元興寺伽藍縁起并流記資財帳をそのまま読む サイト内検索
《トップ》 古事記をそのまま読む 《関連ページ》 欽明天皇紀3

2020.07.16(thu) Ⅰ:縁起 


 『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』はその題名通り、「元興寺伽藍縁起」:仏教公伝から元興寺の創立・歴史と、「流記資財帳」:元興寺の所有する財産や荘園などからなる。 ただ、「元興寺縁起」とは言いながら等由良寺の由来の比重が大きく、 また「流記資材帳」の部分のウエイトはかなり小さい。
 全体をざっと見ると、さまざまな年代に成立した独立文書の集合体となっており、 ここでは次の7つの部分に分けた。
 縁起」…聖徳太子〔622年没〕が推古天皇に勅を受けて記したと書かれている。
 塔露盤銘」…辛亥年〔651〕に、難波天皇〔孝徳〕が授けたとされる。
 丈六光銘」…〔飛鳥大仏の光背に刻まれたものか〕
 」(上への文書)…天平廿年〔748〕。大僧都行信宛。
 流記資財帳〉…元興寺が所有する賤口1713人、水田453町あまり、食封1700戸の内訳。
 」(下への文書)…元興寺の仏教は東天竺古国の作法により「最勝仏法」を用いるべきと述べる。
 私勘」(個人的な勘考)…大法師慈俊著。長寛三年〔1165〕付け。添上郡に移転した「元興寺」について、桜井牟久原の寺以来の由来。
 には「天平十八年〔746〕十月十四日 被僧綱所牒〔僧綱、牒する所を被す〕」とある。
 「」は、本来は文書の冒頭に置く文字だから、本来は「(もともと冒頭に「諜」があったとして)-」 あるいは、「」の順序か。
 はそれまでに別々に伝わってきたものを「元興寺伽藍縁起」として、「」の前半部分としたと思われる。 は、それぞれ「諜」の後の時代に書かれた別個の文書であろう。
《出典》
 原文の『大日本佛敎全書』「大正二年〔1913〕十一月廿五日發行;佛書刊行會」を、 国立国会図書館デジタルコレクション(大日本仏教全書118)によって閲覧した。
《訓点について》
 原文には「善計〔善く計りてまうしと告げたまひき〕 など、宣命体のような小字と、カナの助詞・送り仮名が混在している。これは、奈良時代と平安以後に複数回訓点が加えられたことを意味する。
 また、この例で「」()が音仮名に使われる例は珍しいので、本来は「須」かも知れない。 このように訓点は複数の時代の混合で、また必ずしも適当でないものもあるので、ひとまずすべて除去する。 その上で、サイト主独自に返り点を付した。

:【縁起(1)】
元興寺伽藍緣起流記資財帳

楷井等由羅宮治天下等與彌氣賀斯岐夜比賣命
生年一百歳次癸酉
正月九日馬屋戸聰耳皇子 受記元興寺等之本緣
及等與彌氣命之發願 幷諸臣等發願也
元興寺伽藍縁起并(ならびに)流記(るき)資財帳
流記(るき)…寺院の道具・宝物・所領などの資材を記録したリスト。

