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2020.07.16(thu) Ⅰ:縁起 ▼ |
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『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』はその題名通り、「元興寺伽藍縁起」:仏教公伝から元興寺の創立・歴史と、「流記資財帳」:元興寺の所有する財産や荘園などからなる。 ただ、「元興寺縁起」とは言いながら等由良寺の由来の比重が大きく、 また「流記資材帳」の部分のウエイトはかなり小さい。 全体をざっと見ると、さまざまな年代に成立した独立文書の集合体となっており、 ここでは次の7つの部分に分けた。 Ⅰ「縁起」…聖徳太子〔622年没〕が推古天皇に勅を受けて記したと書かれている。 Ⅱ「塔露盤銘」…辛亥年〔651〕に、難波天皇〔孝徳〕が授けたとされる。 Ⅲ「丈六光銘」…〔飛鳥大仏の光背に刻まれたものか〕。 Ⅳ「牒」…天平廿年〔748〕。大僧都行信宛。 Ⅴ〈流記資財帳〉…元興寺が所有する賤口1713人、水田453町あまり、食封1700戸の内訳。 Ⅵ「符」(下への文書)…元興寺の仏教は東天竺古国の作法により「最勝仏法」を用いるべきと述べる。 Ⅶ「私勘」(個人的な勘考)…大法師慈俊著。長寛三年〔1165〕付け。添上郡に移転した「元興寺」について、桜井牟久原の寺以来の由来。 Ⅳには「天平十八年〔746〕十月十四日 被僧綱所牒〔僧綱、牒する所を被す〕」とある。 「牒」は、本来は文書の冒頭に置く文字だから、本来は「Ⅰ(もともと冒頭に「牒」があったとして)-Ⅱ-Ⅲ-Ⅴ-Ⅳ」 あるいは、「Ⅳ-Ⅰ-Ⅱ-Ⅲ-Ⅴ」の順序か。 Ⅰ・Ⅱ・Ⅲはそれまでに別々に伝わってきたものを「元興寺伽藍縁起」として、「牒」の前半部分としたと思われる。 Ⅵ・Ⅶは、それぞれ「牒」の後の時代に書かれた別個の文書であろう。 《出典》 原文の『大日本佛敎全書』「大正二年〔1913〕十一月廿五日發行;佛書刊行會」を、 国立国会図書館デジタルコレクション(大日本仏教全書118)によって閲覧した。 《訓点について》 原文には「善計テ可シレ白衆告支。」 〔善く計りて白す可しと告げたまひき〕 など、宣命体のような小字と、カナの助詞・送り仮名が混在している。これは、奈良時代と平安以後に複数回訓点が加えられたことを意味する。 また、この例で「衆」(ス)が音仮名に使われる例は珍しいので、本来は「須」かも知れない。 このように訓点は複数の時代の混合で、また必ずしも適当でないものもあるので、ひとまずすべて除去する。 その上で、サイト主独自に返り点を付した。 Ⅰ:【縁起(1)】
《大意》 元興寺伽藍縁起并(ならびに)流記(るき)資財帳 楷井(かいせい)等由羅宮(とゆらのみや)で天下を治め賜う等与弥気賀斯岐夜比売命(よとみけかしきやひめのみこと)が、 生まれて一百年の歳時癸酉(みづのととり)〔613〕 正月九日、馬屋戸聡耳皇子(うまやどとみみのみこ)は、勅を承って元興寺(がんごうじ)などの本の縁(ゆかり)、 及び等与弥気命(とよみけのみこと)の発願、そして諸臣らの発願を記します。 大倭国の仏法は、 斯帰嶋宮(しきしまのみや)で天下を治め賜った天国案春岐広庭(あまくにおしはるきひろには)天皇の御世に創始されました。 蘇我の大臣稲目宿祢(いなめのすくね)がお仕えしたとき、 天下を治めて七年、歳次戊午(つちのえうま)〔538〕十二月に渡来し、 百済国の聖明王の時、太子像と灌仏器一揃え、そして説仏起書の巻一箱がもたらされました。 そして申し上げました。「まさに仏法は既に世間の無上の法と聞かれ、あなたの国もまた修行すべきです。」 時に天皇はこれを受けられ、諸臣に 「此の他国より送られて渡ってきたものを、用いるべきか否か、よく相談して申すべし。」と告げられました。 その時、他の臣たちが「我等の国のものは、天の社、国の社一百八十神の一まとまりを礼奉するものであって、 我等の国の神の御心は恐ろしく、よって他国の神を礼拝すべきでない」と申す中で、 ただ蘇我の大臣稲目の宿祢ただ一人「他国が貴しとするものは、 我等の国もまた貴しとする、これを善しとすべきである」と申しました。 この時天皇は大臣に同意して「何処に置いて拝礼すべきか」とお尋ねになり、 大臣は「大々王の後宮を分けて、その家を拠点にするとお決めなさいませ」と申し上げました。 そこで天皇は、大々王をお呼びになり「お前の牟久原(むくはら)の後宮に祀る寺を作り、他国の神の宮にしたいと思う。」と告げられ、 大大王は「大仏(おおみぼとけ)の御心に順うことにして、さがります。」と申し上げ、 この時この宮殿に居を定めて拝礼を始められました。 【縁起(2)】 《省略部分1》 ここでは概略のみを示し、精読は後の回に行う。なお、年の干支表記は原文のまま示した。 また、個人名についても、その表記の揺れが重要であるから、原文の表記を示した。
雷丘東方遺跡で「小治田宮」墨書土器が出土したことにより、小治宮は雷丘周辺にあったことが確定している (安閑紀-元年十月)。 豊浦宮時代の豊御食炊屋姫(推古天皇)の事績は書紀には何も書かれていないが、 Ⅰでは欽明天皇の時代から等由良後宮(豊浦宮)に住んでいて、皇女時代に一部を仏殿にし、 次に桜井道場を置き、即位後に同じ場所に等由良寺(現在の向原寺;明日香村字豊浦630)を建立する。 《概要》 この部分の要点を搔い摘んで示す: ①欽明帝の残りの期間、仏教は排斥される。 ②代が変わり敏達天皇は、仏法の再興に理解を示すが、 晩年になり、堂塔の構えを備え始めるのを見て再び弾圧に転ずる。 辛うじて馬古宿祢(曽我馬子)だけに個人的な崇拝が許され、仏法の火種は残る。 ③用明朝になり公的な再興が認められ、大大王(後に推古)・馬古大臣・聡耳皇子(聖徳太子)によって、 等由良宮に桜井寺(等由良寺)を尼寺として建てるとともに、鐘声が互いに聞こえる場所に法師寺を建造する。 【縁起(3)】
仏法の最初の時、後宮を破壊から護り、楷井道場に作り変えました。 そのとき、三人の少女が出家し、大いに喜んでその道場に住まわせました。 こうして仏法の芽が生まれ、よって元興寺と名付けました。 この三人の尼たちは、常に得度して比丘尼になりたいと申し、 これが現に比丘尼の身となって説法した謂われです。 今また更に仏の法を世に興弘するために元興寺を建てました。もともとは、建興寺と称名しました。 次に法師寺は、高麗(こま)百済(くだら)から法師等が重ねて来て、仏法を奏上しました。 寺を建てたので建通寺と称名しました。 まさに皇后が帝となられた御世、並べて仏法に通じ、建興を通して、大聖の御影を現すことを知るべし。 既に王の後宮を少女〔=三尼〕のために作り変えて説法を為させたことは、その謂れです。 即ちこの国の機に相応しいお方であることを知り、その徳義のままに法興皇(ほうこうこう)と称名いたします。 この称名をもって、永く世に流布すべきです。 以上のことを符〔=下命する文書〕として、諸臣にお送りいたします。」 【縁起(4)】 《省略部分2》
この部分の主な内容は、 ①推古天皇の発願。 ②中臣連・物部連が仏法を受け入れるとする誓い。 ③「縁起」を起草する指示など。 から成る。 中臣連・物部連の立場は、倭の神祇を仏法を同等に受け入れるというものである。 奈良時代以後の神仏習合という宗教形態の出発点は、ここにあったと見てよいであろう。 【縁起(5)】
