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⇒ [016] 序文(天武天皇8) |
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2013.05.01(水) [017] 序文(稗田阿礼1) ▼▲ |
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於是天皇詔之 朕聞 諸家之所賷帝紀及本辭 既違正實 多加虛僞 當今之時不改其失 未經幾年其旨欲滅 是に於いて天皇之を詔(つ)ぐ。「朕聞くに諸家之(の)帝紀及び本辞を賷(もたら)す所は、既に正実を違(たが)え、多(おほ)きに虚偽加(くは)はる。当(も)し今の時に其れ失ふを改めざれば、幾年を経ずして其の旨(むね)欲(まさ)に滅ばむとす。 ここに、天皇(すめらみこと)はこう詔(つ)げられました。「朕(ちん)の聞くところでは、諸家に伝わる帝紀[帝の系譜]、本辞[言い伝え]は既に真実と違ってきており、多くは虚偽を加えられた。もし今この時、失われてしまうのを改めねば、何年も経たぬうちに、本当の内容が消滅してしまうであろう。 賷(セイ、サイ)…=齎。[動]あたえる。もたらす 旨…[名]意図。考え。 当…[接]もし。文頭に置いて仮定の条件節をつくり、主節に連ねる。 欲…[副]連体修飾語として動詞の前に置き、間近にある状態や行為が起こりそうであることを表す。 欲滅…まさに滅ばむとす 【之】 古事記序文では「之」が頻繁に使われるが、その文法的役割がよく分からない場合がある。「之」は漢文では、文の構造を確定するために大切な語で、以下の役割がある。 [動詞]行く [代名詞] ①これ。彼。この ②自動詞や、名詞、形容詞を動詞化していることをはっきりさせたいときに、形式的な目的語として「之」をつける。訳さなくてもよい。 [助詞] ①「名詞A+之+名詞B」とすると、日本語の助詞「の」や、英語の「's」と同じ役割をする。 ②「目的語O+之+動詞V」は、「動詞V+目的語O」の倒置を表す。目的語を強調したいときなどに使う。 ③「主語S+之+述語P」の形は、全体が名詞節になり、主語や目的語に使う。英語のthat節と同じ。 [接続詞]~と。=与。=之与。英語の「and」 [前置詞]~に対して(対象)。~より(比較の対象) 【詔之】 "之"は、代名詞「これ」として、次の「朕聞~」を予告する。ただ、代名詞は既に使用された名詞を繰り返す代わりに使うものだから、「予告」は変則的な使い方である。中国哲学書電子化計画で「詔之」で検索をかけるて調べると、「之」は、どれも普通の使い方(前の内容を受ける)である。 この文の場合「朕聞~」は「詔朕聞~」として直接「詔」の目的語になり得るので、ここの"之"はなくてもよい。 ここからは文体ががらりと変わり、直接的でわかりやすい文章になる。「朕聞~」以下、稗田阿礼が天武天皇から聞いた言葉を、太安万侶に伝えたと見られる。「天皇の言葉は勝手にいじらない」というルールがあったとすれば、天武天皇の実際の言葉に近いものを知ることができる。 文意は明瞭であるが、「正」「誤」の判断基準が問題である。結局は、天武天皇の即位の正統性を裏付ける資料が「正」で、反する資料が「誤」と判断されるのであろう。 |
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2013.05.01(水) [018] 序文(稗田阿礼2) ▼▲ |
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斯乃 邦家之經緯 王化之鴻基焉 故惟 撰錄帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉 斯(これ)乃(すなは)ち、邦(はう)家(け)之(の)経緯にて、王(わう)化(け)之(の)鴻(こう)基(きとなす)焉(なり)。故(ゆゑ)惟(おも)ふに、帝紀を撰録、旧辞を討(たう)覈(かく)す。偽を削り実を定め、後葉(後の世)に流さむと欲す。 これすなわち、諸国の筋目であり、また王化[民に徳を広める]の大いなる基本である。そこで、帝紀[帝の系図]を整理記録し、旧辞[旧い出来事]を調査検討しようと思う。虚偽を削り真実を定め、後世に伝えたい。」 斯…[代]これ [接]ここに 乃…[動]~である。「すなわち」と訓読する。[接]すなわち 邦…[名]くに。天子から封建された諸侯国。 家…[名]王朝。国家 王化…王者の仁徳により万民を感化し世の中をよくすること 鴻…[形]おおいなる 焉…[助](語気)~なり 惟…[助](文頭に置き)これ(実質的な意味はない) [動]思う 覈(かく)…[動]しらべる 実地に調査する 経緯…縦糸と横糸。整え治める 流…[動]ながす。伝え広める 後葉…後の世 【対句構造】 斯乃、「邦家之経緯―王化之鴻基」焉。故惟「撰録帝紀―討覈旧辞」「削偽―定実」、欲流後葉。 【斯乃・故惟】 「乃」を動詞と考えれば、「斯」が代名詞で主語、「邦家之経緯」「王化之鴻基」が目的語となり、文として成立する。その場合は「惟」も動詞と考えるべきであろう。その目的語はバランス上「撰録帝紀、討覈旧辞」までか。 一方、「惟」を置き字とすると、「斯乃」も複合化された接続詞と見なすことになる。その場合「邦家之経緯、王化之鴻基」の解釈が難しくなる。 意味は、要するに「帝紀・旧辞の誤りを正す努力が、政治を秩序あるものにし、人民に徳を広めるために基礎になる」である。これは、文法をどう解釈しようが明らかである。 【邦家之経緯・王化之鴻基】 前回の文では、「もし今すぐ手を打たなければ、旨が失われてしまう」として、反語的に「正しい帝紀・旧辞を定めなければならない」と主張した。ここでは、それが邦家と王による統治の基盤になると言っている。 「邦家」のもともとの意味は中国における「冊封国」で、王は諸侯王である。だから、この文は天皇の統治に関するものではなく、支配下の各地の王に向けた言葉である。日本は中国的な冊封体制とはおそらく異なるが、各地の豪族の連合体であった国家を中央集権的に統合することが、課題だったことが分かる。 「歴史」(神話時代を含む)の内容が豪族ごとにばらばらでは、統一国家ではない。各地の王は、民に正しい歴史と伝統を広げなければならない。そして各地で広める歴史は、その王の上に厳然と立つ天皇によって、統一されたものでなければならない。 それが、整然とした国づくりの基盤であると言っているのである。同時期の7世紀後半には、氏姓制度の再編が進んでいる。特に帝紀の整備は、天皇の系図の中で、各氏姓への分岐点を定める作業である。これは、氏姓制度再編のまさに要である。 日本書紀には全30巻のほかに<wikipedia>系図一巻が付属したが失われた</wikipedia>とある。これは、その後ある時期に権力を握った、どれかの勢力によって意図的に破棄されたのであろう。その氏姓の出自が、日本書紀の系図では芳しくなかったからである。 序文を詳しく読んでいくと、古事記、そして日本書紀を編纂させた意図がよりはっきりしてくる。ひとつは、各氏姓に天皇の国家における先祖の位置づけを定め、国家体制に前向きに帰順させること。もう一つは公認の歴史を一般人民の共通認識にして精神を支配するためである。 そう考えると、序文前節最後の文の意味の見えてくる。前者については、系図上の位置づけへの論理的な説得力が必要だから、「智海浩汗、潭探上古」つまり"事実"を詳しく並べて知的に深い内容を湛える。後者には、心情に訴えるために「心鏡煒煌、明覩先代」として感覚を研ぎ澄まして心躍らせる神話を用意するのである。 |
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2013.05.02(木) [019] 序文(稗田阿礼3) ▼▲ |
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時有舍人 姓稗田 名阿禮 年是廿八 爲人聰明 度目誦口 拂耳勒心 時に舎人(しゃじん)、姓を稗田(ひえた)、名を阿礼(あれい)とするもの有り。年是れ二十八。人聡明を為し、目に度(わた)り口に誦(とな)へ、耳を払ひ心に勒(きざ)む。 そこにたまたまいたのが、姓を稗田、名を阿礼という仕え人でした。年齢は28歳でした。その人は聡明で、目を通して口で誦えれば、聞く者の耳に清らかに伝わり、心に刻みました。 舎人…とねり。<日本大百科全書(Web)>6世紀後半ころ国造(くにのみやつこ)またはその一族で朝廷に貢進され、天皇や皇族の護衛と雑役を勤めた下級官人。</日本大百科全書> 聡明…かしこく、道理によく通じているさま。 是…[動]これ。意味は"be"だが、「これ」と訓読する。 【対句構造】 時有舍人。姓稗田、名阿禮、年是廿八。為人聡明、「度目誦口―払耳勒心」 一般的に「誦」は「暗誦」であるとされている。私は以前、とんでもない誤解をしていた。<私の誤解>古事記の時代まで日本には文字で記録をとる習慣がなく、語り部がアイヌの「ユカラ」のように口述で伝承し、稗田阿礼もその一人であり、それを史上初めて太安万侶が文字で書き取った。</誤解> しかし、日本語の漢字表記が、それまで全く存在せず、ある瞬間に突然出現したはずがない。文字表現というのは、何世代もかけて徐々に形成されていくものである。 