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[042]  上つ巻(伊邪那岐・伊邪那美10)

2013.12.30(月) [043] 上つ巻(伊邪那岐・伊邪那美11)  
於是 詔之上瀬者瀬速下瀬者瀬弱而
初於中瀬墮迦豆伎而滌時

於是(ここに)詔(のたま)はく「上瀬(かみつせ)者(は)瀬(せ)速(と)くありて、下瀬(しもつせ)者(は)瀬(せ)弱(よわ)し。」とのたまひて[而]、
初(はじ)めて中瀬(なかつせ)に[於]墮(お)りて迦(か)豆(づ)伎(き)[而]滌(すす)ぎましし時、


所成坐神 名八十禍津日神【訓禍云摩賀下效此】
次 大禍津日神
此二神者 所到其穢繁國之時 因汚垢 而所成神之者也

成り坐(ま)さえし[所]神の名は、八十禍津日(やそまかつひ)の神【「禍」を訓(よ)みて「摩(ま)賀(か)」と云ふ。下(しもつかた)此れ効(なら)ふ。】、
次に大禍津日(おほまかつひ)の神、
此の二(ふたはしらの)神者(は)其の穢繁(きたな)き国に到りましし[所之]時、汚(きたな)き垢(あか)に因りて[而]神に成りましし[所之]者(もの)也(なり)。


次爲直其禍而所成神名 神直毘神【毘字以音下效此】
次 大直毘神
次 伊豆能賣【幷三神也 伊以下四字以音】

次に其の禍(まが)を直(なほ)して[而]を成りまさえし[所の]神の名は、神直毘(かむなほび)の神【「毘」の字(じ)音(こゑ)を以(もちゐ)る。下つかた此に効ふ。】、
次に大直毘(おほなほび)の神、
次に伊豆能売(いづのめ)。【并(あは)せ三(みはしらの)神也(なり)。「伊」(い)より以下(しもつかた)四(よ)字(じ)音(こゑ)を以る。】


次 於水底滌時時所成神名 底津綿/上/津見神 次 底筒之男命
於中滌時所成神名 中津綿/上/津見神 次 中筒之男命
於水上滌時所成神名 上津綿/上/津見神【訓上云宇閇】次 上筒之男命

次に水底(みなそこ)に[於]滌(すす)ぎましし時、成りまさえし[所の]神の名は、底津綿{上声}津見(そこつわたつみ)の神、次に底筒之男(そこつつのを)の命(みこと)。
中に[於]滌(すす)ぎましし時、成りまさえし[所]神の名は、中津綿〔上声〕津見(なかつわたつみ)の神、次に中筒之男(なかつつのを)の命。
水上(みなかみ)に[於]滌(すす)ぎましし時、成りまさえし[所]神、は上津綿〔上声〕津見(うはつわたつみ)の神【「上」を訓み、「宇(う)閇(へ)」と云ふ。】、次に上筒之男(うはつつのを)の命。


此三柱綿津見神者 阿曇連等之祖神 以伊都久神也【伊以下三字以音下效此】
故阿曇連等者 其綿津見神之子 宇都志日金拆命之子孫也【宇都志三字以音】

此の三柱の綿津見(わたつみ)の神者(は)阿曇連(あづみのむらじ)等(ら)之祖神(おやがみ)なりて、以ちて伊(い)都(つ)久(く)神也(なり)。【「伊」(い)より以下(しもつかた)三字(じ、な)、音を以る。下つかた此に効ふ。】
故(かれ)、阿曇連等者(は)、其(そ)の綿津見の神之(の)子、宇都志日金拆(うつしひかなさく)の命之(の)子孫(あなすゑ)也(なり)。【「宇(う)都(つ)志(し)」の三字、音を以る。】


其底筒之男命 中筒之男命 上筒之男命 三柱神者 墨江之三前大神也
其の底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命、三柱の神者(は)墨江之三前大神(すみえのみまえのおほかみ)也(なり)。

於是洗左御目時所成神名 天照大御神
次洗右御目時所成神名 月讀命
次洗御鼻時所成神名 建速須佐之男命【須佐二字以音】

於是(ここに)左の御目(みめ)を洗ひましし時、成りまさえし[所の]神の名は、天照大御神(あまてらすおほみかみ)。
次に右の御目(みめ)を洗ひましし時、成りまさえし[所の]神の名は、月読(つくよみ)の命。
次に御鼻(みはな)を洗ひましし時、成りまさえし[所の]神の名は、建速須佐之男(たけはやすさのを)の命。【「須(す)佐(さ)」の二字、音を以る。】


《右件八十禍津日神以下速須佐之男命以前十四柱神者因滌御身所生者也》
《右の件(くだり)八十禍津日(やそまがつひ)の神の以下(しもつかた)速須佐之男(はやすさのを)の命の以前(さきつかた)十四柱(とはしらあまりよはしら)の神者(は)御身(おほみみ)を滌(すす)ぎましし[所]に因(よ)り生(な)りし者(もの)也。》

 ここで仰るに「上流の瀬は速く、下流の瀬は弱い」と。 そこで、初めて中ほどの瀬に降り、潜られました時、
 成りました神は、名を八十禍津日(やそまかつひ)の神、 次に大禍津日(おおまかつひ)の神と言い、 この二柱の神はその穢(けが)れはなはだしい国に到りました時、その汚垢(おこう)により神と成りましたものです。
 次にその災禍(さいか)をなおすものとして成りました神、名を神直毘(かむなおび)の神、 次に大直毘(おおなおび)の神、 次に伊豆能売(いづのめ)と言います。
 次に水底(みなそこ)で滌(すす)ぎました時に成りました神は、名を底津綿津見(そこつわたつみ)の神、次に底筒之男(そこつつのお)の命(みこと)と言います。
 中ほどで滌(すす)ぎました時に成りました神は、名を中津綿津見(なかつわたつみ)の神、次に中筒之男(なかつつのお)の命と言います。
 水面で滌(すす)ぎました時に成りました神は、名を上津綿津見(うわつわたつみ)の神、次に上筒之男(うはつつのを)の命と言います。
 この三柱の綿津見(わたつみ)の神は阿曇連(あづみのむらじ)らの祖神(そしん)であり、したがって斎(いつ)くしみの神です。 そのようなわけで、阿曇連らはその綿津見の神の子、宇都志日金拆(うつしひかなさく)の命の子孫です。
 その底筒之男の命・中筒之男の命・上筒之男の命、三柱の神は墨江之三前大神(すみえのみまえおおかみ)です。
 さらに左の御目(みめ)を洗いました時に成りました神は、名を天照大御神(あまてらすおおみかみ)と言います。
 次に右の御目(みめ)を洗いました時に成りました神は、名を月読(つくよみ)の命と言います。
 次に御鼻(みはな)を洗いました時に成りますた神は、名を建速須佐之男(たけはやすさのお)の命と言います。
《右に書かれた、八十禍津日(やそまがつ)の神以下、[建]速須佐之男([たけ]はやすさのを)の命以前の十四柱の神は、御からだを滌(すす)ぎましたことにより、生(な)ったものです。》


…[名]川や海の浅くなっている所。また浅くて流れのはやい所にもいう。
(かづ)く…[他動]カ行四段 潜水する。
禍、曲(まが)…[名]曲がっていること。災い。
(なほ)す…[他動]サ行四段 正しくする。改める。
(むらじ)…[名]①倭政権(古墳時代)における有力氏族に与えられた姓(かばね) ②684年制定の八色の姓(やくさのかばね)の第七位。
(おや)…[名]親、祖先。
(いつ)く…[自動]カ行四段 大切に祀る。

【迦豆伎】
 「かづく」の連用形。万葉仮名であるから当然「迦以下三字以音」という注があるべきだが、ここにはない。

【上瀬・下瀬】
 「上流は流れが速く、下流は流れが緩い」が当てはまるのは、川の流れである。 しかし、禊の場所は鳴門海峡よりは狭い、「小門」(おど)とされ、また「わたつみ」は海の神である。細長い湾だろうか。
 書紀の神功皇后の記事では、筒の男三神は若い海藻のところに住むとなっているから、やはり海中ということになる。

【曲・直】
 八十禍日・大禍日の「まがつ」二神は、黄泉国で穢れた垢から生じたものだから、曲がっている。そこで、その曲がりを「直」す「直びの神」が現れた。
図形にも「曲線」「直線」がある。

【禍→直の転換】
 神直毘・大直毘の名は禍(曲)を正すものである。「日」も濁って「び」と読まれることがある。ここでは禍つ神の「日」をそのまま使うのを避け、直す神では「毘」に置き換えられる。
 次に三は吉数だから、二は吉ではない「まがつ」である。だから禍つ神の柱数は「まがつ」な数=2である。それを直す神は当然三柱。しかし、三柱目「伊豆能売」は書紀の読者を困惑させてしまう。 この神の名には「命」も「神」もつかず中途半端である。記紀も他に出てくることはなく、祀る神社もほぼ皆無である。よく分からない神である。

【わた】
 海。語源はオセアニア語のwata(大海)とする説がある。(『ワタ(海)の語源』) 南方の海洋民族であったあま族が渡来するとき、海の神を連れてきたのかも知れない。

【やまつみ・わたつみ】
 「つ」は古い属格の格助詞(=の)。漢字「神」「霊」が宛てられる。やまつみ=山の霊、わたつみ=海の霊。

【うつしひかなさくの命】
 金拆を「きんたく」と読んで、銅鐸と拍子木とする解説がある。 (weblio辞書→歴史民俗用語辞典) 「うつし」は「移し」「現し」などがあり得るが、確かなことは何も言えない。 三柱のわたつみの神の子であって、その阿曇連の祖であるとする。

【天照大御神】
 記には「天照大御神」が28回、「御」のない「天照大神」が4回出てくる。また他の神に「大御神」が使われることはほとんどないから、「天照」は別格である。
 第1回で「天」に相応しい訓は「そら」であるが、渡来した「あま族」の神が"天"を占拠したという説を述べた。("天"を「あま」とし、「そら」には専ら"虚"が宛てられる)
 隋書(636年成立)には、開皇二十年(600年)「倭王姓阿毎,字多利思比孤、號阿輩雞彌」が遣隋使を派遣した記事がある。この部分は「倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩ひめと号す」つまり、姓「あま」字「たりしひこ」号「あわひめ」と読める。
 「たらし」を含む天皇の和風諡は、やまとたらしひこくにおしひとのみこと(孝安天皇)、おほたらし(景行天皇)、わかたらし(成務天皇)、あめとよたからいかしひたらし(皇極天皇)、あめとよたからいかしひたらし(斉明天皇)がある。
 「あま」(または「あめ」)、「たらし」は一般的な単語で、しばしば神や天皇の名称の一部に使われたと思われる。「たらし」はもともと「垂し」で、「天から降りた」という意味が中心であろう。
 あまてらすの「てらす」も「たらし」から派生したと思われる。しかし特に「照」として天と組み合わせることによって太陽神にしたのである。この名称はあま族の神の頂点にふさわしい。
 書紀では、大日孁貴神(おほひるめのむちのかみ)という名前である。「ひる」=太陽で、「め」は女性神であることを示す。「むち」には『ほつまつたゑ』によれば「治める者」という意味がある。
 書紀の本文では、国と自然をすべて生み終えた伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が「何不生天下之主者歟」(なぜ天下の主となる者を生まないのか)と言って、「於是、共生日神」(これにより、共に日[=太陽]の神を生んだ)とされる。
 書紀の本文は、いざなみが最後は黄泉の国の大神になったことや、いざなぎの禊の話は一切取り除かれている。また阿曇連に配慮する記事も省き、いざなぎ・いざなみが国生みの最後に、あまてらすなど3兄弟を生んで仕上げをしたと書くだけである。 記ではいざなぎの単身から無性生殖するが、書紀では有性生殖である。
 ところが、これには書紀の編集委員にも相当異論があったようで、黄泉にでかける話が「一書」に残されることになった。記にも黄泉にでかけた方が採用されている。
 それではいざなみは、書紀では最後にどうなるのか。調べると、いざなみが最後に出てくるのは素戔嗚の誕生で、以後何も書かれない。いざなぎの方は、淡路島、あるいはあまてらすの小宮に引退した記事がある。

【月読(つくよみ)の命】
 書紀では「月神」。「其光彩亞日」(その光彩は太陽に次ぐ)とされ、大日孁貴神と同様に天に送ったとある。

【建速須佐之男】
 書紀では「素戔鳴尊」。これが大変な問題児であった。詳しくは次回以後に取り上げる。

【書紀一書六】

遂將盪滌身之所汚。乃興言曰、上瀬是太疾、下瀬是太弱。便濯之於中瀬也。
遂(つひ)に、[将]身の汚き[所]を盪(あら)ひ滌(すす)がむとす。乃(すなは)ち言(こと)を興こして曰(のたま)はく「上(かみ)つ瀬(せ)是(これ)太(はなは)だ疾(と)し、下(しも)つ瀬是太だ弱し。」と。便(すなは)ち[之]中つ瀬に濯(あら)へり[也]。
因以生神、號曰八十枉津日神。次將矯其枉而生神、號曰神直日神。次大直日神。
因りて神生(な)るを以ちて、号(な)づけて八十枉津日(やそまがつひ)の神と曰ふ。次に将に其の枉(まがつ)を矯(た)みて[而]神生り、号(な)づけて神直日(かむなほび)の神、次に大直日(おほなほび)の神と曰ふ。
又沈濯於海底、因以生神、號曰底津少童命、次底筒男命。又潛濯於潮中、因以生神、號曰中津少童命、次中筒男命。又浮濯於潮上、因以生神、號曰表津少童命、次表筒男命。凡有九神矣。
又、海底(わたのそこ)に[於]沈み濯(すす)ぎて、因りて神生るを以ちて、号づけて底津少童(そこつわたつみ)の命、次に底筒男(そこつつのを)の命と曰ふ。又、潮中に潜(かづ)きて濯(すす)ぎ、因りて神生るを以ちて、号けて中津少童(なかつわたつみ)の命、次に中筒男(なかつつのを)の命と曰ふ。又潮上に浮き濯ぎ、因りて神生るを以ちて、号けて表津少童(うはつわたつみ)の命、次に表筒男(うはつつのを)の命と曰ふ。凡(おほよ)そ九はしらの神に有り[矣]。
其底筒男命・中筒男命・表筒男命、是卽住吉大神矣。
其の底筒男命・中筒男命・表筒男命、是れ即ち住吉大神(すみのえのおほみかみ)矣(なり)。
底津少童命・中津少童命・表津少童命、是阿曇連等所祭神矣。
底津少童命・中津少童命・表津少童命、是れ阿曇連(あづみのむらじ)等(ら)の祭れる[所の]神矣(なり)。
然後、洗左眼、因以生神、號曰天照大神。復洗右眼、因以生神、號曰月讀尊。復洗鼻、因以生神、號曰素戔鳴尊。凡三神矣。
然る後、左眼を洗ひて、因りて神生るを以ちて、号けて天照大神(あまてらすおほみかみ)と曰ふ。復(ま)た右眼を洗ひ。因りて神生るを以ちて、号けて月読(つくよみ)の尊と曰ふ。復た鼻を洗ひて、因りて神生るを以て、号けて素戔鳴(すさのを)の尊と曰ふ。凡そ三(みはしらの)神矣(なり)。
 (あら)ふ…[動]洗う。
 (まが)る…[形]曲がっている。[動]曲がる、曲げる。
 (た)む…[動]曲がったものをまっすぐにする。
 …[助](語気詞)
 全体として記と同一内容であるが、ここでも記より簡潔に書かれ、わかりやすい。記と異なる箇所は、曲がつ神は一柱、直す神は二柱であること。また、日/毘の書き換えはしないことだけである。