楷井(かいせい、さくらゐ)等由羅宮(とゆらのみや)の天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ等与弥気賀斯岐夜比売命(よとみけかしきやひめのみこと)
生年一百(あれましてももとせ)の歳(さい、とし)癸酉(みづのととり)〔613〕に次(やど)れる
正月(むつき)九日(ここのか)馬屋戸聡耳皇子(うまやどさとみみのみこ)、勅を受けたまはりて元興寺(がむごうじ)等(ら)の本(もとの)縁(よし)
及(および)等与弥気命(とよみけのみこと)の発願(ほつがむ)并(ならびに)諸臣(もろもろのおみ)等(たち)の発願を記す。
大倭國佛法
斯歸嶋宮治天下天國案春岐廣庭天皇御世
蘇我大臣稻目宿禰仕奉時
天下七年歳次戊午十二月度來
百濟國聖明王時
太子像幷灌佛之器一具及説佛起書卷一筐度
…[動] やすんずる。上から下へ押さえて落ち着ける。(古訓) おさふ。
灌佛会(かんぶつえ)…四月八日(釈迦の誕生日)に誕生仏に甘茶を注いでまつる。
大倭国の仏法(ほとけののり)
斯帰嶋宮(しきしまのみや)の天下を治(をさ)めたまひし天国案春岐広庭(あまくにおしはるきひろには)の天皇(すめらみこと)の御世(みよ)自(よ)り創(はじ)む。
蘇我大臣稲目宿祢(そがのおほまちきみいなめのすくね)が仕奉(つかへまつ)りし時、
天下を治めたまへる七年(ななとせ)、歳次戊午(つちのえうま)〔538〕十二月(しはす)に度(わた)り来たりて、
百済国(くたらのくに)の聖明王(せいめいわう)の時、
太子(たいし)の像(みかた)と并(ならびに)灌仏(かむぶつの、ほとけをすすぐ)器(うつはもの)一具(ひとそろへ)及び説仏起書(せつぶつきしよ、ほとけのおこりをとけるふみ)の巻(まき)一筐(ひとはこ)度(わた)りき。
而言 當聞 佛法旣是世間無上之法 其國亦應修行也
時天皇受而諸臣等
告此自他國送度之物可用耶不要耶善計可白告
而(しかくありて)言(まをさく)「当(まさに)仏法(ほとけののり)既に是(これ)世間の無上(むじやう)の法(のり)と聞くべし、其の国亦(また)修(をさ)め行(おこな)ふ応(べ)し。」とまをす。
時に天皇(すめらみこと)受けたまひて諸(もろもろ)の臣(おみ)等(たち)に
告げたまひしく「此の他(あた)の国自(よ)り送られ度(わた)りし物、用(もちゐ)る可(べ)き耶(や)、不要(もちゐじ)耶(や)、善く計りて白(まを)す可し。」と告げたまひき。
時餘臣等白 我等国物 天社國社一百八十神一所禮奉
我等國神御心恐 故他國神不禮拜白 
但曽蘇我大臣稻目宿禰獨白 他國爲貴物
我等國亦爲貴可宜白
爾時天皇卽大臣告 何處置可
大臣白 大々王後宮分奉家定資可宜白
…[名] もと。(古訓) もとより。よし。
時に余(あたし)臣(おみ)等(たち)白(まをせらく)「我等(われども)の国の物、天社(あまつやしろ)国社(くにつやしろ)一百八十(ももはしらあまりやそはしら)の神一所(ひとところ)に礼奉(ゐやまひまつ)りて、
我等の国の神の御心を恐(おそ)りて、故(かれ)他(あたし)国の神は礼(ゐやまひ)拝(をがむ)不可(べからず)」と白(まを)せり。
但(ただ)蘇我の大臣(おほまへつきみ)稲目(いなめ)の宿祢(すくね)独(ひとり)白(まをせらく)「他(あたし)国の貴(たふとし)と為(な)せる物、
我等の国亦貴(たふとき)と為すこと宜(むべとす)可(べ)し」と白せり。
爾(この)時天皇即(すなは)ち大臣(おほまへつきみ)に告げたまはく「何処(いづこ)に置きて礼(ゐやま)ふ可きか」とつげたまひて、
大臣白(まをししく)「大々王(おほきおほきみ)の後宮(うちつみや)を分奉(わかちまつ)りたまひて家(いへ)を資(よし)と定むことを宜(むべとし)たまふ可し」と白しき。
時天王召大々王告 汝牟原後宮寺欲爲他國神宮也
大々王白 大佛心依佐賀利奉白
時其殿坐而禮始
牟原…Ⅰの他の個所では「牟久原」とあるので、ここでは「久」の脱落である。
さがる…[自]ラ四 下がる。
さかる…[自]ラ四 離(さ)かる。
時に天王〔天皇か〕大々王を召して告げたまはく「汝(いまし)が牟〔久〕原(むくはら)の後宮寺(うちつみやのてら)を他国(あたしくに)の神宮(かむみや)と為(せ)むと欲(ほり)したまふ。」とつげたまひて、
大大王白(まをさく)「大仏(おほほとけ)のみ心に依(よ)りて佐賀利(さかり)奉(まつ)らむ」と白して、
時に其の殿(との)に坐(ま)して礼(ゐやま)ひを始めき。

