元興寺伽藍縁起并流記資財帳をそのまま読む〔2〕 |
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2020.09.16(wed) [6]Ⅵ:符 ▼▲
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【Ⅵ:符】
符 本國當洲濃云
東天竺吉集姓云
生天子聖國中生公國也
定興五年八月十五日。白日満日。諸宿萬光時分也。
依一姓種言以萬巧云巧五間四面堂一宇之身始。
〔中略〕
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〔概略〕
東天竺吉集姓は、生天子聖国と中生公国についていう。
あるとき、一つの氏族が巧言により五間四面の堂を初めて建てた。
その氏族の人は、代々性質は大らかだった。
そして長元大王が四十歳のとき、香山の東に出て、清らかな月の光を雲や木の枝が黒く遮るのを見て、
まだ見ぬ如来像に願い、悪心を捨て善心をもちたいという思いが沸き上がってきた。
仏像を望んでから九日、舎衛国から賢僧が来て国民にいろいろなことを語るというので、
王城に入れて話を聞くと種々の不思議なことを語った。
王は賢僧に最勝王経を習って自ら讃経を講じた。
すると突然一人の童が城を訪れ、立派な仏像を作るという。
そして作ったのが二丈一尺の弥勒菩形美像である。
こうして初めて堂を作り仏法が繁栄したが、長元大王が滅して十二年、仏法は衰減した。
焦善王は、仏像そっくりの容姿で、神と相通する入道がいたので遣わした。
この人は出家して、本国の復興を期して海に向かった。
すると、仏を信ずる人たちが竜王を求めて海に入っていた。
猟師の言うには、皆が竜王の眉間玉を求めているらしいという。
そこで海に入り、竜王と眉間玉を手に入れようとして交渉したところ、
金剛般若経を講ずれば与えようという。
入道はこうして眉間玉を得て、その玉をもって古朝に帰り、
古朝の王は入道の申すままに堂塔を建立した。
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記 日本日惠氏 元明天皇造治本元興寺是也
見二東天竺古国次第一
以弟玄師形此朝行佛法可レ爲二最勝佛法一
記 六月三日 金剛般若會
同月廿七日 最勝會
八月十八日三論會
毎月十五日吉祥會
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日恵氏…〈姓氏家系大辞典〉の姓氏に、ヒサト・ヒエ・ニチケイはない。
最勝仏法…金光明最勝王経は、仏教の経典のひとつ。
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記す。日本(やまと)日恵の氏(うぢ)。元明天皇造治(つくりたまひし)本(もとの)元興寺、是(これ)也(なり)。
東天竺の古(いにしへ)の国の次第(ついで)を見よ。
以て弟玄師の形を此の朝(みかど)〔=日本〕の行(をこな)ふ仏法(ぶつほふ、ほとけのみのり)は最勝(さいしよう)仏法と為(な)す可(べ)し。
記す。六月三日。金剛般若会(こむごうはむにやえ)。
同月二十七日。最勝会(さいしようえ)。
八月十八日三論会(さむろむえ)。
毎月十五日吉祥会(きちぢやうえ)。
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《元明天皇》
ここでは漢風諡号「元明天皇」が用いられている。
「~宮」や、和風諡号の併記がないから、漢風諡号ができた後に書かれた文であろう。
資料[38]によれば、淡海三船による漢風諡号の制定は762~764年頃と見られるから、
Ⅵが書かれたのは、それより後である。
元興寺は、平城京遷都〔710〕に伴って飛鳥から平城京に移転した。「元明天皇造治」は、この移転を指すと見られる。
〈続紀〉霊亀二年〔716〕に、五月辛卯〔十六日〕に「始徙〔=遷〕二-建元興寺于左京六条四坊一」とある。
元明天皇は715年に元正天皇に譲位したので、移転がなったときには実際には上皇であった。
《金剛般若経・最勝王経》
| 平城宮大内裏跡坪割之図〔北浦定政(1817~1871)〕
「黒川家旧蔵」の図面を早稲田大学図書館が公開したもの。
その上に現在の寺院位置や施設を記入した。
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金剛般若経については、〈天武紀-十四年十月〉に「是月。説二金剛般若経於宮中一。」とある。
また最勝王経についても、
〈続紀-神亀二年七月戊戌〔十七日〕〉に、「諸寺院限。勤加二掃浄一。仍令二僧尼一読二金光明経一。若無二此経一者。便転二最勝王経一。令二国家平安一也。」
とあり、金剛般若経・最勝王経は仏教の基本的経典のひとつであった。
元興寺の僧の勤行は最勝仏法を用いて行われ、その発祥は天竺の焦善王の国にあるというわけである。
《東天竺吉集姓》
ここでは、物語の出典を『東天竺吉集姓』とするが、「吉集姓」という語は諸辞書やネットでの検索にも全くかからず、不明の書である。
「生天子聖国」と「中生公国」も不明だが、辛うじて文中の「舎衛国」が発見できた。舎衛国は、釈尊在世の頃の中インドにあったコーサラ国の首都であったという。
したがって、この物語は紀元前の天竺の話であることだけは分かった。
《符》
「此朝行仏法」という言葉があるから、仏法のしきたりは少なくとも形式上朝廷が定めたことになっている。だから、文書は「符」なのであろう。