【書紀一書十】
于時、入水吹生 磐土命。出水吹生 大直日神。又入吹生 底土命。出吹生 大綾津日神。又入吹生 赤土命。出吹生 大地海原之諸神矣。
時に、水(みづ)に入り吹きて、磐土(いはつつ)の命(みこと)生(な)りき。水より出(い)で吹きて、大直日(おほなほひ)の神生りき。又入り吹きて底土(そこつつ)の命生りき。出で吹きて、大綾津日(おほあやつひ)の神生りき。又入り吹きて、赤土(あかつつ)の命(みこと)生る。出で吹きて、大地海原(おほつちうなはら)の諸(もろもろ)の神生りき[矣]。

【阿曇連】
 わたつみ三神は、阿曇連(あずみのむらじ)によって祀られていたことが、特に書かれている。そこで阿曇連の歴史を調べてみることにする。
 かつて筑紫を中心に北部九州で海運を司っていたが、のちに東遷して安曇野に定住。律令制のもとで信濃国安曇郡が成立した。 筑紫と近似した風習は食文化(馬食等)や地名、方言(安曇弁)などに残る。 『安曇氏の経歴と分布』(安曇誕生の系譜を探る会の資料)より
 「古代の海人族の中でもっとも優勢を誇ったのは阿曇連氏である。「連」なる姓(かばね)は、大和の王権 の下で特定の職業集団を統率する氏族(伴造(とものみやつこ))に与え られたものであるが、同じく伴造でも造(みやつこ)とか首(おびと)といった、より低い 姓を与えられたものもあったから、連姓を与えられた阿曇氏の政治的地位はそれなりに高い ものであったといえる。」という。
 阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海など、阿曇族の移動経路を伺わせる地名が各地に残る。基本的に漁労に関わっていたと考えられるが、その後内陸に移動して安曇郡に到ったと考えられている。 律令制の元、政権を支える豪族として存続した。もともと御贄の海産物を担当したから律令制下では内膳司に任ずる。
 こうして地位を保ってきたと思われるが、桓武天皇(718-806)の代に滅亡した。
 発祥の地は福岡県志賀島(しかのしま)と言われるが、ここは前漢時代の「漢委奴国王」の出土地でもある。関連は不明である。 東遷の時期も不明である。
 末裔が、おそらく地名の残る各地に散ったと思われるが、律令制下で豪族として勢力を誇ったのは安曇野に居住した一族であると思われる。
 書紀には、ときどき「阿曇連」の名が現れる。その一部を拾い上げてみる。

【阿曇連:応神天皇】
 書紀の十巻によれば、第15代の応神天皇は、神功皇后が三韓征伐の帰途に産む。記によれば崩年は甲午で、書紀では274年に当たるが、もともとは十干十二支で2回り後にあたる394年ではないかと考えられている。
 応神天皇3年の11月に、次の記事がある。
十一月、處々海人、訕哤之不從命。訕哤、此云佐麼賣玖。則遣阿曇連祖大濱宿禰、平其訕哤
 〔各地で海人(あま)がさばめき[「反抗する」意か]従わないので、阿曇連の先祖、大浜の宿祢(すくね)を派遣して其のさばめくを平げた。〕
 「あま」は、もともと渡来したあまてらす族全体の名称であったが、そこから古く各地に分散した漁労民も、それぞれの土地で「あま」と呼ばれていたと思われる。
 ここから、阿曇族は漁労民起源の有力な豪族であったことが推定できる。

【阿曇連:履中天皇】
 書紀の十二巻によれば、第17代の履中天皇の崩御は、壬申年。前項と同じ理由で西暦432年にあたると推定される。
 阿曇連濱子は、
汝與仲皇子共謀逆、將傾國家。罪當于死。然垂大恩、而兔死科墨、卽日黥之。因此、時人曰阿曇目。
 このように反乱を起こしたが、死罪を免じられ、黥(いれずみ)刑となり、「阿曇目」の由来となった。 この話は、おそらく目の所に特有の入れ墨をした部族であったことを示す伝承であろう。
 関連して、魏志倭人伝の記述が興味深い。
男子無大小皆黥面文身〔男子は身分や年齢に関わらず、誰でも顔の入れ墨、体の入れ墨をする。〕
後稍以爲飾諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差
 〔その後次第に飾りとなる。諸国の文身はそれぞれ異なり、左にあったり右にあったり、大きかったり小さかったりする。身分の尊卑によっても違いがある。〕
 つまり、かつては潜水漁の際身を守る文様としての意味があったが、現在(三国志の時代)では、諸族ごとに彫り位置、大きさ、デザインが異なり、それぞれのアイデンティティーを表現する。 おそらく、阿曇連は古く、目の所の黥(顔にする入れ墨)が特徴で、その由来の言い伝えであろう。
 類似の例として、九州北部の宗像氏は、胸形氏とも書かれ、もともと胸に文身していたからそう呼ばれるようになったとも言われる。宗像氏もまた、氏族独自の三神(書紀では、あまてらす・すさのおの盟約で生まれる)を祀る氏族である。

【阿曇連:推古天皇】
 書紀の二十二巻、第33代の推古天皇で久しぶりに登場する。崩年の戊子=西暦628年は書紀の編年に近いから信用し得る。
 推古天皇三十一年十一月の記事。
 新羅に派遣した磐金、任那に派遣した倉下が帰国した。報告を聞いた大臣は、両国が貢物をしようと用意していたのを知って驚いた。 両者の帰国の前に、軍を送ってしまった。早まったと後悔した。
時人曰、是軍事者、境部臣・阿曇連、先多得新羅幣物之故、又勸大臣。是以、未待使旨、而早征伐耳。
 時の人曰(まをさ)く、是の軍事(いくさごと)は、境部臣(さかいべのおみ)阿曇連(あずみのむらじ)先に新羅(しらき)の幣物(にきてもの)を多く得し故(ゆゑ)に、また大臣(おほまへつきみ)を勧めり。是を以ちて使の旨(みこと)を待たずして、早く征伐(う)ちしのみ。
 〔当時の人々が言うには、この軍事は境部臣(新羅征伐の将軍)、阿曇連が先に新羅の宝物を多く得ていたことから、[これはまだまだ奪い取れるぞという思惑で]大臣に戦を勧めた。だから使者を待たず早く征伐してしまったのである。〕
 この一節から、阿曇連は将軍境部臣と並んで政権の閣僚のような地位を確保し、やはり海運に携わっていたことがわかる。

【阿曇族発祥の神話】
 注目されるのは、阿曇氏が天照大神を出発点とする系図の外にあることである。つまり、氏族が天照から分岐した形をとっておらず、距離を置いている。よって阿曇氏は独立性が強いと考えられる。 記では、わたつみの神が安曇氏の祭神であることを尊重して、記述している。政権を支える豪族に対する一定の配慮があると思われる。 「やまつみ」を祖神とした一族(先住族)は粉砕されたが、「わたつみ」をかづく神とする「あづみ族」は信濃国安曇郡の有力豪族として存続することができた。


【墨江之三前大神と神功皇后】
 墨江の地はもともとは住之江の津とされ、現在の大阪府住之江区の細井川にあたる。「住吉」も、もともと「すみのえ」と読んだ。
 墨江三大神が次に登場するのは、書紀九巻・神功皇后である。
 書紀八巻(中哀天皇)で、神功皇后が神がかり、伝えた神の言葉は「海の向こうに『眼炎之金・銀・彩色』の国、新羅がある。熊襲を攻める前に新羅を攻めよ」と勧めるものであった。天皇は従わず熊襲へ出兵し、結局勝てずに戻った。 中哀天皇は翌年「早崩」した。それは、神の言葉を用いなかったからだとされる。
皇后選吉日、入齋宮、親爲神主。則命武內宿禰令撫琴。喚中臣烏賊津使主、爲審神者。
 〔皇后は吉日を選び斎宮に入り、自ら神主となった。武內宿祢(すくね)に琴を弾かせ、中臣烏賊津使主を呼び「審神者」(神の声を語る皇后に、質問する役割をする者)とした。そして「中哀天皇に告げた神の名前を挙げよ」と尋ねさせた。〕
 そこで挙げられた神の名は、神風伊勢國之百傳度逢縣之拆鈴五十鈴宮所居神・撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命、その他の神、そして三柱の筒男神であった。
 「神風」(かむかぜの)は「伊勢」の国につく枕詞である。同様に「百伝」(ももづたふ)は「わたる」、拆鈴(さくすず)は「五十鈴宮」へのそれぞれ枕詞である。度逢縣(わたらひあがた)は現在の三重県度会(わたらい)郡にあたり、「五十鈴宮」は伊勢神宮の内宮である。 だから、撞賢木巌之御魂天疎向津媛(つきさかきいつのみたまあまさかるむかひつひめ)の命は、内宮にいる天照大神の別名ということになる。枕詞を多用する格式ばった言い方は、大御神ゆえのことだろう。一般には天照大神そのものではなく、その荒魂(あらみたま)と解釈されている。荒魂は、和魂(にぎみたま)と共に神がもつ二つの魂で、役割を分担する。
 ここで「その他の神」と書いたのは次の2柱である。
幡荻穗出吾也、於尾田吾田節之淡郡 所居神之有」…幡荻(はたすすき)は「穂」の枕詞。「吾」は語っている神自身。「穂が出づる私すなわち、尾田吾田節の淡郡に居するところの神が有る」と読める。「美多羅志(みたらし)神社」(三重県鳥羽市答志町)のいわれによれば、「田節」は、答志の古名あるとされるが、これ以上は判断する材料がない。
於天事代・於虛事・玉籤入彦嚴之事代主神有之」…天(あま)に事代(ことしろ)、虚(そら)に事代、玉籤入彦厳(たまくしいりひこいつ)之事代の主の神これ有り。 同一神の別名を列挙か。しかし確かなことはわからない。
 これらは他の箇所には出てこないので、詳しいことは分からない。だが、各地の膨大な数の神々をこうやっていろんな箇所に紛れ込ませ、網羅しようとする意図を感じる。各地の民間信仰を組み込むのも、集権国家作りの一環なのかも知れない。
 話を戻す。神の語ったうち最後は、筒男三神である。
於日向國橘小門之水底所居、而水葉稚之出居神、名表筒男・中筒男・底筒男神之有也。…これら三神は水底の海藻が若く出る所にいる神とし、記や一書六の「いざなぎが禊をしたときに出現した神」とは出現のし方にずれがある。
 以後「それ以外は?」と尋ねても、もう有るともないとも言わなくなった。
 その後三韓を攻めた結果、三韓は日本に朝貢する国となった。そして皇后は新羅から戻る。
從軍神表筒男・中筒男・底筒男、三神誨皇后曰、我荒魂、令祭於穴門山田邑也。…三筒男神は、ここで「従軍神」と位置付けられる。穴門は関門海峡、または長門の国を指す。その「山田村」に三神の「荒魂」を祀れと命じられた。現在の住吉神社(下関市)は、大阪の住吉大社、博多の住吉神社とともに日本三大住吉の一社とされる。
吾和魂宜居大津渟中倉之長峽…一方和魂は住吉神社(摂津の国)「由緒書」(延喜式内神社の紹介より)には「淳中倉の長峡、即ちいまの住吉の地」と書いている。
 ここでいう「大津」は、滋賀県の大津ではない。「津」はもともと船着き場を指す。天智天皇が大津宮を築いたのはは7世紀後半なので、神功皇后の時代は、現在の滋賀県大津市ではなく、泉大津を指す可能性が強い。「渟中倉」の現在の所在地は不明だが、敏達天皇の和風諡「渟中倉太珠敷天皇」は、出身地を表すのであろう。「長峽」は、大阪府大阪市住吉区長峡(ながお)町があるにはあるが、書紀を読んでからつけた地名かも知れない。
 泉大津市、住之江区、住吉区は10数kmの距離なので、表筒男・中筒男・底筒男の和魂が祀られた場所は、記の「墨江」にあたる現在の住吉神社の位置だろうと思われるが、厳密に言うと和泉大津市は和泉の国、住吉区は摂津の国の範囲で、ややずれがある。
 というわけで、三筒男神の荒魂は軍事を守護するので、三韓を目の前にする長門の国に祀られ、和魂は内政を守護するので都に近い摂津の国に祀られたのである。
 ちなみに、天照大神の荒魂については、皇后の船が航行不能になったとき、
天照大神誨之曰、我之荒魂、不可近皇居。當居御心廣田國。…天照大神は「私の荒魂は皇居の近くはいけない。心にかなうのは広田国である。」と教えたとして、広田神社(兵庫県西宮市)の由来を説明している。
 荒魂は、当然武人が参詣するので、都より軍港に近い方が都合がよいという事情があったかも知れない。
 さて、記にも神功皇后の部分があるが、書紀よりずっと簡潔に書かれている。
其大后息長帶日賣命者、當時歸神。〔神功皇后は当時神に帰した[=神懸かっていた]〕なお、記では皇后の名は「息長帯日売(おきながたらしひめ)の命」で、「神功皇后」は後世につけられた漢風諡である。
建內宿禰居於沙庭、請神之命。〔建內宿祢は神の命を請うた[=神の命(めい)をお話しくださいと言った]〕
今如此言教之大神者、欲知其御名、卽答詔、是天照大神之御心者。亦底筒男、中筒男、上筒男、三柱大神者也。〔この言葉を教えていただいた神の名を訪ねたところ、答えは「天照大神の御心が、」そして「底筒男、中筒男、上筒男、三柱の大神が、」であった。〕
(百済、新羅を制圧後)卽以墨江大神之荒御魂、爲國守神而祭鎭、還渡也。〔即ち墨江大神の荒御魂をもって、国の守りと為し祭り鎮め、還り渡り[=帰国]した。〕
 書紀で荒御魂を祀った長門国山田村については何も触れられていない。
 以上から、墨江三神は天照大神と共に、三韓征伐に関わる重要な軍神である。もともとは海中に住む神で、漁労民族としてのあま族の出自との関係が深いと思われる。
 わたつみの神が、随伴する豪族(あづみ族)のものであったのとは異なり、墨江三神は主流のあまてらす族自身のものである。