《大意》
元興寺伽藍縁起并(ならびに)流記(るき)資財帳
 楷井(かいせい)等由羅宮(とゆらのみや)で天下を治め賜う等与弥気賀斯岐夜比売命(よとみけかしきやひめのみこと)が、 生まれて一百年の歳時癸酉(みづのととり)〔613〕 正月九日、馬屋戸聡耳皇子(うまやどさとみみのみこ)は、勅を承って元興寺(がんごうじ)などの本の縁(ゆかり)、 及び等与弥気命(とよみけのみこと)の発願、そして諸臣らの発願を記します。
 大倭国の仏法は、 斯帰嶋宮(しきしまのみや)で天下を治め賜った天国案春岐広庭(あまくにおしはるきひろには)天皇の御世に創始されました。 蘇我の大臣稲目宿祢(いなめのすくね)がお仕えしたとき、 天下を治めて七年、歳次戊午(つちのえうま)〔538〕十二月に渡来し、 百済国の聖明王の時、太子像と灌仏器一揃え、そして説仏起書の巻一箱がもたらされました。
 そして申し上げました。「まさに仏法は既に世間の無上の法と聞かれ、あなたの国もまた修行すべきです。」
時に天皇はこれを受けられ、諸臣に 「此の他国より送られて渡ってきたものを、用いるべきか否か、よく相談して申すべし。」と告げられました。
 その時、他の臣たちが「我等の国のものは、天の社、国の社一百八十神の一まとまりを礼奉するものであって、 我等の国の神の御心は恐ろしく、よって他国の神を礼拝すべきでない」と申す中で、 ただ蘇我の大臣稲目の宿祢ただ一人「他国が貴いとするものは、 我等の国もまた貴いとすることを善しとすべきである」と申しました。
 この時天皇は大臣に同意して「何処に置いて拝礼すべきか」とお尋ねになり、 大臣は「大々王の後宮を分けて、その家を拠点にするとお決めなさいませ」と申し上げました。
 そこで天皇は、大々王をお呼びになり「お前の牟久原(むくはら)の後宮に祀る寺を作り、他国の神の宮にしたいと思う。」と告げられ、 大大王は「大仏(おおほとけ)の御心に順うことにして、後宮に退きます。」と申し上げ、 この時この宮殿に居を定めて拝礼を始められました。


【縁起(2)】
《省略部分1》
 ここでは概略のみを示し、精読は後の回に行う。なお、年の干支表記は原文のまま示した。
 また、個人名についても、その表記の揺れが重要であるから、原文の表記を示した。
然後百濟人高麗人漢人
弘少々爲修行在