符の起原は使者に届けさせた竹簡で、後日文書が真正であることを証するために、控えの竹簡にまたがって文字を記したという。割り印と同じことである。
【元興寺の平城京への移転】
移転先は、Ⅶにも「移二-立元興寺于左京六條四坊一」が書かれ、〈続紀〉と同じである。
しかし、実際に元興寺の「塔跡」その他の遺跡が残るのは奈良県奈良市新屋町12で、
条坊は「左京四条六坊」にあたる。
実際に六条左四坊にあるのは大安寺である。〈続紀〉は誤記か、または大安寺との混同が考えられる。
Ⅶは〈続紀〉に記載された条坊を、そのまま使ったのかも知れない。
【今昔物語】
『今昔物語』巻十一の「聖武天皇始造元興寺語第十五」に、よく似た話がある。
その概略を示す。なお、この項ではこの話を「今昔」、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』Ⅵを「符」と略す。
今昔物語集巻十一〔『国史大系』第十六巻:経済雑誌社1901年〕 |
聖武天皇始造元興寺語第十五
今昔。元明天皇奈良ノ都ノ飛鳥ノ郷ニ建立シ給フ。堂塔ヲ起給ウテ金堂ニハ 丈ノ弥勒ヲ安置シ給フ。
其弥勒ハ此朝ニテ造給ヘル佛ニハ不レ御。昔シ東天竺ニ生天子國ト云フ國ト云フ國有り。
國王ヲバ長元王ト・云フ。〔以下略〕
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〔あらすじ〕
元明天皇は奈良の都の飛鳥郷に元興寺を建立した。金堂に安置する弥勒菩薩像は、本朝(わが国)で作られたものではない。
昔、東天竺に生天子国があり、長元王が治めていた。その国は五穀豊かで不足はなかったが、
長元王は「世に仏法というものがあるそうだ。それが何であるか知りたい」と言った。
然る間、一艘の船が漂着し、北天竺の僧が乗っていた。
僧は最勝王経を説いたが、仏像は作れないと言った。
僧はやがて妻子が恋しくなり、許しを得て本国に帰った。
その後また、海辺に小舟が寄り、童子が一人乗っていた。
童子は、他に能はないが仏像を造ることができるという。
出来上がった弥勒菩薩は眉間から光を放っていた。
この仏像を安置するために伽藍を建て、僧徒数百が住んで仏法を広めた。
その後、悪王が出て仏法は滅んだ。
白木の国王はその霊験を伝え聞き、宰相がこの仏を取りに行き謀略により手に入れたが、
帰りに嵐に遇い、これだけはと眉間の珠だけを取って海に入ったところ、
竜王が手を差し出して取った。
海は静まったが手ぶらで帰っては必ず頸を召されるだろうと涙を流し、
珠を返し給えと願ったところ、竜王が夢に現れ、「この珠を得ることによって私の苦しみが滅した。
この苦しみを滅したままにしてくれるなら珠を返す」という。
それなら金剛般若経がぴったりだと考え、書写供養すると珠が返された。ただ、その発する光だけは返さないという。
仏の眉間に珠を入れて本国に持ち帰り、伽藍を建立して安置し、仏教は盛んになった。
元明天皇はその仏の利益霊験を伝え聞き、日本に移したいと望んだ。そのとき白木〔新羅と見られる〕の王の外戚という僧が、天皇の宣があれば献上させられると言い、
実際には暗夜に堂の前に船を漕ぎよせて密かに仏を取り、日本に運んできた。
現在の元興寺を建立し、金堂にこの仏を安置した。寺には僧徒数千人が集まり住んで、仏法は盛んになった。
ところが、ある荒僧が元興寺で天竺の王の忌日に勤行するのはもっての外だと言い、「忌日勤むべし」派は追放された。
追放された僧は多く東大寺に移ったので、両寺は不和となり合戦に及んだ。結局僧は散り散りとなって、元興寺の仏法は絶えた。
ただ、弥勒仏は今もあり、時々光を放ち、世の人が最も礼拝すべき像だと言われる。
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《今昔物語の成立年代》
『今昔物語の研究』第一巻〔池上洵一著;和泉書院2001〕によると、
・本文に出てくる事柄の最下限は、人物:源章家は1106年、依拠資料:『俊頼髄脳』は1111、2年頃、
『弘賛法華伝』の舶来:1120年。
・「作品を貫く思想が保元・平治の乱などを経験した時代のそれとは思えぬ」。
以上から、「概ね西暦1130~40年代の成立か」という(同書p.30)。
また、C14法による年代測定では、鈴鹿本の「最古の紙縒りの歴年代は1000~1200年」という
(同書引用の中村敏夫他「加速器14C年代測定法による古文化財の正確な年代決定に関する基礎研究」
(平成五~六年度文部省科学研究費補助金 一般研究(c) 研究成果報告書 平成7年))。
「鈴鹿本」は今昔物語の初期の写本と考えられ、「原本との距離も平安期の文学朝の文学作品の伝本としてはたぐい稀な近さといってよい」という(同書)。
《奈良の都の飛鳥の郷》
移転した元興寺の一帯は「飛鳥」と呼ばれ、万葉にも詠われる。(第180回《万葉集の飛鳥と明日香》)。
「なぶんけんぶろぐ(106)」は、「710年に都が平城京に遷(うつ)ると、寺院の一部も新都に移転しました。よく知られているのが薬師寺、大官大寺〔大安寺〕、飛鳥寺の三つの寺院です。」と述べる。
《聖武天皇》
題名は「聖武天皇の始めて造りたまひし元興寺の語り」だが、中身は「元明天皇、奈良の都の飛鳥の郷に建立し給ふ」である。
聖武天皇の在位期間は724年~749年だから、霊亀二年〔716〕の元興寺の移転には関わっていない。
聖武天皇が建立したと言えば、何といっても東大寺である。
信じ難いことだが、題名は誤りであろう。
《表現の類似点》
符、今昔では要になる部分については、その表現はほぼ一致する。
●王と童子が問答する場面
符 |
王自恵云。何国来転童。何具二才能一。