念のために挙げれば、5世紀の稲荷山古墳の鉄剣の漢字による象眼とか、魏志倭人伝の倭人自身による漢字表記とか、証拠がいろいろある。 ここでは「暗誦」という一般の解釈を、白紙の状態に戻して考えてみる。 最初に、辞書的な解釈から。どの辞書でも「誦」の原意は「節をつけて詩文を読む」意味であって、暗誦であるか否かを問わない。 だから何も見ずに誦する場合は、特に「暗誦」という。「誦」が、暗誦を指す場合もあるが、辞書では後ろの方の派生的な意味である。 ここでは、天智天皇の目的実現に向けての方法論からアプローチしてみる。 《「天武天皇が必要としたこと」という観点から》 天武天皇がやりたかったことに、稗田阿礼の才能が役立った。これは間違いない。それでは、やりたかったことは何で、役立った才能とは何か。 ①やりたかったこと: さまざまに伝わっている帝紀・旧辞から"誤り"を削り、"正しき"を後世に伝える。そのために必要な作業: 雑多な資料を広く集めて読み取り、比較検討する。 ②そこにちょうど現れた稗田阿礼の才能: ア聡明である。イ目で見たものを口で読み上げることができる。まだ続きがあるが、あとで触れる。 《必要な能力》 上記①ために、必要な能力を掘り下げる。 ア まず、字を読めること。これは冗談のようだが、そうではない。一つの例として、今私が行っているのは、日本語を漢文"的"に表現した漢字の羅列を、理解できる日本語にして読み取ろうとする作業である。辞書を使ったり、ネットで必要な資料を探したりしてやっと読み進んでいる。 もしその上さらに、手書きの草書体から直接読み取れと言われたらどうするか?私の場合、読みこなすのは絶望的である。まだある。古事記の本文は、時々音読みを含み、親切な注記のおかげでやっと読み取れるが、音訓が断りなく混在していら読み取りは相当困難だろう。 また天皇の手元の資料、収集した資料には、その時点から100年も200年も遡る古文書も含まれ、馴染みのない書き方もあったはずである。従って、音訓が混合・言い回しが古い・字体がさまざま、そんな困難を苦にもせず読み取り、普通の話し言葉で読み下してくれる人がいれば、作業の能率を大いに高めるであろう。 そのとき、ちょうど目の前に、そんな才能を備えた稗田阿礼という人がいたのである。 また、資料は口述資料ではなく、主に文献資料であったと考えられる。なぜなら、目・耳のうち、最初に「度目」と書いてあるからである。阿礼の仕事は、まず「目で見る」ことだったのである。それを高度な知識と理解力によって簡単に読みこなした。実に「聡明」な人であった。 ただし、ここは結論を急がず、ほかにも目的に役立つ才能がないか考えてみる。 イ 記憶力が並はずれている。同じ対象を書いた複数の文書に相違があり、比較検討したいときに、資料名と場所を指定すれば、すぐ暗誦してくれる人がいれば極めて能率よくことが進む。 以上をまとめると、種々雑多な帝紀・旧辞を能率よくあたるのに最も適した才能は、判読困難な資料を「容易に理解して読み上げる」ことである。さらに記憶力が優れていれば、もっとよい。ただ、理解力に優れる人は、覚えることが苦手だったりする。逆に内容が理解できなくても、覚えるのは得意なタイプの人もいる。 《阿礼の特性》 さて、ここで上記②の後半で保留してあった部分を含め、阿礼の才能についてもう一度考えてみる。 ア 度目…目を通す。「聡明」であり、一通り目を通すだけで難読文字も難なく理解し、音訓も瞬間に判断して、口語に直すことができる。 イ 誦口…読み取ったことを音声にして口から出す。 ウ 払耳…イの音声が聞く人の耳に届く。その声は耳を払う、つまり、意味のある言葉として清らかに耳に入る。(だからどうしても女性の声をイメージしてしまう) エ 勒心…そして、その音声は理解できる言葉として心に刻まれる。もう、その意味に疑問の余地はない。 私は、ア・イの主語は阿礼、ウ・エの主語は研究者と判断した。だがこれまで見た翻訳では、ア~エまで全部阿礼が主語になっている。つまり、阿礼は「目で見て口誦し、また耳にしたことを心にすぐ暗記できる」と読み取られてきた。 しかし、私は最初に読んだ時に、情報の流れ、(阿礼の目)⇒視覚情報⇒(阿礼の脳)⇒音声情報⇒(研究者の耳)⇒聴覚情報⇒脳内情報、を感じ取ったのである。「耳を払う」という表現も、自分から耳を傾けて聞きに行くわけではなく、声の方から耳を清めるようにして飛び込んでくるようなイメージが浮かぶ。その声を発したのは阿礼なのである。 《天皇が命じたこと》 結局天皇が阿礼に命じたのは「記憶して暗誦できるようにしてください」ではなく、「あなたの才能を生かして、解読困難な文書を、意味の分かる言葉で読み上げられるようにしておいてください」であったはずである。 それに加えて暗記力抜群なら、鬼に金棒である。研究者が、「ここをちょっと確かめたいな」と思ったときにキーワードを言えば、間髪入れず出典と該当箇所を暗誦してくれる。さしずめ現代ならコンピューターを使って、膨大な文献からキーワードで検索するところを、阿礼を生きたデータベースとして機能させたのである。 しかし、それらのうちどちらが大切かと言えば前者で、「度目」したものを難なく「誦口」し、安万侶のような研究者に「払耳」し「勒心」させてくれる能力である。 《使用された歴史資料はどうなったか》 ところで、古事記・日本書紀の原資料として、批判的検討に使われた古文書はどうなったか? まず、逆に残っている方の理由を考える。古事記・日本書紀が残っているのは、朝廷の公式文書だったから、無数に筆写されたので、そのごく一部が運よく蔵に残ったのである。現に今に残る写本は最古のものでも、古事記が1371年、日本書紀が部分的に9世紀である。それ以外の文書は筆写される機会を失ったので、残る確率が低すぎる。 ただ、キリスト教における死海文書の例があるから、全くないとも言い切れない。日本で3世紀ごろの木材がそのまま残った例としては、青谷上寺地遺跡がある。これは、建物が壊された後の廃材を環濠に廃棄したものが、水分を含んだ泥の中で、全く劣化せずに1700年保存されたのである。 仮に、木簡を簾状に糸で繋いだものに墨書し、巻物にして保管してあったとする。戦乱に遭えば燃えて残らないが、都の移転のとき、そのまま池に大量に捨てたとすれば、残るはずである。その条件にあう候補地を絞り込んでピンポイントで発掘してみたらどうかと思うのである。 |
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2013.05.04(土) [020] 序文(稗田阿礼4) ▼▲ |
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卽 勅語阿禮 令誦習帝皇日繼及先代舊辭 然 運移世異 未行其事矣 即ち阿礼に後を勅(ちょく)し、帝皇(すめらみことの)日継(ひつぎ)及び先代旧辞を誦習せ令(し)む。然るに運(めぐ)りは移り世は異なり、未だ其の事行わざりき。 そのような訳で、阿礼に勅し、天皇の系図と先人の言い伝えを詠み習うよう命じられました。けれども時が移り、世も変わり、未だそのことは行われませんでした。 誦習…繰り返し読み習う。暗記して習う 日嗣、日継…ひつぎ。日の神(=天照大神)の命で大業を継がせるという意味。 矣…[助](語気)完了などを表す。 【勅語】 「天皇の意思による法律」を意味する「勅語」は明治時代の用語である。日本書紀には1例もない。古事記でも、この1例だけである。この時代は熟語にはなっておらず、単に「このような語を命じた」ものと考えられる。 【令】 使役動詞の場合、「令+人物+動詞」の形式をとる。ここでは、人物が阿礼であることは明らかなので省略された。「人物」が省略されることは比較的少ないが、『日本書紀』にも、中国の『史記』にも例はある。 【帝皇日継】 「旧辞」を「先代旧辞」と4文字で表現するのに合わせて、「帝紀」を4文字で表したものと考えられる。この表現から、「帝紀」が天皇の系図を意味することが逆に確定する。 では、なぜここだけ4文字表記になっているか。それは、ここでは天皇が阿礼に実際に命じたときの表現に従っているからだと思われる。 【帝皇】 「皇帝」を逆順にした「帝皇」は、古事記では、序文以外にはただ一か所、允恭天皇の記事に出てくる。 新良國主、貢進御調八十一艘。爾御調之大使、名云金波鎭漢紀武、此人深知藥方。故、治差帝皇之御病。 新良国=新羅国とされる。「調」は税「租庸調」のうち各地の特産物を指す。だから >船81艘分を貢献しに訪れた。大使は名前を「金波鎭漢紀武」と言い、漢方薬の知識が深いので、允恭天皇の病気を治癒させた。 なお、"差"には、病が癒えるという意味がある。この例の場合「帝皇」=天皇は明らかである。ただ他にはない呼び方なので、新羅国は日本の天皇をそう呼んだのだろうか。 日本書紀でも調べてみると「帝皇」は2例あり、そのうち「巻11仁徳天皇紀」では、「纏向玉城宮御宇天皇」(まきむくたまきのみやのみうすめらみこと)の勅旨を引用している。なお、"御宇"="御世"である。 勅旨、凡倭屯田者、毎御宇帝皇之屯田也。其雖帝皇之子、非御宇者、不得掌矣。 >倭の屯田はすべて御世の帝皇の屯田である。帝皇の子といえども、御世の帝皇ではないので、手にすることはできない。 この文の場合「帝皇=天皇」は明らかである。 参考のために「皇帝」が使われてる場所を調べると、古事記で2か所だけである。1か所は序文の中国風韻文。 もう1か所は下巻に、おそらく後から書き加えられた題名「起大雀皇帝盡豐御食炊屋比賣命凡十九天皇」 >大雀皇(おおさざきのみこと)=仁徳天皇=から起こし、豊御食炊屋姫命(とよみかしきやひめのみこと)=推古天皇=まで帝を尽くす。全部で十九天皇。 「大雀皇」と「帝」は分離しているとみられるので「皇帝」ではない。その他「帝」が単独で4例があるが、すべて音を借りるためのもので、「帝」の意味はない。 日本書紀には、推古天皇の記事中の「其書曰、皇帝問倭皇。」の一例だけである。しかし、"皇帝"は中国皇帝のことである。だから、記紀では「天皇」を「皇帝」を呼ぶことはない。 また、中国の史記などの歴史書を見ると、「皇帝」は無数に使われる一方「帝皇」は皆無である。検索をかけるといくつか出てくるが、すべて「…皇帝。皇后…」など、別の単語がたまたま続いた場合である。 【運移世異】 「世」が名詞、「異」が述語なので、それに揃えて「運」を名詞としておく。辞書によると、名詞「運」の中心的な意味は、「惑星の運行」など、きまった経路を周期的に巡ることである。