〔中略〕

〔聡〕耳皇子白
今我等天朝生年之數算
建於百位
竝道俗之法世建興建通
竊惟 如是事豈非德耶
●一年を隔てて、数々の神の心〔災難〕が現れる。
天王〔欽明天皇〕告ぐ:「国内数々乱れ病死人の多きは、他国の神を礼する罪、許さじ」
〔曽我〕稲目大臣白(まう)す:「外面は諸臣に従うが、内心は他国の神を捨てず」
天王告ぐ:「我もそう思う」
●「三十余年」て稲目大臣は病が危くなり 池辺皇子〔用明〕大大王〔推古〕に白(まう)す: 「仏法修行すべし。諸臣は滅捨を計るが、 天皇と我は同心、皇子等も心の底は同心である」
●このとき大大王他田皇子〔敏達天皇〕の嫡后となった〔書紀は576年〕
已丑年〔569〕稲目大臣薨。
庚寅年〔570〕諸臣は堂舎を焼き、佛像・経教を難波江〔堀江〕に流した。 このとき二人の皇子〔池辺皇子と大大王〕は 「この殿は仏の神宮ではなく、 大大王の後宮を貸しているだけだ」と言って焼かせなかった。
辛卯年〔571〕国内病死人多く、大旱魃と思えば大雨、 遂に大官の神社が出火した。 天皇は驚愕し、病を得て危うくなり、 池辺皇子大々王に告ぐ: 「ゆめゆめ仏神を憎み捨てるな。 大大王の牟久原の後宮を譲って仏を祀り、 その代わりに耳元宮気弁田を後宮とせよ」 と告げ、皇子らは承知した。
●同じ卯年〔571〕天皇崩。
辛丑年〔581〕他田天皇〔敏達〕大后大大王に告ぐ: 「若し望むなら欽明天皇の生前の言葉通り、牟久原後宮を提供して仏を奉れ」。 大大王はこの命を承り、 壬寅年〔582〕牟久原殿を楷井に遷し、
●【癸卯〔583〕】初めて桜井道場を作り、 灌佛の器を隠蔵した。 稲目大臣の子、馬古宿祢は、国中の占いに問い、 父の在世中の言葉が神の意であることを知る。
大臣〔馬子宿祢〕は畏れ仏法を広めることを願い、出家人を求め、 斯末売十七歳、等已売伊志売が仏法の受学を希望し、大臣は喜んで出家させた。 それぞれ法名は善信禅蔵恵善。桜井道場に住まわせた。 三尼は、甲賀臣が百済から持ち帰った石弥勒菩薩像を供養礼拝した。
乙巳年〔585〕二月十五日 止由良佐岐〔豊浦埼〕に刹柱〔塔〕を立て大会〔おほえ〕を催した 他田天皇〔敏達〕は刹柱を斫伐し、 大臣と仏法の人を責め、仏像・殿を皆破り焼き滅し、佐俾岐弥牟留古造(佐伯御室子?のみやつこ)を遣わして 三尼を都波岐市〔海石榴市〕長屋に連れて行って法衣を脱がせて仏法を破却した。 このとき桜井道場は大后大大王が「犯すな。私の後宮である」と言って焼かせなかった。
●仏法を滅ぼすと、国内に悪瘡が流行り人民は多くが病死した。 三尼は家にこもって難を避けた。
●馬古宿祢大臣は病を得て、他田天皇〔敏達〕に三宝を敬いたいと白して、 天皇は大臣だけには許し、大臣は三尼を願い受けて三宝を敬い礼した。
●乙巳年〔585〕他田天皇〔敏達〕崩。
●池辺皇子〔用明〕即位。馬屋門皇子〔聖徳〕は白す: 「仏法を破滅したから災禍が増えた。三尼を櫻井道場に置いて供養させるべし。」 天皇は許した。
●三尼は役人に白す:「伝え聞くに、出家人は授戒を受けるのが本来であるが戒師がいない。百済に渡って授戒を受けたい。」
丁未年〔587〕役人が百済から来た人に聞いたところ、白す: 二十人の僧尼を必要とするのが法。法師寺を設けて百済国の僧尼を請うて授戒せしむべし」
丁未年〔587〕池辺天皇〔用明〕は百済の人が帰るときに法師と造寺の工人を急いで送るように頼んだ。 また、大大王と馬屋門皇子に対して、「法師寺を建てる場所を見定めよ。但し尼寺と互いに鐘の声が聞こえ、日没前に行き来できる距離に置け」と命じた。 しかし、法師と工人が来る前に、池辺天皇は崩じた。
戊申年〔588〕次の椋攝天皇〔崇峻〕のとき 六人の僧と工人が送られ、寺の金堂などを建てた。
●三尼は強く白す:「六僧では二十師に足りない。やはり百済に渡って授戒したい。」 役人は弟子信善と一善妙を併せ五尼を遣わした。
●聡耳皇子は大大王に詳しい事情を聞き、馬古大臣と共に法師寺を興した。
戊申年〔588〕に仮垣仮房を作り六人の法師を住まわせた。 また桜井寺内に屋を作り工人を住まわせ、寺を作らせた。
庚戍年〔590〕に尼たちが授戒を終えて帰還した。 尼たちは白す: 「仏に礼する宮をおつくりいただきたい。そして半月ごと法師寺と共に白羯磨を行いたい。」 〔※…僧尼が合議して物事を決める会合〕 そこで桜井寺内に堂を簡易に作って尼たちを置いた。
癸丑年〔593〕大大王天皇が等由良宮で天下を治めたとき聡耳皇子に告げた: 「桜井寺で仏法が起こり、荒廃しかけたこともあったがあなたは欽明天皇の遺志を継いでよく仕えた。 それでも私は等由良宮を完成させたい。そのために速やかに仕えよ。私のためには小治田宮を作れ。 尼たちの白羯磨のためには、法師寺を速やかに建てて斎せよ。」
癸丑年〔593〕に宮を移し、金堂や礼仏堂をまず簡易に作る。 等由良宮が寺になったことから等由良寺と名付けた。
大大王天皇令天下めたまった時、聡耳皇子は白した: 「天朝に生まれて百歳になり、道俗の法が確立した。ひそかに思うに徳の至すことである。
《小治田宮》
 〈推古紀〉では「天皇位於豊浦宮」〔豊浦宮で即位〕したのち、 十一年十月に小墾田宮(をはりだのみや)に遷る。
 雷丘東方遺跡で「小治田宮」墨書土器が出土したことにより、小治宮は雷丘周辺にあったことが確定している (安閑紀-元年十月)。 豊浦宮時代の豊御食炊屋姫(推古天皇)の事績は書紀には何も書かれていないが、 では欽明天皇の時代から等由良後宮(豊浦宮)に住んでいて、皇女時代に一部を仏殿にし、 次に桜井道場を置き、即位後に同じ場所に等由良寺(現在の向原こうげん寺;明日香村字豊浦630)を建立する。
《概要》
 この部分の要点を搔い摘んで示す:
 欽明帝の残りの期間、仏教は排斥される。
 代が変わり敏達天皇は、仏法の再興に理解を示すが、 晩年になり、堂塔の構えを備え始めるのを見て再び弾圧に転ずる。 辛うじて馬古宿祢(曽我馬子)だけに個人的な崇拝が許され、仏法の火種は残る。
 用明朝になり公的な再興が認められ、大大王(後に推古)・馬古大臣・聡耳皇子(聖徳太子)によって、 等由良宮に桜井寺(等由良寺)を尼寺として建てるとともに、鐘声が互いに聞こえる場所に法師寺を建造する。