Ⅰは、本来は「吉事啓聞日勅受賜上諸事記。」で閉じたはずである。 この「記」が、冒頭の「受レ勅二"記"二元興寺等之本縁…一」 に対応すると考えられるからである。 その後の、大大王が私的に「沙弥善貴」と名乗った部分、及び紛失・毀損・改竄の禁止を命じた部分は、後に書き加えたものであろう。 なお、ここでも「二寺」〔元興寺と豊浦寺〕の文書であることを明示している。 《大意》 この、池辺列槻宮(いけのへのなみつきのみや)天下を知ろしめた橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)〔用明〕の 皇子、馬屋門豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)が、 桜井(さくらい)等由良(とゆら)の宮で天下を知ろしめる豊弥気賀斯岐夜比売命(とよみけかしきやひめのみこと)の、 生まれて百年、歳次癸酉〔613〕の正月元日、 吉事の啓示をお聞きする日、勅(みことのり)を承り、上のもろもろの事を記しました。 大大王天皇は私的に沙彌善貴(さみぜんき)と称すると詔され、さきの二寺と万物を伝えられました。 悪人が凌貪〔無理強いしてむさぼること〕を押さえるべきで、この文書を開示したり写させてはならない。 もしこの文書を破棄したり散逸させれば、 まさに二寺が散滅するだろうことを知らねばならない。 お前たち三師は堅く保持せよ。 厳順(げんじゅん)法師。妙朗(みょうろう)法師。義観(ぎかん)法師。 【縁起(解釈)】 《楷井》 Ⅰの冒頭は「楷井等由羅宮治二天下一等与弥気賀斯岐夜比売命」で始まり、 聖徳太子が推古天皇の勅によってこの書を記して献上したと述べる。 締めくくり部分にもほぼ同じ文章を置くが、こちらは「櫻井等由羅宮」となっている。 これらを見れば、「楷井」はもともと「櫻井」であったと見るのが妥当であろう。 しかし、同一文中に楷井と櫻井を並べた箇所がある。癸卯年に「牟久原殿楷井遷始作櫻井道場」とあるのがそれである。 「聡耳皇子白」の部分の「後宮不令破楷井遷作道場」は、これの短縮形である。 これだけを見ると、まるで「牟久原宮殿を楷井から移動させて、櫻井道場を作った」かの如く読める。 ただ、動詞「遷」には、①ある物体が位置を変える。②物の形や中身が変わる。の二通りの意味がある。 ここでは間違いなく②で、今まで大大王の宮殿として使われてきた「楷井の牟久原殿」の使い道が変わって「櫻井道場」になったのである。 ただ、Ⅰには後世の書き加えがあると見られ、書き加えた人が「楷井」と「櫻井」が別の土地だと思い込んで「楷井遷」を挿入した可能性がある。 次に「牟久原宮殿」と「等由良宮」がでてくるが、それらの関係を考える。 「等由良後宮爲尼寺」と「牟久原後宮」と、両方とも「後宮」をつけた箇所がある。 「後宮」は本来は〈汉典〉:「嬪妃所居之処」とあるように王の宮殿内の妃の宮室だが、 ここでは太后である大大王(豊炊屋姫)の、独立した宮殿である。 そして「等由良宮成レ寺故名二等由良寺一」を併せて考えれば、 「等由良後宮は牟久原後宮の別名で、そこが「等由良尼寺」(豊浦寺)になったと解釈できる。 結局、①「等由良後宮(別名牟久原後宮)」が583年に「櫻井道場」として使われ初めたが、相変わらず敷地内に豊御食炊屋姫が住んだ。 ②593年に豊御食炊屋姫が即位して小治田宮に移り、等由良後宮=櫻井道場の場所に尼寺「等由良寺」の仮堂が作られて本格的な造営が始まった(書紀・塔露盤銘によれば完成は596年)。 また、以上から楷井=櫻井=等由良=牟久原であるのも確定的である。 さて「楷井」はⅠに限らず、後に書かれたⅣ、さらには12世紀のⅦにも使われている。 Ⅶの筆者はⅠ~Ⅳを参照して、その中にあった「楷井」を用いたのであろう。 だから「楷井」が誤写だとすれば、Ⅳ以前の筆写において既に生じていたことになる。 さらに遡れば、そもそもⅠを作成する時点で用いた複数の資料に「櫻井」を使った文書と「楷井」を使った文書があったのかも知れない。 同じ場所を表す複数の表記が脈略なく出てくることは、複数の文書を合体して作られた感を強める。 結局、櫻井・楷井は同一地名ではあるが、ごく早期から二種類の表記として定着してしまった。 これを客観的事実として尊重するなら、「楷井」にも独自の読み方が必要になる。しかし訓は不明だから、音読みを用いてカイセイということになろう。 《生年一百》 「推古天皇百歳」は明らかに誇張であるが、書紀では即位の年齢は意外なほど高く示されるのが一般的である。 天皇については、自然年齢とは別の値が公称されていたと考えられる。恐らくは神格化のためであろう。 《仏法の渡来時期》
一般論としては「戊午」が誤写である可能性も考えなければならないが、蘇我稲目が病となった569年頃が「仏法が来て三十年余」とされるから538年は計算が合う。 よって、戊午は誤写ではないと思われる。 書紀と食い違う理由は不明だが、歴史の教科書には一般的に538年の方が採用されている。 《耳无宮気弁田》 欽明天皇は「大々王之其牟久原後宮者。更無レ望レ心。終奉二於佛共一莫三取為二自物一。」 〔牟久原後宮は自分のものとせず、仏殿として提供せよ〕と詔して、 新たな豊御食炊屋姫の後宮として、耳无宮と、付属の気弁田〔御名代か〕与えられた。 ところが、推古天皇即位の「…為レ我者小治田宮作」の部分も「今まで住んでいた等由良宮のところに桜井寺を建て、小治田宮に遷った」と読める。 このように、Ⅰには内容が相異なる別伝が混在している。 書紀では「皇后即二天皇位於豊浦宮一」とあるように、即位するまでずっと豊浦宮に住んでいた。 「耳无宮」については、〈推古紀〉九年に、名前が類似する「耳梨行宮」に行幸した記事がある。 《桜井道場》 池辺癸卯〔583〕年に桜井道場を設置して、三人の尼=善信・禅蔵・恵善を住まわせた。 書紀では、〈敏達紀〉十三年に三尼を置いたとするが、桜井道場ではなく蘇我馬子の家の東の仏殿に置いた。 「作二桜井道場一」に対応する部分を書紀に探すと、〈推古紀-二十年〉〔620〕まで下る。 つまり、Ⅰでは桜井道場の開始が癸卯〔583〕まで繰り上がっている。これは、書紀とⅠとの大きな相違と言える。 当時は敏達朝だから、「大后大々王与池辺皇子」のうち「池辺皇子(用明)」の表記は全く適切である。 「大后」〔=皇后〕も、豊御食炊屋姫(推古)は、敏達天皇の「嫡后」だから適切である。 《天皇の表記》 Ⅰでは、基本的に天皇を「天皇」と表記する。 ここで、『上宮記逸文』を見ると、 継体天皇を「伊波礼宮治天下乎富等大公王」と表記している。 『上宮記』は聖徳太子の薨からあまり日を置かずに書かれたと考えられ、 当時は称号「天皇」が存在しなかったのは明らかである。「天皇」に書き直さない形で残った文書は、極めて貴重である。 継体天皇の称号は「宮殿名+"治天下"+個人名+"大公王"」の構造をしている さらに遡って、〈銀象嵌錯銘鉄剣〉は「治天下獲加多支鹵大王」(雄略天皇;五世紀末)と見られ、 〈銀象嵌錯銘鉄剣〉は「獲加多支鹵大王」(同)である。 したがって、5世紀の時点で北九州から南関東の範囲を統一国家とする概念が確立していて、その統治者としての「治天下」「大王」という表現は少なくともそこまで遡るわけである。 また、宮殿を天皇名とする書法は〈国造本紀〉の「泊瀨朝倉朝」(雄略)、「難波高津朝」(仁徳)に見られる。 これも古事記の編纂時期には既に一般的で、「坐岡本宮治天下之天皇」(舒明天皇;第242回)の表記がある。 これらの一般的な表記から見て、Ⅰのうち自然な書法は、 ①「斯帰嶋宮治天下天国案春岐広庭天皇」〔磯城嶋宮治二天下一押春木天皇;欽明〕である。 ところが②「大大王天皇命」〔推古天皇〕は、据わりが悪い。 「大王」には、天皇の昔ながらの呼び方という意識が残っていたようで〔万葉集のワガオホキミなど〕、また「天皇命」もスメラミコトとミコトがダブる。 つまり「大大王天皇命=オホスメラミコトノスメラミコトノミコト」を意味する奇妙な語となってしまう。 同じ大大王への表記でも、③「楷井等由羅宮治天下豊弥気賀斯岐夜比売命」〔桜井豊浦宮治二天下一豊御食炊屋姫命〕は天皇名として適切である。 ところが、ここではなぜか「天皇」ではなく「命」のままである。 ④「池辺列槻宮治天下橘豊日命」〔用明〕も「天皇」ではなく、「命」のままである。 そこで考えられるのは、Ⅰの原型は〈上宮記〉の同時期ではないかということである。 それを、「天皇」が使われるようになった時期(690年ぐらい?)に系統的に表記を直したのではないか。 ①はもともと「…案春岐広庭大王」であろう。そうすれば『上宮記』との類似性も高まる。 ②は「大大王命」に「天皇」を挿入した。 ③は「…豊弥気賀斯岐夜比売命」を「…豊弥気賀斯岐夜比売天皇」に直し切れなかったことが考えられる。 ④も同じであろう。 その他、『大日本佛敎全書』版では、しばしば「天王」となっている。 「天皇」の使い始めの頃は、「天王」の表記が混在していた可能性もある。過渡期に改定されたことの一つの表れか。 なお、「天皇」が使われるようになった時期についての考察は、後の回で改めて述べる。〔実際には資料[41](称号「天皇」の開始時期)で論じた。――2020.11.08付記〕 《大大王》 Ⅰは、馬屋門皇子(聖徳太子)が自ら執筆したことになっているが、にわかには信じ難い。 ただ、前項の考察により、原形となった文章は『上宮記』と同じぐらいの時期に成立したように思われる。 その原形の文章で「大大王」なる呼び名が使われていたと考えられる。 当時聖徳太子自身が推古帝に対して、大きな敬意を払って「大大王」と呼んだのだろう。 