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2013.05.05(日) [021] 序文(元明天皇1) ▼▲ |
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伏惟 皇帝陛下 得一光宅 通三亭育 伏して惟(こ)れ皇帝陛下は徳一にて光宅し、通三にて亭育す。 皇帝[天皇]陛下は、得一にて光宅され[陛下お一人の徳を国に大きく広げられ]、通三にて亭育されます[天地人を貫く王道により深く養われます]こと、伏して拝察申し上げます。 【対句構造】 伏惟、皇帝陛下、「得一光宅―通三亭育」 惟…[動]思う 得一…一人の徳性が国中に広がる 光宅…大いに有る 通三…王道が、三統(天・地・人)の徳からなること。 亭育…やしないそだてる。 【皇帝】 「皇帝」は、あくまでも中国皇帝を指すので、古事記では必ず「天皇」を用いる。その意味で、ここは異例である。以下、元明天皇への賛辞は中国の古典的表現を借りて綴られる。 【得一光宅・通三亭育】 ごく平易な漢字の組み合わせであるが、これを見ただけでは全く意味が分からない。天武天皇の段落もそうであったが、儀礼的な部分は、中国の旧い文献から象徴的な語句を取り出たものである。 その根拠を見つけるのはなかなか難しいし、具体的な意味はそれほど重要でないので、「意味不明であるが、賛辞の一種である」で片付けても殆ど問題は起こらない。しかし、それでも出典の探索に突っ込んでいきたい。 まず、2文字ずつの熟語からなると仮定して調べることにした。 【光宅】 「光宅」を、辞書で調べる。 <漢辞海>光宅…①天下に広く及ぶ。②住みかを広げる。建都のたとえ。</漢辞海> しかし、「得一」「通三」もよくわからないので、もう少し詳しく調べればヒントが得られるかも知れない。 [光宅元年]…唐の年号で、西暦684年。翌年正月にまた改元したので、元年だけである。古事記と同時代ではあるが、関連性はない。ただし、年号に使われるような伝統のある語句であることがわかる。 [漢典]…中国のWeb辞書。中華人民共和国のサイトなので簡体字であるが、読み取りにくいので繁体字に直した。(google翻訳で一発で直せる) 1. 廣有。 (虞書)《書·堯典序》:“昔在帝堯,聰明文思,光宅天下。” 曾運乾正讀:“光,猶廣也。宅,宅而有之也。”>曾運乾による正読 "光 「広」と同じ。宅 「宅」または「これ有り」である。" 《南齊書·高帝紀下》 :“猥以寡德,光宅四海。” 五代王定保《唐摭言·述進士上篇》:“若乃光宅四夷,垂祚三百,何莫由斯之道者也。” 2. 光大所居。謂建都。(首都を建設すること) 《文選·阮籍<為鄭衝勸晉王箋>》:“ 周公藉已成之勢,據既安之業,光宅曲阜,奄有龜、蒙。>"曲阜"は地名。 李周翰注:“光,大;宅,居也。”>李周翰による注:光は「大」、宅は「居す」(ある)なり。 晉左思《魏都賦》:“暨聖武之龍飛,肇受命而光宅。” 北魏楊衒之《<洛陽伽藍記>序》:“逮皇魏受圖,光宅嵩洛,篤信彌繁,法教逾盛。” 3. 大宅。 南朝梁慧皎《高僧傳·興福論》:“近有光宅丈九,顯曜京畿。” つまり、光=(副)「広く・大いに」、宅=(動)「有する」の意味で使われる。「光が広く当たる」というたとえだと思われる。 [中国哲学書電子化計画]…儒教や、史記など有名な文献を網羅し、直接検索できる。中華民国のサイトなので繁体字である。(中國哲學書電子化計劃) 『堯典』 ●昔在帝堯,聰明文思,光宅天下。將遜于位,讓于虞舜。 >昔、帝「堯」がいて、聡明さや道徳を、大きく天下に広げた。自ら帝位を降りて、虞舜に譲った。 >ぐ‐しゅん【虞舜】中国古代の伝説上の聖王、舜のこと。虞に都し、有虞氏といった。 堯には丹朱と言う息子がいたがこれを後継者とはせずに、後継者を定めるために臣下から推薦者を挙げさせた。その中の舜を選んで人格を見る事にした。まず自分の二人の娘を舜に降嫁し人格者である事を見極めた後に、舜に人民を治めさせ、その手腕を見極めた所で舜を自身の後継者と定めた。その後、8年が経ってから崩御した。 後世には舜と共に聖天子として崇められ、堯舜と並び称される。 <漢典>文思[merits and moral]∶指帝王的功並和道徳</漢典>つまり、「文思」帝王の功徳と道徳を合わせて指す。 これで、天子の徳を国中に広めることを表す動詞が「光宅」であることが確定した。 【亭育】 <漢辞海>亭育・亭毒…やしないそだてる。養育する。</漢辞海> [中国哲学書電子化計画] 検索をかけた結果を示す。 「亭育」は『康煕字典』の「毒」の項に集中的に出てきた。毒は同時に薬でもあるので、毒⇒薬⇒治す⇒やしなう⇒育てるとなる。 ●『康煕字典』「《老子·道德經》亭之毒之。」(亭は、毒(やしなう)なり)とある。 「光宅」と「亭育」が近接してでてくる例もあった。 ●『隋唐』芸文類聚(624年):33巻:人部17:盟11 「光宅天下,劬勞兆庶,亭育萬民」>劬勞=骨を折る。 対句構造の特徴があり、「兆庶万民、つまり兆万庶民」を二分して割り振ってある。ゆえに「天下に大いに広む、数多くの庶民のために骨を折り、亭育すを」という意味である。 芸文類聚は、類書(歴史文書から広く取材し、百科事典のようにまとまたもの)で、代表的なものである。 文中、近接しているので、古事記序文の「光宅」「亭育」は、ここから出典した可能性が濃厚である。 【得一】 「得一」は、熟語としては辞書には載っていなかった。 [中国哲学書電子化計画]を再び使ったところ、これも『芸文類聚』に見つかった。 ●『芸文類聚』14巻、帝王部4「北斎文宣帝」2 「式奉話言,光敷令德。其辭曰:四象更運,九天代名,通三以王,得一為貞,是應玄德,實啟蒼精,風后之陣,師尚之兵,三奇六合,七變五成,」 しかも、「通三以王,得一為貞」と、うまく「通三」とセットになっている。ここから出典した可能性が濃厚である。 「一を得、貞をなす」と書いてあるが、これ自身、儀礼的な韻文なので、さらに出典があるはずである。そこでさらに、「得一」と「貞」を含む文を探す。 その結果、尚書(春秋時代、B.C.770ごろ)と、儒家の『忠経』に見つけることができた。 ●『尚書』「商書」太甲下8 一人元良,萬邦以貞。君罔以辯言亂舊政,臣罔以寵利居成功,邦其永孚于休。 ●『儒家』「忠經」兆人章:《書》云:「一人元良,萬邦以貞。」一人以大善撫萬國,萬國以忠貞戴一人。>一人大いなる善を以って万国を撫す、あるいは万国忠貞を以って一人戴く。 忠経の「注」がわかりやすい。つまり、国に一人良い人がいれば、すべての諸侯国を徳のある国にすることができる。その出発点になる「一人」とは、もちろん天子のことである。 つまり「得一」だけでは意味不明であるが、その出典から「最初に一人徳のある人があって、それが国中に影響を与える」という意味だったのである。 【通三】 「通三」も、熟語としては辞書には載っていなかった。 [中国哲学書電子化計画]を使う。 ●『春秋繁露』:「王道通三」 >「王道、三に通ず」についての理論が延々と述べられている。ネットで探してみたが和訳も解説もなく、自力で翻訳するには歯ごたえがあり過ぎるので、まだ要約できていない。 ●『後漢書』38巻「郭陳列傳」17 故十一月…(略)…天以為正,周以為春。十二月…(略)…地以為正,殷以為春。十三月…(略)…人以為正,夏以為春。 >古く11月は天の正月で、周(王朝)の春である。12月は地の正月で殷(王朝)の春である。13月は人の正月で、夏(王朝)の春である。 以通三統。周以天元,殷以地元,夏以人元。 >このように「三統」を通じる。周は天の元、殷は地の元、夏は人の元である。 中国の最初の王朝とされるのが「夏」、これは伝説であって実在しないと思われていたが、「夏」王朝に相当する時代の遺跡が発掘されつつある。実在が確認された最初の王朝が「殷」、次が「周」である。 ここでは、それら3つの古代王朝の暦に例えながら、それぞれが天・地・人の徳性の源であると述べている。 さらに漢書にも見つかった。 ●『漢書』紀:「成帝紀」126 又曰:「蓋聞王者必存二王之後,所以通三統也。昔成湯受命,列為三代,而祭祀廢絕。考求其後,莫正孔吉。其封吉為殷紹嘉侯。」 >蓋(およ)そ王者は必ず二王の跡にあり、それが「通三統」のいわれである。昔"成湯"が命を受け、三代が列し…。 では、"成湯"とは誰のことだろう?