【縁起(3)】
佛法最初時 後宮不破 楷井遷作道場
爾時三女出家時 卽大喜而令其道場
而生佛法牙 故名元興寺
其三尼等者 經云以比丘身得度
卽現比丘身而爲説法 其斯之謂矣
今亦更佛法興-弘世 建元興寺 本名故稱名建興寺
次法師寺者 自高麗百濟法師等重來奏佛法
寺建稱名建通寺
當皇后帝世 並 通佛之法建興通 故知大聖現影
經曰於王後宮女身而爲二上説法 其斯之謂矣
卽知 以此相應於此國機 故隨其德義 稱名法興皇
以稱名 永世應流布
仏法(ほとけののり)の最初時(はじめ)は、後宮(うちつみや)を破ら令(し)めず、楷井を遷(うつ)して道場(だうでやう)を作りき。
爾時(ときに)三(みたりの)女(をみな)家を出でし時、即ち大喜(いとよろこ)びて其の道場に住まは令めたまひき。
而(しかくして)仏法(ほとけののり)の牙〔芽〕(め)を生(お)ほして、故(かれ)元興寺と名づけき。
其の三(みたり)の尼(あま)等(たち)者(は)経(つね)に、以ちて比丘(びくに)の身を得度(とくど)をす応(べ)しと云(まを)せ者(ば)、
則ち比丘身を現(あら)はして説法(せつはふ)を為す、其(それ)斯(そ)の謂(いはれ)なり。
今亦(また)更に仏の法を世に興(おこ)し弘(ひろ)めむとして元興寺を建てり。本の名、故(かれ)称(たた)へて建興寺と名づけき。
次に法師寺者(は)、高麗(こま)百済(くたら)自(よ)り法師(はふし)等(ら)重ね来たりて、仏の法を奏(まを)す。
寺建つるを称(たた)へて建通寺と名づく。
当(まさに)皇后(おほきさき)の帝(みかど)なりたまひし世(みよ)、並(な)べて仏の法(のり)に通(かよ)ひて建ち興こり通(とほ)りて、故(かれ)大(おほき)聖(ひじり)の影(みかげ)を現(あらは)すことを知る乎(や)。
経(すでに)王(きみ)の後宮(うちつみや)を女(をみな)の身の為に変へて説法を為(せ)しめたまひきと曰(まを)すは、其(それ)斯(そ)の謂(いはれ)なり。
即ち知る。此の国の機(とき)に相応(ふさふ)を以て、故(かれ)其の徳義(いきほひ)の隨(まにま)に、称(たた)へて法興皇(はふこうくわう、のりおこしたまふすめらみこと)と名づく。
以て名を称(とな)へて、永き世流布(し)く応(べ)き也(なり)。」

