題だった。その土台となる精神的な統一を実現するために、記紀を再利用したのである。 そんなときに、大和地方の邪馬台国が魏に朝貢し、そのまま朝廷の歴史に繋がることなど、あってはならないのである。だから、邪馬台国を九州の一豪族に矮小化しようとした。それなら中国の冊封国になるのは許してやってもよいという訳だ。 |
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2014.01.28(火) [049] 上つ巻(建速須佐之男命5) ▼▲ |
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故於是天照大御神見畏 開天石屋戸而 刺許母理【此三字以音】坐也
爾 高天原皆暗 葦原中國悉闇 因此而 常夜往 於是 萬神之聲者狹蠅那須【此二字以音】滿 萬妖悉發 故(かれ)、於是(ここに)天照大御神(あまてらすおほみかみ)見(め)し畏(おそ)り、天石屋戸(あまのいはやと)を開(ひら)きて[而]、刺(さし)許(こ)母(も)理(り)【此の三字、音(こゑ)を以ちゐる。】坐(ま)す[也]。 爾(ここに)、高天原(たかあまはら)皆暗く、葦原中国(あしはらのなかつくに)悉(ことごと)く闇(くら)く、此に因(よ)りて[而]常夜(とこや)に往(いた)りぬ。 於是(ここに)、万(よろづ)の神之(の)声(こゑ)者(は)狭蝿(さばへ)那(な)須(す)【此の二字、音を以てす。】に満ち、万(よろづ)の妖(あやしき)悉(ことごと)く発(はな)てり。 是以 八百萬神於天安之河原神集集而【訓集云都度比】 高御產巢日神之子 思金神令思【訓金云加尼】 是(こ)を以(も)ちて、八百万(やほよろづ)の神、天(あめ)の安(やす)之(の)河原(かはら)に[於]神集集(かむつどひつどひ)て[而]【「集」を訓(よ)み、都(つ)度(ど)比(ひ)と云ふ。】、 高御産巣日神(たかみむすひのかみ)之(の)子(こ)、思金神(おもひかねのかみ)に思は令(し)めて【「金」を訓(よ)み、加(か)尼(ね)と云ふ。】[而]、 集 常世長鳴鳥 令鳴而 取天安河之河上之 天堅石 取天金山之鐵而 求鍛人 天津麻羅而【麻羅二字以音】 科 伊斯許理度賣命【自伊下六字以音】令作 鏡 科 玉祖命 令作 八尺勾璁之五百津之御須麻流之珠 而 常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)を集め、鳴か令(し)め[而]、 天安河(あめのやすのかは)之(の)河上(かはかみ)之(の)天堅石(あめのかたしは) を取り、天金山(あめのかなやま)之(の)鉄(くろがね)を取りて[而]、鍛人(かぬち)に天津(あまつ)麻(ま)羅(ら)を求(ま)ぎて[而]【「麻羅」の二字、音を以ちゐる。】、 伊(い)斯(し)許(こ)理(り)度(ど)売(め)の命(みこと)【「伊」自(よ)り下六字、音を以ちゐる】に科(おほ)せて、鏡を作ら令(し)め、 玉祖命(たまのおやのみこと)に科(おほ)せて、八尺勾瓊之五百津之御須麻流之珠(やさかのまがたまのいほつのみすまるのたま)を作ら令(し)めて[而]、 召 天兒屋命 布刀玉命【布刀二字以音下效此】而 內拔 天香山之眞男鹿之肩 拔 而 取 天香山之 天之波波迦【此三字以音木名】而 令占合麻迦那波而【自麻下四字以音】 天児屋命(あめのこやねのみこと)、布(ふ)刀(と)玉(だま)の命(みこと)【「布刀」の二字、音を以ちゐる。下、此れに効(なら)ふ。】を召(め)して[而]、 天香山(あまのかぐやま)之(の)真男鹿(まをしか)之(の)肩を内抜きに抜きて[而]、 天香山之(の)天之(あまの)波(は)波(は)迦(か)を取り【此の三字、音を以てなす。木の名。】て[而]、 占合(うら)ひ麻(ま)迦(か)那(な)波(は)令(し)めて[而]【「麻」自(よ)り下四字、音を以ちゐる。】、 天香山之 五百津眞賢木矣根 許士爾許士而【自許下五字以音】 於上枝取著 八尺勾璁之五百津之御須麻流之玉 於中枝取繋 八尺鏡【訓八尺云八阿多】 於下枝取垂 白丹寸手青丹寸手 而【訓垂云志殿】 此種種物者 布刀玉命 布刀御幣登 取持而 天兒屋命 布刀詔戸言禱白 天香山(あまのかぐやま)之(の)五百津真賢木(いほつまさかき)をば[矣]根(ね)許(こ)士(じ)爾(に)許(こ)士(じ)[而]【「許」自り下五字、音を以ちゐる。】、 上枝(ほつえ)に[於]、八尺勾瓊之五百津之御須麻流之玉(やさかのまがたまのいほつのみすまるのたま)を取り著(つ)け、 中枝(なかつえ)に[於]、八尺(やあた)の鏡(かがみ)【「八尺」を訓(よ)み、八(や)阿(あ)多(た)と云ふ。】を取り繋(か)け、 下枝(しづえ)に[於]、白(しら)丹寸手(にきて)、青(あを)丹寸手を取り垂(し)で[而]【「垂」を訓(よ)み、志(し)殿(で)と云ふ。】、 此の種種(くさぐさ)の物者(は)、布刀玉(ふとだま)の命、布刀(ふと)御幣(みてぐら)登(と)取り持ちて[而]、 天児屋命(あめのこやねのみこと)、布刀(ふと)詔戸(のりと)言祷(ことほ)ぎ白(まを)せり。 