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2020.12.10(thu) [8]Ⅰ:縁起(b) 

 以下、「:縁起」の【縁起(2)】の、《省略部分1》とした部分を精読する。

:縁起(b)】 概要
《欽明天皇(二)》

然後百濟人高麗人漢人弘少々爲修行在 
爾時一年隔 數々神心發 
時餘臣等言
「如是神心數々發者 他國神禮罪也」
時稻目大臣言
「他國神※1禮罪也」
餘臣等言
「神子等我等言者不
而國内禮※2〔亂〕哉」 
爾時天王聞食賜而
大臣告
「國内數々亂病死人多者 他國神禮罪言
許」告
※1礼罪…『大日本仏教全書118』:「神下恐脱不字〔恐らく"不"が脱落〕
※2…『大日本仏教全書118』:「禮恐亂〔"礼"は恐らく"乱"〕
(b)
然後(しかるのち)に、百済人(くたらのひと)高麗人(こまのひと)漢人(あやのひと)弘(ひろ)めて、少々(そこばく)修行(おこなひ)を為(し)て在り。
爾(この)時より一年(ひととせ)隔(へだ)ちて、数々(しばしば)神の心(みこころ)発(おこ)れり。 
時に余(あたし)臣(まへつきみ)等(ら)言へらく
「如是(かく)神の心(みこころ)数々(しばしば)発(おこ)れるは、他国(あたしくに)の神を礼(ゐやま)ひし罪(つみ)也(なり)」といへり。
時に稲目(いなめ)の大臣(おほまへつきみ)言はく
「他国の神を礼ひし罪也(なるか)」といふ。
余(あたし)臣(まへつきみ)等(ら)言ひしく
「神子(かみのみこ)等(ら)我等(われら)の言(こと)を不聞(ききたまはず)。
而(しかるがゆゑに)国内(くぬち)に乱るや。」といひき。
爾(この)時、天王〔天皇〕(すめらみこと)聞食賜(ききをしたまひ)て、
大臣(おほまへつきみ)に告(のたま)ひしく
「国内(くぬち)数々(しばしば)乱りて病(やまひ)し死(しにする)人の多(さは)にあるは、他国の神を礼ひし罪と言へり。
不可許(ゆるさざる)宜(べ)し。」と告(のたま)ひき。
時大臣久念而白
〔外〕※3狀餘臣等隨在 内心他國神不捨」白
時天王告
「我亦如是念」告
※3…『寧楽遺文』は「〔外〕」を傍書する。『仏教全書』ははじめから「外」。
内心…「(万)2566 情中之 こころのうちの」。
時に大臣(おほまへつきみ)〔稲目〕久しく念(おも)ひて白(まを)さく
「外(と)の状(かたち)は余(あたし)臣(まへつきみ)等(ら)の隨(まにま)に在(あ)れど、内心(こころのうち)に他(あたし)国の神を不捨(すてず)」と白(まを)して、
時に天王〔欽明天皇〕告(のたま)ひしく、
「我(われ)も亦(また)如是(かく)念(おも)ひたまふ」と告(のたま)ひき。
然後經卅餘年
稻目大臣得病望危時
池邊皇子與大々王二柱前 後言 白 
然後(しかるのち)、三十余年(みそとせあまり)を経て、
稲目の大臣(おほまへつきみ)病(やまひ)を得て危(あやふき)を望(のぞ)みし時、
池辺(いけべ)の皇子(みこ)与(と)大大王(おほきおほきみ)との二柱(ふたはしら)の前(みまへ)に後言(のちこと)を白(まを)ししく
「『應-行佛法
我白依而
天皇修行賜也
然 餘臣等猶將滅捨
故 此爲 佛神宮官奉
牟久原後宮者滅物 主大命任
但天皇與我同心 皇子等亦底同
終佛法莫忌捨」白
あろじ…[名] 主人。あるじ。(万)4498 波之伎余之 家布能安路自波 伊蘇麻都能 はしきよし けふのあろじは いそまつの〔はしきよし 今日の主人は 磯松の〕
…[動] (古訓) まかす。ほしいまま。
「『仏法(ほとけのみのり)を修行(おこな)ひたまふ応(べ)し』と
我(われ)白(まを)せしことに依(よ)りて、
天皇(すめらみこと)修行(おこなひ)賜(たま)ひき。
然(しかれども)、余(あたし)臣(まへつきみ)等(たち)、猶(なほ)将(まさに)滅(ほろぼ)し捨てむと計(はか)りて、
故(かれ)、此(ここに)為(おもへらく)、仏神宮(ほとけのかむみや)は官(つかさ)に之(こ)を奉(たてまつ)らしめて、
牟久原(むくはら)の後宮(きさきのみや)は滅ぼさむ物とすれど、主(あろじのみこと)が大(おほき)命(おほせごと)の任(まにま)にしたまへ。
但(ただ)天皇(すめらみこと)と我与(と)、心を同(ともに)したまひて、皇子(みこ)等(たち)も亦(また)底に心を同(ともに)したまふ。
終(つひに)仏法(ほとけのみのり)は、莫(な)忌(い)み捨(す)てそ。」と白(まを)しき。
《他国神礼罪也》
 稲目の言葉「他国神礼罪也」について、『大日本仏教全書118』は「他国神不礼罪也」から「不」が脱落したと見ている。 ただ、どうせ一文字を加えるなら「うやまはざりし罪」よりも、 「あらず他国神不礼罪」の方がよいかも知れない。
 しかし、""も""も加えずに済ますこともできる。文末に「か」をつけて訓み、「いましは~と言ふか」と反問したことにできるからである。 むしろこの方が、真っ向から立ち向かうニュアンスが強い。
《故此為神宮官》
 「故此為仏神宮官奉之牟久原後宮者滅物主大命任」の解読は、なかなか困難である。 この部分への訓点〔平安~鎌倉か〕は、「牟久原後宮者滅牟トモ物主大命マゝニ」となっている。
 それによると、「但天皇与我同心〔ただ、天皇は我と同心である〕の前に「物主大命のままに」があるが、 は「諸臣は仏法を滅ぼそうとする」と「天皇も内心は仏法を滅ぼしたくない」の間に置かれた逆接の接続詞だから、 「物主大命のままに」を「但」の前に出すようなことはしない。 おそらく「ままに」という訓読は「ままにす。」の省略形であろう。
 また、「物主大命」は「物主の大いなる仰せ言」と見られ、物主は一瞬「仏」かとも思えるが、 「大物主」は、地祇の頂点に位置する大国主神だから「物主」が仏は表わすことはないだろう。 「もの」は後宮、「ぬし」は大大王であろう。訓点は、結局これだったのである。
 そこで、ひとまず次のように訓読することが考えられる。
故此為仏神宮官奉之牟久原後宮者滅物主大命任
●「」は、記紀の通例に倣って接続詞「かれ」とする。
●「」は「ここに」、「」と「以為」と同じく「おもへらく」とする。 以下、他臣の思惑と読む。「此」は「以」の誤字かも知れない。
●「仏神宮官奉之」は「仏神宮官ニ奉之ヲ〔仏神宮は、官(つかさ)に之(こ)を奉(たてまつ)る〕と訓み、寺を官に返上する意とする。 本来は「仏神宮官奉之」で、「牟久原後宮滅之」と対になるものであろう。
●「物主大命任」は文章全体の中では特異な言い回しだから、誤字を含むかも知れない。本来ここに来るべき文章は、牟久原後宮の処理を大大王に任せるということだから、 「べし大々王之ほしきまにまに」である。 これと同じ意味の文章に誤字が混ざったことが考えられる。
●「物主」を避けるために、「滅物。主」と分けたい。すなわち、
 「牟久原の後宮者(は)滅ぼさむ物なれど、主(あろじ)の大命の任(まにま)にしたまへ
●「物主」でも訓読は可能である。この場合、ほぼ訓点と同じことになる。
 「牟久原の後宮は滅ぼさめど、物の主の大命の任(まにま)にしたまへ
…細かく言うと、訓点のムトモは「終止形+接続詞」(逆接)、ここで提案したメドは「已然形+助詞」(確定的に予想される事柄に反する事態を表す)である。
 稲目以外の臣たちの策謀により、仏殿を召し上げて後宮を滅ぼそうとする。しかし稲目は、後者だけは拒否せよと大大王と池辺皇子に教える。 このように読めば、()段、()段で後宮が燃やされようとしたとき、「こは大大王の後宮なるぞ」と言って阻止した場面と同じ内容になり、 整合性が保たれる。すなわち、自分の死後ほどなくしてこうなるだろうという、稲目の予言ということになる。 その意をより明確に表すためには、できたら「主大命任但」は「但大々王任」の誤りであってほしい。
《大意》
 その後、百済人、高麗人、漢人は仏法を広め、少々の人が修行していました。 この時より一年を隔てて、しばしば神の御心〔=禍〕が起こりました。 
 その時、稲目大臣以外の臣(まえつきみ)たちは、 「このように神の御心がしばしば起こるのは、他国の神を礼拝した罪である」と言いました。
 すると、稲目の大臣(おおまえつきみ)は、 「他国の神を礼拝した罪と言うか」と言い返しました。
 他の臣たちは、 「神の御子たち〔天皇と皇族〕は、我らの言う事を聞かないから国内が乱れたのだ。」と言いました。
 この時、天皇(すめらみこと)はお聞きになり、 大臣に 「国内はしばしば乱れ、病死する人が多いのは、他国の神を崇拝する罪だと〔皆が〕言う。 〔仏法を〕許すことはできないだろう。」と告げられました。
 その時、大臣〔稲目〕は暫く考え、 「外面は他の臣に随うにしても、内心は他国の神を棄てません」と申し上げました。 すると、天皇〔欽明〕は、 「朕もまたそう思う」と告げました。
 その後、三十年余を経て、 稲目大臣は病となり、危うくなった時、 池辺皇子と大大王の二人の御前で遺言し、
 「『仏法を修行されるべし』と 私が申し上げたことにより、 天皇は修行なされました。
 けれども、私以外の臣たちは、なお滅ぼし捨てようと謀り、 仏神の宮を官に召し上げさせようとし、牟久原(むくはら)の後宮(きさきのみや)も滅ぼそうとするでしょうが、 これだけは後宮の主の大命に委ねさせなさい。
 ただ、天皇は私と同心で、皇子たちもまた心の底は同じです。 最後まで、仏法を忌みお捨てになりませんように。」と申し上げました。


まとめ
 欽明朝で、仏像や経教の書などが百済からもたらされたわけだが、天皇自身がどの程度仏教を認めていたのかは未知数のところがある。 〈欽明紀-十三年〉では、仏教が伝わったときはそれを喜び受け入れているが、後に中臣尾輿と中臣鎌子らが仏教を滅ぼす行動を起こしたときは、それも許している。
 この問題について(b)段では、仏教絶滅に同意したのは外面だけで、内心は仏教に心を寄せていたと描く。 仏教の教団の由来を述べる重要な文書において、何かと仏教側に寄せて描こうとするのは当然のことかも知れない。
 さて、ここでは大大王を「(物)主」と呼ぶところがユニークで、また「(物)主大命任」は言葉足らずである。 書紀では、豊浦地域での仏殿は馬子が設置したもので、御食炊屋姫の関与は描かれず、『元興寺伽藍縁起…』だけに加えられているものである。 それと、「(物)主大命任」という特殊かつ言葉足らずの表現には、関係があるかも知れない。 つまり、追加された(c)の「此大々王之後宮」、(e)の「我後宮」と整合をとるための、不器用な書き加えではないだろうか。



2020.12.08(tue) [9]Ⅰ:縁起(c) 

