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⇒ [042] 上つ巻(伊邪那岐・伊邪那美10) |
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2013.12.30(月) [043] 上つ巻(伊邪那岐・伊邪那美11) ▼▲ |
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![]() 初於中瀬墮迦豆伎而滌時 於是(ここに)詔(のたま)はく「上瀬(かみつせ)者(は)瀬(せ)速(と)くありて、下瀬(しもつせ)者(は)瀬(せ)弱(よわ)し。」とのたまひて[而]、 初(はじ)めて中瀬(なかつせ)に[於]墮(お)りて迦(か)豆(づ)伎(き)[而]滌(すす)ぎましし時、 所成坐神 名八十禍津日神【訓禍云摩賀下效此】 次 大禍津日神 此二神者 所到其穢繁國之時 因汚垢 而所成神之者也 成り坐(ま)さえし[所]神の名は、八十禍津日(やそまかつひ)の神【「禍」を訓(よ)みて「摩(ま)賀(か)」と云ふ。下(しもつかた)此れ効(なら)ふ。】、 次に大禍津日(おほまかつひ)の神、 此の二(ふたはしらの)神者(は)其の穢繁(きたな)き国に到りましし[所之]時、汚(きたな)き垢(あか)に因りて[而]神に成りましし[所之]者(もの)也(なり)。 次爲直其禍而所成神名 神直毘神【毘字以音下效此】 次 大直毘神 次 伊豆能賣【幷三神也 伊以下四字以音】 次に其の禍(まが)を直(なほ)して[而]を成りまさえし[所の]神の名は、神直毘(かむなほび)の神【「毘」の字(じ)音(こゑ)を以(もちゐ)る。下つかた此に効ふ。】、 次に大直毘(おほなほび)の神、 次に伊豆能売(いづのめ)。【并(あは)せ三(みはしらの)神也(なり)。「伊」(い)より以下(しもつかた)四(よ)字(じ)音(こゑ)を以る。】 次 於水底滌時時所成神名 底津綿/上/津見神 次 底筒之男命 於中滌時所成神名 中津綿/上/津見神 次 中筒之男命 於水上滌時所成神名 上津綿/上/津見神【訓上云宇閇】次 上筒之男命 次に水底(みなそこ)に[於]滌(すす)ぎましし時、成りまさえし[所の]神の名は、底津綿{上声}津見(そこつわたつみ)の神、次に底筒之男(そこつつのを)の命(みこと)。 中に[於]滌(すす)ぎましし時、成りまさえし[所]神の名は、中津綿〔上声〕津見(なかつわたつみ)の神、次に中筒之男(なかつつのを)の命。 水上(みなかみ)に[於]滌(すす)ぎましし時、成りまさえし[所]神、は上津綿〔上声〕津見(うはつわたつみ)の神【「上」を訓み、「宇(う)閇(へ)」と云ふ。】、次に上筒之男(うはつつのを)の命。 此三柱綿津見神者 阿曇連等之祖神 以伊都久神也【伊以下三字以音下效此】 故阿曇連等者 其綿津見神之子 宇都志日金拆命之子孫也【宇都志三字以音】 此の三柱の綿津見(わたつみ)の神者(は)阿曇連(あづみのむらじ)等(ら)之祖神(おやがみ)なりて、以ちて伊(い)都(つ)久(く)神也(なり)。【「伊」(い)より以下(しもつかた)三字(じ、な)、音を以る。下つかた此に効ふ。】 故(かれ)、阿曇連等者(は)、其(そ)の綿津見の神之(の)子、宇都志日金拆(うつしひかなさく)の命之(の)子孫(あなすゑ)也(なり)。【「宇(う)都(つ)志(し)」の三字、音を以る。】 其底筒之男命 中筒之男命 上筒之男命 三柱神者 墨江之三前大神也 其の底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命、三柱の神者(は)墨江之三前大神(すみえのみまえのおほかみ)也(なり)。 於是洗左御目時所成神名 天照大御神 次洗右御目時所成神名 月讀命 次洗御鼻時所成神名 建速須佐之男命【須佐二字以音】 於是(ここに)左の御目(みめ)を洗ひましし時、成りまさえし[所の]神の名は、天照大御神(あまてらすおほみかみ)。 次に右の御目(みめ)を洗ひましし時、成りまさえし[所の]神の名は、月読(つくよみ)の命。 次に御鼻(みはな)を洗ひましし時、成りまさえし[所の]神の名は、建速須佐之男(たけはやすさのを)の命。【「須(す)佐(さ)」の二字、音を以る。】 《右件八十禍津日神以下速須佐之男命以前十四柱神者因滌御身所生者也》 《右の件(くだり)八十禍津日(やそまがつひ)の神の以下(しもつかた)速須佐之男(はやすさのを)の命の以前(さきつかた)十四柱(とはしらあまりよはしら)の神者(は)御身(おほみみ)を滌(すす)ぎましし[所]に因(よ)り生(な)りし者(もの)也。》
【書紀一書十】
【阿曇連】 わたつみ三神は、阿曇連(あずみのむらじ)によって祀られていたことが、特に書かれている。そこで阿曇連の歴史を調べてみることにする。 「古代の海人族の中でもっとも優勢を誇ったのは阿曇連氏である。「連」なる姓(かばね)は、大和の王権 の下で特定の職業集団を統率する氏族(伴造(とものみやつこ))に与え られたものであるが、同じく伴造でも造(みやつこ)とか首(おびと)といった、より低い 姓を与えられたものもあったから、連姓を与えられた阿曇氏の政治的地位はそれなりに高い ものであったといえる。」という。 阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海など、阿曇族の移動経路を伺わせる地名が各地に残る。基本的に漁労に関わっていたと考えられるが、その後内陸に移動して安曇郡に到ったと考えられている。 律令制の元、政権を支える豪族として存続した。もともと御贄の海産物を担当したから律令制下では内膳司に任ずる。 こうして地位を保ってきたと思われるが、桓武天皇(718-806)の代に滅亡した。 発祥の地は福岡県志賀島(しかのしま)と言われるが、ここは前漢時代の「漢委奴国王」の出土地でもある。関連は不明である。 東遷の時期も不明である。 末裔が、おそらく地名の残る各地に散ったと思われるが、律令制下で豪族として勢力を誇ったのは安曇野に居住した一族であると思われる。 書紀には、ときどき「阿曇連」の名が現れる。その一部を拾い上げてみる。 【阿曇連:応神天皇】 書紀の十巻によれば、第15代の応神天皇は、神功皇后が三韓征伐の帰途に産む。記によれば崩年は甲午で、書紀では274年に当たるが、もともとは十干十二支で2回り後にあたる394年ではないかと考えられている。 応神天皇3年の11月に、次の記事がある。