童答曰。無二能才一。但有二一少能一。顕二仏像一能也。
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王自(みづから)恵(めぐみて)云はく。「何国(いづくのくに)より来転(きたり)し童(わらは)や。何(なにそ)才能(かど)を具(そな)ふや。」
童答へて曰はく「能才(かど)無し。但一つの少(ちひさき)能(かど)有り。仏像を顕(あらは)す能也(なり)。」
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今 昔 |
王童子ヲ召テ宣ハク「汝ヂ何ノ国ヨリ来レルゾ。能ハ何ゾ」ト。
童子ノ云ク。「我レ他ノ能无シ。只仏ヲ造ル計也」ト。
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〔王は童子を召し「お前はどの国から来たのか。何か能はあるか。」と問われ、
童子は「私には他の能はありません。ただ仏を造ることができます」と答えました。〕
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●竜王との交渉が成立して、眉間玉が返される場面
符 |
竜王云不レ受レ語。語云。我者依レ此無二海中四十三苦一。不レ応レ令レ得二義思一。
入道云。其語道理。但為レ令レ離二苦悪一。奉レ講二金剛般若経一。
竜王云。善念。取レ玉出二海中一。
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竜王は〔入道が、玉を返してほしいと言う〕語(こと)を受けず、語りて云はく「我は此〔眉間玉〕により海中の四十三苦を無くしき。
義(のり)の思(おもひ)を不応令得(えしむべからずや)〔代わりになることを考えてもらえないか〕」といひて、
入道云はく「その語(こと)に道理(ことわり)あり。但し苦悪を離れ令(し)む為(ため)に、金剛般若経を請じ奉(たてまつ)らむ」といひき。
竜王「善(よきこと)と念(おも)ふ」と云ひて、玉を取り海中より出(い)づ。
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今 昔 |
竜王、夢ノ中ニ相宰に云く、「竜衆ニハ九ノ苦有り。
而ルニ、此ノ珠ヲ得テ後、其苦ヲ滅タリ。汝ヂ、其苦ヲ尚滅セヨ。珠ヲ返サム」ト。
夢覚テ、相宰喜テ海に向テ云ク、「珠返セム事喜也。必ズ苦ヲ離レム事ヲ可報シ。
但シ、諸ノ経ノ中ニ、金剛般若懺悔滅罪、勝レ給ヘリ。彼ノ経ヲ書写供養シテ、九ノ苦ヲ滅セム」ト云テ、
即チ書写供養シツ。其時、竜王海中ヨリ珠ヲ船ニ返シ入ツ。
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〔竜王は夢の中で相宰に「竜衆には九つの苦しみがある。しかし、この珠を得た後はその苦しみを滅した。その苦しみをこのまま滅してくれたら珠を返そう」と言った。
夢から覚め、相宰は喜んで海に向かって「珠を返してくれるのは喜びである。必ず苦しみから離れられるように酬いよう。
諸経のうち、金剛般若懺悔滅罪は優れている。その経を書写供養して九つの苦しみを滅しよう」と言って書写供養した。
すると、竜王は珠を船に投げ入れて返した。〕
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ここは、元興寺が金剛般若経を重んじることの由来を示し、要をなす部分である。
●伽藍:東西二町南北四町
符 |
堂塔建立。但堂地東西二町。南北四町。二町者菩提涅槃観行。
四町者無常生老病死之四相智也。
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〔古朝の王は眉間玉を持ち帰った入道の申し入れに従い〕
堂塔を建立(こむりふ)す。但し堂地は東西二町南北四町。二町は菩提(ぼだい)涅槃(ねはむ)を観行(くわむかう)し、
四町は無常、生老病死(しやうらうびやうし)の四相の智(さとり)なり。
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今 昔 |
先ヅ伽藍ノ四面ノ外閣ヲ廻シキ。
中ニ二階ノ堂ヲ起テ、此ノ仏ヲ安置シテ、東西二町ニ外閣ヲ廻ス事ハ、菩提涅槃ノ二果ヲ證ズル相ヲ表ス。
南北四町ナル事ハ、生老病死ノ四苦ヲ離レム事を表ス。
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〔〔王は童子に仏を安置する伽藍を建てるべしと宣(のたま)い〕
まず四面を外閣〔外郭〕で囲み、二階の堂を建ててこの仏を安置し、東西二町は菩提と涅槃の二つの果実を証する相〔様子〕を表す。
南北四町は、生老病死(しょうろうびょうし)の四苦から離れようとすることを表す。〕
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「符」では入道が持ち帰った眉間玉を仏像にはめこみ、安置するための堂塔である。
それに対して今昔物語では、初めに童が仏像を作ったときに、その仏像を安置するための伽藍である。
伽藍の外郭の寸法が東西二町、南北四町である謂れを語呂合わせ的に述べる。両者の内容は同じであるが、伽藍を建立したタイミングが異なる。
今昔では、符の「観行」・「智」それぞれの意味が解釈されて解りやすく書かれているところが注目される。
これを見ると、符が今昔に先行して存在したと思われる。
《眉間玉》
今昔には、竜王が眉間玉を手に入れるまでの経緯が書かれた部分が含まれる。