:縁起(c)】 概要
《欽明天皇(三)》

然 己丑年〔569〕
稻目大臣薨
已後 餘臣等共計
庚寅年〔570〕
-切堂舍
佛像經敎流於難波江也 
…[動] ①きる。②せまる。
(c)
然(しかくありて)、己丑(つちのとうし)の年〔569〕
稲目(いなめ)の大臣(おほまへつきみ)薨(こうず、みまかる)。
已後(これよりのち)、余臣(あたしまへつきみ)等(ら)共に計りて、
庚寅(かのえとら)の年〔570〕
堂舎(だうしや)を焼切(あまねくや)きて
仏像(ほとけのみかた)経教(きやうのをしへ)を難波江(なにはえ)に流しき。
時二柱皇子等言 
「此殿者不佛神宮 借坐在可
此大々王之後宮」告
燒-切也 
但不得堅惜 太子像出
灌佛並々〔之器〕者隱藏不
今此元興寺在此是也
…[動] (古訓) ふたつならふ。
時に二柱(ふたはしら)の皇子(みこ)等(ら)言(のたま)はく、 
「此の殿(みあらか)は仏(ほとけ)の神(かみ)の宮(みや)にあら不(ず)、借りて坐在(まします)ことを可(ゆる)しき。
此(これ)大大王(おほきおほきみ)の後宮(きさきのみや)そ」と告(のたま)ひて、
焼切(や)か不令(しめず)。 
但(ただ)堅く惜(を)しむことを不得(えざ)りて、太子(たいし)の像(みかた)は出(いで)て、
灌仏之器(くわむぶつのうつはもの)者(は)、隠蔵(かく)して不出(いでず)。
今此(これ)元興寺に在るは、此(ここ)の是(これ)也(なり)。
然後 辛卯年〔571〕
神心増益 國内病死人多在
大旱不雨 又從天雨大雨 
後終大官神火出燒
天皇卒驚愕 卽得
於危時 
池邊皇子與大々王二柱
然(しかる)後(のち)、辛卯(かのとう)の年〔571〕
神の心(みこころ)増益(ま)して、国内(くぬち)に病(やまひ)に死にせる人多(さは)に在り、
大(はなはだしく)旱(ひで)りて不雨(あめふらずありて)、又天(あめ)より雨ふりて大雨(ひさめ)となりつ。 
後(のち)に終(つひ)に大(おほき)官(つかさ)の神に火(ほ)出でて焼けり。
天皇卒(にはかに)驚愕(おどろ)きて、即(すなは)ち病(やまひ)を得たまふ。
危(あやふき)に望みし時、 
池辺皇子(いけべのみこ)〔敏達〕与(と)大大王と二柱(ふたはしら)を召して告(のたま)はく
「佛神者恐物 
大父後言 莫忘 愼々佛神不憎捨
大々王之其牟久原後宮者 更無
終奉於佛
共莫取爲自物
其代者耳无宮氣辨田旣得後宮」告
…[形] (古訓) おそる。かしこまる。
おほち…[名] 祖父。()段《大父祖大臣》参照。
「仏神(ほとけのかみ)は恐(かしこ)き物そ。 
大父(おほち)〔蘇我稲目〕の後言(のちこと)、莫(な)忘れそ。慎々(ゆめゆめ)仏神を憎み捨(す)つ不可(べから)ず。
大々王の其の牟久原(むくはら)の後宮(きさきのみや)は、更に心に望むこと無くありて、
終(つひに)仏に奉(たてまつ)れ。
共に自(おのれ)の物の為(ため)に莫(な)取りそ。
其の代(しろ)は耳无宮(みみなしのみや)を気弁田(きべた)に、既に後宮(きさきのみや)の為(ため)に得(え)てあり。」と告(のたま)ふ。
時二柱皇子等其今頂受賜
然同年〔辛〕〔571〕
天皇崩
…[動] (古訓) いたたく。
時に二柱(ふたはしら)の皇子(みこ)等(ら)其(それ)今(いま)頂(いただ)き受賜(うけたまは)りき。
然(しかくして)同じき年、辛卯(かのとう)〔571〕
天皇(すめらみこと)崩(ほうず、かむあがりしたまふ)。
《焼切》
 熟語「燃切」は〈汉典〉には載らない。「中国哲学書電子化計画」では康煕字典の「:『説文』燒切田也。」が載る。 の異体字とされているが、もともと焼き畑や野焼きの意と見られる〔中国語の「田」は広く田畑を意味する〕
 「国際電脳漢字及異体字知識庫」は「切」に詳しい。 興味深いのは「4.幾何学上直線与弧線或両個弧線相接於一点叫切。〔直線と弧、弧と弧が一点で接するを切とよぶ〕で、つまり「接線」のことだが、これを「切線」とも表す。 交わる・交わらないの境ぎりぎりという意味のようだ。
 たくさんの意味の中では、「16.急迫;緊迫也。」が使えそうである。即ち「焼き迫る」。 また「21. 副詞。表示強調、相-当於「一定」、「千万」。多用於否定句」、つまり「一切」。 むしろこれを用いて「一切を焼く」つまり「焼き尽くす」ととった方がよいかも知れない。
 訓読においては、「やききる」は現代なら「焼き尽くす」の意味に使えそうだが、上代語のキルに「~し尽くす」の用法があったかどうかは不明。 「焼切」は、取り敢えず単に「やく」と訓んでおくのが安全か。
《焼切堂舍》
 ()段では、類似個所が「仏像殿皆破焼滅尽」と表現される。
 大伽藍を備えた寺が炎上した如きイメージが浮かぶが、大規模な寺が実際に造営されるようになったのは、 〈崇峻元年〉に百済から寺工などの専門家が遣わされてからではないかと考えられる。 それまでは建築としては、神社とそれほどの差はなかったかも知れない。
 法隆寺の炎上(670年)〔〈天智九年四月〉「法隆寺。一屋無余。」〕などを経験した後に、そのイメージによって作られた伝説のようにも思われる。
《此大々王之後宮》
 「此殿者不仏神宮借坐在可」と大大王はいう。 すなわち、牟久原の仏の宮が焼かれそうになったときに、「神宮として借りるのを許しているだけで、ここは御食炊屋姫の後宮である」と言って守った。
 同じパターンが(e)段にもある。585年、桜井道場が焼かれそうになったときに「犯也。我後宮。」と言って守った。 これは主要な記録とは独立して存在していた伝承を、知ってか知らずか異なる場面に二重に取り入れたと見るのが妥当であろう。
 仏殿・仏像を焼いた話も同様と見られる。なお、仏像を難波堀江に放り込んだ部分は570年の方のみであるが、書紀では両方にある。
 なお、この二つの部分により、 『元興寺伽藍縁起…』においては、推古天皇即位前の牟久原の後宮は、ずっと初期段階の豊浦寺を兼ねていたと読んだよいだろう。 また、即位の段階の(l)段では「桜井等由良治天下豊弥気賀斯岐夜比売命」は、それをさらに裏付ける。 この部分は書紀も同様である。
 その途中の細かい部分に、それに反するようなことが混ざっているわけである。
 それは、この段の「牟久原後宮を譲って耳无宮に遷れ」と、()段の「牟久原殿楷井遷。始作櫻井道場」である。
《今此元興寺在此是也》
 「元興寺在此是」には近称代名詞(太字)が3つも含まれ、訓読しにくい。前文からの繋がりでは、このうちどれかが灌仏器を指す〔太子像のことかも知れない〕。 正規漢文における「」の用法では、「此元興寺」が主語だがそれでは意味が通らないから、漢文のルールは意識から消して、とにかくアリと訓まねばならない。 すると「此元興寺在」を主語「この元興寺にあるは」と訓み、「此是」を「此=この場面で隠蔵したところの」、「是=灌仏之器〔又は太子像〕」と位置づけてみると、何とか意味が通る。
 純正漢文では、「今元興寺有是」または「今是在於元興寺」となる。 この部分を書いた人には、正統漢文の知識がなかった印象を受ける。
《但不得堅惜太子像出灌佛並々者隠藏不出》
 (d)段の「灌佛之器隠藏」に倣えば、「灌佛並々者隠藏」は「灌佛之器者隠藏」の誤りか。 「」が入っているのは、「太子像〔者〕」に対比するためと見られる。
 すなわち、「堅惜〔すべては惜しみきれず〕、 「太子像は:出す」、「灌仏之器は:出さず」 と読むと理解が可能となる。
《太子像》
 「太子像」は、通常は聖徳太子像のことだが、それでは時代に合わない。 『元興寺伽藍縁起…』は太子が推古天皇〔大大王〕の詔を承り、元興寺の本縁や大大王らの発願を著した体裁をとっている。 そして太子が信仰の対象になって太子像が作られるようになったのは、どんなに早くても太子の死後である。
 普通名詞としての「太子」は、〈汉典〉「已確-定継-承帝位或王位的帝王的児子〔既に帝位・王位を継承することが確定した帝王の子〕を意味する。中国古典に「太子像」は殆ど出てこないから、 「太子像」と呼ばれる特定の種類の仏像はなかったと見られる。
 現在の元興寺には「南無太子像(聖徳太子二才像;鎌倉時代)」が残っているが、これとは別に7世紀末頃にも「太子像」が元興寺に存在していた可能性は大きい。 誰かがその「太子像」にまつわる伝説としてここに書き加えたとも考えられるが、もしそうだとすれば書き加えの中でも最悪の部類と言えよう。
《耳无宮》
 耳成山付近にあった宮と見られる。(d)段で考察する。なお、文章のどの部分にも、大大王が即位前に耳无宮に遷った動きは見えない。
《大意》
 こうして、己丑年〔569〕に、 稲目の大臣(おおまえつきみ)は薨じました。
 以後、その他の臣(まえつきみ)らは共に謀り、 庚寅年〔570〕に、 堂舎を焼失させ、 仏像、教典を難波江に流しました。
 その時、二人の皇子は、  「この宮殿は仏神の宮ではなく、それを借りて仏を安置するのを許されただけである。 これは、大々王の後宮であるぞ。」と告げ、 焼かせませんでした。 
 ただ、頑なに惜しみきることはできず、 太子像は出し、灌仏器は秘匿して出しませんでした。
 今元興寺にあるのが、このときのものです。
 その後、辛卯年〔571〕、 仏神の御心が増し、国内に病死する人が多くあり、 甚だしい日照りで雨が降らないと思えば、雨が降れば大雨となりました。 後には、遂に大官の神殿から出火して焼けました。
 天皇〔欽明〕は、突然のことに驚愕し、病となりました。 もう危ういとなられた時、 池辺皇子(いけべのみこ)と大大王の二人を召して告げました。
――「仏神は畏き物である。  祖父〔蘇我稲目〕の遺言を決して忘れるな。ゆめゆめ仏神を憎み、捨ててはならない。 大大王の牟久原(むくはら)の後宮は、これ以上は心に望まず、 永遠に仏に奉りなさい。 二人とも、自分の為のものとしてはならない。
 その代わりとして、耳无宮(みみなしのみや)を気弁田(きべた)に、既に後宮として用意してある。」
 二人の皇子らはそれを今に戴き、承りました。
 このして同じ辛卯年〔571〕に、 天皇は崩じました。


まとめ
 「太子像」が聖徳太子像ならば、その部分が書かれたのは早くて7世紀後半以降である。 また、「耳无宮」も書紀から持ってきた可能性がある。 これを一般化すれば、後世に書かれた部分をすべて取り除くと、残るのは「大大王」などの個人名のみかとも思えてくる。
 しかし、欽明朝における仏教への攻撃に添えられた年代が書紀にはなく、「天皇」号が導入されているとは言え定式化以前の過渡的な形である。 よって、少なくとも骨格は書紀とは独立して書かれ、かつ天武朝よりは古い時代に存在したことは動かないのではないかと思われる。 ただ、具体的にどの部分がいつ書き加えられたかについては、より詳細な検討が必要であろう。



2020.11.25(wed) [10]Ⅰ:縁起(d) 

:縁起(d)】 概要
《敏達天皇(一)》

〔欽明〕崩第十一年辛丑年〔581〕
他田天皇〔敏達〕大前 大后大々王白 
…[接頭] 〈内閣文庫本〉マキノ ツイテ ヒトマキニアタルマキ
大前…中国語として特定の意味はない。
まへ…[名] 天皇や貴人の面前についていうことがある。「まへつきみ」(大臣)など。
おほみ…[接頭] 尊称。名詞に接する。
(d)
〔欽明〕崩(ほうじ、かむあがりしたまひ)て第十一年(つぎてととせあまりひととせにあたるとし)、辛丑(かのとうし)の年〔581〕
他田(をさた)の天皇(すめらみこと)〔敏達〕の大前(おほみまへ)に大后(おほきさき)の大大王(おほきおほきみ)白(まを)ししく。
「先 己丑年〔569〕
大父祖大臣〔蘇我稲目〕後言
『佛法莫憎莫捨』 
如是 後言受在
然 庚寅年〔570〕
佛法諌止故哩侍 
後言…〈汉典〉には「背後的非議。〔中略〕「汝無面従、退有後言」〔汝は面と向かって言わず、退出した後に言う〕」。 しかし、ここでは中国語とは無関係で「遺言」の意と見られる。
…[動] 文末の「在」は日本語用法で、「~てあり」〔完了の助動詞タリの古い形〕と見られる。
…[副] 文末の語気詞(強調)。(古訓) ひそかに。
「先の己丑(つちのとうし)の年〔569〕、
大父祖(おほぢ)大臣(おほまへつきみ)〔蘇我稲目〕の後言(のちのこと)にいはく、
『仏法(ほとけののり)をば莫(な)憎(にくみそ)、莫(な)捨(うてそ)』といひて、
如是(かく)後言(のちのこと)を受けたまはりて在り。
然(しかれども)、庚寅(かのえとら)の年〔570〕、
仏法(ほとけののり)の諫(いさめ)に依りて止(や)みて、故(かれ)哩(ひそかに)侍(はべ)り。
又 辛卯年〔571〕
父天皇〔欽明〕後言承在也
池[邊]皇子〔用明〕與我〔大々王〕二人召
告宣
『佛法不憎捨也 
又大々王者其牟[久]原後宮者 無更望一レ
終奉於佛神 莫自物』告宣
如是二時後言承在 
然 依佛法諌止故十餘年之間哩侍」白 
つひに…[副] ここでは「最後まで」の意。
又、辛卯(かのとう)の年〔571〕
父天皇(かそのすめらみこと)〔欽明〕後言(のちのこと)承(うけたまは)りて在るは、 池辺皇子(いけべのみこ)〔用明〕与(と)我(われ)〔大々王〕二人(ふたり)を召(め)したまひて、 告宣(のたまはく) 『仏法(ほとけののり)を憎み捨(う)つ可(べ)からず。 又(また)大々王は其の牟久原(むくはら)の後宮(きさきのみや)は、更に心に望むこと無くして、 終(つひ)に仏の神を奉(たてま)つれ。自(おのれ)の物の為に莫(な)取りそ。』と告宣(のたま)ふ。 如是(かくのごとき)二時(ふたたび)の後言(のちのこと)を承(うけたまは)りて在り。 然(しかれども)、仏法(ほとけののり)の諫(いさめ)に依りて止(や)みて、故(かれ)十余年(とをとせあまり)の間(ま)、哩(ひそかに)侍(はべ)りき」と白(まを)しき。
時 他田天王〔敏達〕告宣
「猶今時臣等無
故若欲爲 爲事竊々可行」告[宣]
時に他田(をさた)の天王(すめらみこと)〔敏達〕告宣(のたま)ひしく
「猶(なほ)今の時は臣(まへつきみ)等(ら)等(ひと)しき心無し、
故(かれ)若(もし)欲為(なさむとせば)、為す事(こと)窃々(ひそかに)行ふ可(べ)し」と告宣(のたま)ひき。
時 承如是命
壬寅年〔582〕
大后大々王與池邊皇子二柱同心
牟久原殿楷井遷
癸卯〔583〕
始作櫻井道場
灌佛之器隠藏
然後 癸卯〔583〕
稻目大臣子馬古足禰 得國内交坐[筮]
時言是父世詞神心也
交坐…『仏教全書』、『寧楽遺文』ともに「交坐」を「筮」の誤りとし、かつ「卜」を補っている。
筮問…〈汉典〉卜問
足祢…宿祢は、古くは足尼と表記した(資料[18])。
時に如是(かくのごとき)命(おほせこと)を承(うけたま)はり已(を)へて
壬寅(みづのえとら)の年〔582〕
大后(おほきさき)大々王与(と)池辺皇子と二柱(ふたはしら)心を同(とも)にして、
牟久原(むくはら)の殿(との)を楷井(さくらゐ、かいせい)に遷(うつ)して、
癸卯(みづのと)〔583〕に、
始めて桜井(さくらゐ)の道場(だうぢやう)を作りて、
灌仏(くわむぶつ)之(の)器(うつはもの)を隠蔵(かく)しき。
然(しか)る後(のち)、癸卯(みづのとう)〔583〕
稲目(いなめ)の大臣(おのまへつきみ)の子(こ)馬古足祢(うまこのすくね)、国内(くぬち)の筮問(うらとへること)を得て、
時に是(これ)父の世の詞(ことば)神の心(みこころ)也(なり)と言ふ。
時大臣恐懼而願佛法
卽求家人 都无應者
但是時針間國 有脱衣高麗老比丘 名惠便
與 老比丘尼 名法明
時 按師首達等女 斯末賣年十七在 
阿野師保斯女 等已賣
錦師都瓶善女 伊志賣
合三女等 就法明-學佛法
脱衣…〈敏達紀十三年〉の「僧還俗」に「法師カヘリ」の古訓がある。 等已売…〈敏達紀十三年〉の「豊女」に対応。音仮名「已」はイ。
都瓶…「瓶」は呉音ビヤウ(ビョウ)
時に〔馬子〕大臣(おほまへつきみ)恐り懼(かし)こみて佛法(ほとけのみのり)を弘(ひろ)むことを願ひて、
即(すなはち)家出(いへで)すべき人を求めど、都(かつて)応(こたふる)者(もの)无(な)し。
但(ただ)是(この)時、針間(はりま)の国に、脱衣(ほふしかへり)の高麗(こまの)老(おきな)の比丘(びく)、名は恵便(ゑびむ)
与(と)老(おみな)の比丘尼(びくに)名は法明(ほふみやう)と有り。
時に按師(くらつくり)の首(おびと)達等(たつと)が女(むすめ)斯末売(しまめ)、年(とし)十七(とをちあまりななつ)在り。
阿野師(あや)保斯(ほし)が女(むすめ)、等已売(とよめ)と、
錦師(にしこり)の都瓶善(つぶぜむ)が女(むすめ)、伊志売(いしめ)と
合(あ)はせて三女(みたりのむすめ)等(ら)、法明に就きて仏法(ほとけのみのり)を受け学びて在り。
倶白 
「我等爲家難[欲]-學佛法」白
〔馬子〕大臣卽喜令
【嶋賣法名善信
 等己賣法名禪藏
 伊志賣法名惠善】
爾時 大臣大々王池邊皇子二柱歡喜請
櫻井道揚令
倶(ともに)白(まを)さく 
… 『寧楽遺文』は写本段階で付記「」。
『大日本仏教全書』は編者により「難恐欲」。