「あま」は、もともと渡来したあまてらす族全体の名称であったが、そこから古く各地に分散した漁労民も、それぞれの土地で「あま」と呼ばれていたと思われる。 ここから、阿曇族は漁労民起源の有力な豪族であったことが推定できる。 【阿曇連:履中天皇】 書紀の十二巻によれば、第17代の履中天皇の崩御は、壬申年。前項と同じ理由で西暦432年にあたると推定される。 阿曇連濱子は、
関連して、魏志倭人伝の記述が興味深い。 男子無大小皆黥面文身…〔男子は身分や年齢に関わらず、誰でも顔の入れ墨、体の入れ墨をする。〕 後稍以爲飾諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差 〔その後次第に飾りとなる。諸国の文身はそれぞれ異なり、左にあったり右にあったり、大きかったり小さかったりする。身分の尊卑によっても違いがある。〕 つまり、かつては潜水漁の際身を守る文様としての意味があったが、現在(三国志の時代)では、諸族ごとに彫り位置、大きさ、デザインが異なり、それぞれのアイデンティティーを表現する。 おそらく、阿曇連は古く、目の所の黥(顔にする入れ墨)が特徴で、その由来の言い伝えであろう。 類似の例として、九州北部の宗像氏は、胸形氏とも書かれ、もともと胸に文身していたからそう呼ばれるようになったとも言われる。宗像氏もまた、氏族独自の三神(書紀では、あまてらす・すさのおの盟約で生まれる)を祀る氏族である。 【阿曇連:推古天皇】 書紀の二十二巻、第33代の推古天皇で久しぶりに登場する。崩年の戊子=西暦628年は書紀の編年に近いから信用し得る。 推古天皇三十一年十一月の記事。 新羅に派遣した磐金、任那に派遣した倉下が帰国した。報告を聞いた大臣は、両国が貢物をしようと用意していたのを知って驚いた。 両者の帰国の前に、軍を送ってしまった。早まったと後悔した。
〔当時の人々が言うには、この軍事は境部臣(新羅征伐の将軍)、阿曇連が先に新羅の宝物を多く得ていたことから、[これはまだまだ奪い取れるぞという思惑で]大臣に戦を勧めた。だから使者を待たず早く征伐してしまったのである。〕 この一節から、阿曇連は将軍境部臣と並んで政権の閣僚のような地位を確保し、やはり海運に携わっていたことがわかる。 【阿曇族発祥の神話】 注目されるのは、阿曇氏が天照大神を出発点とする系図の外にあることである。つまり、氏族が天照から分岐した形をとっておらず、距離を置いている。よって阿曇氏は独立性が強いと考えられる。 記では、わたつみの神が安曇氏の祭神であることを尊重して、記述している。政権を支える豪族に対する一定の配慮があると思われる。 「やまつみ」を祖神とした一族(先住族)は粉砕されたが、「わたつみ」をかづく神とする「あづみ族」は信濃国安曇郡の有力豪族として存続することができた。
墨江之三前大神は神功皇后による三韓侵攻と密接な関係があるので、この機会に記紀における神功皇后についてざっと考察してみる。 〔中哀天皇の〕九年 二月 足仲彦天皇崩於筑紫橿日宮。…〔中哀天皇の崩〕 十二月戊戌朔辛亥、生譽田天皇於筑紫。…〔応神天皇の誕生〕 翌年を攝政元年とする。つまり神功皇后の事実上の女帝の扱いで年を数えている。 是年也、太歲辛巳。則爲攝政元年。…〔[辛巳は甲子から数えて18年目] この年を摂政(神功皇后)元年と定める。〕次の「己未が明帝(魏国の皇帝)景初三年」とする記事から、辛巳が西暦201年にあたることが確定する。 卅九年。是年也、太歲己未。魏志云、明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏遣吏將送詣京都也。…〔魏志を正確に引用している〕 ここに、注意書きとして魏志が引用される。太歲(干支)の己未の年は甲子から56年目。景初三年=西暦239年であることが分かっている。 六十九年 皇太后崩於稚櫻宮 太歲己丑。…〔甲子から26年目〕 宋書の倭の五王の記述と突き合わせ、また記に記載された天皇の没年を調べることによって、神功皇后前後は、120年ずらされていることがわかる(太歳は60年周期であることが利用された)。右の表は記に崩年が載っている天皇について、太歳が正しいと仮定して、実際の西暦を推定したものである。 実際には恐らく、皇后の摂政元年=西暦321年、同69年=西暦388年であると思われる。この時期なら、倭の新羅方面への侵攻は(結果はともかくとして)あり得る。よく言われるように、日本書紀は初期の天皇の寿命を長くして歴史を過去に引き延ばしている。 その結果、(書紀で作為的にずらされた)西暦201~268年は、ちょうど魏志で倭の女王卑弥呼が存在した時期にあたる。魏志で倭人を描いた期間は、倭国大乱が終結した西暦190年ごろから壱与の朝貢の同250年ぐらいまでである。書紀で、3回に渡って魏志の記述に言及していることから見て、魏志は奈良時代の日本でも知られていて、無視できなかったことが分かる。そこで仲哀天皇と応神天皇の間の68年間を空け、神功皇后を摂政(天皇の職務代行者の意味だが、事実上の女帝)として卑弥呼に対応させている。 魏志で倭国の女王が、帯方郡を支配していた魏国との間で豪華な貢物と回賜があった記述を利用して、神功皇后の日本(やまと)が新羅から貢物を受ける外交関係に結びつけたのである。書紀の「眼炎之金・銀・彩色の国」という表現が、魏志で、魏の明帝が卑弥呼に与えた豪華な回賜を意識しているのは明らかである。 