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2013.04.18(木) 古事記とは何か?

 『魏志倭人伝』を、原文で読み終わりました。それが現実の古い倭国の姿と、どうつながるのか。それを突き止めるのはとても困難ですが、考古学の発展による「もの」の研究成果と照らし合わせると、徐々に実際の姿と重なって見えてくるような気がしました。
 とは言え、この国で生まれ、生きてきた私としては、自身の国の文献を基本に据えるべきだと思います。そこで、古事記と日本書紀の精読を試みました。まだ、ほんの一部分に触れた段階ですが、考古資料との親和性は、『魏志倭人伝』の方がはるかに大きいという印象です。記紀からは、現実の世界の歩みを直接的に知ることはできない。けれども、書かれた時代の人々の頭の中はよく伝わってきます。事実の記録よりも、精神の記録というべきでしょう。
 また、記紀の成立を求めた、時代の要請は何かという観点も重要だと感じました。663年の白村江の戦いは、簡単に言えばそれまで倭国の影響下にあった朝鮮半島を、中国の新しい王朝、唐によって奪われたということです。倭国は、このまま唐が攻めてくるのではないかいう圧迫感の中で、新たな体制を確立して対抗しようとしたと考えられます。ちょうど幕末、列強の東アジア進出を受け、明治維新そして国家の近代化を進めたのと、同様な現象です。
 681年から689年に編纂された「飛鳥浄御原令」、690年「庚寅年籍」による戸籍精度の確立、701年「大宝律令」による法制度の確立がありました。また7世紀半ばごろ国号を「日本」に変更し、673年には「天皇」の呼称を開始するなど「国のかたち」が描き直されます。その一連の改革の中で、本格的な正史の編纂は重要な位置を占める事業です。720年に日本書紀が作られましたが、その30巻という巻数は、それまでの中国における諸史書の巻数、36~130巻に肩を並べたいという動機があったと思われます。
 一方、712年に完成した古事記は、神の時代の分量は日本書紀と同じようなものですが、天皇の時代の記録は遥かに少なくなっています。その意味合いの違いも研究課題です。
 ここでは、古事記を少しずつ読み進んでいきます。 


2013.04.19(金) [001] 序文(要約部1)

臣安萬侶言 夫混元既 凝氣象未效
臣(やつかれ)安萬侶(やすまろ)言(まをす)、夫(それ)混元(まじりしはじめ)は既に凝(こ)れど、気象(かたち)未だ効(あらは)さず。

 わたくし安萬侶(やすまろ)は、謹んで申し上げます。さて、宇宙が開闢(かいびゃく)し、間もなく混沌は固まりましたが、天地の営みはまだ始まりません。

…君主などに対してへりくだって、自分を指す。「わたくし」
混元…<漢辞海>①天地の根源の気 ②天地開闢のとき</漢辞海>
気象…自然界の景色・現象

【文法】
 …[助] 文の初めに置き、議論の話題を提供する。
 ""、""…副詞で、動詞の前に置かれる。

 序文は、全巻の要約部、編纂のいきさつⅠ、編纂のいきさつⅡ、記述ルール解説の4つの部分からなる。
 太 安万侶(おおのやすまろ、?-723年8月11日)は奈良時代の官僚である。
 冒頭のあいさつ文に続いて要約が始まるが、『古事記』の本体が音訓交じりであるのに対して、序文では漢文らしい漢文である。特徴としては対句の多用が挙げられるが、字数を合わせることを優先するために、単語を本来の意味から拡張して使う傾向がある。
 この文の場合、「既」「未」を対応させてエレガントにした。反面「すでに」の本来の語感を殺した。しかし、要するに「この世界の開闢」を言いたいのは伝わるから、これで差支えない。

【訓読】
 改めて、上代語訳を試みました。2016.03.21


2013.04.20(土) [002] 序文(要約部2)

無名無爲 誰知其形 然 乾坤初分 參神作造化之首 陰陽斯開 二靈爲群品之祖
名(な)無く為(なすこと)無く、誰(たれ)も其の形を知らず。然(しかれども)、乾坤(あめつち)に初めて分かれ、三神(みかみ)は造化(あめつち)を首(はじめ)に作り、陰陽(めをに)斯開(ひら)き、二(ふた)霊(たま)は群品(もろもろ)の祖(おや)と為(な)る。

 まだ名前も行為も存在せず、形も知られません。しかるに、天地が初めて分かれ、3柱の神が造化の端緒となり、陰陽に切り分けられ、2体の霊が諸物の祖となりました。

(し)…[動]切り分ける。さく。
…[名]しな、種類

【対句】
「無名無為」―「誰知其形」。「然乾坤初、分参神作造化之首」―「陰陽斯開、二霊為群品之祖」

ケンコンシンソンカンゴンダ
これらは、易で用いる記号で三爻(こう)という。,- -と言い、それぞれ"陽"、"陰"を表す。
【乾坤】
は、八卦(易)の要素で、それぞれ「天」「地」を表す。八卦の記号三爻(さんこう)は、「陰陽」が3本、つまり3ビットだから0~7の8個の数を表す。易は、『易経』儒教における文書「六経」の一つ)に起源をもつ。<wikipedia>日本へ儒教が伝わったのは513年、百済より五経博士が渡日して以降のことである。</wikipedia>
記紀で、数字「八」は、「めでたい数」としてよく出てくる。また、古墳は、<『天皇陵の謎』p.208>大化の改新前後から八角形に変化する</同書>。法隆寺夢殿、熊本の遺跡鞠智城など、朝廷にかかわる8角形の建造物も7世紀前半である。
「天地」を儒教の用語を使って表現していることにも、留意する必要がある。

【三神】
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かむむすひのかみ)。本文中でこれらの三柱の神は、「並独神成」(それぞれ、独立して神となった)とある。つまりまだ無性である。

【陰陽斯開】
対句により、「陰陽」は「乾坤」に対応する。上巻の注に「国之常立神(くにのとこたちのかみ)から2柱は単独で一代とし、その後いざなぎ・いざなみまでは男女2柱ずつを一代として、計7代と数える」とある。
このように、宇比地邇神(うひじにのかみ)と妹(「妻」の意味)須比智邇神(すひちにのかみ)から、いざなぎ・いざなみまでの五代は有性の神である。つまり最初の神は無性であったが、うひじに・すひにちで初めて男女に分かれた。これを「陰陽斯開」と表現した。

【二霊】
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)を指す。
いざなぎ・いざなみも神であるが、上巻では矛で地上の沼に描いておのころ島にしてから、いざなぎが黄泉の国を去るまでは、"命"を付け、その後は"大神"を付ける。
"命"の期間は、比較的人間的な振る舞いをしている。それと関係があるかどうかは何とも言えないが、"霊"と表記する。これは「三神作」と「二霊為」を対句として語感をよくするためである。

【群品之祖】
これも「造化之首」と対句をなす。"之"は所有をあらわし、日本語の"の"と同じだと思えばよい。いざなぎ・いざなみは八州を生んだ後、古事記によればさらに6島と35神を生む。ただし、この数え方には、やや問題がある。のちに詳しく述べる。
いざなぎ・いざなみが生んだ数々の神には、海神、土神、木神、風神、山神など自然そのものに宿る神が含まれ、結局世界のすべてを神として生んだと解釈できる。
日本書紀では、より直接的に「次生海 次生川 次生山」などと表現している。古事記でも、実質的に"もの"を意味していたことが分かる。

 冒頭から、いざなぎ・いざなみが地上のものを生んで揃えるまでの部分の要約である。


2013.04.20(土) [003] 序文(要約部3)

所以 出入幽顯 日月彰於洗目 浮沈海水 神祇呈於滌身
所以(ゆゑに)、幽顕(よみとうつと)出(い)で入り、目を洗ふに[於]日(ひるめ)、月(つくよみ)彰(あらは)れ、海(うみ)の水(みづ)に浮き沈(くく)りし、身を滌(あら)ふに[於]神(あまつかみ)祇(くにつかみ)呈(あらは)る。

 かくして、黄泉と現世を出入りし、目を洗って日の神と月の神が彰(あらわ)れ、海に浮き沈みし、神祇が呈(あらわ)れました。

…[形]かすか、くらい、死者や霊界に関したさま
…[動]あらわれる
…[動]水などでよごれを洗う

【対句構造】
 所以、「出入幽顕、日月彰於洗目」―「浮沈海水、神祇呈於滌身」

【日月】
 「日」は天照大神。「月」は月読命(つくよみのみこと)。

【神祇】
 熟語「神祇」は、神=天つ神、祇=国つ神、をまとめて神全般を表す。国つ神は、天孫降臨以前から定住していた神、天つ神は高天原に住んでいた神である。
 しかし、ここでは神=天照大神、祇=速須佐之男命と見るべきであろう。2016.03.21

