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⇒ [037] 上つ巻(伊邪那岐・伊邪那美5) |
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2013.09.07(土) [038] 上つ巻(伊邪那岐・伊邪那美6) ▼▲ |
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![]() 於是(ここに) 伊邪那岐命(いざなぎのみこと) 所御佩之(みはかしの)十拳(とつか)の剣(つるぎ)を抜きて、其の子、迦具土(かぐつち)の神之(の)頸(くび)を斬(き)りたまひき。 爾著其御刀前之血 走就湯津石村 所成神名石拆神 次根拆神 次石筒之男神【三神】 爾(ここに)、其(そ)の御(み)刀(たち)の前(さき)之(の)血を著(あらは)して、湯津石村(ゆついはむら)に走就(たばし)りて、[所]成れる神の名は石拆(いはさく)の神、 次に根拆(ねさく)の神、 次に石筒之男(いはつつのを)の神といふ。【三(み)はしらの神】 次著御刀本血 亦走就湯津石村 所成神名甕速日神 次樋速日神 次建御雷之男神 亦名建布都神【布都二字以音下效此】 亦名豐布都神【三神】 次に、御刀の本(もと)の血を著(あらは)して、 亦(また)湯津石村(ゆついわむら)に走就(たばし)りて、[所]成れる神の名は甕速日(みかはやひ)の神、 次に樋速日(ひはやひ)の神、 次に建御雷之男(たけみかつのを)の神、亦(また)の名を建布都(たけふつ)の神【布都の二字(ふたつのじ、ふたな)音(こゑ)を以(もちゐ)る。下つかた此(こ)れに効(なら)ふ。】亦(また)の名を豊布都(とよふつ)の神といふ。【三はしらの神】 次集御刀之手上血 自手俣漏出 所成神名【訓漏云久伎】闇淤加美神【淤以下三字以音下效此】 次闇御津羽神 《上件自石拆神以下闇御津羽神以前幷八神者 因御刀所生之神者也》 次に、御刀之(の)手上(たがみ)に集まりて、血手俣(たなまた)自(よ)り漏(くき)出(い)でて、[所]成れる神の名は【「漏」を訓(よ)みて、久(く)伎(き)と云ふ。】闇淤加美(くらおかみ)の神【「淤」の以下(しもつかた)三字は音を以る。下つかた此に効(なら)ふ。】、 次に闇御津羽(くらみつは)の神といふ。 《上つ件(くだり)、石拆(いはさく)の神自(よ)り以下(しもつかた)、闇御津羽(くらみつは)の神の以前(さきつかた)、并(あは)せて八(や)はしらの神者(は)御刀に因りて神生(な)れし[所の]者也(なり)。】》 所殺迦具土神之 於頭所成神名正鹿山/上/津見神 次於胸所成神名淤縢山津見神【淤縢二字以音】 次於腹所成神名奧山/上/津見神 次於陰所成神名闇山津見神 次於左手所成神名志藝山津見神【志藝二字以音】 次於右手所成神名羽山津見神 次於左足所成神名原山津見神 次於右足所成神名戸山津見神 【自正鹿山津見神至戸山津見神幷八神】 所殺(ころさえし)迦具土(かぐつち)の神之(の)頭(かしら)に[於][所]成れる神の名は正鹿山{上声}津見(まさかやまつみ)の神、 次に胸に[於][所]成れる神の名は淤縢山津見(おどやまつみ)の神【「淤縢」二字、音(こゑ)を以る。】、 次に腹に[於][所]成れる神の名は奧山(上声)津見(おくやまつみ)の神、 次に陰(ほと)に[於][所]成れる神の名は闇山津見(くらやまつみ)の神、 次に左手に[於][所]成れる神の名は志芸山津見(しぎやまつみ)の神【「志芸」二字、音を以る。】、 次に右手に[於][所]成れる神の名は羽山津見(はやまつみ)の神、 次に左足に[於][所]成れる神の名は原山津見(はらやまつみ)の神、 次に右足に[於][所]成れる神の名は戸山津見(とやまつみ)の神といふ。 【正鹿山津見(まさかやまつみ)の神自(よ)り戸山津見(とやまつみ)の神に至(いた)りて、并(あは)せて八(や)はしらの神なり。】 故 所斬之刀名謂天之尾羽張 亦名謂伊都之尾羽張【伊都二字以音】 故(かれ)、[所]斬りたまひし[之]刀(たち)の名は天之尾羽張(あまのおはばり)と謂ひて、亦(また)の名は伊都之尾羽張(いつのおはばり)と謂ふ。【「伊都」の二字、音を以る。】
復(また)剣(つるぎ)の刃に垂れる血、是、天の安河の辺(へ)に[所]在りし、五百箇磐石(いほついはむら)に為(な)りしは[也]、即ち此れ経津主神(ふつぬしのかみ)の祖(おや)矣(なり)。 復、剣の鐔(つみは)に垂れる血、激越(げきゑつし、とよみ)て神と為りて、号(なづ)けて「甕速日(みかはやび)の神」次「熯速日(ひはやび)の神」、其の「甕速日の神」是「武甕槌(たけみかつち)の神」之(の)祖(おや)なり、 亦「甕速日命(みかはやひのみこと)」次に「熯速日(ひのはやひ)の命」次に「武甕槌(たけみかづち)の神」と曰ふ。 復、剣の鋒(さき)に垂れる血、激越て神と為り、号けて「磐裂(いはさく)の神」次に「根裂(ねさく)の神」次に「磐筒男(いはつつのを)の命(みこと)」、一(ある)云はく「磐筒男の命」及(とともに)「磐筒女(いはつつのめ)の命」と曰ふ。 復、剣の頭(かみ)に垂れる血、激越て神と為り、号けて「闇龗(くらおかみ)」に次「闇山祇(くらやまつみ)」次に「闇罔象(くらみつは)」と曰ふ。
さらに剣についた血から、神が現れる。 剣刃に垂れた血は、天安河辺の五百箇磐石でとなり、これが 「経津主神(ふつぬしのみこと)」の祖である。 剣鍔に垂れた血は、「甕速日神」(子の神は「武甕槌神」の祖)「熯速日神」。異説では「甕速日神」「熯速日神」「武甕槌神」の三神。 剣鋒に垂れた血は、「磐裂神」「根裂神」「磐筒男命」(異説では、「磐筒男命」と「磐筒女命」) 剣頭に垂れた血は、「闇龗(くらおかみ)」「闇山祇(くらやまつみ)」「闇罔象(くらみつは)」。 ここで、「闇龗」の「龗」は「おかみ」と読むとする説明書きが、一書その七にある。 また、「闇罔象」は、記の「闇御津羽神」と同一と思われる。「罔」は「あみ」なので「くらあみ」→「くらみ」までは読める。しかし、「象」を「は」と読む根拠は不明である。象はすがたという意味で、八卦の三爻(陰陽のパターン)も象という。 【書紀「次生海」の段、一書の七】
其の一段(ひときだ)、是「雷(みかつち)の神」と為りて、其の一段、「大山祇(おほやまつみ)の神」と為りて、其の一段、「高龗(たかおかみ)」と為りき。 又曰ふ。軻遇突智(かぐつち)を斬りし時、其の血、激越して、天の八十河に[所]在りし五百箇磐石(いほついはむら)を染め、因りて神と化成(な)りて、 号けて「磐裂(いはさく)の神」、「根裂(ねさく)の神」、児(こ)を「磐筒男(いはつつのを)の神」次「磐筒女(いはつつのめ)の神」、児「経津主(ふつぬし)の神」と曰ふ。 剣を抜き、三段に斬り分け、それぞれが神となる。「又曰く」つまり、「これとは別にこういう話もある」として、飛んでいった血が五百箇磐石を染めて、石を神に変化させる話を紹介する。 まず「磐裂」「根裂」のニ神が現れ、そのうち「根裂」が生んだ夫婦神「磐筒男・磐筒女」が、さらに「経津主」を生んだとしている。 「五百箇磐石」は、一書六とはややニュアンスが異なり、散在する多数の岩や細石そのものを指し、地名とは言えない。 『一書七』の後半は、これまでの用語についての辞書である。
「熯」、「龗」には、反切(中国古代の発音記号)が添えられている。反切は漢字3文字から構成され、一文字目が「声母」二文字目が「韻母」三文字目「反」は、これらが反切であることを意味する。声母は子音、韻母は声母を以外の部分で、基本的に母音だが、声調なども含む。「而善反」の例では「声母は而の声母と同じ、韻母は善の韻母と同じ」を意味する。 訓が示されていれば日本語で読めるので、中国式の発音は必要ない。つまり、書紀には、用字を定めるための基礎資料が紛れ込んでいることになる。これは後世の研究にとっては宝であるが、書紀自体は、未整理の部分を含んだままになっている。 それに対して、記ではともかく一通りの結論を確定させている。これもまた、書紀とは別に記が作られた事情を推定するヒントになるかも知れない。 これまで、その理由を2通り考えてきた。 ① 民衆向けに、書紀と同内容で、面白く読みやすいバージョンの歴史書を作ことが必要であった。 ② 書紀が、資料がない部分をもっともらしく書き加え、また都合よく書き換えたことに嫌気がさした太安万侶が、原資料に忠実な私家版を作って残そうとした。 今回、さらにもうひとつの理由が付け加わった。 ③ 書紀では諸家の意見がまとまらず、雑多な「一書曰く」を残したままの不完全な形で出されようとしていることを残念に思い、ともかく結論を確定して残したかった。 【書紀「次生海」の段、一書の八】
一(ひとつ)則(すなは)ち首(かしら)、大山祇(おほやまつみ)と化為(な)りき。 二(ふたつ)則ち身中(むくろ)、中山祇(なかやまつみ)と化為りき。 三(みつ)則ち手、麓山祇(はやまつみ)と化為りき。 四(よつ)則ち腰、正勝山祇(まさかつやまつみ)と化為りき。 五(いつつ)則ち足、䨄山祇(しきやまつみ)と化為りき。 是の時、斬りし血激灑(たばし)りて、[於]石(いは)礫(さされいし)樹(き)草(くさ)を染めき。此の草木沙(いさご)石(いは)自(みづから)火(ほ)を含(ふふ)みし[之]縁(よし)也(なり)。 麓、山の足を麓と曰ひ、此を簸耶磨(ひやま)と云ふ。 正勝、此を麻沙柯(まさか)と云ひ、一(ある)は麻左柯豆(まさかつ)と云ふ。 䨄、此を之伎(しき)と云ふ。音(こゑ)鳥含反(タム)。