また、神功皇后も卑弥呼と同様に神の言葉を媒介するシャーマンである。 とは言え、筋書きは書紀と魏志で根本的に異なる。神功皇后の個々の記事はほぼフィクションであるが、魏志も同程度のフィクションと見做すことによって、五分五分までもっていったのであろう。 ところで、書紀には注目すべき文がある。「從今以後、永稱西蕃、不絶朝貢。故因以、定內官家屯倉。是所謂之三韓也。」…〔これからは、永久に西蕃を称し、朝貢を絶やさない。そこで宮廷に受け入れ管理の部署を定める。この地域がいわゆる三韓[高句麗、百済、新羅]である。〕 がそれである。西蕃とはもともと中国から見た西方の民族への蔑称。それに準えて日本を中心として、西方の三韓を指して言う。ここでは「朝貢」という表現が大切である。朝貢とは、本来中国が周辺国の王を疑似的に国内の諸侯と同様に扱う(「冊封」という)ことにより、礼として貢物を受けることである。日本もそれを真似て、自身を中原(文明の進んだ国)と位置づけ、三韓を西方の朝貢する側の国とした。 つまり、この文から、周辺国から朝貢を受ける関係を築いたと自慢する姿を読み取ることが大切である。それ以外、時には荒唐無稽な「事実」は歴史的事実としては殆ど無視すべきものである。(断片的には何らかの事実の反映があるかも知れないが) なお「事実」の創作については、記の方がまだ遠慮があり、無理に詳細を書かないようにしたと感じられる。書紀の編纂にあたった12人の学者がもっともらしく年月日までつけた姿勢に、太安万侶はついていけなかったのであろう。「記」執筆に到る動機のひとつが、ここにも伺える。 まとめ 天武天皇が集権国家を築くため、自立性の高い豪族を天皇中心にまとめ上げなければならない。そのために、各氏族の出自を天皇の系図のどこかに位置づけることが重要であったと、記・序文のところで述べた。 その観点からすれば、阿曇氏の分岐点は非常に古くまで遡り、天照の出現以前である。これは、阿曇氏が独自に強固な神話をもっており、初代天皇以後の系図の途中に接ぎ木することができなかったと思われる。 神話のうち、いざなぎ・いざなみが島で子作りする部分は共有しているかも知れない。華南あるいはオセアニアに起源をもつ「あま族」が九州に上陸。その内部は複数の氏族で構成され、そのうち2つが「あまてらす」と「あづみ」であった。各地に残る「あま」の地名は、あま族全体の移動経路だと思われる。 そして倭国大乱(1~2世紀)を繰り広げながら、それぞれに東遷する。やがて、畿内に定着したのがあまてらす族で、安曇地方に定着したのがあづみ族。倭の女王国が北九州から畿内・北陸あたりまで統一した2世紀末ごろのことであろう。 また、あまてらすを先祖とする集団(あまてらす族)も、それを尊重せざるを得ない。これらの2族は、おそらく南方系の「あま族」の内部で兄弟関係にあり、前後して九州に渡来し、東遷したと想像される。 次に、神功皇后の記事で、一人の神の魂を「荒魂」と「和魂」に分けているのは、興味深い。統治には、戦場で血を流して敵の命を奪う残虐さと、内政で人民の命を守り慈しむ優しさの両面がある。 それらの相反するものを一人の神に守護してもらうには、魂を2つに分けてもらう他はない。それぞれを祀る神社は、地理的にも離しておこうとする心理がはたらくのである。 |
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2014.01.04(土) [044] 上つ巻(伊邪那岐・伊邪那美12) ▼▲ |
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![]() 此の時伊邪那伎(いざなぎ)の命(みこと)大(はなはだ)歓喜(よろこ)びて詔(のたま)はく「吾(われ)者(は)子を生(う)み生みて[而]生み終(を)へるに[於]、三(み)はしらの貴(たふと)き子を得(え)てあり。」とのたまひて、 卽其御頸珠之玉緖母由良邇【此四字以音下效此】取由良迦志而 賜天照大御神 而 詔之 汝命者 所知高天原矣 事依 而賜也 故 其御頸珠名謂 御倉板擧之神【訓板擧云多那】 即ち、其の御(み)頸(くび)の珠(たま)之(の)玉(たま)の緖(を)母(も)由(ゆ)良(ら)邇(に)【此の四字以音(こゑ)を以(もちゐ)る。下つかた此に効(なら)ふ。】取り由(ゆ)良(ら)迦(か)志(し)めて[而]天照大御神に賜(たまは)りて[而]、 詔(のたま)はく[之]「汝(いまし)の命(おほせごと)者(は)、高天原(たかあまはら)これ知らしむ所(ところ)矣(ぞ)」とのたまひて、事依(ことよ)せ[而]賜ひき[也]。 故(かれ)、其の御頸(みくび)の珠の名は、御倉板挙(みくらたな)之神と謂(い)ふ。【「板挙」を訓(よ)みて多(た)那(な)と云ふ。】 次詔 月読命 汝命者 所知夜之食國矣 事依也【訓食云袁須】 次に月読(つくよみ)の命に詔はく「汝の命者(は)、夜(よ)之(の)食(をす)国これ知らしむ所矣(ぞ)」とのたまひて、事依せたまひき[也]。【「食」を訓み「袁(を)須(す)」と云ふ。】 次詔 建速須佐之男命 汝命者 所知海原矣 事依也 次に建速須佐之男(たてはやすさのを)の命に詔はく「汝が命者(は)、海原(うなはら)これ知らしむ所矣(ぞ)」とのたまひて、事依せたまひき[也]。 故 各隨依賜之命 所知 看之中 速須佐之男命 不知所命之國 而 八拳須至于心前 啼伊佐知伎也【自伊下四字以音下效此】 其泣狀者 青山如枯山泣枯 河海者悉泣乾 是以 惡神之音如狹蠅皆滿 萬物之妖悉發 故(かれ)、各(おのもおのも)依(よ)せ賜(たま)ひし[之]命(おほせごと)に隨(したが)ひて知らしむ所、之れを看(め)す中(なか)に、速須佐之男命、命(おほせごと)せらるる[所之]国を不知(しらしめざりて)[而]、 八拳(やつか)の須(ひげ)心(むな)前(さき)に[于]至り、啼(な)き伊(い)佐(さ)知(ち)伎(き)[也]。