「我等(われら)家出(いへで)を為(し)て、仏法(ほとけのみのり)を受け学ばむと欲(おも)ひまつる」と白(まを)して、
〔馬子〕大臣(おほまへつきみ)即(すなは)ち喜びて家出せ令(し)めき
【嶋売が法名(ほふみやう)善信(ぜむしむ)。
 等已売が法名禅蔵(ぜむざう)。
 伊志売が法名恵善(ゑぜむ)。】。
爾(この)時大臣、大々王と池辺皇子(いけべのみこ)との二柱(ふたはしら)、
請(ねがへること)を歓喜(よろこ)びて、桜井(さくらゐ)の道揚(だうぢやう)に住(すま)は令(し)めき。
次 甲賀臣從百濟-度-來石彌勒菩薩像
三柱尼等持家口供養禮拝
時按師首 飯食時 得舍利以奉〔馬子〕大臣
飯食…〈敏達紀十三年〉「斎食」(古訓イモヒ)に対応。
次に、甲賀臣(かふかのおみ)百済従(ゆ)石(いし)の弥勒菩薩(みろくぼさつ)の像(みかた)を持ちて度(わた)り来たり。
三柱(みはしら)の尼(あま)等(ら)家(いへ)の口に持ちて供養(くやう)し礼拝(ゐやまひをろが)みき。
時に按師(くらづくり)の首(おびと)、飯食(いみのいひをくらへる)時に、得(え)たりし舎利(しやり)を以て〔馬子〕大臣(おほまへつきみ)に奉(たてまつ)りき。
《出典》
 ここでは『大日本仏教全書』に加えて『寧楽遺文』〔竹内理三;東京堂出版1962〕を参照した。
《大父祖大臣》
 大々王〔御食炊屋姫=推古天皇〕は敏達天皇に、己丑年〔569〕に「大父祖大臣」が遺した後言〔遺言〕の内容を言上する。 前段(c)に「己丑年。稲目大臣薨」とあり、 かつ「蘇我稲目宿祢大臣―堅塩媛―豊御食炊屋姫」(第239回)の系図により、 「大父祖大臣」とは、大々王の祖父、蘇我稲目大臣を指す。
《依仏法諫止故哩侍》
 「依仏法諫止故哩侍」は、なかなか意味が取りにくい。そこで庚寅年〔570〕に起こったことを見ると、それは仏教に対する大弾圧であった。 すると、「仏法諫」は仏教の禁止、「故哩侍」は、「隠れて仏にはべる」であろう。 後世の隠れキリシタンのような境遇が想定される。
 なお、『仏教全書』版には「」がないが、「仏法諌〔仏法〔へ〕の諫(いましめ)に依りて止む〕の方が訓み易いのは確かである。
『大日本仏教全書』118
『類聚名義抄』(観智院本)
《故哩》
 残された問題は「故哩」である。これには『寧楽遺文』版、『大日本仏教全書』版ともに、「故哩コリ」と訓が振られている(図右)。 「」は語気詞でその置く位置は文末のみであるから、「哩侍」なる語順では、必然的に倭語の音仮名となる。 ただ、「中国哲学書電子化計画」で文献を検索すると、文末の語気詞としての用例は『西遊記』〔16世紀〕からで、それ以前はこの字自体が稀にしか出てこず、別の使い方をされたことも考え得る。
 それはともかくとして、音仮名として読んだときのコリは、「り」と見られる。
 ところが、「懲る」は、「」はだから、この訓点は甲乙が消滅した時代につけられたものである。 なる語は見いだせない〕 仮に、原文段階からコリのつもりだったとすれば、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』自体が偽作〔奈良時代中期以後〕になってしまう。
 だが、心配するには及ばない。少し後に出てくる「依仏法諫止故十余年之間哩侍」において「」と「」が分離しているのを見れば、「コリ」はそもそも無理なのである。 但し、『大日本仏教全書』版はそれでもコリに固執し、として 「故は恐らく衍〔=余分な字〕なり」かつ、「間の下恐らく故の字の脱けり」、 すなわち依仏法諫止 十余年之間哩侍であろうと述べる(図中)。 しかし、平安期の訓点は推定に過ぎず、これを優先して原文に手を加えるのは本末転倒であろう。
 そこで攻める角度を変え、音仮名をやめて「」の古訓を探してみる。
 すると、『類聚名義抄』(観智院本)に「ヒソカニ」とある(図左)。 副詞ヒソカニならば「哩侍」という語順が可能となり、訓「ひそかにはべる」は文脈にも合う。 この訓みを用いたと思われる他の用例があれば、是非知りたい。
 なお『類聚名義抄』の「ヒソカニ」の上につくは、「異体字」の意味らしい。「」のひとつ上の字はである。
 先に述べたように、古い時代には必ずしも文末に限定されないとも思われるが、仮に誤用だとすれば、それがどのようにして生じたのだろうか。まず考えられるのは、読み違いによる誤写である。 ヒソカニと訓まれ得る字には、()、などがあるが、 「」が少し似る以外、ありそうもない。
 あるいは、元々は「」だったかも知れない。「」の古訓にはカクスがある。カクシテヒソカニというわけである。 ことによると、仏像・経典・仏具を実際に埋めて隠したこともあったかも知れない。
《二時後言》
 「二時〔の〕後言」は、原文を解析すると次のようになる。
 蘇我稲目大臣が薨じる前(己丑年〔569〕)に遺した後言:「仏法を憎んではならない。捨ててはならない。
 欽明天皇の後言(辛卯年〔571〕):「仏法を憎み捨ててはならない。牟久原にある炊屋姫の後宮を、仏を祀る寺として提供せよ。
 (c)段で辛卯年のときに告宣された内容は、
 莫忘。慎々仏神不可憎捨。牟久原後宮者更無望心。終奉於仏共莫取為自物。
 其代者耳无宮、気弁田既得為後宮。〔代替の耳无宮を、気弁田の地に後宮の為として既に得た〕
 であった。(d)段では、を再録し、を欠く。
《耳无宮》
 〈延喜式-神名帳〉に{大和国/十市郡/耳成山口神社【大。月次新甞】}がある。 比定社「耳成山口神社」(奈良県橿原市木原町)は、耳成山の山頂近くにある。
 耳无宮(みみなしのみや)はこの周辺であろうが、山の上ではなく平地にあったとするのが常識的であろう。 御食炊屋姫の別業の一つが耳成にあったことが、このような形で反映したのかも知れない。
 既にで指摘したように、 〈推古九年五月〉に「天皇居于耳梨行宮。是時大雨。河水漂蕩満于宮庭」とある。
《牟久原殿楷井遷》
 「牟久原殿楷井遷」を、(c)段の告宣〔上記イ〕に一致させようとすると楷井耳成だったことになるが、 楷井櫻井とが同じであることはほぼ確定しているから、なかなか考えにくい。 (ⅰ)段において、 「後宮不破 楷井遷作道場」と、 せっかく「後宮きさきのみやを壊させず」に守ったのに、その「後宮を楷井から他の場所に移動」するのはもったいない。
 それどころか、(e)段で桜井道場が焼かれそうになったときの大大王の言葉「犯也。我後宮〔犯すな、私の後宮なるぞ〕とは、真っ向から矛盾する。
 漢字「」には「形・中身をかえる」意味を適用して、 「牟久原殿の楷井〔=櫻井〕を遷して〔=使い道を変えて〕始めて桜井道場を作る」でなければならない。 (【縁起(解釈)】参照)。
 ここの「楷井」は、「楷井≠櫻井」と思い込んでいた誰かが変に気をきかせて書き加えたのかも知れないが、「桜井道場者~我後宮」のくだりを見ればまさに蛇足である。
 また、(c)段の「其代者耳无宮、気弁田既得為後宮。」も、(d)段にはなく内容も唐突だから、 これも後世の書き加えかも知れない。
《針間国》
 「針間国」は、〈敏達十三年〉では「播磨国」。古事記は一般に「針間国」を用いている。 「木簡庫」(奈良文化財研究所)によると、「針間」「針間国」を含む木簡が平城宮や藤原宮などから出土し、11件ある。
 『寧楽遺文』版には「針間ワツカニ〔僅かに〕という誤った訓が付されているが、 これは『寧楽遺文』の編者によるものではなく、写本に書き加えられていたものである。
《按師阿野師錦師》
 按師鞍作部〔くらつくり〔べ〕〕阿野師漢部〔あや〔べ〕〕錦師錦織部〔にしこり〔べ〕〕 であることは明らかであるが、「」をつけたときに、それを発音するかどうかという問題がある。
 仏教建築に関わる技術者を露盤師、瓦師と呼ぶように、「」には専門技術者を尊敬する語感がある。
 鞍の製作、綾織、錦織に関わる者も専門技術者である。だから、「」をつける意味はあるが、そのような呼び方が一般的であったかどうかは明らかでない。
《灌仏之器隠蔵》
 敏達天皇は、「猶今時臣等無心。故若欲為、為事接々可〔今なお、臣たち全員が同じ考えではないから、成功させようと思うなら目立たぬようにやれ〕 と注意を促した。このように、まだ妨害がありそうだから「灌仏之器隠蔵」、すなわち大切な灌仏器は引き続き隠した。
《石弥勒菩薩像》
 「甲賀臣従百済…」の段は、内容こそ〈敏達紀十三年〉と一致するが、ずっと簡略である。 「」で始まることからは、如何にも後から付け足したような印象を受ける。 それを判断するひとつの材料としては、三尼とその関係者の名前については微妙なずれがあることに対して、「甲賀臣」は書紀の「鹿深臣〔かふかのおみ〕と全く一致することが挙げられる。
 もちろんこれだけでは実証には不十分であるが、誰かがこの部分が書紀にはあるのに『元興寺伽藍縁起…』にはないことに気づき、書紀から要約して書き足した可能性はあると思われる。
《飯食》
 〈敏達紀十三年〉ではこの場面を「斎食」と表し、古訓イモヒが付されている。
 古語辞典で「いもひ」を調べると、用例を源氏物語から得ていた。
●『源氏物語』-幻:「御正日には、上下の人びと皆いもひして、かの曼陀羅など、今日ぞ供養ぜさせたまふ。
 ここでは仏教上の記念日に行う「斎戒」を意味する。
●『源氏物語』-若葉下:「さまざまの御法服のこと、いもひの御まうけのしつらひ、何くれとさまことに変はれることどもなれば
 朱雀院の五十歳の祝賀会の開催に当たって、慣れない仏式で行うために、服装や食事の準備に何かと気を遣うと述べたもの。イモヒは仏式の食事を意味する。
 平安時代の古訓は、斎食にイモヒを当てたが、上代から既にイモヒであった可能性もあるが、異なるかも知れない。 「飯食」は特別な表記なので、何らかの上代語を表したはずである。 「飯」の字が入っているから、古くは「斎(イミ)+飯(イヒ)=イミヒ」で、これが訛ったものがイモヒになのかも知れない〔想像に過ぎないが〕
 ここではひとまず「斎食」と「飯食」とを合成した「斎飯食」の意味をこめて、「いみのいひをくらふ」と訓んでおくことにする。
《大意》
 〔欽明〕天皇が崩じて十一年目の辛丑年〔581〕、 他田(おさだ)の天皇(すめらみこと)〔敏達〕の御前で、大后大大王〔御食炊屋姫〕は申し上げるに。
――「先の己丑年〔569〕に祖父の蘇我稲目大臣(おおまえつきみ)から遺言をいただき、 『仏法を憎んではならぬ。捨ててはならぬ』 と承りました。 ところが、庚寅年〔570〕、仏法への諫めによって止められ、密かに仏に仕えました。
 また、辛卯年〔571〕、私の父の天皇〔欽明〕から遺言を承りました。 そのとき、池辺皇子(いけべのみこ)〔用明〕と私の二人を召され、 『仏法を憎み捨ててはならない。 また、大大王は其の牟久原(むくはら)の後宮を、心に望んではならず、 最後まで仏の神を奉りなさい。自分のものとして取ってはならない。』と宣告されました。 このように二つの時に遺言を承りました。
 けれども、仏法への諫めによって止められ、十余年の間、密かに仏に仕えました。」と申し上げました。
 その時、他田の天皇〔敏達〕は、 「今なお、臣たちの心はひとつではない。 故に、もしことを為さんと望むなら、為す事はひっそりと行いなさい。」と宣告されました。
 このような命を承り、 壬寅年〔582〕、大后大大王と池辺皇子の二人は心をひとつにして、 牟久原(むくはら)の宮殿を楷井〔=桜井〕宮殿として、 癸卯年〔583〕に、そこに桜井の道場を作り、 灌仏(かんぶつ)器を秘蔵しました。
 その後、癸卯年〔583〕に、 蘇我稲目大臣の子、馬古宿祢は、国中で筮卜に問うた結果、 父の生前の言葉は神の御心であるとの御託宣を得ました。
 そこで、馬子大臣は畏まり仏法の広宣を願い、出家しようとする人を求めましたが、 全く応じる者はいません。
 ただ、この時播磨国に、還俗した高麗(こま)の老比丘(びく)、名は恵便(えべん)と老比丘尼(びくに)、名は法明(ほうみょう)がいました。
 そして、按師(くらつくり)の首(おびと)達等(たつと)の十七歳の娘、斯末売(しまめ)がいて、 阿野師(あや)の保斯(ほし)の娘、等已売(とよめ)、 錦師(にしこり)の都瓶善(つぶぜん)の娘、伊志売(いしめ)と 併せて三人の娘が、法明に就いて仏法の教えを受け学びました。
 三人は共に、 「我らは出家して、仏法の教えを受け学ぼうと希望します」と申し上げ、 馬子大臣は、喜んで出家させました 【嶋売の法名(ほうみょう)は善信(ぜんしん)、等已売の法名は禅蔵(ぜんぞう)。伊志売の法名は恵善(えぜん)】。
 この時馬子大臣も、大々王と池辺皇子のお二人も、三女が願ったことを歓喜して、桜井の道揚に住まわせました。
 次に、甲賀臣(かふかのおみ)が百済から弥勒菩薩の石像を持って渡って来ました。 三人の尼たちの家の戸口に持ってきて、供養し礼拝しました。 そして按師(くらつくり)の首(おびと)は斎食の時に、手に入れて持ってきた舎利を馬子大臣に献りました。


まとめ
 この段には桜井と楷井とがあたかも異なる土地とも読める部分がある。 また、(c)の「耳无宮」も唐突である。そして、弥勒菩薩石像や舎利の記述は書紀を用いた気配がある。 これらの部分は、『元興寺伽藍縁起…』に最初からあったわけではなく、幾度かに渡って文章を挿入したことがあったのではないか。 精読を重ねるにつけ、この思いは強まる。 追加したと思われる部分を取り除くと、辻褄の合わないところや流れの不自然さが随分解消するのである。
 さて、この段で興味深いのは、蘇我馬子が父から仏教普及の遺志を受け継ぐかどうかを、占いによって決めたところである。 稲目の薨じた後、反仏教派の攻勢によって仏教は最早風前の灯であった。 このタイミングで仏教押し出しの旗幟を鮮明にするなら、物部守屋との激しい対立を覚悟しなければならない。 恐らく、相当の迷いがあったのであろう。



2020.11.30(mon) [11]Ⅰ:縁起(e) 