7行目を読み下すと「是の時、斬りし血、石(いは)・礫・樹・草に激しく灑(そそ)ぎ、此れ、草・木・沙(いさご)・石(いは)自ら火を含(くく)む縁(よし)也。」 〔斬った血が大石、小石、木、草に激しく注ぎ、これが草、木、砂、岩が自身で火を含む所以である。〕 「麓山祇」の「麓」は8行目に「山足を麓と曰ふ」と説明があるので、現代と同じく「ふもと」の意味である。「簸」は「は」または「ひ」であるが、記に「羽山」があるので、「簸耶磨」は「はやま」であろう。とすれば、枕草子に出てくる「山の端」(遠くから見たの山の稜線)とは意味が異なる。 6行目までの「かぐつちの切断された部分がやまつみに変わる」の意味は明快であるが、7行目「自身で火を含む」ところの意味が取りにくい。 可能性として、①それぞれ赤色をしたものがある。赤い花、あるいは赤鉄鉱。②山火事の自然発生や、突然の噴火のこと。③乾燥させた草をはさんで火起こししたり、火打石で発火させることができる。④自然物が自ら火を吹くという何らかの伝説がある、等が考えられるが確定するのはむずかしい。 9行目以下は辞書である。〔『正勝』は『まさか』と読む。または『まさかつ』と読む。『䨄(=鷸)』は『しぎ』と読む。中国語の読みは『鳥・含』(ch-an?)である。〕 この説明から、記の「正鹿山津見」は「まさかやまつみ」であることが確定する。また、記の「志芸山津見」の「志芸」は、鳥の一種の鷸(シギ)を意味すると見てよいであろう。 【かぐつちの切り分け】 書紀の一書、記を通して、かぐつちは、3体、5体、あるいは8体に切り分けられ、それぞれが神となる。大体は、幾種類かの「山つみ」=「山の霊」になる。 これが何を象徴するかは、不明である。想像であるが、「かぐつち=火の神」と山の魂を結びつけるものは、火山活動しかない。 【血しぶきの飛散】 刀についた血液の行き先の表現が、最も理解しやすいのは一書の八で、その近辺にあった「草木や礫砂に注がれる」である。それ以外は、剣の刃から飛び散った血しぶきは遥か彼方まで飛んでいく。行き先は、天の安河の河原の石、あるいは天の安河の「いおついわ村」または「ゆついわ村」である。そこから「いわさくの神」「ねさくの神」などが現れる。 どこまで飛んでいったかはともかくとして、剣の鍔からいざなぎの命の手を伝った血からも「くらおかみの神」「くらみつはの神」などが現れる。ただ血液から生ずる神の数は、さまざまな言い伝えがあり、最小は0柱、最大は11柱である。 【八柱神】 記では、かぐつちの神から出現した神は、切り分けられて8柱、血から8柱である。吉数八は、記のあらゆる場面に現れる。 【湯津石村】
剣の血は、記では、湯津石村に、「走就」する。書紀(一書六、七)は天安河の五百箇磐石に「激越」する。記紀の複数の記述から、「走就」とは「かぐつちを斬った刃から血が飛んで行って、数多い礫石がある河原に降った」意味であることは間違いない。「五百」は数多いという意味であるが、「数多い」という意味では、記紀では「八百」とする。それぞれ「五行説」、「八卦思想」に基づくが、「五」は古い吉数、「八」は新しい吉数である。「八」は新たに出現した古墳の形にも表れてる。古墳の墳形が方墳から八角形に変化するのは、中大兄皇子・中臣鎌足が曽我氏を倒した大化の改新の時期であるという。(『天皇陵の謎』矢澤高太郎) 従って、「五百」は、大化元年(645年)より古い時代の言い伝えだと思われる。また「五百箇磐石」あるいは「湯津石村」は、一書七では、特定の地名を意味しないのに対し、一書六・記では地名である。従って、血が飛んで行った先は、古い方から、「天八十河の五百箇磐石(地名ではなく礫石)」→「天安河の五百箇磐石(地名)」→「湯津石村(地名)」のように移り変わってきたと思われる。 ところで「ゆついわ」「ゆずいわ」「いおついわ」など現実の地名、あるいは神社名がないかと検索をかけてみたが、出てこないのが意外であった。かつて存在した地名が現代に伝わっていないか、もともと空想的な地名だったかのどちらかである。「血染めの石」は、赤鉄鉱を連想させ、古代の砂鉄の産地は、北九州、出雲が中心なので、「ゆついはむら」などと呼ばれた土地がその地方にあった可能性はある。 【集御刀之手上血自手俣漏出】 飛び散った血のほかに、手元に残った血からも神が現れる。 一書六によれば、剣には鍔(つば)がある。だから、記の文では「御刀之手上」は刀の鍔のことであり、刃に血が伝って鍔の上に溜った後、指の間から漏出するという意味になる。 【古い吉数五と新しい吉数八】 書紀・一書がより素朴な形態であり、記はそれらを整理したと考えられる。例えば、かぐつちを切り分けた数は、一書の3段、5段から記の8段に変化している。 また、血が落ちた場所は、近辺の草木や石が初期の形で、やがて飛散先は、はるか遠方の五百箇磐石になる。注目されるのは、記では飛散先が「湯津石村」になり、数字「五」が消滅することである。これは意図的に置き換えられたと考えることができる。 このように、古い吉数五を排除し、新しい吉数八に統一していく過程を、ここに見ることができる。 さて、ここで記の神々に戻り、その名称の意味を探ることにする。 【剣についた血が化した神】(記)
全体を通して、雷、火、黒色が特徴的である。このうち「石筒之男」は、書紀・一書七では「石筒之女」と夫婦神で、「経津主」を生む。 「つつ」の一つ目の「つ」は属格の助詞で、二つ目の「つ」は「ち(魂)」のことかも知れない。 記では、経津主は独立にはでてこないが、「建御雷」の別名に含まれる。頭に「武」も「豊」がついていたりすることから考えて、「ふつ」は一般的に「興る」ことを表すと思われる。 酸化鉄は地の色なので「石に散った血」は、製鉄との関係を示唆する。木炭と酸化鉄に火を送って鉄を得る「たたら製鉄」によって、黒っぽい光沢をもつ鉄になる。製鉄は弥生時代後期から始まり、古墳時代後期に本格化したと言われる。 これらの神の名が製鉄と関係しているとすれば、大小の礫の間を流れる河原を流れる水から、砂鉄を濾し取ったことに由来するかも知れない。 【かぐつちの断片が化した神】(記)
「まさか」は、天照と須佐之男の誓約によって生じた、正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)に通ずる。この神の4代目の子孫が神武天皇である。 従って、「まさ」には「正統」というニュアンスが感じられる。とすれば、次の「おど」は、その対極にある。濁音が含まれるのも、その印象を強めている。しかし、頭からできたのが「優」の神で胸からは「穢れ」の神というところに、何か意味はあるのだろうか。謎は尽きない。 「しぎ」は、書紀一書の解説から、恐らく鳥の「しぎ」である。これだけは、特定の鳥に結び付けられる点で他と趣が異なる。 「は」も書紀に、「ふもと」という説明がある。そうすると、「おく」「はら」「くら」「と」も山の、さまざまな場所を現すと思われる。 この中で、「おくやま」は、いろは四十八文字の「うゐのおくやま けふこえて」が連想される。これとの関連で、「おくやま」とは「奥まったところの山」であろうと思われる。 それでは、火の神の断片が、多様な姿の「山の霊」を生じたのはなぜか、という疑問が湧く。諸説のうち、より古いものと思われる一書七を参照すると、三段に斬られたうちの第一段が「大山津見」である。それに対して記では「大山津見」は、すでに伊邪那岐・伊邪那美の神生みのときに登場している。 つまり、山津見神のグループは、大山津見を上位として下位に複数の「やまつみの神」が存在する。記では、伊邪那岐・伊邪那美から上位の神だけがひとりの子として生まれ、下位の神は伊邪那美を死に至らしめた子「かぐつち」の断片から生じたのである。 【天之尾羽張、伊都之尾羽張】
とつかの剣…十束剣は、<wikipedia>「十握剣」「十拳剣」「十掬剣」など様々に表記される。</wikipedia> 今、私の拳の幅を測ってみたら、約9cmあった。その10倍だと90cmになる。なお、国宝の埼玉稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣の長さは73.5cmである。「とつかの剣」という名称の「とつか」は、もともと長さを表していたが、後に枕詞になったと考えてよいだろう。 「尾羽張」は、wikipediaには「刃(=羽)の束(つか)に近い部分(「尾」)が左右に張り出した形を表す」とあるから、これが通説であろう。 しかし、これとは別に孔雀の尾も連想される。検索をかけると「孔雀明王像」というものが、密教の絵画にあるという。(京都国立博物館の解説ページ)孔雀は尾を立てることにより、毒蛇を撃退する力があったとされる。 火の神を切り刻むことによって16柱もの神を出現させたのだから、剣は大いなる魔力を持っていた。だが剣の魔力が、何故孔雀の尾の力なのかとなると、なかなかむずかしい。さらに「伊都」は、魏志倭人伝に出てくる北九州の重要な国を連想させる。「あま」を神とする一族が伊都国の方面から大和にやってきた。古くその王がもっていた宝剣は、中央アジアから孔雀の力の言い伝えと共に伝来したものであるということであろうか。まことに、想像は尽きない。実際、対馬や九州の卑弥呼の時代よりはるか以前の王の墳墓から、大陸由来の銅剣が出土するのである。 もしこの想像が当たっていれば、十束剣の別名の由来は非常に古く、古事記から700年程度も遡ることになる。 まとめ 以上から要するに、この部分には火の神・かぐつち神を十束の剣で切り刻んだ結果、血と肉片から生じた神について書かれている。しかし神々と十束の剣の名称を詳しく見ると、弥生時代以前の墳丘墓に収められた大陸伝来の銅剣や、出雲地方の砂鉄による製鉄技術の伝統まで壮大なアーチを架けている。記紀編纂の時代以前に、各地の部族に残されていた古い伝承を引き継いでいるのである。 |