【「伊」自(よ)り下つかた四字音を以る。下つかた此に効ふ。】 其の泣き状(ふ)すさま者(は)、青(あを)かりし山、枯るる山の如く泣き枯(か)れ、河海(かはうみ)者(は)悉(ことごと)く泣き乾き、是(これ)を以ちて悪しき神之(の)音(こゑ)狭蝿(さばへ)の如く、皆満てり。万(よろづ)の物之(の)妖(あやしさ)悉(ことごと)く発(はな)ちき。 故 伊邪那岐大御神 詔速須佐之男命 何由以汝不治所事依之國 而 哭伊佐知流爾 答白 僕者 欲罷妣國根之堅洲國 故哭爾 故(かれ)、伊邪那岐(いざなぎ)の大御神(おほみかみ)詔(のたま)はく「速須佐之男(はやすさのを)の命、何由(なにゆゑ)汝(いまし)を以ちて事依(ことよ)せたまはゆる[所之]国を不治(おさめざ)るや」とのたまひて[而]、 哭(な)き伊(い)佐(さ)知(ち)流(る)爾(に)答へて白(まを)ししく 「僕(やつかれ)者(は)、妣(はは)の国根之堅洲(ねのかたす)国に罷(かへ)らむと欲(ほ)りする故(ゆゑ)に哭(な)く爾(のみ)。」とまをしき。 伊邪那岐大御神大忿怒 詔然者汝不可住此國 乃神夜良比爾夜良比賜也【自夜以下七字以音】 故其伊邪那岐大神者坐淡海之多賀也 伊邪那岐大御神、大(はなはだ)忿怒(いか)りて、詔(のたま)はく、 「然者(しかくあれば)、汝(いまし)は此の国に住まは不可(じ)。」とのたまひき。 乃(すなは)ち神(かむ)夜(や)良(ら)比(ひ)爾(に)夜(や)良(ら)比(ひ)賜(たま)はりき[也]。【「夜」自り以下(しもつかた)七字音(こゑ)を以る。】 故(かれ)、其の伊邪那岐大神者(は)淡海(あふみ)之(の)多賀(たが)に坐(ましま)す[也]。 この時、伊邪那伎(いざなぎ)の命は大いに喜び仰るに「私は子を生んでまた生み、生み終えて三柱の貴い子を得た。」と。 それで、その御首飾りの玉の緒をゆらゆら取り外し、玉の当たる音をさせながら天照大御神に賜りました。 そして言い渡されますに「あなたへの命(めい)は、高天原(たかあまはら)を治めることなのです。よろしくお願いします。」と。 そして、その御首にかけた珠の名を、御倉板挙(みくらたな)の神と言います。 次に月読(つくよみ)の命に言い渡されますに「あなたへの命は、夜の治められます国を治めることなのです。よろしくお願いします。」と。 次に建速須佐之男(たてはやすさのを)の命に言い渡されますに「あなたへの命は、海原を治めることなのです。よろしくお願いします。」と。 そのようにして、おのおの依頼なさった命によって治める様子を巡視される中、速須佐之男が命された国は、治めておりませんでした。 そして八拳(やつか)のひげが胸先まで伸び、泣いてばかりいました。 そんな風に泣き状すので、緑の山はすっかり泣き枯れ、枯れ山となり、川、海はことごとく泣き水が枯れ、これを以って悪しき神の音が鳴り渡り、すべてに満ちておりました。万物は何もかも妖気を放っておりました。 そこで、伊邪那岐(いざなぎ)の大御神がお聞きになるに「速須佐之男(はやすさのを)の命、どうしてお前に依頼した国を治めないのか」と。 それに対して、泣きじゃくりながらお答え申し上げたのは、 「私めは、亡き母の国、根之堅洲(ねのかたす)の国に帰りたいので、ただただ泣いているのです。」でした。 伊邪那岐大御神は大いに怒り、申し渡されるに、 「しからば、お前ははこの国に住むべからず。」と。そして大御神は、神の追放をしてしまわれました。 そのようにされた後、伊邪那岐大神は近江の国の之多賀に引退されました。
〔大潮・小潮が月の満ち欠けと密接な関連があることが、古代から広く認識されていたことが伺われる〕2021.2.7付記
【書紀・本文】
なお、岩波文庫版『日本書紀』は「安忍」を「いぶり」、「夭折」を「あからさまにしぬ」と仮名をふっているが、これで意味が充分に伝わらない。 「宇宙」をどう読むかも問題である。大日孁貴(おほひるめのむち=天照大御神)は天に送られて「授以天上之事」とされたので、残りの半分の「天下」を素戔嗚に任したとして「宇宙=あめがした」とする解釈がある。これは一見「論理的」であるが、天上を除いた残りの「天下」だけでは「宇宙」の語感に合わない。古語辞典を見ると、見出し語に単独の「宙」はあり、「ちう」と読む用例があるが、見出し語に「うちう」はない。 上代の和文に「宇宙」は珍しい。書紀は三例のみ。記・万葉集は皆無である。古代中国では『荀子』(BC475~BC221)以来、漢代までに49例あった。(『中国哲学書電子化計画』で検索)古代中国では一般的な普通名刺だが和文には珍しいので、書紀の中国人スタッフが使ったのであろう。 強いて言えば、三次元の直交座標と同じ発想の「六合」の方が「宇宙」に近いと思われる。「六合」は書紀に五例、記の序文に一例で、古語辞典にも「りくがふ」という見出し語がある。古代中国でも普通に使われる。 さて、素戔嗚の乱行の捉え方は書紀・本文の方が政治的である。乱暴で情緒不安定な君主は、少し気に入らないことがあれば人民を簡単に処刑し、命を奪う。その結果働き手が不足し山林・田畑も荒れる。何か、現代のどこかの国の若い独裁者を連想させる。記では、泣いてばかりの速須佐之男への同情が感じられるが、書紀では全く容赦をしない。言外に君主の心得を語っているようである。 また、いざなみの生涯については、記や一書と根本的に異なる。素戔嗚ら三神は「父母二神の子である」とする。つまり、いざなみが黄泉の国の大神になった部分はなかったことにされる。ずっと古い時代、対立していた出雲勢力への憎悪も、表面上は覆い隠された。 国生みの母を貶める矛盾も解消された。ただ、追放先の名称「根国」だけはそのままである。さらに、記や一書には、黄泉と禊の話は依然として残されている。全く「頭隠して尻隠さず」である。 【一書十一】 珍しく、月読命が活躍するが、天照大御神のご機嫌を損ねてしまった。