:縁起(e)】 概要
《敏達天皇(二)》

々々 乙巳年〔585〕二月十五日
止由良佐岐刹柱立 作大會
此會〔之〕時 他田天皇欲佛法
卽 此二月十五日 斫-伐刹柱
さき…[名] 山・岡・島などの突き出した端のところ。
…[名] 仏骨をおさめた塔。(呉音)セチ。
刹柱…〈汉典〉①仏教語。指塔頂的相輪。 ②仏教語。指寺前的幡竿
…[動] きる。
(e)
大臣(おほまへつきみ)〔馬子〕、乙巳(きのとみ)の年〔585〕二月(きさらき)十五日(とかあまりいつか)。
止由良佐岐(とゆらさき)に刹柱(せちぢう)を立てて、大(おほ)会(ゑ)を作(おこ)しき。
此の会(ゑ)之(の)時、他田天皇(をさたのすめらみこと)仏法(ほこけのみのり)を欲破(やぶりたまはむとす)。
即(すなはち)、此の二月十五日、刹柱を斫伐(うちき)りき。
重責大臣及依佛法人々家
佛像殿 皆破燒滅盡
佐俾岐彌牟留古造三尼等
泣而出往時 現〔大〕
三尼等 至都波岐市長屋
其法衣
-滅佛法
佐俾岐弥牟留古造…さへき-みむろこ〔の〕みやつこ。〈敏達紀十四年〉佐伯造御室
-こ…[接尾] 人を表す名詞や、名前に下接し、親愛の意を表す。
…[動] (古訓) あらはす。
ながや…細長い一棟の家。
重(かさ)ねて大臣(おほまへつきみ)より及びて仏法(ほとけのみのり)に依りてある人々(ひとども)の家(いへ)を責(せ)めて、
仏像(ほとけのみかた)の殿(みあらか)を皆(ことごとく)破り焼きて滅(ほろぼ)し尽くせり。
佐俾岐弥牟留古(さへきみむろこ)の造(みやつこ)を遣(つかは)して三尼等(みたりのあまら)を召(よ)ばしめて、
泣きて出で往(ゆ)ける時、現(あらはれてある)大臣(おほまへつきみ)、
三尼等(みたりのあまら)を将(ひきゑ)て都波岐市(つばきち)の長屋(ながや)に至(いた)りし時、
其の法衣(みのりのころも)を脱(ぬ)きき。
仏法(ほとけのみのり)破れ滅(ほろ)びてあり。
爾時 櫻井道場者
大后大々王 命以〔告〕
「莫犯也 我後宮」告而
爾時(このとき)桜井(さくらゐ)の道場(だうぢやう)者(は)、
大后(おほきさき)大々王(おほきおほきみ)、命(おほせごと)を以ちて〔告(のたまはく)〕
「莫犯也(なをかしそ)、我が後宮(きさきのみや)なるそ」と告(のたま)ひて、
不令焼(やかしめず)。
佛法破亡時 卽國内惡瘡流興
人民多病死
時 病者自皆言
「我燒我斫我切」言
爾時 三尼不出堅守
瘡…〈汉典〉「①皮膚或粘膜上的潰瘍。如:「頭瘡」、「膿瘡」。②創傷、外傷。如:「刀瘡」。」 かさ…[名] 皮膚の腫れもの。倭名類聚抄「:【音倉。和名加佐】」。
仏法(ほとけのみのり)破れ亡(ほろ)びし時、即ち国内(くぬち)に悪瘡(あしきかさ、あくしやう)流(し)き興(おこ)りて、
人民(おほみたから)多(さはに)病(や)みて死にせり。
時に、病める者(もの)自(みづから)皆(ことごとく)言ひしく、
「我(われ)を焼き、我を斫(くだ)き、我を切りき。」と言ひき。
爾時(このとき)、三尼(みたりのあま)不出(いでざ)りて堅く守(も)りき。
時 大臣又得病
故 他田天皇大前 白
「又欲三寳〔白〕
天皇但許大臣耳
大臣受 請三尼等
-禮三寳
…[動] (古訓) ねかふ。
時に、大臣又(また)病(やまひ)を得て、
故(かれ)他田天皇(をさたのすめらみこと)の大前(おほみまへ)に白(まを)ししく
「又(また)三宝(さむほう)を敬(ゐやま)はむと欲(ねが)ひまつる」と白(まを)しき。
天皇但(ただ)大臣(おほまへつきみ)耳(のみ)に許(ゆる)したまふ。
大臣受けたまはりて、三(みたりの)尼等(ら)を請(ねが)ひて、
三宝を敬礼(ゐやま)へり。
《止由良佐岐》
 止由良佐岐とゆらさきサキ(岬)は、海に限らない。ここでは「岡の突き出したさき」である。 向原寺周辺の地形は、右図(地理院地図陰影起伏図)のようになっている。これを見ると、いくつかは可能性のある場所がある。
 〈敏達紀十四年〉では、大会おほゑの会場を「大野丘北」としている。
《刹柱》
 「刹柱」は、一般には塔頂の相輪を指すが、ここでは塔そのものを意味する。 壊すことを表すのに「」ではなく「」を使うから、この伝説においては木製建造物がイメージされていたように思われる。
《現本臣》
 佐俾岐弥牟留古造は三尼を逮捕し、海石榴市まで連れて行き法衣を脱がせた〔=仏法の修行から離れさせた〕。 その文中に挟まれた「現本臣」は、意味不明である。これを飛ばしても意味は通じるから無視してもよいのだが、ひとまず検討してみよう。
 「」があるから、「本臣」はおそらく「大臣」の誤写であろう。 「現大臣」は、「大臣を表す」であるが、これでは意味が通じず、馬子が現れたのである。 しかし文法的には「大臣が現れ」とは読めず、「現れた大臣が」となる。 すると、続く「尼たちを率いて海石榴市の長屋に連れていき、法衣を脱がせた」部分は、「大臣」が主語になる。
 書紀では、この場面は「馬子宿祢不敢違命惻愴啼泣。喚出尼等於御室〔敢て命令に逆らわず、泣く泣く尼たちを呼び出して佐伯御室に引き渡した〕と描かれる。 だから、この部分を「そこに現れた馬子大臣が、三尼を率いて云々」と読むことは、内容的には妥当である。 「何とかしてお前たちが一日も早く仏法に戻れるようにするから、今は辛抱して命令に従え」と説得する場面が目に浮かぶ。
 なお、「見大臣」に直した解釈も見るが、「三尼が道行く時に、沿道に馬子の姿が見えた」では、馬子はあまりにも無力である。 書紀では妥協的ではあるが、それでも傍観していたわけではない。
《莫犯也我後宮》
 大大王が「莫犯也我後宮」と言って桜井道場を守り抜いた部分は、後世に書き加えられた印象を受ける。 「大后大大王」は言葉遣いとして不自然で、「大后御食炊屋姫」と書きたいところを、形式的にこの文書における呼び名に合わせたように見える。
《悪瘡流興》
 「」を膿瘡ととれば、「悪瘡流興」は、皮膚から膿を出す悪い病気が流行った意味となり、当然天然痘(疱瘡)が思い浮かぶ。 『日本国語大辞典』によると、台記〔宇治左大臣藤原頼長の日記〕‐康治二年〔1143〕に「新院御疱瘡」、 日蓮遺文‐報恩抄〔1276〕に「国にはうさうおこり」が見える。 和語としては、伊呂波字類抄〔鎌倉〕皰瘡 イモカサ モカサ」、日葡辞書〔1603~04〕Imo」など。 カサは上代語だが、イモカサが上代まで遡るかどうかは分からない。
《我焼我斫我切》
 「我焼我斫我切」は、民衆が「寺の焼却・破壊は我々自身が行ったことだから、仏罰を受けた」如く受け止めていることを示すと読める。 しかし、〈敏達段十四年〉では、同じソースによると見られる部分を「身如被焼被打被摧〔わが身、焼かれ打たれ摧(くだ)かる〕、 すなわち仏像・仏殿を焼き破壊する行為は、実は人民の体を焼き破壊していたのだと非難する。
 ここでも同じように読もうとするなら、3つの方法がある。すなわち、」を補う。 自動詞として下二段活用する。 受事主語〔我焼くetc.〕の何れかである。 ここではひとまず書紀と同じ解釈をして、を用いておく。
《大意》
 大臣(おおまえつきみ)〔馬子〕は、乙巳年〔585〕二月十五日、 止由良佐岐(とゆらさき)〔豊浦岬〕に塔を立て、大会(おおえ)を開催しました。
 この会の時、他田天皇(おさたのすめらみこと)〔敏達〕は仏法を破棄しようとされ、 この二月十五日に、塔を打ち折りました。
 重ねて、大臣及び仏法に帰依した人々の家の罪を責め、 仏像、仏殿を悉く壊し、焼き滅し尽くしました。
 佐俾岐弥牟留古(さへきみむろこ)〔佐伯御室子〕の造(みやつこ)を遣して三人の尼を召喚し、 泣いて出て行ったところで大臣が姿を現し、 三人の尼を連れて都波岐市(つばきち)〔海石榴市〕に行き、長屋に着いたところで、 その法衣を脱がせ、 仏法は破滅しました。
 この時、桜井の道場は、 大后(おおきさき)〔皇后〕であった大々王は、命(めい)を以って 「犯してはならぬ、私の後宮である。」と仰り、 焼かせませんでした。
 仏法が破滅した時、国内に悪瘡が流行し、 人民の多くが病み死にました。
 その時、病める人は皆、自ら 「私を焼き、私を砕き、私を切った。」と言いました。
 この時、三人の尼は外に出ず、堅く身を守っていました〔=謹慎していました〕。
 大臣もまた病を得て、 他田天皇の御前に 「再び三宝を敬わせて下さいませ」と申し上げ、 天皇は、ただ大臣のみに許されました。
 大臣はこれを承り、三人の尼らを求めて、 三宝を敬い崇めました。


まとめ
 (e)段と〈敏達十四年〉では、話の大まかな流れは共通する。
 ただ、書紀では仏教を導入した期間に疫疾が流行り、仏教を廃するとまたまた瘡死が国に充ちたと書くのに対し、 (e)段は前者に触れない。『元興寺伽藍縁起…』の方は、文書の性質上内容が仏教寄りになっているようである。
 これには、この部分が書紀を元にして書かれ、その際都合の悪い部分を省いたという解釈もあり得るかも知れない。 しかし、書紀には(e)の舌足らずな部分を独自に解釈し、明確化した面が見られる。 書紀が『元興寺伽藍縁起…』の古い形を見ていたかどうかは定かではないが、見ていなかったとしても同じソースを参照したのは確かだと思われる。



2020.10.06(tue) [12]Ⅰ:縁起(f) 