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2013.09.13(金) [039] 上つ巻(伊邪那岐・伊邪那美7) ▼▲ |
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![]() 爾自殿騰戸出向之時 伊邪那岐命語詔之 之愛我那邇妹命 吾與汝所作之國 未作竟故可還 於是(ここに) 、其の妹(いも)、伊邪那美(いざなみ)の命(みこと)に[欲]相見(み)むとおもほして、追ひて黃泉(よも)つ国に往きたまひき。 爾(ここに)殿(との)の騰(あげ)戸(と)自(よ)り出(い)でて向(むか)ひし[之]時、伊邪那岐(いざなぎ)の命(みこと)語りて詔(のたま)はく[之]、 「愛(うつくし)我(わ)が那邇妹(なにも)の命(みこと)よ、吾(われ)与(と)汝(いまし)との作りし[所之(の)]国は未(いま)だ作り竟(お)へざりき。故(かれ)還(かへ)る可(べ)し。」とのたまふ。 爾伊邪那美命 答白 悔哉不速來 吾者爲黃泉戸喫 然 愛我那勢命【那勢二字以音下效此】 入來坐之事恐 故欲還且與黃泉神相論 莫視我如此白 爾(ここに)伊邪那美(いざなみ)の命(みこと)答へて白(まを)さく、 「悔(く)ゆる哉(や)、[不]速(とく)来(いでま)さず。吾(あれ)者(は)黃泉(よも)戸(と)の喫(くらひもの)を為(し)まつりき。 然(しかれども)、愛(うるはし)我(わ)が那勢命(なせのみこと)、【「那(な)勢(せ)」の二字音を以(もちゐ)る。下つかた此に効(なら)ふ。】 入(い)り来たり坐(ま)しし[之]事を恐(かしこ)みまつる。故(かれ)、還(かへ)りまつりて且(また)黃泉(よも)つ神与(と)〔ことわりを〕相論(あひかたら)はむと[欲](おも)ひまつる。 我(われ)を莫(な)視(み)たまひそ」と如此(かく)白(まお)しき。 而還入其殿內之間甚久難待 故刺左之御美豆良【三字以音下效此】湯津津間櫛之男柱一箇取闕 而燭一火 而(すなは)ち其の殿の内に還(かへ)り入りましし[之]間(ま)甚(いと)久しく待ち難し。 故(かれ)、左之(ひだりの)御(み)美豆良(みづら)【三字音を以る。下つかた此れに効(なら)ふ。】に刺したまへる湯津津間(ゆつつま)櫛(くし)之男柱(をばしら)を一箇(ひとつ)取り闕(か)けて[而]一つ火(ほ)を燭(と)もしたまひき。 そこで、彼の妹に逢うことを望み、追いかけて黄泉の国に行きなされたのでした。 神殿の上げ戸から出て妹に向かって、いざなぎの命は 「この愛(いと)しの妹、お前のみこと、私とお前で作った国はまだ作り終えていない。だから何としても戻ってきなさい。」と仰られました。 いざなみの命はそれに答えて、 「残念です。もっと早く来てほしかった。私は、黄泉の洞内で食する暮らしを始めているのです。 ですから、愛しい兄のあなた様のみこと、あなたが入っていらっしゃることは恐れ多いことですから、一度戻って黄泉の神と相談しようと思います。 私を決して見てはなりません。」とこのように申し上げました。 言われた通り還り殿で待ちましたが、その時間はとても長く待ちきれなくなりました。 そこで左の御みずらにお刺しになっていたゆつつま櫛の男柱(おばしら)の片方を取り欠け、火をつけてひと明かりとしました。 可…[助動] 可能・許可・当然・勧誘・評価。日本語の「べし」は推量・意思・当然・適当・命令・可能。 爾…判断を示す文末に置き、強く肯定したり確認する。「~のみ」と訓読するが限定の意味はない。「~なのである」 與(=与)…[接][前] ~と 竟…[動] 終える 白…[動] もうす 喫…[動] 食物を口に入れ、噛み砕いてから飲み下す 坐…[動] すわる;<日本語用法>「ましま-す」…「いる」の尊敬語 且…[接] かつ。累加の接続詞。 莫…[副] なかれ 間…[名] (あひだ)空間、または時間の隔たり;<日本語用法>和漢混交文で接続助詞のように用いる。~ところ。~ゆえに。 闕(けつ)…[動] 欠ける 【詔・白】 どちらも「言う」であるが、「詔」は上から下へ、「白」は下から上に向かう意味合いがある。対句表現である。記紀編纂の時代はもう男性優位社会になっていたことが、ここにも表れている。
さらに、書紀一書の六は、「吾夫君尊」と表し、一書の七で「あがなせ」と読めと指示している。「我=吾、な=君、せ=夫、命=尊」のように対応するので、これで「せ」が「兄」であることが確定する。また、一書六は、記と同一資料に基づいて書かれたことがわかる。 記では「せ」に「兄」あるいは「夫」を宛てることをせずに音で表記し、書紀でも一書七に注釈があることから、兄や夫を「せ」と読むのは当時は一般的でなかったことがわかる。 【如此白】 「私が今言った通り」と念を押す。つまりもうこれ以上話すことはない、あとは神殿に戻って黄泉の神と相談せよと突き放すのである。そして、私の姿を見てはならないと言う。けれども、見るなと言われれば見たくなるのが人情である。 【之間】 現在は「居間」など、「一室」の意味があるので、「其殿内之間」は「宮殿内の一部屋」と読めてしまうが、この時代に部屋を「間」と表現していたとは思えない。この場面ではいざなぎは、いざなみの言うことを聞いて、一旦宮殿で黄泉の神を待つが、待ちきれないのである。 だから、「之の間(あいだ)」として時間経過を表すか、または日本語用法の接続詞(「このあいだ」=すなわち)のどちらかである。 【不速来】 「早からず来る」あるいは「早く来たらず」。つまり「悔哉。不速来」は、「残念だわ、もっと早く来てくれればよかったのに」という意味である。書紀の一書六では「何来之晩也」となっている。形容詞の「晩」には「事態がすでに取り返しがつかない時にいたっているさま」という意味がある。 【黄泉戸】 「殿騰戸」と対になっている。なお「戸」には出入口にはめる「戸」のほかに、「洞穴」の意味がある。 【吾者為黃泉戸喫】 「者」は「吾」が主語であることを明確にする。「為」が動詞。「黃泉戸」は場所を示す副詞句として動詞「喫」形容する。これでは動詞が2つになるが、「黃泉戸喫」は名詞化して中心的な動詞「為」の目的語になる。 「吾者為~」は、「私は~という状態にある」といった意味である。「喫」は一文字で「食物を食す」を意味する。つまり、この文の意味は「私は、もう黄泉の世界で食する身になってしまった」である。 書紀一書六は、「吾已湌泉之竈矣。」〔湌=餐(たべる)・已(すでに)・泉は「黄泉」・「矣」は語気詞。〕つまり、「私はすでに黄泉のかまから食するようになってしまった」。記と共通する。 【刺左之御美豆良…】 「刺」は、「さす」という動作ではなく、「刺していた」という状態を表すことにしないと意味が通じない。また、構文は素朴である。 本来は「所」を使って「取闕所刺左之御美豆良湯津津間櫛之男柱一箇」(左の美豆良に刺した所の湯津津間櫛之男柱の一箇を取り闕け)とするところである。 ただ、漢文は主語+述語がそのまま名詞節や副詞節になったりして、かなり自由度が高いので、原文のままでも誤りとは言い切れない。 【湯津津間(ゆつつま)櫛】 <大辞泉ネット版>ゆつ‐つまぐし(斎つ爪櫛) 神聖で清浄な櫛。一説に歯の多い櫛の意。ゆつのつまぐし。</大辞泉> 【男柱】
【黄泉】 <百度百科(中華人民共和国)> 黄泉,在中国文化中是指人死后(=後)所居住的地方。打泉井至深时(=時)水呈黄色,又人死后埋于地下,故古人以地极(=極)深处(=処)黄泉地带为(=為)人死后居住的地下世界,[()内は対応する日本の漢字] 〔黄泉。中国文化の中で、死後に居住する場所を指す。地中深く井戸を掘ると湧き出る水が時に黄色を呈する。また、死後は地下に埋葬する。よって古人は極めて深い場所である黄泉地帯を人が死後居住する地下の世界とした。〕 </百度百科> また中華民国の「中国哲学書電子化計画」から検索すると、「黄泉」は203件あるので、古くから地下の死後の世界を指す一般的な語であることがわかる。 日本語の「よみ」を調べると、『ほつまつたゑ』によれば、「よみ」は、「よむ(倦む・膿む・穢む・罷む・終む)」の名詞形であり、「落ちる、縮小する、果てる」などのようすを表す。 古語辞典を見ると、「よみ」または「よも」と言う。一般に、黄泉比良坂=「よもつひらさか」、黄泉神=「よもつかみ」と読まれるのに対して、黄泉国は「よもつくに」「よみのくに」の両方がある。「つ」は古い連体助詞なので、「よむ」は古い形であろう。 記の「黄泉」には注釈がないので、「よむ」「よみ」という訓読みは、古事記編纂の時期に、すでに一般的だったと思われる。 【書紀・次生海の段、一書より】 《一書六》
伊弉冉尊(いざなみのみこと)曰(まをさ)く、「吾夫君(あがなせ)の尊(みこと)、何(なにそ)来たまへること[之]晩(おそ)きや[也]。 吾(われ)已(すで)に湌泉之竈(よもつべくひ)矣(たり)。然りと雖(いへど)も、吾当(まさ)に寝(いね)息(やす)まむとす。之を視ること勿(な)きこと請(こ)ひまつる。」とまをす。 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)聴(き)こさずて、陰(かげ)に湯津爪(ゆつつま)の櫛を取りたまひて、其の雄柱(をばしら)を牽(ひ)き折り、以て秉炬(たひ)と為(し)たまふ。