記では同じ起源を持つと思われる神話が、すさのおが追放される場面に挿入されている。うけもちの神に当たるのは、「おほげつひめの神」である。 記から対応する部分を抜き出しておく。詳しくは後ほどの回で検討する。
まとめ 古事記は各地の神話のパッチワークであり、その結果所々に綻びがある。 それでは原資料は、どうやって収集されたか。各地から木簡を提出させたのだろうか。あるいは語り部を都に呼んだのだろうか。 序文を見ると稗田阿礼の任務は、まず「帝紀」「本辞」に当たることである。阿礼の作業の最初は「目で見る」とあるから、木簡による可能性が高い。 また阿礼は言語的才能の持ち主で、漢文にも精通していたと想像される。 さて、書紀にはたくさんの「一書」があるので編集の過程を探ることができる。特に注目されるのが、次生海の段の一書六である。この一書は、ほぼ純正な漢文によって資料の骨格を確保する。これは中国人スタッフによるかも知れない。 それは、またどれかの「一書」に繋がるのだろうか。文体の特徴を見れば追って行けるかもしれない。 そこから、脚色して記にもっていく文学的才能の持ち主はだれか。疑問は尽きないが、ひとまず「すさのをが泣いてばかりいて国を治めない」場面で「一書六」「記」「書紀本文」を比較しよう。 一書六では、「常以啼泣恚恨。」たった6文字だが、これだけで充分である。 それが記では脚色され、「啼きいさち、山が泣き枯山になり、河海が泣き水が枯れる。」当時の人々に身近であっただろう和語「いさつ」を用い、さらに「その影響で国土全体も泣き山も枯れ、川海も涸れる」という予想外の展開をする。 ところが、書紀・本文は対照的である。「有勇悍以安忍。且常以哭泣為行。故、令国內人民多以夭折。復、使青山変枯。」 すなわち「乱暴で安忍(=残虐な行いを平気でする)にして、多数の人民を若くして死なせる。また緑の山を枯れさせる。」は、農業政策の失敗による餓死とも取れるし、気まぐれな刑罰とも取れる。その結果国土は荒廃する。ここに描くのは、典型的な暴君像である。 書紀の基本的な性格は官僚のための歴史書であるが、その為政者としての視点がこんなところにも表れていると言えよう。 ここで、改めて記の性格を考えてみたい。記は、一部万葉仮名を導入して、民衆が耳から聞けば口語として理解できる言葉である。 ただし、一般の民衆に記の写本が手に入るとは思えないし、字も読めないだろう。 実際には、村の長老あるいは、学のある者が近所の住民、特に子どもを集めて写本を読み聞かせる様子が想像出来る。 読み手は平易な漢文を読み下す程度の力を持ち、音読みする部分はいちいち「注」で示されるから、そのまま声に出して読めば、村人に分かる言葉で伝えることができた。 当時の時代背景として、天武天皇は威力を増す大国、唐の圧力をひしひしと感じ、対抗するためには集権国家の構築が差し迫った課題であった。その基盤となるのが、精神の統合である。そのため書紀の編纂して天皇の歴史と系図を定め、各氏族は途中の枝分かれとしてその出自を明確にする。つまり全氏族を天皇の親戚とした。同時に民衆レベルでも国の形を浸透させなければならない。 記の目的がまさにそれで、「人民の精神的統合」である。この国は、頂点に天照の血統を連綿と受け継ぐ天皇がいて、民草はその恩恵を受けるとともに、租庸調(納税、兵役)の義務がある。それを民衆レベルまで徹底しなければならない。 そのためには、村人が興味をもたなければどうしようもない。 そのためにした工夫が、こんなに面白い物語を散りばめたことであった。 21世紀になり、古事記がまた関心を引いている。貴重な民族の遺産であるから、時代を超えた面白さを存分に味わうと同時に、時代の背景を理解することも大切である。 |
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2014.01.08(水) [045] 上つ巻(建速須佐之男命1) ▼▲ |
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![]() 時山川悉動國土皆震 故(かれ)、於是(ここに)速須佐之男(はやすさのを)の命(みこと)言はく「然者(しかくあれば)天照大御神に、[将に]罷(まか)むを請(こ)ひて、乃(すなは)ち天(あま)に参上(まゐのぼ)らむとす。」といひき。 時に山川悉(ことごと)く動(とよ)みて、国の土(つち)皆震(なゐふ)りき。 爾 天照大御神聞驚 而詔 我那勢命之上來由者 必不善心欲奪我國耳 卽解御髮 纒御美豆羅而 爾(ここに)天照大御神聞こし驚きて[而]詔(のたま)ひしく「我が那勢(なせ)の命(みこと)之(これ)上(のぼ)り来る由(よし)者(は)、必ず不善(よからぬ)心にて我(わ)が国を奪はむと欲(ほり)する耳(のみ)。」とのたまひき。 即(すなは)ち御髮(みかみ)を解き、御(み)美豆羅(みづら)を纒(まと)ひたまひき[而]。 乃 於左右御美豆羅 亦於御𦆅 亦 於左右御手 各纒持八尺勾璁之五百津之美須麻流之珠而【自美至流四字以音下效此】 曾毘良邇者負千入之靫【訓入云能理下效此 自曾至邇以音】附五百入之靫 乃(すなは)ち、左右(ひだりみぎ)の御美豆羅於(に)、亦(また)御(み)𦆅(かづら)於(に)、亦左右の御手(みて)於(に) 各(おのもおのも)、八尺(やさか)の勾璁(まがたま)之(の)五百津(いほつ)之(の)美(み)須(す)麻(ま)流(る)之(の)珠(たま)を纒(まと)ひ持ちて[而]【「美」自り「流」至(ま)で四字音(こゑ)を以(もちゐ)る。下つかた此に効(なら)ふ。】、 曽(そ)毘(び)良(ら)邇(に)者(は)千(ち)入(のり)之(の)靫(ゆき)[=矢入れ]を負(お)ひて【「入」を訓(よ)み能(の)理(り)と云ふ。下つかた此れに効ふ。「曽」自り「邇」至(ま)で音(こゑ)を以る】、五百入(いほのり)之靫(ゆき)を附(つ)けたまひき。 