:縁起(f)】 概要
《用明天皇》

次池邊皇子卽立天皇
馬屋門皇子白 
「佛法破滅者 恠灾増益
故三尼者櫻井道場置可供養〔白〕
時天皇許賜 令櫻井寺而爲二上供養 
時三尼等官白
「傳聞出家之人以戒爲本 然無戒師
故度百濟國戒」白
池辺皇子即立天皇…本来「池辺皇子立即天皇」の語順であるべき。〔池辺皇子立ちて天皇に即(つ)きたまふ〕
…「災」の異体字。
…「怪」の異体字。
許賜…和風漢文体の書法。
(f)
次に池辺皇子(いけのへのみこ)即(すなはち)天皇(すめらみこと)に立ちたまふ。
馬屋門皇子(うまやどのみこ)白(まをさく)
「仏法(ほとけののり、ぶつはふ)破れ滅(ほろば)ば、災(わざはひ)増益(ますこと)を怪(あやし)びまつる。
故(かれ)三尼(みたりのあま)は桜井(さくらゐ)の道場(だうぢやう)に置きて宜(よろしく)供養(くやう)す可(べ)し」とまをす。
時の天皇許し賜(たまは)りて、桜井寺(さくらゐのてら)に住まはしめて供養(くやう)為(せ)令(し)めたまふ。
時に三尼(みたりのあま)等(たち)官(つかさ)に白(まを)ししく
「伝へ聞くに出家(いへで)せし人戒(いむこと)を以て本(もと)と為(す)。然(しかれども)戒師(かいし)無し。
故(かれ)百済(くたら)の国に度(わた)りて戒(いむこと)を受くことを欲(ねが)ひまつる。」と白(まを)しき。
然不久之間
丁未年〔587〕
百濟客來 官問言
「此三尼等欲百濟國レ上戒 
是事應云何耶」〔言〕
時蕃客答曰
「尼等受戒法者 尼寺之内先請十尼師 受本戒
卽詣法師寺十法師 先尼師十合廿師所本戒也 
然此國者 但有尼寺 無法師寺及僧尼等
若爲法者
法師寺 請百濟國之僧尼等
戒」白 
まらひと…[名] 客。
是事応…純正漢文の範囲内だが、和風漢文体風。
…三韓を指し、平安の書紀古訓では「となり(のくに)」。
然(しかくありて)不久之(ひさしからざりし)間(ま)
丁未(ひのとひつじ)の年〔587〕
百済の客(まらひと)来(きた)りて、官(つかさ)問ひて言はく
「此の三(みたりの)尼等(たち)百済の国に度(わた)りて戒(いむこと)を受くことを欲(ほり)す。 
是の事に応(こた)へて何と云ふべき耶(や)」といひて、
時に蕃客(からのまらひと)答へて曰(まを)ししく 
「尼(あま)等(たち)の戒(いむこと)を受くる法(のり)は、尼寺(あまでら)の内(うち)に先(まず)十尼師(とたりのあまほふし)を請(こ)ひて本戒(ほむかい)を受け已(を)へて、
即ち法師寺に詣(まゐで)て十法師(とたりのほふし)を請ふ。先の尼師十(とたり)に合はせて廿師(はたたりのほふし)に本戒を受くる所也(なり)。
然(しかれども)此の国には、但(ただ)尼寺のみ有りて、法師寺(ほふしでら)及(と)僧(ほふし)尼(あま)等(ら)と無(な)し。
若(もし)法(のり)の如く為(せ)ば、
法師寺(ほふしでら)を設(まう)けて
百済の国の僧(ほふし)尼(あま)等(ら)を請ひて、
戒(いむこと)を受け令(し)む可(べ)し」と白(まを)しき。 
時池邊天皇
以命大々王與馬屋門皇子二柱語告
「宣〔宜〕法師寺可作處見定」告 
時百濟客白
「我等國者 法師寺尼寺之間 鍾聲互聞 其間無難事
半月々々日中之前 往還處作也」〔白〕 
時に池辺天皇(いけのへのすめらみこと)、
以て命(おをせこと)して大々王与(と)馬屋門皇子との二柱(ふたはしら)と語らはしめて告(のたまはく)
「法師寺を作る可(べ)き処を見定む宜(べ)し」と告(のたま)ふ。
時に百済の客(まらひと)白(まを)ししく
「我等(われらが)国は、法師寺と尼寺との間、鍾の声(こゑ)互ひに聞こえて、其の間(あひだ)難(かた)き事無し。
半月々々(つきなかばごとに)日の中(なかば)の前(さき)に、往(ゆ)き還(かへ)る処(ところ)に作る也(にあり)。」とまをしき。
時聰耳皇子馬古大臣倶起寺處見定
丁未年〔587〕
時百濟客還本國時 池邊天皇告宣
「將欲佛法 故欲法師等幷造寺工人等
我有病 故急速宜送也」〔告〕
然使者未來間 天皇崩已
告宣…「宣告」は、宣言、告知などの意。
時に聡耳皇子(とみみのみこ)、馬古大臣(うまこのおほまへつきみ)倶(つぶさに)寺を起(た)つる処(ところ)を見定む。
丁未(ひのとひつじ)の年〔587〕
時に百済の客(まらひと)本国(もとつくに)に還りし時、池辺天皇告宣(のたまはく)
「将(まさに)仏法(ほとけののり)を聞くことを弘(ひろ)め欲(むとす)。故(かれ)法師(ほふし)等(ら)并(と)寺を造る工人(たくみ)等(ら)とを欲(ねが)ふ。
我に病(やまひ)有りて、故(かれ)急速(すみやかに)送る宜(べ)し」とのたまふ。
然(しかれども)使者(つかひ)未(いまだ)来(きた)らざりし間(ま)に、天皇(すめらみこと)崩(ほうず)。
《白~白》
 「白(まを)さく「…」と白す」は上代語における引用文の言い方を、そのまま漢文に用いたものである。 当然純正漢文ではない。
 この書法は『出雲風土記』においては一般的で、「詔自然哉猪之跡亡失詔」(秋賀郡神戸里)などが見られる。
 ただ、ここでは必ずしも統一されていないので、〔〕で補った。 なお、「蕃客答曰」を「」で閉じている箇所はびっくりするが、「」の方が誤写である。
《以命~語告》
 「池辺天皇以命大々王与馬屋門皇子二柱語告…」の文意は不明瞭である。
 まず「」はその主語は原則的には天皇であるが〔記紀の「詔」に相当〕、大大王〔用明天皇皇后〕と馬屋門皇子も「告」を使い得る。 しかし、「」の中身は「法師寺を建立する場所を選定せよ」である。 仮に大大王と馬屋門皇子が「」の主語だと考えたとしても、それを誰に命じたか書いてないから成り立たない。
 やはり、「法師寺の場所の選定」は池辺天皇が大大王と馬屋門皇子に命じたことで、「」とは、二人で相談して決めよという意味であろう。
 純正漢文として読むためには「」を使役動詞、「大々王与馬屋門皇子二柱」を行為者、「」を補語〔もしくは第二目的語〕と位置付けねばならない。 すると、「」の存在は、接続詞としてしか認められない。
 ところが和文としては「天皇が二人に語らうことを命じた」意味を保ちつつ、 「命を以って二人に語らわせた」とかみ砕き、それを「以命」と表記したように見える。だがこの読み方では"純正"漢文から遠く離れる。
 純正漢文による形は、 「池辺天皇以命告大々王与馬屋門皇子二柱「相語而可-定所法師寺」 などが考えられる。
《大意》
 次に池辺皇子(いけのへのみこ)が天皇(すめらみこと)に即位しました。
 馬屋門皇子(うまやどのみこ)は、 「仏法が破滅すれば、災が増すのではと怪しむ。 よって、三尼は桜井の道場に置いて供養させるのがよい」と申し上げました。
 天皇はそれをお許しになり、桜井寺に住まわせて供養させました。
 あるとき、三尼は官吏に
「伝え聞くところでは、出家した人は戒を本としますが、戒師がおりません。 そこで、百済国に渡って授戒を受けたいと存じます。」と申し上げました。
 そして、間もなく 丁未年〔587〕に 百済の客人が来たので、官吏は質問して、 「この三尼は百済国に渡って授戒を受けたいと求めております。 この事に何と返事をすればよろしいでしょうか」と言うと、 百済の客人は答えて 「尼たちの授戒の法は、尼寺の内部でまず十人の尼法師に請い本戒を受け、 その後に法師寺に詣でて十人の法師に請います。先の尼法師十人と併せて二十人の法師により本戒することになります。 けれどもこの国には、ただ尼寺があるだけで、法師寺と僧尼がおりません。 もし法の如くするなら、 法師寺を設け、 百済の国から僧尼を請ひ、 授戒を受けさせるべきです」と申しました。 
 そこで池辺天皇は、 よって命によって大々王と馬屋門皇子との二人に相談させて 「法師寺を作るべき場所を見定めよ」と仰りました。
 すると、百済の客人が申すに、 「私どもの国は、法師寺と尼寺との間には、鍾の声が互いに聞こえ、その間の移動に困難はありません。 半月ごとに、真昼になるより前に行き帰りできる場所に作るものです。」と申しました。
 このようにして聡耳皇子(とみみのみこ)、馬古大臣(うまこのおおまえつきみ)は具(つぶさ)に寺を建立する場所を見定めました。
 丁未の年〔587〕、 百済の客人が本国に還る時、池辺天皇は詔して 「まさに仏法を弘聞したいと思う。そこで法師と、合わせて造寺工を求めたい。 朕には病があるので、急いで送っていただきたい」と仰りました。
 けれども、使者の未だ来ぬ間に、天皇は崩じました。


まとめ
 善信・禅蔵・恵善の三尼は、百済に渡って授戒を受けることを求めた。
 このときは法師寺を建てて僧を招いて授戒させるとして、一旦は三尼には渡航をとどまらせた。 そして、厩戸皇子と馬子大臣は法師寺の場所を選定し、崇峻天皇は僧尼と造寺工の提供を百済に要請した。
 崇峻天皇の戊申年〔588〕に、百済から六人の僧が贈られた。 しかし、授戒に必要な二十人には不足したので、三尼は百済に渡って授戒を受けたいと再び強く主張し、遂に弟子の信善と一善を加えた五人の尼が百済に送られた。
 三尼が渡海に至る経緯については書紀よりも具体的に書かれ、これに近いことが実際にあったのではないかと思わせるものがある。 少なくとも、善信尼たちが仏法を求道するひたむきさが当時の人々に強い印象を与えたことは、事実であるように思われる。



2020.11.07(sun) [13]Ⅰ:縁起(g) 

:縁起(g)】 概要
《崇峻天皇》


次椋攝〔椅〕天皇治〔天〕
戊申年〔588〕 
送六口僧
名令照律師弟子惠忩
令威法師弟子惠勲
道嚴法師弟子令契
及恩卒首眞等四口工人幷金堂本樣奉上 
今此寺在〔有〕是也
戊申年…崇峻元年。
弟子…〈汉典〉門徒、徒弟;接-受他人教導並-助伝播〔あはせて〕実行的人。
…[動] (古訓) ともにす。
此寺…前段の「法師時」を受ける。
(g)
次に椋椅天皇(くらはしのすめらみこと)〔崇峻〕の天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ時、
戊申(つちのえさる)の年〔588〕、 
送りまつるに、六口(むたり)の僧(ほふし)、
名は令照(りやうせう)律師(りつし)、弟子(ならふひと)恵忩(ゑそう)、
令威(りやうゐ)法師(ほふし)、弟子恵勲(ゑくむ)、
道厳(だうごむ)法師(ほふし)、弟子令契(りやうけ)と
及(とも)に恩卒(おむそつ)首真(しゆしむ)等(ら)四口(よたり)の工人(たくみ)に、并(あは)せて金堂(こむだう)の本様(もとのさま)を奉上(たてまつ)りき。
今此の寺に是(これ)有り。
時聰耳皇子大々王大前白
「昔百濟國乞法師等及工人奉上 
是事爲云何」〔白〕
時大后大々王 告宣
「以先種々事今帝大前白」告
時聰耳皇子具白先事
時天皇告宣「先帝之時爲期也」〔告〕
おほきさき…[名] 皇后。皇太后。
時に聡耳皇子(とみみのみこ)大大王の大前(おほみまへ)に白(まを)さく、
「昔(むかし)、百済の国に法師(ほふし)等(ら)と及(とも)に工人(たくみ)を遣(まだすこと)を乞(こ)ひて奉上(たてまつ)りき。
是の事に何をや云はむと為(す)か。」と白す。
時に大后(おほきさき)〔=皇太后〕大大王告宣(のたまはく)
「先(さき)の種々(くさぐさ)の事を以て、今の帝(みかど)〔崇峻〕の大前(おほみまへ)に白(まを)せ。」と告(のたま)ふ。
時に聡耳皇子具(つぶさに)先の事を白(まを)して、
時に天皇(すめらみこと)告宣(のたまひしく)「先の帝(みかど)〔用明〕之(の)時に期(ちぎ)りし如く為(な)しき。」と告(のたま)ひき。
時三尼等官白
「但六口僧耳來 不廿師
故猶欲百濟國上レ戒」白
時官問諸法師等
〔曰〕「此三尼等欲受戒
是事云何」〔曰〕
時法師等答狀如先客答
時尼等强欲度白 
時官許遣弟子信善一善妙合五尼等遣
以戊申年〔588〕
…〈北野本-崇峻即位前紀〉-家イエテミチハイムコトモトゝス。 〈内閣文庫本-崇峻即位前紀〉イムコト
時に三(みたり)の尼(あま)等(ら)官(つかさ)に白(まを)さく
「但(ただ)六口(むたり)の僧(ほふし)耳(のみ)来りて、二十(はたたり)の師(ほふし)を不具(そなへず)。
故(かれ)猶(なほ)百済の国に度(わた)りて受戒(じゆかいせむ、いむことをうけむ)と欲(おも)ひまつる」と白(まを)す。
時に官(つかさ)諸(もろもろの)法師(ほふし)等(ら)に問ひて曰はく
「此の三(みたり)の尼(あま)等(ら)度(わた)りて受戒せむと欲(ほり)す。 
是の事に何(いかに)云(い)ふか。」と曰ひて、
時に法師(ほふし)等(ら)が答へし状(ありさま)、先の客(まらひと)の如くありて、答(こたへ)は異(こと)にするところ無(な)し。
時に尼(あま)等(ら)強(し)ひて度(わたること)を欲りすと白(まを)しき。 
時に官(つかさ)の許(ゆる)して遣(つか)はすに、弟子(ならふひと)信善(しむぜむ)、一善妙(いちぜむめう)を合はせて五(いつたり)の尼(あま)等(ら)を遣(つか)はしき。
以て戊申年〔588〕に往(ゆ)けり。
時聰耳皇子 大后大々王大前曰〔白〕
「弘佛法事 官旣許賜 今爲何」〔白〕
時大后大々王 聰耳皇子與〔馬〕古大臣二人告宣
「今者以百濟工等二寺也 
然尼寺者如標始 故今作法師寺」告
時聰耳皇子馬古大臣二柱共起法師寺處
以 戊申年〔588〕
假垣假僧房作 六口法師等令
又櫻井寺内作屋工等令
二寺 令寺木
しめ…[名] 神の宿るところ、私有地、道標などの標識。しめ縄などで示す。ここでは建造物の縄張りか。
かり…[名] 一時的なもの。
…[名] ①植物としての樹木。②木材。
時に聡耳皇子(とみみのみこ)、大后(おほきさき)大大王の大前(おほみまへ)に白(まを)さく
「仏法(ほとけのみのり)を弘(ひろ)めむ事(こと)、官(つかさ)既に許(ゆる)し賜(たま)ひて、今何を云(い)わむと為(し)たまふか」とまをす。
時に大后大大王、聡耳皇子与(と)馬古(うまこ)の大臣(おほまへつきみ)と二人に告宣(のたま)はく
「今者(は)百済(くたら)の工(たくみ)等(ら)を以(もちゐ)て、二(ふたつの)寺(てら)を作らむとす。
然(しかれども)尼寺(あまてら)者(は)標(しめさし)始(はじ)む如きにありて、故(かれ)今法師寺(ほふしてら)を作れ」と告(のたま)ふ。
時に聡耳皇子(とみみみこ)馬古大臣(うまこおほまへつきみ)二柱(ふたはしら)、共に法師寺(ほふしてら)を処(ところ)に起(た)てり。
以て戊申(つちのえさる)の年〔588〕
仮垣(かりかき)仮僧房(かりそうばう)を作りて、六口(むたり)の法師(はふし)等(ら)を住まは令(し)む。
又(また)桜井寺(さくらゐのてら)の内(うち)に屋(や)を作り、工(たくみ)等(ら)を住まは令(し)めて、
二(ふたつの)寺を作るが為(ため)に、寺の木を作ら令(し)めき。
以 庚戍年〔590〕
百濟國尼等還來官白
「戊申年〔588〕
往卽受六法戒
己酉年〔589〕 三月受大戒
今 庚戍年〔590〕還來」白
本櫻井寺住時 尼等白
「禮佛宮忽作賜 
又半月々々爲白羯磨
幷法師寺速作具賜」白 
如是櫻井寺内曇〔堂〕略作構置在
白羯磨…「羯磨」は僧の会議。「白」(まうす)は「議題の提案」。
…[副] (古訓) おほむね。あらあら。ほほ。
以て、庚戍(かのえいぬ)の年〔590〕
百済国自(ゆ)尼(あま)等(ら)還(かへり)来(きた)りて官(つかさ)に白(まを)さく
「戊申(つちのえさる)の年〔588〕
往(ゆ)きて即(すなはち)六法(りくほふ、むつののり)の戒(りくほふのかい、いむこと)を受く。
己酉(つちのととり)の年〔589〕三月(やよひ)、大戒(たいかい、おほきいむこと)を受く。
今、庚戍年〔590〕、還(かへ)り来たり」と白(まを)す。
本(もと)桜井寺に住みし時、尼等白(まを)さく
「仏(ほとけ)を礼(ゐやまふ)宮(みや)を忽(たちまちに)作り賜(たま)へ。 
又半月々々(つきなかばごと)に白羯磨(びやくかつま)をなす為(ため)に、
并(あはせて)法師寺(はふしてら)を速(すみやかに)作り具(そな)へ賜(たま)へ」と白(まを)す。 
如是(かく)桜井寺の内(うち)の堂(だう)、略(おほむね)構(かまへ)を作りて置きて在(あ)り。
《椋摂天皇》
 『寧楽遺文』〔竹内理三編。東京堂出版;1943、改訂版1962〕 は「」に「(橋)」と傍書している。崇峻天皇のことは、記では「倉椅柴垣宮」、書紀では「宮於倉梯」とするから、 「」が、古い時代にハシ(椅、梯、橋)を誤写したのは明らかである。
 クラハシの表記については〈姓氏家系大辞典〉は「椋椅部」「倉橋部」「椋橋部」を列記する。 ここでは、一般的に記の方が書記より古い表記を反映していると考えて、記に合わせておく。
《送~奉上》
 「送六口僧~并金堂本様」の「」と「奉上」はいずれも動詞で、「六口僧…」を目的語とするが、このような動詞の重複は純正漢文では決してあり得ない。 「并金堂本様」の前で切り離すことは文章としては可能であるが、意味を考えると「四口工人」と「金堂本様」は切り離し難い。 あたかも僧や工人を長々と書く間に「」を書いたことを忘れ、最後に動詞「奉上」を置いたか如き印象を受ける。
 後ろに動詞を置く構文(O-V)については、 他にも最後のところで「礼仏宮作賜」、「法師寺速作具賜」、「堂略作構」が連発される。 この形は「受事主語」と呼ばれるが比較的特殊で、ここではむしろ和風漢文体の特徴を示すと言えよう。
 またV-O-Vと目的語を動詞で挟む形は、上代語のク語法「いはく~といふ」をそのまま漢字に写したもので、これは完全に和風の書法である。 ここでは「」、「」に見られる。ただ、必ずしも一貫しないところがまた問題で、後世の書き加えを示すものかも知れない。
 さらに、V-O-Vを「言ふ」の類以外にも用いていることが特徴的である。「遣弟子信善一善妙合五尼等遣」がそれである。 「使奉上」も、結局はこれなのであろう。
《六口僧》
元興寺伽藍縁起并流記資財帳令照惠忩令威惠勲道嚴令契恩卒首真
崇峻天皇紀元年是歳聆照惠總令威惠衆、惠宿道嚴令開恩率首信
 「六口僧」の名前と恩率首真については、〈崇峻紀-元年是歳〉「百済国遣使并僧」のところで記された名前のリストと、大体対応する(右表)。
《弟子》
 弟子という語は、論語で普通に使われている。 日本の文献において「弟子」は徒然草〔鎌倉時代末〕に見られるが、飛鳥時代に仏教用語とともに入ってきていたと考えるのが妥当か。
 弟子は本来テイシと発音し、デシは習慣的な読みである。飛鳥時代にこの語が用いられていたとしても、その発音は判断できない。 律師や法師に師事して仏法を習う人のことだから、ここではひとまず「ならふひと」と倭読しておく。
《金堂本様》
 「金堂本様」とは、金堂はもともと「恩卒首真等四口工人」が建てたという意味であろう。 そして「本様」とは、「その後改増築があったが、最初の形は」の意味と見られる。
 次の「今此寺在是」の「此寺」は、当然法師寺元興寺である。 「」は「金堂」だから、「この寺の金堂は、このとき建ったものである」、 つまり「今、この寺にこれあり」という文である。
 ところが、それなら「今此寺」と書かねばならず、「」は誤用である。 「此寺在是」のままだと、「この寺はここにある」意となってしまう。
《昔百済国乞遣》
 「」というから、聡耳皇子が昔を思い出して「あの時どうして百済から僧たちが来たのか」と大大王に聞いたように受け取められる。 しかし、それに対して大大王は「そのことなら崇峻天皇に聞け」と答えるから、この会話の場面は、遅くとも崇峻生存中の崇峻五年までのこととなる。 よって、それほど「昔」のことではない。
 さて、「百済国乞遣」という語順は、百済国側から「献上させてください」と申し出たことを意味する。 しかし、用明天皇自身が丁未年に「法師等并造寺工人等」、そして朕は病気だから急げと使者に言っている〔f段〕。 だから、「百済国乞ひ」と訓まねばならない。 よって、ここは和風漢文体である。純正漢文でこの意を表すためには「乞百済国遣」、または「于百済国乞遣」としなければならない。
《大后大大王》
 大大王(とよ弥気賀斯岐夜比売みけかしきやひめ命)は、敏達天皇の皇后であった。したがって、オホキサキ(大后)は、書紀ならば皇太后と表記するはずである。
《起法師寺処》
 前年に、用明天皇に「法師寺可作処見定〔法師寺を作る所を見定めよ〕と命じられているから、 「法師寺処」の「」とは、その詔によって見定めた場所のことである。
 その場所は、書紀によれば「飛鳥真神原、亦名飛鳥苫田」である。 建造を始めた年は、書紀も同じく崇峻元年とする。
《五尼》
 善信禅蔵恵善と弟子を「〔あはせて〕五尼」として百済に渡らせた。 よって「信善一善妙」は二人の弟子の名前である。一般的には信善/一善妙と区切られている。
《大意》
 次に椋摂〔椅〕(くらはし)の天皇(すめらみこと)〔崇峻〕の御世、 戊申年〔588〕、 送られた六人の僧、 名は令照(りょうしょう)律師(りっし)、弟子の恵忩(えそう) 令威(りょうい)法師、弟子の恵勲(えくん)、 道厳(どうごん)法師、弟子の令契(りょうけ)、 及び、恩卒(おんそつ)首真(しゅしん)等四人の寺工と併せて、金堂の最初の姿を献上しました。 現在の寺に、これがあります。
 ある時、聡耳皇子(とみみのみこ)は大大王の御前で、 「昔、百済(くだら)の国に法師らと寺工を求め、献上がなされました。 これはどういう事でありますか。」とお聞きしました。
 その時、皇太后の大大王は、 「今言われたさまざまなことは、今の帝〔崇峻〕にお聞きなさいませ」とお答えになりました。
 そして、聡耳皇子は具にこの事をお聞きになると、 天皇は「先帝〔用明〕の時に約束された如く、実行されたのである」と仰りました。
 その時、三人の尼らは官吏に、 「ただ六人の僧が来たのみで、二十人の師は揃っていません。 よって、やはり百済の国に渡って授戒を受けることを希望します」と申し上げました。
 官吏は諸々の法師らに 「この三人の尼らは渡って授戒を受けたいと申しております。  どのように答えたらよいでしょうか」と問いましたが、 法師らが答える様子は、以前に客人の言った如きで、答を異にすることはありませんでした。
 それでも尼らは、強いて渡りたいと申しました。 
 そこで官吏は派遣を許可し、弟子の信善(しんぜん)、一善妙(いちぜんみょう)と併せて五人の尼らを派遣しました。
 こうして、戊申年〔588〕に出発しました。
 その時、聡耳皇子(とみみのみこ)は、皇太后大大王に 「仏法を広めることを、官人は既に許され、今何を仰られますでしょうか」とお尋ねしました。
 すると皇太后大大王は、聡耳皇子と馬古(うまこ)の大臣(おおまえつきみ)二人に、 「今、百済の寺工らを用いて、二寺を作り始めました。 しかし、〔まだ手をつけたばかりで、やっと〕尼寺の縄張りを始めた如きです。今、法師寺に着手なさいませ」と仰りました。
 そこで、聡耳皇子と馬古大臣の二人は、共に法師寺の場所に起工しました。
 こうして、戊申年〔588〕、 仮垣と仮僧房を作り、六人の法師らを住まわせました。 また、桜井寺内に屋を作り寺工らを住まわせ、二寺を作るために木材を用意させました。
 そして、庚戍年〔590〕、 百済国から尼らが帰還し、官人に復命しました。
――「戊申年〔588〕に、 行ってすぐに六法の授戒を受けました。
 己酉年〔589〕三月に、大戒を受けました。
 今、庚戍年〔590〕に、帰還しました。」
 本の桜井寺に住んでいた時、尼らは 「仏に拝礼する宮をすぐにお作りください。 また、半月ごとに白羯磨(びゃくかつま)を行うために、 併せて法師寺を速やかに作り備えくださいませ」と申し上げました。 
 このようにして、桜井寺内の堂として、ひとまず簡略な構えを設置しました。