《一書九》
是の時伊弉冉(いざなみ)の尊、猶(なほ)生平(つね)の如く、出迎へまつりて共に語らひぬ。 已而(すでにして)伊弉諾尊に謂(まを)して曰はく、「吾夫君(あがせ)の尊、請(ねが)はくは吾を勿視矣(なみそ)」と 言ひ訖(お)へて忽然(たちまち)に不見(みえず)。[於]時に闇(やみ)となりき[也]。伊弉諾尊、乃(すなは)ち一片(ひとつ)之(の)火を挙げて[而]之を視むとす。 ――イザナミは生前と変わらぬ姿でイザナギを出迎え、語らうのであるが、「私を決して見てはいけません」と言った後、突然姿が見えなくなり、やがて暗黒になる。 この後、イザナギは変わり果てたイザナミの姿を見て大変驚くことになる。
この部分の要素を右の表にまとめた。 イザナミの魂は、生前と何ら変わることなくイザナギを慕っている。しかし、物体としての自分の姿(死体)は、醜く朽ちていく一方なので、決して見られてはならない。 また、すでに黄泉の国で食生活する身になったのだから、現世に戻ることはできない。 この話において、はじめに生身のイザナミが現れたとした場合、「それではいつ姿を消を消したのだろう」という疑問が生まれる。 一書九はそこを何とかすべく「忽然と姿が見えなくなる」を挟んでいる。これで確かに話は繋がるが、あまりに空想的である。ただ、映画やオペラにする場合にはこれがよい。 また、記の「欲還且与黃泉神相論」は、イザナミが「黄泉神と相談するために戻る」と読み取れるべきであろう。 このように考えていくと、この部分でイザナミが生身の姿を現すことは最初から最後までなく、洞内から声だけで対応したという解釈が一番すっきりすると思えるのである。 |
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2013.09.28(土) [040] 上つ巻(伊邪那岐・伊邪那美8) ▼▲ |
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![]() 於頭者大雷居 於胸者火雷居 於腹者黑雷居 於陰者拆雷居 於左手者若雷居 於右手者土雷居 於左足者鳴雷居 於右足者伏雷居 幷八雷神成居 入(い)りたまひて見(め)しし[之]時、宇(う)士(じ)多(た)加(か)礼(れ)許(こ)呂(ろ)呂(ろ)岐(ぎ)弖(て)【此の十字音(こゑ)を以(もちゐ)る。】、 頭(かしら)に[於]者(は)大(おほ)雷(いかづち)居(を)りて、胸に[於]者火(ほの)雷居りて、腹に[於]者黒(くろ)雷居りて、陰(ほと)に[於]者拆(さく)雷居りて、左手に[於]者若(わか)雷居りて、右手に[於]者土(つち)雷居りて、左足に[於]者鳴(なる)雷居りて、右足に[於]者伏(ふす)雷居りて、并(あはせ)て八(やはしら)の雷の神成り居(を)り。 於是 伊邪那岐命見畏 而逃還之時 其妹伊邪那美命 言令見辱吾 卽遣豫母都志許賣【此六字以音】令追 爾伊邪那岐命 取黑御𦆅 投棄 乃生蒲子 是摭食之間逃行 猶追 亦刺其右御美豆良之湯津津間櫛 引闕 而投棄 乃生笋 是拔食之間 逃行 於是(ここに)伊邪那岐(いざなぎ)の命(みこと)見(め)して畏(おそ)りて、[而]逃げ還(かへ)りたまひし[之]時、其の妹(いも)伊邪那美(いざなみ)の命(みこと)言ひしく「吾(あれ)を令見辱(はづかしめしめき)。」といひき。 即(すなは)ち予(よ)母(も)都(つ)志(し)許(こ)売(め)【此の六字、音を以る。】を遣(つかは)し、追(お)は令(し)む。爾(ここ)に伊邪那岐(いざなぎ)の命(みこと)黒御縵(くろみかづら)[=蔦を巻いた冠]を取りて投げ棄(す)ち、乃(すなは)ち蒲子(えびかづら)[=山葡萄]生(お)ひ、是れを摭(ひろ)ひ食(は)みし[之]間(ま)に逃げ行(ゆ)きき。 猶(なほ)追ひて、亦(また)其(そ)の右の御(み)美豆良(みづら)に刺しし[之]湯津津間櫛(ゆつつまぐし)引き闕(か)き[而]投げ棄ち、乃(すなは)ち笋(たかむな)[=たけのこ]生(お)ひ、是れを抜き食(は)みし[之]間(ま)に逃げ行きき。 且後者 於其八雷神 副千五百之黃泉軍 令追 爾拔所御佩之十拳劒而 於後手布伎都都【此四字以音】逃來 猶追 到黃泉比良【此二字以音】坂之坂本時 取在其坂本桃子三箇待擊者悉逃迯也 且(また)後(しりへ)に者(は)其の八はしらの雷(いかづち)の神に[於]千五百(ちあまりいほち)之(の)黄泉(よもつ)軍(いくさ)を副(そ)へて、追は令(し)めき。爾(ここに)御佩(みはかしの)[所之]十拳剣(とつかつるぎ)を抜きて[而]後手(しりへて)に[於]布(ふ)伎(き)都(つ)都(つ)【此の四字音を以る。】逃げ来たり。 猶(なほ)追ひて、黄泉(よもつ)比(ひ)良(ら)【此の二字音を以てす】坂之(の)坂本に到りし時、其の坂本に在りし桃子(もも)三箇(みつ)を取りたまひて、待ちて撃て者(ば)悉(ことごと)く逃げに迯(に)げき[也]。 爾伊邪那岐命告其桃子 汝如助吾 於葦原中國所有宇都志伎【此四字以音】青人草之落苦瀬 而患惚時可助告 賜名 號意富加牟豆美命【自意至美以音】 爾(ここに)伊邪那岐(いざなぎ)の命(みこと)其の桃子(もも)に告(のたま)はく「汝(なれ)助吾(あれ)を助くる如くに、 葦原中国(あしはらなかつくに)に[於]有る[所の]宇(う)都(つ)志(し)伎(き)【此の四字音を以る】青人草(あをひとくさ)之(の)苦(くる)しき瀬に落ちて[而]患(わづら)ひて惚(いきどほ)りし時に助く可(べ)し。」と告(のたま)ひて、 名を賜はり「意(お)富(ほ)加(か)牟(む)豆(つ)美(み)の命(みこと)」と号(なづ)けたまひき。【意自(よ)り美に至(いた)りて音を以る。】
一書六では「八色の雷」とされる。「八色の姓」のように「色」は必ずしも色彩ではないが、「火」「黒」「土」「若」などの名前から、もともと色彩を指していたことが想像される。 死体が日数を経ると皮膚がさまざまに変色、変形して恐ろしい印象を与えたということであろう。 【於頭者大雷居】 於…[前]~において [動]おいてす。なす。 まず、漢文の文法によって解釈してみる。「者」は、「於頭」が主語であることを示す。しかし「大雷」も「居」の主語なので、「於頭」は、主述構造「大雷居」を述語にとる大主語である。「於」は前置詞であっても、動詞から転じたものだから、ここでは、「動詞+目的語(事実上の主語)」が名詞化したものになる。 しかし、この文は典型的な漢文なら「頭有黒雷」で充分である。ここはやまとことばを写し取り、助詞・動詞に漢字を対応させ、「於=に、者=は、居=をり」と読ませたと見るのが自然である。 【黒御𦆅】(くろみかづら) 𦆅…縵の異体字。 そこで、縵を漢和辞典で調べる。 縵(パン、マン)…無地の絹織物 これでは全く意味が通じない。そこで、対応する書紀の一書六を見ると、 因投黑鬘。此卽化成蒲陶。〔黒鬘を投げたところ、これが葡萄と化した。〕 鬘…(かづら) 蔦などを頭部に巻いた飾り。後に演劇で頭に被る「鬘(かつら)」 これで、「黒御𦆅」はつる性植物で作った冠のような飾り、という意味が確定した。 【蒲子】(えびかずら)
<園芸手帳―ブドウ科> ◎ ヤマブドウ(学名:Vitis coignetiae)は、ブドウ科のつる性落葉樹。 原産地は日本(北海道~四国))、サハリン、アムールなど。山野に自生する野生のブドウ。 果実は球形で秋に熟し黒紫色になる。甘酸っぱく、生食できる。 ◎ エビヅル(ブドウ科、Vitis ficifolia)つる性落葉樹。 原産地は日本(本州~九州)、朝鮮半島、中国。 ヤマブドウに似ているが葉の裏の産毛が白いので区別がつく。実は食べることができる。 </園芸手帳> なお、今日栽培されているブドウは、<wikipedia>ヨーロッパブドウ(原産地:中央アジア~アフガニスタンなど)である。日本で古くから栽培されている甲州種は、中国から輸入されたヨーロッパブドウの東アジア系が自生化して、鎌倉時代初期に甲斐国勝沼で栽培が始められたという。</wikipedia> 【うじたかれ】
ウジは「蛆」(蠅の幼虫)であろう。対応する書紀一書六、九に蛆は登場せず「黄泉はきたない」あるいは「体がふくれあがった姿」が書かれている。 【ころろぐ】 ある古語辞典には「ころろく」は「ころころと音をたてる」とある。 類似の語句を探すと、古語に「転ぶ」があるが、これは「まろぶ」と読む。だから「ころろぐ」は、いざなぎが驚いて転んだのではない。 つくりが似た語を探したところ、「ほほろぐ(ほろろぐ)」(ばらばらに崩しほぐす、ぼろぼろにする)があった。 語尾「~ぐ」は、形容動詞を動詞化するはたらきがある。例えば「やはらぐ」は、「形容動詞『やはら』の動詞化」と説明される。 したがって「ほろろぐ」は、擬態語の副詞「ほろほろ」が動詞化したものである。 現代語にも「ころころ」という擬態語がある。記では矛で下界の混沌とした沼を画いたときに「こをろこをろ」がある。心地よい音声のイメージでは、墓の中のようすを形容するにはふさわしくないが、 「ころろぐ」は、「ころころした状態に化す」という動詞に変えることができる。 主語を蛆とすれば「ころろぐ」は「蛆がころころしている」という解釈が、一応可能になる。 しかし、頼りの書紀一書に対応する文がなく、今のところ比較する材料がないので、確実なことは言えない。 【見(め)して畏り】 ここでは、敬語のよみ「めし」を採用した。 一書六より抑制した表現である。いざなぎのあまりに心ない言動を書くことは控えている。 