仮に太子自身が記した文書ではなくとも、その体裁をとって書かれているからこの呼称が用いられるのである。 オホキミは、天子のほかに有力な御子もそう呼ばれていた。おそらく聖徳太子自身もオホキミだったのだろう。 推古天皇の超越的な地位を表すために、「大」を重ねたと思われる。 他に例のない呼び名だから訓は不明だが、〈倭名類聚抄〉では平安時代の職名の「大-」が「於保伊」と訓まれる例が多い。 「オホイ」は「オホキ」の音便であるから、「大大王」にはオホキオホキミが、ひとつの訓みとして考えられる。 Ⅰの最後に、「聡耳皇子」の名による奏上の中に、推古天皇の仏教振興の功績に対する賛辞がある。 聡耳皇子(聖徳太子)が政治の実権を握っていたが、その上に宗教上の権威を担う推古天皇を戴いていたわけである。 これは古代のヒメヒコ制(第83回)がこの時代に再現されたものとの言える。 聖徳太子=大王、推古天皇=大大王と位置づけられていたのは確定的である。 《元興寺と豊浦寺》 「元興寺縁起」とは言うが、少なくともⅠについてはほとんどが豊浦寺に関する記事で占められている。 飛鳥元興寺そのものに関する記述は僅かで、587年に豊浦寺の鐘の声が聞こえる距離に「法師寺」の場所を決めさせたところに見える程度である。 そこでは、豊浦寺は尼寺として位置づけられている。 終わりの方の「聡耳皇子」名による奏上を正しく読むと、建立されたのは三寺である。 ①三尼の桜井道場が、最初の元興寺である。 ②新しく元興寺を別のところに建てたが、最初の名前は建興寺である。 ③高句麗・百済から招いた僧のために建てたのが法師寺で、別名建通寺という。 ①の尼は、③にでかけて行って白羯磨に参加する。②が現在の飛鳥寺の場所で、 ③は②と同一か、隣接していたのではないだろうか。 ①が後の向原寺であろう。 なお「法興皇」は、推古天皇の功績を讃えた文脈の中にある。 既に皇女の時期に後宮を提供して仏教を芽生えさせ、 天皇に即位したきには仏法に通じて建・興・通して大聖の御影を現した功績を示し、 その徳義のままに法興皇と名付けて称えるという文章だから、「法興皇」とは推古天皇のための称号である。 《文書成立時期》 Ⅰの内容は、推古帝生誕百年と称する612年までのことである。 それ以後の平城京移転のことはまだ載らない。 これまで考察したように、この文書の最初の形は6世紀半ばまでに出来上がっており、 以後改定が重ねられたのだろうが、特に690年頃から大幅な書き換えがあり、「天皇」の表記はこのときに加えられたと考えられる。 ただ、用語法のばらつきを見ると、このときの改定者の腕はあまりよくない。仮に太安万侶が行っていれば、はるかにエレガントで統一性のある文書になっただろう。 だが、それでは元の姿は見えなくなる。不器用な改定の御蔭で、改定前の原型に迫ることができるわけである。 まとめ Ⅰには、全般に表記の不統一が目立つ。ストーリーの一貫性に疑問を覚えたり、意味が取りにくいところもある。 既に最初に複数のソースを繋ぐ段階で、表現の統一が不十分だったのであろう。 さらに、長いに年代に渡って書き加えがあり、脈絡を通しきれていないようにも見える。 さて、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』なる文書を読み始めたのは、仏教公伝の年が書記と不一致であるからである。 その真相に迫るためには、全体像とての文書の信憑性を判定することが不可欠なのである。 これまで見たところでは、7世紀初めから8世紀半ばぐらいスパンの中で複数の人の筆が混在し、混乱もある。 ただ"桜井道場"が敏達朝に遡る可能性そのものは、十分に認めてもよいだろう。 仏教公伝とされる戊午年〔538年〕そのものは、早い時期に書かれて変わっていないと見られる。 しかし、事柄が詳しく年代付きで述べられるのは569年以降である。それまでの31年間は概念的で、 神の祟りや疫病、そして伽藍の焼き討ちなど、容易に頭の中で考え出せる範囲のことである。 事柄の記録としては、事実上空白であろう。 「538年」については、欽明天皇の即位前後の時期の事柄が年代付きで書かれていて初めて、書紀の対照資料として役立つ。 それでこそ、信憑性の判定が俎上に登るのである。 それが何もなく、ぽつっと孤立して「戊午年」があるだけでは、 残念ながら「言い伝えのひとつ」に留まる。仏教公伝の時期は、依然として書紀による片肺飛行なのである。 |
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2020.08.08(sat) [2]Ⅱ:塔露盤銘 ▼▲ |
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『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』の第二の部分は、「塔露盤銘」である。 「露盤」とは、塔の先端部にある「相輪」の、根元の部分をいう(右図)。 その表面に刻まれた文字が「露盤銘」ということになる。 なお、「露盤」には相輪全体を表す使い方もある。 「塔露盤銘」は「元興寺伽藍縁」に収められているのだから、元興寺の塔の露盤銘だと考えるのが普通であろう。 いわゆる「元興寺五重塔」は奈良時代の建立とされ、安政六年〔1859〕に焼失した。 これは、平城京に移転した後のものである。この「塔露盤銘」は孝徳天皇のときに授かったとされるから、平城京移転後の「元興寺五重塔」より前、 飛鳥時代の元興寺にも塔が建っていたことになる。 ところが「塔露盤銘」の内容を読むと、移転前の飛鳥元興寺〔現飛鳥寺〕の塔とは決定できない。 露盤銘に記された名前は「建通寺」であり、それが元興寺(現飛鳥寺)か、豊浦寺(現向原寺)か、あるいは失われた「法師寺」なのかが分からないのである。 【Ⅱ:塔露盤銘】
国家ヤマトについては、記「倭」、書紀「日本」である。 分国ヤマトについては、記紀ともに「倭」を用いる。 「大和」は、倭名類聚抄で分国について用いる。 国家について「大和」を用いた例はあまり見ない。 また、天皇名表記の標準の形は「宮殿所在地+"治天下"+個人名+"天皇"」である。 ここでは、 「斯歸嶋宮治天下阿末久爾意斯波羅岐比里爾波天皇」〔磯城嶋宮治天下天国推開広庭天皇〕ときちっと表現することが可能である。 したがって、「大和国天皇斯歸嶋宮…」は、一定の素養があれば決して用いない書法である。 《佐久羅韋等由良宮》 「佐久羅韋(さくらゐ)」はいうまでもなく「桜井」である。 Ⅱでは、この一か所だけであるが、 このかな表記を見ると、Ⅰの「楷井」が「桜井」の誤写である印象が強まる。 《建通寺》 「建通寺」が元興寺の別名か、現豊浦寺かを判別するのはなかなか難しい。 Ⅰの【縁起(3)】を読むと、 初代元興寺は豊浦の桜井道場。飛鳥寺のところに建てたのが、元の名「建興寺」から、二代目の「元興寺」 法師を迎えて、二代目元興寺と別に建てたのが、「法師寺」またの名は「建通寺」である。 これだけを見ると、現豊浦寺が法師寺で、現飛鳥寺が元興寺かと思える。 しかし、癸丑年〔593〕を見ると、現向原寺のところが尼寺=豊浦寺になった。 そして、豊浦寺の尼僧は「法師寺」の「白羯磨」に出かけることになるが、その場所は尼寺から「鐘の音が聞こえ、日帰りできる」とする。 そこには、「法師寺」は現飛鳥寺のところではないかと思わせるものがある。 戊申年〔588〕には、六人の僧と工人が送られ、法師寺の金堂などを建てた。 一方尼寺については、593年に差し当たって簡易な金堂と仏堂を作り、本格工事が始まる。 塔露盤銘によれば、「建通寺」は596年に完成している。 前回は、「法師寺」(=建通寺)は、元興寺に隣接していただろうと整理した。 【縁起(3)】の「次法師寺者」という書き方を素直にとれば、元興寺とは別寺である。 しかし「次に、元興寺のまたの名を建興寺というのは…」という読み方も全く不可能というわけではない。 一方、明日香村公式ページによると、豊浦寺跡にも「門前や境内に多くの礎石がみられ」、 「昭和32年(1957)、昭和45年(1970)の発掘調査でも塔、金堂、講堂などが検出され」たというから、 塔を備えた寺であったのは確かである。これだけなら「建通寺」が豊浦寺の別名であった可能性も否定しきれないが、 Ⅰの文脈では、建通寺と豊浦寺の間に一定の距離があることは揺るがない。 《上釋令照律師》 上釋令照律師の恵聡法師、鏤盤師の将徳などを招請した記事は、書紀〈崇峻元年〉と重なる。