【所以】
 「所以」は、もともと因果関係や理由を言うときに使う。いざなぎ・いざなみがあってこそ、天照大神が出現したという文脈なのであろうか。

 古事記本文では、いざなぎは、いざなみに会いに黄泉の国にまでいくが、死後の姿を見られて恥じたいざなみは、いざなぎを襲わせた。
 いざなぎは追手を振り切って逃げたが、ついにいざなみが追いついたところで、別れを言い渡した。黄泉から戻ったいざなぎは穢れた体を清めるために海に身を沈める。そのとき脱げ捨てた衣服類や、潜水した身体から多数の神ができた。
 また左目を洗ったときに天照大御神(あまてらすおおみかみ=太陽の神)、右目を洗ったときに月讀命(つきよみのみこと=月の神)、鼻を洗ったときに須佐之男命(すさのおのみこと)ができた。
 序文のこの部分は、以上を要約したものである。ただし、本文は「神々→日月」の順番だが、序文では「日月→神々」の順番になっている。格上から順に並べたようだ。

 なお、古事記本文では、いざなぎ・いざなみからできた神々は「生まれた」もの、いざなぎの禊でできた神々は「成った」ものとして、用語が使い分けられている。


2013.04.20(土) [004] 序文(要約部4)

故 太素杳冥 因本教而識孕土產嶋之時 元始綿邈 頼先聖而察生神立人之世
故(かれ)、太素(おほもと)杳(はる)かに冥(とほ)く、本(もと)の教(をしへ)に因りて[而]土(つち)を孕(はら)み嶋(しま)を産む[之]時を識(し)り、元始(おほもと)綿(はる)かに邈(とほ)く、先(さき)の聖(ひじり)に頼(よ)りて[而]神を生まみ人を立てむ世(よ)を察(み)る。

 もとより、太素(たいそ)ははるかに遠く、本来の教えに因っててこそ国土を孕み、島を産んだ時を識(し)り、元始はひさしく隔たり、先立つ聖人に頼(よ)って神を生み人を立てる世を察することができます。

…[副]ことさらに、もとより、ゆえに
…[副]はなはだ [形]至高の
…もと、「太素」
…[形]暗い、はるか
…[形]暗い、奥深い [動]遠く隔たる [名]夜
…[接]しかして、すなわち
綿…[形]久しく時がたったさま、距離が遠いさま
…[形]はるか、はるかに遠い

【対句構造】
 故、「太素杳冥、因本教而識孕土生嶋之時」―「元始綿邈、頼先聖而察生神立人之世」

【太素・元始】
 どちらも歴史の起源のことである。

【杳・冥・綿・邈】
 この4語はすべて同義で、歴史の始まりは大昔のことなので、暗く隔たっていることを表す。

 ここでは、なるべく正統な教典に基づき、過去の偉大な伝承者の解釈を拠り所にして神の国の歴史を描くことを宣言している。ただし、求めるのは、歴史上の事実としての真実ではなく、神学的な真理である。


2013.04.21(日) [005] 序文(要約部5)

寔知 懸鏡吐珠 而百王相續 喫劒切蛇 以萬神蕃息 與議安河而平天下 論小濱而淸國土
寔(ここ)に、鏡を懸(か)け珠を吐きて[而]百(よよの)王(おほきみ)相(あひ)続(つ)がむことを知り、剣(つるぎ)を喫(か)み蛇(をろち)を切り、万(よろづ)の神蕃息(つど)ふを以ち、安河(やすかは)に議(はか)りて[而]天下(あめのした)を平(やは)さむことに与(あづか)り、小浜(をはま)に論(あらそ)ひて[而]国土(くに)を清む。

 これにより、鏡を掲げ珠を吐いたのを起源にあまたの王が相続することを知り、剣を噛み大蛇を切り、よろずの神がにぎやかに集まり、安河に議により天下を平定することに関与し、小浜で論を立て国土を浄化しました。

…[副]まことに(=実) [代]これ、この(=是)
…[接]~と~ [助]かな(文末に置き、感嘆をあらわす)
(ばん)…[動]繁殖する
蕃息…(汉典)孳生眾多。(生息すること多数)

【対句構造】
 寔、知「懸鏡吐珠、而百王相續」―「喫剣切蛇、以萬神蕃息」、与「議安河而平天下」―「論小濱而淸國土」

【百王】
 王は、神々ではなく、地上で統治する王のことである。それでは、王とは天皇のことであろうか?
<web大辞泉>
 多くの王。代々の王。「―相続し」〈記・序〉
「人代となりて神武天皇の御後、―と聞こゆる」〈愚管抄・三〉
 『愚管抄』は鎌倉初期の史論書。7巻。慈円著。承久2年(1220)ごろ成立。神武天皇から順徳天皇までの歴史を、末法思想と道理の理念とに基づいて述べたもの。
</大辞泉>
 愚管抄の著者も、「王=代々の天皇」だと解釈したことがわかる。
 しかし、古事記の本文では「天皇」と「王」の区別は明白である。それどころか、高天原の神を祖先にもつ天皇が世を継いで、この国を治めてきたと宣言するのが、古事記の最大の目的だから「王」を使ってしまっては古事記の本質に傷をつけることになる。

【懸鏡・吐珠・喫剣・切蛇】
 本文から、4つのエピソードを取り上げている。
懸鏡…天の岩戸に閉じこもった天照大神を引っぱり出す過程で、鏡をかざして天照に自らの姿を見せた。
吐珠…暴れ者の須佐之男は天照に乱暴をとがめられ、それでは子どもの作り比べをして心の清さを試そうということになった。
須佐之男は天照のみずらを飾っていた珠を口に含み、吐き出して神とした。
喫剣…天照は須佐之男の剣を口に含み、よく噛んではきだしたところ、神となった。
切蛇…須佐之男は八岐大蛇を切り刻んで退治した。
 ここでは物語の順番通りではない。本来の順番は、「喫剣→吐珠→懸鏡→切蛇」である。

【安河・小浜】
安河…葦原中国を平定させるためにだれを使いに出すかを議題に、八百万の神を天の安河の河原に集めて会議を開いた。
小浜…天照の命を受け、建御雷神・建御雷神は使いとして小浜の地に降り、大国主神との交渉に当たった。
 全体として大国主を屈服させて天照による征服が完成したという内容だが、本文の方では安河の会議で使者を派遣したが、その使者が裏切ったためまだ「天下を平定」には至らない。だから不正確である。 2文を混合して「議安河論小濱、而平天下淸國土」にすれば正確だったが、それを半分ずつに分けたので、おかしなことになった。

 ここでは、高天原における天照と須佐之男の事件から、八岐大蛇の退治、大国主を屈服させるまでを要約している。
 ただ、気になる点がある。「安河・小浜」の文の辻褄が合わないのは、上で書いた。他には、「懸鏡吐珠、而百王相續、喫剣切蛇、以萬神蕃息」がある。順番から考えれば、「まずたくさんの神が作られ、その後で人の世が始まる」のが順当であろう。だから「喫剣吐珠、以萬神蕃息、懸鏡切蛇、而百王相續」であるべきだ。ただ、ここは三種の神器を列挙するという面もあるので、鏡・勾玉・剣の順番を優先したのかも知れない。
 この文で最大の問題は「百王」の使用である。"王"が天皇を指すとすれば不適切である。だからと言って、各地の小さな国の王たちだとしても、統一国家としてのレベルアップを目的として作られる文書に地方の王たちの繁栄を祈る文言などを入れる必要はない。
 だから私には、序文の多くの部分は太安万侶自身が、誰かに作成を任せたのではないかと思えるのである。
 文体を見ると、対句によって2文を組にしている。対応する部分は、同じ意味でも同じ語の繰り返しを避け、同義語に置き換える。その結果、時々珍しい漢字が使用される。また全体として格調があり、整っている。想像するに、太安万侶が平文で原文を書き、祈祷文などを作成する専門の中国人スタッフが形式に合わせて書き直したのではないか。 その際、語調を整えることが最優先されたため、内容が時間的に逆転したり、因果関係の対応が狂ったり、うっかり「百王」を使ってしまったりしたのではないかと思う。


2013.04.21(日) [006] 序文(要約部6)

是以 番仁岐命初降于高千嶺 神倭天皇經歷于秋津嶋 化熊出川 天劒獲於高倉 生尾遮徑 大烏導於吉野 列儛攘賊 聞歌伏仇
是以(こをもち)、番仁岐命(ほのににぎのみこと)、初(はじめて)高千の嶺に降(お)り、神倭天皇(かむやまとすめらみこと)、秋津嶋を経歴(めぐ)る。化(ほのかなる)熊川に出で、天剣(あまつつるぎ)高倉に[於]獲(え)、尾の生(は)ゆひと径(みち)を遮(ふさ)げど、大烏(おほからす)吉野に導く。儛(まひ)列(つらな)り賊(あた)を攘(はら)ひ、歌を聞きて仇(あた)を伏せす。