一書六でいざなぎが叫んだ言葉「吾不意到於不須也凶目〔いなしこめき〕汚穢〔きたなき〕国矣」の意味は、 「あってはならない、見るに忌まわしい、きたない国に来てしまうとは思わなかった」である。それは、声に出してはならない言葉であった。 【於後手布伎都都】(後ろ手にふぎつつ) 古語辞典では「ふく」は「風が吹く」など、空気の動きを意味する。しかし、これでは剣を後ろ手にする動きとは言えない。 そこで「ふく」の意味の推定を試みる。一書六「背揮」のよみ「しりへてにふく」は、「後(しり)へ手にふく」であろう。 漢字「揮」は、「振り回す」という意味である。従って「ふく」は「振るう」の古い形であると思われる。 【葦原中国】(あしはらなかつくに) 地上の世界、つまり国家そのものを指す語が、ここで初めて出てくる。以後、すさのをの命が登場後に数回出てくる。 【葦原中国に有る】 <wikipedia>弥生時代後期には大陸から栽培種が伝来し桃核が大型化し、各時代を通じて出土事例がある。桃は食用のほか祭祀用途にも用いられ、斎串など祭祀遺物と伴出することもある。</wikipedia> 中国から伝来し、北九州から出雲地方で生育していたと見られる。 【黄泉比良坂の坂本】 「黄泉比良坂」(よもつひらさか)が固有名詞であるから、「坂本」は一般名詞で、坂の下の部分という意味である。 記では、出雲国の伊賦夜坂を比定地としているが、「伊賦夜坂」自体も現在の地名には残っていない。「揖夜神社」(島根県松江市東出雲町揖屋2229)から東南東300mのあたりが黄泉比良坂の比定地とされ、石碑がある。 記編纂の頃にその土地に言い伝えがあったのか、後に古事記を読んだ人々がこのあたりだろうと想像して定めたのかは不明であるが、山陰道を通って出雲の国に入る辺りなので、黄泉は出雲にあるというのが古くからの共通認識であったと思われる。 また、出雲の国の入り口にあった桃の実に向かって、「葦原中津国に移れ」と言うのであるから、出雲はもともと葦原中津国から見て辺境であったことになる。大国主による国譲りとの関連で、注目される。 【おほかむつみ】 「大神つ実」=「大いなる神の果実」であろう。桃は道教において神聖な果実であった。 『山海経』(せんがいきょう)で恐ろしい死神であった西方母は、<wikipedia>道教が成立すると、西王母はかつての「人頭獣身の鬼神」から「天界の美しき最高仙女」へと完全に変化し、不老不死の仙桃を管理する、艶やかにして麗しい天の女主人として、絶大な信仰を集めるにいたった。</wikipedia> 『山海経』は中国の戦国時代~漢代(403B.C.~220A.D.)に徐々に形成された。道教は5世紀ごろにまとまったとされるが、古墳から多数出土する三角縁神獣鏡に描かれたのが西方母である。古墳時代の初期の遺跡から大量に桃の種が出土する事実もある。道教は古墳時代の倭国に強い影響を及ぼしていた。 それ以来、桃を聖なる果実とする伝統が記紀の時代まで受け継がれてきたと思われる。一書九では、伝統的に桃は「鬼を避ける」ものとされている。 記では、「苦しき瀬に陥り患ひ呆ける時に助くべし」として、病などに苦しむ人民を救う役割を課している。 【一書六】 書紀「次生海」の段の一書六は記に対応する。
于時(ときに)、伊弉冉(いざなみ)の尊恨みて曰(まを)ししく、何(なにそ)要(もと)むる言(こと)を不用(もちゐざ)りて〔=どうして求める言葉を言わずに〕吾(あれ)を恥辱(はずか)令(し)むか。」とまをしき。 乃(すなは)ち泉津醜女(よもつしこめ)八人(やたり)、一云(あるいふは)泉津日狭女(よもつひさめ)を遣はして、之を追ひ留めしめき。 故(かれ)伊弉諾の尊、剣を抜き背揮(しりへてにふ)きて、以ちて逃げたまひき[矣]。因りて黒鬘(かづら)を投(な)げて、此れ即(すなは)ち蒲陶(えびかずら)〔=山葡萄〕に化成(な)りき。醜女見(み)て[而]採り、之を噉(くら)ひき。噉ひ了(を)へて則(すなは)ち更(さら)に追ひき。 伊弉諾の尊、又湯津爪櫛(ゆつつまぐし)を投げて、此れ即ち筍(たかうな)に化成りき。醜女亦以ちて抜きて之を噉ひき。噉ひ了へて則ち更に追ひき。
【一書七】 書紀「次生海」の段の一書七は、一書六・一書九のための辞書である。関連部分を抜き出して示す。
「不須也」を注記なしに「いな」と読むのは不可能である。 漢文では「也」は語尾または文節の末につける語気詞である。記紀では、置き字として単に文を区切る機能である場合も多い。 「須」は「必須」というように「必要」という意味がある。感嘆詞「いな」(否)に、「必要ない」という漢語を宛たと思われる。 次に「之居梅枳」について。 漢字表記から意味を取り、「目で見るに凶である」とすれば意味は合う。 古語辞典には形容詞「しこめし」とある。 「しこ」には「醜」の文字があてられ、接頭語となって「しこ名」「しこ女」「しこ屋」などのが派生して一般的な語となっている。だから、意味の分かっている語にまず結びつけようとするのは適切である。 次の「汚穢」を「きたなき」と読むのは、判り易い。 このよみから、記紀以前の時代から、倭語を漢字で表す際、さまざまに訓を宛てていたことが伺える。 それらを注釈なしに伝えるのはとても困難で、宮廷の専門部署で代々口伝えしないと途絶えてしまう。 ところが、稗田阿礼はそれを再現できた。阿礼には、各時代の部族ごとに残ってはいるが、伝承が途絶えて意味不明な漢字の羅列にしか見えなくなった文を見て、もともとの倭語を推し量る特別の才能があったと思われる。 ◎ 泉津 「よもつ」というよみから、「泉」一文字で「黄泉」を表すことがわかる。また「よみ」に連体修飾の助詞「つ」がつくと、「よもつ」になることもわかる。 【一書九】 書紀「次生海」の段の一書九も、また記に対応する。
是の時、雷(いかづち)等(ども)皆起(た)ちて追ひ来(きた)りき。時に道辺(みちのへ)に大(おほ)き桃の樹(き)有り。故(かれ)伊弉諾の尊、其の樹の下に隠りて、因りて其の実を採りぬ。 以ちて雷に擲(なげう)つれ者(ば)、雷等皆退(しりぞ)き走りてあり[矣]。此れ桃を用ゐて鬼(おに)を避(さ)けし[之]縁(よし)也(なり)。時に伊弉諾の尊、乃(すなは)ち其の杖を投げたまひて曰(のたま)ひしく、「此(ここ)自(よ)り以ちて還(かへ)れ、雷敢(あ)へて不来(なこそ)。」〔ここで帰れ。いかづちは来てはならぬ〕とのたまひき。 是(これ)岐(ふなと)の神と謂ふ。此れ本(もと)の号(なづけ)にて、来名戸(くなへ)之(の)祖神(おやがみ)を曰ふ[焉]。 所謂(いはゆる)八つ雷者(は)、首(かしら)に在りて大(おほ)雷と曰ひて、胸に在りて火(ほの)雷と曰ひて、腹に在りて土(つち)雷と曰ひて、背(せなか)に在りて稚(わか)雷と曰ひて、尻に在りて黒(くろ)雷と曰ひて、手に在りて山(やま)雷と曰ひて、足上(あしのへ)に在りて野(の)雷と曰ひて、陰(ほと)の上(へ)に在りて裂(さく)雷と曰ふ。 -こう(公)…[日本語用法] 人名の略称・動物名などの下につけて、親しみや軽蔑の意を表す語。「えて公」など。(古訓) きみ。 かつての中学生の隠語「先公」もこれである。しかしここの「雷公」は蔑称とまでは言えず「頼朝公」などのような尊称だが、尊・命よりは格下と見られる。記では"雷神"と「神」とされるが、一書九では決して「神」とは書かれず、その手前である。 ◎ 脹満太高 脹…「腹の中に圧迫されるような不快感を覚える(脹満、ちょうまん)」「ものがふくれる。はれる(膨脹=膨張)」という意味があるが、ここでの意味は「膨脹」だと思われる。 ある納棺師は、自らの体験に基づいて死体が傷んでいく経過を述べている。 <納棺師の日記より> 腐敗性変色(死後20時間~48時間):遺体の下腹部から緑色に変色。 腐敗網発生(死後30時間~数日):血管に沿う形で濃い紫色の網状の変色。 腐敗膨張(死後1週間~3週間):腐敗疱腐敗ガスの発生による膨満。 死体の損壊(死後10日~数か月):ウジ虫や甲虫目による蚕食。 白骨化(死後1年~):白骨化またはミイラ化。 </納棺師の日記> この観察を参考にすると、記紀は死体が朽ち果てていく表現「蛆たかりころろぐ」「脹満太高」「八色の雷」がよくわかる。 そして、体の各部分の腐敗はあたかも化け物がまとわりついているように見える。いざなぎが逃げるや、それらは体から離れて襲いかかってくるのである。 ◎ くなと く=来、な=強い否定の終助詞。動詞の終止形の後ろにつく。と=処。つまり、この場面のいざなぎの言葉「来てはならぬ」をもって、この神名の謂れとしている。 ◎ 八雷 まず、頭・胸・腹・陰部で4か所。加えて記では手足を左右別々に数えて計8か所にしているのに対し、一書九では手・足に尻、背を加えて8か所としている。また、記の「なる」「ふす」はなく、代わりに「の」「やま」が加わっている。 それらの名称は特に深い意味はなく、「八雷」に数を合わせるためにそれぞれ適当に名を付けたような印象を受ける。 【一書十】 一書十にもこの件がある。