一般的な寺の建造の助力を願うものであるが、 ここではあたかも、建通寺に関わるような形で書かれている。 少なくとも昔麻帝弥までの部分は、書紀と同時期またはそれ以後の書き足しであろう。 「山東漢大費直」以下の名前は書紀にはないから、他の資料によったと思われるが、その書かれた時期を判断する決め手はない。 《山東漢大費直》 「費」・「直」は、いずれも姓(かばね)の「あたひ」で、二種類の表記を重ねて書いたものである。 よって「費宜」が「費直」の誤写であることは明白である。 さらに、「山東漢大費直名麻高垢鬼名意等加斯費直也」という書式はあり得ず、 あるとすれば、「山東漢大費直名麻高垢鬼。○○費直名意等加斯費直也」である。また「山東漢」には、おそらく「大和漢」と「東漢」〔どちらも「やまとのあや」〕が混合している。 〈続紀〉延暦十年〔791〕四月によれば、東漢の忌寸たちの姓はもともと「直」であったというので、 「東漢大直」は、そのうちの一族であったことになる。 その東漢の忌寸姓の氏、 延暦四年〔785〕六月に「坂上・内蔵・平田・大蔵・文・調・文部・谷・民・佐太・山口」が列挙されている (資料[25])。 この中に「大」はないから、「文」の誤写か、「大蔵」の蔵の脱落、あるいは「大蔵直」が「大費直」に誤られたことも考えられる。 すると、誤写前の形として、「東漢大蔵直」あるいは「東漢文費直」を想定することができる。 《他の箇所の誤写》 このように全体に誤写が多いから、 「等己彌居斯夜比彌乃彌己等」(推古天皇)、「有麻移刀等刀彌々乃彌己等」(聖徳太子) の「己」「刀」はともにヨ("與"〔略字体"与"〕など)である可能性が高まる。 《大意》 難波天皇〔孝徳〕の御世、辛亥年〔651〕正月五日、お授けいただいた塔露盤銘(とうるばんみょう)にいう。 大和国(やまとのくに)〔倭〕の天皇(すめらみこと)、 斯帰嶋宮〔磯城磯城嶋宮〕で天下を治(しろしめ)す阿末久爾意斯波羅岐比里爾波弥己等〔天国推開広庭尊;欽明天皇〕は、 巷宜(そが)伊那米大臣(いなめのおほむらじ)〔蘇我稲目大臣〕のお仕えした時、 百済国の正明王(せいめいおう)は上啓して「万法の中、仏法が最上でございます」と申し上げました。 天皇は大臣とともにこれをお聞きになり「善きかな」と仰り、 仏法を受け入れて倭国に造立しました。 しかし、天皇大臣等らは報いを受けましたが、さらに御業を尽くして、 天皇の御女(むすめ)、佐久羅韋等由良宮(さくらいとゆらのみや)〔桜井豊浦の宮〕で天下を治(しろし)めす、 等己〔与〕弥居斯夜比弥乃弥己等(とよみかしやひみのみこと)〔豊御炊食姫の尊;推古天皇〕の御世、 甥の有麻移刀等刀〔与〕彌々乃彌己等(うまやどとよみみのみこと)〔厩戸豊耳の尊;聖徳太子〕の時に及び、 お仕えする巷宜(そが)有明子大臣(そがうめこのおおまえつきみ)〔蘇我馬子大臣〕を総領とされました。 諸臣等に及び、称讃して「魏々(ぎぎ)であり〔大きいさま〕、よいことだ」と言い、 仏法を敬意をもって造立しました。 父天皇〔欽明〕と父大臣〔蘇我稲目〕は、菩薩の心を発して十万の諸仏衆生を化度して、国家太平を誓い、 塔廟(とうびょう)を造立しました。 この福力の縁により、天皇大臣及び諸臣等は、 過去七世の父母から広く六道(りくどう)四生(しじょう)衆生(しゅじょう)に及び、 衆生処々十方浄土に、 遍(あまね)くこの願いにより、皆仏果〔みのり〕を得られます。 子孫を思い、世々忘れず、 綱紀を絶やすことなかれと、建通寺(こんつうじ)と名付けました。 戊申年〔588〕、 初めて百済王昌王(しょうおう)に法師(ほうし)及び諸仏を要請されました。 そして、百済から上釈令照律師(じょうしゃくりょうしょうりっし):恵聡(えそう)法師、鏤盤師(ろばんし):将徳自昧淳(しょうとくじまいじゅん) 寺師(てらし):丈羅未大(じょうらみだい)、父賈古子(ぶけこし)、 瓦師(がし、かわらし):麻那文奴(まなもんぬ)、陽貴文(ようきもん)、布爰貴(ふおんき)、昔麻帝彌(しゃくまたいみ)が遣わされ、 作らせた人は、 山東漢(やまとのあや)大(おお)の費直(あたい)麻高垢鬼(まこくき)、意等加斯(おとかし)の費直(あたい)で、 画師(えたくみ)は百加(ひゃくか)博士、陽古(ようこ)博士です。 丙辰年〔596〕十一月に完成しました。 そのときに作らせた金工(かなたくみ)は、 意奴弥首(おぬみのおびと)辰星(たつほし)、 阿沙都麻首(あさつまのおびと)未沙乃(みさの)、 鞍部首(くらべのおびと)加羅爾(からに)、 山西首(やまにしのおびと)都鬼(つき)、 この四つの部(べ)の首(おびと)を将として、諸(もろもろ)の才人(てひと)〔技術者〕に作らせました。 まとめ Ⅱ塔露盤銘に書いてあることは、①建通寺は588年に発願し、596年に完成したことと、 ②塔露盤銘は651年に授かったことである。 Ⅰによれば豊浦寺の仮金堂・仏道の設置は推古元年の593年だから、 おそらく596年頃に豊浦寺も完成したのであろう。元興寺の完成もその頃かと想像される。 塔露盤銘については、早くからできていた塔の露盤に、後日露盤銘を張りつけたと考えることもできるが、 塔の完成または再建を祝して設置したと考えるのが自然ではないかと思われる。 建通寺が豊浦寺の別名である可能性は低いが、元興寺に対しては、建通・元興両寺が同一なのか、隣接していたのか、全くの別寺であったのかは不明瞭である。 次に塔露盤銘が書かれた時期については、蘇我氏(稲目・馬子)・欽明天皇・推古天皇・聖徳太子の古風な表記から見て、実際に651年頃に書かれた銘文が土台にあるのは信じてもいいように思われる。 すると、当時実際にあったのは元興寺だけで、単純にその寺が「建通寺」と呼ばれていたのかも知れない。 さて、Ⅱは原文そのものではなく、特に「上釈令照律師~昔麻帝彌」の部分は、書紀の完成後に〈崇峻紀〉を参照して書き加えた可能性が高い。 いくつかの表記違いは、誤写であろう。 二種類の表記「倭國」と「大和國」があるのは、 おそらく「倭國大王」のところだけを「大和國天皇」に直したのであろう。書紀に倣えば「日本國天皇」とすべきだが、 そこまでは至っていない。これが改定者の能力のレベルと見る。 その後に五か所ある「天皇」は、原文に「大王」とあった部分を置き換えたものと思われる。 しかし、「等己彌居斯夜比彌乃彌己等」〔推古〕・「有麻移刀等刀彌々乃彌己等」〔聖徳〕を、 それぞれ「等己彌居斯夜比彌天皇」・「有麻移刀等刀彌々太子」に直しきれなかったのは、改定者の読解力不足の故であろう。 |
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2020.08.18(tue) [3]Ⅲ:丈六光銘 ▼▲ |
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丈六光銘は、元興寺の釈迦丈六像〔恐らく現在の飛鳥大仏〕の本体または傍らに置いた板に刻まれたものであったはずである。
現物はもう存在しないようだが、「丈六光銘曰」という文章が『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』の中に残っている。
現存する「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」なども参照しながら、 文章の作成時期や特徴について考察する。 【Ⅲ:丈六光銘】