而 天手力男神 隱立戸掖 而 而(しかるがゆゑに)、天手力男神(あめのたぢからをのかみ)、戸の掖(わき)に隠れ立ちて[而]、 天宇受賣命 手次繋天香山之天之日影而 爲𦆅天之眞拆而 手草 結天香山之小竹葉而【訓小竹云佐佐】 於天之石屋戸伏汙氣【此二字以音】蹈登杼呂許志【此五字以音】 爲神懸而 掛出胸乳 裳緖忍垂於番登也 天宇受売命(あめのうずめのみこと)、手次(たすき)に天香山之(の)天之(あまの)日影(ひかげ)を繋(つ)けて[而]、 𦆅(かづら)に天之(あまの)真拆(まさき)を為(な)して[而]、手草(たぐさ)に天香山(あまのかぐやま)之(の)小竹(ささ)の葉を結(ゆ)ひて[而]【小竹を訓(よ)み、佐(さ)佐(さ)と云ふ。】、 天之石屋戸(あまのいはやと)に[於]汚気(うけ)【此の二字、音を以ちゐる。】を伏せ、踏み登(と)杼(ど)呂(ろ)許(こ)志(し甲)【此の五字、音を以ちゐる。】、 神懸(かむが)かり為(し)て[而]、胸乳(むなち)を掛(かか)り出(い)で、裳(も)の緖(を)番登(ほと)に[於]忍(おし)垂れぬ[也]。 爾 高天原動而 八百萬神共咲 爾(か)くありて、高天原(たかあまはら)動(とよ)みて[而]、八百万(やほよろづ)の神、共に咲(わら)ひき。 そして、これに天照大御神(あまてらすおおみかみ)は御覧になり畏れ、開天石屋(あまのいはや)の戸を開き、立てこもられてしまいました。 そのため、高天原は皆暗く、葦原中国(あしわらのなかつくに)は悉く闇(くら)く、これによって常夜(とこや)が過ぎました。 そこで、万(よろず)の神の声がざわめき満ち、万の妖気が悉く発せられました。 これによって、八百万(やほよろず)の神は、天安河(あめのやすのかわ)の河原に神の会議に集い、 高御産巣日神(たかみむすひのかみ)の子、思金神(おもいかねのかみ)に思案をさせました結果、 常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)を集めて鳴かせ、 天安河の川上の天堅石(あめのかたしわ) を取り、天金山(あめのかなやま)の鉄(くろがね)を取り、鍛人(かぬち)に天津麻羅(あまつまら)を求め、 石凝姥命(いしこりどめのみこと)に担当させて鏡を作らせ、 玉祖命(たまのおやのみこと)に担当させて八尺勾瓊之五百津之御須麻流之珠(やさかのまがたまのいほつのみすまるのたま)を作らせ、 天児屋命(あめのこやねのみこと)・太玉命(ふとだまのみこと)を召し出し、 天香山(あまのかぐやま)の真男鹿(まをしか)の肩を打ち抜き、 天香山の天のははか[植物の名前]を取り、 占いを取り仕切り、 天香山(あまのかぐやま)の五百津真榊(いおつまさかき)を根こそぎ掘り起し、 上枝(ほつえ)には、八尺勾瓊之五百津之御須麻流之玉(やさかのまがたまのいほつのみすまるのたま)を取り着け、 中枝(なかつえ)には、八尺の鏡(やあたのかがみ)を取り懸け、 下枝(しづえ)には、白丹寸手(しらにぎて)・青丹寸手(あおにぎて)を取り垂(し)でて、 これら各種の物は、太玉命(ふとだまのみこと)が太御幣(みてぐら)として取りまとめお供えし、 天児屋命(あめのこやねのみこと)は、太祝詞を言祝ぎ申し上げました。 そして、天手力男神(あめのたぢからをのかみ)が、戸の脇に隠れ立ち、 天宇受売命(あめのうずめのみこと)は、襷(たすき)に天香山の天(あま)の蘿(ひかげ)[=ヒカゲノカズラ]を着け、 鬘(かずら)として天の真拆(まさき)[つる植物]を着け、手草(たぐさ)として天香山(あまのかぐやま)の小竹(ささ)の葉を結い、 天之石屋戸(あまのいわやと)に桶を伏せ、踏み轟かせ、 神懸かりして乳房を出し、裳(も)の紐を陰部(ほと)まで押し下げました。 この様子に、高天原(たかあまはら)はどよめき、八百万(やほよろず)の神は、一斉に笑いました。
【天石屋戸】 「天」に格助詞「の」または「つ」をつけた形は、古い順に、あまつ⇒あまの⇒あめの。 辞書によると、「天岩屋」の場合、「あま」「あめ」はどちらもありとなっている。なお、平安時代以後の記紀の訓注では、神話関係の語はほぼ「あまの」に統一されているという。 「戸」は、入口を開閉する「戸」と、「ところ」の両方に使われる。 【高天原皆暗、葦原中国悉闇】 序文でよく使われた、対句表現である。 【「天安河」のよみ】 「の」を入れる読み方・入れない読み方の両方が見られたので、試しにネットで検索をかけてみた。結果は次の通りである。 「天安河 やすのかは」…563,000件。「天安河 やすかは」…6,730件。「天安河 やすのかわ」…345,000件。「天安河 やすかわ」…53,400件。 現代仮名遣い、歴史的仮名遣い共に、「の」を入れる方が圧倒的に多いが、面白いのは、現代仮名遣いでは差が縮まることである。 また、「あま」「あめ」についても検索をかけてみると、「天安河 あまの」…13,200件。「天安河 あめの」…63,700件。 従って、「あめのやすのかは」が多数である。 神の名前だと、各地の宮で祀られ、よみはそこで決めた通りに定まる。 しかし、「天安河」は神として祀られるわけでもないし、地名にもなく、記紀を読む人しか目にしないので、それぞれに読まれるままになっていると思われる。 