《大意》
 仏法の最初の時、後宮を破壊から護り、楷井道場に作り変えました。
 そのとき、三人の女子が出家し、大いに喜んでその道場に住まわせました。 こうして仏法の芽が生まれ、よって元興寺と名付けました。
 この三人の尼たちは、常に得度して比丘尼になりたいと申し、 これが現に比丘尼の身となって説法した謂われです。
 今また更に仏の法を世に興弘するために元興寺を建てました。もともとは、建興寺と称名しました。
 次に法師寺は、高麗(こま)百済(くたら)から法師等が重ねて来て、仏法を奏上しました。 寺を建てたので建通寺と称名しました。
 まさに皇后が帝となられた御世、並べて仏法に通じ、建興を通して、大聖の御影を現すことを知るべし。 既に王の後宮を女子のために作り変えて説法を為させたことは、その謂われです。
 即ちこの国の機に相応しいお方であることを知り、その徳義のままに法興皇(ほうこうこう)と称名いたします。 この称名をもって、永く世に流布すべきです。」


【縁起(4)】
《省略部分2》
爾時 聰耳皇子諸臣等告
傳聞 君行正法卽隨行

〔中略〕

東有十一丈大殿 
銅丈六作奉
西有八角圓殿者
繍奉
●符〔下命する文書〕を諸臣に送り、 発願して白す:「仰ぎ三宝の頼〔みたまのふゆ?〕を蒙るを願い、皇帝陛下と共に乾坤〔=天地〕四海の安楽に与(あずか)らん」 正法益をまし、聖化無給なり」
天皇は立ち上がり合掌仰天し、また涙を流して懺悔し告ぐ: 「親族のうち、愚か者が三宝を破滅し焼き流し奉物を滅ぼしたが、 今は等由良後宮を尼寺として山林田園封戸奴婢を納め奉る。  また法師寺を敬造し、田園封戸奴婢を納め奉る。   また丈六仏二柱を敬造し、自他ともに種々の善根を修め功徳により、 親族の罪を贖う。 二寺と二体の丈六仏は毀損しないことを誓う。etc.」 〔結局、元興寺と、尼寺豊浦寺(別名向原寺)を建て、それぞれに丈六仏を置いたと読める〕
聡耳皇子は諸臣に告ぐ: 「伝え聞くに、君の正法には従い、邪法は諫めるべし。 我らの天皇の行った願を見聞し、正しき行いを願い、天下の万姓みな従うべし」
中臣連物部連も諸臣と心を同じくし、白す: 「これより三宝の法をこれ以上破らず焼き流しません。 三宝の物を犯さず、これより左肩に三宝、右肩に神を置き、並べて礼拝尊重供養いたします。 もし破り誤ることがあれば天皇の願い通り種々の大災を被り恥じましょう。 この善を願い、功徳を願い、皇帝陛下と共に日月天下の安楽に与り、子孫も頼を被ります。 世が変わっても変わることなく益をうけます。」 〔※…仏・法・僧〕
聡耳皇子に告ぐ: 「事の有様を子細に知り、我が在るときの仏法の起こり来たさま、 元興寺など建てるさま、及び我が発願の子細を記(ふみ)として遺せ」〔それが文書Ⅰらしい〕
●また告ぐ: 「刹柱〔塔〕、二体の丈六仏を奉じたところ〔金堂〕は清浄を保て。」 その「塔」は、宝欄〔垣〕の東の仏門のところに建つ。 「二体の丈六像」の製造所は、物見岡の北方、東十一丈のところにある。 地の東に大殿があり、丈六の銅仏を作り奉る。 西に八角円殿があり、飾りを奉る。
《概要》
 この部分の主な内容は、 推古天皇の発願。 中臣連・物部連が仏法を受け入れるとする誓い。 「縁起」を起草する指示など。 から成る。
 中臣連・物部連の立場は、倭の神祇を仏法を同等に受け入れるというものである。 奈良時代以後の神仏習合という宗教形態の出発点は、ここにあったと見てよいであろう。