『漢書』「律暦志上」に、度量衡と、その原器「五量嘉」に関する記述がある。 現在「新莽嘉量」が残っていて、その「五量嘉」の現物の一つと見られる。 これについて、資料[36]で論じた。 そこでは「新莽嘉量」の「実測値」に基づいて度(寸法)、量(容積)のメートル法への換算値を求めた。 ただ、資料[36]を書いた時点では「実測値」なるものの出典が不明であったが、 改めて調べたところ、その値と完全に一致するデータを載せた論文が見つかった。 それは、劉復の論文「新嘉量之校量及推算」〔『考古学論叢』(東亜考古学会・東方考古学協会編;昭和3~5〔1928~1930〕)に掲載。以下〈劉復〉〕である。 さて、「律暦志上」によれば、衡〔質量〕の基準は、この「五量嘉」(新莽嘉量)自身の質量である。 曰く、 「五量嘉矣。其法用銅、方尺而圜〔=周囲〕其外、旁有庣焉。其上為斛、其下為斗、左耳為升、右耳為合龠。其狀似爵、以縻爵祿。 上三下二、參天兩地、圜而函方、左一右二、陰陽之象也。其圜象規。其重二鈞。」。 すなわち、「五量嘉」自身の質量が「二鈞」である。 〈劉復〉によると、新莽嘉量の実測値は、 「13600gr.・細為二比験一・知三其錯誤数在二25g.与50gr.之間・即1/544与1/272之間・亦即0.37%与0.18%之間一。」 〔13600g(誤差25~50g;0.18~0.37%)〕である。 「律暦志上」によればこれが「二鈞」で、さらに「十六兩為斤。三十斤為鈞」。 〔1鈞=30斤、1斤=16両」〕と述べるから、1斤=227g、一両=14.2gとなる。 この値によって換算してみると、「銅二万三千斤」=5220kg、「金七百五十九両」=10.8kgとなる。 《瀆邊》 「瀆辺天皇」が「池辺天皇」〔用明〕を指すのは確実である。「瀆」は本来「溝」と同義語であるが、 〈類聚名義抄(観)〉の古訓「タマリ水」は、イケとも訓まれ得ることを示唆する。 「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」では、まごう事なく「池邊」だから、「池」が「涜」に誤写された可能性も疑われる。 《諸王子教緇素》 緇素はすなわち黒服と白服で、僧と俗を指す。 その前の文の意味は「聖徳太子と蘇我馬子にまず仏法を学ばせ」であろうから、「諸王子」は聖徳太子と蘇我馬子を指すことにすれば意味が通る。 しかしh蘇我馬子は王子ではないから、このままでは「諸王子」が宙に浮く。 「王子等」にすれば蘇我馬子を含めることができるから意味が通るのだが。 あるいは、語順を変えて「教二諸王子緇素一」としても解決する。 《高麗大興王》 〈推古紀〉に同内容の文章がある。 「十三年〔605〕夏四月辛酉朔。天皇詔二皇太子大臣及諸王諸臣。共同発誓願一。以始二-造銅繡丈六仏像各一躯一。 乃命二鞍作鳥一為二造レ仏之工一。是時高麗国大興王。聞三日本国天皇造二仏像一。貢二-上黄金三百両一。」 献上した黄金の質量は、丈六光銘の「三百二十両」の方が細かい。 反面、丈六像の作者の名「鞍作部の鳥」は、丈六光銘にはない。 《"面奉"など》 いくつかの個所において、和風漢文体(後述)が見られる。 「面奉」、また「来奉」の語順は和風で、"奉"は補助動詞「~まつる」にあたる。純正漢文では、「奉」は動詞の前に置くべき副詞で、相手への尊敬を表す。 「指命」の"指"はどちらかというと和語の接頭語「さし~」だと思われるが、純正漢文として「指名する」の意味を持たせることも可能と思われる。 「敬造」の"敬"は副詞「つつしみて」という和風表現と感じられるが、純正漢文として「敬い、そして造る」も可能であろう。 《天皇》 少なくとも、ここでいう「釈迦丈六像」を坐した609年の時点では、「天皇」称号は存在しないのは明白である。 考え方としては、①銘文に「天皇」に用いられている。②「丈六光銘」が筆写された後に、古い呼称が「天皇」に改められた。 の二通りが考えられる。後述するように、①については線刻された実物があるが、それらは何れも鍍金(金メッキ)を施してからの線刻で、 実際に像が作られたときから線刻までに相当の時期の隔たりがある場合もある。 なお、ここでは資料[41]の考察に順って、「天皇」称号の使用は最も早くて674年と仮定する。 蘇我稲目、蘇我馬子、用明天皇、推古天皇、聖徳太子の名前の表記の不安定さを見ると、文章が最初に作られたのは674年よりかなり遡ると想像される。 『上宮記逸文』(資料[20])は、 聖徳太子の記憶がまだ生々しかったころかとも思われ、「天皇」に対応する呼称は「大公王」となっている。 特に、『上宮記逸文』におけるヒメの表記は"比彌"〔新字体"弥"〕で(「阿那尒比弥」など)が、 丈六光銘の「止与弥擧哥斯岐移比彌」と共通することが注目される。 丈六光銘の原文が書紀成立前に作成された可能性は、次のことから伺われる。すなわち、 ●推古紀十六年:「大唐使人裴世清」⇒丈六光銘:「大隋国使主鴻艫寺掌客裴世清」。 書紀では「隋」が「唐」に包含され、また裴世清の肩書も載せず、丈六光銘よりも大雑把である。 ●推古紀十三年:「日本国」⇒丈六光銘:「大倭国」。 丈六光銘の「大倭国」は、書紀が「日本国」とする以前の表現と言える。 ●推古紀十三年:「高麗国…黄金三百両」⇒丈六光銘:「銅二万三千斤・金七百五十九両(うち、高麗から三百二十両)」 丈六像の造像に関する詳細な資料がかつて存在していたが、書紀の時期には失われたことを示唆する。 このように、丈六光銘はもともと『上宮記』と同時期に作られ、 まだ「天皇」称号は使われていたが、後に「天皇」を用いる書き換えがなされたと考えられる。 《成立時期》 聖徳太子の薨は622年、天皇号の導入が674年以後、書紀の成立が720年であることを考えると、 銘板への線刻の時期は上限622年、下限680年と思われる。 前述した通り、天皇名などの不安定さはⅡ「塔露盤銘」と同様の古さが感じられるが、 その一方でⅢ「丈六光銘」では「元興寺」の名称が確定している。 それに対してⅡでは建通寺であり、Ⅰ「縁起(1)」では、 元興寺・建興寺・法師寺・建通寺と並び称されて、整理がついていない。 古くはいろいろな呼び名があった〔複数の寺の名の混同も考えられる〕が、次第に整理されて元興寺に統一されていったことが伺われる。 そこから考えれば、ⅢはⅠ、Ⅱよりは新しいのではないかと思われる。 そのようにして一旦成立した丈六光銘の筆写文に、「天皇」の語を用いて書き改めたのが、上限674年、下限720年の範囲ではないかと想像するのである。 しかし、丈六光銘の現物が残っている限り、原文の改竄は憚られるであろう。調べる人がいれば、すぐにばれるからである。 恐らく現物が失われた後、文書のみが「丈六光銘曰…」として残り、後に一部書き直たのであろう。 《大意》 丈六光銘(じょうろくこうめい)に曰く: 天皇(すめらみこと)、御名は広庭が、斯帰嶋宮(しきしまのみや)で天下を知ろしめした時〔欽明〕、百済の明王(めいおう)が啓上し、 「臣が聞くに、所謂(いわゆる)仏法は既に世間の無上の法です。 天皇(すめらみこと)もまた修行し、仏像・経教(けいけいきょう)・法師を捧げて奉りなさいませ。」と申し上げました。 天皇は、巷哥(そが)伊奈米(いなめ)〔蘇我稲目〕の大臣(おおまえつきみ)に「この法を修行せよ」と詔され、ここに仏法は始めて大倭(おおやまと)〔日本国〕に立ちました。 広庭天皇の皇子、多知波奈土与比(たちばなとよひ)天皇〔用明〕は夷波礼(いわれ)〔磐余〕の涜辺(いけのへ)〔池辺〕宮にいらっしゃり、 性質は広大な慈しみに宿り、三宝を信じ重んじ、魔眼を棄てて、仏法を紹き与りなさいました。 そして妹の大王、名は止与弥挙哥斯岐移比弥(とよみけかしきやひみ)の天皇(すめらみこと)〔推古〕は、 桜井等由羅宮(さくらいとゆらのみや)にお住みになり、 涜辺天皇の志を一歩退いて盛り上げ、また三宝の理(ことわり)を重んじられました。 涜辺天皇の皇子、御名は等与刀禰禰〔彌彌〕大王(とよとみみのおおきみ)〔聖徳〕、 及び巷哥伊奈米〔蘇我稲目〕大臣の子、有明子(うめこ)〔馬子〕大臣を指名して命じ、道を聞かせ、 諸王子、緇素(しそ)〔僧と俗〕に教えさせました。 こうして、百済の恵聡(えそう)法師、高麗(こま)の恵慈(えじ)法師、 巷哥有明子(そがうめこ)大臣の長子の善徳(ぜんとこ)を統領とされ、 元興寺(がんごうじ)を建てられました。 〔推古〕十三年、歳次乙丑〔605年〕四月八日戊辰に、 銅二万三千斤〔5220kg〕、金七百五十九両〔10.8kg〕をもって、 釈迦丈六像の銅繍(どうしょう)と、二体の挾侍像を併せて敬造されました。 高麗の大興王は、まさに大倭〔日本国〕と睦みしようとして、三宝の尊重も遥かに、喜びの気持ちのままに、 黄金三百二十両〔4.54kg〕を助成し、大なる福(さいわい)に心を同じくして縁を結びます。 願わくば、この福(さいわい)の力をもって、登遐(とうか)〔=崩〕された諸皇の含識(がんじき)に遍(あまね)く及び、信心を持って絶やさず、 諸仏にお向かいして共に菩薩の岸に登り、速やかに正覚(しょうがく)を成さんことを。 歳次戊辰〔608年〕、大隋国の大使、鴻艫寺(こうろじ)掌客(しょうかく)裴世清(ばいせいせい)と、 副使の尚書祠部(しょうしょしぶ)主事の遍光高(へんこうこう)が到来して、これを奉りました。 翌年の己巳〔609年〕四月八日甲辰、畢竟(ひっきょう)〔=ついに〕元興寺に坐(ま)しました。 【法隆寺金堂薬師如来像光背銘】 光背銘の実物、法隆寺金堂薬師如来像光背銘が現存し、 法隆寺再建時に追刻されたと考えられている。 「追刻」と考えられる根拠については、次の項で調べる。 その時期と内容には、丈六光銘に通ずるものがある。 ここで薬師如来像光背銘の全文を訓読する。