便(すなは)ち語(かた)りたまひしく[之曰]「汝(いまし)悲しき故(ゆゑ)に来たり。」とかたりたまひて、答へて曰(まを)ししく、「族(うがら)[也]〔「うつくしあがなせ」と同じ〕勿看吾(あれをなみそ)[矣]。」とまをしき。 伊裝諾尊、不従(したがはず)て猶(なほ)之を看(め)しき。故(かれ)伊弉冉尊之を恥じ恨みて曰(まを)ししく、「汝(いまし)已(すで)に見我(わが)情(さま)〔=状況〕を見(め)したまひき。我(われ)復(また)汝(いまし)が情(さま)を見むとしまつる。〔=私の姿を見られたのだから、あなたを追って姿を見に行くわ〕とまをしき。 時に伊弉諾尊亦慙(は)ぢたまひき[焉]。〔=自分を恥ずかしく思った〕因りて[将]出で返さむとしたまふ。于時(ときに)直(ひた)黙(もだ)し帰りたまはらずして[而]、[之]盟(ちか)ひて曰(のたま)はく「族離(うがらはなる)」とのたまひて、又曰ひしく「不負於族(うがらまけじ)」〔=離婚する〕とのたまひき。 乃(すなは)ち所唾之(つは)きし神、号(な)づけて速玉之男(はやたまのを)と曰ふ。次に掃之(はら)ひし神、号づけて泉津事解之男(よもつことさかのを)といふ。凡(あは)せて二(ふた)はしらの神なり[矣]。 其の妹(いも)与(と)[於]泉平坂(よもつひらさか)にて相(あひ)闘(たたか)へるに及びて[也]、伊弉諾尊曰(のたま)ひしく「始めに族(うがら)と為(な)りしこと悲し。哀しく思へるに及びし者(は)、是れ吾之(あが)怯(おびえ)なり[矣]。」とのたまひき。 時に泉守道者(よもつみちもり)白(まお)して云ひしく『有言矣(ことあり)』といひき。〔伊弉諾尊亦〕曰(のたま)はく「吾与汝(われといまし)は已に国を生み矣(を=終)へり。奈何(いかにそ)更に生きむと求む乎(や)。吾則(すなは)ち[当]此の国に留まらむとす。不可共去(ともにさるべからず)。」 〔お前と私は既に国生みを終えた。お前に今更生き返れとは言わないが、 私はこの国に留まる。お前と共に黄泉に行くことはできない。〕とのたまひき。 是の時、菊理媛(くくりひめ)の神亦白(まお)しし事有りて、伊弉諾尊聞こして[而]善之(これをよしとし)て、乃(すなはち)散去矣(ちりたまひぬ)〔=解散し、それぞれに去った〕。 ◎ 泉津事解之男 『私記乙本』…「事解之男【古止左加乃乎】」〔ことさかのを〕。 「不負於族」に「うがらまけじ」という訓注がついている。古語辞典によれば「うから」=親族で、上代は「うがら」であったとされる。だから最初のいざなみの言葉「族也」は「うがら=夫婦あるいは兄妹です」となり、記においていざなみがいざなぎを呼ぶ言葉「愛し我がなせの命」にあたることが判る。 一書十では、見るなと言われたのに、いざなぎの死後の姿を見て逃げ出し、恥をかいたいざなみが怒って追い、争うという大筋は共通であるが、醜女や雷神は現れず、主に手続きにこだわっている。 離婚にあたっては盟約が必要で、争いを治める為に仲介人(神)が複数登場するところが面白いところである。 泉守道者、菊理媛神は何かを助言したようだが、何を言ったかは書いていない。「一書」だから、省略されたか。 まとめ この段では、死体が朽ち果てるようすを子どもに読み聞かせることによる、教育の側面があったと思われる。生命の始めについては体の「成り成りて…」の部分で性行為を説明した。今度は死後の人体を描くことにより、生命の終わりについて説明するのである。 ここでは「いかづち」が主に「かみなり」を意味するようになるより、ずっと以前に成立した口述神話に起源があると思われることは、既に述べた。 女性が醜く変貌した姿を見られることを極端に嫌うのは当然であろう。黄泉の国にあるものはすべて忌むべきもので、仕える侍女も、また醜い風貌である。また死体の各部は化け物のようになり、見られると死体から離れて襲ってくるのである。黄泉の国は徹底的に恐ろしい国として描かれている。さらに、その位置は現在(=記紀成立の時代)の出雲国である。 出雲の国は既に律令国の一つであるが、遠い昔の民族的な憎悪の名残は隠すことができないのである。 男子は、時に蔦などを編んで環にした髪飾りを作り、装飾する習慣があったようだ。それを地面に投げると育って山葡萄になるのは、形が葡萄の蔓に似ているからであろう。櫛が筍に化す理由は想像が難しいが、筍の縦断面は、櫛に似ている。 いざなぎを追う者は一書六は醜女のみ、一書九は八雷のみである。記では、もともと2種類あった話を統合したのかも知れない。それにしてもこの部分はとても幻想的で、その面白さは比類のないものである。 桃のもつ霊力は、初期大和政権の宗教、道教の残存をうかがわせる。桃への「大神つ実」の部分は、前後の文章とは異質で、神の権威を背景とする国の支配者による人民への施しに触れる。 このように面白い話で引き付けておいた上で、時に国の支配の形を紛れ込ませ、刷り込みをするのである。うまくできている。 |
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2013.11.30(土) [041] 上つ巻(伊邪那岐・伊邪那美9) ▼▲ |
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![]() 其石置中各對立而度事戸之時 伊邪那美命言愛我那勢命爲如此者汝國之人草一日絞殺千頭 爾伊邪那岐命詔愛我那邇妹命汝爲然者吾一日立千五百產屋 是以一日必千人死一日必千五百人生也 最(もと)も後(しり)に、其(そ)の妹(いも)伊邪那美命(いざなみのみこと)の身(み)自(みづか)ら追ひ来たり[焉]。爾(ここ)に千引(ちびき)の石(いは)を引きて、其の黄泉比良坂(よもつひらさか)を塞(せ)きたまひき。 其(そ)の石を中に置きて各(おのもおのも)対(むか)ひ立ちて[而]事戸(ことど)を度(わた)せし[之]時(とき)、 伊邪那美(いざなみ)の命言(まを)したまひしく「愛(うるは)し我(あ)が那勢命(なせのみこと)よ、此(こ)の如く為(し)たまへ者(ば)汝(な)の国之(の)人草(ひとくさ)を一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)絞(し)め殺しまつらむ。」とまをしたまひて、 爾(ここに)伊邪那岐(いざなぎ)の命詔(のたま)はく「愛(うつく)し我(あ)が那邇妹命(なにものみこと)よ、汝(な)が然(しか)為(し)たまへ者(ば)吾(われ)は一日(ひとひ)に千五百(ちあまりいほち)の産屋(うぶや)を立たしたまはむ。」とのたまひき。 是以(こをもち)て、一日(ひとひ)必(かなら)ず千人(ちひと)死(しに)して、一日(ひとひ)に必ず千五百人(ちたりあまりいほたりのひと)生(う)まる也(なり)。 故號其伊邪那美神命謂黃泉津大神亦云以其追斯伎斯【此三字以音】而號道敷大神亦所塞其黃泉坂之石者號道反大神亦謂塞坐黃泉戸大神 故其所謂黃泉比良坂者今謂出雲國之伊賦夜坂也 故(かれ)其(そ)の伊邪那美(いざなみ)の神の命を号(な)づけ黄泉津大神(よもつおほかみ)と謂ひて、亦(また)其の追ひ斯伎斯(しきし)【此の三字(さむじ)音を以(もちゐ)る】を以ちて云ひて[而]、道敷大神(ちしきのおほかみ)と号(なづ)く。亦(また)其の[所]塞(せ)かえし黄泉坂之(よもつさかの)石(いは)を者(ば)道反大神(ちがへしのおほかみ)と号けて、亦(また)塞坐黄泉戸大神(さやりますよみとのおほかみ)と謂ふ。 故(かれ)其の所謂(いはゆる)黄泉比良坂(よもつひらさか)と者(は)、今に出雲国(いづものくに)之(の)伊賦夜坂(いふやさか)と謂(い)ふ也(なり)。 最後に妹であるいざなみの命自身が追って来られました。[いざなぎは]千引きの岩を引いて黄泉平坂(よもつひらさか)を塞ぎました。 その岩を間にして向い立ち離縁を言い渡し、 そのときいざなみの命は「愛しい私の兄、あなた様のみこと、[私に]このようにされた上は、あなたの国の人草を一日に1000人絞め殺すしかありません。」と申し上げ、 いざなぎの命は「愛しい私の妹、おまえのみこと、[あなたが]そうするなら一日に1500の産屋を立てます。」と告げられました。 そのようなわけで、一日に必ず1000人死に、一日に必ず1500人生まれることになりました。 そこで、そのいざなみ神のみことを名づけ、黄泉津大神(よもつおおかみ)と呼び、またこのように追ってきたいわれにより道敷大神(ちしきのおおかみ)と名付けました。またその黃泉坂(よもつさか)の岩が塞いだので、道反大神(ちがへしのおおかみ)と名付け、また塞坐黃泉戸大神(さやりますよみとのおおかみ)とも言います。 ちなみに、その黄泉比良坂(よもつひらさか)といわれる所は、今は出雲国(いづものくに)の伊賦夜坂(いふやさか)と言います。 み(身)…[名]自分。わが身。 みづから(自ら)…[副]自分自身で。直接に。 焉…[代](動詞の目的語として)これに。 所謂…「いはゆる」(「ゆる」は古い受け身の動詞「ゆ」の連体形)は、主に漢文を訓読する際に使われた。 殺…[動]人や動物の生命を絶つ。 【千引石】(ちびきのいわ) その謂れは、書紀一書六に書いてある。 「以千人所引磐石、塞其坂路」…千人(ちひと)磐石(おほいは)を引くを以て、其の坂路を塞(さ)ふ。[または塞(ふた)ぐ] つまり、千人で曳くほどの巨大な石である。 【度事戸】 書紀一書六では、対応する位置に「建絶妻之誓」とあり、一書七によれば、そのよみは「ことど」である。つまり、離縁を決めることを「ことど」という。