亦所取佩伊都【此二字以音】之竹鞆而弓腹振立而 亦、伊(い)都(つ)【此の二字音を以る】之(の)竹鞆(とも)を[所]取り佩(は)かしたまひて[而]、弓腹(ゆはら)振り立てて[而]、 堅庭者於向股蹈那豆美【三字以音】如沫雪蹶散 而伊都【二字以音】之男建【訓建云多祁夫】 堅庭(かたには)者(は)向股(むかもも)於(に)踏み那(な)豆(づ)美(み)【三字、音を以る】沫(あは)雪(ゆき)の如(ごと)蹶散(くゑはららかし)[而]伊(い)都(つ)【二字音を以る】之(の)男建(をたけ)ぶ【「建」を訓みて多(た)祁(け)夫(ぶ)と云ふ。】。 蹈建而待問何故上來 踏(ふ)み建(たけ)びて[而]待(ま)ち「何故(なにゆゑ)に上(のぼ)り来(きた)るか。」と問ひたまひき。 爾速須佐之男命答白 僕者無邪心 唯大御神之命以問賜僕之哭伊佐知流之事故白 爾(ここに)速須佐之男命答へて白(まを)さく 「僕(やつかれ)者(は)邪(よこしま)なる心無(な)し。唯(ただ)[伊邪那岐]大御神之(の)命(みこと)の問ひ賜(たま)ひしを以ちて、僕(やつかれ)之(の)哭(な)き伊佐知流(いさちり)し[之]事(こと)の故(ゆゑ)を白(まを)さく、 都良久【三字以音】僕欲往妣國以哭 爾大御神詔汝者不可在此國而神夜良比夜良比賜 故以爲請將罷往之狀參上耳無異心 『都(つ)良(ら)久(く)【三字音を以ちゐる】、僕(やつかれ)は妣(はは)の国に往(ゆ)かむと欲(おも)ひて以ちて哭くのみ。』とまをしき。 爾(ここに)大御神詔(のたま)はく『汝(いまし)者(は)此の国に在ら不可(じ)。』とのたまひて[而]、神夜良比夜良比(かむやらひにやらひ)賜(たま)ひき。 故(かれ)以為(おも)へらく『将(まさ)に罷(かへ)り往(ゆ)かむとする[之]状(かたち)を請(つ)げむ』とおもへりて、参上(まゐのぼ)りし耳(のみ)。異(け)なる心無し。」 爾天照大御神詔然者汝心之淸明何以知 爾(ここに)天照大御神詔(のたま)はく「然者(しかくあれば)汝(いまし)が心之(の)清く明(あか)きなるは何を以ちて知るや」とのたまひて、 於是速須佐之男命答白各宇氣比而生子【自宇以下三字以音下效此】 於是(ここに)速須佐之男の命、答へて白(まを)さく「各(おのおの)宇(う)氣(け)比(ひ)に[而]子を生(な)さむ。」とまをしき【「宇」自(よ)り以下(しもつかた)三字、音(こゑ)を以る。下つかた此に効ふ】。
〔私の弟が来る、どうして善い心であるものか。父母[=伊弉諾・伊弉冉]は既に子供ら(大日孁貴・月神・素戔嗚尊)に任せ、境界がある。どうして、今にもこの国に迫ろうとするのを捨てておけるか。〕 国同士の領地争いのような書き方がされる。これは、書紀の根本にある政治性によるのかも知れない。 【鬟(もとどり)】 書紀・本文;乃結髮爲髻、縛裳爲袴
これだけでは「鬟」(みずら)を指すか否かは不明である。ただし、「裳を縛り袴と為す」として、裳(スカート状)を縛って、袴(はかま)にしたと書き、男装を暗示する。 【八尺勾璁之五百津之美須麻流之珠】 八尺勾璁之五百津之美須麻流之珠〔やさかのまがたまのいほつのみすまるのたま〕 書紀・本文;八坂瓊之五百箇御統〔やさかにのみすまる〕 書紀の「八坂」によって「尺」は「さか」と読まれたことが確認できる。記紀の時代の「8尺」は1.4mと言われるが、それにしても相当の長さである。 「八」は吉数とであり、実質的に「長い」を表現すると思われる。同様に「五百津」は500個というより、「数多い」の意味である。 ここには古い吉数「五」を残す。この装飾品が実際どのようなものかは分からない。想像すれば、「サファイヤのような宝石に紐を通して多数連なっており、宝石には所々に大きめの勾玉が含む。」ものか。 三種の神器のひとつ「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)とは、この時点で直接の関係はないが、神聖な宝であることを暗示する。 記では、5本の八尺勾璁之五百津之美須麻流之珠を、左右の鬟、𦆅(かずら;植物の蔓による髪飾り)、両腕につける。それぞれから、後に5人の男子が生まれる。 それに対して、書紀では「髻〔もとどり〕鬘〔かずら〕及腕」と、つけた場所をまとめて書いている。
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2014.01.12(日) [046] 上つ巻(建速須佐之男命2) ▼▲ |
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![]() 天照大御神先乞度建速須佐之男命所佩十拳劒 打折三段而奴那登母母由良邇【此八字以音下效此】 振滌 天之眞名井而 佐賀美邇迦美而【自佐下六字以音下效此】 故(かれ)爾(ここに)各(おのもおのも)天安河(あめのやすのかは)を中に置きて[而]、宇気布(うけふ)時、 天照大御神(あまてらすおほみかみ)、先(ま)ず、建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)[所]佩(みはかしの)十拳剣(とかつのつるぎ)度(わた)しまつりたまへと乞(こ)ひたまひて、 三段(みつをり)に打(う)ち折(を)りて[而]、奴(ぬ)那(な)登(と)母(も)母(も)由(ゆ)良(ら)邇(に)【此の八字(やつのじ、やな)音(こゑ)を以(もちゐ)る。下つかた此に効(なら)ふ。】、 天之真名井(あめのまなゐ)に振り滌(すす)ぎて[而]、佐(さ)賀(が)美(み)邇(に)迦(か)美(み)て[而]【「佐」自(よ)り下六字音(こゑ)を以る。下つかた此に効ふ。】、 於吹棄氣吹之狹霧所成神 御名 多紀理毘賣命【此神名以音】亦御名謂 奧津嶋比賣命 吹き棄(う)つる気吹(いぶき)之(の)狭霧に[於]、成りまさしし[所]神は、御名を多紀理毘売命(たきりびめのみこと)といひて【此の神(かむ)名(な)、音を以る。】、亦(また)の御名(みな)を奧津嶋比売命(おきつしまひめのみこと)と謂ふ。 