用明天皇〔在位585~587〕は、586年に病気の快癒を祈願して推古天皇・聖徳太子に寺の造営と薬師像の制作を命じたが、崩じて果たせなかった。 そして推古・聖徳は607年に遺命を果たしたと読める。 《文体》 文体には、「我大御病太平欲坐」などに「目的語-動詞」の語順が見られ、 また純正漢文からの逆転:「奉仕」→「仕奉」、「賜請願」→「請願賜」などの特徴がある。 「欲坐」は、純正漢文では「坐すことを欲り」という意味だが、この文中では「坐」は倭語の補助動詞「~ます」に使う。 7世紀後半に、和文の語順に近づけた漢字表記が開発され〔ここでは"和風漢文体"と呼ぶ〕、 その学者集団に古事記を著した太安万侶も属したと考えられる。 その和風漢文体化は丈六光銘に比べて多くの個所に見える。 《天皇名の表記》 ここでは、用明天皇は「池辺宮治天下天皇」とされる。 記には「坐岡本宮治天下之天皇」(第242回)という表現があり、 古事記の頃にはこれが標準的な表記法と見られる。国造本紀の表記法「~朝御世」(「泊瀨朝倉朝」〔雄略天皇〕など)も同類である。 これに対してⅠⅡⅢでは雑多な表現が混在していた。 また、聖徳太子は「東宮聖王」、「太子」と表記されている。丈六光銘の「等与刀彌々大王」にくらべて皇太子であることが明瞭で、「推古=天皇、聖徳=皇太子」なる定式化を経た後であろうと思われる。 以上、①和風漢文体の進行、②天皇表記の洗練、③聖徳太子=東宮の明確化の三点において、 薬師如来像光背銘の方が、丈六光銘よりも新しい時代のものであると言える。 おそらくは680年~710年頃かと思われる。 一方、推古天皇の表記が注目される。 「大王」は称号ではなく名前であるが、Ⅰの「大々王」に由来すると見られる。 「豊御食炊屋姫」の別名として「大大王」もまた、長く残っていたことの証ではないかと思われる。 《線刻の時期》 〈天智紀〉九年〔670〕四月に「災二法隆寺一、一屋無レ余。」とあるので、この年に一度焼失したらしい。 「一屋も余さず」とあるから、「災」は「火災」を意味し、遂に全焼したことは明らかである。 それから再建に要する期間を10年程度と仮定すれば、薬師如来像の安置は680年頃であろう。 一方、資料[41]の検討に従い、 唐高宗の「天皇」称号674年に宣言してから、日本の国主号「天皇」普及までは10年程度だったと想定すれば、光背銘は680年代後半以後か。 また、古事記については、天武天皇〔在位673~686〕が稗田阿礼の存在を知り、古事記の献上が和銅五年〔712〕だから、 太安万侶が記を執筆するために和風漢文体を研究した期間は、680年~710年ぐらいか。 これらを併せれば、薬師如来像光背銘の時期は680年以後と想定される。 【光背・造像記の線刻】 光背や造像記の線刻には、「天皇」を線刻したものがあればその時点で「天皇」称号が使われていたことが分かる。 ただ、像が完成して直ちに線刻がされるとは限らないので、像の完成から銘文まで相当の期間を距てている可能性がある。 線刻の内側を調べると、それが像の金メッキの前か後かが分かる。 『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』(奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編;1979)は、十四例の仏像の光背、造像記などの線刻について詳細に報告している。 その「資料」のページの中で、 例えば菩薩半跏像(東京国立博物館)については「鐫刻〔=線刻〕後研磨の上鍍金〔めっき〕しており鐫刻内に鍍金あり」、 弥勒菩薩半跏像(野中寺)には「鍍金を施した後、銘文を刻み、文字の輪郭にタガネによるメクレが認められる」など、 鍍金と鐫刻の順番や、鐫刻の際に生じた「メクレ」※の状態を詳細に述べている。 ※…線刻の輪郭に沿って外側に生じた盛り上がり。 次の表は、その「資料」に記された鍍金と鐫刻の状態と、刻文中の日付表示、天皇名についてまとめたものである。
論理的には、「天皇」の文字を含む刻文の、鐫刻の内側まで鍍金が及ぶものが一例でもあれば、 それが造像された時期に「天皇」の呼称が使われていたことが確定する。 《観音菩薩立像》 「鐫刻内に鍍金」とされる碑文に天皇〔当時は大王か〕の名はなく個人名ばかりだが、観音菩薩立像(東京国立博物館)の刻文の中に「崩」〔本来、天皇の死を意味する〕の字があるのが気にかかる。 全文は: ――「辛亥年七月十日記笠評君名左古臣辛丑日崩去辰時故児在布奈太利古臣又伯在■古臣二人乞願」。 〔辛亥年七月十日記す。笠評(かさのこほり)の君、名は左古臣、辛丑の日に崩去(かむあがり)す。辰時(ときに)故(ふるき)児(こ)布奈太利古臣在り、又伯(をぢ)■古臣二人在りて乞ひ願ひき。〕 「辰時」は"辰"にも「時」の意味があるから、同意の語を重ねたか。「辰の日」も考えられるが、辛丑のわずか三日後だから、仏像を作るには期間が身近すぎる。 内容から見て、笠評〔=笠郡〕の首長の死を表すために「崩」が転用〔正確には誤用〕されたか。 《釈迦三尊像》 釈迦三尊像の「法興元卅一年歳次辛巳」は注目される。「上宮法皇」が聖徳太子〔622没〕だとすれば、「辛巳」は621年であろう。 〔「法興」は私年号〕 続けて「鬼前太后崩明年正月二十二日」。鬼前太后は間人穴穂部皇女〔欽明皇女;第239回〕と考えられている。 すると「法興元年」は591年である。『伊予国風土記逸文』に「法興六年十月歳在丙辰」とあり、596年が「丙辰」にあたるから、それで合っている。 《"天皇"を含む例》 「天皇」を含む例はすべて金鍍金されたあとの線刻だから、その時期を考えるときに造像の時期は考えなくてもよい。 「中宮天皇」のある弥勒菩薩半跏像(野中寺)・ 「上宮法皇(聖徳太子)」のある釈迦三尊像(法隆寺金堂)、 用明天皇と推古天皇の名がある薬師如来坐像(法隆寺)の刻文は、 680~700年頃の時期に刻まれたと見るのが妥当か。 『飛鳥・白鳳の在銘金銅仏』に掲載された限りでは、鍍金前の線刻に「天皇」はないから、 少なくとも「"天皇"の線刻は674年以後」との仮定は否定されない。 《薬師如来像の場合》 法隆寺金堂薬師如来像の場合、線刻文は推古天皇十五年〔607〕に造像されたと述べる。 しかし線刻の作業は、これまでに見たように西暦674年以後と見られる。 その間に70年以上の長い年月を挟むが、線刻は鍍金の後で行われたから、 辛うじて論理の破綻を免れている。これほどの年月を経たとするなら、その時期に改めて謂れを遺そうとする何らかの理由があったのかも知れない。 まとめ 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』の精読を進めると、否応なしに「天皇」称号開始時期の問題にぶち当たらざるを得ない。 この問題については、資料[41]において正面から取り上げた。 そこで得た一定の仮説を、このページの前提としている。 さて、丈六光銘の最初の形は、まだ聖徳太子の記憶が生々しい時期に『上宮記』と同じく「天皇」称号がない形で書かれた節がある。 その後、7世紀の後期に「天皇」称号使用が開始されたことに合わせて、丈六光銘の筆写文として伝わってきた文書を部分修正し、 一方薬師如来像光背銘については最初から「天皇」称号を用いた形で文が作成されたと整理した。 歴史的な背景としては、当時の天武天皇の宗教政策は神道復興に軸足を移しつつあった。 仏教界はそれに危機感を覚え、改めて仏教を導入した広庭命〔欽明〕、その振興を果たした豊御食炊屋姫・厩戸王子・蘇我馬子を押し出そうとした。 そのために「天皇」称号を磯城嶋天皇〔欽明〕まで遡らせ、豊御食炊屋姫を「大王天皇」、厩戸王を「東宮聖王」として偉大化したのではないだろうか。 その背景があって、この時期に丈六光銘の改定や、薬師如来像光背銘の線刻がなされたと推察するのである。 |
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2020.09.02(wed) [4]Ⅳ:牒 ▼▲ |
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牒は本来、官員による上司への報告文書を意味したが、上下関係のない場合にも用いられるようになった。後には上から下向けにも使われた。
天平二十年のいくつかの「縁起并資材」の報告が「牒」とされるのは、 この形式が、寺から僧綱への報告に拡張されたものと考えられる。 【Ⅳ:牒】