さらに調べてみると、 <wikipedika>大乙:太乙、成湯、成唐ともいう。殷の初代帝。夏の最後の帝桀を追放し夏王朝を滅ぼした。 天乙は夏の禹、周の文王、武王と並び聖王として後世に崇められている。</wikipedia> ということは、成湯の前の聖王には、禹、文王、武王がいる。 (続き)>…しかし、祭祀は廃絶した。調べるに、その後わずかに"孔吉"が三王を祭る人として見つかった。そこで孔吉を殷紹嘉の諸侯王に封じた。 なお、実際に孔吉が封じられたのは、成帝の次の代の皇帝、哀帝のときであった。 <wikipedia>その後、儒教が前漢の国学となるとその宣揚のために元帝は十三世の子孫の孔覇に関内侯の爵位と褒成君の号を与え、哀帝(成帝の次)は十四世の子孫の孔吉を殷紹嘉侯に封じた。</wikipedia> ここでは、「三通」とは成湯(=天乙)と、それに先んじる2人の王を指す。ただし、夏・殷・周の時代で崇拝される王は、3帝ではなく5帝と言われる。更にその前の神の世に三皇があった。だから、「前の2帝」が、どの2帝を指すのかよく分からない。 このように、厳密に定義しようとして比べると、矛盾が見つかって大変であった。しかし大略「王道は天・地・人の三統に通ずる」という意味だと考えてよい。 以上から、元明天皇お一人がお持ちの徳が国の隅々まで広がり、儒教の王道に沿う天地人の三統を通して人々を養い育まれている、と高らかに讃えているのである。 天武天皇が、龍になって昇り、虎となって歩んだとされたのと対照的である。形式的な儀礼文であるが、大切な意味を含んでいるのである。 僅か8文字であるが、1日で、出典と思われるところを探り当てることができた。ネットの威力はもの凄いものである。昔ながらの図書館に通う方法では何か月もかかったであろう。 |
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2013.05.06(月) [022] 序文(元明天皇2) ▼▲ |
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御紫宸而德被馬蹄之所極 坐玄扈而化照船頭之所逮 日浮重暉 雲散非烟 紫宸(ししん)に御(ぎょ)し、而して徳は被馬蹄の極(きは)む所を被い、玄扈(げんこ)に坐し、而して化(ならひ)は船頭之逮(とら)ふ所を照らす。日は浮かび、重ねて暉(かがや)き、雲は散り煙るに非(あらざ)り。 紫宸に統(す)べらしまして御(おん)徳は馬が駆けて行ける限りを覆い、玄扈に坐しまして御風習(みならい)は船を漕いで行ける限りを照らします。日は浮かび輝きを増し、雲は消え霞むこともありません。 御…[動] ぎょす おさめる 宸…[名] 北極星の位置。帝王の住まい 而…[接] しかして 化…[名] 風習 玄扈(げんこ)…(地名)玄扈山、玄扈水。石室 重…[副] かさねて 暉…[動] かがやく 非…[副] あらず 烟 =煙 【対句構造】 「御紫宸而德被馬蹄之所極―坐玄扈而化照船頭之所逮」「日浮重暉―雲散非烟」 【紫宸】 天球の上で、北極星を含む領域を「紫微」といった。天の支配者は「北辰」(天の北極)にいて、「天皇大帝」「天帝」と呼ばれた。また「皇」は「自(はじめ)の王」をひつとの文字に組み合わせたもの。秦の始皇帝は宇宙の支配者「帝」と「皇」の属性を併せ持つとして、はじめて「皇帝」を名乗った。 従って、天帝の場所「紫微」は、皇帝の場所をも示すようになった。また「宸」も北極星の場所を指し、皇帝の居所も指す。というわけで「紫微」「紫宮」「紫微宮」「紫宸」「紫宸殿」「紫極」はすべて皇帝=天子、そして天皇の住まいである。 【玄扈】 百度百科によると、山海経の中山経に出てくる地名で、玄扈山を源とする玄扈水(川)が落水に注ぐ。一説によると現在の陝西省洛南県北石門川だとされる。 『初學記』卷三十「春秋合誠圖」:黃帝坐玄扈洛水上,與大司玄扈等臨觀,…(中略)… 宋均注:玄扈,石室名。 >黄帝は伝説の五帝の最初の人。黄帝は洛水の上にある玄扈に座り、大司の玄扈らと共に臨み見て、…(中略)… 宋均注:玄扈,石室名。 ここから、落水を見下ろす山麓に「玄扈」という名の石室があり、そこに黄帝が役人と一緒にと読み取れる。しかし、それ以上の情報は見つからなかった。 昔、伝説上の帝が座したという故事から、玄扈は天子が座す場所を指している。 『全唐詩』63巻「経廬岳回望江州想洛川有作」の一節には「城闕紫微星、図書玄扈合」があり、ちょうど「紫微」「玄扈」が近接している。直前に"透煙霞"もあるので、これを参考にしたと思われる。 中国の文献を「中国哲学書電子化計画」で検索すると、「紫微」「紫宸」は389例あった。8例を除いて漢代以後の文書で、大半は「宮廷」の意味で使っている。 それに対して、「玄扈」は25例で、そのうち23例は山海経またはその引用で黄帝の故事、2例は風景を詠んだ詩文中である。 よって「紫宸」に比べて「玄扈」は天子の居場所としてかなり珍しい。しかし、「天」の居所に対する「地」の居所という対称性があるので、詩としての味わいが生まれる。 【徳被馬蹄之所極・化照船頭之所逮】 ●主語《徳》―動詞《被》―目的語《馬蹄之所極》 「 所」は動詞を体言化し、「所ㇾ極」と訓読する。「之」は「の」で「馬蹄の極む所」である。次の文、対句構造による対応から「化」は名詞として解釈すべきである。 ●主語《化》―動詞《照》―目的語《船頭之所逮》 これも「所ㇾ逮」と訓読し「船頭の逮う所」となる。 【重】 動 詞を否定する「非」は副詞である。従って対句の関係から「重」も副詞であらねばならない。副詞としての「重」意味は「かさねて」のほかに「はなはだ」がある。ところが「はなはだ」は、<漢辞海>《程度が深刻な意》</漢辞海>とあるので、ここでは相応しくない。 「重ねて輝」けば、一層明るさが増すのだから、大変めでたいことである。 今回見た文は、前回の文とほぼ同内容を、より豊かに広げて表現したものである。光に満ちた自然への賛歌から、太陽神である天照を信仰する人々の明るさが伝わってくる。 |
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2013.05.07(火) [023] 序文(元明天皇3) ▼▲ |
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連柯幷穗之瑞 史不絶書 列烽重譯之貢 府無空月 可謂名高文命 德冠天乙矣 連柯(れんか)并穗(へいずい)之(こ)れ瑞(しるし)し、史、書絶へず、列烽重訳之れ貢(みつ)ぎ、府、空月無し。名は文命より高し、徳は天乙に冠(かん)すと謂ふ可(べ)き矣(かな)。 連理木、嘉禾(かか)は吉祥の兆しであり、歴史書への記録は絶えることがありません。また、国境いには烽火を並べ言葉の違う遠い国から貢物があり、倉が空になる月はありません。その高名は[夏朝を創始した]禹王を越え、その徳は[殷朝を創始した]成湯を凌ぐと言ってよいほどであります。 柯…[名] 枝 并…[動] あわす 瑞…[動] 吉祥を下す 烽…[名] のろし 訳…[名] ある言語を他の言語にやくす 重訳…中間に何段階もの通訳を介する 府…[名] 倉。書庫 高…[形] 等級が上にあるさま 文命…禹(う、B.C.2070頃)ともいう。中国古代の伝統的な帝で、夏(か)朝の創始者。 冠…[動] 高く人々の上にでる 天乙(てんいつ)…大乙、太乙、成湯、成唐、湯王ともいう。中国古代の王朝、殷の初代帝。 矣…[助] 文末に置いて完了や、断定、感動など語気を表す。「かな」など。 【対句構造】 「連柯并穗之瑞史不絶書―列烽重訳之貢府無空月」可謂「名高文命―徳冠天乙」矣。 【之瑞・之貢】 漢文は、通常"動詞+目的語"の順に並べるが、目的語を強調する場合に倒置して目的語を前に出すことがあり、その場合は"之"をはさみ、"目的語+之+動詞"とする。 【連柯并穗之瑞史不絶書・之貢府無空月】 この文にかなり近いものが、宋代の書物に見つかった。 『芸文類聚』(唐代初期の624年に成立した類書)4巻「歳時(中):三月三日」に収録。宋の顏延之(384~456)作。「三日曲水詩序」より 赬莖素毳并柯共穗之瑞,史不絕書,棧山航海逾沙軼漠之貢,府無虛月 赬茎・素毳・并柯・共穗、之を瑞し,史は書に絶へず,桟山航海・逾沙軼漠、之を貢(みつ)ぎ,府に虚しき月無し。 日本の辞書には、ここで使われている語句の解説はあまり見つからないが、中国の『百度百科』で調べると、ほとんどの語句の意味を知ることができた。 <百度百科> 赬茎=指朱草。一種红色的草,古以為祥瑞之物。 素毳=白虎。古代伝説白虎黒紋長尾,不食生物,不履生草,白虎出現為祥瑞之兆。 桟山=以栈為道跋越高山。 逾沙軼漠=穿越沙漠。謂経歴険遠的路途。 府=府庫,府蔵。古時国家収蔵文書或財物的地方。 并柯=連理枝。不同根的草木。李善 注:“并柯,連理也。”>連理=1. 不同根的草木、枝干連生在一起. 共穗=謂嘉禾,即在一株谷物上共長数穗。古人以為祥瑞。《文选·颜延之<三月三日曲水诗序>》:“赬茎素毳,并柯共穗之瑞,史不絶書。李善 注:“共穗,嘉禾也。” 史不絶書=釈義 書:指記載。史書上不断有記載。過去経常発生這様的事情。 </百度百科>