この場合、度は渡と同じ。「渡」はもともと水をまたいで反対側に移動する意味だが、日本語には「手渡す」、漢語で「譲渡」という使い方もある。ここでは離縁の取り決めを「言い渡す」意味だと思われる。 【人草】 「青人草」と同じ。天皇を頂点とする国では、庶民は植物のような存在である。ただ、植物が立派に育ってこそ国は豊かになる。 明治維新から第二次世界大戦敗北までの間もまた、国民は「民草」であった。 【絞殺】 一書六では「縊殺」と書かれ、同じである。 【立産屋】 一書六では、いざなぎが主体となって「産む」と表現するが、記では産屋を立てることによって人民が子を産むのを助けるという間接表現である。 【一日必千人死一日必千五百人生】 差引、一日あたり500人の増である。地上の社会では、人は寿命や病気で必ず死ぬが、一方で新しい生命も生まれる。差し引き人口は少しずつ増加するとされるのは、当時の人口が増加傾向にあったからだろう。 水田耕作地の開拓や栽培技術は少しずつ向上し、人口増が基調であったと想像される。天武天皇が集権国家の確立を目指す中で、国力を高めるために農業振興が重視されたかも知れない。 『近代以前の日本の人口統計』(Wikipedia)によると、研究によってさまざまであるが、8世紀の人口は大体500万人とされている。平均寿命が35年だと仮定すると、死亡者数は1年あたり平均7万人。1日あたり200人程度と推定される。 1日あたり500人の増加は、計算上1年の人口増加率が3.6%となり、大き過ぎる。(20年で倍増してしまう)1000人と1500人は「死亡数を上回る出生数」を意味する概念上の数字であるのは当然である。 【塞坐黄泉戸大神】 一般に「さやりますよみとのおほかみ」と読まれる。書紀一書六では「泉門塞之大神」(よみとさへのおほかみ)である。 「さやる」「さふ」は、現代語「差し障る」の「障」だが、「障」にも「ふさぐ」意味がある。 古語では、「障」はさや・る [障る] さ・ふ [障ふ] ふた・ぐ[塞ぐ]と読まれる。 古語辞典によれば「塞(ふさ)ぐ」は「ふたぐ」であった。文字通り「蓋をする」である。面白いことに、仙台では今も「ふさぐ」を「ふたぐ」と言う。[s]と[t]は調音部位が同じなので、相互転換が起こり得る。また言語は中央から波紋のように伝搬する法則があり、古い畿内の単語や発音がしばしば東北や沖縄に残っている。 話を戻すと、「ふたぐ」「さやる」はほぼ同じだから「塞坐」を「ふたぎます」あるいは「ふたぎおはす」と読んでもよさそうである。 「塞坐」の部分を「さやります」とよむなら、この段の冒頭の「塞其黄泉比良坂」は「そのよもつひらさかをさやりき」と読むことになる。もう少し資料にあたってみよう。 古典引用サイト 埋れ木に掲載されている「古典通解辞典」(丸山林平)を参照すると「塞」の読み方は「さやる」「ふたぐ」の両方があり、「ふたぐ」の意味は「ふさぐ」、「さやぐ」の意味は「ふさぐ」「さまたげる」である。 「ふたぐ」と「さやる」文例を見る。「ふたぐ」の文例は記の「このあが身の成り余れる処を、なが身の成り合はざる処に刺しふたぎて」が採用され、 「さやる」の文例も、記の「その黄泉(よみ)の坂にさやれりし石は道反(ちがへ)しの大神とも申し、またさやりますよみどの大神とも申す」が採用されている。 「塞」の読み分けに焦点を当てた研究は、なかなか見つからないので、試しに万葉集の原文(万葉仮名による表現)に検索をかけてみる。「塞」は10例あり、そのうち8例は、動詞「せく」または、それが名詞化した「せき(堰、関)」で、「ふさぐ」「さまたげる」の意味である。その他の3338番は、恐らく「さやれる」と読み「さまたげる」意味。 3225番は副助詞「さへ」(または、動詞「冴ゆ」の連用形「さえ」)が、読みを借りたものである。 以上から、万葉集には「せく」が多く「さふ」は少ないが、存在したことは確実である。一方「ふた-ぐ」は万葉集にはないので、一般にどの程度使われていたかは不明である。 また、「黃泉戸」の読み方にも疑問が残る。一書六では「泉門」と表記されるので「戸」が「と」あるいは「ど」と読まれるのは間違いない。 「黄泉」はここでは「よもつ」ではなく「よみ」になっている。「よもつ」は古い語形で、おの後「よみ」のまま接続するようになったと思われるが、これを区別する根拠も見つけられない。 このように疑問は残るが、伝統的に「よみと」なのをあえて覆すには、充分な根拠が必要である。
また、出雲風土記に「意宇郡 社 伊布夜社」という記述がある。 以上から地名「いふや」が確定する。この日本書紀の記事は不気味な内容であるが、注記で天皇の死を兆しとされているので、死後の世界につながる場所と考えられていたことがわかる。 ただ、現在はこの地名を見つけ出すことはできない。 【一書六】 書紀「次生海」の段の一書六は記と類似している。
一(ある)に云ふ。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、乃(すなは)ち大(おほ)き樹(き)に向ひて尿(ゆばり)を放ちたまひて、此(これ)即(すなは)ち巨(おほ)き川と化成(な)りき。泉津(よもつ)日狭女(ひさめ)、[将]其の水を渡らむとせし[之]間(ま)、伊弉諾尊、已(すで)に泉津平坂に至(いた)りたまひき。 故(かれ)、便(たやすく)千人所引磐石(ちびきのいは)を以ちて、其の坂路(さかぢ)を塞(せ)きて、伊弉冉尊(いざなみのみこと)与(と)相向ひて[而]立たして、遂(つひ)に絶妻之誓(ことど)を建てり。 時に伊弉冉(いざなみ)の尊曰(まを)したまひしく「愛也(うつくしや)吾夫(わがせ)の君や、此の如く言ひたまへ者(ば)、吾(われ)[当]汝(いまし)の[所]治めたまはむ国の民(みたみ、おほみたから)を、日(ひ)に[将]千頭(ちがしら)縊(くび)り殺すべし。」とまをしたまひき。 伊弉諾(いざなぎ)の尊、乃(すなは)ち之に報(むく)いて曰(のたま)ひしく「愛也(うつくしや)吾妹(わぎも)や、此の如く言ひたまへ者(ば)、吾則(すなは)ち[当]日に千五百頭(ちたりらあまりいほたり)を産むべし。」とのたまひき。 因りて曰(のたま)ひしく「此れ自(よ)り過ぐること莫(な)し。」〔=これですべて終わった〕とのたまひき。 ――ここまでは、記とほぼ一致しているが、「一云」としてつけ加えられた放尿の部分は記には採用されない。「日狭女」(ひさめ?)はいざなぎを追ってきているので、「醜女」(しこめ)の別名かも知れないが、ここ以外に出てこないなので何とも言えない。 次に、記では「禊をしよう」と独り言を言うが、一書六では「自此莫過」として、直接禊には触れられない。以下、脱ぎ捨てた衣服などから生じた神が列挙される。それらと記との対応を見ておく。
最後に、黄泉戸を塞いだ石が神として命名される。
【一書七】 上記の一書六への辞書である。
まとめ いざなみは、いざなぎと共に国生みという大切な役割を果たした。しかし、最後は穢れた黄泉の国にいて人の死を支配する神となった。記紀には古代出雲への憎悪の名残とともに、女性を穢れの性だとする思想が貫かれている。 女性は、命を産み育てる性であるにもかかわらずである。これは、古事記の思想は男性優位であることを決定的に示すものである。 それはまた、神から繋がる天皇の系図は完全な男子系列でなければならないことと一体である。(以前述べたように、天皇の系図の確定は天武天皇が築こうとする中央集権国家の基礎になる) 記紀と魏志倭人伝はなぜ、このように内容がかみ合わないのか疑問があったが、ここにその理由があったのだ。 つまり、記紀においては、子を残さなかった女王卑弥呼は、天皇の系図から排除すべき存在であった。 |
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2013.12.21(土) [042] 上つ巻(伊邪那岐・伊邪那美10) ▼▲ |
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![]() 而到坐竺紫日向之橘小門之阿波岐【此三字以音】原而禊祓也 是以(こをもちて)、伊邪那伎大神(いざなぎのおほみかみ)詔(のたま)はく「吾(われ)者(は)、伊(い)那(な)志(し)許(こ)米〔上声〕(め)志(し)許(こ)米(め)岐(き)【此の九字(ここのもじ)音(こゑ)を以ちてす。】穢(きたな)き国於(に)到りて[而]在り祁(け)理(り)【此の二字(にじ)音を以(もちゐ)る。】。故(かれ)吾(あれ)者(は)御(おほみ)身(み)之(の)禊(みそぎ)を為(せ)む。」とのたまひて、 [而]竺紫(つくし)日向(ひむか)之(の)橘(たちばな)の小門(をど)之阿(あ)波(は)岐(き)【此の三字音を以る。】原に到(いた)り坐(ま)して[而]禊(みそ)ぎ祓(はら)ひたまひき[也]。 故於投棄御杖所成神名衝立船戸神 次於投棄御帶所成神名道之長乳齒神 次於投棄御囊所成神名時量師神 次於投棄御衣所成神名和豆良比能宇斯能神【此神名以音】 次於投棄御褌所成神名道俣神 次於投棄御冠所成神名飽咋之宇斯能神【自宇以下三字以音】 次於投棄左御手之手纒所成神名奧疎神【訓奧云於伎下效此訓疎云奢加留下效此】 次奧津那藝佐毘古神【自那以下五字以音下效此】 次奧津甲斐辨羅神【自甲以下四字以音下效此】 次於投棄右御手之手纒所成神名邊疎神 次邊津那藝佐毘古神 次邊津甲斐辨羅神 故(かれ)御(み)杖(つゑ)を投げ棄(う)ちし所に[於]成れる神の名は衝立船戸(つきたつふなと)の神、 次に御(み)帯を投げ棄ちし所に[於]成れる神の名は道之長乳歯(みちのながちは)の神、 次に御(み)嚢(ふくろ)を投げ棄ちし所に[於]成れる神の名は時量師(ときはからし)の神、 次に御(み)衣(きぬ)を投げげ棄ちし所に[於]成れる神の名は和(わ)豆(づ)良(ら)比(ひ)能(の)宇(う)斯(し)能(の)神【此の神の名、音(こゑ)を以(もちゐ)る。】、 次に御(み)褌(はかま)を投げ棄ちし所に[於]成れる神の名は道俣(ちまた)の神、 次に御(み)冠(かがふり)を投げ棄ちし所に[於]成れる神の名は飽咋(あきぐひ)之(の)宇(う)斯(し)能(の)神【「宇」自(よ)り以下(しもつかた)三字音を以る。】、 次に左の御(み)手之手纒(たまき)を投げ棄ちし所に[於]成れる神の名は奧(おき)疎(ざかる)の神【奧を訓(よ)み於(お)伎(き)と云ふ。下に此れ效(なら)ふ。疎を訓みて奢(ざ)加(か)留(る)と云ふ。下に此れ効(なら)ふ。】、 次に奧(おき)津(つ)那(な)芸(ぎ)佐(さ)毘(び)古(こ)の神【「那」自(よ)り以下五字音(こゑ)を以る。下に此れ効(なら)ふ。】、 次に奧(おき)津(つ)甲(か)斐(ひ)弁(べ)羅(ら)の神【「甲」自り四字音を以る。下此れに効ふ。】、 次に右の御(み)手之手纒(たまき)を投げ棄ちし所に[於]成れる神の名は辺(へ)疎(ざかる)の神、 次に辺津那芸佐毘古(へつなぎさびこ)の神、 次に辺津甲斐弁羅(へつかひべら)の神といふ。