まとめ
 この部分の大筋としては、崇峻元年に僧・寺工が訪れ二寺(法師寺と尼寺)の建造が始まり、同年五人の尼僧が百済に渡って授戒した。 そして同三年に五尼僧が帰国した。これがすべてである。 それぞれの年と事柄は崇峻天皇期と一致する。送られた僧らの名前もほぼ同じと見てよい。 これだけを見れば、書紀が出来上がってから、その内容に基づいて「縁起」が書かれたとの考えも成り立つ。
 しかし、書紀に合わせて「椋(倉)椅」・「櫻井」と書かれているものを、「椋摂」・「楷井」に誤写することはあまりにも考えにくい。 天皇名や基本的な地名は、もう定着していただろう。
 他の可能性として、書紀に合わせて年(干支)のみを原書に書き加えたケースが考えられる。 書き加えた人は崇峻天皇の在位期間の年を書いたのだから、「椋梯」が「椋摂」に誤られたことにはすぐに気付き、ついでに訂正できたはずである。
 このように考えると、書紀より古い時代に「元興寺縁起」(の部分)は存在し、縁起が参照した資料と大体同じものを書紀も参照したと考えるべきであろう。 「縁起」の《文書成立時期》で述べた見解は揺るがない。
 さて、この(g)には、この本筋の間に聡耳皇子(厩戸皇子)が大大王にお伺いを立てた場面が2か所挿入されている。 これは後世に挿入されたようにも思えるが、聡耳皇子の活躍を示す記述はここに限らないから、 少なくとも聡耳皇子を偉大化する意図は最初からあったわけである。 『上宮記』もその意図で書かれた書だから、推古の後ぐらいから厩戸皇子神格化が始まっていたと考えてよいだろう。〈推古紀〉が厩戸皇子を神聖化する記述は、それを引き継いだものである。
 ただ、(g)が、聡耳皇子が、蘇我馬子と二人三脚で法師寺(元興寺)の創建に関わったとするところには、書紀との乖離がある。 書紀では、法興寺(法師寺)に関わったのが蘇我馬子、四天王寺に関わったのが聡耳皇子として、くっきりと描き分けている(崇峻前紀)。 この役割の仕分けについては、書紀の段階で整理されたものと考えられる。



2020.12.16(wed) [14]Ⅰ:縁起(h) 

:縁起(h)】 概要
《推古天皇》

然 大々王天皇命等由良宮治天下時
〔丑〕※1〔593〕 聰耳皇子召告 
※1…『寧楽遺文』〔以下〈寧〉〕〔丑カ〕と傍書。 『大日本仏教全書』〔以下〈全〉〕:寅のまま注記無し。「癸寅年」は存在しない。
(h)
然(しかるがゆゑに)、大々王(おほきおほきみ)の天皇命(すめらみこと)等由良宮(とゆらのみや)に天下(あめのした)に治(しろしめたま)ひし時、
癸丑(みづのとうし)の年〔593〕、聡耳皇子(とみみのみこ)を召したまひて告(のたま)はく。
「此櫻井寺者 我汝不忌捨
【牟都々々斯於夜座※2彌與二】
佛法初寺在 又重後言大命受在寺在也 
我等在【弖須良夜】 
此寺將荒滅
※2…〈寧〉〔度〕を傍書。〈全〉はじめから「」。
むつむつし…[形]シク 〈時代別上代〉「(元興寺縁起)のムツムツシもこのムツを重ねてシク活用形容詞としたもので睦まじい・親しいの意である。
すら…[助] ~でさえ。
「此の桜井(さくらゐ)の寺は、我と汝と忌(い)み捨(す)つることを不得(えず)。
【牟都牟都斯於夜度弥与二(むつむつしおやとよに)】
仏法(ほとけのみのり)初めて寺に在りて、又重ねて後言(のちごと)に大(おほき)命(おほせごと)を受けたまはりて在りし寺に在(あ)り。
我等(われら)在り弖(て)須(す)良(ら)夜(や)、 
此の寺将(まさ)に荒れ滅(ほろ)びむとしてあり。
汝命以聖心
※3歸嶋宮※4〔治天下天皇
※5作奉也
然我者此等由良宮者寺成念
故宮門遷入急速作也
※3歸嶋宮…〈寧〉「歸嶋」に〔斯脱カ〕傍書。
※4…〈全〉宮下恐脱治字
※5…〈寧〉〔懇カ〕傍書。〈全〉勲字恐懇
汝命(ながみこと)聖(ひじり)が心を以て奉(うけたまは)りて、
斯帰嶋(しきしま)の宮に天下(あめのした)を治(しろしめしし)天皇(すめらみこと)の為(ため)に
懇(ねもころに)作り奉(まつ)れ。 
然(しかるがゆゑに)我は、此の等由良宮(とゆらのみや)は寺と成すべしと念(おもほ)す。
故(かれ)宮門(みやのと)を遷(うつ)し入れて急速(すみやか)に作りまつれ。
今不
我子急速可仕俸
爲我者 小治田宮作」告 
〔告〕
「尼等爲白羯磨法師寺急速作齋」告 
今は不知(しらざ)れど、
我子(あがみこ)急速(すみやかに)仕俸(つかへまつる)可(べ)し。
我(あ)が為(ため)には、小治田(をはるた)の宮を作りまつれ」と告(のたま)ひて、
又(また)〔告(のたまひしく)〕
「尼等(たち)が白羯磨(びやくかつま)の為(ため)なる法師(ほふし)の寺を急速(すみやかに)作り斎(いは)ひまつれ。」と告(のたま)ひき。
以是 癸丑年〔593〕宮内遷入
先 金堂禮佛堂等略作
等由良宮成寺 故名等由良寺
是(これ)を以て、癸丑(みづのとうし)の年〔593〕宮の内(うち)に遷(うつ)り入(い)る。
先(ま)づ、金堂(こむだう)礼仏堂(れいぶつだう)等(ら)を略(おほむね)作りき。
等由良宮(とゆらのみや)は寺と成りて、故(かれ)等由良寺(とゆらのてら)と名(なづ)けり。
又大々王天皇〔命〕治天下時
天皇〔大前〕※6皇子白 
「今我等無※7朝生年之數算
建於百位 並道俗之法世建興建通
竊惟 如是事豈非德耶
※6皇子…〈全〉耳上脱聰字皇子
無朝※7…〈全〉無上宮太子拾遺起作天朝。
 〈寧〉「無朝」。〔期カ〕を傍書。
無期…かぎりなく。
…[動] (古訓) かきる。
又(また)大々王の天皇(すめらみこと)天下(あめのした)を令治(しろしめ)たまひし時、
天皇〔の大前(おほみまへ)〕に聡耳皇子(とみみのみこ)白(まを)さく
「今、我等(われら)無期(かぎりもなく)生(あれましし)年(とし)之(の)数(かず)を算(かぞ)へまつるに
[於]百(もも)の位(くらゐ)を建(た)てまつりて、並(な)べて道俗(だうぞく)之(の)法(みのり)を世に建興(こむこう)建通(こむつう)したまふ。
窃(ひそかに)惟(おも)ひまつらく、如是(かくのごとき)事豈(あに)徳(いきほひ)の至(いた)したまふに非(あら)ざる耶(や)。
《大大王天皇命》
 「大大王天皇命」という表記からは、天皇号を使い始めた頃の過渡的なものを感じさせる。 詳しくは、既に「縁起」の《天皇の表記》の項で考察した。
《牟都々々斯於夜度弥與二》
 「牟都々々斯於夜度弥與二」をすべて音読すると、「ムツムツシオヤトヨニ」となる。 ムツムツシが「睦まじい」だとすれば、オヤは当然「親」であろう。 ムツムツシは語幹の連体修飾用法だから、シク活用ということになる。〔"うまし国"の用法〕
 だから、 「睦睦し親■御世に」と訓め、つまり大大王(推古天皇)の父である欽明天皇の御世となり、概ね意味は通る。 ■は「」で、それが既に「」と解されているが、できたら「」、または「」が望まれる。
 たとえば「我」が著しい虫食いを被ると、「座」に見えることもあったかも知れない。
《我等在弖須良夜》
 「我等在りてすらや、此の寺将に荒れ滅びむとす」とは、「我らがいてさえも、この寺は荒れ滅びそうになった」意味である。
 副助詞「すら」の用例としては、次の歌が分かりやすい。
 「(万葉)2001 従蒼天 徃来吾等須良 汝故 天漢道 名積而叙来 おほそらゆ かよふわれすら ながゆゑに あまのかはぢを なづみてぞこし〔大空を飛んで通う私すらも、あなたがいるから天の川の水に難渋して来たのだぞ〕
 〈時代別上代〉は、「このスラの指示する語句とそれを受けるべき述語の意味には逆接的な非通常性がなりたつのが常〔スラが付いた語は、その述語に通常用いられる語に反する〕と述べ、さらに「上代の例ではスラは大体体言に接するが、助詞ヲ・ニ・テに接した例も稀にある」と述べる。
 『古典基礎語辞典』〔大野晋;角川学芸出版2011〕は、 「スラは、上代から類義語サヘやダニに比べて格段に用例が少なく、中古・中世でもほとんど使われ」ないと述べる。 また「中古末期から」「ソラの形でも使われ」、「院政・鎌倉期にはスラを圧倒するほどになるが、ソラも中世末には消滅する」という。
 これらを見ると、宣命体のような「弖須良夜」が挿入された時期は、中古(平安)以後はまずあり得ず、上代までである。 よって、『元興寺伽藍縁起…』の原文は書紀と同時期またはそれ以前から存在したと見てよい。
《大命受在寺在也》
 「」は「受けたまはる〔承る〕」であろう。
 「在寺在」は「~てある寺にあり」で、これをそのまま漢字にしたと考えられる。 テアリニアリはそれぞれタリナリの古い形である。 タリは、〈時代別上代〉「記紀にはまだ用例がなく」万葉にも「なおテアルの用例が見える」とされる。
 ナリについては、「(万)1862 未冬有 いまだふゆなり」のように「」が当てられることがあり、 「(万)0165 宇都曽見乃 人尓有吾哉 うつそみの ひとにあるわれや」にニアリの形が見える。 万葉集の編に関わった大伴家持は奈良時代の人〔~785〕であった。テアリニアリの移行期を奈良時代の前半までと見れば、 やはり「受在寺在」は、飛鳥~奈良初頭の書法ではないかと思えるのである。
《今不知我子急速可仕俸》
 「今不知」はなかなか理解しがたいが、次の「我子」にヒントがある。 聡耳皇子は大大王〔推古〕の実の子ではないが、「我子」はどう見ても聡耳皇子である。「アガミコ」はここでは親愛の呼びかけであろう。
 そのアガミコに向かって「欽明天皇のとき仏教が伝わって桜井寺を作った。当時のことは、お前はまだ生まれてなかったから知らないだろうが」と言い聞かせたものと読めば、一応納得できる。
 『聖徳太子伝暦』〔平安中期〕によれば聡耳皇子の生誕は壬辰年〔572〕。 〈崇峻紀〉によると用明二年〔587〕の時点で十六歳以下。 百済王による仏像・教典の献上は、『元興寺伽藍縁起…』で538年、書紀では552年。 最初に大大王の後宮の一画を仏殿に提供したときには、確かにまだ生まれていなかった。
《天皇耳皇子白》
 動詞は「」だから、主語が「聡耳皇子」であるのは明らかである。 その前の「天皇」は、むしろない方が文意が通ずるから誤って紛れ込んだことも考えられる。 律義に「天皇」を用いるなら、「天皇大前」の略と位置づけることになる。
 何れにしても、「聡耳皇子」が大大王天皇に「」したということだから、 その言葉の末尾は「如是符諸臣〔かく諸臣に符(しもつふみ)しまつる。〕までとしなければならない。 つまり、「今申し上げた内容を、諸臣にも文書によって下命いたします。」が、奏上の締めくくりの言葉である。
《生年之数算建於百位》
 「」の意味は、階位までは認められる。 現代の「」は、数値の桁の名称〔一、十、百、千、万…〕にも使われる。
 ここでは、数のカウントに関する文章中であるから、そのように使われたと考える外はない。 順番に1を加えていくと、99の次に「百の位が建つ」わけである。
 しかし、この時代の「」に数値の桁位置の意味があったのだろうか。 〈時代別上代〉や他のいくつかの古語辞典を見ても「くらゐ」にこの意味は載らない。漢字「」については、『諸橋大漢和』は日本語用法とする。
 そこで、「中国哲学書電子化計画」の文献から探すと、 『孫氏算経』で明確に数値の桁の名称として「」が使われていることが分かった (資料[43])。 『孫氏算経』は、その内容から見て南北朝〔439~589〕の頃の成立と言われているから、 『元興寺伽藍縁起…』の筆者がこの用法を知っていて使ったことはあり得るわけである。
《大意》
 こうして、大々王天皇命(すめらみこと)は、等由良宮(とゆらのみや)で天下をしらしめた時、 癸丑年〔593〕に、聡耳皇子(とみみのみこ)を召して詔されました。
――「この桜井の寺を、我とあなたは、忌(い)み捨ててはなりません。 睦まじい先祖〔欽明〕の御世に、 仏法が初めて寺に置かれ、何度も重ねて遺言に大命を承りた寺であります。 我らがいてすら、 この寺は将(まさ)に荒れ滅びようとしていました。
 あなたは聖(ひじり)の心を受け継ぎ、磯城嶋の宮に天下を知ろしめした天皇(すめらみこと)のために 懇ろにお作りなさい。
 よって、我はこの等由良宮(とゆらのみや)は寺となるべきだと思います。 そして宮門を移し、速やかに新しい宮を作りなさい。
 今はあなたは〔桜井寺の由来を〕ご存知ありませんが、 わが皇子よ、速やかに取り掛かりなさい。 我のためには、小治田に宮を作りなさい。」と詔され、 さらに、「尼たちの白羯磨のための法師寺を速やかに作り奉斎しなさい。」と詔されました。
 このようにして、癸丑年〔593〕に宮中に移られ、 まず、金堂、礼仏堂などが概ね作られました。 等由良宮(とゆらのみや)は寺となり、よって等由良寺と名付けられました。
 また、大々王天皇〔推古〕が天下を知ろしめしられた時、天皇の御前で聡耳皇子は申し上げました。
「今、私どもは限りなくお生まれになってからの年数を数え、 百の位が立ち、道俗すべての法を世に建興、建通されました。
 ひそかに思うに、この事が、どうして徳のいたすことではないといえましょうか。