その経緯は符には載らないから、今昔が欠けた部分を巧妙に繋いだようにも見える。
しかし符においても、もともとはその経緯が入っていた可能性がある。
なぜかというと、「玉」が最初から「眉間玉」の名称で現れるからである。もし竜王が玉を手に入れる経過が本当になければ、
玉の名前は単に「玉」であろう。名称が「眉間玉」なのは、その前の部分に仏像の玉を竜王が手に入れる話が置かれていたからだと考えられる。
ただ、符の方にあった玉を手に入れた経緯が、今昔の述べる経緯と同じだとは限らない。
《今昔における付加》
今昔では、天竺で童が作った仏が、廻り廻って元興寺に来たことになっているが、
符にはそれがなく、単に元興寺が大切にする最勝王経と金剛般若経についての逸話の紹介になっている。
この点に関しては、今昔は話を相当膨らませたと思われる。
そもそもは仏像の発祥はガンダーラ地方などで、それはヘレニズム文化の影響によるもので時期は2世紀前後であった。
初期仏教では釈迦の姿の偶像化を避け、仏足石や菩提樹、法輪であらわされていた。
したがって、生天子聖国または中生公国の時代に弥勒菩薩が作られたという話自体が、後世の創作である。
《弥勒菩薩像》
今昔物語が成立した時点では、弥勒菩薩像が本尊として金堂に安置されていたと考えられる。
元興寺は「「大乗院寺社雑事記」宝徳三年(1451)10月14日条に「自小塔院火出元興寺金堂悉以炎上了」」(『日本歴史地名大系』平凡社;1979~2004)などとされ、
室町時代に消失した。
後継寺院は「元興寺(旧称極楽坊、真言律宗)、元興寺(東塔院址、華厳宗)、小塔院(小塔院址、真言律宗)の3寺院」である(『日本大百科全書』小学館;1994)。
これらの何れにも「弥勒菩薩像」に該当する仏像は見られないので、室町時代の火災などで失われたのであろう。
まとめ
符と今昔においては、元興寺は弥勒菩薩を中心として創建されたが如きである。
移転前の元興寺における蘇我馬子や聖徳太子との関わりは全く描かれない。
平城京の元興寺は、最勝王経と金剛般若経を基礎とする事実上新規の教団として出発したということであろう。
平城京の人々にとっては、目の前の元興寺が元興寺であって、飛鳥時代のことを知る人は殆どいなかっただろう。
そのことが今昔における描き方に現れている。
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2020.09.18(fri) [7]Ⅶ:大法師慈俊私勘 ▼▲
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【Ⅶ:大法師慈俊私勘】
私勘
元興寺 大和国添上郡
本願田原天王建立 又説曽我伊流賀大臣建立
道慈律師修造之 養老二年建立
後道慈律師天平元年供養三月八日
欽明天皇即位十三年甲申冬十月十三日辛酉
百濟王聖明王初獻二金銅佛像一軀幷經論幡蓋等一
稻目宿禰安二-置小治田家一勤修出家之業
以捨二向原家一爲寺【榾木原家牟久木也】
今此元興寺是也
壬申年
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捨…「捨」だけでは意味をなさないので、〈欽明紀十三年十月〉に倣って「浄捨」と解釈する。
勤修…「勤行(ごんぎょう)」は善法をつとめおこなうこと。
十三年甲申冬十月十三日辛酉…正しくは「十三年壬申冬十月十三日丁未」(別項)
壬申年…「壬申年」は552年で、欽明十三年に当たる。
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私(わたくしに)勘(かんがふ)。
元興寺(がんごうじ)。大和国(やまとのくに)添上郡(そふのかみのこほり)。
本願(ほんぐわん)田原(たはら)の天王(てんわう)の建立(こんりふ)、又曽我(そが)の伊流賀(いるか)の大臣(おほいまうちきみ)の建立と説けり。
道慈律師(だうじりつし)之(こ)を修造(しうざう)し、養老(やうらう)二年(ふたとせ)建立(こんりふ)す。
後(のちに)道慈律師、天平(てんびやう)元年(はじめのとし)供養(くやう)三月(やよひ)八日(やか)。
欽明(きむめい)天皇(てんわう)位(くらゐ)に即きて十三年(ととせあまりみとせ)甲申〔壬申(みづのえさる)〕冬十月(かむなづき)十三日(とかあまりみか)辛酉〔丁未(ひのとひつじ)〕、
百済王(くたらわう)の聖明王(せいめいわう)、金銅(こむどう)の仏像(ほとけのみかた)一躯(ひとはしら)并(ならびに)経論(きやうろん)幡蓋(はんがい)等(ら)を初めて献りき。
稲目宿祢(いなめのすくね)、小治田(をはりた)の家(いへ)に安置して、出家(しゆつけ)の業(わざ)を勤修(ごんしう)し、
以て向原(むくはら)の家(いへ)を〔浄〕捨(じやうしや)して寺(てら)と為(な)せり【榾〔椹?〕木原の家牟久木也(むく?原の家、むくの木なり)】。
今此(この)元興寺、是(これ)也(なり)。
壬申(みづのえさる)の年〔552〕。
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太后大々王與池邊皇子二柱同レ心
牟久原殿二楷井一
癸卯年 始以二作櫻井道場一
三女【善信禪藏惠善三尼也】
出家住其道場
生二佛法牙一故名二元興寺一
今亦更佛法興弘世 建元興寺
本名故稱二-名建元興寺一
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楷井…Ⅰにおける表記を用いたと見られる。
善信禅蔵恵善…〈釈紀-敏達〉善信。禅蔵。恵善。
道場…仏教の修行をする場。