「僧綱」は僧を管理する職で玄蕃寮に属し、主席は大僧正(だいそうじょう)。次席が大僧都(だいそうづ)である。 牒の提出先の「大僧都行信」については、『日本人名大辞典』(講談社;2001)によると、行信は「元興寺で法相(ほっそう)を学ぶ。 天平9年(737)法隆寺に聖徳太子筆「法華義疏」などを寄進し、のち同寺東院伽藍(がらん)を復興、大僧都にのぼる。法隆寺夢殿にその乾漆座像が現存」するという。 【弘福寺:牒】 関連ありそうな事項を検索したところ、『広瀬町史』史料編上〔広瀬町史編纂委員会編;2000〕にの中に、ほぼ同じ様式の文書が見つかった。 それが「弘福寺三綱牒」である。 その一部が見えたので見ると、驚くべきことに三つの日程がすべて元興寺の牒と一致した。そこで同書を所蔵する図書館から関係ページのコピーを取り寄せ、その詳しい中身を調べた。 なお、『広瀬町史』が用いた出典は、『大日本古文書』(東京大学史料編纂所)の「第十巻;東寺文書」とされる。
●三綱は、個々の寺の内部を統率する。役職は上座・寺主・維那(都維那)。 ●僧綱は僧尼を統率し、諸寺を管理する官職で、僧正・僧都・律師という役職がある。僧都は後に分化する。 牒の提出の流れは、まず僧綱から作成を命じ、各寺ごとに三綱が牒を作成して僧綱に提出する。 僧綱は、佐官僧たちがそれぞれの牒の内容を点検し、大僧都への提出を以って処理を終了する。 弘福寺と元興寺のそれぞれの「牒」について、共通点と相違点を整理する。 ①両寺ともに、僧綱から天平十八年十月十四日付けで、「牒」の提出を指示された。 ②両寺ともに、縁起資材等の「子細勘録」をまとめた「牒」を、天平十九年二月十一日に提出した。 ③「弘福寺」は、作成した三僧の名前が記されるが、「元興寺」には「三綱。可位五人」だけで名前がない。 ④僧綱は寺から提出された「牒」の中身を点検し終えた。ともに天平廿年六月十七日付けて提出。 ⑤ともに提出先は、「大僧都法師行信」。 ⑥弘福寺からの牒には、五名の点検者の名前が載るが、元興寺からの牒では点検者の役職のみである。 僧綱が各寺に縁起と流記資材を求めたことは、個々の寺の活動への管理・統制の強化という動機に基づくのは明らかである。 僧綱はまた玄蕃寮の下にあるから、同時に国家への権力の集中の一貫ということである。 両寺の牒の日程が全く一致すること奇異で、また元興寺の牒には署名者が省略されているから、 弘福寺などの牒を下敷きにした偽作ではないかとの思いが湧いた。 偽書の作成者は、そこに実名を入れることへの怖れをどうしても免れることができず、「省略」を装ったようにも考えられるからである。 ただ、そのその真相に迫るためには、他の寺が提出した牒との比較が欠かせない。 他の寺も同じ日程ならば、基本的には偽作疑惑は消えるからである。 そこで調べていくと、『寧楽遺文』〔竹内理三編。東京堂出版;1943、改訂版1962〕にも、いくつかの寺の「伽藍縁起并流記資材帳」が収められていることが分かった。 《寧楽遺文》 某図書館所蔵の旧版『寧楽遺文』は破損が激しく、封筒に入れられ取扱注意という代物であった。改定版では「寺院緣起幷資財帳」の部分は中巻に置かれるが、ざっと見たところではこの部分は旧版と同一である。 そのうち、弘福寺の「三綱牒」と概ね同じ形式のものは、法隆寺(北浦定政手澤本)、大安寺(大和正歴寺所蔵)、元興寺(山城醍醐寺所蔵)である。 これら以外には、「法隆寺緣起幷資財帳」(大和法隆寺文書、資材帳のみ;天平宝字五年〔761〕)、 「西大寺資材流記帳」(内閣文庫本を西大寺本で補正、四巻のうち第一巻;宝亀十一年〔780〕)、 「弘福寺田畠流記帳」(円満寺文書、短文;和銅二年〔709〕)が含まれる。 一方、弘福寺の「三綱牒」は『寧楽遺文』には入っていない。 【法隆寺・大安寺】 弘福寺の「三綱牒」と同じ形式をもつ法隆寺と大安寺の牒を加え、四者を比較する。
●天平十八年十月十四日、天平十九年二月十一日、天平二十年六月十七日という日付が、四寺とも一致している。 ●僧綱の署名者が明示されている三寺については、署名者がほぼ一致している。唯一の例外である弘福寺の「顛清」も、「顔清」の誤記であろう。 ●大安寺だけは「牒」の形式を用いていない。 牒の提出日及び、点検完了日が同じだから、僧綱の同じメンバーが点検作業を行って署名したのは、ごく自然である。 法隆寺の「牒」は、文章も元興寺のものと酷似しているところが注目される。 想像ではあるが、各寺の牒への決裁文は僧綱の僧が分担して作成したものと考えれば、文章には多分に個性があり、 法隆寺と元興寺への決済文はたま同じ人が書いたことが考えられる。 大安寺の場合、提出者が左大臣だったから、目上への提出文書を意味する「牒」を使わなかったと見られる。 文章中では「牒の提出を求められた」と述べつつ、提出文書自体は「言上」である。 法隆寺と大安寺は、『伽藍縁起并流記資材帳』という名目に相応しい構成になっている。 すなわち「縁起」は簡潔にまとめられ、「流記資材帳」は細かいものまでいちいちリストされている。 これが基本形であろう。すなわち
元興寺は「流記資材帳」の部分には、肝心の備品が全く載らず、書かれるのは寺領のみで不完全である。 「縁起」は、天平二十年の牒のために書き下ろされたものではなく、古くから伝わる文書をそのまま当てたように思われる。 また順番は、①②④③となっている。 《元興寺の牒》 有力な大寺が同じ日程で牒を提出しているのを見れば、僧綱は諸寺に一斉に縁起并流記資材帳の提出を命じたのは明らかである。 元興寺も同じ日程で提出したのは確実である。 但し、現在山城醍醐寺所蔵として残る元興寺の縁起并流記資材帳が、天平二十年に提出したものと同じと言ってよいかどうかは、 なお疑問が残る。 《山城醍醐寺所蔵》 本ページでは、原文の出典として『大日本佛敎全書』を用いた。 『寧楽遺文』の「山城醍醐寺所蔵」と比較すると、「縁起」の部分に加えられた小さな文字に相違が見られる。 しかし、こと「牒」の部分に関しては相違箇所は僅かである。 A『大日本佛敎全書』:「寺家緣起幷資財等物」、「□位五人」、「業之僧」。 B『寧楽遺文』:「寺家緣左幷資財等物」、「可位五人」、「業了僧」。 その他は「三綱三人」などの細かい部分も含めて共通するから、恐らく同じ原文を見ていて、読み取り方の相違であろう。 Aは、「可位」は意味不明だから「可」にしきれず、また「業了僧」という語を知らなかったと見られる。 Bは、「左」の誤りはあまりに明らかだから残すまでもないと考えたわけである。 一方、「縁起」の部分への小文字の書き加えは、筆写された書に後から加えられたものであろう。 まとめ 「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」は、法隆寺、大安寺、弘福寺と同じ日程で作成して提出されたと思われる。 しかし、文書の現物は残っておらず、後世にそれらしく再構成されたものであるように思われる。 その理由の第一は、「縁起」の部分が、 「馬屋戸聡耳皇子 受レ勅記二元興寺等之本縁及等与弥気命之発願并諸臣等発願一」 〔聖徳太子が勅を受け、元興寺の縁と推古天皇の発願、諸臣の発願を併せて記す〕文、 及び塔露盤銘、丈六光銘を単に寄せ集めたものであることである。 牒として提出するのであれば、現在の寺自身が主体となって「坐磯城宮天皇御宇 百済国正明王上啓云…」と責任をもって書き始めたはずである。 その点では、法隆寺や大安寺の『伽藍縁起并流記資財帳』の方がずっと相応しい文体である。 第二は、「流記資財帳」に当たる部分が大変貧弱であることである。これも法隆寺〔『寧楽遺文』で21頁分〕、大安寺〔同じく15頁分〕の詳細さに比べれば、全く体をなしていない 〔「賤」2行と「寺領」8行のみ〕。 第三は、その「流記資財帳」が「牒」の後ろになっていること。これは、結局は本来の流記資財帳のうち僅かに得られた断片を付け足したもので、しかも順番を間違えているのである。 第四は、「牒」の部分が法隆寺の牒とほぼ同文で、また署名が省略されていること。 これは、「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」なるものを再現するために法隆寺の牒の文章を流用したと見られないこともない。 名前を省いたのは、万が一捏造が発覚したときに、署名まで捏造したとなれば罪の重さは比べ物にならないからではないか。 以上から、本当の「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」は確かに存在したが失われた可能性が高い。 現在の「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」は後に再構成されたものであろうが、 その素材として用いた 「馬屋戸聡耳皇子記す」なる原資料の骨格が、 680年以前の古い文書の姿を化石のように残しているのではないかということが、注目されるのである。 |