 このようにして、番能邇邇芸命(ほのににぎのみこと)は初めて高千穂の嶺に降りなされ、神倭伊波礼毘古天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと、神武天皇)は秋津島を巡りなさりました。ほのかに見え隠れする熊が川に現れ、天の剣を高倉の土地で得、尾を生やした人に遭い、大烏(八咫烏)が吉野の土地で導きました。舞に並び賊軍を撃退なされ、歌を聞き仇敵を屈服なされました。

…[助]=於、または、意味をもたず語調を整える(訓読しない)
…[動]分ける、さく(=裂)、つらねる
…[動]まう(=舞)
…[動]追い払う
…[動]したがわせる

【対句構造】
 是以 「番仁岐命、初降于高千嶺」―「神倭天皇、経歴于秋津嶋。」「化熊出川、天剣獲於高倉」―「生尾遮径、大烏導於吉野。」「列儛攘賊」―「聞歌伏仇」

【番能邇邇芸命】
 番能邇邇芸命は、天之忍穗耳命の子である。天之忍穗耳命は、須佐之男が天照の左のみずらを飾っていた珠を口に含み、噛み砕いて噴出した霧からできた神。
 番能邇邇芸命は高千穂に降りた後、火照命(ほでりのみこと=海さちひこ)、火遠理命(ほおりのみこと=山さちひこ)兄弟を産み、「なくした釣り針」神話を展開する。火遠理の孫が神武天皇である。

【神倭天皇】
 神武天皇の移動コース(「東遷」と呼ばれる)は、日向(ひむか)→宇沙(大分県)→筑紫→吉備→浪速(なみはや)→熊野→宇陀→忍坂→畝傍(樫原宮)である。
秋津島…本州。
化熊…熊野村で熊が現れ、すぐ消えた。すると神武天皇の軍は全員気絶した。
天剣獲於高倉…高倉下という人物が、「天照大神らが夢に出て、横刀を落とすから取りに行って神の御子に渡せと告げられました。そこに行ったら本当にあったので献上します。」と言って横刀を渡した。
生尾…吉野の国、忍坂にそれぞれ尾のはえた人の種族がいた。
遮径…宇陀、忍坂でそれぞれ土着の族との間で戦闘があった。
大烏導於吉野…吉野の地で、高木神から、八咫烏(やたがらす)を道案内に派遣するというお告げがあった。八咫烏との行程に入ってから尾の生えた人に会うので、ここでも文の順番が逆転している。
列舞・聞歌…天皇は、忍坂の洞窟で土着勢力を饗応し、その最中に事前に決めた歌を合図に討ち果たすという計略を立て、謀略的に討ち果たした。「歌を聞き」はそのことを意味するが、「列舞」は古事記の本文にはでてこない。 宴なのだから当然歌も踊りもあるので、語調を整えるために「舞」を追加したのかも知れない。因みに日本書紀で調べると、やはり直接「舞い」には触れられてはいないが、「盛設宴饗、誘虜而取之」(盛大に饗宴を設け、敵を誘ってこれを打ち取れ)と、古事記(饗を賜り、膳を設ける)よりは賑やかである。

 この部分は番能邇邇芸命の降臨から、その孫の神武天皇の東遷までの物語をピックアップしている。海幸彦・山幸彦の部分は、触れられていない。


2013.04.21(日) [007] 序文(要約部7)

卽 覺夢而敬神祇 所以稱賢后 望烟而撫黎元 於今傳聖帝 定境開邦 制于近淡海 正姓撰氏 勒于遠飛鳥
即ち、夢(いめ)に覚(み)て[而]神(あまつかみ)祇(くにつかみ)を敬ひ、所以(も)ちて賢后(さかききさき、けむがう)と称(たた)へ、煙を望みて[而]黎元(れいげむ、おほみたから)を撫(あはれ)び、今に伝ふる聖帝(ひじりのみかど、せいてい)、境(さかひ)を定め邦(くに)を開き近淡海(ちかつあふみ)に制(をさ)め、姓(かばね)を正し氏(うじ)を撰(え)りしすめらみことは遠つ飛鳥に勒(おさ)む。

 すなわち、[神功皇后は]夢に見て神々を敬まわれことにより賢后(けんごう)と呼ばれ、[仁徳天皇は]煙を眺め民衆を愛しみ、今に伝わる聖帝[成務天皇]は、国境を定められ国を開かれ、近淡海で執政され、姓を正し氏を定めなされた[允恭]天皇は遠つ飛鳥で統治なさりました。

…=煙
…[同]いつくしむ
(れい)…[形]民衆が多いさま [名]多くの民衆 群黎
黎元(れいげん)…民衆
…[動]統率する
…[動]統率する

【対句構造】
 即、[覚夢而敬神祇、所以称賢后」―「望烟而撫黎元、於今伝聖帝。」「定境開邦、制于近淡海」―「正姓撰氏、勒于遠飛鳥」

【息長帯日売命=おきながたらしひめのみこと、神功皇后】
 14代仲哀天皇の皇后、おきながらたらしひめは、神懸かりして朝鮮半島への進出を促した。仲哀天皇はそれに従わなかったところ間もなく死亡し、遺された皇后は自ら軍勢を率いて朝鮮半島に攻め入った。 神懸かりして、皇后のまま事実上の天皇としての働きをしたのが、神功皇后である。。

【大雀命=おおさざきのみこと、16代 仁徳天皇】
 おおさざきのみことはある日高い山に上り、夕食の準備の時間なのに竈から煙が上がっていないのを見て、民の貧しさに心を痛めて徴税・使役を中止した。すると、3年後には竈から煙が上がるようになり、徴税・使役を再開した。

【若帯日子天皇=わかたらしひこのすめらのみこと 13代 成務天皇】
 近つ淡海(ちかつあわうみ)の志賀高穴穗宮に座し、天下を治める。古事記の期間で近淡海の天皇は、わかたらしひこ一人である。古事記本文には「大国小国の国造を定め賜り、また国々の境を定め賜り…」とある。 なお、近つ淡海は琵琶湖、遠つ淡海は浜名湖である。

【男浅津間若子宿禰王=おあさづまわくごのすくねのみこと 19代 允恭天皇】
 遠つ飛鳥宮で天下に座し、天下を治める。こちらも古事記で一人だけである。「天下氏氏名名人等の氏に食い違いが過ぎる」として、氏姓を定め直すなどした。 なお、近つ飛鳥は河内国、遠つ飛鳥は大和国にある。

 ここでは歴代の天皇の業績から、いくつかを例示している。しかしここでも時代的な順番とは一致していない。理由は明白で、「近つ淡海」と「遠つ飛鳥」を対にするためである。各文の中は「業績→実行者」の順番になっている。 しかし、倭建命は出てこない。おそらく、うまく対にできる事例がなかったのだろう。


2013.04.22(月) [008] 序文(要約部8)

雖 步驟各異 文質不同 莫不 稽古以繩風猷於既頽 照今以補典教於欲絶
歩(あゆみ)驟(はしり)各(おのもおのも)異(こと)にし文(あや)質(しろ)不同(おなじからざ)れ雖(ど)も、古(いにしへ)を稽(かむが)へ、以ちて既に頽(くず)れしに[於]風猷(ふうゆう、ことわり)を縄(ただ)すこと、今に照らし以ちて、欲(まさ)に絶へむとすに[於]典[のり]教[をしへ]を補(おきな)ふこと莫不(あらざるなし)。

 進む速さはそれぞれ異なり、文化の質は同じではないとしても、過去を振り返り、既に廃れてしまったことに対して気風や道理を正すこと、現在に目を向け、まさに途絶えようとすることに対して法規や教養を補うこと、これらを怠ったことは決してありませんでした。

…[接]~といえども
(しゅう)…[動]速く走る
…[名]華やかさ
莫不…(二重否定)あらざるなし
…[動]かんがえる
(縄)…[動]ただす  
(ゆう)…[名]道理
…[名]品格、習慣、流儀
…[名]文献、法規、儀礼
…[動](主観的に)こうありたいと願う気持ちを表す、(事物が)まさに~せんとす
…[動]くずれる