(百度百科訳) 赤い草を指す。赤色の草の一種。古く祥瑞の物と為す。 [素毳](すぜい) (百度百科訳) 白虎。古代、黒い紋と長い尾をもつ白い虎が伝わる。生き物を食べず、草を踏まない。(=空中を歩く) [桟山](さんざん) (百度百科訳) 桟を以って高山を越えていく道とする。<漢辞海>栈:険しい崖に棚のようにとりつけた木の通路</漢辞海> [逾沙軼漠](ゆしゃいつばく) (百度百科訳) 砂漠をこえゆくを指す。険しく遠い道をめぐり行くことを言う。 [并柯](へいか) (百度百科訳) 連理枝とも言う。根を同じにしない草木。連理:根を同じくしない草木。枝を連ねて生え、一本に立つ。 <漢辞海>根を異にする草木が、枝でつながり木目もいっしょになっていること</漢辞海> つまり、独立した2本の草木がの枝が空中でつながり、一本の枝になっていること。 <wikipedia>連理木(れんりぼく、れんりぎ)とは、2本の樹木の枝、あるいは1本の樹木の一旦分かれた枝が癒着結合したもの。自然界においては少なからず見られるが、一つの枝が他の枝と連なって理(木目)が通じた様が吉兆とされ「縁結び」「夫婦和合」などの象徴として信仰の対象ともなっている。<wikipedia> [共穂] (百度百科訳) 嘉禾(かか)とも言う。一株が分かれ共に長く数多い穂をつけること。昔の人は祥瑞と考えた。 <漢辞海>嘉禾:穂がたくさんついた立派な稲。他よりも成長が突出してすばらしい稲。[注]吉兆としてよろこばれた。</漢辞海> [史不絶書] (百度百科訳) 釈義 書:記載を指す。歴史上、不断に記載がある。過去ずっとこの様に行われてきたこと。 『百度百科』にもなかったのが、「府無虛月」は見つけられなった。そこで、これに類似した語句を探した。 <百度百科>矢無虛発=百発百中。</百度百科>すなわち、「矢無虛発」の意味は「虚しい発射は無い」である。これを応用すれば、「府無虛月」は「府に、虚しくする月はない」、つまり「倉が空になる月はない」という意味になる。 では、「月」では本当に暦の月と考えてよいのか。天体の月である可能性はないのだろうか。やっかいなのは、「府無虛月」のすぐ後に続く文が、天体の月に関する「日躔胃維,月軌青陸」であることだ。 「胃」があるから漢方薬の話かと思ったのだが、調べると「日躔」は「日次」すなわち太陽の進行のこと。「胃」は、古代中国式の星座のことで、おうし座のあたりに相当する。「維」は、「隅(すみ)」である。おうし座には春分点があるので、太陽の1年の運行の開始点のことであった。 「青陸」=青道で、月による天文現象あるいは、白道のことかもしれない。今のところ調べ切れていない。 とは言え、「府無虛月」の"月"は天体の月ではなく「1か月」であって、朝貢が盛んである⇒蔵がいつもいっぱいである、という解釈が自然であろう。以上から、大意は次の通りとなる。 数々の吉祥が下される歴史は、史書に絶えることがない。遠方の国から高山・山・砂漠の困難な道程を越えて朝貢され、収蔵庫が空になる月はない。 類似の文が、まだある。これは『漢典』で素毳の用例にあった。ここで、梁(南朝)の存続期間は、502~557年である。江淹(こうえん、444~505)は、中国南北朝時代の文学者。"朱鬐"は赤いひれをもった魚。 <漢典>南朝梁江淹《為蕭上銅鐘芝草眾瑞表》:“自大明乗規,泰始疊矩。朱鬐素毳之至,史不絶書;奇葉珍柯之獻,府無虚月。</漢典> 朱鬐、素毳、奇葉、珍柯などの"瑞"が届き(「至」)、献上された。また「史不絶書」「府無虚月」は、最早決まり文句になっている。時を表すのを「とき」でなく「月」を使った意図は不明だが、古い時代、1か月に1回貢物の収蔵庫を点検していたのかも知れない。 古事記序文は、ここで検討した顏延之の文章が下敷きになっていると思われる。しかし、一部修正し「列烽重譯」を盛り込んでいる。 【重訳】 「之貢,府無虛月」などから、近い場所に「重訳」がないか検索して探してみたが、見つからなかった。「重訳」そのものは幅広い文書から見つかるが、その一つの例『論衡』を調べる。 『論衡』は<wikipedia>中国後漢時代の王充(27年 - 1世紀末頃)が著した全30巻85篇から成る思想書。</wikipedia> 19巻。58「恢国」: 武王伐紂,庸、蜀之夷佐戰牧野。成王之時,越常獻雉,倭人貢暢。幽、厲衰微,戎、狄攻周,平王東走,以避其難。 至漢,四夷朝貢。孝平元始元年,越常重譯,獻白雉一、黑雉二。夫以成王之賢,輔以周公,越常獻一,平帝得三。 成王(周の2代王)のとき、越常は雉(きじ)を献じたとか、倭国は朝貢関係があるとかいろいろ興味深いことが書いてある。 漢の時代、孝平元始元年の、孝平は13代皇帝、元始元年は西暦1年である。 越常は重訳するとある。貢献に関する文脈中なので、これが「二重通訳」(またはそれ以上)を意味しているのは間違いない。ところで、越常はどこか?越はB.C.334に滅び、閩越はB.C,110に滅びた。だが「越」はそれ以後もこの地域を指し、しばしば「越」を含む国名が出てくる。詳しくは知られていないが前漢末期にも「越常」という国があったのかも知れない。 それはともかく、この文では重訳が必要なほどの縁辺の地から朝貢があった(「四夷朝貢」)と言うのである。 【列烽】 烽は、基本的に情報伝達手段である。「辺烽」(国境の異変を知らせるための烽火)という語もあり、この文では「列」をなすとされているから、国境での警戒体制を表しているのだろうと思われる。 中国の文献に検索をかけてみると「列烽」は唯一李白の「発白馬」に「辺烽列嵯峨」があった。古事記編纂を命じられた711年、李白はまだ11歳だった。まだ作っていなかっただろう。 単独で「烽」は無数出てくるが、どれも近くに「重訳」はない。したがって「列烽重譯」は、明らかに古事記序文作成者のオリジナルである。 【列烽重訳之貢】 「列烽・重訳」は宗教的な「連柯・幷穗」に比べて現実味がある。文脈も少しごつごつしている。それでも中国古代文献を利用せず、あえて自力で作ったからには、それだけの重要性があると考えなければならない。 国際関係を見ると、663年、白村江の戦いでの大敗の後、天智天皇の671年10月、新羅国からの朝貢があった。『日本書紀』巻二十七:天智天皇「賜新羅王、絹五十匹・絁五十匹・綿一千斤・韋一百枚。」 以後、新羅の独立志向は強まっていくが、日本としては唐に対抗するために、新羅の朝貢を受ける関係を維持したかったと考えられる。その意思をここで宣言するのである。 新羅は、現実には二重通訳を必要とするほど遠い関係ではなかったが、日本は四夷の朝貢を受ける国であると胸を張らなければならなかった。また、北九州の沿岸には、一定間隔に烽火台を設置して、ことが起こればこれらを赤々と灯す構えを崩さなかった。そんな情勢が、ここに影を落としている。 【高・冠】 ここでは、どちらも「凌(しの)ぐ」「凌駕(りょうが)する」という意味である。第1の部分で天武天皇に対して「道軼軒后、徳跨周王」として、初期王朝の王を「~において凌ぐ」としたのと同じ発想である。 【文命】 夏(か)はB.C.2070頃~B.C.1600年頃の古代王朝。伝説上の王朝とされていたが、1959年に二里(河南省偃師市)が発見され、大規模な宮殿があったことが分かり、それが夏王朝の時代にあたる。 『史記』によれば、夏の始祖であった兎が、王朝を兎の子を継承させたのが、中国の王朝における世襲の始まりだという。 【天乙】 夏王朝最後の帝となった第18代の桀(けつ)を追放し、かわって次の王朝"殷"を創始した。 元明天皇の場合、天武天皇のような劇的な展開はなかったので、はじめは内容のない形式だけの賛辞だろうと考えていた。しかし、実際に詳しく読むと、特徴が二点浮かび上がってきた。 それは第一に、政権の特徴が文民的であることだ。強制力ではなく、教育・文化によって国を統合する。儀礼的な文章だが、その中身は元明天皇の徳性や教養が国の隅々まで浸透していくようすを描いている。道徳や学問、文化の普及を通じて民衆が国のあるべき姿を理解し、統合するのが目標である。 古事記の編纂を再開するよう命じたのも、その一環であると考えられる。あるとき元明天皇は、天武天皇の時代に帝紀旧辞の誦習を命じたまま、放置されていたことに気づいたのである。命じられた稗田阿礼は、それでも粘り強く古文書を読みこなしてきたことが分かり、早速再開を命じたのである。 特徴の第二は、当時直面していた外交課題との関連性である。中国では、618年に成立した唐は、朝鮮半島への支配を強めようと攻勢をかけ続けている。一方、倭も唐の圧力を受けつつ、朝鮮半島への支配体制の再構築に努めるのである。これらが、この時期に古事記を成立させた背景を物語っている。 |
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2013.05.10(金) [024] 序文(解題1) ▼▲ |