漢風諡崩年西暦備考
1神武天皇
2綏靖天皇欠史八代
3安寧天皇欠史八代
4懿徳天皇欠史八代
5懿徳天皇欠史八代
6孝安天皇欠史八代
7孝霊天皇欠史八代
8孝元天皇欠史八代
9開化天皇欠史八代
10崇神天皇戊寅年十二月崩15318磯城瑞籬宮
11垂仁天皇
12景行天皇
13成務天皇乙卯年三月十五日崩52355
14仲哀天皇壬戌年六月十一日崩59362
15応神天皇甲午年九月九日崩31394
16仁徳天皇丁卯年八月十五日崩4427※※
17履中天皇壬申年正月三日崩9432珍または弥
18反正天皇丁丑年七月崩14437
19允恭天皇甲午年正月十五日崩31454
20安康天皇
21雄略天皇己巳年八月九日崩6489武/獲加多支鹵大王
22清寧天皇
23顕宗天皇
24仁賢天皇
25武烈天皇
26継体天皇丁未年四月九日崩44527
27安閑天皇乙卯年三月十三日崩52535
28宣化天皇
29欽明天皇
30敏達天皇甲辰年四月六日崩41584
31用明天皇丁未年四月十五日崩44587
32崇峻天皇壬子年十一月十三日崩49592
33推古天皇戊子年三月十五日崩25628
※…甲子=1として太歳を数値化したもの。
※※…いわゆる倭の五王。倭の五王第182回参照
【神功皇后の時代】
 墨江之三前大神は神功皇后による三韓侵攻と密接な関係があるので、この機会に記紀における神功皇后についてざっと考察してみる。
〔中哀天皇の〕九年 二月 足仲彦天皇崩於筑紫橿日宮。〔中哀天皇の崩〕
十二月戊戌朔辛亥、生譽田天皇於筑紫。〔応神天皇の誕生〕
 翌年を攝政元年とする。つまり神功皇后の事実上の女帝の扱いで年を数えている。
是年也、太歲辛巳。則爲攝政元年。〔[辛巳は甲子から数えて18年目] この年を摂政(神功皇后)元年と定める。〕次の「己未が明帝(魏国の皇帝)景初三年」とする記事から、辛巳が西暦201年にあたることが確定する。
卅九年。是年也、太歲己未。魏志云、明帝景初三年六月、倭女王遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏遣吏將送詣京都也。〔魏志を正確に引用している〕
 ここに、注意書きとして魏志が引用される。太歲(干支)の己未の年は甲子から56年目。景初三年=西暦239年であることが分かっている。
六十九年 皇太后崩於稚櫻宮 太歲己丑。〔甲子から26年目〕
 宋書の倭の五王の記述と突き合わせ、また記に記載された天皇の没年を調べることによって、神功皇后前後は、120年ずらされていることがわかる(太歳は60年周期であることが利用された)。右の表は記に崩年が載っている天皇について、太歳が正しいと仮定して、実際の西暦を推定したものである。
 実際には恐らく、皇后の摂政元年=西暦321年、同69年=西暦388年であると思われる。この時期なら、倭の新羅方面への侵攻は(結果はともかくとして)あり得る。よく言われるように、日本書紀は初期の天皇の寿命を長くして歴史を過去に引き延ばしている。
 その結果、(書紀で作為的にずらされた)西暦201~268年は、ちょうど魏志で倭の女王卑弥呼が存在した時期にあたる。魏志で倭人を描いた期間は、倭国大乱が終結した西暦190年ごろから壱与の朝貢の同250年ぐらいまでである。書紀で、3回に渡って魏志の記述に言及していることから見て、魏志は奈良時代の日本でも知られていて、無視できなかったことが分かる。そこで仲哀天皇と応神天皇の間の68年間を空け、神功皇后を摂政(天皇の職務代行者の意味だが、事実上の女帝)として卑弥呼に対応させている。
 魏志で倭国の女王が、帯方郡を支配していた魏国との間で豪華な貢物と回賜があった記述を利用して、神功皇后の日本(やまと)が新羅から貢物を受ける外交関係に結びつけたのである。書紀の「眼炎之金・銀・彩色の国」という表現が、魏志で、魏の明帝が卑弥呼に与えた豪華な回賜を意識しているのは明らかである。
 また、神功皇后も卑弥呼と同様に神の言葉を媒介するシャーマンである。
 とは言え、筋書きは書紀と魏志で根本的に異なる。神功皇后の個々の記事はほぼフィクションであるが、魏志も同程度のフィクションと見做すことによって、五分五分までもっていったのであろう。
 ところで、書紀には注目すべき文がある。「從今以後、永稱西蕃、不絶朝貢。故因以、定內官家屯倉。是所謂之三韓也。」…〔これからは、永久に西蕃を称し、朝貢を絶やさない。そこで宮廷に受け入れ管理の部署を定める。この地域がいわゆる三韓[高句麗、百済、新羅]である。〕
がそれである。西蕃とはもともと中国から見た西方の民族への蔑称。それに準えて日本を中心として、西方の三韓を指して言う。ここでは「朝貢」という表現が大切である。朝貢とは、本来中国が周辺国の王を疑似的に国内の諸侯と同様に扱う(「冊封」という)ことにより、礼として貢物を受けることである。日本もそれを真似て、自身を中原(文明の進んだ国)と位置づけ、三韓を西方の朝貢する側の国とした。
 つまり、この文から、周辺国から朝貢を受ける関係を築いたと自慢する姿を読み取ることが大切である。それ以外、時には荒唐無稽な「事実」は歴史的事実としては殆ど無視すべきものである。(断片的には何らかの事実の反映があるかも知れないが)
 なお「事実」の創作については、記の方がまだ遠慮があり、無理に詳細を書かないようにしたと感じられる。書紀の編纂にあたった12人の学者がもっともらしく年月日までつけた姿勢に、太安万侶はついていけなかったのであろう。「記」執筆に到る動機のひとつが、ここにも伺える。

まとめ
 天武天皇が集権国家を築くため、自立性の高い豪族を天皇中心にまとめ上げなければならない。そのために、各氏族の出自を天皇の系図のどこかに位置づけることが重要であったと、記・序文のところで述べた。
 その観点からすれば、阿曇氏の分岐点は非常に古くまで遡り、天照の出現以前である。これは、阿曇氏が独自に強固な神話をもっており、初代天皇以後の系図の途中に接ぎ木することができなかったと思われる。
 神話のうち、いざなぎ・いざなみが島で子作りする部分は共有しているかも知れない。華南あるいはオセアニアに起源をもつ「あま族」が九州に上陸。その内部は複数の氏族で構成され、そのうち2つが「あまてらす」と「あづみ」であった。各地に残る「あま」の地名は、あま族全体の移動経路だと思われる。
 そして倭国大乱(1~2世紀)を繰り広げながら、それぞれに東遷する。やがて、畿内に定着したのがあまてらす族で、安曇地方に定着したのがあづみ族。倭の女王国が北九州から畿内・北陸あたりまで統一した2世紀末ごろのことであろう。
 また、あまてらすを先祖とする集団(あまてらす族)も、それを尊重せざるを得ない。これらの2族は、おそらく南方系の「あま族」の内部で兄弟関係にあり、前後して九州に渡来し、東遷したと想像される。
 次に、神功皇后の記事で、一人の神の魂を「荒魂」と「和魂」に分けているのは、興味深い。統治には、戦場で血を流して敵の命を奪う残虐さと、内政で人民の命を守り慈しむ優しさの両面がある。
 それらの相反するものを一人の神に守護してもらうには、魂を2つに分けてもらう他はない。それぞれを祀る神社は、地理的にも離しておこうとする心理がはたらくのである。

2014.01.04(土) [044] 上つ巻(伊邪那岐・伊邪那美12)  
此時伊邪那伎命 詔吾者生生子 而於生終得三貴子
此の時伊邪那伎(いざなぎ)の命(みこと)大(はなはだ)歓喜(よろこ)びて詔(のたま)はく「吾(われ)者(は)子を生(う)み生みて[而]生み終(を)へるに[於]、三(み)はしらの貴(たふと)き子を得(え)てあり。」とのたまひて、
卽其御頸珠之玉緖母由良邇【此四字以音下效此】取由良迦志而 賜天照大御神 而
詔之 汝命者 所知高天原矣 事依 而賜也
故 其御頸珠名謂 御倉板擧之神【訓板擧云多那】

即ち、其の御(み)頸(くび)の珠(たま)之(の)玉(たま)の緖(を)母(も)由(ゆ)良(ら)邇(に)【此の四字以音(こゑ)を以(もちゐ)る。下つかた此に効(なら)ふ。】取り由(ゆ)良(ら)迦(か)志(し)めて[而]天照大御神に賜(たまは)りて[而]、
詔(のたま)はく[之]「汝(いまし)の命(おほせごと)者(は)、高天原(たかあまはら)これ知らしむ所(ところ)矣(ぞ)」とのたまひて、事依(ことよ)せ[而]賜ひき[也]。
故(かれ)、其の御頸(みくび)の珠の名は、御倉板挙(みくらたな)之神と謂(い)ふ。【「板挙」を訓(よ)みて多(た)那(な)と云ふ。】


次詔 月読命 汝命者 所知夜之食國矣 事依也【訓食云袁須】
次に月読(つくよみ)の命に詔はく「汝の命者(は)、夜(よ)之(の)食(をす)国これ知らしむ所矣(ぞ)」とのたまひて、事依せたまひき[也]。【「食」を訓み「袁(を)須(す)」と云ふ。】

次詔 建速須佐之男命 汝命者 所知海原矣 事依也
次に建速須佐之男(たてはやすさのを)の命に詔はく「汝が命者(は)、海原(うなはら)これ知らしむ所矣(ぞ)」とのたまひて、事依せたまひき[也]。

故 各隨依賜之命 所知 看之中 速須佐之男命 不知所命之國 而
八拳須至于心前 啼伊佐知伎也【自伊下四字以音下效此】
其泣狀者 青山如枯山泣枯 河海者悉泣乾 是以 惡神之音如狹蠅皆滿 萬物之妖悉發

故(かれ)、各(おのもおのも)依(よ)せ賜(たま)ひし[之]命(おほせごと)に隨(したが)ひて知らしむ所、之れを看(め)す中(なか)に、速須佐之男命、命(おほせごと)せらるる[所之]国を不知(しらしめざりて)[而]、
八拳(やつか)の須(ひげ)心(むな)前(さき)に[于]至り、啼(な)き伊(い)佐(さ)知(ち)伎(き)[也]。【「伊」自(よ)り下つかた四字音を以る。下つかた此に効ふ。】
其の泣き状(ふ)すさま者(は)、青(あを)かりし山、枯るる山の如く泣き枯(か)れ、河海(かはうみ)者(は)悉(ことごと)く泣き乾き、是(これ)を以ちて悪しき神之(の)音(こゑ)狭蝿(さばへ)の如く、皆満てり。万(よろづ)の物之(の)妖(あやしさ)悉(ことごと)く発(はな)ちき。


故 伊邪那岐大御神 詔速須佐之男命 何由以汝不治所事依之國 而
哭伊佐知流爾 答白
僕者 欲罷妣國根之堅洲國 故哭爾

故(かれ)、伊邪那岐(いざなぎ)の大御神(おほみかみ)詔(のたま)はく「速須佐之男(はやすさのを)の命、何由(なにゆゑ)汝(いまし)を以ちて事依(ことよ)せたまはゆる[所之]国を不治(おさめざ)るや」とのたまひて[而]、
哭(な)き伊(い)佐(さ)知(ち)流(る)爾(に)答へて白(まを)ししく
「僕(やつかれ)者(は)、妣(はは)の国根之堅洲(ねのかたす)国に罷(かへ)らむと欲(ほ)りする故(ゆゑ)に哭(な)く爾(のみ)。」とまをしき。


伊邪那岐大御神大忿怒
詔然者汝不可住此國
乃神夜良比爾夜良比賜也【自夜以下七字以音】
故其伊邪那岐大神者坐淡海之多賀也

伊邪那岐大御神、大(はなはだ)忿怒(いか)りて、詔(のたま)はく、
「然者(しかくあれば)、汝(いまし)は此の国に住まは不可(じ)。」とのたまひき。
乃(すなは)ち神(かむ)夜(や)良(ら)比(ひ)爾(に)夜(や)良(ら)比(ひ)賜(たま)はりき[也]。【「夜」自り以下(しもつかた)七字音(こゑ)を以る。】
故(かれ)、其の伊邪那岐大神者(は)淡海(あふみ)之(の)多賀(たが)に坐(ましま)す[也]。


 この時、伊邪那伎(いざなぎ)の命は大いに喜び仰るに「私は子を生んでまた生み、生み終えて三柱の貴い子を得た。」と。
 それで、その御首飾りの玉の緒をゆらゆら取り外し、玉の当たる音をさせながら天照大御神に賜りました。
 そして言い渡されますに「あなたへの命(めい)は、高天原(たかあまはら)を治めることなのです。よろしくお願いします。」と。
 そして、その御首にかけた珠の名を、御倉板挙(みくらたな)の神と言います。
 次に月読(つくよみ)の命に言い渡されますに「あなたへの命は、夜の治められます国を治めることなのです。よろしくお願いします。」と。
 次に建速須佐之男(たてはやすさのを)の命に言い渡されますに「あなたへの命は、海原を治めることなのです。よろしくお願いします。」と。

 そのようにして、おのおの依頼なさった命によって治める様子を巡視される中、速須佐之男が命された国は、治めておりませんでした。
 そして八拳(やつか)のひげが胸先まで伸び、泣いてばかりいました。
 そんな風に泣き状すので、緑の山はすっかり泣き枯れ、枯れ山となり、川、海はことごとく泣き水が枯れ、これを以って悪しき神の音が鳴り渡り、すべてに満ちておりました。万物は何もかも妖気を放っておりました。
 そこで、伊邪那岐(いざなぎ)の大御神がお聞きになるに「速須佐之男(はやすさのを)の命、どうしてお前に依頼した国を治めないのか」と。
 それに対して、泣きじゃくりながらお答え申し上げたのは、
 「私めは、亡き母の国、根之堅洲(ねのかたす)の国に帰りたいので、ただただ泣いているのです。」でした。
 伊邪那岐大御神は大いに怒り、申し渡されるに、
 「しからば、お前ははこの国に住むべからず。」と。そして大御神は、神の追放をしてしまわれました。
 そのようにされた後、伊邪那岐大神は近江の国の之多賀に引退されました。