【高御産巣日神(たかみむすひのかみ)】 天地開闢のとき、最初に現れた三柱のうち二番目の神で、現れてすぐに姿を隠したとされる。 【鉄、銅の産地】 鉄を天金山、天堅石を天安河の河上から採集する。 一方、石凝姥(いしこりどめ)が鏡を作っている。鏡は青銅製である。 それでは当時、鉄、銅の生産はどのようであったか。 独立行政法人 石油天然ガス・金属鉱物資源機構(JOGMEC)の資料によると、古墳時代から奈良時代において、金属器を中国、朝鮮半島から輸入し、青銅器は国内で鋳造し、模造・改造されるようになった。 文武天皇は、大宝元年(701年)以後、鉱業を奨励し、元正天皇(715~724年)まで3代にわたる天皇の積極的な鉱業の奨励策が効果を表し、各地で鉱物の発見が相次いだという。 古墳時代から奈良時代において、 つまり、記紀が成立するころまでは、銅・鉄は基本的に中国・朝鮮半島から原料を輸入していた。 鉄については、岡山県古代吉備文化財センターの資料によれば、日本における生産は、古墳時代後期後半(6世紀後半)には始まっている。 その中心は吉備で、製鉄遺跡は約30遺跡、製鉄炉は100基以上が発掘されており、他地域とは格段の差があり、特に備中の総社市域に集中しているとされる。 また、日立金属「たたらの話」によれば、中国地方の岡山、広島、島根各県に製鉄遺跡が集中し、山陰側は砂鉄、山陽側は岩鉄を使うという特徴があるという。 鉄鉱石や砂鉄が、国内で採掘できていたかどうかはわからないが、可能性はある(次項参照)。 なお、伊邪那美命は、鉄の神と見られる金山毘古神・金山毘売神を生み、中国地方の比婆山に葬られる。 【原料と製品の行き違い】 文脈上は、産出した鉄と堅石から鏡と瓊(勾玉など?)が造られたとなる。勾玉の代表的な材料である翡翠(ヒスイ)であるが、製造は縄文時代・弥生時代で、奈良時代にはもう作られない。 従って、堅石を掘り出して勾玉を作る作業は、記紀の時点では絶えていて、これは伝説である。 一方鏡については、材料は青銅であって、鉄ではない。「鉄が産出された」ことと「鏡を作った」ことを同じ金属として混同し、頭の中で繋いで話が作られたと思われる。 これについては、書紀の一書1にも取り上げられているが、こちらの方が論理的である。まず鉄製の矛を作り、それを使って青銅鏡(またはその鋳型)に彫刻している。「矛」は、ここでは彫刻のための工具を指すと思われる。 そういう問題はともかくとして、「古墳時代に鉄が実際に産出されていた」事実が反映された可能性はある。国内に産地があるとすれば中国地方なので、記の一部は、中国地方の古い神話に由来するもと思われる。 【八尺勾瓊之五百津之御須麻流之珠】 かつて、天照大神は、速須佐之男命の天昇りに備えて武装するとき、左右の鬟(みずら)、鬘(かずら)、両手の計5か所に着けた。 そして、天の誓約のとき、速須佐之男命はそれらを天照大神から貰い受けて噛み砕いたとき、5柱の男神が現れた。 今回、再び「八尺勾瓊之五百津之御須麻流之珠」が登場し、榊の上枝に懸けられる。その形状は、大量の珠を紐で繋いだものよりは、大きなひとつの勾玉のようなもとした方が、それぞれの場面に相応しく思える。 従って、「五百津」といっても実際に「数多い」意味はなく、何らかの謂れが固有名詞に組み込まれたと解釈した方がよさそうである。 それに、もし「数多い」意味だとすれば、必ず新しい吉数八を使って「八百津」とするはずである。 【天香山】 天香山は想像上の山だから、その比定地がどこかというのは意味のない議論である。しかし、もともとは生活場所から見えるどこかの山が、神の世界の山になることはあり得る。 まずは、産出物から探る。 天香山から採集したものは、シカ、ハハカ、ヒカゲノカズラ、ササ、サカキである。いずれも、本州・四国・九州に広く生育するので、決め手にはならない。 大和三山の天香具山の位置は奈良県橿原市だが、最初からそれだったかどうかは分からない。 前項の製鉄の件から考えれば、もともとは中国地方にあったかも知れない。 だとすれば、出雲に祀られていた大国主命の霊を、大物主として三輪山に招いたとき、天香山も一緒に移ってきたのだろう。 また、天安河もいっしょに移ってきたようで、安川神社が奈良県に3箇所ある。それらに、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)が迦具土神(かぐつちのかみ)を斬った刀「天之尾羽張」が神となって祀られている。 迦具土神を斬って飛び散った血が、砂鉄や鉄鉱石に繋がりかも知れないと、以前書いた。 なお、「大国主命の霊を、大物主として三輪山に招いた」と書いたのは、実際には出雲の氏族を奈良に招いて朝廷で重用したということである。 その時期は4~7世紀の範囲である。なぜかというと、3世紀末に成立した魏志倭人伝で「投馬国」(筆者による比定地は出雲)だけは、官名に「みみ」がついていて、大和三山に「耳成山」があるからである。 【著(つ)く・繋(か)く・垂(し)づ】 御幣(みてぐら)を上枝・中枝・下枝に取り付けるにあたって、動詞を3種類使い分けている。詩文のような様式感のためである。ただ、うっかり意味の違いを見つけようと、無駄な努力をする可能性がある。 