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2021.07.25(sun) [16]Ⅰ:縁起(k) ▲ |
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【Ⅰ:縁起(k)】 概要 《聰耳皇子于諸臣等告》
それを解決するひとつの考え方として、「我等」の前に「告。皇子等白」が脱落しているとする(右図①)。 しかし、これでは詔が「伝え聞くに、君が正法を行へば随(まにま)に行ひ、君が邪法を行へば慰め諫むるべしという」だけで終わってしまい、実質的な意味がない。 そこで、「及」は「于」の誤りだと考えてみる(②)。遡って前段の「推古帝懺悔言」は、聡耳皇子が推古天皇の恩頼を蒙りたいとお願いしたことへの答えであった。 聡耳皇子は推古の懺悔の言葉を承り、「天皇見三-聞所二行願一」〔天皇に、行い願う所を見聞きしまつりて〕、「天下之万姓悉皆応レ随レ行」 〔万民が同じ行いをするように努めよう〕と呼びかけたと読んでみる。 この言葉の次には、諸臣が仏法への帰依を誓い、皇子はそれを天皇に報告する〔"聰耳皇子聞二此語一已具白二天皇一"〕という文があるから、この読み方はとても筋が通る。 ところが、すると天皇でなく皇子を「告」の主語とすることが気になる。ただ、書記では皇子は摂政であったから許されるかも知れない。 無理すれば、「及」のままで置くことも不可能ではない。 これを「聡耳皇子、及二諸臣等一告」〔聡耳皇子は諸臣等に及き告く〕、 すなわち皇子は天皇の思いを諸臣に及ぼすと読む。 しかし、「及」は、接続詞〔=and〕以外の解釈は常識的に無理であろう。 実際『大日本佛敎全書』版による訓点は「爾時聰耳皇子及諸臣等告ク。」となっていて、決して「爾時聰耳皇子及二諸臣等一告ク。」ではない。 もし直すとすれば、「聰耳皇子及其詔于諸臣等曰」が考えられる。ただ、修正を最小限に留めるならやはり②であろう。「于-」前置詞句の位置は「述部の前であったり、後であったり」するというから(『漢辞海』)、語順の問題はない。 《左肩三宝坐右肩我神坐》 中臣連は、天児屋命を祖とする家系で(第49回)、 延喜式にも「中臣氏祝詞」とあり、忌部とともに神道の中心を担う。 物部氏は先に天降りした饒速日命を祖として、神武天皇に服従して朝廷を支える氏族となった。 両氏はこのとき仏法を受け入れたが、神道を捨てたわけでもない。こうして、神仏習合という宗教形態が芽生えたのである。 《所謂刹柱立処》 「所〔謂〕刹柱立処」、「所謂二躯丈六作奉処」は、詔の中の「刹柱」、「二躯丈六作奉」を受けて解説したものであろう。 〔『寧楽遺文』が「所刹柱立処」に「謂」を補ったのは妥当である。〕すると、「之」は「羞」の目的語となり、 いくつかの箇所にある「受大災[大]羞」は、「受二大災羞一」〔大きなる災と羞とを受く〕ではなく、「大災を受け羞づ」と読むことになる。 「刹柱」については、飛鳥寺遺跡、豊浦寺跡の双方に塔の礎石が検出されている。 「二躯丈六作奉処」は、「作って祀ったところ」とも「お作りしたところ〔工房〕」とも読めるが、 二体は元興寺と豊浦寺のそれぞれに安置したと考えれば、前者となる。 ただ、安置した伽藍はともかく、その工房をことさらに「穢汚することなかれ」というのは不自然である。 また別に書かれた「銅仏」も「作奉」と表現されるから、「作奉」は工房ではなく作ったものを安置した意味か。 それでも「丈六」は釈迦の身長1丈6寸〔4.8m〕のことで、座像は高さを半分にした2.4mが基本サイズである。 これを一寺に二体置くのは大変である。それでも、「建通寺」「元興寺」が別寺として隣接していてそれぞれに置いたことも考えられる。 さらには飛鳥寺は、西金堂・東金堂・中金堂が明らかになっているから、 「銅丈六」を含めて合計三体が三金堂に置かれたとも解釈できそうである。ただ、「二躯丈六」・「銅丈六」は記述の混乱と見るのが順当かも知れない。 また、「物見岡」の遺称は見いだせず、他の文献からも見つけられないので、どこを指すかは不明である。 現在では創建元興寺、豊浦寺の遺構はかなり明確になってきているので、 その記録を踏まえ別項でこの部分を検討したい。 《大意》 この時、聡耳皇子(とみみのみこ)は、諸臣らに広く仰りました。 ――「伝え聞くところでは、君主が正法を行えば、そのまま随って行い、 君主が邪法を行えば、慰めつつ諫めるものだという。 