(お)-ふ…[自動]ハ行上二 はえる、伸び育つ
(な)-る…[自動]ラ行四段 うまれる
(い)-く…[自動]カ行四段 いきる
(を)-ふ…[自動]ハ行下二 おえる。果てる
(を)…[名]糸、紐。
玲瓏(もゆら)…[副]ゆらゆらと。
(ゆ)ら-く…[自動]カ行四段 (玉や鈴が)揺れて触れ合って、音を立てる。
しむ…[助動]下ニ段型(使役、尊敬)未然形につく。
…[名](めい) 公的な指示、とくに帝王の指示。[動]言いつける。指示する。
みこと…[名] 神や天皇のことば。仰せ言。
(し)-る…[他動]ラ行四段 治める。統治する。
(よ)-す…[他動]サ行下二 相手に送る。寄進する。
事寄(ことよ)-す…[自動]サ行下二 あるものに託す。
(を)-す…[自動]サ行四段 (尊敬語)召し上がる。統治なさる。
海原(うなはら)…[名]広々とした海、
(おのおの)…[副]それぞれ。
(したが)-ふ…[自動]ハ行四段 従う。
(み)…[動]注視する。
…[名]あごひげ。=鬚。
…[名]胸部。
…[動](声を張り上げて)なく。
(さ)…[自動]荒れた気持ちになる。
…[助動]四段動詞の未然形につく。繰り返し~する。
…[動](声を出さず)なく。
…[動](声を出して)なく。
いさ-つ…[自動]タ行上二 (泣きながら)叫ぶ。
…[動]はな-つ。
…[名]よし。原因。ゆかり。
いさ-ちる…[自動]タ行上一 泣き叫ぶ
…[代]自称の人称代名詞。やつかれ。
…[名]母。死んだ母。
…[動]かへる。戻る。
根之堅洲国(ねのかたすのくに)…[固名]島根郡
…[助]語気詞。~のみ。
神遣(かむや)ら-ふ…[他動]ハ行四段 神の世界から追放する。
(や)ら-ふ…[他動]ハ行四段 追い払う。追放する。

【詔・曰・白】
 「詔」は皇帝が政令を定める意味もあるが、記では「言・云・謂・曰」の尊敬語として用いる。例えばいざなぎの言葉は必ず上位に置かれ「詔」である。ちなみに和語で「いふ」の尊敬語は「宣(のた)ぶ」である。
 「白」は、下から上に向って「話す」の謙譲語として用いる。和語は「まをす」にあたる。「曰」は中立であるが、伝統的に「まおす」と読まれるのは、記を研究した本居宣長による。 おそらく神話に登場する神に対する、民衆の側の謙譲の気持ちを込めたのであろう。しかし記の用語法を冷静に見れば「詔=尊敬、曰=中立、白=謙譲」は明白である。

【生終】
 この三神を生むのが最後だから、「生涯を終える」意味で間違いないと思われる。
――と、この時は考えたが、3人の子を生んだから「生」を3回書いたと考えた方がよさそうである。 つまり3人目で「生み終えた」のである。2018.7.4

【御頸珠之玉緖】
 玉に穴を開け紐を通して環にした装飾品=首飾りである。いざなぎの頸から外し、紐を手にゆらゆらさせて、玉の当たる音を鳴らしながら、あまてらすの首にかけてやる。 実に魅力的な表現である。同時に、あまてらすがそれだけ魅力のある大切な神だと、読者にも強く印象付けるのである。一書六では、このような描写は一切省かれ実質だけを書く。事実は理解しやすいのであるが、文学性は記の方が優れる。 ただ、意地悪いことを言えば、禊の前に装身具などは、すべて投げ捨てたはずだ。新たにいつの間にかネックレスをつけているが、まあ、野暮なことは言わずにおこう。

【命】(めい、みこと)
 ここでは、父であるいざなぎが、三神にそれぞれ与えた「言いつけ」である。

【知る】
 「知る」には国を「統治する」「治める」という意味がある。「知事」もここから来ている。

【事依】
 漢字二文字で動詞句になっている。これは、①直前の語気詞「矣」で切れること、②いざなぎがすさのをに詰問する文中の「所事依之国」で「所」の機能「動詞の前に置き、それらを体言化する」から見て間違いない。

【「事依而賜也」と「事依也」】
 通常、対応する語句は確実に統一され解読に役立つが、ここでは統一されていない。珍しい例である。

【高天原】
 天上の神が住む世界。第30回参照。

【みくらたなの神】
 天照大御神は他の神とは別格なので、装飾品ひとつでも神になってしまうということか。いざなぎが手に取り、ゆらして与えたものだから、「たな」は「手づから」の意味かも知れない。ただ、漢字の「板挙」に従えば、「棚」である。

【月読命】
 「月の神」だから夜の国を治める役割が与えられる。「食」は月の満ち欠けを連想させるが、関係は不明である。「よみ」は「黄泉」を連想させるが、特に触れられていない。月読命の登場はここだけである。また書紀の本文では、天照の配下とされるが、他に登場はない。
 一書六は、珍しく記と不一致で、海原の潮の神とされる。海の満干潮は、月の運行と関係が深い。
 このように、月読命の登場は少ないが、唯一、一書十一に面白い話がある。天照は月読命に、「地上に降りて、保食神(うけもちの神)」を偵察して来いと命じた。
 行ってみると、うけもちの神は口から食物を出してもてなしたのだが、月読命は口から出したような、穢れたものを食べさせるのはけしからんと言って保食神を殺した。
 天に帰って天照大御神にその成り行きを報告したところ、天照は怒って、月読にお前の顔をもう見たくないと言い、以来天照と月読は昼と夜に分かれて住むことになった。
 殺されたうけもちの神の各部から牛馬、穀物、蚕が現れ、それらを栽培し、養蚕を始めて人民の生存を支えた。
 同じ話は、記の「おほげつひめの神」のところにも出てくるが、関わったのは月読命ではなく、建速須佐之男命である。

【建速須佐之男の命】
 頭につけられた「建」は、言い伝えの基に、何らかの軍事勢力の存在があったことを暗示する。実際に書紀・本文は、現実政治における暴君であったことを明確にしている。
 速須佐之男が受けた命は、海原の統治である。一書六では「天下を治める」とされ、記と異なる。速須佐之男は地上の国の統治をさぼって泣いてばかりいるのだから、ここは「海原」の代わりに「天下」と書いた一書六の方が筋が通っている。 記では、肝心の葦原中国の土地を治める者がいないのである。無理に辻褄を合わせようとすると、「海原は陸地を含める」と拡張解釈しなければならない。 書紀本文では、「どこどこを治めよ」という命そのものは書いてないが、いざなぎが諌めるとき「不可以君臨宇宙。」(宇宙に君臨することはできない)と言うのだから、最初は天地全体の統治を命じらたことになる。その場合、天照大御神は、直接統治はせず、高い次元で天地全体を照らす役割である。
 以上から、統治を命じられた範囲と、その後の行動に一貫性があるのは、一書六だけである。一書六の著者は理科系の頭脳の持ち主である。記の著者は物語を詩的、文学的に膨らませる天才である。ついでに言えば書紀・本文の神代担当著者は、権威主義に凝り固まっている。それぞれ個性が感じられて面白い。

【速須佐之男の命が直面した困難】
 八拳 第38回の、十拳(握)剣の項で一拳=9cmと仮定した。それを当てはめると八拳=72cmになる。これだけあれば胸全体を覆うのに十分な長さだろう。しかし、画像検索すると美術としては、髭がそんなに長く書かれたものは少ない。 一書六では、髭が伸びた理由を「年已長矣」、つまり高齢になったと説明するが、記では、髭が長い理由は書かない。。
 記では速須佐之男は泣いてばかりだが、「泣く」には三種類の漢字が宛てられる。それぞれの漢字には意味の区別があるが、記は特に区別しないと思われる。三種類の漢字に加え、和語の「いさつ」「いさちる」も使う。「泣く」のあらゆる表現を列挙することによって、誇張している。
 国土まで影響され、山は泣いて枯れ山となり、河海も泣き干上がってしまう。本当に面白く書いたものである。対照的に一書六は、人民の統治に限定している。

【伊邪那岐大御神への審問】
 速須佐之男の体たらくに、ついに伊邪那岐大御神に審問される。国の統治をさぼって泣いてばかりいる理由を問われ「母の国、根之堅洲国に戻りたいから」と答える。
 根之堅洲国は、書紀で「根の国」と書かれるが、明らかに島根郡(現在の松江市)である。第41回で見たように黄泉国の入り口は黄泉比良坂で、その先は島根郡である。いざなぎは大変な思いをしてその穢れた国から逃げ出し、いざなみと永遠の別れを告げてきたのである。
 速須佐之男の答は、そんな伊邪那岐の逆鱗に触れ、そんなことを言う奴は、この世界からやらう(追放する)のみと言われる。「やらいにやらう」と重ねて強調する言い方は現代にも残り「走りに走る」などと言う。
 同じところを、一書六では「可以任情行矣」、要するに勝手にしろと言う。
 対して、書紀・本文は、根国の名前を出すのは、伊弉諾尊の側である。「お前は遠い根国へ行ってしまえ」と言って追放する。書紀の本文は、記や一書と異なり、伊弉冉尊は途中で死なず最期まで伊弉諾尊と一緒だが、根の国が忌むべき地域であったことだけは共通である。
 島根を含む出雲地域は、最終的には大国主の命に譲ってもらうが、倭国にとってはかつて長い戦争をした憎むべき相手であった。
 なお、記では伊邪那岐の命は、天照大御神を生んだことにより、伊邪那岐大御神に昇格する。

【速須佐之男の「母」】
 「妣」は、特に死んだ母を指す場合がある。
 しかし、速須佐之男はいざなぎが鼻を濯いで生まれたのであるから、もともと母はいない。だから母・いざなみの国へ行きたいと言うのは辻褄が合わない。厳密に言えば、複数の神話を繋いだことにより綻びを生じた。しかし普通の読者はこんな意地悪は言わずに、それでも潜在的には母なのだろうと何となく納得するのである。

【根之堅洲國】
 「島根」は地名由来辞典によれば、県成立時の県庁所在地であった郡名「島根郡(現在の松江市)」に由来する。 『藤原宮木簡』に「嶋根郡」とあり、『和名抄』に「島根郡」の名が見られるという。

【伊邪那岐大御神の引退】
 記では、いざなぎが活動を終えたあとは「淡海の多賀に坐す」とある。   
 「淡海」については藤原宮(709年完成)の時期の木簡に、「淡海」と読めそうな字のほか「近淡」と読めるものがあるという。かつて、琵琶湖を「近淡海」(ちかつあはうみ)、浜名湖を「遠淡海」(とほつあはうみ)と言い、それぞれ「近江」「遠江」の国名の元になったという。 単に「淡海」と言えば、近淡海を指す。現在の多賀大社は滋賀県犬上郡多賀町にある。
 一方、書紀は記と異なる。伊弉諾尊の引退の地は「構幽宮於淡路之洲」(淡路の州(しま)に幽宮(かくれのみや=神霊が人前に示現することなく永久に鎮まる宮)を構ふ)としている。
 書紀には「亦曰」として、これまでに十分なはたらきをしたので「登天報命、仍留宅於日之少宮矣」(天に昇りて命に報ひ、日の少宮(わかみや)に仍(したが)ひ留むのみ) つまり天に昇って復命し、天照大神に従い小さな宮に留まった、という別の話も載せている。
 記の「近江の多賀」は、記の執筆時点で既にあった近江国多賀の宮(現在の多賀大社)の起源譚(始まりの謂れを説明)だと考えられる。
 実は淡路島にも「多賀」の地があり、伊弉諾神宮が存在する。だから、実は記紀以前の古い話では、引退の地は書紀の「淡路の州」の方であって、記はそれに細工して、滋賀県多賀大社の起源譚に書き換えたと考えられる。つまりもともとは「淡海」は、「阿波の海」だったのである。
 その根拠は、物語に出てくる地名にある。天から降りたいざなぎ・いざなみの不完全な2人目の子は「淡嶋」であった。産み直したのは最初に「淡道之穗之狹別嶋」、そして「伊豫之二名嶋」(=四国)、吉備児島、小豆島など淡路島の周辺が多い。またいざなぎが禊をした海は「阿波岐原」である。だから、もともといざなみ・いざなぎの話は、淡路島周辺が舞台だったと思われる。

【一書六】
 一書六は、記から事実経過だけを取り出し、冷静に書いている。ただし、月読尊と素戔鳴尊が統治を命じられた範囲は、他の書とは異なる。

已而伊弉諾尊、勅任三子曰、
已(すで)にして[而]伊弉諾尊、三子(みはしらのみこ)に勅任(おほせごと)したまひて曰(のたま)はく、
天照大神者、可以治高天原也。
天照大神は、以ちて高天原を治む可し。
月讀尊者、可以治滄海原潮之八百重也。
月読尊は、以ちて滄(あを)海原(うなばら)の潮(うしほ)之(の)八百重(やほつへ)を治む可し。
〔大潮・小潮が月の満ち欠けと密接な関連があることが、古代から広く認識されていたことが伺われる〕2021.2.7付記
素戔鳴尊者、可以治天下也。
素戔鳴尊は、以ちて天下(あめのした)を治む可し。
是時素戔鳴尊、年已長矣。
是の時素戔鳴尊、年已(すで)に長し。
復生八握鬚髯。雖然不治天下、常以啼泣恚恨。
復た八握(やつかの)鬚髯(ひげ)生(お)ひき。雖然(しかれども)天下(あめのした)を不治(をさめ)ず、常に以ちて啼泣(な)き恚恨(うら)みき。
故伊弉諾尊問之曰、汝何故恆啼如此耶。
故(かれ)伊弉諾尊之に問ひて曰(のたま)ひしく「汝(いまし)何故(ゆゑ)に恒(つね)に此の如く啼(な)くや」とのたまひき。
對曰、吾欲從母於根國、只爲泣耳。
対(こた)へて曰(まを)ししく「吾(われ)根の国にて母に従はむと欲(おも)ひまつりて、只(ただ)泣くを為すのみ」とまをしき。
伊弉諾尊惡之曰、可以任情行矣、乃逐之。
伊弉諾尊之(こ)を悪(にく)みて曰(のたま)ひしく「情(こころ)の任(まにまに)以ちて行く可し〔=勝手に行けばいい〕」とのとまひき。乃(すなは)ち之を逐(やら)ひき〔=追い払った〕
 …[形]あおい
 天下(あめがした)…地上の世界。葦原中国。
 …[動]いか-る。恚恨=うらみ
 …[名]ひげ。あごひげ。
 …[名]ひげ。ほおひげ。