書紀では、あっさり「懸(か)く」に統一している。 【登】 天照大御神が速須佐之男を庇う部分に、「登【此一字以音】」がある。 それと同じく、格助詞「と乙」(~として)だと思われる。ただ、こちらには【此一字以音】という注意書きがない。 ここの「と」は、上枝、中枝、下枝のそれぞれに着けたものを集約する。一書2では、それぞれの神が個別に用意したものを「凡此諸物、皆来衆集」とまとめている。書紀・本文は、「相与(あ)げ」(=それぞれを合わせて)である。 なお一書2では、太玉命は他の神と同じ扱いで、one of them だったが、記ではまとめ役に昇格している。 【ははか】 ウワミズザクラ(上溝桜、Padus grayana)は、バラ科ウワミズザクラ属の落葉高木。 古代の亀卜(亀甲占い)に使われた。
【太占(ふとまに)】
兵庫県立武庫荘総合高等学校の授業実践例に、亀ト(きぼく)の方法を推定して、再現してみる実験があった。 それによると、亀甲に鑽(さん、小さい四角形)を彫り、右図のような溝を刻みつけておく(「マチ」という)。 次に、ハハカの木の枝の先端に火をつけ、マチを彫った鑽に押し当てて息を吹きかけることを繰り返すと、鑽の中に彫ったマチが、熱でひび割れる。 その割れ目の形から占う。ハハカの木は火の持続が良いという。同実践例の写真によると、ハハカの枝は割り箸程度の大きさであった。 なお、わが国では、亀甲の代わりに主に鹿や猪の肩甲骨が使われた。 【ここでは何を占ったか】 鹿骨とハハカを使って太占を行ったことは、記にあるだけで、書紀の本文・一書とも全く触れられていない。一書(1)では、鹿を利用するが、それは鹿皮でふいごを作るためであり、目的が異なる。 文脈から判断すれば、天照大御神を石屋戸から引き出す方法について、神意を伺うことになるが、そのプランは思金神によって、既にしっかり練られている。 占いの必然性がないから、書紀で削除されたのは当然ということになる。 しかし、一般的には神事に占いはつきものであるから、一応、ことの前に成否を問うたという程度のことかも知れない。 ただそれにしては、天香山まで鹿とハハカを取りに行くことまでわざわざ書くのは、大袈裟すぎる。 どうも、祭事全体を仕切ったことを強調し、天児屋命・布刀玉命を持ち上げる狙いがあると見られる。結局は両神を祖とする、中臣連・忌部首への配慮であろう。 しかしその結果、本来主導していたはずの思金神とがち合い、話が不明瞭になった。 なお、この部分は我々にとっては、当時鹿の肩甲骨とハハカを使う占いがあったことを知る文献資料になる。 【五百津真榊】 サカキは、ツバキ科サカキ属の常緑小高木。神事に用いられる。低木を見ることが多いが、高さ12m、胸高直径は30cmになるものがあるとされる。 「五百津」とは、数多くのという意味ではあるが、古い吉数五によるので何らかの謂れによる名称だと考えられる。 従って、天岩屋戸の前に大量の榊をもってくるわけではなく、一本の大木を、根こそぎ掘り起こしてもってくるのである。 【𦆅、鬘】(かづら) 古くは、つる草や草木の枝・花を髪に巻きつけて飾りにしたもの。伊邪那岐命もつけていた。 【うけ】 書紀では、「覆槽」を「うけ」と読んでいる。漢字「槽」は、 槽(そう)…[名詞] かいおけ(家畜の飼料)。水槽など。 【接頭語の多用】 さし-こもる、とり-つく、ふと-みてぐら、かき-いづなど、接頭語が多用されている。 他に、「天の」も「天のははか」など、必要なくても敢えて付けられている場合がある。 歌謡のように読めば、接頭語は心地よさを醸し出す。特に、同じ接頭語を反復した場合は、リズム感が生まれる。 つまり「声に出して読む」場面における効果が重視されていると言える。 記の役割が一般の民衆への教化であることの、ひとつの表れではないかと思われる。 【天宇受売命の舞踊】 神懸かかりして舞ううちに、胸と陰部を露出する姿を見て、神々は大いに喜ぶ。この部分は記だけに書かれている。 民衆が、祭を性的な場とする文化はかつては各地に見られた。記は、そんな民衆の生活に寄り添うように書かれているのだ。 【「動」の用例】 万葉集を調べたら、読みされた「動」は40例あり、内訳は「とよむ」16例、「とどろ」8例、「さわく」7例、「うごく」4例、「滂動」で「こぐ」が2例、「なく」1例、「なる」1例であった。 全体的には、動物の声や風の音などを主語とするものが多かった。 【咲・笑】 「花が咲く」という使い方は、日本語用法である。辞書によれば、「咲」は、本来「わらう」「さく」両方の意味をもつ「笑」の古字であったが、日本では「さく」専用の字体として用いる。 記では元々の漢字の意味に従っている。従って、記において和語を読み取る場合、全般に漢字本来の意味に注意を払うべきである。
【登場する神々】 なお、ここで登場する神々のうち、★印の五神は、邇邇芸命の天降りに随伴する。