【対句構造】
 雖{「步驟各異」―「文質不同」}莫不{「稽古以繩風猷於既頽」―「照今以補典教於欲絶」}

 この部分をさらに意訳すると、「失われた規範を回復すること、変化に対応して教えや制度を改善していくことは、対応の速度や流儀は違っても、行われなかったことはなかった。」である。 それでもまだ分かりにくいが、結局は「国が乱れたときは新しい天皇の出現により、必ずあるべき姿を取戻し、さらに必要に応じて改革してきた」と言って、歴代の天皇の統治の正統性を宣言しているのである。
 時代背景を見ると、対外的には唐の圧力に対して、それを跳ね返すだけの国内体制の一新が要請されていた。また対内的にはクーデターで権力を奪取した天武天皇は、根強い反対勢力を屈服させなければならなかった。そのために、思想の面でも「現天皇が治める世」の正統性を国家全体に浸透させることが重要であった。 それが、古事記、そして日本書紀の編纂を進めた動機である。その動機をはっきり見せるのが、この部分なのである。

 この観点に立つと、古事記と日本書紀の性格の違いが見えてくる。簡単に言えば、紀は宮廷あるいは官僚向けで、記は民衆向けである。紀は特に歴代天皇の「業績」を細かく述べることにより、宮廷の儀式や、官僚による政策の立案に、依拠する基準になる。しかし、読み物としてはとても退屈である。
 それに対して記は、説話集の体裁で内容も親しみやすく、民衆が楽しく読むことができる。最大の目的は、天皇の系図が有史以前の天界から繋がっていることを一般に広めることだから、読みやすくするのは大切なことである。ただ、目的はそれだけではない。おそらく紀の神代の部分を書くための準備として、先行してまとめたものである。 その際、使わなかった異説は整理して保存しておいた。紀で「一書に曰く」として併記したのがそれである。なお、場合によっては記で使われなかった異説を紀で採用し、記が「一書」に回った部分もある。紀は専門家向けだから、神学的な議論に耐えるだけの客観性を保つ必要があった。(議論に決着がつく前に、刊行を急いだという見方も成り立つ。)一方、記の読者層にとっては、異説が併記されても「どっちがホントやねん?」という混乱を生み、かえって迷惑である。だから、「一書に曰く」は記にはない。
 以上は現時点では仮説であるが、記紀を細部まで厳密に検討すればその当否が見えてくるであろう。

 考えてみると、水戸学派から明治維新以後にかけて、記紀は同じ目的「外国の圧力に対抗するための国民の思想的な統合」に、再び活用された。20世紀になっても記紀はその目的に耐えうるものであった。その生命力はどこにあるか、それがどのようにして明治政府に使われていったのか、歴史的な検証が必要である。 これは決して過去のことではない。現在でも現職閣僚による靖国神社の参拝が、国のアイデンティティーを確保するという考え方がある。また、宮内庁が天皇陵と定めた古墳への考古学的調査を禁じるのは、明治政府の方針が未だに影響を及ぼしていることを示している。


2013.04.23(火) [009] 序文(天武天皇1)

曁飛鳥淸原大宮 御大八洲天皇御世
飛鳥の清原(きよみがはら)の大宮(おほみや)にて大八洲(おほやしま)を御(をさめたまふ)天皇(すめらみこと)の御世(みよ)に曁(およ)びて

 飛鳥浄御原宮にて全国を治められた[天武]天皇の時代に、

…[副]およびて。動作や行為が発生する時間を表す。

 飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや、あすかきよみがはらのみや)は、7世紀後半の天皇である天武天皇と持統天皇の2代が営んだ宮である。
 以下、天武天皇の業績の紹介に、多くの字数を割いている。


2013.04.23(火) [010] 序文(天武天皇2)

濳龍體元 洊雷應期 開夢歌而相纂業 投夜水而知承基
潜龍(せむりよう)元(もと)を体(あらは)し、洊雷(せむらい)応(まさ)に期(こころざ)さむとす。夢(いめ)の歌を開(と)きて[而]纂(あつま)りし業(つとめ)を相(み)、夜(よ)の水(みづ)に投(くくり、うつし)て[而]基(もと)を承(う)けむと知る。

 潜竜[=天子になろうとする御子]は元(かしら)を体現し、今まさに雷光の時を迎えました。夢で聞いた歌の謎を解かれたところ、なすべき事業が次々と見え、夜の水に禊されたところ、重大な使命を承(う)けるべきだと知りなされました。

濳龍…即位前の天子
…[動]おこなう 実践する
…[名]かしら
(せん)…[動]水がいたる
…人相や手相を見るという意味もある
(さん)…[動]集める

【対句構造】
 「濳龍體元―洊雷應期」「開夢歌而相纂業―投夜水而知承基」

 この文は要するに、自分が天皇になるべき身であることを自覚したということである。 表現は非常に婉曲なので、解釈がむずかしい。これまでの考察で、漢詩の専門家(おそらく中国人)の手になるとしたので、漢文として最も適切な語順で解釈することを最優先にした。
 「濳龍」は熟語として存在し、竜に昇格する直前に水中にいる様から、天子になる前を意味する。したがって、「潜龍」が主語、「体」が動詞で「元」が目的語であるとすべきである。
 次に「洊雷應期」は、「対句構造から「洊雷」が主語、「應」が動詞、「期」が目的語になるはずである。「洊」は「水至る」という動詞だが、形容詞に活用して主語「雷」を連用修飾していると考えるほかない。
 「応」「期」は、そのまま「期に応ず」でよい。つまり、「今がその時である」。ここで「応」を助動詞(まさに~せんとす)、「期す」を動詞としても結果は同じである。いよいよ雷鳴を伴って龍が天に上る時期が近づいたのである。

 続いて「開夢歌…」の部分で、「夢」「夜」はそれぞれ「歌」「水」を連体修飾する。「開く」は、基本的な意味は「物理的に開く」であるが、歌に秘められた「意味を開く」の用法は可能だろう。これは夢占いのようなものだから、「相」は占いの結果を見ることだと思われる。
 問題は「投じる」の解釈である。「水面に映る」とか「占う」という解釈もあった。だが「投」単独で「映す」や「占う」の意味にとるのは無理だと思う。「投」の近くに「水」があるのだから、「水に入る」以外の意味はあり得ない。禊をして心身とも清めて神の声を聞くのは、筋が通ると思う。 さて、夢の謎を解いてわかった「集業」とか、禊して知った「承基」とは何か? それは、間違いなく「御身は天皇となるべし」である。しかし直接的には書かない。
 つまり「彼は、龍になる前の、雄伏している身であった。今、ついに水が至り、雷鳴が轟こうとしている。夢に出てきた歌を解いたら……すべしであった。禊して占ったら……と告げられた」の文中、……の部分は、はっきり書かない。それはとても畏れ多いことで、決して書けないのである。


2013.04.24(水) [011] 序文(天武天皇3)

然 天時未臻 蟬蛻於南山 人事共給 虎步於東国
然(しかれども)、天(あめ)の時臻(いた)らず南の山に[於]蟬(せみ)蛻(もぬ)け、人の事共に給(そな)はり、東国(あづま)に[於]虎歩む。

とは言え天の時は未だ至らなかったので、南山[吉野山]に入り脱皮して蝉になるように天子となられ、人の勢い[軍勢]は大いに満ち、東国で虎となって歩まれました。

(しん)…[動]いたる
…[名]=蟬(せみ)
…[名]蝉の抜け殻 [動]脱皮する
人事…人間世界のさまざまな事柄
…[動]満ち足りる

【対句構造】
 然「天時未臻蟬蛻於南山―人事共給虎步於東国」

【天、人】
「天」と「人」によって対照表現される。

【蟬蛻】
<世界大百科事典(web)>中国,道教における仙人になる方法の一つ。晋の葛洪(かつこう)の『抱朴子』では,現世の肉体のまま虚空に昇るのを天仙,名山に遊ぶのを地仙,いったん死んだ後,蟬が殻から脱け出すようにして仙人になるのが尸解仙であるとし,尸解仙を下位に置く。</世界大百科事典>

【虎】
中国名山・龍虎山>前漢の中頃、道教第一代天師張道陵がこの山中で修行を積み練丹を行っていたところ、突然、龍と虎が現れた。</中国名山・龍虎山>
 道教の教えをデザインとする三角縁神獣鏡では、西王母、東方父とともに、聖獣として龍・虎が描かれる。

【南山】
 『日本書紀』巻二十八、天武天皇(上)によれば、大海人皇子(「天武天皇」)は、天智天皇を継いで天皇になるよう勧められたのを辞退し、出家して吉野山に入った。その後転地天皇が崩御し、日本書紀ではその翌年を天武天皇元年と記している。