【書紀・本文】
此神、有勇悍以安忍。且常以哭泣爲行。故令國內人民、多以夭折。復使青山變枯。
 此の神、勇(たけ)く悍(あら)く有るを以ちて安忍(あむにむ〔=残虐な行いを平気でする〕)なり。且(また)哭(な)き泣(いさち)るを以ちて行ひ為(た)り。故(かれ)国内人民(くぬちのあをひとくさ)をしてを以ちて多(さはに)夭折(えうせつ〔=早逝〕)せ令(し)めき。復(ま)た青(あを)山をして変枯(へむこ)せ使(し)めき。
故其父母二神、勅素戔鳴尊、汝甚無道。不可以君臨宇宙。固當遠適之於根國矣、遂逐之。
 故(かれ)其の父母二(ふたはしら)の神、素戔鳴尊に勅(のたま)ひしく「汝(いまし)甚(はなは)だ無道(あづきな)し。以ちて宇宙(りくがふ)を君臨(す)べる不可(べくもあら)ず。固く当(まさ)に遠(とほ)く之れ根の国に適(ゆ)く矣(のみ)」とのたまひき。遂(つひ)に之を逐(やら)ひき〔=追放した〕
 …[形]あら-し。勇ましい。凶暴なさま。
 安忍…残虐な行いを平気でする。
 …[動]ゆく。到る。かなう。
 宇宙…①ひさし(庇)とはり(梁) ②空間と時間 ③天地。世界。
 君臨…君主として国を治める。
 この部分は、原文の方が分かりやすい。安忍、夭折などは和語への置き換えが難しかったので、音読みとした。これらは漢字表現であることが、意味を明確にする。
 なお、岩波文庫版『日本書紀』は「安忍」を「いぶり」、「夭折」を「あからさまにしぬ」と仮名をふっているが、これで意味が充分に伝わらない。
 「宇宙」をどう読むかも問題である。大日孁貴(おほひるめのむち=天照大御神)は天に送られて「授以天上之事」とされたので、残りの半分の「天下」を素戔嗚に任したとして「宇宙=あめがした」とする解釈がある。これは一見「論理的」であるが、天上を除いた残りの「天下」だけでは「宇宙」の語感に合わない。古語辞典を見ると、見出し語に単独の「宙」はあり、「ちう」と読む用例があるが、見出し語に「うちう」はない。 上代の和文に「宇宙」は珍しい。書紀は三例のみ。記・万葉集は皆無である。古代中国では『荀子』(BC475~BC221)以来、漢代までに49例あった。(『中国哲学書電子化計画』で検索)古代中国では一般的な普通名刺だが和文には珍しいので、書紀の中国人スタッフが使ったのであろう。 強いて言えば、三次元の直交座標と同じ発想の「六合」の方が「宇宙」に近いと思われる。「六合」は書紀に五例、記の序文に一例で、古語辞典にも「りくがふ」という見出し語がある。古代中国でも普通に使われる。
 さて、素戔嗚の乱行の捉え方は書紀・本文の方が政治的である。乱暴で情緒不安定な君主は、少し気に入らないことがあれば人民を簡単に処刑し、命を奪う。その結果働き手が不足し山林・田畑も荒れる。何か、現代のどこかの国の若い独裁者を連想させる。記では、泣いてばかりの速須佐之男への同情が感じられるが、書紀では全く容赦をしない。言外に君主の心得を語っているようである。
 また、いざなみの生涯については、記や一書と根本的に異なる。素戔嗚ら三神は「父母二神の子である」とする。つまり、いざなみが黄泉の国の大神になった部分はなかったことにされる。ずっと古い時代、対立していた出雲勢力への憎悪も、表面上は覆い隠された。 国生みの母を貶める矛盾も解消された。ただ、追放先の名称「根国」だけはそのままである。さらに、記や一書には、黄泉と禊の話は依然として残されている。全く「頭隠して尻隠さず」である。

【一書十一】
 珍しく、月読命が活躍するが、天照大御神のご機嫌を損ねてしまった。
一書曰。伊弉諾尊、勅任三子曰、
 一書(あるふみ)に曰(い)ふ。伊弉諾尊、三子(みはしらのみこ)に勅(おほせごと)〔=上から命じる〕任(おほ)せて曰(のたま)ひしく、
天照大神者、可以御高天之原也。月夜見尊者、可以配日而知天事也。素戔鳴尊者、可以御滄海之原也。
 「天照大神、以ちて高天原を御(しらしめ)す〔=支配す〕可し。月夜見(つくよみ)の尊、以ちて日に配(あ)へて〔天照大御神の配下で〕天(あめ)の事を知らしめす〔=統治す〕可し。素戔鳴(すさのを)の尊は、以て滄海(あをうみ)〔=蒼海〕之原を御す可し。」とのたまひき。
既而天照大神、在於天上曰、聞葦原中國有保食神。宜爾月夜見尊、就候之。
 既に天照大御神は天上(あめがうへ)に在りて、曰(のたま)ひしく「葦原中国(あしはらのなかつくに)〔=地上の国土〕に保食神(うけもちのかみ)有りやと聞く。宜(よろし)く爾(ここに)月夜見尊、之(こ)に就(つ)き候(さぶら)ふべし(=偵察せよ)」とのたまひき。
月夜見尊、受勅而降。已到于保食神許。
 月夜見尊、勅(おほせごと)を受(おほ)せて降(くだ)りて、已(すで)に〔間もなく〕保食神(うけもちのかみ)の許に到りたまひき。
保食神、乃廻首嚮國、則自口出飯。
 保食神、乃(すなはち)首を廻(めぐら)して国(くぬか)に嚮〔=向〕けて、口より飯(いひ)を出(い)づ。
又嚮海、則鰭廣鰭狹亦自口出。
 又海に嚮(む)けて鰭広(はたのひろもの)鰭狭(はたのさもの)〔=さまざまな魚〕をまた口より出づ。
又嚮山、則毛麁毛柔亦自口出。
 又山に嚮(む)け口より毛麁[=粗](けのあらもの)毛柔(けのにこもの)〔=さまざまな獣〕を亦口自り出づ
夫品物悉備、貯之百机而饗之。
 夫(それ)品物〔=料理〕悉く備へて、百机(ももつくゑ)〔=多くの食卓〕に貯へ之を饗(あ)へり〔もてなす〕
是時、月夜見尊、忿然作色曰、穢哉、鄙矣、寧可以口吐之物、敢養我乎。廼拔劒擊殺。
 是の時、月夜見尊は忿然(いかりて)色をなして曰(のたまは)く「穢(きたな)しや、鄙(ひな)なりや〔文明的でない〕、寧(いづくにそ)口吐(は)きし物を以ちて、敢へて我を養ふ〔=下の者が上の者に飲食を提供する〕可しや。」とのたまひて、廼(すなわ)ち剣(つるぎ)を抜きて撃〔=討〕ち殺しき。
然後、復命、具言其事。
 然る後、復命(かへりごとまを)して具(つぶさに)其の事を言(まを)しき。
時天照大神怒甚之曰、汝是惡神、不須相見。
 時に天照大御神、之に怒り甚だして、曰(のたま)はく「汝(いまし)是悪(にくき)神なり。相(あひ)見(まみ)えること不須(もちゐず)。
乃與月夜見尊、一日一夜、隔離而住。
 乃(すなは)ち月夜見尊と、一日(ひとひる)一夜(ひとよ)隔(へだ)ち離れて住まむ。」〔=もうお前を見たくないから昼夜に別れて住もう。〕とのたまふ。
是後、天照大神、復遣天熊人往看之。是時、保食神實已死矣。
 是の後、天照大神、復た天熊人(あめのくまひと)を遣はして往かしめて之を看せしめき。是の時、保食神は実(まこと)に已(すで)に死せり。
唯有其神之頂、化爲牛馬。顱上生粟。眉上生蠒。眼中生稗。腹中生稻。陰生麥及大小豆。
 唯、其の神の頂(いただき)有りて化(かは)りて牛馬と為りて、顱(あたま)の上に粟(あは)生(な)りて、眉の上に蚕(こ)生りて、眼の中に稗(ひえ)生りて、腹の中に稲生りて、陰(ほと)に麦及(と)大小豆(まめ・あづき)生りぬ。
天熊人悉取持去而奉進之。于時、天照大神喜之曰、是物者、則顯見蒼生、可食而活之也、
 天熊人は悉く取り持ち去りて之を進め奉(たてまつ)る。時に天照大神之を喜び曰(のたまは)く「是の物は、則(すなは)ち顕見(うつし)き蒼生(あをひとくさ)、之を食らひ活く可し。」〔=人民が食糧として、生きるべきである〕
乃以粟稗麥豆、爲陸田種子。以稻爲水田種子。又因定天邑君。
 乃ち粟稗麦豆を以ちて陸田[=畑]種子(はたつもの)と為(し)て、稲を以て水田種子(たなつもの)と為て、又因りて天邑君(あまのむらきみ)を定めき。
卽以其稻種、始殖于天狹田及長田。其秋垂穎、八握莫莫然、甚快也。
 即ち其の稲種を以って、始めて天(あま)の狭田(さた)及(と)長田(ながた)〔細長い田〕とに殖(う)ゑて、其の秋に穎(ほ)〔=穂〕を垂れて、 八握〔握った手の指四本の幅程の長さ〕(やつかに)漠漠〔草木の茂ったさま、静かなさま〕然(しげりて〔古訓:しなりて〕)、甚だ快し。
又口裏含蠒、便得抽絲。自此始有養蠶之道焉。
 又口裏に蚕(こ)を含(くく)み、便(すなわ)ち糸を抽(ひ)く、此れ自(よ)り養蚕(かひこ)の道始めて有り。〔=このとき初めて養蚕が起こった〕
保食神、此云宇氣母知能加微。顯見蒼生、此云宇都志枳阿烏比等久佐。
 保食神、此れ「うけもちのかみ」と云ふ。顯見蒼生、此れ「うつしきあをひとくさ」と云ふ。
 記では同じ起源を持つと思われる神話が、すさのおが追放される場面に挿入されている。うけもちの神に当たるのは、「おほげつひめの神」である。 記から対応する部分を抜き出しておく。詳しくは後ほどの回で検討する。
又食物乞大氣津比賣神。爾大氣都比賣、自鼻口及尻、種種味物取出而、種種作具而進時、
速須佐之男命、立伺其態、爲穢汚而奉進、乃殺其大宜津比賣神。
故、所殺神於身生物者、於頭生蠶、於二目生稻種、於二耳生粟、於鼻生小豆、於陰生麥、於尻生大豆。
故是神產巢日御祖命、令取茲、成種。

まとめ
 古事記は各地の神話のパッチワークであり、その結果所々に綻びがある。
 それでは原資料は、どうやって収集されたか。各地から木簡を提出させたのだろうか。あるいは語り部を都に呼んだのだろうか。 序文を見ると稗田阿礼の任務は、まず「帝紀」「本辞」に当たることである。阿礼の作業の最初は「目で見る」とあるから、木簡による可能性が高い。 また阿礼は言語的才能の持ち主で、漢文にも精通していたと想像される。
 さて、書紀にはたくさんの「一書」があるので編集の過程を探ることができる。特に注目されるのが、次生海の段の一書六である。この一書は、ほぼ純正な漢文によって資料の骨格を確保する。これは中国人スタッフによるかも知れない。 それは、またどれかの「一書」に繋がるのだろうか。文体の特徴を見れば追って行けるかもしれない。
 そこから、脚色して記にもっていく文学的才能の持ち主はだれか。疑問は尽きないが、ひとまず「すさのをが泣いてばかりいて国を治めない」場面で「一書六」「記」「書紀本文」を比較しよう。
 一書六では、「常以啼泣恚恨。」たった6文字だが、これだけで充分である。
 それが記では脚色され、「啼きいさち、山が泣き枯山になり、河海が泣き水が枯れる。」当時の人々に身近であっただろう和語「いさつ」を用い、さらに「その影響で国土全体も泣き山も枯れ、川海も涸れる」という予想外の展開をする。
 ところが、書紀・本文は対照的である。「有勇悍以安忍。且常以哭泣為行。故、令国內人民多以夭折。復、使青山変枯。」 すなわち「乱暴で安忍(=残虐な行いを平気でする)にして、多数の人民を若くして死なせる。また緑の山を枯れさせる。」は、農業政策の失敗による餓死とも取れるし、気まぐれな刑罰とも取れる。その結果国土は荒廃する。ここに描くのは、典型的な暴君像である。 書紀の基本的な性格は官僚のための歴史書であるが、その為政者としての視点がこんなところにも表れていると言えよう。
 ここで、改めて記の性格を考えてみたい。記は、一部万葉仮名を導入して、民衆が耳から聞けば口語として理解できる言葉である。 ただし、一般の民衆に記の写本が手に入るとは思えないし、字も読めないだろう。 実際には、村の長老あるいは、学のある者が近所の住民、特に子どもを集めて写本を読み聞かせる様子が想像出来る。 読み手は平易な漢文を読み下す程度の力を持ち、音読みする部分はいちいち「注」で示されるから、そのまま声に出して読めば、村人に分かる言葉で伝えることができた。
 当時の時代背景として、天武天皇は威力を増す大国、唐の圧力をひしひしと感じ、対抗するためには集権国家の構築が差し迫った課題であった。その基盤となるのが、精神の統合である。そのため書紀の編纂して天皇の歴史と系図を定め、各氏族は途中の枝分かれとしてその出自を明確にする。つまり全氏族を天皇の親戚とした。同時に民衆レベルでも国の形を浸透させなければならない。 
 記の目的がまさにそれで、「人民の精神的統合」である。この国は、頂点に天照の血統を連綿と受け継ぐ天皇がいて、民草はその恩恵を受けるとともに、租庸調(納税、兵役)の義務がある。それを民衆レベルまで徹底しなければならない。 そのためには、村人が興味をもたなければどうしようもない。
 そのためにした工夫が、こんなに面白い物語を散りばめたことであった。
 21世紀になり、古事記がまた関心を引いている。貴重な民族の遺産であるから、時代を超えた面白さを存分に味わうと同時に、時代の背景を理解することも大切である。

2014.01.08(水) [045] 上つ巻(建速須佐之男命1)  
故於是 速須佐之男命言 然者請天照大御神將罷乃參上天
時山川悉動國土皆震

故(かれ)、於是(ここに)速須佐之男(はやすさのを)の命(みこと)言はく「然者(しかくあれば)天照大御神に、[将に]罷(まか)むを請(こ)ひて、乃(すなは)ち天(あま)に参上(まゐのぼ)らむとす。」といひき。
時に山川悉(ことごと)く動(とよ)みて、国の土(つち)皆震(なゐふ)りき。