桜井道場…「作櫻井道場~稱名建元興寺」の部分は、ほぼⅠの【縁起(3)】に拠っている。
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太后(たいこう)大々王〔推古天皇〕与(と)池辺(いけのへ)の皇子(みこ)〔用明天皇〕二柱(ふたはしら)心同じかりて、
牟久原に楷〔桜〕井を殿(みあらか)としたまふ。
癸卯(みづのとう)年〔583〕、始めて作られたる桜井(さくらゐ)の道場(だうぢやう)を以て、
三女(みたりのをみな)【善信(ぜむしむ)禅蔵(ぜむざう)恵善(ゑぜむ)三尼(みたりのあま)也(なり)】
家(いへ)を出(い)でて其の道場に住みて、
仏法(ぶつほふ)の牙〔芽〕を生(お)ひき。故(かれ)元興寺と名づく。
今亦(また)更に仏法を興し世に弘(ひろ)めて元興寺を建て、
本の名は、故(かれ)建元興寺〔建興寺か〕(こん〔ぐわん〕ごうじ)と称名(しようみやう)す。
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次法師寺者
自二高麗百濟一法師等重來送二佛法一
寺建稱二-名建通寺一
當皇后帝世並通佛之法建興通
故知大聖現影乎
經曰
於王後宮反爲二女身一而爲二説法一
其斯之謂矣
卽知三以レ此相二-應於此國機一
故随二其德義一稱二-名法興皇一
以此之稱名
永世應二流布一也
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経曰…「經曰於王後宮反爲女身~永世應流布也」の部分は、ほぼⅠの【縁起(3)】に拠っている。
仏法…「仏之法」の表記もあるので、平安時代には「ぶっぽふ」と「ほとけののり」の両方の言い方があったと見られる。
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次に法師寺(ほふしじ)者(は)、
高麗(こま)百済(くたら)自(よ)り法師(ほふし)等(ら)重ね来(きた)りて仏法(ぶつほふ)を送りて、
寺を建てて建通寺(こんつうじ)と称名(しようみやう)す。
当(まさに)皇后(おほきさき)帝(みかど)の世(みよ)並(な)べて仏之法(ほとけののり)を通(とほ)して建興(こんこう)通(つう)ずる
故(かれ)、大聖(おほきなるひじり)影(かげ)を現(あらは)すことを知るべき乎(や)。
経(きやう)に曰はく。
王(きみ)の後宮(きさきのみや)於(よ)り反(かへ)りて女身(をみなのみ)に為(し)て説法(せつほふ)為(す)、
其(それ)斯(そ)之(の)謂(いはれ)なるや。
即(すなは)ち此を以て国の機(まつりごと)に相応(ふさはし)と知る。
故(かれ)、其の徳義(とくぎ)に随(したが)ひて法興皇(はふこうくわう)を称名す。
此之(この)称名を以て
永き世に流布(るふ)す応(べ)し[也]。
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欽明天皇第十二子崇峻天王丁未年八月二日
生年六十七卽位【明年為元年】
元年戊申
聰耳皇子與馬子大臣定二元興寺之地一
卽破二飛鳥衣縫造木葉之家一作二假垣假房一
一云同年草二-創元興寺一
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八月二日…〈崇峻即位前紀〉「八月癸卯朔甲辰」に一致する。
元年戊申…〈崇峻紀元年〉と一致する。
飛鳥衣縫造木葉…〈崇峻紀元年〉「壊二飛鳥衣縫造祖樹葉之家一」〈内閣文庫本〉樹葉。
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欽明天皇(きむめいてんわう)の第十二(だいじふに)の子(みこ)崇峻(すしゆん)天王〔天皇〕丁未(ひのとみ)の年〔587〕八月(はつき)二日(ふつか)、
生年(よはひ)六十七(むそちあまりななつ)にして位(くらゐ)に即(つ)きたまふ【明年(あくるとし)を元年(はじめのとし)と為(す)】
元年(はじめのとし)戊申(つちのえさる)〔588〕
聡耳皇子(とみみのみこ)与(と)馬子大臣(うまこのおほいまちきみ)元興寺之(の)地(ところ)を定め、
即(すなはち)飛鳥衣縫造(あすかのきぬぬひのみやつこ)木葉(このは)が家を破(こぼ)ちて、仮垣(かりかき)仮房(かりばう)を作りたまふ。
一(あるに)云ふ。同じき年に元興寺を草創(さうさう)す。
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推古天皇元年癸丑正月
蘇我大臣馬子宿禰
依二合戦一願三飛鳥地建二法興寺一
立二刹柱一日
嶋大臣幷百人着二百濟服一觀者悉悦
以二佛舍利一籠二-置刹柱礎中一
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推古天皇元年(はじめのとし)癸丑(みづのとうし)〔593〕の正月(むつき)。
蘇我の大臣(おほいまうちきみ)馬子宿祢(うまこのすくね)
合戦(がつせん)に依りて飛鳥の地(ところ)に法興寺を建てむと願ひて、
刹柱(さつちう)を立てし日。
嶋(しま)の大臣(おほいまうちきみ)〔馬子〕并(ならびに)百人(ももたり)百済の服(きぬ)を着けて観(み)る者(ひと)悉(ことごとく)悦(よろこ)びき。
佛(ほとけ)の舎利(しやり)を以て刹柱の礎(いしずゑ)の中(うち)に籠置(こめお)きき。
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二年甲寅二月
皇太子上宮厩戸豐聰耳皇子
蘇我宿禰左大臣
令レ建二-立三寶一 始作二飛鳥大寺一