【縁起(5)】
北池邊列槻宮治天下橘豐日命
皇子馬屋門豐聰耳皇子
櫻井等由良治天下豐彌氣賀斯岐夜比賣命
生年一百歳次癸酉正月元日
吉事啓聞日 勅受賜上諸事記
大々王天皇詔私稱沙彌善貴於前二寺及衆物
凌貪於惡人而此文莫寫開示
若滅此文錯亂
二寺卽將散滅
汝等三師堅受持
嚴順法師 妙朗法師 義觀法師
〔此〕(これ)、池辺列槻宮(いけのへのなみつきのみや)天下を治(をさ)めたまひし橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)〔用明〕
皇子(みこ)、馬屋門豊聡耳皇子(うまやどのとよさとみみのみこ)、
桜井(さくらゐ)等由良(とゆら)〔の宮〕に天下(あめのした)を治(をさ)めたまふ豊弥気賀斯岐夜比売命(とよみけかしきやひめのみこと)の、
生年一百(あれましてももとせ)の歳(さい、とし)癸酉(みづのととり)〔613〕に次(やど)れる正月(むつき)元日(つきたち)、
吉事(よごと)を啓(ひら)き聞きまつる日、勅(みことのり)を受け賜(たまは)りて上(うへの)諸(もろもろ)の事を記(しる)しまつる。
大大王天皇詔(みことのり)して私(わたくしに)沙彌善貴(さみぜむき)と称(なの)りたまひて、前(さき)の二(ふたつの)寺(てら)及(および)衆(よろづの)物を伝へたまふ。
悪しき人に凌貪(むさぼること)を押(おさ)ふ応(べ)かりて、此の文を写し開き示すこと莫(な)授(さづ)けそ。
若(も)し此の文(ふみ)を滅(ほろぼ)し、若し錯(まが)へ乱(みだ)ら者(ば)、
当(まさに)二寺(ふたつのてら)即ち将(まさに)散(ち)り滅(ほろ)びむとすることを知るべし。
汝等(いましら)三(みたり)の師(し)堅く受け持て。
厳順(げむじゆむ)法師(ほふし)、妙朗(めうらう)法師、義観(ぎくわむ)法師よ。
《勅受賜上諸事記》
 は、本来は「吉事啓聞日勅受賜上諸事記。」で閉じたはずである。 この「」が、冒頭の「受"記"元興寺等之本縁…」 に対応すると考えられるからである。
 その後の、大大王が私的に「沙弥善貴」と名乗った部分、及び紛失・毀損・改竄の禁止を命じた部分は、後に書き加えたものであろう。 なお、ここでも「二寺〔元興寺と豊浦寺〕の文書であることを明示している。
《大意》
 この、池辺列槻宮(いけのへのなみつきのみや)天下を知ろしめた橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)〔用明〕の 皇子、馬屋門豊聡耳皇子(うまやどのとよさとみみのみこ)が、 桜井(さくらい)等由良(とゆら)の宮で天下を知ろしめる豊弥気賀斯岐夜比売命(とよみけかしきやひめのみこと)の、 生まれて百年、次歳癸酉〔613〕の正月元日、 吉事の啓示をお聞きする日、勅(みことのり)を承り、上のもろもろの事を記しました。
 大大王天皇は私的に沙彌善貴(さみぜんき)と称すると詔され、さきの二寺と万物を伝えられました。
 悪人が凌貪〔無理強いしてむさぼること〕を押さえるべきで、この文書を開示したり写させてはならない。 もしこの文書を破棄したり散逸させれば、 まさに二寺が散滅するだろうことを知らねばならない。 お前たち三師は堅く保持せよ。
 厳順(げんじゅん)法師。妙朗(みょうろう)法師。義観(ぎかん)法師。