まとめ
大大王の後宮牟久原後宮 牟久原殿 楷井 等由良宮
草創期の寺他國 櫻井道場 櫻井寺 等由良寺
 大大王の後宮と草創期の寺については、これまでに右表のような多様な表記が用いられている。 
 両者の関係については、部分的にはあたかも異なる場所のようにも読めてしまう箇所があるのだが、 結局この段の「等由良宮るべし」 という文が、端的に表していると言えよう。
 最初は欽明天皇のとき大大王の牟久原後宮が「他国神宮」となり、以後仏殿や道場が置かれる。 それらは、後宮=大大王の居所の一部を提供したと読むのが順当であろう。実際、二度にわたって「こは我が後宮ぞ」と言って、寺が燃やされることを阻止している。 そして大大王の天皇即位を機として、初めて後宮全体を取り壊し、〔本格的な堂塔を備えた〕等由良寺を建立したわけである。
 なお、書紀においては、草創期の寺はあくまでも蘇我稲目や蘇我馬子の自宅または近くに置かれ、 即位前の御食炊屋姫の関与は全く書かれない。この点が『元興寺伽藍縁起…』との、大きな違いである。
 …蘇我稲目による、〈欽明十三年〉の「-捨向原家」、 蘇我馬子による〈敏達十三年〉「-営仏殿於宅東方」、 〈敏達十四年〉の「新営精舎」。



2021.05.03(mon) [15]Ⅰ:縁起(j) 