故曰二法興之世一也
或記云 二年甲寅二月朔日
天皇太子及大臣等令三興二-隆三寶一
仍沽臣等各爲君親競造二佛舍一是二神寺一焉
凡佛法興此時繁昌也
三年己卯五月
高麗僧惠慈百濟僧惠聰等來朝
此兩僧弘二-演佛敎一
並爲二三寶棟梁一
令レ住二法興寺一矣
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二年甲寅…書紀〔元年癸丑〕と一致する。
二年二月朔日…「造仏舎是神寺」は書紀と内容が一致する。
三年五月…書紀と内容は一致するが、「惠」は書紀では「慧」、但し北野本は「惠」。
惠慈…〈釈紀-推古秘訓〉惠慈。慧聡。
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二年(ふたとせ)甲寅(きのえとら)二月(きさらき)、
皇太子(ひつぎのみこ)上宮厩戸豊聡耳皇子(かみつみやのうまやどのとよとみみのみこ)、
蘇我宿祢(そがのすくね)左大臣(ひだりのおほいまうちきみ)
三宝(さむほふ)を建立せ令(し)めて、始めて飛鳥大寺を作る。
故(かれ)、法興(ほふごう)之(の)世(みよ)と曰ふ。
或(ある)記(ふみ)に云ふ。二年(ふたとせ)甲寅〔594〕二月(きさらき)朔日(ついたち)。
天皇(すめらみこと)太子(ひつぎのみこ)及び大臣(おほいまちきみ)等(たち)三宝(さむほう)を興隆(こうりう)せ令(し)め、
仍(すなはち)沽〔陪?〕臣(つかへのおみ)等(たち)各(おのおの)君の為(ため)に親(みづから)競(きほ)ひて仏舎(ほとけのいへ)を造る。是(これ)神寺(かむでら)なり。
凡(おほよそ)仏法(ぶつはふ)此の時に興り繁昌(はんしやう)す。
三年(みとせ)己〔乙〕卯(きのえう)五月(さつき)
高麗(こま)の僧(はふし)恵慈(ゑじ)、百済(くたら)の僧恵聡(ゑそう)等来朝(らいてう)し、
此の両(ふたりの)僧仏教(ほとけののり)を弘演(こうえん)す。
並べて三宝(さむほう)の棟梁(とうりやう)と為(し)たまひて
法興寺に住まは令(し)めき。
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或記云 丙辰十一月
飛鳥法興寺造立 始住二惠慈惠聰二僧等一
四年丙辰冬十一月 法興寺造了
乃云二塔殿處巨矣一【扶桑文略レ之】
元正天皇靈龜二年丙辰
移二-立元興寺于左京六條四坊一
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或る記(ふみ)に云ふ。丙辰(ひのえたつ)〔596〕十一月(しもつき)。
飛鳥(あすか)の法興寺(ほうこうじ)を造り立てて、始めに恵慈(ゑじ)恵聡(ゑそう)二僧(ふたりのはふし)等(ら)を住まはしめき。
四年(よとせ)丙辰冬十一月。法興寺を造り了(を)へり。
乃(すなは)ち塔殿(たふでん)の処(ところ)巨(おほきなり)と云ふ【扶桑(ふさう)の文(ふみ)之(こ)を略(はぶ)く】。
元正天皇(げんしやうてんわう)霊亀(れいき)二年(ふたとせ)丙辰(ひのえたつ)〔716〕
元興寺を左京(さきやう)六条(ろくでう)四坊(しばう)に移し立てき。
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元興寺壁上記云
始從二養老二年一破二-遷本寺一
天平十七年乙酉造二末寺一
飯高天皇卽レ位第四年也
年代記云
養老二年 奈良京立二元興寺一【云々】
若依二扶桑記一
興福寺建立以後 至二第八年一移二-建此所一
若依二壁記一 後二卅七年一建立
自二和銅三年一至二應和元年一 後二百廿五年
元興寺三輪宗安進大法師遂作二麻講門一
自二推古天皇四年一至二應和元年一三百卅八年
自二應和元年一至二長寛三年一一百廿年
合四百五十八年
准二此南寺一佛滅後至二于今年一百有餘年歟
長寛三年夏四月廿一日
大法師慈俊
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南寺…『国史大辞典』:元興寺伝を飛鳥伝・南寺伝と称するのは、元興寺が飛鳥の地にあったことと興福寺に対して南の地にあったことに由来する。
壁(上)記…「元興寺本堂の壁にでも書いて置いたものであらう。」(醍醐本諸寺縁起所収「元興寺縁起」に就いて(上)/喜田貞吉;京大『史林』1925)
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元興寺壁上記に云ふ。
始めて養老二年〔718〕従(よ)り本の寺を破り遷して、
天平十七年乙酉〔745〕末寺を造る。
飯高天皇〔元正〕位(くらゐ)に即(つ)きて第四(だいし)の年〔718〕也(なり)。
年代記に云ふ。
養老二年。
奈良京(きやう)に元興寺(ぐわんごうじ)を立てき【云々(しかしか)】。
若し扶桑記に依らば、
興福寺建立〔710〕以後第八年に至り、此所(ここ)に移し建てき。
若し壁記に依らば、後(のち)三十七年に建立す。
和銅三年〔710〕自り応和元年〔961〕に至る。後(のち)二百二十五年。
元興寺三輪宗安進大法師遂に麻講門を作る。
推古天皇四年〔596〕自り応和元年に至る、三百三十八年。
応和元年自り長寛三年〔1165〕に至る一百二十年。
合はせて四百五十八年。
此(これ)南の寺に准(なぞら)へて、仏滅後今年に至り百有余年(ももとせあまり)歟(かな)。
長寛(ちやうくわん)三年(みとせ)〔1165〕夏四月(うづき)二十一日(はつかあまりひとか)
大法師(たいはふし)慈俊(じしゆん)
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《十三年十月十三日》