爾 天照大御神聞驚 而詔 我那勢命之上來由者 必不善心欲奪我國耳
卽解御髮 纒御美豆羅而

爾(ここに)天照大御神聞こし驚きて[而]詔(のたま)ひしく「我が那勢(なせ)の命(みこと)之(これ)上(のぼ)り来る由(よし)者(は)、必ず不善(よからぬ)心にて我(わ)が国を奪はむと欲(ほり)する耳(のみ)。」とのたまひき。
即(すなは)ち御髮(みかみ)を解き、御(み)美豆羅(みづら)を纒(まと)ひたまひき[而]。


乃 於左右御美豆羅 亦於御𦆅 亦 於左右御手
各纒持八尺勾璁之五百津之美須麻流之珠而【自美至流四字以音下效此】
曾毘良邇者負千入之靫【訓入云能理下效此 自曾至邇以音】附五百入之靫

乃(すなは)ち、左右(ひだりみぎ)の御美豆羅於(に)、亦(また)御(み)𦆅(かづら)於(に)、亦左右の御手(みて)於(に)
各(おのもおのも)、八尺(やさか)の勾璁(まがたま)之(の)五百津(いほつ)之(の)美(み)須(す)麻(ま)流(る)之(の)珠(たま)を纒(まと)ひ持ちて[而]【「美」自り「流」至(ま)で四字音(こゑ)を以(もちゐ)る。下つかた此に効(なら)ふ。】、
曽(そ)毘(び)良(ら)邇(に)者(は)千(ち)入(のり)之(の)靫(ゆき)[=矢入れ]を負(お)ひて【「入」を訓(よ)み能(の)理(り)と云ふ。下つかた此れに効ふ。「曽」自り「邇」至(ま)で音(こゑ)を以る】、五百入(いほのり)之靫(ゆき)を附(つ)けたまひき。


亦所取佩伊都【此二字以音】之竹鞆而弓腹振立而
亦、伊(い)都(つ)【此の二字音を以る】之(の)竹鞆(とも)を[所]取り佩(は)かしたまひて[而]、弓腹(ゆはら)振り立てて[而]、

堅庭者於向股蹈那豆美【三字以音】如沫雪蹶散 而伊都【二字以音】之男建【訓建云多祁夫】
堅庭(かたには)者(は)向股(むかもも)於(に)踏み那(な)豆(づ)美(み)【三字、音を以る】沫(あは)雪(ゆき)の如(ごと)蹶散(くゑはららかし)[而]伊(い)都(つ)【二字音を以る】之(の)男建(をたけ)ぶ【「建」を訓みて多(た)祁(け)夫(ぶ)と云ふ。】。

蹈建而待問何故上來
踏(ふ)み建(たけ)びて[而]待(ま)ち「何故(なにゆゑ)に上(のぼ)り来(きた)るか。」と問ひたまひき。

爾速須佐之男命答白
僕者無邪心 唯大御神之命以問賜僕之哭伊佐知流之事故白

爾(ここに)速須佐之男命答へて白(まを)さく
「僕(やつかれ)者(は)邪(よこしま)なる心無(な)し。唯(ただ)[伊邪那岐]大御神之(の)命(みこと)の問ひ賜(たま)ひしを以ちて、僕(やつかれ)之(の)哭(な)き伊佐知流(いさちり)し[之]事(こと)の故(ゆゑ)を白(まを)さく、


都良久【三字以音】僕欲往妣國以哭
爾大御神詔汝者不可在此國而神夜良比夜良比賜
故以爲請將罷往之狀參上耳無異心

『都(つ)良(ら)久(く)【三字音を以ちゐる】、僕(やつかれ)は妣(はは)の国に往(ゆ)かむと欲(おも)ひて以ちて哭くのみ。』とまをしき。
爾(ここに)大御神詔(のたま)はく『汝(いまし)者(は)此の国に在ら不可(じ)。』とのたまひて[而]、神夜良比夜良比(かむやらひにやらひ)賜(たま)ひき。
故(かれ)以為(おも)へらく『将(まさ)に罷(かへ)り往(ゆ)かむとする[之]状(かたち)を請(つ)げむ』とおもへりて、参上(まゐのぼ)りし耳(のみ)。異(け)なる心無し。」


爾天照大御神詔然者汝心之淸明何以知
爾(ここに)天照大御神詔(のたま)はく「然者(しかくあれば)汝(いまし)が心之(の)清く明(あか)きなるは何を以ちて知るや」とのたまひて、

於是速須佐之男命答白各宇氣比而生子【自宇以下三字以音下效此】
於是(ここに)速須佐之男の命、答へて白(まを)さく「各(おのおの)宇(う)氣(け)比(ひ)に[而]子を生(な)さむ。」とまをしき【「宇」自(よ)り以下(しもつかた)三字、音(こゑ)を以る。下つかた此に効ふ】。

 これにより、速須佐之男(はやすさのを)の命(みこと)が言いますには「それなら、天照大御神に今すぐ戻りたいと申し上げるために、天に参上しよう。」 時に山、川はことごとく動き、国土はみな震えました。
 天照大御神これを聞き、驚きおっしゃいますには「わが弟が上って来る理由に、絶対に善い心はなく、ただ私の国を奪いたいのみ。」 直ちに、御髮を解き、御(おん)鬟(みずら)をまといました。
 そして左右の御鬟に、また御鬘(かづら)に、また左右の御手に、 それぞれ、「八尺の勾玉の五百津の御統の珠」(やさかのまがたまのいおつのみすまるのたま)をまとい持ち、 背後には千本入りの靫(ゆき;矢筒)を背負い、さらに五百本入りの靫を付けました。
 また矢を取り、御稜威(みいつ)の竹鞆(とも;左手の装具)を装着し、弓を振り立て、
 堅い庭を足で踏んだところ太腿まで足を取られるも、沫雪(あわゆき)のように蹴散らし、御稜威の雄叫びを上げられました。
 足を踏みつけ、勇ましく待ちかまえ、「どうして昇って来たのか」と問われました。
 速須佐之男命が答えて申し上げるに「私めに、よこしまな心はありません。 ただ伊邪那岐大御神が私への命(めい)を問いただされたので、私めが泣きじゃくり、『辛く、私めは亡き母の国に行きたいので泣いたのです。』と申し上げました。 大御神は『お前はこの国に、決していてはならない』と仰られ、かくて神払いなされました。 この様に、今すぐにでも戻りたい気持ちを申し上げるために、参上しようと思うのみです。異心はございません。」
 天照大御神は「それなら、お前の心の清明であることを、どうやったら知ることができるのか。」と仰られました。
 これに速須佐之男の命は「それぞれ誓ひ(うけひ;神意を問う占い)を受け、子を生みましょう。」とお答え申し上げました。


…[動]やめる。(古訓) まかる。まかぬ。しりそく。
なゐ…[動]地震。
𦆅、鬘…かづら。蔦などを頭部に巻いた飾り。
(まと)-ふ…[他]巻きつける。身につける。
…[名]たま。
…[動]=帯。お-ぶ。身につける。
御統(みすまる)…[名]多くの珠を糸で貫いて輪にした装身具。
…[名]矢を入れる用具。うつぼ。ゆぎ。
背(そびら)…[名]背中、うしろ
-のり…[接尾]靫に入れる矢を数える量詞。
(かた)-し…[形]しっかりしていて崩れない。
(には)…[名]物事(戦争、神事、農耕など)が行われる場所。
向か股(もも)…[名](合わさった腿から)腿
=踏…[動]ふ-む。
泥(なづ)-む…[動]行き悩む。
(あわ)…[名]あわ。しぶき。
(とも;国字)…[名]弓を射るとき弦から左手を保護する革製の防具。
弓腹(ゆはら、ゆばら)…[名]弓の上端の部分。一説に弓の中央の部分とも。
稜威(いつ)…[名]激しく強い威力があること。神聖で厳粛なこと。
…[動]つまづく。走る。
たけ-ぶ…[自動]勇ましく振る舞う。
辛(つら)-し…[形]苦痛だ。恨めしく耐えがたい。
参上(まゐのぼ)-る…[自動]「のぼる」の謙譲語。高貴な人の所へ行く。
誓(うけ)-ふ…[自動]誓(うけ)ひを行って神意を問う。

【我那勢(あがなせ)の命(みこと)】
…女性から夫、男の兄弟に向って親しみをこめて呼ぶ。
 従って、「兄」に限らず「弟」もあり得る。ただ、実際にはこの時点で敵対関係である。
 書紀では「弟」としている。ちなみに、この時代の「弟」は「妹」の意味もある。 

【天照大御神の性別】
 書紀では、素戔嗚の命に「姉」と呼ばれる。「姉」は、ときに母の意味で用いることもあるが、どちらにしても女性である。
 記で「姉」と呼ぶ場面はないが、天照大御神は速須佐之男命を「我那勢の命」と呼ぶ。「せ」は女性から夫や兄弟などの親しい男性を呼ぶ場合が多いが、男性から兄弟を呼ぶ場合もある。
 「髪を解いて鬟(みずら)をまとう」は「男装する」意味だと見られる。

【書紀・本文;大日孁貴の独り言の挿入】
 書紀では、大日孁貴(おおひるめのむち)の考え方を細かく説明している。

吾弟之來、豈以善意乎。謂當有奪國之志歟。夫父母既任諸子、各有其境。如何棄置當就之國。
吾が弟(おと)之れ来(きた)る、豈(あに)善き意(こころ)以ってす乎(や)。 当(まさ)に国奪ふ[之]志(こころざし)有りと謂ふ歟(かな)。夫(そ)れ父母既に諸(もろ)子に任せ、各(おのおの)其の境有り。如何(いか)に当(まさ)に之の国就くべくを棄て置くや。
 〔私の弟が来る、どうして善い心であるものか。父母[=伊弉諾・伊弉冉]は既に子供ら(大日孁貴・月神・素戔嗚尊)に任せ、境界がある。どうして、今にもこの国に迫ろうとするのを捨てておけるか。〕
 国同士の領地争いのような書き方がされる。これは、書紀の根本にある政治性によるのかも知れない。

【鬟(もとどり)】
書紀・本文;乃結髮爲髻、縛裳爲袴
(もとどり)…髪を頭の上に集めて束ねた所。

 これだけでは「」(みずら)を指すか否かは不明である。ただし、「裳を縛り袴と為す」として、裳(スカート状)を縛って、袴(はかま)にしたと書き、男装を暗示する。

【八尺勾璁之五百津之美須麻流之珠】
八尺勾璁之五百津之美須麻流之珠〔やさかのまがたまのいほつのみすまるのたま〕
書紀・本文;八坂瓊之五百箇御統〔やさかにのみすまる〕
 書紀の「八坂」によって「尺」は「さか」と読まれたことが確認できる。記紀の時代の「8尺」は1.4mと言われるが、それにしても相当の長さである。
「八」は吉数とであり、実質的に「長い」を表現すると思われる。同様に「五百津」は500個というより、「数多い」の意味である。 ここには古い吉数「五」を残す。この装飾品が実際どのようなものかは分からない。想像すれば、「サファイヤのような宝石に紐を通して多数連なっており、宝石には所々に大きめの勾玉が含む。」ものか。 三種の神器のひとつ「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)とは、この時点で直接の関係はないが、神聖な宝であることを暗示する。
 記では、5本の八尺勾璁之五百津之美須麻流之珠を、左右の𦆅(かずら;植物の蔓による髪飾り)、両腕につける。それぞれから、後に5人の男子が生まれる。
 それに対して、書紀では「〔もとどり〕〔かずら〕及腕」と、つけた場所をまとめて書いている。

【鞆】(とも)
 稜威の竹鞆(とも)を取り佩(は)かして弓腹(ゆはら)を振り立てぬ。
 左腕に竹鞆を装着するのなら、次の「弓腹を振り立てる」は、弓を立て、矢を引いて構える動作を意味する。
 この部分を書紀・本文と比較してみよう。 臂著稜威之高鞆、【稜威、此云伊都[いつ]。】振起弓彇、急握劒柄

 …=腕。
 …ゆはず。弓の両端の反り返った部分。
 「腕に稜威(いつ;神聖で厳粛なこと)の高鞆を装着し、弓を振り起す。」は、同じく弓を構えたと解釈できる。但し、次の「急いで剣の柄を握る」は弓を構えながらでは不可能である。
 なお「鞆」には稜威があるものとされていたらしい。

【堅庭者於向股蹈那豆美】
 原文は、意味を取るのに苦労する。取り敢えず読み下してみる。
堅き庭は向股(もも)踏み泥(なづ)み沫雪(あわゆき)の如蹶散(くゑはららかす)。稜威の男建(をたけ)ぶ。
 「散」のよみ「くゑはららかす」は、書紀で示された「蹴散」のよみからとった。
 「泥む」の意味は、「物事に執着する」で、「暮れなずむ」=日が暮れそうでなかなか暮れない、などの使い方がある。とすると、足が柔らかい土にはまって動かないという意味になる。
 私は初めは「堅」「向」に注目し、主語は速須佐之男であって、天照大御神の側が堅く防御した庭に踏み込んだと考えた。
 しかし、足が腿まで沈んでも、土を沫雪のように蹴散らしてしまうのであるから、防御を突破した速須佐之男が、一度は優勢になってしまう。
 そこで、比較する材料を書紀の一書に探したが、予想した一書ではなく、本文の方にあった。
蹈堅庭而陷股、若沫雪以蹴散、【蹴散、此云倶穢簸邏邏箇須〔=くゑはららかす〕。】
…=陥 沈む。埋まる。深く入る。

奮稜威之雄誥、【雄誥、此云鳥多稽眉[をたけび]。】發稜威之嘖讓、【嘖讓、此云舉廬毗〔舉=挙、毗=毘で「こらび」〕。】。
 動詞「陥」を使うことによって「堅き庭を踏み、股まで陥没する」と、疑問の余地なく読める。それなら主語は大日孁貴で、「堅き庭」は固い土、「向股」は辞書通り「向か股=両腿」となる。
 「庭」は天の宮殿の前の広場のような所であろうか。その地面は堅いが、天照大御神がどんと足で踏んだら、すごい勢いで腿までめりこんでしまった。 しかし、どうということもなく、土を沫雪(雪しぶき)のように蹴散らした。記の「なづむ」は「足が抜けなくて困った」とも読めるので、速須佐之男が行く手を阻まれたと解釈しそうになったのである。
 「たけぶ」は勇ましくふるまうという意味だが、「をたけび」は、名詞「雄叫び」という解釈でよさそうである。すなわち「稜威の雄叫びを奮(ふる)ひ」
 「こらび」は(叱る言葉=現代の「こらっ」)、御稜威の一喝である。すなわち「稜威のこらびを発(はな)つ。」
 という訳で、主語は一貫して天照大御神である。男装し、恐ろしい剣幕で待ち構えている。この部分は場面描写であり、もともと天の宮殿の庭の景色など皆目分からないので、読み取るのは大変であった。 たまたま書紀に違う表現で書いてあったから、確定できたのである。
 この情景描写には、思わず引き込まれる面白さがあるが、三本の「一書」何れにもない。記の表現を、ここでは書紀の本文に取り入れたようである。
 この表現を入れた根底には、2世紀末に、女王がまともに統治できない男子王たちを支配下に置いた、民族の古い記憶があるように思えてならない。