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於焉 惜舊辭之誤忤 正先紀之謬錯 以和銅四年九月十八日 詔臣安萬侶撰錄稗田阿禮所誦之勅語舊辭 以獻上者謹隨詔旨 焉(これ)に於いて、旧辞の誤忤(ごご)を惜しみ、先紀の謬錯(びゅうさく)を正す。和銅四年九月十八日を以って、臣安万侶に、稗田阿礼所之(こ)の勅語されし旧辞を誦(よう)す所を撰録せむを詔す。以て献上するは、謹みて詔旨に随(したが)ふ。 そこで、旧辞、先紀の誤りや食い違いを惜しまれながら正されました。和同四年九月十八日に至り、わたくし安万侶に、稗田阿礼が先に詔(みことのり)された旧辞を読み上げるところを撰録するよう、詔されました。このたびこれによって献上しますは、謹んで御旨(おんむね)に従うところであります。 於…[前] において。前置詞句として動作の原因や理由を表す 焉…[指示代詞] これ 誤…[動] あやまる まちがえる 忤…[動] さからう そむく くいちがう 謬…[動] あやまる まちがえる くいちがう 錯…[動] たがう くいちがう 以…[前] ~をもって。前置詞句として動詞の前に置き、動詞に対して手段や方法などをおぎなう。[接] もって。そして。文と文とをつなぐ。 之…[助] "名詞A+之+名詞B" の形で、名詞Bのようすを名詞Aで示す。[指示代詞] この。これ。 撰録…文章を選び集めて収録する。文章に記録する。 【対句構造】 於焉「惜旧辞之誤忤―正先紀之謬錯」。以和銅四年九月十八日、詔臣安万侶、撰録稗田阿礼所誦之勅語旧辞 以献上者、謹随詔旨 【於焉、惜旧辞之誤忤、正先紀之謬錯】 (これにおいて)…前段の内容を受ける。主語は、まだ元明天皇が継続している。 「先紀」は天武天皇のところで出てきた「帝紀」と同じと考えてよい気もするが、ことによると「帝紀はまだ完全ではない」という意味かも知れない。 なお、すべて「誤る」「食い違う」の意味で「誤・忤・謬・錯」と4種類の語を使っている。「対句構造では表現を変える」ルールを貫いている。 【以和銅四年九月十八日】
このころ、倭はこのまま唐が攻めてくることを危惧し、緊張状態に陥った。そのうちに、新羅は半島を統一し、巧みな外交によって中国・倭の双方と友好関係を再建し、倭はやっと緊張状態から脱け出すことができた。 しかし、倭、新羅は共に唐に対抗するために、中央集権体制を確立して国力を高めていくことが緊急の課題であった。 天智天皇の時代、軍事のための負担が民衆の不満を高め、軍の統制も欠いたことが、壬申の乱の一因であったと考えられる。大海人皇子が勝利し、自ら天武天皇となったが、以来倭は次の2点の改革を加速させた。 ①"倭"に未だに残っていた豪族連合体の色合いを一掃し、律令制(官僚組織と法による運営)など、統一的な制度と組織を確立する。 ②軍事費のねん出など、税収を確保するために戸籍を整備する。 統一国家として制度・法律の形を整えるために、基盤となるのが精神の統合である。そのために官製の宗教・思想を盛り込んだ歴史書を作り上げ、広く浸透させなければならない。そんな背景が、古事記序文の内容に反映している。 歴史書の制作は、支配層向けと日本書紀と、民衆向けの古事記の二本立てで行われた。日本書紀には、天皇の血統と氏族の位置づけを盛り込んだ詳細な系図と、公式の歴史を詳しく盛り込んだ。古事記では、神話を統一し、天皇の正統性を民衆に手軽に広めることを主眼とした。 それらには、官製の歴史書にかかわらず、記紀ともに歴代天皇のひどい行いも平気で盛り込んでいる。その方が「信憑性」があるし、読み物として面白くなるので、逆に受け入れやすくなるのである。編纂者自身にとっても公平・公正な観点で書いているという満足感が得られたであろう。 要するに天皇が天つ神に起源をもち、血筋が現在まで繋がっているという大筋さえ踏み外さなければ、血なまぐさい話や不道徳な話は全く差支えない。むしろ、公式な歴史が一本化されること自体に意義があるのである。その発想は明治維新で蘇り、教科書は国定となり、現在なお教科書検定制度に引き継がれている。 また、この時期に国号を「日本」に変更したのも、体制一新を印象付けるためだったと思われる。では「日本」にしたのはなぜか。倭は「日出ずる国」を自認して中国に対して胸を張ろうとした。ところが、これまで読みを「夜麻登」と表してきた。これでは「日出ずる国」にふさわしくないので、「夜」を「日」に、「麻登」を発音の似ている「本」に変えたのである。ただし、これは想像である。 【以和銅四年…】 ここでは「以」の文法的な役割は2通り考えられる。① 前文を受けて、次の文を導く接続詞。② 日付への前置詞として、動詞「詔」を連体修飾する。①,②のどちらに解釈しても成り立つ。 ただ、その後の文「以献上者」の「以」は間違いなく接続詞なので、①だとすれば「以」が連続する。これでは、修辞法的に極力避けたいところである。このエレガントさを重んじる態度は、序文全体に貫かれている。一例として、第3段落は「於是」を、第5段落は「於焉」に変えているように、かなり細かい。天皇への奏上文には、これほどの配慮がいるということだろう。 この観点に立てば、明らかに②が正しいことになる。
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2013.05.11(土) [025] 序文(解題2) ▼▲ |
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子細採摭 然上古之時言意並朴 敷文構句於字即難 已因訓述者詞不逮心 全以音連者事趣更長 子細に採摭(せき)す。然るに上古の時、言意並びて朴にて、文に敷き句に構ずは字に於いて即ち難し。已(すで)に訓(くん)に因りて述すは、詞心を逮へず。全て音(おん)を以って連ぬるは、事の趣更に長し。 なるべくそのままを、細部まで記録しようと努めました。しかし、古い時代は、全体に今では使わなくなった言葉が使われ、文章化しようとして漢字を使うことは困難です。訓読みで記述してみましたが、うまく分かるようには表せませんでした。かといって全文音で書き連ねれば、長くなりすぎて困ります。 摭(せき)…[動] ひろう 上古…大昔。文字が存在する以前の時代 敷…[動] のべる 即…[副] すなわち 論理的必然性をもってある行為や事情が起こる様子を表す 朴…[形] ありのままの状態 逮…[動] とらえる 已…[副] すでに、はなはだ 【対句構造】 子細採摭。然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字即難。「已因訓述者詞不逮心―全以音連者事趣更長」 【子細採摭】 阿礼の誦する言葉を、そのまま細部まで記録しようと努めた。 【上古之時言意並朴】 古くより伝わる話は、今とは違う古い言葉が使われる。 【敷文構句於字即難】 従って文に起こそうとしても、漢文形式では困難である。 【已】 副詞「已」は過去の時制を表すので、「訓述しようとしたが、心を逮えなかった」という意味になる。 【因訓述者詞不逮心】 当時すでに、中国語文献を、訓読みと返り点によって、日本語風に読み下していた。だから、純正な日本語も漢文の形を借りて表すことができた。その表し方を安万侶は「訓述」といい、記紀は基本的にこの方法で書かれた。 しかし、「古代」(安万侶の時代を基準として)の日本語はそれでは表しきれなかった。意味が合う漢字に直してみたが、それを読み下してみると現代(=安万侶の時代)の日本語になってしまう。「この語句は古い日本の言葉で読みとってほしい」という思いが、読者の「心をとらえない」のである。 一例を上げると、古事記上巻に「たぐる」という動詞がある。意味は「口から物をはく」ことなので、漢字では「吐」になる。しかし「吐」を見た読者は、当然「はく」と読む。『たぐる』と読んでほしいのに、それが伝わらないのである。 しかし、稗田阿礼だけは特別で、大量の古文書を読み口述の伝承を聞いて経験を重ねた結果、なんでも読めるようになっていた。「はく」「たぐる」の読み分けも自在にできる。音読みで書いた古代語でも、すぐ意味がわかる。21世紀の学生が熱心に勉強して、7世紀の文書をすらすら読めるようになるのと同じである。 阿礼は「読みこなす」のが仕事で、暗記することは仕事ではなかったのだ。 【全以音連者事趣更長】 「かと言って全文音読みにすると、文が長すぎる。」つまり全文を、仮名を漢字の音を借りれば完全に表すことができる。万葉仮名がそれである。古事記でも歌謡の部分はそうしている。しかし安万侶は、漢文で誤解なく読み下せる部分まで音で表すのは、無駄に文字数が多くなるだけだと主張するのである。 漢文式表記法は、太安万侶の発明ではなく、それまで長年積み重ねねられた漢文式表記法を引き継いでいるのだろう。そうでないとすれば、安万侶以外、誰も読めない文を書いたことになってしまう。 実際、金錯銘鉄剣(1968年に埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣)には、471年ごろと考えられるが、多くの文字が金象眼(ぞうがん)されている。その表記は、人名には音読みを使い、全体は漢文で表している。 一部を示すと「其児名加差披余 其児名乎獲居臣 世々為杖刀人首」、読み方は「其の児(こ)、名はかさぴよ。其の児、名はをかきの臣、世々杖刀の人の首を為す」である。 安万侶以前に、漢文訓読による表し方と、単漢字の発音を借りる表し方の両方があったことは、何の注釈も加えずに「訓」「音」という語を使っていることから明らかである。 天皇に対する儀礼文は相当難解であったが、ここに来て、急に解りやすい文章になった。またこの部分から、太安万侶の堅実で合理的な判断が伝わってくる。儀礼文の部分はこれまでに指摘したように、表現にいくつか不適切なところがある。それに対して儀礼文以外のところには、「之」の変則的な使い方が見られる。 |
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2013.05.12(日) [026] 序文(解題3) ▼▲ |