元明天皇は、古事記の上梓されたときの天皇である。以後、橘氏の子孫が各地に分散した結果地名になったのか、古事記以前に「橘」族が阿波辺りを中心に広く分布していたかは不明である。 なお、出雲地方を避けるかのように九州→四国→近畿と分布している点は、地名「あま」と一致する。 これらのうち「竺紫日向之橘小門」に一致するのは、宮崎市橘通である。 書紀一書十では、「粟門」(あわのみと)「速吸名門」(はやすいなと)が流れが急すぎたので、「橘之小門」に戻って穢れを払うことにしたとある。 粟門は鳴門海峡、速吸名門は豊予海峡とされる。その結果日向の国の小さな海峡を選んだ。なお、速吸門(はやすいのと)は神武天皇が吉備の国高嶋宮に滞在した後、浪速之渡(古代河内湾の入り口)までの途中に通るので、だとすれば明石海峡である。 どこに行ったとしても、神話だからかまわない。 ただ、黄泉の国とされた出雲の入り口から逃げ還った場所は、大倭豊秋津島の中心地の畿内方面だろうから、一書十で鳴門海峡や豊予海峡から「還る」先が宮崎県というのは不自然な印象を受ける。 地名「阿波岐原」は阿波国を連想させる。もともとは鳴門海峡の近くの小さな海峡または入江(小門)だから、阿波の国にあると考えるのが自然である。 現在の徳島県大字橘の近くの湾には「橘港」がある。九州南部から到来したあま族の東への移動経路を暗示する「海部」という地名も、何やら関係を匂わせる。 従って、もともとの言い伝えでは、いざなぎが禊をした入江は阿波国にあったが、記を編集する段階で、日向の国に移した可能性がある。 この想像が正しいとすれば、その理由は何か。「日向国」の地域がもつ特別な意味について、もう一度振り返ってみる。
これらのうち「肥国」の古名に「日向」が含まれるのは不思議である。もともと「日向」は、後の日向の国の位置ではなく「建日別にむかう」意味だった可能性がある。 南九州には倭に服従しない勢力があったと見られる。ひとつの裏付けとしては、鹿児島県に残る前方後円墳は志布志湾周辺に限られ、それ以外は最後まで浸透していないまま古墳時代の終わりを迎える。 大和政権にとって、その征服は長年の課題であった。その期間は卑弥呼の時代(3世紀ごろ)から奈良時代初頭に及ぶと思われる。 筆者は、卑弥呼に敵対した狗奴(くな)国が九州南部の勢力につながるのではないかと想像した。 そして、熊襲との戦いの記憶が、日本武尊の派遣や景行天皇の親征の記述に反映したのである。 熊曾国の古名「建日別」(たけひわけ)は、「たけ」は武装して対峙する国を想起させる。
古墳時代後期は、現在の宮崎市付近が主要な戦いの地だったので、この地域が「日向」と呼ばれるようになった。その侵攻を合理化するために、神話で天孫降臨の地を日向の国とし「民族のふるさとを取り返す」という「根拠」を与えたと考えることができる。 記紀の時代は、すでにこの地域を律令国に編入していたとは言え、苦労して服従させた戦いは記憶に新しく、物語が残された。 以上から、日向が天孫降臨の地であり、またいざなぎが穢れを払う、さらに天照大御神が生まれた場所と位置づけられた。宮崎市には「橘」や「阿波岐」を含め記紀にまつわる地名が残り、定着している。だがその地が比定地とされたのは、記紀が編纂された後のことであろう。 【いざなぎが脱ぎ捨てた衣服など】 杖…一書九では、これを黄泉からの追手を防ぐために投げ捨てたものである。記では、禊のために放り投げた場面にまとめられている。 帯…「着物を着るとき、腰に巻いて結ぶもの」で間違いないだろう。 嚢…物入れ袋を持っていたようだ。 衣…上代は、「きぬ」「ころも」があり「きぬ」は特に上半身にまとうものとされる。 褌…古語辞典によれば、上代は「犢鼻褌(たふさぎ)」だったとされるが、書紀の用例で調べてみる。紀五巻『崇神天皇紀』に「亦其卒怖走、屎漏于褌。」という文がある。卒は兵卒、屎(くそ)は糞便。反乱軍の首領であった埴安彦に、鎮圧軍の矢が命中し、反乱軍の軍勢は総崩れになった。怖気づいて敗走する兵卒には、褌の中に脱糞する者があった。この文からは、褌が下半身の衣類であったのは明白である。 続けて地名譚があり「褌屎處曰屎褌。今謂樟葉訛也」、つまり褌屎を逆転して屎褌としたものが、訛って「樟葉」(地名/くずは…大阪府旧・北河内郡樟葉村の地域)となったとする。「くそ」が訛って「くす」になっていることから、褌は「は」に近い読みでなければならない。岩波文庫の日本書紀を参照すると、「褌」を股引のような着衣として「はかま」と読んでいる。「は」で始まる語だから、「たふさぎ」よりは辻褄が合う。 冠…日本の「冠」は、中国に影響を受け604年に冠位十二階を定めたのが最初である。それ以前は、後漢書(636年成立)で「頭亦無冠,但垂髮於兩耳上」(頭には冠はなく、角髪(みずら)を結う)とされるなどと描写されている。ここでいう「冠」は、いざなぎが頭に被っていたものを指す。以前、醜女(しこめ)に追われた際、鬘(かずら=頭につける蔦かざり)を投げ捨てているので、さらに冠をかぶっているのは辻褄が合わない。 いざなぎが投げ捨てたものを、8点(手纒は左右別々に数える)に数を揃えるために、着衣や装飾品を適当に挙げた印象を受ける。 手纒(たまき)…「身に着けていたもの」のひとつを指す。装身具、籠手のどちらもありそうだが、特に問題にはならない。 【衝立船戸神】(つくたてふなとの神) この神だけは、一書九でもその謂れが説明されている。もともとは、追ってくる八雷を防ぐために杖を投げたとき、「くなと」(=くるな)と言ったことが元々であるとする。 しかし、記では禊の場面で、衣服・持ち物等投げ捨てたものの中にまとめられている。 【その他の十一神】
書紀一書六では、帯:長道磐(ながちは)の神、衣:煩(わづらい)の神、褌:開囓(あきぐい)の神、履:道敷(ちしき)の神である。 神名は、褌以外は記と大体一致する。ただし、一書六では投げ捨てた品は杖を加えて五点である。一書六は古い吉数五、記は新しい吉数八が用いられる。 記は一書六の伝承を引き継ぎ吉数八に合わせて拡張するために、冠、袋と左右の手纒を加え、逆に履物を省く。また足に履くものを他の品々と同格に扱うことを避け、手に装着するものに置き換えたのかも知れない。また追加するために必要な神は、数ある神々から適当に拾い上げた印象を受ける。 奥津・辺津の六神はもともとセットだったので、それを崩すことを避け、そのまま左右の手纒に割り振ったのかも知れない。その結果神は八柱に揃えることはできず、十二柱という中途半端な数になった。 【一書六】
〔伊弉諾尊は、もう(黄泉から)戻り、振り返り悔やんで言うに「私は決して行ってはならぬ穢れた場所に行ってしまった。だから、わが身の穢れを滌(あら)い清めるべきである。」と。そこで筑紫日向(ひむかい)小戸(おど)橘の檍(あわぎ)原にいらっしゃり、穢れを祓い除かれました。〕
【一書七】(再録) 不須也凶目汚穢、此云二伊儺之居梅枳枳多儺枳一。 〔いなしこめききたなき〕 檍、此云二阿波岐一。 〔檍は「あはぎ」と読む〕 【一書十】
〔いざなぎは黄泉の国を見ただけだが、それでも不吉なので穢れを濯ぎたい。粟門も速吸名門も潮流が激しすぎるので橘の小門まで戻って灌いだ。〕 粟門は現在の鳴門海峡とされるが、渦潮で有名なように潮流は速い。速吸名門あるいは速吸門は一般に豊予海峡と考えられているが、記では神武天皇の移動経路の部分に限って、明石海峡と見た方がよい。明石海峡も潮流が速い。そうすると、橘之小門は淡路島内のどこかの入江が一番ありそうな場所であるが、それらしい地名は見つからない。 周辺には、「兵庫県川西市小戸」がある。昔は海だったかも知れないが、それらしい遺跡はなさそうである。 一書十には「筑紫」も「日向」も出てこない。書きっぷりも簡潔なので、一書十が伝承の原型かも知れない。後に、「還向」の「向」の字が「日向」につながっていった可能性はある。 まとめ 今回の重要問題は、いざなぎの禊の地はどこだったかということである。書紀の本文及び記では「日向の国」としているが、編纂の段階で政治的に定めた可能性がある。民族のふるさとは、日向の国でなければならなかった。景行天皇の親征が、民族発祥の地を取り戻す神聖な戦いであると描くためである。だが、真実の大和政権発祥の地は畿内であり、いざなぎの禊の伝説も、元々は畿内に近い阿波の国が舞台であった。 いざなぎは水浴するにあたって、穢れた衣類や装飾品を脱ぎ捨てた。それらには、合理性を欠く「冠」や手提袋のようなものが含まれる。そこから出現する神も雑多である。だが、それより八点という数が守られなけれがならない。それほど「八」が大切なのであった。 |
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⇒ [043] 上つ巻(伊邪那岐・伊邪那美11) |