【大日孁貴による詰問】
 書紀で、やってきた素戔嗚に「こらっ」と一喝した後は、この一文である。 而俓詰問焉。
「俓」は手許の漢和辞典にもない珍しい漢字である。中華民国の「国際電脳漢字及異体字知識庫」によれば、
…① 同「徑」。小路。② 水的直波。③ 經過。④ 直;直往。⑤ 堅。⑥ 急。⑦ 伎。
 つまり、徑(=径)とほぼ同じである。

 「径」は副詞に「直ちに」という意味があるので、「俓詰問」は「直ちに詰問する」となる。

【以為請将罷往之状参上耳】
 この文は回りくどいが、漢文として文法的に完全に解決したい。
 「以為」は「思う」。その目的語は「請…状」そして「参上」。
 「」は、ここでの意味は「告ぐ」。〔=申し上げる〕
 「」は「まさに~せんとす」。ここでは近い将来に行為をしようとする意思を表す。
 「」は戻る、「往」は行く。「状」は「手紙」とも取れるが、ここでは「かたち」(状況。ようす。ありさま。)だろう。
 副詞「」は動詞句「罷往」を修飾。「将罷往」は名詞節としてし、助詞「之」によって、「状」を修飾。「~状」は「請」の目的語。名詞節「請…状」と名詞節「参上」は並列して「為」の目的語となる。
 「」(~のみ)は語気詞。ここでは限定、あるいは請願。
 以上から、「『将に(今すぐ)罷り往きたい』状(ありさま)を請(つ)げに参上したい。」と思うのみ。
 つまり、「ただただ、戻りたい思いを申し上げるために、お目にかかりたいと考えました」という。

【速須佐之男命[素戔嗚尊]の言い訳】
 記では、速須佐之男命の言い訳は、「自分は母の国に行きたいから泣いていただけなのに、伊邪那岐大御神に追放された。とにかく戻りたいのです。」 つまり、国を治めよという命に応えられなかったので、追放されたという自覚がなく、自分の感情を受け入れよというだけである。
黒心=邪悪な心。赤心=清明な心。
 また、書紀における素戔嗚尊の言い訳は「吾元無黑心。但父母已有嚴勅、將永就乎根國。如不與姉相見、吾何能敢去。是以、跋渉雲霧、遠自來參。不意、阿姉翻起嚴顏。〔私には元々黒心はありません。ただ父母(伊弉諾尊・伊弉冉尊)が、永久に根の国に行ってしまえと厳しく命じられたのです。私は姉上と相見(まみ)えることもせず、どうして去ることができましょうか。〕 ですから雲霧を踏み渡り遠くから参りました。ところが、不意に姉上は態度を変えて、厳しい顔になってしまわれました)
 せめて姉に一目逢ってから根の国に去りたかった。だから戻ってきたのに、なぜそんな怖い顔をするのか。」こちらも自分の感情を一方的に分かってくれというだけである。国を治めることをサボった自覚がない。
 こういう精神構造のまま、国の支配者になろうものなら「安忍」(残虐な行いを平気でする)を為すのである。宗教というより、政治的な分析である。書紀の上代は神話であるが、編集スタッフの政治に関するリアリズムが伺える。

まとめ
 ここで「物語として面白くする」、いわば脚色部分を取り除き、天照大御神と速須佐之男命の骨子だけを取り出してみよう。
 まず、天照大御神が「女神」だったのは、ほぼ間違いない。それに対して男神・速須佐之男命は国の統治をする資質に欠ける。同時に、自分の感情を一方的に理解せよと迫る身勝手な神であった。ここでどうしても気になるのは、44回で取り上げた「安忍」という表現である。即ち、残虐なことを平気でする王であった。 また、対外的には侵略者だと思われていたからこそ、天照大御神は、その襲来を警戒し、武装して待ち構えたのである。
 この話が生まれた根源を探ってみたい。2世紀末まで遡ると、戦争に明け暮れ、国土を荒廃させた男子王を、女王が抑え長い戦乱を終わらせたことがあった。この劇的な事実は人々の記憶に代々残り、女王は死後、神になったと思われる。 女王はすでに生前、「鬼道によって、よく衆を惑わした。」(『魏志倭人伝』による。当時、中国では儒教以外は、すべて邪教扱いされた)
 また、人民に不幸をもたらした男子王たちの人格を、速須佐之男命が代表したと考えることができる。
 しかし、奈良時代はすでに男系の天皇を頂点におく国の仕組みは絶対的であった。従って、地上で女王が男子王たちを屈服させた事実は、(官製の)歴史の枠に収めることはできない。書紀の編集委員はあくまでも天武天皇が目指した「集権国家の確立」という政治的目的に、筋書きを合わせようとする意識が強いから、神の行動にも政治的な発想が散見される。
 けれども、かつて頂点に偉大な女王が君臨したという、民衆に広く残る記憶は消せない。そこで、本当は女子王が地上を支配したのだが、その事実を神代の、天上の出来事に棚上げしたのである。かくて地上にいた女王の記憶は次第に変化して、神代のできごととして語り継がれるようになった。そして、地上は、最初から代々の男子天皇が支配したことにしたのである。
 そんなわけで、2世紀の末に戦争の時代を終結させ、強力な支配を成し遂げた邪馬台国の女王は、長い年月を経て天照大御神に変化し、長く光を放ち続けることとなる。
 もちろん、天照はもともと古代の太陽神であったとする見解も承知している。南方の海洋民族が渡来する以前にあった太陽神が、その後女王への信仰と融合し、同一視されるようになったとも考えられる。

2014.01.12(日) [046] 上つ巻(建速須佐之男命2)  
故爾各中置天安河而宇氣布時
天照大御神先乞度建速須佐之男命所佩十拳劒
打折三段而奴那登母母由良邇【此八字以音下效此】
振滌 天之眞名井而 佐賀美邇迦美而【自佐下六字以音下效此】

故(かれ)爾(ここに)各(おのもおのも)天安河(あめのやすのかは)を中に置きて[而]、宇気布(うけふ)時、
天照大御神(あまてらすおほみかみ)、先(ま)ず、建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)[所]佩(みはかしの)十拳剣(とかつのつるぎ)度(わた)しまつりたまへと乞(こ)ひたまひて、
三段(みつをり)に打(う)ち折(を)りて[而]、奴(ぬ)那(な)登(と)母(も)母(も)由(ゆ)良(ら)邇(に)【此の八字(やつのじ、やな)音(こゑ)を以(もちゐ)る。下つかた此に効(なら)ふ。】、
天之真名井(あめのまなゐ)に振り滌(すす)ぎて[而]、佐(さ)賀(が)美(み)邇(に)迦(か)美(み)て[而]【「佐」自(よ)り下六字音(こゑ)を以る。下つかた此に効ふ。】、


於吹棄氣吹之狹霧所成神 御名 多紀理毘賣命【此神名以音】亦御名謂 奧津嶋比賣命
吹き棄(う)つる気吹(いぶき)之(の)狭霧に[於]、成りまさしし[所]神は、御名を多紀理毘売命(たきりびめのみこと)といひて【此の神(かむ)名(な)、音を以る。】、亦(また)の御名(みな)を奧津嶋比売命(おきつしまひめのみこと)と謂ふ。

次 市寸嶋/上/比賣命亦 御名謂狹依毘賣命
次に市寸嶋/上/比売命(いちきしまひめのみこと)といひ、亦の御名を狭依毘売命(さよりびめのみこと)と謂ふ。

次 多岐都比賣命【三柱此神名以音】
次に多岐都比売命(たきつひめのみこと)といふ。【三柱(みはしら)。此の神名音を以る。】

速須佐之男命 乞度 天照大御神 所纒左御美豆良 八尺勾璁之五百津之美須麻流珠而
奴那登母母由良爾 振滌 天之眞名井而 佐賀美邇迦美而
於吹棄氣吹之狹霧 所成神 御名 正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命

速須佐之男(はやすさのを)の命、天照大御神の左の御(み)美豆良(みづら)に纒(まと)はしし[所の]八尺勾璁之五百津之美須麻流珠(やさかのまがたまのいおつのみすまるのたま)を度(わた)したまへと乞ひまつりて[而]、
奴那登母母由良爾(ぬなとももゆらに)、天之真名井(あめのまなゐ)に振り滌(すす)ぎ[而]佐賀美邇迦美(さがみにかみ)[而]、
吹き棄(う)つる気吹(いぶき)之(の)狹霧に[於]、成りましし[所の]神、御名を正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命(まさかつあかつかつはやひあめのおしほみみのみこと)といふ。


亦乞度 所纒右御美豆良之 珠而 佐賀美邇迦美而
於吹棄氣吹之狹霧 所成神 御名 天之菩卑能命【自菩下三字以音】

亦(また)、右の[所]御(み)美豆良(みづら)に纒(まと)はしし[之]珠(たま)を度(わた)したまへと乞ひまつりて[而]佐賀美邇迦美(さがみにかみ)て[而]、
吹き棄(う)つる気吹之狹霧に[於]、成りましし[所の]神、御名を天之菩卑能命(あめのほひのみこと)【「菩」自(よ)り下つかた三字音を以る。】といふ。


亦乞度 所纒御𦆅之珠而 佐賀美邇迦美而
於吹棄氣吹之狹霧 所成神 御名 天津日子根命

亦、[所]御𦆅(かづら)に纒はしし[之]珠を度したまへと乞ひまつりて[而]佐賀美邇迦美(さがみにかみ)て[而]、
吹き棄(う)つる気吹之狭霧に[於]、成りましし[所の]神、御名を天津日子根命(あまつひこねのみこと)といふ。


又乞度 所纒左御手之珠而 佐賀美邇迦美而
於吹棄氣吹之狹霧 所成神 御名 活津日子根命

又、[所]左の御手に纒はしし[之]珠を度したまへと乞ひまつりて[而]佐賀美邇迦美(さがみにかみ)て[而]、
吹き棄(う)つる気吹之狭霧に[於]、成りましし[所の]神、御名を活津日子根命(いくつひこねのみこと)といふ。


亦乞度 所纒右御手之珠而 佐賀美邇迦美而
於吹棄氣吹之狹霧 所成神 御名 熊野久須毘命【自久下三字以音幷五柱】

亦、[所]右の御手に纒はしし[之]珠を度したまへと乞ひまつりて[而]佐賀美邇迦美(さがみにかみ)て[而]、
吹き棄(う)つる気吹之狭霧に[於]、成りましし[所の]神、御名を熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)といふ。【「久」自り下三字、音を以ちゐる。并(あは)せて五柱なり。】


於是 天照大御神告速須佐之男命
是後 所生五柱男子者 物實因我物所成 故 自吾子也
先所生之三柱女子者 物實因汝物所成 故乃 汝子也 如此詔別也

於是(ここに)、天照大御神、速須佐之男命に告(つ)げたまはく、
「是(これ)の後(のち)、生みまさえし[所の]五柱の男子(をのこご)者(は)、物実(ものざね)、我(わ)が物に因る[所]に成るが故(ゆゑ)に、吾(あ)自(よ)りなれるみ子也(なり)。
先(さき)に生みまさえし[所之]三柱の女子(めのこご)者(は)、物実(ものざね)、汝(な)が物に因る[所]に成るが故(ゆゑ)に、乃(すなは)ち、汝(な)がみ子也(なり)。此れ詔別(のりわけ)が如し也(なり)。」とつげたまひき。

[日本書紀によれば、建速須佐之男命は、私から生まれた神が女神なら濁心、男神なら清心であると申し上げました。]
 このようにして、それぞれが天安河を挟んで向かい合い、誓(うけ)ひを受ける時、 天照大御神(あまてらすおほみかみ)は、まず、建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)が帯びる十拳剣(とかつのつるぎ)渡すよう、乞いました。
 三本に打ち折り、その触れ合う音を鳴らしながら天の真名井(あめのまない)に振り滌(すす)ぎ、噛み砕き、 吹き出した息吹のさ霧に神が現れ、その御名を多紀理毘売命(たきりびめのみこと)、またの御名を多紀理毘売命(たきりびめのみこと)と言われ、
 次いで、市寸嶋比売命(いちきしまひめのみこと)、またの御名(みな)を狹依毘売命(さよりびめのみこと)と言われ、
 次いで、多岐都比売命(たきつひめのみこと)と言われます。【併せて三柱の神です。】
 速須佐之男命は、天照大御神の左の御(おん)鬟(みずら)に纒(まと)った八尺勾玉之五百津之美須麻流珠(やさかのまがたまのいおつのみすまるのたま)を渡していただくことを乞ひ、 その触れ合う音を鳴らしながら、天の真名井(あめのまない)に振り滌ぎ噛み砕き、 吹き出した息吹のさ霧に神が現れ、その御名を正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命(まさかつあかつかつはやひあめのおしほみみのみこと)と言われます。
 また、右の御鬟に纒った、その珠を渡していただくことを乞ひ、噛み砕き、 吹き出した息吹のさ霧に神が現れ、その御名を天之菩卑能命(あめのほひのみこと)と言われます。
 また、御鬘(かずら)[つる草の頭飾り]に纒った、その珠を渡していただくことを乞ひ、噛み砕き、 吹き出した息吹のさ霧に神が現れ、その御名を天津日子根命(あまつひこねのみこと)と言われます。
 また、左の御手に纒った、その珠を渡していただくことを乞ひ、噛み砕き、 吹き出した息吹のさ霧に神が現れ、その御名を活津日子根命(いくつひこねのみこと)と言われます。
 また、右の御手に纒った、その珠を渡していただくことを乞ひ、噛み砕き、 吹き出した息吹のさ霧に神が現れ、その御名を熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)と言われます。
 これにより、天照大御神が速須佐之男命に告げられるには、 「後で生んだ五柱の男子は、物の実質は私の物から成ったので、私からできた子なのです。 先に生んだ三柱の女子は、物の実質はお前の物から成ったので、ということは、お前の子なのです。[ですから、あなたは濁心です。]この詔別(のりわけ)[うけひの結果]に従いなさい。」と告げられました。


(う)-…[接頭]何気なく。ぱっと。すっかり。
(うけ)…[自動]誓(うけ)ひを行って神意を問う。
うけひ(誓ひ・祈ひ)…あらかじめ神に事の結果を誓っておいて、その通りのしるしが現れるか否かで神意をうかがう占い。