「十三年甲申冬十月十三日辛酉」なる干支表記は、仏教公伝日を求める一つの材料になるかも知れないと考えた。
まず「欽明十三年」は書紀では壬申で、甲申年ではない。また壬申年の十月〔乙未朔〕十三日は丁未で、乙未朔辛酉は二十七日である。
実は、『扶桑略記』に「十三年壬申冬十月十三日辛酉 百済国聖明王始献金剛釈迦像一体」とある。
Ⅶの仏教公伝の日付は『扶桑略記』から取ったもので、その後「壬申」が「甲申」に誤写されたのであろう。
しかし、「十月十三日辛酉」の部分は『扶桑略記』のままである。
試しにこの辛酉日を手掛かりにして、十月十三日が辛酉〔十月己酉朔〕になる年を探すと、継体二十三年〔己酉;529〕と崇峻四年〔辛亥;591〕が見つかるが、
何れも仏教公伝年とは無関係であるのは明らかである。
結局、「十月十三日辛酉」は信頼性を欠く表記だから、これをもって仏教公伝年が確かさを増すことはない。
『扶桑略記』は、また「或記云。信濃国善行寺阿弥陀仏像。則此仏也」と述べ、
さらに「善光寺縁記云。天国排開広庭天皇〔欽明〕治十三年壬申十月十三日。従百済国…」という。
つまり、信濃善光寺縁起には、百済から欽明帝に送られた仏が善光寺にやってきたのが阿弥陀仏で、縁起には年に留まらず日付までついていた。
『扶桑略記』が「十月十三日」なる日付を『善光寺縁記』から得たとすれば、日付の干支は『扶桑略記』の段階で加わったわけである。
因みに、「辛酉」は年としては541年で、別説による仏教公伝の年538年に近い。もしかしたら「或云辛酉年」のつもりで傍らに「辛酉」と書き添えたものが、筆写者によって日付に間違われたのかも知れない。
《善光寺縁起》
この「善光寺縁記云」には「十三年十月十三日」に続けて、
「從二百濟國一 阿彌陀三尊浮レ浪來 著二日本國攝津國難波津一 其後經二卅七箇年一 始知レ有二佛法一」
〔百済国より阿弥陀三尊浪の浮かび来たりて日本国摂津国難波津に著(あらは)る。その後三十七年を経て始〔初〕めて仏法あるを知る〕とある。
この「三十七年」は、「若二依壁記一」の「後二卅七年一建立」にも出てくるが、文脈が異なる。
善光寺縁起は、以後「『伊呂波字類抄』『覚禅鈔』『平家物語』『吾妻鏡』などにも部分的に引用されている。完本としては『続群書類従』の真名本が最古の縁起」であるという
(『WEB版新纂浄土宗大辞典』)。
《田原天王》
「田原天皇」は「春日宮御宇天皇」とも呼ばれ、光仁天皇(49代)の父である志貴皇子に追贈された諡号である。
天智天皇の皇子であるが、天皇を目指す意欲は全く見せなかったという。
この人物は、「霊亀二年〔716〕」没だから、元興寺移転に関わったとしても矛盾はない。
《若依扶桑記》
「若し扶桑記に依らば」と前置きして、興福寺建立を基準年として「第八年に元興寺の移転がなされた」ことを引用する。
興福寺建立は710年だから、その「第八年」は霊亀三年=養老元年〔717〕ということか。
しかし『扶桑略記』には、養老二年〔718〕に「九月甲寅日。遷二法興寺於新都一」とある。
ならば、「第八年」のように「第」がつけば満年齢風に数えたのだろうか。そういうことなら、一応辻褄は合う。
ところが、同じ『扶桑略記』の霊亀二年〔716〕には「移二-立元興寺于左京六条四坊一」とあり、〈続紀〉と同じことがちゃんと書いてある。
ということは、Ⅶを著した大法師慈俊は、霊亀二年の「六条四坊」は〈続紀〉から得たもので、『扶桑略記』の霊亀二年条は見なかったのであろうか。
もし存命中だったら聞いてみたいところである。
太字は本文に示された年数、〔〕内は計算で求めた年数。
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養老二年〔718〕。
飯高天皇四年〔718〕。
興福寺建立〔710〕第八年〔717〕移建。
和銅三年〔710〕~応和元年〔961〕:後225年〔251年〕。
推古天皇四年〔596〕~応和元年〔961〕:338年〔365年〕。
応和元年〔961〕~長寛三年〔1165〕:120年〔204年〕。
併せて458年〔569年〕。
仏滅後~今年:100年余。
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《年数の計算》
平城京に移転して以後のいくつかの年数が示されているが、計算してみると実際の年数とは相当異なる(右図)。
理由は分からない。
《仏滅》
「仏滅後至二于今年一百有余年歟」は、
「元興寺の仏教が滅びて百年余が経過した」と読める。前回見た『今昔物語』巻十一第十五でも、
元興寺から僧が去り壊滅したと述べていた。ただ、弥勒菩薩は今も金堂にあり崇拝されているというから、
寺院そのものは最低限の人数で維持され、元興寺に所属した教団組織が潰滅したということであろう。
『今昔物語』の推定年代1130年頃と、Ⅶに記された「長寛三年〔1165年〕」は近いので、
両者ともに十一世紀半ばに教団組織が衰退した現実を踏まえて、書かれたものであろう、
《大意》
私的に勘考します。
元興寺(がんごうじ)。大和国(やまとのくに)添上郡(そふのかみのこおり)。
本願は田原(たはら)天皇になされて建立。また曽我入鹿(いるか)大臣の建立と説かれます。
道慈律師(どうじりっし)がこれを修造し、養老二年〔718〕に建立。
後に道慈律師が、天平元年〔729〕三月八日に供養。
欽明天皇の十三年甲申〔正しくは壬申、552〕十月十三日、
百済王の聖明王は、金銅仏一体、並びに経論、幡蓋(ばんがい)などを初めて献上しました。