思金神の「かね」は、予定するという意味の動詞「かぬ」の連用形で、「思」と共に役割を表す。「手力男」も役割を直接表す。「いしこりどめ」は「石凝処」(鉱石を精錬して凝固する場所)の女かも知れないが、確かなことは言えない。 他に、玉=瓊(たま)も名前のまま。児屋命は「小さな屋根の意味で、託宣の神の居所」とする説がある。 天石屋戸の部分に関わる書紀の一書は3件ある。右の表は、記と書紀の本文及び一書について、登場する神を比較したものである。 【書紀・本文】
記との主な相違点は、鏡を製造する経過が省略されていること、太占が無視されていること、天児屋命が祝詞を読むことに触れていないことである。 「かむがかり」の読みがつけられた漢字部分を読み下すと「神明を顕(あらわ)すに、憑(つ)き談(かた)る」である。なるほどと思わせる。 【一書1】
日矛は、金属に彫刻する道具だと思われる。恐らく、日の神を彫るから「日矛」だろう。そして原料を精錬するために火を起こす鞴(ふいご)は、天香山の鹿を捕らえ、その皮を剥いで作る。 冶工に任じられた石凝姥は、天香山から鉱物を発掘し、天羽韛で精錬し、日矛で彫刻し、日の神の像(日像鏡)を作り上げた。 この鏡が、紀伊の国の日前神宮(和歌山県和歌山市秋月)のご神体になっているという。 この話は、記で、天照大御神が鏡に写った自分の姿を、もう一人の神だと思い込んだ話の変種である。また鹿の利用に関しては、一書(1)で鹿の皮を剥いでふいごを作るのに対し、記では肩甲骨を取り出して占いに使う。 同じ鹿でも利用目的が異なる。伝承は、こうやって変種を作りながら各地に広がっていく。 【一書2】
〔注記の関連部分〕
玉籤は現在では、〔玉籤(たまぐし)…サカキなど常緑樹の小枝に紙の幣(ぬさ)あるいは木綿(ゆう)をつけ神前に供えるもの。〕 ではあるが、「籤」本来の「竹を細くして束ねたもの」を奉納すると解釈すべきであろう。 通常「者」は係助詞「は」にあたる。しかし、この部分だけ「~者」=「~の神」という解釈が一般的である。それは神・命がついてないことに加え、使役動詞「使」があるからである。(「使」に続くのは目的語(…を)なので、主格を表す「者」(…は)はつかない) だが、「者」を「~の神」の意味で使うのは、あまりにも異例である。もともと日本語の「者(もの)」には「~のような者」と下に見る語感があり、神を指すべきではない。 それ以上に前後の関係を見れば、次に「凡此諸物、皆来衆集」がある。つまりここに流し込むために、「~者(は)~、」を5回繰り返しているのである。 つまり、文の骨格は「Aさんは鏡を、B君は布飾り、C君は玉飾り、D君は榊の枝、E君はマコモの葉、凡そこの諸物を全部集め」である。「は」は受ける語を取りたてて示す。 確かに使役動詞「使」のあとに「~者」は漢文として変だが、これは日本語用法というものであろう。 もし漢文として成り立つようにするためには、語順を「鏡作部遠祖天糠戸者使造鏡」とし、以下「次忌部遠祖太玉者使造幣」のように、「使」はすべて省略せず、各文を「次」でつなげば良いと思われる。(「~者」が大主語で、述部が目的語を省略した使役文。) 【一書3】
「広厚称辞祈啓」は何となくわかるが、その意味をはっきり確認するために検索をかけてみたら、八幡宮社(鳥取県米子市八幡)に伝わる古文書が見つかった。 それは『八幡宮社領并旧記録写差出控(文政11年8月20日、内藤佐渡守)』の『当社八幡本記』という文書で、 「早川という所で、毎年8月15日に放生会(ほうじょうえ)を行う」部分に、神司(かむつかさ)が「広く厚く称辞(たたえごと)祈(の)み啓(もう)す」とあった。 このことから、「広厚称辞祈啓」とは、神司が神事において「祝詞を言祝ぐ」ことであることが明確になった。 【木綿】(ゆふ) 楮(こうぞ)の木の皮の繊維を蒸して水にさらし、細かく裂いて作った糸状の物。幣帛(へいはく)として神に捧げる榊にかけ、また神事を行うとき襷(たすき)として用いる。 なお、木綿(もめん)は、後世に伝来したもので、別物である。 【祭祀の伝統】 大きな榊の木の枝に、玉、鏡、丹寸手(にきて)など、種々の御幣(みてぐら)を吊るし、書紀によればかがり火を焚く。 開始の合図は、長鳴鳥の声である。そして祝詞を言祝ぐ。また桶を伏せて踏み鳴らし、踊り子が手草を持ち、襷(たすき)をかけて神懸かって舞う。 記紀以前から伝統的に、このような祭りが行われてきたことであろう。また、記紀以後はここの記述が影響を与え、伝統が現在まで継承される。 写真は、現代の地鎮祭の飾り付けである。海の幸、山の幸が供えられている。榊の枝につけられたぎざぎざの紙は、特殊な断ち方をして折った紙で紙垂(しで)と言う。(「垂(し)ず」の項参照) 古くは木綿(ゆう)で作られ、「白丹寸手(にきて)・青丹寸手」に由来するものとされている。 さらに、伊勢神宮の式年遷宮の「遷御の儀」では、天の岩戸の話に倣い、神職が鶏の鳴き声を模した「カケコー」の声を3度上げて儀式が始まる。 また、巫女舞については、かつてトランス状態になり神が乗り移った舞が、様式化したものと考えられている。 【皆既日食】 天照大御神は、一書でしばしば「日神」と書かれるように、もともと太陽そのものを神としたものであった。 それが隠れて、天地が暗黒になるとなれば、これは皆既日食のことだと受け止めるは当然である。当然皆既日食という、驚きの体験を反映していると思われる。 