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是以今 或一句之中交用音訓 或一事之內全以訓錄 卽 辭理叵見以注明 意況易解更非注 是(ここ)を以って今、或ひは一句の中に音訓交(とも)に用ひ、或ひは一事の內に全て訓録を以(な)す。即ち辞理見るに叵(かた)しは注を以て明らかとなし、意況解くに易しは更(さら)に注に非(あら)ず。 このようなわけで今、ある場合は、一つの区切りのなかに音読み、訓読みの両方を用い、ある場合は、一つの部分のうちに訓読みだけとします。そして、言葉の理解が困難な場合は注をつけて分かるようにし、語句の解釈が容易な場合は、全く注をつけないことにします。 交…[副] ともに 用…[動] もちう 全…[副] まったく 以…[動] なす 叵…[副] 難し。不可能である(形容詞のように訓読する) 注…[名] 文字・文章の発音や意味を説明するもの。 況…[名] ありさま 易…[形] やすい。容易。 解…[動] とける 【対句構造】 是以今、「或一句之中交用音訓―或一事之內全以訓録。」即「辞理叵見以注明―意況易解更非注」 【是以】 「是以」は代詞「是」と接続詞「以」が熟語となり、前文の事情による結果を表す。「ここをもって」と訓読する。
【或・或】
「或いは~し、或るいは~する」つまり、二つの場合を並列する。「或」はさまざまな品詞で使われるが、この場合は代名詞であり主語となる。つまり、 或P1O1 或P2O2: あるいはO1をP1し、あるいはO2をP2す。 という構文である。 この例では、一文目の動詞は「用」、二文目の動詞は「以」である。 【一句之中交用音訓】 一句之中…「用」を連用修飾修飾。「一文の中に」 交…副詞として「用」を連用修飾。「ともに」 用二音訓一…音訓を用いる。 【一事之內全以訓録】 一事之內…「以」を連用修飾。「一句之中」と同じであるが、修辞法によって同一表現の重複を避ける。 全…副詞として「以」を連用修飾。「すべて」 以二訓録一…訓による記述をなす。「録」(記録)を加えたのは、対句構造にするために「音訓」と字数を合わせるためである。 【辞理叵見以注明】 辞理…書いてあることのすじみち 叵見…叵は副詞で、動詞「見」を連用修飾するが、訓読は習慣的に動詞のように「見るにかたし」とする。 主述構造「辞理叵見」がこの文全体の主語となる。 以注明…「明」を述語として、「注を以って明らかにする」と読み取る。 【意況易解更非注】 意況…意味のようす(ことばの難易度) 易解…形容詞「易」を、副詞として活用する。「容易に解く」 主述構造「意況易解」が文全体の主語になる。 更非注…「更」は、副詞で(後に否定語を伴い)「まったく」。「非」は副詞で名詞述語「注」を打ち消す。「まったく注をつけない」 この文においては、実際にはそんなに強く打ち消す必要はないが、前文の「以注明」に対応させるために「更」を付け加えて字数を揃えた。 要するに、理解がむずかしい場合に「注」をつけ、それほどでもないときは「注」をつけない。文意は明快であるが、対句構造を成立させるために、表現がやや解釈し辛くなっている。 接続詞「即」が2文を結合しているので、つけられている「注」は音訓に関することがはっきりする。ずいぶん理屈っぽくなってきたので、実例を参照して具体的に見てみたい。さきに見た「たぐる」の前後は、実際にはどのように書かれているのだろう。 見炙而病臥在多具理邇 此四字以音 生神名 金山毘古神 訓金云迦那 下效此 炙(せき)…[動](肉などを)火にかざして焼く。 「多具理邇」に対して「此の四字、音(音読み)と以(な)す」と割注*)が付けられている。なお「多=た、具=ぐ、理=り、邇=に」である。 *) 割注(わりちゅう)…字を小さくして1行を2行に分けて注をはさむこと。 「金」に対しても注がある。いわく「金を訓して云迦(か)那(な)と云う。下、此れに效(なら)へ」つまり「『金』は『かな』と訓読みする。以下同じ」。これらの注に従って読み下すと、次のようになる。 炙(あぶ)るを見、而(しか)して病臥(びょうが)す在り。たぐりに神(かむ)生(な)り、名を金(原注:かねと訓ず)山毘(び)古(この)神(かむ)となす。 火であぶられる目にあったので、病に伏してしまった。たぐりた(=吐いた)ものから神ができ、その名は「金山毘古神(かなやまびこのかむ)」である。 丁寧な注のおかげで21世紀のわれわれでも、ともかく読むことはできる。こういうのを「心逮ふ」と言うのであろう。 音訓の併用について、もう少しつっこんでみよう。「たぐる」を使わず「見炙而病臥在吐瀉生神名…」と書いても意味は通るのである。しかし、最終的には「たぐる」という古い動詞をそのまま使用した。 そこから古い言葉に対して、意味が同じだからといって簡単に置き換えてはいけない、とする考えがが伝わってくる。「民族遺産をしっかり受け継いでいこう」という意識が感じとれる。 我々は、古代の書物から直接、先祖の息吹に触れようとしているが、そうやって得た「息吹」の中身は、彼ら自身が古代の物語から、直接先祖の息吹に触れようとしている姿であった。過去を覗いたら、同じように過去を覗いている昔の人の姿が見えた。この関係は、マトリョーシカ人形、あるいはコンピュータープログラムの「ネスティング」(入れ子構造)と似ている。 このことから、古事記の本文は静止画ではなく、絵を描く過程として読み取ることが大事であることが分かる。 古事記編纂は、そのきっかけこそ国民の意識の統合という「時代の要請」であったが、結果的に過去の遺産に光を当て、そのままの姿を未来に遺してくれたのである。 |
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2013.05.13(月) [027] 序文(解題4) ▼▲ |
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亦 於姓日下謂玖沙訶 於名帶字謂多羅斯 如此之類隨本不改 亦(また)、姓(かばね)、日下に於いて、玖沙訶(くさか)と謂ひ、名、帯の字に於いて、多羅斯(たらし)と謂(い)ふ、此之類の如くにして、本(もと)に随(したが)ひ改め不(ず)。 また、姓「日下」に於いては「くさか」と読み、名「帯」に於いては「たらし」と読みます。これに類する場合は元のままに従い、改めないこととします。 如…[前] ごとくにして。 【対句構造】 亦、「於姓日下謂玖沙訶―於名帯字謂多羅斯」如此之類、隋本不改。 「於」や「謂」が単純に繰り返されるので、他の場所の対句とは異なる。通常、同じ役割をする語句は、少し無理をしてでも言い換えられてきた。 だが、この文には特別の事情がある。固有名詞「日下」「帯」と、音読みした「玖沙訶」「多羅斯」が含まれるので、それ以外の要素まで他の文字に変えると、読み取りが難しくなる。 試しに「於姓日下謂玖沙訶于名帯字述多羅斯」に変えてみると、確かに解りにくい。固有名詞を浮き立たせるために、固有名詞以外の文字を固定した方がよいのは確かである。 【於・如】 於、如は前置詞である。続く名詞を目的語と言う。「前置詞+目的語」の形で続く述部を連用修飾(形容)する。「前置詞+目的語」を前置詞句という。 「如+此之類」⇒述部「随本不改」を修飾。「この類のようにして」⇒「元に従い改めない」というつながりになる。 同様に前置詞「於」は、目的語「姓日下」と結合して「於姓日下」という前置詞句を作り、述部「謂玖沙訶」(玖沙訶と謂う)を連用修飾する。英語の場合前置詞句は動詞の後に置くが、漢文では、前置詞句は動詞の前に置くところが異なっている。 中国語と英語は、"SVO"(主語⇒動詞⇒目的語)であるこが英語と同じ、また「前置詞構造」は英語と酷似している。しかし、修飾語がすべて前置であるところは、むしろ日本語に近い。英語の場合、形容詞は前置だが、2語以上かたまって形容詞の役割をする(連体修飾する)句や節は後置である。 また、副詞は、頻度副詞が主・述の間で中国語と同じだが、それ以外はすべて後置である。 【日下】 古事記、倭根子日子大毘毘命(やまとねこひこおおびびのみこと、開化天皇)の部分で、初めて出てくる。3人の妻のうち、意祁都比賣命(おけつひめのみこと)との間の子、 日子坐王(ひこいますのみこ)の、さらに子、沙本毘古王(さほびのみこ)が、日下部連(くさかべのむらじ)、甲斐国造(かひくにのみやつこ)の祖先とされている。ただし、この部分の内容はまだ、記録と言うよりは神話である。 【帯】 古事記において、天皇で最初に「帯」が使われているのは、第六代、大倭帯日子国押人命(やまとたらしひこくにおしひとのみこと、孝安天皇)である。使用する文字は途中で変わることがよくあり、ここでも「押人」が、直後に「忍人」になっている。「帯」は、これ以後天皇名の中で頻繁に使われる。隋書にも、開皇二十年(600年),遣隋使の記事の中に、「倭王姓阿毎,字多利思比孤」(倭の王、姓は「あま」字は「たりしひこ」)という文がある。 神々の時代に「帯」が最初に使われたのは、「遠津山岬多良斯神」(とおつやまたらしのかみ)であり、これが直後の注記で「右件自八嶋士奴美神以下、遠津山岬帯神以前、称十七世神。」(右、八嶋士奴美神(やしまじぬみのかみ)以下の件は、遠津山岬帯神以前を十七世(とあまりななよ)の神と称す)になっている。 当然のことだが、原文は縦書きだから、「右件」は横書きならば「上件」となる。最初だから読みが分かるように「多良斯」と書いたが、次からは「帯」を使うよと暗に説明している感じだ。だから序文での説明は不要であるが、序文を書く時点で本文で配慮したのを忘れたか、覚えていて敢えて例として使ったかどちらかである。 いずれにしても、この例から「多良斯(多羅斯)」「帯」のどちらを使うかを熟考していたことと、序文が書かれたのは本文完成後であったことが判る。 【帯字】 「字」は本当は無い方がよいのだが、対句同士、字数を合わせるために加えられたものである。 この部分は、最もわかりやすい文の一つである。現代からは遥かに遠い時代のことなのに、今どこかの研究室で行っているような現実感がある。安万侶と阿礼が、この語句は音訓どちらで書こうかと相談しながら作業を進める情景が浮かんでくる。 |