今、我らは、天皇(すみらみこと)の修行祈願を見聞きして、 この修行祈願に適(かな)い、天下の万姓は悉皆(しっかい)随行すべし。」 その時、中臣連(なかとみのむらじ)、物部連(もののべのむらじ)は等しく上首となり、 諸臣が心を同じくして言上しました。 ――「命に従い、三宝の法を、 更に破らず、更に焼き流さず、更に凌ぎ軽んぜず、 三宝の物は接収せず犯しません。 今より後は、左肩に三宝を据え、 右肩に我らの神〔神道〕を据え、 並べて礼拝し尊重し供養いたします。 もしこの祈願を破り誤謬があれば、 まさに天皇(すめらみこと)の祈願のように、種々の大災を被り、羞恥します。 仰ぎ願はくば、この善き祈願の功徳をもって、 皇帝陛下と共に、末長い月日に天下の安楽に与り、 後嗣は恩頼を蒙り、 時代が変われど、益を得ることに変りありませんことを。」 その時、聡耳皇子はこの言葉を聞き終え、 具(つぶさ)に天皇(すめらみこと)に申し上げました。 この時、天皇はお褒めになり、 「善きかな。私もまた)随って喜びます。」と仰りました。 さて、時に聡耳皇子を召して仰りました。 ――「その事の状況を詳細に知って、私が生きて〔治(しらし)めて〕いる間に、 凡の仏法が起って来た有様、 併せて元興寺、建通寺などの成立した経緯、 そして私の発願、これらを皆つぶさに記〔=文書〕に委ねるようにせよ。」 また仰りました。 ――「刹柱が立っているところ、 そして二体の丈六〔仏像〕を作ったところを穢(けが)してはなりません。 また、人が住んで汚すこともないように。 また、誤謬して法を犯し、諫められる者があれば、 先の〔私の〕祈願の言葉と同じように、大災を受けこれを羞恥することになります。」 ここでいう刹柱を立てたところは、 宝欄(ほうらん)の東の仏門のところ、 ここでいう二体の丈六を作り奉ったところは、物見岡(ものみのおか)の地の方でしょうか。 その地の東に十一丈の大殿があり、銅の丈六を作り奉りました。 西に八角の円殿があり、繡仏を奉りました。 【「所謂」以下の記述】 「所謂」以下の部分は一見夢想的で、あまり現実と噛み合っていないように感じられる。 しかし、この部分が書かれたのが飛鳥時代、あるいは後述するように奈良時代だったとしても、 その時点で元興寺は現実に存在していたわけだから、全くの空想とは考えにくい。 その記述には、実在した元興寺と何らかの関係があるはずである。 この観点から、何とか読み解いてみたい。 なお、この項では「元興寺」は平城京に移転した後の寺を指し、推古朝の創建元興寺には「飛鳥寺」の名称を用いることとする。
〈奈文研58〉は、 「講堂は竹藪になつていた西端部分で最もよく残り、其他ではかなりひどく破壊されていて、 東端を確定するには間接な方法に頼らざるをえなかった」、しかしいろいろな数値を仮定すると 「その桁行総長は高麗尺で100尺となる」(p.44)と述べる。 高麗尺は1.2小尺に相当すると言われるが、その根拠は『令集解』にあるという。 『令集解』は、平安時代に書かれた養老令の詳細な解説書。その「巻十二;田令」の中に「高麗尺」の語句が出てくる。 養老令-条文「令第九 凡参拾漆条 凡田長卅歩広十二歩為段十段為町」 〔凡そ三十七条 凡そ田の長さ三十歩広さ十二歩を段とし、十段を町とす〕の割注として書かれた長い解釈文の中に、 「即以二高麗五尺一准二今尺大六尺相当一」 〔即ち、高麗五尺を以て今の尺の大きさ六尺相当に准(なら)ふ〕 とある。つまり「1高麗尺=1.2尺」である。 〈奈文研58〉は、「一般に高麗尺と呼んでいる東魏尺」では、「中門・南門・項ではその値が小さく1.16尺」 「西門や東金堂では1.17尺」と述べている。 この高麗尺もしくは東魏尺は推定値で、建物の柱間距離を並べて基準となる単位長さを見つけ出したものである。 同書によると建物跡のうち東金堂の礎石配列が比較的明瞭で、「東金堂復元平面図」が示されている。明朝体で示された値の単位は明治以後の尺で、以下M尺〔30.303…cm〕と表示する。 図では、東西方向は「41.8高麗尺=46.28M尺」で、1高麗尺=1.11M尺、 東西方向は「54.8高麗尺=61.48M尺」で、1高麗尺=1.12M尺となる。 さて、飛鳥~平安において〈令集解〉の「5高麗尺=6小尺」の関係は、実用場面で頻繁に用いられたと想像される。というのは、税の取り立てや集計などの実務に於いては、細かい端数を伴う換算はかなり不便だからである。 だとすれば、飛鳥時代はじめの一尺は28.2cmだったことになる(A尺とする)。