ただし、実際に太陽が完全に隠れる時間は長くて数分程度であり、何日も続くというのは、物語の上だけである。 【伝承の由来】 「岩屋に隠れる」とは、明らかに葬られることである。そこには、後期古墳の石室のイメージがあると思われる。 だから、天照大御神は本当は死んだのである。 そして暗黒の日々が続き、悪神の声さばえなし、万物は妖を発す。 少し前にも同じ表現があった。それは速須佐之男命が、地上の統治をしなかったときである。 そのとき、天照大御神は速須佐之男命が天に昇ってくることを知り、緊張し、武装して待ち構える。だから「悪神のざわめき・万物の妖」は、戦乱のことである。 戦乱は、悪神と万物の妖気によって起こると考えられていたのかも知れない。 速須佐之男命の乱暴に手を焼いた天照大御神が石室に隠れ、再び戦乱の世となった。 やがて、天照大御神が石室から出てきて、速須佐之男命は追放された。速須佐之男命は、戦乱を一人の神の姿に集約したものと考えることができる。 以上の経過は、魏志倭人伝における倭国の女王に対応させることができる。(表)
まず、事実の骨子は、 かつて内乱の時代があった。それを女王立ち、終わらせた。しかし晩年は、敵対勢力が攻勢を強めた。死後は大きな墓に葬られた。 再び殺し合いが始まったが、新たな女王が立ち、遂に国は定まった。 これだけである。 それが言い伝えられるうちに神代のできごとに変形する。同時に、古代からの太陽神と融合し、 日の神は乱暴な神を抑えた。ところが再び暴れるようになった。遂に石窟に隠れて暗黒となり、悪神がうごめき始めた。しばらくして日の神を引っ張り出すことに成功し、悪神は追放された。 となるわけである。 しかし、この想像が現実性をもつためには、次の条件が必要である。 ●戦乱の世を終わらせた女王の統治は強い印象を当時の人々に与え、代々語り伝えらる。 ●初期古墳の時代の女王から、そのまま初期の大和政権への連続性が保たれる。 ●道教の影響を受けていた「鬼道」は、後に神道に移行する。 ●卑弥呼は、その死後に太陽神と統合されて天照大御神となる。 この件に関連して注目されるのは、2009年の、纏向遺跡における大型建物群の発掘である。 それらは、3世紀ごろの大王の宮とされ、建築学の黒田龍二氏によれば、それが出雲大社・伊勢神宮の建築様式との関連性があるいう。 同氏の2013年の講演記録から、骨子をまとめると、 (1) 出雲大社本殿は、柱間が4間の纒向遺跡の宮殿と間に「偶数の柱間=王宮の中心建物には珍しい建築様式」という著しい共通性がある。 (2) 伊勢神宮の本殿は弥生時代の倉庫の形式を受け継ぎ、纒向遺跡の王宮内にある倉庫建物の痕跡とよく似ている。 このように、魏志倭人伝の時代の纏向遺跡の宮殿の建築様式を、伊勢神宮と出雲大社が引き継いでいると述べている。 天武天皇は伊勢神宮を大切にし、皇女を初代の斎王として送ったり、式年遷宮の制度を決めるなどをした。 以上のように、3世紀に畿内にあった政権がそのまま大和政権に移行した可能性は、高まりつつある。 但し、政権の継続が、そのまま血縁による直線的な継承を意味する訳ではない。支配体制の基本構造を維持したままで、クーデターのような権力者の交替は何度もあったことであろう。 まとめ 今回は、祭祀にまつわる品々や表現の多様さをはじめとして、関連事項が多岐にわたり調べ事が多かった。それだけに様々な観点から、興味深く読むことができた。これについて次の5点を挙げておく。 1 記の基本性格でもある、民衆教化のための工夫。接頭語の多用など、読み聞かせの心地よさや、祭における性的表現で聴衆を引き付けようとする。 2 氏族と朝廷との絆を強める。祖神の役割を持ち上げることによって、国の統合に資する。 3 祭祀の伝統の継承する役割。以後、祭祀の見本として使われる。太占などの古代の文化を知る手掛かりにもなっている。 4 出雲起源の古い話を引き継いでいると思われる部分。大国主は、出雲国に地の底から高天原に達する神殿に自らが祀られることを条件に、国を天照の子孫に譲ることに同意した。 これは、天照勢力が出雲を制圧した時に、宗教的資源(神話や神)を継承したことを意味するのではないかと思われる。記紀には、出雲起源の神話が統合されていると言われる。 鉄の生産に関係がありそうな部分が、そのひとつの例だと思われる。 5 天照大御神の死と再生は、古代の女王国に関する古い記憶の痕跡である可能性がある。3世紀の纏向遺跡以後、4世紀にはどのような政権が存在したのか。 その過程で最高神の姿と祀られ方はどう変化していくのか。 文献はなかなか期待できないので、考古学資料の発見を待つばかりである。できたら稲荷山古墳で発見された、漢字が金象嵌された鉄剣のようなものを期待したい。 |
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2014.02.04(火) [050] 上つ巻(建速須佐之男命6) ▼▲ |
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於是天照大御神以爲怪細開天石屋戸而