:縁起(ⅰ)】 精読 概要

:縁起(j)】 概要
《推古帝懺悔言》

如是白已
卽發願白言
「仰願 蒙三寶頼皇帝陛下
共與乾坤四海安樂
正法增益 聖化無窮」白
発願(ほつがん)…〈仏〉悟りへの請願をおこす。 〈皇極紀元年七月/岩崎本〉セ  チカヒ/コヒチカフ
安楽…①のんびりと楽しむ。②〈仏〉極楽浄土。 〈推古紀十六年八月/岩崎本〉安樂ヤスラカニシ
三宝…〈推古紀二年/岩崎本〉声点がつくから音読み。
正法(しょうほう)…〈仏〉正しい教え。仏法。
かが…[名] 利益。
(j) 如是(かく)白(まを)し已(を)へて
即(すなはち)発願(ほつぐわむ)し白(まを)して言(まを)ししく
「仰(あふ)ぎ願ひまつらくは、三宝(さむはふ)の頼(みたまのふゆ)を皇帝陛下(みかど)に蒙(かがふ)り
共に乾坤四海(あめつちよも)の安楽(やすらけき、あむらく)に与(あづか)りまつり、
正法(まさしきみのり、しやうほう)に増益(かがま)して、聖化(ひじりのしきますこと、せいか)窮(きはみ)無(な)し」と白(まを)しき。
爾時
天皇卽從座起合掌仰
心流-發懺悔
爾時(このとき)、
天皇(すめらみこと)即(すなはち)座(むしろ)従(よ)り起(た)ちて合掌(をろが)み、天(あめ)を仰(あふ)ぎて、
心より懺悔(くい)流れ発(はな)るるに至りて言(のたま)へらく
「我現在父母六親眷屬
隨愚癡邪見
三寳卽破滅燒流
所奉之物反取滅也 
六親(りくしん)…一家の血族。父母兄弟妻子をいうが、何を指すかは異説がある。
眷属…一族。〈仏〉仏の周りに付き添う菩薩など。
愚痴(ぐち)…〈仏〉煩悩のひとつ。知恵のないおろかなこと。 〈岩崎本三十二(一)年/岩崎本〉愚-癡ヲロカナル カタク。 〈皇極紀二年/岩崎本〉愚-癡カタクナニ
邪見(じゃけん)…〈仏〉誤った考え。因果の道理に反するもの。
「我(わが)現在(うつし)くある父母(ちちはは)六親眷属(うがらたち)
愚痴邪見(おろかにてよこしまな、ぐちじやけむの)人の隨(まにま)に
三宝(さんはう)を即(すなは)ち破(こぼ)ち滅(ほろぼ)し焼き流し、
所奉之(たてまつりし)物を反(そむ)きて取り滅(ほろぼ)しき[也]。
然 今我以等由良後宮
尼寺
山林園田瀆封戸奴婢等更納奉
又敬-造法師寺
田園封戸奴婢等納奉
又敬-造丈六二軀
又修自餘種々善根
…[名] みぞ。通水路。大河。
自余…このほか。
善根…良い結果を得られる原因となる、よい行い。善因とも。
然(しかれども)、今我(われ)等由良(とゆら)の後宮(きさきのみや)を以ちて、
尼寺(あまでら)と為(し)て、
山(やま)林(はやし)園(その)田(た)瀆(みぞ)封戸(ふこ)奴婢(やつこ)等(ら)を更に納(をさ)め奉(まつ)る。
又、法師寺(ほふしでら)を敬(ゐやま)ひ造りて、
田(た)園(その)封戸(ふこ)奴婢(やつこ)等(ら)を納め奉る。
又、丈六(ぢやうろく)〔の仏像(ほとけのみかた)〕二躯(ふたはしら)を敬(ゐやま)ひ造り、
又、自余(これよりあまれる)種々(くさぐさ)の善根(ぜむこむ)を修めまつる。
此功德
我現在父母六親眷屬等
 燒-流佛法
奉之物返取滅
悉欲二上贖除滅
-奉彌勒-聞正法
無生忍
速成正覺
十方諸佛及四天等所
誠心誓願
功徳…〈推古紀三十一(二)年/岩崎本〉功-徳也/ノリノワサナランノリコトナリ
いへびと…[名] 家人。
四天…四天王の略と見られる。四天王は仏教の宇宙観における四方の守り神 崇峻前紀(用明七)《護世四王》参照)。
除滅…あとかたもなくす。
…[動] (古訓) おもむく。
無生忍…〈仏〉事物はすべて不生不滅であるという真理を悟っていること。 
正覚(しょうがく)…〈仏〉正しいさとり。
此(こ)の功徳(くどく、のりのわざ)を以ちて、
我が現在(うつしきよ)の父母(ちちはは)六親眷属(いへびとうがら)等(ら)、
[為]仏法(ほとけのみのり)を焼き流しし罪(つみ)、
及び所奉之(たてまつりし)物を返(かへ)り取りて之(こ)を滅ぼしし罪を、
悉(ことごとく)贖(あか)ひ除滅(のぞ)かむと欲(おも)へるがために、
弥勒(みろく)に面(おもむ)け奉(まつり)正法(しやうほう)を聴聞(き)きまつり、無生(むしやう)の忍(にむ)を悟りて、
速(すみやかに)正覚(まさしきさとり、しやうがく)を成しまつらむ。
十(とをつ)の方(も)の諸(もろもろ)の仏(ほとけ)、及び四天(してむ)等(ら)の所に、
誠(まこと)を至らしむ心を以て、誓(ちか)ひ願ひまつる。
所造二寺及軀丈六
※1二寺所納種々諸物
更不攝取滅不犯不謬也
若我正身 若我後嗣子孫等
若疎他人等
若有此二軀丈六所納之物返逼取
謬有如二レ是事
必當種々大灾大羞
摂取…〈汉典〉吸収。
…[動] (古訓) あやまつ。
ただみ…[名] 本人。
うとぶ…[他]バ上二 うとましくする。
…[接] 仮定の条件節の動詞の前に置く。主節の「則~」に対応することが多い。 「もし」を重ねる言い方は口語的で、ここに複数置かれた「若」は日本語用法と思われる。
※1…『大日本仏教全書』「丈」上宮太子拾遺記作「更」。『寧楽遺文』は「」。 『上宮太子拾遺記』全七巻:鎌倉末、橘寺の僧法空撰。
所造(つくりまつらるる)二(ふたつの)寺(てら)及び二躯(ふたはしら)の丈六(ぢやうろく)、
〔更〕(さらに)二つの寺に所納(をさめまつらる)種々(くさぐさ)の諸(もろもろ)の物は、
更に不摂取(をさめず)不滅(ほろぼさず)不犯(をかさず)不謬(あやまたず)[也]。
若(もし)我(わが)正身(ただみ)、若し我(わが)後嗣(のちにつぐ)子孫(あなすゑ)等(ら)、
若し他人(あたしひと)等(ら)を疎(うと)び、
若し此の二躯(ふたはしら)の丈六(ぢやうろく)、所納之(をさまえし)物(もの)返りて逼(せ)め取ること有りて、
謬(あやまち)是(この)事の如く有ら者(ば)、
必ず種々(くさぐさ)の大(おほ)きなる災(わざはひ)を受け大きに羞(は)づ当(べ)し。
若有仰信
幷供養
恭敬修-治豐養
三寶之頼
身命長 安樂得種々之福
萬事々如意 不於萬世
我旣定知已
誹謗幷奪施 各得其灾禍
我旣懲々※1
供養…〈敏達紀十四年/内閣文庫本〉供養イタハリヤシナフ
ながらふ…[自]ハ下に 時を経る。特に生命の続くことをいう。
※1…『寧楽遺文』:我旣微〃〔徴之カ〕〔「徴之か?」と傍書〕
若(も)し仰(あふ)ぎ信(うくこと)を有(も)ちて
并(あは)せて供養(くやう)し
恭(つつし)みて敬(ゐやま)ひて、豊かなる養(やしなひ)を修治(をさ)め者(ば)、
三宝(さむはふ)之(の)頼(みたまのふゆ)を被(かがふ)り、
身命(いのち)長(ながら)へ、安く楽しく種々(くさぐさ)之(の)福(さきはひ)を得(う)。
万事(よろづのこと)事(こと)意(こころ)の如く、[於]万世(よろづよ)に不絶(たえず)[也]。
我(われ)既(すで)に定まりて知り已(を)へり。
誹謗(あざけ)り并(あはせ)て施(ほどこ)しを奪(うば)はば、各(おのもおのも)其(その)災禍(わざはひ)を得(え)む。
我既(すで)に懲(こ)り懲(こ)りて已(を)ゆ。
愼々不三寳
三寳物
-堪修行
善捧
願 引-導後々嗣々頼※1
此法之頼
現在未來令最勝安樂
心不絶修-行此法
永世無窮者
願共一切含識有形
普因此福
速令正覺
…[動] (古訓) たへたり。たふ。
引導…〈継体紀十年/前田本〉引-導ヒキヰ
最勝…もっともすぐれる。「:符」に「最勝王経」があるので、音読みか。
一切…(古訓) あまねく。
含識(がんじき)…魂を含むもの。転じていけとしいけるもの。
※1…『大日本仏教全書』「頼」上宮太子拾遺記作「類」。『寧楽遺文』「」。
慎々(ゆめゆめ)三宝(さむほう)を軽(かるくする)不可(べからず)、
三宝(さむはふ)の物を犯(をか)す不可(べからず)、
修行(おこなひ)に隨(したが)ひ堪(た)へて、
善(よ)く営(いとなみ)を捧(ささ)げ、
願(ねが)はくは後嗣(のちにつがむ)後嗣(あなすゑ)の頼〔類〕(うがら)を引導(みちび)きて、
此(この)法(みのり)之(の)頼(みたまのふゆ)を蒙(かがふ)りて、
現在(うつしきよ)未来(のちのよ)に最勝(もともまさる、さいしよう)安楽(やすらけきこと、あむらく)を得(え)令(し)む。
心に信(う)くこと不絶(たやさず)、此の法(みのり)を修行(おこな)ふこと、
永き世に窮(きは)むること無(な)から者(ば)、
願(ねがはくは)一切(いつさい、あまねく)含識有形(がむじきいうけい、いけとしいけるものかたちあるもの)を共にして、
普(あまねく)此の福(さきはひ)に因(よ)りて、
速(すみやかに)正覚(まさきさとり)を成さ令(し)め。」
如是誓已
卽大地動搖
雷卒雨大雨
悉淨國内
なゐふる…[自]ラ下四 地震が起こる。
…[副] 〈類聚名義抄〉ニハカニ。コトコトク。イクサ。
…[動] (古訓) きよむ。
と、如是(かく)誓(ちか)ひ已(を)ふれば、
即(すなはち)大(おほきなる)地(つち)動搖(なゐふ)れ、
雷(いかづち)震(ふ)り、卒(にはかに)雨ふり、大雨(ひさめ)ふり、
悉(ことごとく)国内(くぬち)を浄(きよ)めき。
《乾坤四海》
 「乾坤」、「四海」はいずれも世界全体を意味する語である。
 「乾坤」はもともと六十四卦(八卦の二個組)の一つで、(乾、=天)+(坤、=地)を意味する (第2回)。
 「四海」は、原義の四方の海から転じて、世界・天下を意味する。
《仏教用語のよみ》
  • 発願…〈皇極紀/岩崎本〉には「こひねがふ(乞ひ願ふ)」(平安中期)・「ちかひせ〔り〕」(室町)。「香-鑪香発(レ)」という文だから仏教的な行為であるが、意訳である。
  • 正法…(なし)。
  • 愚痴…〈推古紀・皇極紀/岩崎本〉に、古訓「おろかなり」、「かたくななり」が見られるが、何れの文脈でも仏教用語ではない。
  • 邪見…(なし)。
  • 三宝…音読み。
  • 善根…(なし)。
  • 功徳…〈推古紀/岩崎本〉に「のりこと」(平安中期)、「のりのわざ」(室町)が併記される。もともとは音読だったものを、古訓学者がそれぞれに考案したことも考えられる。
  • 仏法…訓読み〔ほとけのみのり〕
  • 無生忍…(なし)。
  • 正覚…(なし)。
  • 供養…〈敏達紀/内閣文庫本〉に「いたはりやしなふ」。蘇我馬子宿祢が三尼を精舎に迎え入れる場面。僧尼を養育することは、仏への寄進の意味をもつ。
  • 引導…〈欽明紀/前田本〉に「ひきゐ」。仏教的な文脈ではない。
  • 最勝…〈斉明紀〉にある(別項)。
  • 安楽…〈推古紀〉古訓に「やすらかにし(て)」。天皇の韻文的な言葉の一部で、仏教的な文脈ではない。
  • 含識…(なし)。
 この段で用いられた仏教用語に、音訓のどちらを用いるかはなかなか悩ましい。試しにそれらの語の古訓を、書紀に見る(右表)。
 「三宝」は「みつのたからもの」と問題なく和訓できるが、書紀訓点では明確に音を用いてる。 三宝は、十七条憲法がいうように「仏・法・僧」で、一般的な「三種の宝」に比べて意味が特殊化している。音読を用いるのはそのためであろう。 現代において外来語にピッタリする和語がない場合、そのままカタカナ語を用いる感覚と共通すると思われる。 僧=ホフシは、古い時代にやってきた法師をそのまま音で呼んだのが起源だろう。戦国時代に渡来したキリスト教の司祭をそのままパードレ〔スペイン語padre;=父、伴天連に変化〕と呼んだのと似ている。
 仏法=ホトケノミノリの場合は、「ほとけ」によって特殊化されるから、倭語「のり(法)」のままでよいわけである。 〔仏をホトケと訓むのも興味深い問題だが、これについては〈推古十二年〉のところで論ずる。〕
 発願功徳愚痴引導最勝安楽を見ると、多くは意味の合う倭語で訓もうとしたようである。それは文脈が仏教的か否かに関わらない。 「正法:まさきみのり」、「正覚:まさきさとり」などについてはその類推で何とかなるが、「善根」、「無生忍」、「含職」は決定が困難である。 例えば、「善根」の""は、ネ、ココロ、ヒトトナリ、カドなどと考え得るが、平安の古訓学者がどれを選ぶかは推定不可能である。
 この段落は、「推古懺悔言」ともいうべきものであるが、 この部分が仮に飛鳥時代に書かれたとして、その時点ではどうよまれたのであろうか。 音読みかも知れないが、分かりやすいものから既に訓読が試みられたかも知れず、なかなか判断は難しい。
《推古帝懺悔言の執筆時期》
 「推古懺悔言」には多数の仏教用語が使われているが、この文が作られた時代はどこまで遡れるのだろうか。 漢字の移入は古墳時代からあり、推古朝で飛躍的に増大し、渡来僧や遣隋使・遣唐使によって大量の文献が持ち込まれていたのは確実である。 古事記序文〔712年〕には既に難しい漢語が多く使われているから、推古懺悔言が飛鳥時代に書かれたと考えてもそれほど無理はない。
 書紀の成立は712年だが、この頃には太子を崇高化が進み推古天皇は既に後方に退いてる。 それより後の時代になって、改めて推古天皇にスポットライトが当たり、再び崇高化する文を創作したとは考えにくい。 太子が薨じたのは〈推古紀二十九年〉〔621〕である。『上宮記』は天皇号を使っていない(資料[20])から、 680年代より古いだろう(資料[41])。 推古帝が崩じた〈三十四年〉〔626〕後、推古帝崇敬感情が残る期間が20年ぐらいは続くと考えると、聖徳太子の崇高化は650年ごろから始まったと想像される。 すると、推古帝懺悔言が作られたのは、650年前後か。
 ただ気にかかるのは、豊浦寺への「山林園田瀆封戸奴婢等更納奉」と、元興寺への「田園封戸奴婢等納奉」で、奈良時代後半に本格化する荘園(寺領を含む)を思わせることである。 しかし、〈孝徳紀白雉五年〉〔654〕に「紫冠中臣鎌足連。増封若干戸。」、「小山上大使吉士長丹以少花下。賜封二百戸。賜姓為呉氏」 がある。これらは書紀の時代に書かれた文だが、白雉年間に遡って実際に「封戸」なる呼び方があったと考えてもよいのではないか。 また「納奉」は推古天皇による寄進を意味する。皇后だった時に私領を各地にもっていたことは、 〈用明元年〉に「炊屋媛皇后」の「海石榴市宮」の記述から伺われる。 これらを考えると、「納奉」の文は、実際に推古帝が私領を寄進した記録に基づいて、7世紀半ばまでに書かれたと考えることも可能であろう。
《最勝安楽》
 〈符〉に、最勝王経がでてくる()。これは経の名であるから音読であろう。 よって「最勝」も仏教用語でよって音読かも知れないが、仏法=ホトケノミノリの例もあるから、経名の一部でなければ訓読かも知れない。
 「最勝」を書紀に探すと一例見つかった。 それはどこかというと〈斉明紀五年七月〉で、「諸蕃之中倭客最勝」とある。 場面は、遣唐使が皇帝に謁見した後に、「諸蕃」(中国周辺諸国)とともに冬至の会(え)に招かれたところである。 「最勝」は他の国より品格が優れていたとも、特別待遇されたとも読めるが、どちらにしても自賛であろう。仏教用語を使うような文脈ではないから、一般表現であろう。 訓点は「㝡勝〔北野本・内閣文庫本〕がついており、古訓は「もとも ます」と思われ、訓読である。
 「最勝安楽」は一般表現だが、同時に仏教用語を意識したものであろう。 これを訓読〔もともまし、やすまる〕するか、音読〔さいしようあむらく;※…ンの使用は1100年頃からするかはどちらとも定め難い。
《面奉弥勒》
 「面奉弥勒」は、「面して〔=顔を向けて〕、弥勒をたてまつる」とも読めるが、 「聴聞」は動詞熟語だから、「面奉弥勒-聴聞正法」の対応により、「面奉」も動詞熟語と見るべきであろう。 意味は「奉迎」と同じく、尊敬の意を加えるか。ただもう少し独立性が強いかも知れない。 ただ、「面奉弥勒〔顔を向けて奉る〕」も「-奉弥勒〔顔をお向けする〕」も実質的には変らない。
《愚痴邪見》
 「愚痴邪見三宝即破滅焼流。所奉之物反取滅。」とは、 言うまでもなく、()段「庚寅年〔570〕、諸臣が堂舎を焼き、佛像・経教を難波の堀江に流し」、 ()段「乙巳年〔585〕、敏達天皇の命令で仏像・伽藍を焼き滅し、三尼の法衣を脱がせて仏法を破却」したことを指す。
 「愚痴邪見」の人物が誰かといことについては、ここまでは「他臣」として名指しが避けられてきたが、次の(k)段に至って中臣連・物部連が中心であったことが明示される(概略)。 その「愚痴邪見」の人に引き摺られた「父母六親眷属」の典型的な人物は敏達天皇だが、晩年には蘇我馬子の許に三尼を返す融和姿勢を見せている。 前代の欽明天皇については、当初は聖明王の勧めを受け入れたが、諸臣の反発に押されて仏教弾圧に舵をきった。 ただ、()段で蘇我稲目の「内心は他国の神を捨てず」という言葉に欽明天皇も同意したと描くのは、 少しでも仏教に寄り添わせたいという執筆者の思いの現れであろう。
《大意》
 このように申し終え、 そして発願し、
「仰ぎ見て願わくば、三宝の恩頼を皇帝陛下に蒙(こうむ)り、 共に乾坤四海〔全世界〕の安楽に与り、 正法増益し、聖化無窮なることを」と申し上げました。
 この時、 天皇(すめらみこと)はただちに座から立ち上がり、合掌して天を仰ぎ、 心から懺悔が流れ出すに至り、仰りました。
――「我が現在の父母と六親眷属〔一族〕らは、 暗愚邪見の人の為すがままに、 三宝をたちまち破滅させ焼き流し、 奉納の物を却って滅しました。
 けれども、今私は等由良(とゆら)の後宮を尼寺として、 山林、園田、水路、封戸(ふこ)、奴婢等を更に奉納いたします。
 また、法師寺を敬造し、 田園、封戸、奴婢等を奉納いたします。
 また、丈六像二体を敬造し、 また、それ以外にも種々の善根を修行します。
 この功徳をもって、 我が現在の父母、六親眷属らは、 仏法を焼き流した罪、 及び奉納した物を却って滅ぼした罪を、 悉(ことごと)く贖(あがな)い除滅しようとするために、 弥勒(みろく)に面と向かい、正法を聴聞し、無生忍(むしょうにん)を悟り、 速やかに正覚を成し遂げます。
 十方の諸仏、及び四天王等の所に、 誠至の心を以て、誓願いたします。
 お造りする二寺及び二体の丈六仏、 更に二つの寺に所納する種々の諸物は、 更に接収せず、滅ぼさず、犯さず、過ちません。
 もし我が正身、もし我が後嗣子孫らが、もし他人を疎(うと)んじ、 もしこの二体の丈六仏と奉納の物を却って責め取ってしまい、 誤謬がこの事の如くあれば、 必ず種々の大災、大恥を受けるでしょう。
 もし信仰をもち、併せて供養し、 恭敬し、豊養を修治すれば、 三宝の恩頼を被り、 身命を長らえ、安楽に種々の福を得られましょう。 万事は事は意の如く、万世に絶えません。 私は既に定まり、知り終えました。
 誹謗し、併せて施しを奪えば、それぞれがその災禍を得るでしょう。 私は、既に懲りごりすることを終えました。
 ゆめゆめ三宝を軽んずべからず、 三宝の物を犯すべからず、 修行に隨い堪(た)えて、 善営を捧(ささ)げ、 願はくば、後嗣子孫の類(たぐい)を引導し、 この法の恩頼を蒙り、 現在未来に最勝安楽を得させなさい。
 信心を絶やさず、この法を修行することは、 永世無窮のことですから、 願わくば一切の含識有形(がんじきゆうけい)を共にして、 普(あまね)くこの福によって、 速かに正覚を成さしめなさい。」
 と、このように誓い終えたとき、 直ちに大地は動搖し、 雷鳴に震え、にわかに雨が降り、大雨となり、 悉く国内を浄めました。


まとめ
 欽明天皇と敏達天皇は、中臣連と物部連を中心とする「愚痴邪見」の臣に引き摺られて伽藍を焼き、仏像を難波堀江に流し、 奉納物を没収した。推古天皇はその一族として心から懺悔した。
 そして、豊浦寺と元興寺を建てて丈六仏を作り、田園封戸奴婢を奉納して仏教の振興に力を尽くすことを誓った。 それを受けて自然界は大地は動揺させ、雷鳴と大雨でその罪による汚れを洗い清めることによってその懺悔を受け入れたことを示した。
 これまで見てきたように『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』は、まだ太子が偉大化される以前、推古天皇を崇敬した時代の文書である。
 だが、こと(j)段〔推古懺悔言〕に関しては、仏教弾圧の罪を推古天皇一人が担って清算する。 これによって、太子は真っさらな身で仏教の聖人となることが可能になった。 また「天皇」号の使い方はこれまでになく自然で、「大大王」の呼称は消えている。
 よって(ⅰ)段までに比べて(j)段は新しいが、しかし描かれた懺悔の深さを見ると未だ仏教への弾圧の記憶が生々しかった頃と思われるから、 (j)段が書かれた時期は、天皇号使用が始まった680年代直後かも知れない。 そして、その頃から仏教の柱としての太子信仰が急速に高まる。
 以上をまとめると、文書の(ⅰ)段までは推古天皇を崇拝する立場で書かれた文であったが、 (j)段から後は過去の罪を清算することにより、太子崇敬の時代を出発する条件を整える性格となったと言えよう。