【人事共給】
 日本書紀によれば、天武天皇元年6月24日、「天武天皇」に従う軍勢が一気に膨れ上がった。

【虎步】
 日本書紀には、大海人皇子が吉野に移るとき、「或曰 虎着翼放之」つまり、「ある人は『虎に翼を付けて之を放てり』と言ふ」とある。

【東国】
 「東国」というと、一般には関東や東北を指すイメージがあるが、本来は不破の関(岐阜県関が原付近)より東全部を指した。 日本書紀によれば、天皇一行は6月24日に東国に入り、伊賀から鈴鹿へ移動。夜、雷雨となり衣服が濡れて大変寒いので家一軒を燃やして暖をとったりした。 26日は朝明(あさけ、現在の四日市に地名が残る)から桑名へ移動した。この日軍勢はさらに増した。夜は桑名にとどまり、不破の関の情勢を探った。

 天智天皇は、都を近江大津宮に移して即位した。大海人皇子は出家して吉野山に移った。 吉野山地は、奈良県中央の急峻な山地で、京都・奈良からは南の方角にあたる。吉野川沿いの吉野町宮滝遺跡に、大海人皇子が住んだ吉野宮が含まれることが確定している。その地で天智天皇の崩御の報を聞くが、翌年を天武天皇元年と記し、実際に権力を奪取する以前から天皇と呼んでいる。
 道教においては、人間は山岳で修業により仙人に変わることができるが、それと重ね合わせている。その後瞬く間に大軍を糾合し、現在の三重県内を、関が原に向かって進軍する足取りを「東国に虎歩む」と表現している。 非常に少ない字数による表現であるが、日本書紀の記事と対応がとれている。
 「蟬蛻」や「虎」に道教風の表現があり、また「乾坤」という儒教の表現もある。聖徳太子の時代に仏教を取り入れたが、道鏡・儒教が否定されたわけでもなく、依然として根強く残っていることがわかる。
 また、文頭に「天」「地」、動物名「蟬―虎」、方角「南―東」をそれぞれ対応させて対句構造を整えている。


2013.04.27(土) [012] 序文(天武天皇4)

皇輿忽駕淩渡山川 六師雷震三軍電逝
皇(すめらの)輿(こし)忽(たちま)ちに駕(か)け、山川を淩(しの)ぎ渡る。六師(りくし、むいくさ)雷震し三軍(みいくさ)電逝(でんせい)す。

天皇の輿は直ちに馬をつなぎ、山を越え川を渡り、六師団は雷を轟かせ、三軍は稲妻のように素早く進軍しました。

輿…[名]くるま
…[副]たちまち
(か)…[名]馬車。天子の馬車、輿。天子 [動]馬を車につなぐ。馬に乗る。操縦する。兵をおこす
…[動]しのぐ、越える
雷震…[名]雷のとどろく音
…[名](連用化して)いなずまのように速く
…[動]ゆく

【対句構造】皇輿忽駕淩渡山川「六師雷震―三軍電逝」

【皇輿忽駕】
 輿、駕が使われている箇所を『日本書紀』(天武天皇上)から探してみた。
是日、發途入東國。事急不待駕而行之。儵遇縣犬養連大伴鞍馬、因以御駕。乃皇后載輿從之。逮于津振川、。便乘焉。

(しゅう)…[副]たちまち
…[接]よって。《文A》因《文B》により「文A=原因、文B=結果」の関係を表す。 
…[接]すなわち(順接)
車駕・御駕・駕…天子の乗る馬車。「駕」は一般的な馬車。あるいは天子が載る馬車。天子そのものを表す場合もある。(みかど(御門)が天皇をさすようになったのと同じ)
輿…こし、くるま。

 大海人皇子は使いを倭京(飛鳥)に送り、留守司の高坂王に、使者を送り駅鈴の発行を願い出た。しかし、発行を拒否されたという報告を受けた。ここで引用した文章は、その後のことである。
 留守司とは、もともと天子が地方巡幸をする間、代理として都におく役職である。天智天皇は飛鳥京から近江大津京に遷都したが、飛鳥京は、本来の都が留守にされているという考え方により、留守司が置かれていた。 駅鈴とは、都と地方の間を急ぎの使者が通行するときに持たせる鈴。使者は駅(中継地、16kmごと)で馬を乗り継ぐが、そのとき駅鈴を所持していることが、正統な使者であることの証となる。
 大海人皇子が駅鈴を求めさせた目的は、大海人皇子側の挙兵に対して、相手方が皇子に対して、警戒態勢がどのくらいとられているか探らせるためだろう。予想通り駅鈴の発行が拒否されたため、ついに軍を動かすときが来たと判断した。
 《是日》この日、《発途入東国》出発して東国に入った。
 《事急》決断したら、動きは速い。《不待駕而行之》車駕の準備を待たずに、《儵遇》ただちに、たまたま出会った《犬養連大伴鞍馬》犬養連大伴の馬に《》取りついて、またがった。天皇が車に載らず自ら馬にまたがるのは異例なので、「鞍」によってそれを明確に示す。 「縣」の意味は「ぶら下がる」だから、犬養連大伴が騎乗していた馬にとびつき、ぶら下がった体勢から這い上がってまたがり、二人乗りで行ったことも考えられる。
 《因以御駕》それを見て侍従は、御駕をあわてて用意する。
 《乃皇后載輿從之》そして、皇后は輿に載ってこれに従う。27歳の讚良皇女が「急いで!後を追うのよ!」と叫んで輿(馬車)に飛び乗るところを想像するととても面白い。なお、天皇の乗り物は"駕"、皇后の乗り物は"輿"である。
 《逮于津振川》津振川(津風呂川)は現在はダムの底であるが、かつては吉野川の支流であった。そこで大海人皇子を逮(とら)え、《車駕始至》はじめて車駕が追いつき、《便乗焉》大海人皇子はうまく乗車できたのであった。
 この日、軍勢は一気に膨れ上がる。天智天皇の統治に対する民衆の不満は、相当に高まっていたと思われる。

【淩渡山川】
 行軍の途中で山を越え川を渡るのは当然であるが、日本書紀から山越えの記事を探したところ、次の文章があった。
秋七月庚寅朔辛卯、天皇遣紀臣阿閉麻呂・多臣品治・三輪君子首・置始連菟、率數萬衆、自伊勢大山、越之向倭

 《秋七月庚寅朔辛卯》7月2日(1日を庚寅とする月の辛卯の日)なので《天皇遣紀臣阿閉麻呂・多臣品治・三輪君子首・置始連菟、率数万衆》天皇は3臣を遣わし、数万の衆を率いさせて《自伊勢大山、越之向倭》伊勢大山から、大山を越え大和に向かわせた。
 「大山」が、現在の特定の山を表すのか、「大いなる山」を一般的に表のか不明であるが、三重・奈良県境は山地になっていて、直接山を越えて向かうことはあり得る。

【六師雷震三軍電逝】
 「六師三軍」の数字に意味はなく、大軍を表す言い回しである。その元になる語句を中国の古典から探してみたところ、『周礼』(しゅうらい)[春秋時代(B.C.772―B.C.476)]の《夏官司馬》の章に次の文が見つかった。
凡制軍,萬有二千五百人為軍。王六軍,大國三軍,次國二軍,小國一軍。軍將皆命卿。

 『周礼』は儒家経典(儒教の拠り所となる文書)のひとつである。「師」は軍のまとまった組織を表すが、ここでは「軍」と同じ意味である。
 対句として、"六"と"三"、"師"と"軍"、"雷振"と"電逝"が対応している。

 前半の8文字には対句構造がない。特に伝えたいことがある場合は意味が通ることを優先し、無理に形式化しない。だから、対句になっていない部分は、気を付けて読む必要がある。 輿の準備を待たずに、さっさと馬にまたがって出発する場面は印象に残るので、特に取り入れられたのだろう。


2013.04.28(日) [013] 序文(天武天皇5)

杖矛擧威猛士烟起 絳旗耀兵凶徒瓦解
矛(ほこ)を杖(と)り威(い)を挙げ、猛(たけき)士(つはもの)煙起(えんきし、けぶりにたち)、旗(はた)絳(あか)くして兵(つはもの)は耀(かがや)き、凶徒(きようと、あた)瓦解(ぐわかいす、くづる)。

矛を手にして威を高らかに示し、勇猛な士は狼煙(のろし)に決起し、旗を赤々と掲げて武器を輝かせ、賊軍は瓦解しました。

…[動]手にもつ
…[名]濃い赤 [形]濃い赤の <漢辞海要約>もともとは、薄い赤(桃色)から濃い赤(真紅)への順に、。ただし、後に紅は赤と同じになった。</漢辞海>
…[名]武器
耀…[動]かがやく
瓦解…一部の瓦(かわら)のくずれ落ちることが屋根全体に及ぶように、ある一部の乱れ・破れ目が広がって組織全体がこわれること。