於是(ここに)天照大御神(あまてらすおほみかみ)怪(あや)しと以為(おも)ほし、細く天石屋(あまのいはや)の戸を開きて[而]、 內告者 因吾隱坐而 以爲天原自闇亦葦原中國皆闇矣 何由以天宇受賣者爲樂 亦八百萬神諸咲 内(うち)に告(のたまふ)者(は)「吾(われ)隠れ坐(ま)すに因(よ)りて[而]、以為(おもへらく)天原(あまのはら)の闇(やみ)自(よ)り、亦(また)葦原中国(あしはらのなかつくに)皆闇(やみ)とおもへれ[矣]、 何由(なにゆゑ)以(に)、天宇受売(あめのうずめ)者(は)楽しびを為(な)し、亦(また)八百万(やほよろづ)の神の諸(もろもろ)や咲(わら)ふか。」 爾 天宇受賣白言 益汝命而貴神坐故歡喜咲樂 如此言之間 天兒屋命布刀玉命指出其鏡 示奉天照大御神之時 爾(ここに)天宇受売白(まを)して言(い)はく、 「汝(な)が命(みこと)に益(ま)して[而]貴(たふと)き神坐(ましま)すが故(ゆゑ)歓喜(よろこ)び咲(わら)ひ楽しびまつる。」と、 如此(かく)言ひし[之]間(ま)、天児屋命(あめのこやねのみこと)布刀玉命(ふとだまのみこと)其の鏡を指し出で、天照大御神に示し奉(たてまつ)りし[之]時、 天照大御神逾思奇而 稍自戸出而臨坐之時 其所隱立之天手力男神取其御手引出 卽布刀玉命以尻久米【此二字以音】繩控度其御後方 白言 從此以內不得還入 天照大御神逾(いよいよ)奇(く)しと思(おも)ほして[而]、稍(やや)戸自(よ)り出でて[而]臨(のぞ)み坐(ま)しし[之]時、 其の隠れ立たしし[所之]天手力男神(あめのたぢからをのかみ)其の御手(みて)を取り、引き出で、 即(すなは)ち布刀玉(ふとたま)の命、尻(しり)久(く)米(め)【此の二字(にじ)、音(こゑ)を以ちゐる。】縄(なは)を以(も)ちて其の御(おほみ)後方(しりへ)に控(ひ)き度(わた)し、 白(まを)して言はく「此(ここ)従(よ)り内(うち)以(に)還(かへ)り入るを不得(え)ず。」とまをす。 故天照大御神出坐之時 高天原及葦原中國自得照明 故(かれ)、天照大御神出(い)で坐(ま)しし[之]時、 高天原(たかあまのはら)及(と)葦原中国(あしはらのなかつくに)と、自(おのづか)ら照らす明(あかり)を得(う)。 ここに天照大御神(あまてらすおおみかみ)は怪訝(けげん)に思われ、細く天岩屋の戸をを開き、 内側から仰るには「私が隠れたことによって、高天原(たかまがはら)からして暗く、また葦原中国(あしはらのなかつくに)全てが暗くなるはずだと思っていたが、 何故に、天宇受売(あめのうずめ)は)楽しそうにして、八百万(やほよろづ)の神は、皆笑っているのか。」 それに天宇受売が申し上げるに、 「あなた様に増す貴い神がいらっしゃいますので、歓喜して笑い、楽しんでいるのです。」 このようにお話している間に、天児屋命(あめのこやねのみこと)・布刀玉命(ふとだまのみこと)がその鏡を指し出し、天照大御神に示して差し上げた時、 天照大御神はいよいよ不思議に思われ、僅かに戸から身を乗り出し、向かい合われた時、 そこに隠れて立っていた天手力男神(あめのたぢからおのかみ)がその御手を取り、引き出し、 すかさざ布刀玉(ふとたま)の命、注連縄(しりくめなわ)を持ち、その御後ろ方に引き渡し、 「ここより内側に戻り入ってはなりません。」と申し上げました。 このようにして、天照大御神が御出になった時、 高天原(たかまがはら)と葦原中国(あしはらのなかつくに)は、おのずから照りわたり、明るさを得ました。 益…[動] ます。上回る。 逾…[副] いよいよ いよいよ(愈愈)…[副] ますます。いっそう。 くし(奇し)…[形]シク 不思議だ。 稍…[副] わずかに。ようやく。 やや(僅)…[副] ①次第に。②わずかに。かなり。(さまざまな大きさの程度を表す) 臨…[動] のぞむ。向かい合う 控…[動] ひく。弓をひく。「ひかえる」は日本語用法。 ひき-…[接頭] 動詞の上に置いて意味を強める。 しりくめなは(尻久米縄、注連縄)…[名] 清浄な場所のしるしとして、出入りを禁じるために渡した縄。 【書紀・本文】
當(=当)…[助動] まさに~べし。「当然そうなっているはずだ」という推定を表す。
㖸(=噱)…[動] 大笑いする。乎…[助]語気詞 文末に置き、疑問、反語、詠嘆など。
【一書2】
八咫鏡(やあたのかがみ)は、伊勢神宮の内宮に奉安されている。ここで「此れ即ち伊勢崇秘之大神なり」の一文は、鏡を天照大御神の御魂として祀ったという意味である。 記には、天孫降臨の際、天照大御神が「此之鏡者、専為我御魂而、如拝吾前、伊都岐奉。」〔この鏡は専ら我が御魂と為し吾が前に拝する如く、いつき奉れ〕と命じ、 思金神(おもいかねのかみ)らは、「拝祭佐久久斯侶、伊須受能宮。」〔さくくしろ[=五十鈴の宮への枕詞]五十鈴の宮に拝み祭る〕とある。 一書2は、他にも鏡を石窟に入れる理由が省略されていて、文章は随分飛び飛びである。 一書2によれば、八咫鏡には瑕がついているはずだが、誰も見たことがないことになっているから、その真偽は不明である。 瑕は普通に考えれば不吉であるが、鏡に残されているこの瑕こそ、却って祓いの効力を発揮するようだ。 【一書3】