蘇我稲目宿祢は、小治田(おはりた)の家に安置し、出家して業を勤修(ごんしゅう)し、
向原(むくはら)の家を浄捨して寺としました【また椹木原の家。むくの木があった】。
今の元興寺は、これ〔が、その始まり〕です。
壬申年〔552〕。
太后大大王〔推古天皇〕と池辺(いけのへ)の皇子〔用明天皇〕のお二人は同心して、
牟久原の楷井〔桜井〕を〔仏〕殿とされました。
癸卯年〔583〕、初めて桜井の地に道場を作り、
三女【善信(ぜんしん)、禅蔵(ぜんぞう)、恵善(えぜん)の三人の尼】は
出家してその道場に住み、
仏法の芽を生じた故に元興寺と名付けられました。
今また、更に仏法を興して世に弘(ひろ)めて元興寺を建て、
本の名はその故に建元興寺〔建興寺か〕と称名しました。
次に〔元興寺の別名〕法師寺(ほうしじ)〔について〕は、
高句麗と百済から法師たちが、度々来て仏法をもたらし、
寺を建てて〔元は〕建通寺(こんつうじ)と称名しました。
まさに推古天皇は皇后、そして帝となられた御世を通して、仏法を広め建興を広められました
故に、大聖が現影されたと知るべきです。
経(きょう)に曰く。
推古天皇は後宮から転じて、女性の身で説法(せっぽう)され、
これがその謂れです。
即ちこれを以って国の政に相応しいと知られました。
故にその徳義に随って、法興皇(ほうこうおう)を称名されました。
この称名は、
永き世に流布されましょう。
欽明天皇の第十二子、崇峻天皇は丁未年〔587〕八月二日、
六十七歳で即位されました【翌年を元年とします】。
元年戊申〔588〕、
聡耳皇子(とみみのみこ)と馬子大臣は元興寺の場所を定め、
飛鳥の衣縫造(きぬぬいのみやつこ)木葉(このは)の家を壊し、仮垣と仮房を作られました。
あるいは、その年に元興寺を草創したと言われます。
推古天皇元年癸丑〔593〕正月、
蘇我馬子宿祢大臣は
合戦によって飛鳥の地に法興寺の建立を発願しました。
刹柱(さっちゅう)が立った〔=塔が完成した〕日、
嶋大臣〔=蘇我馬子大寺〕並びに百人が百済服を着ているのを見て、皆が喜びました。
佛舎利(ぶっしゃり)を、刹柱の礎の中に納めました。
二年甲寅二月、
皇太子の上宮(かみつみや)の厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)と
蘇我〔馬子〕宿祢左大臣は、
三宝を建てて、初めて飛鳥大寺を作られました。
故に、法興(ほうごう)の御世といいます。
ある記録によれば、二年甲寅二月一日、
天皇〔推古〕、太子〔聖徳〕及び大臣〔蘇我馬子〕らによって三宝は興隆し、
陪臣等は各々の親しい君のために競って仏舎を造りました。これが神寺(かみでら)です。
およそ仏法は、この時に興り繁昌しました。
三年乙卯五月、
高句麗の僧恵慈(えじ)、百済の僧恵聡(えそう)らが来朝しました。
両僧は仏教を弘演(こうえん)し、
そろって三宝の棟梁とならせられ、
法興寺に住まわせました。
ある記録によれば、丙辰年〔596〕十一月、
飛鳥の法興寺を造立し、始めに恵慈(えじ)、恵聡(えそう)の二僧を住まわせました。
四年丙辰十一月に、法興寺を造り終えました。
その塔殿の所は巨大だといわれました【扶桑の文はこれを略す】。
元正天皇は霊亀(れいき)二年丙辰〔716〕に、
元興寺を〔平城京〕左京六条四坊に移設しました。
元興寺壁上記にいいます。
養老二年〔718〕、本の寺を破棄して遷し始め、
天平十七年乙酉〔745〕、末寺を造りました。
〔養老二年は〕飯高天皇〔元正〕四年〔718〕です。
年代記にいいます。
養老二年。
奈良京に元興寺(ぐわんこうじ)を立て【云々】。
もし扶桑記によるなら、
興福寺建立〔710〕の第八年に、ここに移建しました。
もし壁記によるなら、その後三十七年に建立しました。
和銅三年〔710〕より応和元年〔961〕まで、のち二百二十五年。
元興寺三輪宗安進大法師は麻講門を作りました。
推古天皇四年〔596〕より応和元年まで、三百三十八年。
応和元年より長寛三年〔1165〕まで一百二十年。
併せて四百五十八年。
これは南寺〔南都七寺〕のひとつに準えられ、仏滅後今年まで百年余です。
長寛(ちょうかん)三年〔1165〕四月二十一日
大法師(たいほうし)慈俊(じしゅん)
まとめ
Ⅶは、日付に「長寛三年」〔1165〕とある通り、12世紀に慈俊が著わした部分であろう。
恐らくは慈俊がⅠ~Ⅵをひとまとめにして、それらの総括としてⅦを自ら執筆して加えたと思われる。
ただ、Ⅰ~Ⅴは、「伽藍縁起并流記資材帳」を擬したものとして既にまとめられていたかも知れない。
Ⅵ以前については、その中身に慈俊が手を加えることはなかったと考えてよいだろう。
人名の表記や文体に非常に古い時代の特徴を示しており、学究的な感覚の持ち主ならとてもいじれないものである。
Ⅶにおいては、「楷井」や「大大王」などの語句が見られるので、飛鳥にあった時期はⅠを基礎とし、
平城京移転については、『扶桑略記』や、恐らく〈続紀〉も参照されている。移転後は、「壁上記」からも引用されている。
注目されるのは仏教公伝の年で、Ⅰの「戊午」〔538〕は採用せず、
『扶桑略記』の「欽明天皇:十三年壬申十月十三日」〔552〕の方を採用している。
書紀や『扶桑略記』のいう欽明帝の在位期間から、外れることを嫌ったのかも知れない。
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⇒ 元興寺伽藍縁起并流記資財帳そのまま読む[3]
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