また、「なぶんけんブログ[41]」は、 平城宮から出土した尺を実測した「29.6cm」を紹介している(H尺とする)。 講堂のサイズの推定値「100高麗尺」は、120A尺、114H尺、113S尺に相当する〔1丈=10尺〕。 これを見ると、「十一丈」は飛鳥寺の講堂を奈良時代に測った実尺の可能性がある。 他の建物について見ると、東金堂は4.7S丈×5.5S丈で西金堂もほぼ同じ、中金堂は上部基壇「桁行68尺、梁行57尺、周囲玉石敷4~4.5尺」というから6S丈×4.9S丈程度となり、 何れも「十一丈」にはならない。 《物見岡》
《刹柱立処》 「宝欄」は、本来は堂宇を巡る通路の手すりの美称であろうが、堂宇そのものを指すと考えてよいと思われる。 「東門」は検出されていないが、『太子拾遺記』〔法空;鎌倉〕や『玉林抄』〔訓海;1772〕には、東西南北に門があり、それぞれ別の寺名が掲げられていたという記述がある(資料[50]【本元興寺の別名】)。 しかし、飛鳥寺の塔跡は「宝欄東仏門之所」とは位置が異なる。 むしろ「刹柱立処者宝欄之東仏門之処」にピッタリ合うのは、平城京に移転した後の元興寺の伽藍配置である。 元興寺の五重塔〔江戸時代に焼失〕は、東門の近くにある。 元興寺の移転は、元正天皇の霊亀二年〔716〕に行われた(Ⅵ:符)。 《八角円殿》 飛鳥寺、豊浦寺、もしくは平城京の元興寺に八角円殿の跡を検出したという報告書の類は今のところ見つからない。 八角円殿の位置については、直前の文を見ると「物見岡の東に十一丈の大殿」とあるから、 「西有二八角円殿一」は物見岡の西側ということになる。 前述したように物見岡=甘樫丘だとすると、物見岡の西側は飛鳥寺の伽藍には属さない。 むしろ豊浦寺の範囲だが、豊浦寺に八角円堂があったとする資料も見えない。 むしろ、文章をその前の「宝欄」まで遡り、その「宝欄」を対称軸として東に刹塔、西に八角円堂があったと読めば一つの寺の伽藍配置となり分かりやすい。 この配置を平城京元興寺に当てはめてみると、 金堂を中にして講堂と中門を回廊が通るエリアが、まさに「宝欄」と言えよう。 仮に西小塔院のところにあったのが八角円殿とするなら、元興寺の配置を述べたものとして俄然現実味を帯びる。 これはなかなかうまい読み方だが、西小塔院がかつて八角円殿であったとする資料が今のところ見えないのが残念である。 《執筆した時代》 このように検討すると、「所謂」以下は、飛鳥寺と移転後の元興寺のことが時空を超えて混ざっているように思われる。 つまりは、当時色々言われていたことを、断片的かつ無秩序に並べて書いたのであろう。「東方乎」という疑問形が使われたり、同じ「丈六」でありながら「二躯丈六」と「銅丈六」とが衝突しているところからも、 様々な伝聞をそのまま書き連ねた印象を受ける。 そこに、もし元興寺の伽藍配置が含まれているとすれば、書かれたのは元興寺が移転した716年より後である。 すると、推古天皇の表現「天皇」が、これまでの「大大王天皇」より簡潔であることも、奈良時代以後に書かれたからかも知れない。 その書き足しは、(j)段あたりからかも。というのは、 「山林園田瀆封戸奴婢等更納奉」という文字列に、奈良時代に寺所有の資材を報告した「符」の用語の匂いが感じられるからである。 まとめ 推古朝で創建された元興寺は、平城京に移転後は「本元興寺」として残り、現在は飛鳥寺と呼ばれる。 「所謂…」の記述の現実との接点を求めるために、飛鳥寺、豊浦寺の伽藍配置に関する現在の知見を調べた (資料[48]、資料[50])。 すると、法隆寺五重塔も含めて塔心礎、舎利容器に興味が広がり、様々なことを発展的に学ぶことができた。 さて、その結果と「所謂…」の内容を照らし合わせると、大まかに言って豊浦寺との関わりはなく、 飛鳥寺の講堂とは関係がありそうで、意外にも塔の位置は移転後の元興寺の伽藍配置が見えてきた。 他の要素とも合わせて考えると、推古天皇の懺悔言から後の部分は、どうも奈良時代以後に書かれたと見た方がよさそうに思える。 中臣氏物部氏を始めとする諸族の「左肩に三宝を据え、右肩に神を据え、並べて礼拝尊重供養する」との誓いは、 奈良時代における、神仏習合の定式化の端緒ではないだろうか。 |