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一書3では、数々の豪華な御幣(みてぐら)を見て、人々(神々?)が感心する声を聞き、何だろうと思って岩戸を細く開いたことになっている。 ここでは、御幣を捧げるのが、神ではなく、「人」になっていることが注目される。 この話は、3世紀に魏の皇帝から親魏倭王に届いた膨大な贈り物を連想する。魏志倭人伝は、 「到着したらすべてを記録して受け取り、汝が国中の人にそれを紹介することにより、国家[=魏皇帝]が汝を親愛するを知らせるがよい。それ故、汝に好(よ)き品々を手厚く贈るのである。」 と述べている。 【外部の様子を知りたくなった理由】 書紀・本文と記は、天鈿女命(あめのうずめのみこと)の踊りを見て神々が歓声を上げたことによる。 一方、一書3は、見たこともない豪華な御幣(みてぐら)を見て、人々の驚きの声による。 記紀編纂の時代に、天鈿女命を祖とする猿女君(さるめのきみ)が、氏族として一定の勢力をもっていたことが想像される。 <wikipedia>一部は朝廷の祭祀を担当するために、大和国に本拠地を移し稗田姓を称した</wikipedia>とされる。 ということは、古事記の編纂に携わった稗田阿礼(ひえだのあれ)は、その一族出身かも知れない。 【注連縄(しめなわ)】 注連縄によって神域を示す習慣が、当時からあったことがわかる。それにしても、あの天照大御神さえ立ち入れない、神聖な場所とは何だろう。理屈の上では、天照の上に、さらなる神がいることになる。 物語として面白くする余り、擬人化が過ぎるとこういう矛盾が起こるのである。神学的な整合性より、民衆に浸透させることを優先していると考えざるを得ない。 別の方向から見ると、注連縄で仕切る部分が書紀・本文にも採用されていることが注目される。書紀は、天児屋命・太玉命をわざわざ、中臣の神・忌部の神と表現している。彼らの祖神には、時には天照大神の行動をも制約するほどの力があった訳だ。 そこから、氏族としての中臣、忌部の勢力の、当時(記紀編纂時期)の朝廷内における実力を、誇示していると受け止めることができる。 『書紀・29巻』によれば天武天皇10年(西暦681)に、川嶋皇子を筆頭とする12名に、帝紀と上古諸事を記すよう命じたという記述があり、彼らが書紀の編集委員であると見られる。 12名には「忌部連(いむべのむらじ)の首(おびと;連の首長)」、「中臣連(なかとみのむらじ)の大嶋」が含まれるので、両名が競い合うように主張した様子が想像される。
鏡は榊の上枝に懸けられる。また、天照大御神は、天の磐屋を出る前に鏡を見る。一方、古墳からは大量の銅鏡が出土する事実から見て、鏡を神聖なものとした伝統を受け継いでいると思われる。(写真は黒塚古墳30号鏡(レプリカ)) 古墳に副葬された鏡が、どのような宗教的な意味を持つかは不明であるが、ここでは天照に自身の姿を見せた部分に注目したい。これは、太陽光を鏡で反射させる行為に当たる。 鏡は、太陽光を反射させることによって、何らかの魔力を表すと信じられてきた可能性がある。 なお、最近の報道によると、 <『奈良新聞』2014年1月30日>「卑弥呼(ひみこ)の鏡」と呼ばれる三角縁神獣鏡が、鏡面に太陽光を当て壁に反射させると、裏面の文様を映し出す「魔鏡」だったことが分かり、京都国立博物館の村上隆学芸部長(歴史材料科学)が29日、発表した。</奈良新聞> と言う。鏡の裏面に彫刻があれば、鏡面を研磨するとき厚さの違いにより影響を受け、鏡面側にも僅かな凹凸ができる。それが反射光に模様をつくるのである。鋳型を取って複製する場合も、鏡面の微妙な凹凸を含めて複製される。 書紀・本文は天照大神に鏡を見せる部分を無視しているのと対照的に、記は古代からの伝統に拘るのである。 まとめ 書紀の編集委員の構成と、今回の部分の記述の関連を比較すると興味深いことが浮かび上がる。 天孫降臨に随伴した5柱の神のうち、2柱は書紀の編集委員中臣・忌部の祖、1柱は記の稗田阿礼の祖である。 天武天皇は、集権国家の確立を課題とし、そのために各氏族を天皇の系図の側枝として接続するのが原則だったはずだが、 中臣・忌部・稗田は天照の子孫になることを認めない。 つまり、天照一族の風下には、立ちたくないのである。現実の力関係はともかくとして、その出発点においては、あくまで横並びのお友達関係であったと主張する。 ここで注目されるのは、やはり12人の編集委員の一人、阿曇連稲敷の立場である。阿曇連の祀神、筒男(つつのお)三神は、しばらく天照から距離を置いていて、神功皇后の時代にやっとお手伝いに現れる。 中臣・忌部が天照の近くで存在感を際立たせようと張り合うのを、阿曇は横から冷やかに見ているだけで、天照一族との距離を感じさせる。物語は天上世界で展開するが、それを編纂する現場ではとても人間臭い駆け引きが繰り広げられた。 |
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⇒ [051] 上つ巻(建速須佐之男命7) |
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