 【対句構造】
 「杖矛挙威猛士煙起―絳旗耀兵凶徒瓦解」

 【煙起】
 「煙起」という熟語は辞書には載っていない。だから、「煙」は「起」への連用修飾語として、猛士が決起するようすを表している。「煙」単独では「けむり」であるが、熟語から戦乱に関係ありそうなものを探すと「狼煙…のろし」や「煙塵(えんじん)…のろしや戦塵。戦乱のたとえ」がある。
 それ以外でも探すと、日本書紀の6月24日の記事がある。東国を移動中の大海人皇子は、幅10丈(30mぐらい)、高さは天に届くの黒い雲を見て、怪しく感じて占いをした。その結果、「天下二分の兆」を得て「朕は、ついに天下を得るのだなあ」と感嘆している。
 しかしこれは、大海人皇子自身の気持ちを高めていく過程を描く逸話であるし、「雲」であり、戦士が立ち上がる姿そのものを描いているわけでもない。ここは無理につなげるより、煙=「戦乱を意味する煙塵」または「狼煙(のろし)が上がり」と解釈する方が自然である。

【絳旗】
 「赤色」と言えば、日本書紀の7月2日、近江を直接攻撃させた部隊には、《恐其衆與近江師難別、以赤色着衣上》軍団が近江軍との区別がつかないことを恐れて赤色の上着を着せたという記事がある。
 しかし、ここに書いてあるのは「赤色の旗」なので、話がずれている。別の資料が存在していたのかも知れない。

【凶徒】
 普通に「敵軍」のこと。徳川家康は、小牧・長久手の戦いで敵対した羽柴秀吉のことを、手紙で「凶徒秀吉」と書いている。戦争の間は士気を高めるために、相手をなるべく貶める必要がある。

【文法】
 「杖」は杖(つえ)、または刑罰で使う棍棒で、熟語を構成する場合でも、「杖家」=50歳(家の中でも杖を使うようになる年齢)など、多くは「つえ」の意味を残している。対照的に「杖」という名前をもつ特定の武器はない。
 一方、「杖」は動詞では「杖をもつ」以外に「手にもつ」意味もあるので、「杖矛」は「矛を手に持つ」と訳せすことができる。しかし、それだと「絳旗」と対応がとれない。「絳旗」は普通に読めば「絳(あか)い旗」(形容詞+名詞)である。ただし辞書には、動詞化して「絳天」(天を赤く染める)とする例も書いてあるから、「絳」の動詞化は可能である。
 さらに「耀兵」との関係で考えてみる。「耀兵」は「兵士を輝かせる」でもいいが、「兵」の第一義は「武器」なので「兵器は輝く」とすることもできる。以上から後半は、①「赤い旗が兵士を輝かせる」または②「旗は赤くひらめきて、武器は銀色に輝く」である。
 前後半を対応させると、前半部は①に合わせて「(武器である)杖や矛は威力を高く示し」または②に合わせて「矛を手にとり威力を高め」である。字の並びを日本人が見た場合は①が自然である。しかし、序文全体は対句構造において漢文の文法を厳密に守っているので「杖は、もともと武器の意味を持たない」ことを優先して考えたい。 そうすると、解釈②となり「《動詞1文字+目的語1文字》×4」の形になる。

 文法には悩まされるが、文意は単純に「大海人皇子の軍が大友皇子の軍を打ち破った」である。これを美辞で表現している。


2013.04.29(月) [014] 序文(天武天皇6)

乃 放牛息馬 愷悌歸於華夏 卷旌戢戈 儛詠停於都邑 歲次大梁月踵夾鍾 淸原大宮 昇卽天位
乃(すなは)ち、放牛(ほうぎう、うしをはなち)息馬(そくばし、うまをやすめ)、愷悌(がいてい、やすきさま)華夏(かか、みやこ)に帰(かへ)り、旗を巻き戈(ほこ)を戢(をさ)め、舞詠(ぶえい、まひうたよみ)都(みやこ)と邑(むら)に停(やす)む。歳大梁(さいたいれふ、とりのとし)に次(いた)り、月夾鍾(つきけふせふ、きさらぎ)に踵(いた)りて、清原(きよみはらの)大宮(おほみや)にて昇りて天位(あまつくらひ)に即(つ)く。

すなわち牛を放ち馬を休ませ、そのおだやかさは都に戻り、旗を巻き武器を収納し、踊り舞い歌を詠み、京はくつろぎます。歳は大梁[たいりょう=酉年]、月は夾鍾[きょうしょう=二月]となり、浄御原の大宮に昇殿され、天皇に即位されました。

…[動]たのしむ
…[動]年長者を敬う
愷悌…おだやかで親しみやすいさま
=帰
華夏…もともと中国の中心部を指したことに準え、日本国内で文化が進んだ地域。
…[名]旗
…[動]おさめる 兵器を集めてしまう
…[動]とどまる 休む
都邑…おおきなまち。みやこ
…[動]つぐ。いたる
歲次…歳(木星)の天球上の位置を表す12の宿
大梁…歲次の5番目。戦国魏のみやこ(B.C.340年)
…[名]かかと [動]いたる。後を追う
月次…空における月の位置
夾鍾…2月。中国古代音楽の十二律のひとつ
…[動]つく

【対句構造】
乃「放牛息馬、愷悌歸於華夏―卷旌戢戈、儛詠停於都邑」「歲次大梁―月踵夾鍾」淸原大宮、昇卽天位

【放牛息馬】
 馬は当然であるが、牛も戦争遂行のために使われたことがわかる。おそらく台車を引いて物資を運搬したのだろう。日本書紀には吉備国や筑紫国まで応援を要請にいったという記事がある。本当に遠隔地の軍が参加したとすれば、大量の食糧・武器・仮宮建築資材を牛車で運んだことになる。
 それでは、食料としてはどうであろうか?肉食禁止令は675年という説があるが、まだ日数が浅いし、肉を食べなければ戦えないのが実際だったようにも思える。

【帰華夏】
101112
玄枵星紀析木大火寿星鶉尾鶉火鶉首実沈大梁降婁娵訾

 「華夏」は中国の中核となる先進地域で、その先進文化の"華"が周囲の蛮族を教化するとされる。(というか、中国の中枢は自らを先進地域とする意識を持っている)唐に対抗できる国造りを目指して編纂を急ぐ日本書紀の中で、平和な国の理想が「(中国の)華夏に帰す」と言って礼賛することはあり得ない。「華夏」は国内にある。現代の辞書で古事記に出てくる「華夏」は「日本において、(倭京を中心とする)文化の進んだ地域を指す」と解釈しているのは当然である。
 ただ、序文の文章化を担当したのが中国人スタッフだとすれば、彼ら自身は、心底から「これは中国の華夏である」という意識を以って書いた可能性がある。

【歲次大梁】
 「歲」とは太陽系の5番目の惑星、木星のことである。木星の公転周期は約12年であるので、天球の恒星の間を天の赤道に沿って少しずつ移動し、12年かけて元の場所にもどる。
 そこで、戦国時代(B.C.4世紀~B.C.3世紀ごろ)に、天球を12の区域に分け(「十二次(じゅうにじ)」という)、それぞれに固有名をつけ(西洋の星座と同じ発想)、木星がどの次にいるかによって年を12年周期で表す方法が考案された。
 <wikipedia>十二次は、天球を天の赤道帯にそって西から東に十二等分したもの。それぞれの名称は、星紀(せいき)・玄枵(げんきょう)・娵訾(しゅし)・降婁(こうろう)・大梁(たいりょう)・実沈(じっちん)・鶉首(じゅんしゅ)・鶉火(じゅんか)・鶉尾(じゅんび)・寿星(じゅせい)・大火(たいか)・析木(せきぼく)。</wikipedia>
 十二次は、後の十二支(子、丑、寅…)の元になったと言われ、やがて十干(甲、乙、丙…)と組み合わせて60年周期で年を表すようになった。十二次は西→東、木星の移動は東→西であるから、十二支と十二次は逆回りである。
 対応表によれば、大梁=酉の年なので、即位した天武天皇2年(癸酉年)と矛盾はない。なお、大梁は、大体黄道十二宮の金牛宮(おうし座)に相当する。
 また、戦国時代、魏の首都が「大梁」(現在の開封市)と名付けられ、同時に国名を梁に変更した。十二次の大梁との関係は、まだ調べきれていない。
 木星の公転周期は実際には11.862年なので、実際には少しずつ誤差が重なり、87年後には木星は本来の隣の次にある。
 その時点で、リアルな木星を使うのをあきらめて「仮想木星」にしたか、あるいはあっさりと割り切って十二次を十二支の別名としたと思われるが、まだ調査中である。
1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
太簇夾鐘姑洗仲呂蕤賓林鐘夷則南呂無射応鐘黄鐘大呂