【天の安河】
 他には「天安河之河原、神集八百萬神集而」で出てくる。つまり、後に河原で神々が皆で会議をするところでもある。
 「安川」は、全国どこにでもあるかと思って調べたが、唯一、広島県の太田川の支流にあるだけである。
 天安川神社は、奈良県に三か所ある。いずれもいざなぎが迦具土(かぐつち)の神を切り刻んだ刀、天之尾羽張(あまのおはばり)を神として祀っている。
 これらの関連性は、今の所不明である。

【ぬなとももゆらに】
(ぬ)な音(と)…瓊(に、ぬ)は美しい玉、あるいは赤色の玉。玉が当たる音。
もも(百)…ここでは数多いことを表す。
ゆららに…玉や鈴が触れ合って鳴る音を表す。

【天之眞名井】
 天の真名井(あめのまない)は、鳥取県米子市淀江町高井谷に湧出する地下水である。
(ゐ)…井戸、水汲み場。
…名声。
 この名称は「まさに名にしおう井」という一般的な呼称かも知れないし、記に因んで名称をつけたのかも知れない。 あるいは、鳥取県にこの水源があることから、古い出雲神話に由来するかもしれない。

【さがみにかみ】
さ-…[接頭] 語頭につけて、語調を整える。
かむ…「醸(か)む」は、酒を醸造すること。古代の製法は口で米を噛んだことによる。
 ところが、「噛む」は一部の古語辞典には、項目がないものがある。 しかし、ここでは、3つに折った剣、あるいは「八尺勾璁之五百津之美須麻流珠」を口に入れて「噛む」以外の意味は考えられない。 なお、「かむ」は「交(か)ふ」(=合わせる)から派生したともいう。
 書紀では、「𪗾然咀嚼」の字を宛て、「佐我彌爾加武(さがみにかむ)」という読みをつけている。
 記では、「」の後ろ側に割注を入れ、「さがみにかみ」と連用形にすることによって、「」を置き字扱いの接続詞としている。(置き字…漢文を訓読するとき、読まない字) それに対して、書紀では「」の前側に割注を入れ「さがみにかむ」と終止形にして一旦区切り、「」は次の文の、文頭の前置詞になる。 そして書紀の文頭の前置詞「」は記では「」に置き換えられている。細かい話になったが、こういう「ほとんど同じだが、細かい部分が違っていたりする」ところに記・書紀が密接な関係をもって書かれたことが現れている。

【於吹棄気吹之狹霧】
吹く…口や鼻から息を吹き出す。
棄(う)つ…[他動]タ行下二 棄てる。
さ-…接頭語。語調を整える。「小」「狭」があてられるが、実質的な意味はほとんどないとされる。
 「気吹」が「息吹」を意味するかどうか、決定するのがむずかしい。
 そこで、書紀を見ると、そのよみ方を示す注が付けられていた。
吹棄気噴之狹霧【此云浮枳于都屢伊浮岐能佐擬理】
 書紀につけられた注「此れ、"ふきうつるいふきのさぎり"と云う」に従えば、吹棄は「ふきうつる」、気噴は「いぶき」とよむ。
 「棄つ」は「すつ」とよむのは当然だが、辞書によると「うつ」と読む場合もあり、上代・中古の複合語にその例があるという。ここでは、もし書紀の割注がなければ決定できなかったと思われる。
 「うつる」は「うつ」の連体形である。だから「気噴」(いふき、いぶき)を連体修飾する。漢文的には「吹棄」が本来の動詞が形容詞に転じて(「活用」という)名詞「気噴之狹霧」(息吹のさ霧)を連体修飾する。
 「」はここでは前置詞で、「~のごとく」の意味。「吹…霧」が目的語であり。
 したがって、記の「気吹」も「いふき、いぶき」である。
 「」は、文頭に置かれる場合、前置詞または動詞である。ここでは前置詞で、「…狹霧」が「於」の目的語である。
 口に入れて噛んだ後、息をふっと吹いて広がったさ霧から、神が成るのである。この表現は、とても美しい景色を浮かび上がらせる。

【成る】
 持ち物などから無性的に神が現れる場合は、「生る」ではなく「成る」が使われる。記における厳密性の、一つの例である。書紀では、ものから神が現れる場合も「生る」が使われる。

【詔別】
 古語辞典には熟語「詔別」の項目がなかった。そこで、ネットで検索をかけたところ、おみくじの言葉としてこんなものが出ていた。
御子詔別兆(みこのりわけたまふのうらかた)…是ははじめ人に疑ひをうくる事あるもそれぞれ事わかりて我物人の物と文明になりたるの兆なり。
 つまり、「最初に誤解を受けるが、そのうちに解けてうまくいく」ということらしい。従って「御子詔別」は、「みこのりわけ」と読み、「確かなことを告げる」意味だと見られる。
 改めて古語辞典を探すと「ことわ-く(辞別く、言別-く)」という項目があり、「祝詞などで用い、特に言葉を改めていう。」と書かれていた。
 同じく古語辞典で「のる(告る、宣る)」を調べると、「神や天皇が神聖な意向を人民に表明する」が原義だという。
 この2つを組み合わせると「詔別」は「のりわけ」と読んで、「言葉を改めて、神や天皇がが意向を告げる」という意味だと見られる。「うけひ」の場合は、予め誓っておいた通りかどうか、その事実そのものが「詔別」である。

【請ひ】
 それでは今回、「予め誓っておいたこと」は何だったか。ところが、記にはその肝心なことが書いてないのである。
 書紀の方は、素戔嗚尊が、事前に次のように神に誓ったと、ちゃんと書いてある。

如吾所生、是女者、則可以爲有濁心。若是男者、則可以爲有淸心。
如(も)し吾が生みしみこ[所]、是れ女ならば、則(すなは)ち濁心有りと以為(おも)ふ可し。若し是れ男ならば、則ち清心有りと以為(おも)ふ可し。
 つまり「素戔嗚尊が生んだ子が、女だったら濁心、男だったら清心を証明する。」(ここの「一書」は三通りあるが、三つともほぼ同じ内容である〔次項参照〕)。
 次に子を生んだことにより、いよいよ結果(詔別)が分かる。天照大御神が速須佐之男の十拳の剣を噛み、口から吹き出した霧から3柱の女神が生まれた。一方、速須佐之男は天照大御神の珠を噛み、口から吹き出した霧から5柱の男神が生まれた。
 これを見て、天照大御神は「先に生まれた女子は、お前の持ち物から生まれたのだから、お前が生んだ子だ。」と言った。 ということは、速須佐之男の心は濁心であった。結果が判明して、速須佐之男は荒れ狂った。もともと自分が提案してこの結果だから、とことん情けない。 書紀では、「あらかじめ何を神に誓っておいた」か書いてあるから、判定が「濁心」だったことは明白である。しかし、記には「予め誓ったこと」が何なのか書いてないから、意味が分からない。
 記は、速須佐之男が怒って暴れている様子から「占いの結果は速須佐之男の期待に背くものだった」ことを察せよというわけだ。 なお、速須佐之男「清心だからこそ、か弱い女子を生んだのだ。」という負け惜しみとを言っている。
 書紀のように事前の誓約を明記すれば、結果に疑問の余地はないが、それをつきつけられては、素戔嗚尊にとっては身も蓋もない。記は、そんな速須佐之男に同情して、はっきり書くのを避けたかも知れない。
 別の解釈もあり得る。「清心なら男子が生まれる」ことは既に世間の常識だったから、「書くまでもなかった」のだ。 奈良時代はもう男性優位の時代だったから、男子を生むことは価値があった。よい結果を得るためには、清心でなくてはならないのだ。それでも、記はそれを書かずにぼかしている。
 反面、世の定めに逆らい「か弱い女子を生んだのだから清心だ。」と言う速須佐之男は、なかなか優しい面があると言える。 書紀では、男系を正統とする価値観は絶対的だが、記では邪とされた側の立場も無視せずに、バランスをとっているような印象がある。

【一書における請ひ】
 書紀の一書は、3通りある。それぞれから、誓約の内容を示す部分を抜き出す。
一書第1 日神共素戔鳴尊、相對而立誓曰、若汝心明淨、不有凌奪之意者、汝所生兒、必當男矣。
一書第2 對曰、請吾與姉共立誓約。誓約之間、生女爲黑心。生男爲赤心。
一書第3 日神與素戔鳴尊、隔天安河、而相對乃立誓約曰、汝若不有奸賊之心者、汝所生子、必男矣。如生男者、予以爲、子而令治天原也。
 意味が分かりやすいように、近代の漢文のようにして読み下す。
一書第1 日神、素戔鳴尊と共に、相対し立ち誓(うけ)ひて曰く「若(も)し汝(な)が心、明浄にて凌奪の意不有(あらざ)らば、汝の生む児、必ず当(まさ)に男なるべし。」〔明浄な心なら、必ず男児が生まれる〕
一書第2 対へて曰く、吾(われ)与(と)姉共に立ち誓約すを請ひ、誓約の間、女を生むは黒心を為し、男を生むは赤心を為す。
一書第3 日神与(と)素戔鳴尊、天安河を隔ち、相対し乃ち立ちて誓約し曰く、「汝若し奸賊の心不有(あらざ)らば汝が生む子、必ず男ならん。如(も)し男を生むは、予(よ=私)以為(おも)へらく、子(みこ)而(よ)く[高]天原を治め令(し)む。」ここでは、「予」は一人称の代詞。「而」は可能の助動詞。 〔私(日神)は、素戔鳴尊が生んだ子が男なら、高天原を治めさせてよいと考える。〕
 いずれも、書紀本文とほぼ共通である。ところが素戔鳴尊が実際に生んだ子は女子であったから、素戔鳴尊にとって、これらは冷酷な文章である。
 また、一書第1と第3は、素戔鳴尊ではなく、日神が誓約の言葉を述べる。「日神」という簡潔な呼称は、はるか古代から信仰されてきた自然神を想起させる。天照大御神は、自然神である太陽の神と同一視されていたことがわかる。

【一書による結果の評価】
 一書第3によれば、素戔鳴尊は、やはり日神(天照大御神)の五百箇御統之瓊を口に含むことにより、六男神を化生する。その結果、男神を生んだのは素戔鳴尊だとされる。(書紀本文のように「渡した珠の持ち主である日神が生んだ」という理屈は用いない。)
 そして「故日神方知素戔鳴尊、元有赤心、便取其六男、以爲日神之子。使治天原。
〔日神は、素戔鳴尊が元々赤心(=清心)を持っていたことを確かに承知する。ただ、その六男神は日神が引き取って自分の子として、高天原を治めさせる。〕
 一書第1は、第3と同様に素戔鳴尊の勝ちで、日神もそれを承認している。
 一書第2では、結果の評価は書いていない。ただ、剣と八坂瓊之曲玉の交換は、天眞名井に浮かべて相手側に寄せる方法で行われる。

【生まれ方】
 八神の生まれ方は無性的である。しかし、持ち物を渡す側雄性受け入れる側雌性を象徴していると考えることができる。
 三女神の誕生は、速須佐之男が持ち物を渡したから、天照大御神が。同様に五男神の誕生は、天照大御神が、速須佐之男がである。 つまり、天皇の血統の起点は、天照大御神の雄性にある。しかし、生身の人間のように「受精させる」方法を避け、象徴的な行為で表す。
 天皇は代々男系で繋がるから、女性である天照が「生む」つまり直接血を分け与えるような生々しい表現は、極力避けたかったと思われる。 天皇の血統の出発点は、このような象徴的行為という、ややこしい手続きによる。
 このややこしさの根源を探ると、強力な女王による統治が倭政権の事実上の出発点であったことと、記紀編集の時代には男系相続が絶対、の間の矛盾が浮かび上がってくる。
 それだけ、民族に残る古代の女王の強固な記憶は、無視できないものだったのである。

【一書による生まれ方】
 一書第1は、「剣・珠を食べたら化生した。」
 一書第2は、記・書紀本文と同じく浮寄於天眞名井、囓斷瓊端、而吹出氣噴之中化生神。によって化生した。
 一書第3は、三女神は「剣を食べたら化生した」、六男神は珠を食べるごとに、左右の掌中、左右の腕、左右の足から化生した。

【併せて八神だが】
 ここでも、吉数八に合わせている。しかし、いつものような「并八神」という注記はない。天皇に繋がる神と、濁心によって生まれた神をまとめてはいけないのである。

【左が優位】
 正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命は、左の鬟から生じた。遡ると、天照大神は伊邪那岐命の左目を洗って生じた。律令制でも、左大臣が右大臣より優位であるから、この時代の文化は左が優位である。なお、ヨーロッパ文明では、右が優位だといわれる。

【正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命】
 一書第三には、便化生男矣。則稱之曰、正哉吾勝。故因名之、曰勝速日天忍穗耳尊。
〔すなわち、男神が化生した。これを「正(まさ)に吾(わたし)が勝った」という。それに因んで「勝速日天忍穗耳尊」という名になった〕
 と、名前の由来を述べている。つまり、天照大御神が男神を生んだので「私が勝った」と誇ったことによるとする。
 この神から数えて5代目が、初代天皇である。
 正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命から順に、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命(あめのにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと)⇒火遠理命(ほおりのみこと)⇒天津日高日子波限建鵜草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と繋がって、若御毛沼命(わかみけぬのみこと、別名、神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと))に到る。
 神倭伊波礼琵古命は東遷し、畝火之白檮原宮(うねびのかし はらのみや)で「天下を治む」つまり、初の天皇となった。漢風諡号(漢字によるおくりな)「神武天皇」が贈られたのは、760年代で、古事記成立(712年)から約50年後である。

まとめ
 剣と珠の交換から、息吹を吹き出して神を化生させるまでの話の流れは、一書第2が最も整理されていて判り易い。これが記・書紀本文の最終版に使用されたと思われる。 この部分は情景描写ではあるが、最高神と地上の天皇の系図の結節点にあたり、とても大切なので、注意深く書かれたと見られる。以後、速須佐之男に手を焼く天照大御神の話が展開されるが、一転して緊張感がなくなっている。
 次に、請ひの勝者は一体誰なのだろう。これについては記・書紀本文・一書で三者三様である。書紀本文では大日孁貴(天照大神)の完全勝利である。対して一書第1・第3は素戔嗚尊が勝利し、天照大神もその結果を受け入れる。
 対して、記では結果はあいまいなままにされる。記紀共に、大筋では天照大御神が最高神で、天皇の家系につながるという点は揺るがないのであるが、速須佐之男については書紀・記で評価が分かれる。
 書紀は官僚のための歴史書なので、反逆者は罪人としてあっさり切り捨てればよいが、記は民衆に受け入れられるために、体制に反発したくなる情をも描かなければならない。そんな事情がありそうである。今後読み進む上での視点としていきたい。

[047]  上つ巻(建速須佐之男命4)