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2020.09.07(mon) [5]Ⅴ:流記資財帳 ▼▲ |
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【Ⅴ:流記資財帳】
賤口は、「賤民の人数」の意であろう。 賤民については、「五色の賤」の制度では、 「陵戸=官戸=家人>公奴婢>私奴婢」で、このうち陵戸・官戸は課税の対象となっている (資料[35])。 「定989人」に「訴良口724人」を加えると、「合賤口1713人」に一致する。 賤民でない者は「良民」である。「訴良口」とは良民になることを申請中だが、今のところ賤民であると解することができる。 「有名無実」を含めない実質人数を、「合賤口」としたわけである。 なお、「有名無実」は『寧楽遺文』によった。『大日本佛敎全書』では「有レ名無二二人一」となっている。 明らかに「有名無実」の方が意味が通る。 賤民には官戸・家人と奴婢が含まれるわけだが、「奴291人」「婢370人」は「合賤口」の内数だろうか。 これらが一足飛びに「訴レ良口」を求めるとは考えにくいから、奴+婢=661人は、賤口「定」989人の一部か。 となると割合が大きすぎるから、外数かも知れない。 「見定口六十二奴婢」〔『寧楽遺文』によるもので、『大日本佛敎全書』は「見定四六十二奴婢」〕は、 今のところ意味不明である。誤写かも知れない。 《未定五十町三反》 453町7段343歩-定田438町4段343歩=15町3段である。 従って、「未定五十町三反〔段と同じ〕」は、「未定十五町三反」の誤写であろう。 なお、「五十町三反」は『寧楽遺文』によるもので、『大日本佛敎全書』では「五十町一反」となっている。 《食封》 食封(じきふ)は、令で規定されていて、 『令義解』-「禄令第十五」には 「凡食封者 一品二八百戸。二品六百戸。〔中略〕太政大臣三千戸。左右大臣二千戸。〔中略〕正一位三百戸。…」などとある。 食封は、貴族や大臣等の禄として、一定数の農家〔封戸(ふこ)という〕の納める税を割り振ったものである。 封戸は貴族や大臣とともに、寺社にも割り当てられた。 《吉備》 七か国のひとつとして「吉備」を挙げるのは不審である。 牒の日付は天平二十年〔748〕だが、既に704年には備前・備中・備後になっていたのが確認できる。 それより先、7世紀のある時点では後の備中地域が「備後国」、備後地域が「安那国」であった (〈安閑紀〉備後国の屯倉)。 このように、吉備が一つの国であったのは天平時代から見れば遥か昔のことである。 このような不正確さを含む文書が、果たして「子細勘録」したと称して僧綱の点検に堪えうるものだろうか。 因みに『法隆寺伽藍縁起并流記資材帳』では 「合庄庄倉捌拾肆〔八十四〕口 屋壹佰壹〔一百一〕口」の中に「備後國壹處在深津郡」、 「合今請墾田地玖佰玖拾肆〔九百九十四〕町」の中に「備前国壹佰伍拾〔一百五十〕町」が見える。 正しく「備後国」「備前国」が用いられ、また数字に大字が用いられているところを見ても、これが正規の"牒"であろう。 《三論衆など》 ●三論衆…南都六宗に三論宗(さんろんしゅう)、成実宗(じょうじつしゅう)を見る。 南都六宗とは、「八世紀に官大寺で研究されていた三論宗・法相宗・倶舎(くしゃ)宗・成実宗・華厳宗・律宗の六宗を指す。」(『国史大辞典』吉川弘文館;1979~1997)。 三論宗の起源はインドで、「隋末・唐初のころ、僧吉蔵が中国十三宗の一として完成。日本には推古天皇33年」に伝えられたという(『デジタル大辞源』)。 〈推古紀〉三十三年正月に「高麗王貢二僧恵灌一。仍任二僧正一。」とあり、この恵灌が元興寺に就き、三論宗の祖となったという。 ●成実衆…成実論(じょうじつろん)は、 「作者は訶梨跋摩(かりばつま)」、「おそらく4世紀後半インドでつくられ、まもなく羅什によって中国にもたらされた」、 「成実宗は日本にも伝わり、奈良時代には南都六宗の一つに数えられた」(『日本大百科全書』小学館;1994)。 ●摂論衆…摂論宗(しょうろんしゅう)は 「インド瑜伽派の祖無著の『摂大乗論』を研究する学派。」、 「陳の真諦が本書を漢訳してから隋と初唐のころに華北で盛行」し、 「中国・新羅の僧侶によって奈良時代初期には伝来していたらしく、天平九年(七三七)の太政官奏に「元興寺摂大乗論門徒」と記されている」(『例文 仏教大辞典』小学館;1997。以後〈仏教辞〉)。 ●一切経…一切経(いっさいきょう)は、「経・律・論の三蔵、その他、釈疏を含む経典の総称」〈仏教辞〉。 〈孝徳紀〉二年に「十二月晦、於味経宮請二二千一百余僧尼一使レ読二一切経一。」 また〈天武紀下〉二年三月に「聚二書生一、始写二一切経於川原寺一。」、 六年八月「大設二斎於飛鳥寺一。以読二一切経一。便天皇御二寺南門一而礼二三宝一。」とある。 ●温室(うんしつ)…湯あみをするための建物。湯殿。また、古くは行として湯をわかし、僧に浴させること。 〈仏教辞〉 ●安居(あんご)…定められた期間、こもって修行すること。 「インドでは、僧は雨期の間、外出により気づかないうちに草木の成育を害し、 小虫を踏みころすことなどないよう、一定の場所にこもり修行」する「雨安居」が行われ、これに由来するという〈仏教辞〉。 また「安居分(あんごぶん):安居のためにあてられた寺の費用」という〈仏教辞〉。 《一切》 〈孝徳紀〉〈天武紀〉での語の使い方を見ると、「一切経」は文字通り「いっさいの経」である。 「切」の音は「切る」の意味のときはセツであるが、「すべて」の意味のときは呉音サイである。 「一切」は仏教に限定される語ではなく、〈汉典〉"everything,all"の意味で、漢代から使われている。 《分田》 「~分」は「~の費用として割り当てた分」の意であろう。何を分けるかといえば即ち田〔食封された田〕で、 つまり、費用を「その額を捻出するのに必要な広さの分田」として表現するわけである 〔次項、法隆寺の例参照〕。 以後の「分」もすべて「分レ田」」の意味であろう。 天平二十年〔748〕(奈良時代半ば)の牒に伴う文書だから上代語で訓読する時期かと思われ、 実際にそうして見ると、「温室分田」以下がうまく訓める。 支出として、三論衆などの衆門の維持、一切経の会の開催や写経、安居の運営、僧侶が斎戒する温室などが挙げられている。 「灯」は灯籠などのろうそくであろう。そういう細かい費用も挙げているから、「通」は僧侶の旅費か。 「園地」は菜園だから、「陸地」はこれから整備する土地という意味か。 塩屋、御井は「~寺」が省略されたかも知れないが、 「塩屋寺」は全く見いだせないので、施設名か。シホヤは〈時代別上代〉にはないが、〈源氏-松風〉に 「さるしほやの傍に過ぐしつらむことをおぼしのたまふ」とあり、塩焼き小屋と解されている。 「御井」は言うまでもない。すると「山寺」も付属の小寺であろうか。 《各有其員分皆略也》 「員」は員数の意。それぞれの項目の費用を表す封戸の数を省略したという意味であろう。
まとめ 法隆寺の"流記資材帳"は「合佛像貮拾壹具 伍軀 肆拾張」から始まり、仏具、家人、奴婢、所有する田や山林に及んでいる。中には馬・牛も含まれている。 対照的に、元興寺の"流記資材帳"はごく一部の事項に過ぎず、「分田」の内訳も「略」され、存在しない「吉備国」が載るなど、 内容も大雑把である。「偽作」と呼んでしまうと見も蓋もないが、断片的に残されていた僅かな記録をかき集めて"流記資材帳"の形式に合わせて作り上げたものであろう。 そもそも「其員分皆略也」などと書かれていれば、僧綱は即座に突っ返すと思われる。 とは言え、書かれているいくつかの数値自体は、実在した資料に基づくと考えていいだろう。 また、国名「吉備」については文章の作成者の知識レベルが伺われるが、大まかに言い伝えられてきた国名を載せたものであろう。 さらに、三論衆、摂論衆、成実衆については、これらが実際に元興寺に所属して活動していた事実を反映していると見られる。 |
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⇒ 元興寺伽藍縁起并流記資財帳そのまま読む[2] |