【月踵夾鍾】
 「夾鐘」は、中国の伝統的な楽器の調律法に関係がある。最初に笛の長さを「ド」に合わせる。次に、管を3分の2倍にすると、「ソ」の音程が得られる。次にそこから3分の4倍の長さにすると「レ」である。ドからオクターブ上のドの範囲におさまるように、2/3倍または4/3倍を全部で12回繰り返すと、最後にオクターブ上の「ド」に戻ってくる。(正確には少しずれる)
 それによって12の半音間隔の音程が定まる。(ただ、響きを自然にしようとすると、主音をどれにするかによって微調整が必要)その12音に、例えば「レ」を基準として「太簇」、「レ#」を「夾鐘」…のように名前がつけられる。
 音名は全部で12個あるので、ちょうど12か月に対応させることができる。英語の音名で言えば、C=1月、C♯(D♭)=2月、D=3月…という感じである。その結果、本来音名であったものを逆に月名の別称として使用することができる。そのようにして「夾鐘」は2月の別名になった。
 また、「月踵」について。天体の月の位置は毎日星座が変わる。1か月で大体一周りするが、満月の位置が前回の満月と同じ位置に戻ることはない。(地球、月がそれぞれ独立した周期で公転しているのが原因)そこで朔日を基準日にして、その位置を1か月ごとの「月次」とすることができる。これは年ごとの木星の「年次」に対応するものである。月次の周期はメトン周期(19年=235朔望月)と等しいはずである。用語「月踵」は「月次」の代わりに使われる。対句構造の約束事―「同じ意味の動詞を繰り返す場合は、同じ動詞を避け、同じ意味の他の動詞に置き換える」に従って「次」を「踵」に置き変えたと思われる。
 実際「月踵」は辞書にもないし、ネット検索でも一般的な熟語としては拾えない。この用語の転用については、中国の古典を参考にしたと予想しているが、私はまだ、見つけることができずにいる。

【即位の日付と場所】
 日本書紀の記事を見て確認する。
二月丁巳朔癸未、天皇命有司設壇場、卽帝位於飛鳥淨御原宮。

 即位の日付は天武天皇2年2月27日である。壬申年(672)の翌年なので、西暦673年、癸酉年である。したがって即位を「歲次大梁(酉)月踵夾鍾(2月)」のこととする古事記序文の記事と一致している。
 即位した飛鳥淨御原宮については、前年に遡り「9月15日に岡本宮の南に飛鳥淨御原宮を建て、宮殿とする」。また後の同15年7月20日「改元して「朱鳥元年」とし、さらに宮殿を「飛鳥淨御原宮」と名付けた」記事がある。 したがって、天武天皇元年9月15日と同二年2月27日の記事は、後の「飛鳥淨御原宮」で行われたが、実際には命名する前だったことがわかる。

 ここでは天武天皇が勝利し、天皇の世が訪れたことを述べている。それだけのことだが、古い暦の表記にはかなり奥深い科学や技法が関係している。


2013.04.30(火) [015] 序文(天武天皇7)

道軼軒后 德跨周王 握乾符而摠六合 得天統而包八荒 乘二氣之正 齊五行之序 設神理以奬俗 敷英風以弘國
道(みち)は軒后(けむこう)を軼(こ)へ、徳(とく、のり)は周王(しうわう)を跨(こ)へり。握乾符(けむふをにぎり、あまつひつぎし)て[而]六合(りくごう、あめつち)を摠(す)べ、天統(あまつすめら)を得て[而]八荒(はちくわう、ひな)を包(かね)り。二気(ふたき)之(の)を正しきに乗り、五行(ごぎやう)之(の)序(はじめ)に齊(いつく)。神の理(ことわり)を設(そな)へ以ちて俗(ならひ)を奨(すす)め、英風(えいふう、ひいづならひ)を敷き以ちて国に弘(ひろ)む。

その道は黄帝を超え、その徳は武王を越えておられました。乾符[天のお墨付きを示す吉兆の札]を握り天地・四方を支配し、天統[天よりの血筋]を得て八方を統治します。陰陽において順を正して拠り所とし、木火土金水において序を正して浄めます。神による理(ことわり)を明らかにして人民に奨められ、すぐれた気風を知らせ国中に広げられました。

…[動]こえる 追い越す、超越する
軒后=軒皇。軒は軒轅の名字。史記にある黄帝のこと 
…[動]またぐ
乾符(けんぷ)…占いの吉札から転じ、天が皇帝に授ける特別な吉祥の占札
=総[動]すべる、たばねる
六合(りくごう)…天地と四方。上下四方。また、天下。世界。全宇宙。六極(りっきょく)。
天統…天の秩序、天子の血統
…[動]かねる 統括する
八荒…<百度百科>八荒也叫八方,指東、西、南、北、東南、東北、西南、西北等八面方向,指離中原极远[=絶遠]的地方。后泛指周围[=周囲]、各地。</百度百科>
 八荒は、八つの方向を呼ぶ。東・西・南・北・南東・北東・南西・北西の8つの方向。中原から離れた遠方の地方を指す。後に広く周辺や地方を指す。
二気…陰陽のこと
…身をきよめる
五行…木火土金水により世界が成り立っているとする思想
…[名]ことわり
…[動]すすめる 物事を勤勉に行うように励ます
…[動]しく ほどこす 広める
英風…すぐれた徳風
…[動]広げる

【対句構造】
 「道軼軒后―徳跨周王」「握乾符而摠六合―得天統而包八荒」「乗二気之正―斎五行之序」「設神理以奨俗―敷英風以弘国」

【道徳】
「道徳」は、儒家の教典で多用される。ここでは2文字を「道」、「徳」に分割して対句に割り振っている。

【軒后】
 軒皇ともいう。軒は軒轅の名字。黄帝とも呼ばれ、史記に載っている。
<wikipedia>黄帝(こうてい)は神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。また、三皇のうちに数えられることもある。(B.C.2510年~B.C.2448年)</wikipedia>
 三皇五帝は、最初の王朝"夏"よりはるか以前、神話上の存在である。

【周王】
 周(しゅう)王朝は、伝説上の"夏"、存在が確実な最初の王朝"殷"、に次ぐ3番目の王朝である。(B.C.1046年頃~B.C.256年)初代周王は、武王、姫発と呼ばれる。

【乾符】
 「乾符」は日本書紀には一度も出てこない。web国語辞典などを総合するとと、①唐の年号(874~879) ②神器となっていた。①は、後世のことなので、全く無関係である。
 ②の用例として上げられているのは、古事記序文のみである。②で「乾符」が鏡・勾玉・剣を指すというのはどうも納得できないので、中国の文献を調べてみた。
 最初に見つかったのは、『後漢書』第33巻、班彪(はんぴょう)列伝下の、次の一説である。
上帝懷而降鑒,致命于聖皇。於是聖皇乃握乾符,闡坤珍。
 上帝の懐に鑑が降りたとすれば、聖皇になるよう命じられるに至る。これにより聖皇は乾符を握り、坤珍を開いたのである。
 …[名]かがみ。…[動]開く。
 ここでまた謎の語句、「坤珍」が出現した。「乾☰」(天)と対なので、「坤☷」は地である。「珍」は宝。
 中国の電子辞典「漢典」では、この文に対する李賢(唐代)の注も載っていて、
 「注:“乾符、坤珍謂天地符瑞也。”」(乾符、坤珍は天地の符瑞を謂う)とある。符瑞の「符」「瑞」は両方とも「吉兆、めでたいしるし」の意味を持っていて、同義語による熟語である。
 この段階で「乾符を握る」は「天子になるべき、という神の意思を顕す吉兆」を意味することが確実になった。
 さらに中国のWeb辞書を調べる。
<百度百科>乾符:旧指帝王受命于天的吉祥征兆</百度百科>
旧く、帝王が天から、吉祥の征兆[占いの結果]によって命を受けることを指す。
 用例もついている。
《用例1》「寡君今已握乾符,類上帝,四海懸諸掌,大業集於身僅かな君主だけが既にこうやって乾符を握ることができた。上帝に値する。世界は手の上にある。大きな責務がこの身に集まった。
《用例2》「陛下仰稽 (かんがえる、たずねる) 乾符,俯[=伏]順人誌 (記録する) 。陛下は顔を上げて乾符の解釈を仰られ、(書記は)下を向いたまま、順に記録した。
 ということは、「乾符」は、もともと占いの結果(もちろん芳しい結果)が記されているお札である。それが、皇帝の位を授けるときに授与される、特別なお札を示すようになった。
 「」は八卦の「乾(けん)☰」であり、天、君主、積極性を意味する。また、「乾」は六十四卦(八卦2個を組み合わせたもの)では「乾下乾上」(☰☰2つとも乾)を意味する。占いとして、大変めでたい結果である。
 「」は、ふだ、神札 御護り札である。紙がない時代はお札は竹製だったから、竹冠がついている。
 したがって、皇帝に即位するときは、籤で「乾」を記した札を引き、それを握って皇帝になるのである。もちろん儀式だから、結果は必ず「乾」になるように事前に用意されただろう。天武天皇の時代に、日本で実際に籤を引く習慣があったかどうかは不明であが、その習慣がなかったとしても、天皇の即位を「乾符を握る」と表すのは伝統的な表現として普通にあり得る。
 また、もともと「符=お札」であるから、「握る」と書かれるのは納得できる。古事記を含め、ここに挙げた4例中3例は「握」っている。また、残る一例は、「読んで解釈する」ものだから、文字が書かれていたのは明らかである。
 一方、三種の神器については、「握る」対象とするには違和感がある。以上詳しく調べてみたが、結論的には古事記序文における「乾符を握る」はおそらく比喩だが、本来の意味は、「吉兆のお札」の方であろう。