次 市寸嶋/上/比賣命亦 御名謂狹依毘賣命 次に市寸嶋/上/比売命(いちきしまひめのみこと)といひ、亦の御名を狭依毘売命(さよりびめのみこと)と謂ふ。 次 多岐都比賣命【三柱此神名以音】 次に多岐都比売命(たきつひめのみこと)といふ。【三柱(みはしら)。此の神名音を以る。】 速須佐之男命 乞度 天照大御神 所纒左御美豆良 八尺勾璁之五百津之美須麻流珠而 奴那登母母由良爾 振滌 天之眞名井而 佐賀美邇迦美而 於吹棄氣吹之狹霧 所成神 御名 正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命 速須佐之男(はやすさのを)の命、天照大御神の左の御(み)美豆良(みづら)に纒(まと)はしし[所の]八尺勾璁之五百津之美須麻流珠(やさかのまがたまのいおつのみすまるのたま)を度(わた)したまへと乞ひまつりて[而]、 奴那登母母由良爾(ぬなとももゆらに)、天之真名井(あめのまなゐ)に振り滌(すす)ぎ[而]佐賀美邇迦美(さがみにかみ)[而]、 吹き棄(う)つる気吹(いぶき)之(の)狹霧に[於]、成りましし[所の]神、御名を正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命(まさかつあかつかつはやひあめのおしほみみのみこと)といふ。 亦乞度 所纒右御美豆良之 珠而 佐賀美邇迦美而 於吹棄氣吹之狹霧 所成神 御名 天之菩卑能命【自菩下三字以音】 亦(また)、右の[所]御(み)美豆良(みづら)に纒(まと)はしし[之]珠(たま)を度(わた)したまへと乞ひまつりて[而]佐賀美邇迦美(さがみにかみ)て[而]、 吹き棄(う)つる気吹之狹霧に[於]、成りましし[所の]神、御名を天之菩卑能命(あめのほひのみこと)【「菩」自(よ)り下つかた三字音を以る。】といふ。 亦乞度 所纒御𦆅之珠而 佐賀美邇迦美而 於吹棄氣吹之狹霧 所成神 御名 天津日子根命 亦、[所]御𦆅(かづら)に纒はしし[之]珠を度したまへと乞ひまつりて[而]佐賀美邇迦美(さがみにかみ)て[而]、 吹き棄(う)つる気吹之狭霧に[於]、成りましし[所の]神、御名を天津日子根命(あまつひこねのみこと)といふ。 又乞度 所纒左御手之珠而 佐賀美邇迦美而 於吹棄氣吹之狹霧 所成神 御名 活津日子根命 又、[所]左の御手に纒はしし[之]珠を度したまへと乞ひまつりて[而]佐賀美邇迦美(さがみにかみ)て[而]、 吹き棄(う)つる気吹之狭霧に[於]、成りましし[所の]神、御名を活津日子根命(いくつひこねのみこと)といふ。 亦乞度 所纒右御手之珠而 佐賀美邇迦美而 於吹棄氣吹之狹霧 所成神 御名 熊野久須毘命【自久下三字以音幷五柱】 亦、[所]右の御手に纒はしし[之]珠を度したまへと乞ひまつりて[而]佐賀美邇迦美(さがみにかみ)て[而]、 吹き棄(う)つる気吹之狭霧に[於]、成りましし[所の]神、御名を熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)といふ。【「久」自り下三字、音を以ちゐる。并(あは)せて五柱なり。】 於是 天照大御神告速須佐之男命 是後 所生五柱男子者 物實因我物所成 故 自吾子也 先所生之三柱女子者 物實因汝物所成 故乃 汝子也 如此詔別也 於是(ここに)、天照大御神、速須佐之男命に告(つ)げたまはく、 「是(これ)の後(のち)、生みまさえし[所の]五柱の男子(をのこご)者(は)、物実(ものざね)、我(わ)が物に因る[所]に成るが故(ゆゑ)に、吾(あ)自(よ)りなれるみ子也(なり)。 先(さき)に生みまさえし[所之]三柱の女子(めのこご)者(は)、物実(ものざね)、汝(な)が物に因る[所]に成るが故(ゆゑ)に、乃(すなは)ち、汝(な)がみ子也(なり)。此れ詔別(のりわけ)が如し也(なり)。」とつげたまひき。
つまり「素戔嗚尊が生んだ子が、女だったら濁心、男だったら清心を証明する。」(ここの「一書」は三通りあるが、三つともほぼ同じ内容である〔次項参照〕)。 次に子を生んだことにより、いよいよ結果(詔別)が分かる。天照大御神が速須佐之男の十拳の剣を噛み、口から吹き出した霧から3柱の女神が生まれた。一方、速須佐之男は天照大御神の珠を噛み、口から吹き出した霧から5柱の男神が生まれた。 これを見て、天照大御神は「先に生まれた女子は、お前の持ち物から生まれたのだから、お前が生んだ子だ。」と言った。 ということは、速須佐之男の心は濁心であった。結果が判明して、速須佐之男は荒れ狂った。もともと自分が提案してこの結果だから、とことん情けない。 書紀では、「あらかじめ何を神に誓っておいた」か書いてあるから、判定が「濁心」だったことは明白である。しかし、記には「予め誓ったこと」が何なのか書いてないから、意味が分からない。 記は、速須佐之男が怒って暴れている様子から「占いの結果は速須佐之男の期待に背くものだった」ことを察せよというわけだ。 なお、速須佐之男「清心だからこそ、か弱い女子を生んだのだ。」という負け惜しみとを言っている。 書紀のように事前の誓約を明記すれば、結果に疑問の余地はないが、それをつきつけられては、素戔嗚尊にとっては身も蓋もない。記は、そんな速須佐之男に同情して、はっきり書くのを避けたかも知れない。 別の解釈もあり得る。「清心なら男子が生まれる」ことは既に世間の常識だったから、「書くまでもなかった」のだ。 奈良時代はもう男性優位の時代だったから、男子を生むことは価値があった。よい結果を得るためには、清心でなくてはならないのだ。それでも、記はそれを書かずにぼかしている。 反面、世の定めに逆らい「か弱い女子を生んだのだから清心だ。」と言う速須佐之男は、なかなか優しい面があると言える。 書紀では、男系を正統とする価値観は絶対的だが、記では邪とされた側の立場も無視せずに、バランスをとっているような印象がある。 【一書における請ひ】 書紀の一書は、3通りある。それぞれから、誓約の内容を示す部分を抜き出す。