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2013.05.14(火) [028] 序文(解題5) ▼▲ |
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大抵所記者 自天地開闢始 以訖于小治田御世 故 天御中主神以下 日子波限建鵜草葺不合尊以前爲上卷 神倭伊波禮毘古天皇以下 品陀御世以前爲中卷 大抵記す所は、天地開闢(かいびゃく)自(よ)り始め、以って小治田(おはるた)の御世(みよ)于(に)訖(いた)る。故に、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の以下(いげ)、日子波限建鵜草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の以前を上巻(かみつまき)を為し、神倭伊波礼毘古天皇(かむやまといわれびこすめらみこと)の以下、品陀(ほむた)の御世(みよ)の以前、中巻(なかつまき)を為し、 全体として記録した範囲は、天地の開闢から、小治田宮(おはるたのみや)の時代までです。そのうち、天御中主神から日子波限建鵜草葺不合尊までを上巻とし、神倭伊波礼毘古天皇[神武天皇]から品陀和気命(ほむたわけのみこと)[応神天皇]の時代までを中巻とし、 如…[前] ごとくにして。 大抵…<漢典>[mostly;in the main;on the whole] 大概;大致</漢典> 自…[前] より 開闢(かいびゃく)…天地がひらける。またはそのとき 以…[接] もって 訖…[動] おわる。いたる。 故…[接] ゆえに。 【大抵所記者】 「所」は、動詞「記」を体言化する。「記」を修飾する「大抵」は「所」の前に出る。「者」は、「大抵所記」が主語であることを明示する。「大抵所記」を受ける動詞は、「始」と「訖」である。 【小治田宮、小墾田宮】 おはりだのみや。推古天皇が崩御するまでの間に、蘇我氏、聖徳太子らを中心として、冠位十二階の制定、十七条憲法の制定、遣隋使派遣などの重要施策がこの宮で行われた。 古事記の最後は、豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと、推古天皇)である。 【故】 この場合は前文で示された全体の範囲を受け、後文で、内訳(三巻への振り分け)を説明している。 【天御中主神】 あめのみなかぬしのかみ。高天原に最初に出現した神。 【以下・以前】 それぞれ名詞として使われる。その前の語句を含んだ範囲。 【日子波限建鵜草葺不合尊】 ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと。その子、若御毛沼命が、神倭伊波礼琵古命(かむやまといはれびこ、後の神武天皇)となる。つまり、上巻は神武天皇の直前までである。 <wikipedia>『釈日本紀』によれば、淡海三船(おうみのみふね、722~785)が神武天皇から元正天皇までの漢風諡号(漢語によるおくりな)を、</wikipedia><諡法解(漢風諡号)>762~764年に</諡法解>一括して定めたとされる。 古事記を献上した712年から約50年後である。従って日本書紀(720年完成)には、漢風諡号が書き加えられているのは、後の加筆である。一方、古事記には漢風諡号の加筆はない。 また「天皇」という称号は、天武天皇が自称したのが最初と言われ、それ以前は「大王(おほきみ)」と呼ばれていた。記紀は、遡って神武天皇から「天皇」と記しているが、天智天皇までは、存命中に「天皇」と呼ばれたことはなかった。 |
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2013.05.14(火) [029] 序文(解題6) ▼▲ |
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大雀皇帝以下 小治田大宮以前爲下卷 幷錄三卷謹以獻上 臣安萬侶 誠惶誠恐 頓首頓首 和銅五年正月廿八日 正五位上勳五等太朝臣安萬侶 大雀皇帝(おほさざきのみこと)以下、小治田大宮(おはりだのおほみや)以前、下巻を為し、并(あはせ)て三卷(みつまき)に録し、謹しみ以って献上す。臣安万侶 誠惶誠恐(せいくゎうせいきょう) 頓首(とんしゅ)頓首 和銅五年正月(しゃうぐゎつ)廿八日(はつかあまりやうか) 正五位上勳五等太(おほの)朝臣(あそみ)安万侶(やすまろ) 大雀皇帝(おおさざきのみこと、仁徳天皇)から小治田大宮までを下巻としました。併せて三巻に収録し、謹しんで献上いたします。臣 安万侶 誠惶誠恐頓首頓首[天皇への書簡形式における結語] 和銅五年正月二十八日 正五位上勳五等太朝臣安万侶 【小治田大宮】 豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと、推古天皇)と書く代わりに、御殿の名前を書く。天武天皇、元明天皇についても名前を直接書くことを遠慮し、宮殿名で表している。推古天皇はまだ時代が新しいので、歴史上の存在になり切れていないと考えられる。 【誠惶誠恐】 惶恐…恐れかしこまる。手紙の末尾に記し、相手に敬意を表す語。 「誠惶誠恐」は「惶」「恐」それぞれに「誠」を重ねて、丁寧に強調した言葉。 【頓首】 頓…拝礼の一種で、頭を何度も地に打ち付ける。ぬかずく 手紙文の末尾に書き添えて、相手に対する敬意を表す。 【正五位上】 <wikipedia>正五位は、律令制下において上下にわけられ、官位相当では主に京官、特に次官ないし判官相当の官位として充てられた。</wikipedia> 【勳五等】 <大辞林>勲等(くんとう)とは勲功に対して授与されたもの。律令制度が出来た当時は勲位と称し、勲一等以下勲十二等までの12等級あった。</大辞林> 勲等は官位に対応して決まっており、勳五等は正五位に相当する。 【朝臣】 <wikipedia>朝臣(あそみ、あそん)は、684年(天武13年)に制定された八色の姓(やくさのかばね)の制度で新たに作られた姓(かばね)で、上から二番目に相当する。一番上の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたため、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたる。</wikipedia> 序文全体は5つの部分から構成されているが、天武・元明両天皇への儀礼文を除けば、3つの部分である。ただし、儀礼文と言えども、時代背景を知るためのヒントを多く含んでいたのは、これまでに見てきたとおりである。 1.要約部…あらすじの後、「失われた規範を回復することと、変化に対応する改善が、常に行われてきた」と述べる。序文全体に天武天皇の絶対視があるので、「改革してきたのが伝統である」として、実質的に天武天皇による政権奪取を合理化する。 2.天武天皇…儀礼文ではあるが軍事的に政権を奪取した事実を隠さず、その勝利が賞賛される。 3.稗田阿礼…「天皇の系図と古い物語の虚偽を削り真実を定め、後世に伝えたい。」という天武天皇自身の言葉に、古事記の意図が集約されている。旧体制自体は否定されるべきものであったが、中央集権的な国家を建設するために、高天原に起源をもつ権威ある天皇の伝統を公式に確定させなければならなかった。 4.元明天皇…儀礼文だが、この時代は基本的に文治であったことを伝える。 5.解題…古い言葉であってもなるべくそのまま残したこと、及びその記述方法を解説する。 記紀の編纂は、律令制・氏姓制度・戸籍・国号の変更など、一連の中央集権的体制を確立する一環として位置づけられる。その背景にあったのが唐の軍事的圧力であった。 これらの事業は政治的な目的を持った事業ではあったが、作業そのものは伝統を重んじ、誠実に行われた。まだ、詳しく研究したわけではないが、古事記の方が誠実さに優れる印象を受ける。古くからの伝承を忠実に記録することに徹し、わからない部分を無理に捏造しない。それに対して日本書紀では政治的な意図によって、付け足したり書き換えたりした印象がある。 これまで、日本書紀は貴族・官僚向けで古事記は民衆向けだと考えてきたが、実は日本書紀の編纂に加わっていた太安万侶がその過程で嫌気がさして、私家版を別に編纂したいと元明天皇に願い出て、古事記編纂の許しを得たということもあるかも知れない。 |
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⇒ [017] 上つ巻(天地開闢1) |