【六合】
 東西南北天地という3次元の座標軸を示す。道家、儒家、その他の思想書、史書など、分野に関係なく頻繁に出てくるので、「四方」を三次元に拡張し、さらに「世界」を指す一般的な語句であると考えられる。

【八荒】
 中華思想(中国は文化が進んだ地域で、周囲は遅れた地域だという考え)に基づき、中国を中原、その周囲八方の地域を八荒という。「華夏」で説明したようにそのまま日本に当てはめ、文化の進んだ地域が中原で、周辺が八荒である。

【二気・五行】
 陰陽、五行思想は春秋戦国時代のころ統合されて陰陽五行思想となり、さらに道鏡と融合されていった。

【英風】
 検索をかけると、「英風」は儒家『蔡中郎集』外集一の「荊州刺史庾侯碑」にも出てくるが、特別な意味で使う用語ではなさそうである。

 冒頭、その道徳は中国の神話時代の帝や、中国古代の王より優れる、と壮大なことが書いてある。実に威勢がよい。ただ、中国では秦の始皇帝は、神話時代の「皇」「帝」を凌ぐ存在として「皇帝」になったとされるから、皇帝と同格の天皇をこのように位置づけるのは筋が通っている。
 続けて陰陽、五行思想、八卦(道鏡)、儒教、さらには中華思想まで出てくる。言葉は悪いが種々の教典から数値や語句を、脈絡なく拾って組み立てた印象を受ける。当時の日本は、唐の進出に対抗すべく国の体制を確立していこうとしているが、様式化された文章内では中国文明の精神的資産に依存している。
 ここで再び"乾符"の問題を考える。"乾符"がおみくじであろうが、三種の神器であろうが、要するに「『…』を握ることによって神から天皇としての資格を認められる」のだから「…」が何であっても大勢に影響はない。
 と思えるが、しかし「…」が何であるかは、天皇になる手続きが中国文化によるのか、天照大神に直結するのかという大問題に発展する。ただし、これは「様式化した文章上ではどう書かれるか」に限られた話である。事実として、鏡・勾玉・剣の継承が行われたのは明白である。そのように表現上だけのことであったとしても、古事記の性格に関係してくることは明らかである。


2013.04.30(火) [016] 序文(天武天皇8)

重加 智海浩汗 潭探上古 心鏡煒煌 明覩先代
重加(くは)へ、智海(さときうみ)は浩汗(かうかに、ゆたか)にして、上古(いにしへ)を潭探(たむしむし、ふかめ)、心鏡(しむきやう、こころ)は煒煌(ゐくわうにて、かかやきて)、先代(さきのよ)を明覩(めいとす、あかくみる)。

さらに加えまして、智は海のように大いに湛えられ、その深みにはるか古い歴史を探り、心は鏡のように澄みきって輝き、その明るさに賢き先人の業績を見ることができました。

…[名]うみ。容量の大きな容器。同質の人や物が数多く集まって形成したまとまり
浩汗…①水がゆたかなさま ②照り輝く
…[名]深く水をたたえた池
潭思…深く考える
心鏡…①[仏]鏡のように澄みきった心 ②心の中で洞察する
煒煌(いこう)…光り輝くさま
覩(と)…[動]みる

【対句構造】
 重加「智海浩汗、潭探上古―心鏡煒煌、明覩先代」

 人の精神を、「」:理知的、分析的なはたらきの側面と、「」:情感豊かにものごとを受け止める側面から述べている。
 「智」については、膨大な知識の海から歴史の真実を見つけ出すことができる。また、「心」についてはよく磨かれた鏡のように、輝かしい先人の業績を映し出すことができるとする。
 天皇はその両方の資質を備えていると讃えている。と同時に、その天皇の命を受けた古事記の編纂も同様の精神で行ったことを、言外に自負しているのである。

【「曁飛鳥淸原大宮御大八洲天皇御世~心鏡煒煌明覩先代」のまとめ】
 この部分は、結局は天武天皇への尊称にあたる部分を長大化したものである。全く形式的な文章なので、さらっと通過しようと思ったが、それでも語句の意味を正確に把握しておこうとしたところ、その作業は膨れ上がった。それでもいろいろなことに気づいたので、以下の3項目にまとめる。

Ⅰ 対句構造の例外
 途中で何度も書いたことであるが、多少辻褄が合わなくなったとしても、言葉のリズムを整えて格調を高めることを優先している。それでも、対句の対称性を破ってでも、あえて書かなければならないことがあった。その部分は、接続詞を除けば次のたった2文である。
① 皇輿忽駕淩渡山川 ② 淸原大宮昇即天位
 ①は、大海人皇子が事を急ぐあまり、自ら乗馬してさっさと走り出し、あとからやっと輿が追いついた場面である。同時代の人にとっても面白い話ったので、これに触れたと思われる。
 ②は、言うまでもなく、この部分の一番の核心である。この部分以外は、すべて修飾語なのである。

Ⅱ 長大な賛辞の理由
 次に、天武天皇に対して、このように長大な賛辞が置かれた理由を考えてみたい。はじめに想像したのは次の3点である。
 天武天皇が壬申の乱勝利後に築き上げた体制は、貴族・官僚に強い統制をかける側面があり、官僚は自らの身を守るために、天皇に対して過剰なまでの忠誠を表現する必要があった。太安万侶もそういう官僚の一人であった。古事記を上梓したのは、天武天皇の没後であるが、体制に継続性がある限り、過去の天皇に対しても同様の崇拝が求められる。
 これほどの長文で讃えたこと自体が、天武天皇自身の強い意思によって、古事記が編纂されたことを物語っている。
 天武天皇の業績が、当時の歴史から見て画期的であったことを、安万侶自身が強く意識している。
 はじめはぐらいだろうと考えていたが、詳しく読むとCがかなり感じられるようになった。古事記は、多様な歴史書が矛盾しながら並立しているのを整理し、見通しのよい系統的な歴史書(前半は神話であるが)をまとめ上げ、天皇を中心とする整然とした国づくりの精神的な土台にすることが目的であった。それは、天武天皇の強力なリーダーシップ抜きでは決してあり得なかったことである。だから、ここに天武天皇への賛辞を置くことが欠かせないのである。

Ⅲ 時代の精神世界を読み取る
 文章の多くは、実質的な意味を持たない呪文のようなものであるが、個々の言い回しの泉源を中国古典から探ることにより、当時の精神世界に触れることができる。
 全体的に、当時の世界観は、中国から伝来した道教・儒教・中華思想が混合したものに基づいている。これまでの私には、仏教化により道教的世界観を一掃したというイメージがあったが、仏教思想はあまり見えず、相変わらず道教の影響が強い。
 3~4世紀の三角縁神獣鏡に表現された道教世界は、そのまま残存していると見た方がよい。ただし、新しい傾向として、八卦への傾倒がある。6世紀後半に墳墓や建造物が八角形になってきた理由はそこにあると思われる。

 最後に、天武天皇の業績が何故本文中ではなく、序文に載っているのかを考えておきたい。結局、天武天皇はまだ歴史になっていないということである。
 古事記の目的は、残されていた雑多は歴史書の記述を取捨選択し、「正しい歴史」をまとめ上げるところにあった。天武天皇による政権奪取は、まだ記憶に新しく、正式な事実の記録がある。その記録は批判的検討の対象ではない。むしろ、古事記成立の事情を説明するところで使われるべきであり、実際そのように扱われたのである。


[017] 序文(稗田阿礼1)