また、一書第1と第3は、素戔鳴尊ではなく、日神が誓約の言葉を述べる。「日神」という簡潔な呼称は、はるか古代から信仰されてきた自然神を想起させる。天照大御神は、自然神である太陽の神と同一視されていたことがわかる。 【一書による結果の評価】 一書第3によれば、素戔鳴尊は、やはり日神(天照大御神)の五百箇御統之瓊を口に含むことにより、六男神を化生する。その結果、男神を生んだのは素戔鳴尊だとされる。(書紀本文のように「渡した珠の持ち主である日神が生んだ」という理屈は用いない。) そして「故日神方知素戔鳴尊、元有赤心、便取其六男、以爲日神之子。使治天原。」 〔日神は、素戔鳴尊が元々赤心(=清心)を持っていたことを確かに承知する。ただ、その六男神は日神が引き取って自分の子として、高天原を治めさせる。〕 一書第1は、第3と同様に素戔鳴尊の勝ちで、日神もそれを承認している。 一書第2では、結果の評価は書いていない。ただ、剣と八坂瓊之曲玉の交換は、天眞名井に浮かべて相手側に寄せる方法で行われる。 【生まれ方】 八神の生まれ方は無性的である。しかし、持ち物を渡す側は雄性、受け入れる側は雌性を象徴していると考えることができる。 三女神の誕生は、速須佐之男が持ち物を渡したから♂、天照大御神が♀。同様に五男神の誕生は、天照大御神が♂、速須佐之男が♀である。 つまり、天皇の血統の起点は、天照大御神の雄性にある。しかし、生身の人間のように「受精させる」方法を避け、象徴的な行為で表す。 天皇は代々男系で繋がるから、女性である天照が「生む」つまり直接血を分け与えるような生々しい表現は、極力避けたかったと思われる。 天皇の血統の出発点は、このような象徴的行為という、ややこしい手続きによる。 このややこしさの根源を探ると、強力な女王による統治が倭政権の事実上の出発点であったことと、記紀編集の時代には男系相続が絶対、の間の矛盾が浮かび上がってくる。 それだけ、民族に残る古代の女王の強固な記憶は、無視できないものだったのである。 【一書による生まれ方】 一書第1は、「剣・珠を食べたら化生した。」 一書第2は、記・書紀本文と同じく浮寄於天眞名井、囓斷瓊端、而吹出氣噴之中化生神。によって化生した。 一書第3は、三女神は「剣を食べたら化生した」、六男神は珠を食べるごとに、左右の掌中、左右の腕、左右の足から化生した。 【併せて八神だが】 ここでも、吉数八に合わせている。しかし、いつものような「并八神」という注記はない。天皇に繋がる神と、濁心によって生まれた神をまとめてはいけないのである。 【左が優位】 正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命は、左の鬟から生じた。遡ると、天照大神は伊邪那岐命の左目を洗って生じた。律令制でも、左大臣が右大臣より優位であるから、この時代の文化は左が優位である。なお、ヨーロッパ文明では、右が優位だといわれる。 【正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命】 一書第三には、便化生男矣。則稱之曰、正哉吾勝。故因名之、曰勝速日天忍穗耳尊。 〔すなわち、男神が化生した。これを「正(まさ)に吾(わたし)が勝った」という。それに因んで「勝速日天忍穗耳尊」という名になった〕 と、名前の由来を述べている。つまり、天照大御神が男神を生んだので「私が勝った」と誇ったことによるとする。 この神から数えて5代目が、初代天皇である。 正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命から順に、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命(あめのにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)⇒火遠理命(ほおりのみこと)⇒天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と繋がって、若御毛沼命(わかみけぬのみこと、別名、神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと))に到る。 神倭伊波礼琵古命は東遷し、畝火之白檮原宮(うねびのかし はらのみや)で「天下を治む」つまり、初の天皇となった。漢風諡号(漢字によるおくりな)「神武天皇」が贈られたのは、760年代で、古事記成立(712年)から約50年後である。 まとめ 剣と珠の交換から、息吹を吹き出して神を化生させるまでの話の流れは、一書第2が最も整理されていて判り易い。これが記・書紀本文の最終版に使用されたと思われる。 この部分は情景描写ではあるが、最高神と地上の天皇の系図の結節点にあたり、とても大切なので、注意深く書かれたと見られる。以後、速須佐之男に手を焼く天照大御神の話が展開されるが、一転して緊張感がなくなっている。 次に、請ひの勝者は一体誰なのだろう。これについては記・書紀本文・一書で三者三様である。書紀本文では大日孁貴(天照大神)の完全勝利である。対して一書第1・第3は素戔嗚尊が勝利し、天照大神もその結果を受け入れる。 対して、記では結果はあいまいなままにされる。記紀共に、大筋では天照大御神が最高神で、天皇の家系につながるという点は揺るがないのであるが、速須佐之男については書紀・記で評価が分かれる。 書紀は官僚のための歴史書なので、反逆者は罪人としてあっさり切り捨てればよいが、記は民衆に受け入れられるために、体制に反発したくなる情をも描かなければならない。そんな事情がありそうである。今後読み進む上での視点としていきたい。 |
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⇒ [047] 上つ巻(建速須佐之男命4) |