【縁起(解釈)】
《楷井》
 の冒頭は「楷井等由羅宮治天下等与弥気賀斯岐夜比売命」で始まり、 聖徳太子が推古天皇の勅によってこの書を記して献上したと述べる。 締めくくり部分にもほぼ同じ文章を置くが、こちらは「櫻井等由羅宮」となっている。
 これらを見れば、「楷井」はもともと「櫻井」であったと見るのが妥当であろう。
 しかし、同一文中に楷井と櫻井を並べた箇所がある。癸卯年に「牟久原殿楷井遷始作櫻井道場」とあるのがそれである。 「聡耳皇子白」の部分の「後宮不令破楷井遷作道場」は、これの短縮形である。 これだけを見ると、まるで「牟久原宮殿を楷井から移動させて、櫻井道場を作った」かの如く読める。
 ただ、動詞「」には、ある物体が位置を変える。物の形や中身が変わる。の二通りの意味がある。 ここでは間違いなくで、今まで大大王の宮殿として使われてきた「楷井の牟久原殿」の使い道が変わって「櫻井道場」になったのである。 ただ、には後世の書き加えがあると見られ、書き加えた人が「楷井」と「櫻井」が別の土地だと思い込んで「楷井遷」を挿入した可能性がある。
 次に「牟久原宮殿」と「等由良宮」がでてくるが、それらの関係を考える。 「等由良後宮爲尼寺」と「牟久原後宮」と、両方とも「後宮」をつけた箇所がある。 「後宮」は本来は〈汉典〉:「嬪妃所居之処」とあるように王の宮殿内の妃の宮室だが、 ここでは太后である大大王(豊炊屋姫)の、独立した宮殿である。
 そして「等由良宮成寺故名等由良寺」を併せて考えれば、 「等由良後宮は牟久原後宮の別名で、そこが「等由良尼寺」(豊浦寺)になったと解釈できる。
 結局、等由良後宮(別名牟久原後宮)」が583年に「櫻井道場」として使われ初めたが、相変わらず敷地内に豊御食炊屋とよみけかしや姫が住んだ。 593年に豊御食炊屋姫が即位して小治田宮に移り、等由良後宮=櫻井道場の場所に尼寺「等由良寺」の仮堂が作られて本格的な造営が始まった(書紀・塔露盤銘によれば完成は596年)。
 また、以上から楷井=櫻井=等由良=牟久原であるのも確定的である。
 さて「楷井」はに限らず、後に書かれた、さらには12世紀のにも使われている。 の筆者はを参照して、その中にあった「楷井」を用いたのであろう。 だから「楷井」が誤写だとすれば、以前の筆写において既に生じていたことになる。 さらに遡れば、そもそもを作成する時点で用いた複数の資料に「櫻井」を使った文書と「楷井」を使った文書があったのかも知れない。 同じ場所を表す複数の表記が脈略なく出てくることは、複数の文書を合体して作られた感を強める。
 結局、櫻井楷井は同一地名ではあるが、ごく早期から二種類の表記として定着してしまった。 これを客観的事実として尊重するなら、「楷井」にも独自の読み方が必要になる。しかし訓は不明だから、音読みを用いてカイセイということになろう。
《生年一百》
 「推古天皇百歳」は明らかに誇張であるが、書紀では即位の年齢は意外なほど高く示されるのが一般的である。 天皇については、自然年齢とは別の値が公称されていたと考えられる。恐らくは神格化のためであろう。
《仏法の渡来時期》
●幾つかの点について書紀の記述と比較する
縁起対応する書紀の記事
戊午年〔538〕
天国案春岐広庭天皇〔欽明〕御世
百済国聖明王時太子像灌佛之器一具
及説仏起書巻一筐度
〈宣化三年〉
壬申年〔552〕〈欽明十三年〉百済聖明王献釈迦仏金銅像一躯幡蓋若干経論若干巻
〔戊午(538)後卅余年;569頃〕
大々王〔推古〕日並他田皇子〔敏達〕之嫡后にまします
〈欽明三十年頃〉
⇒〈敏達紀五年〉〔丙申576〕豊御食炊屋姫尊〔推古〕皇后
辛卯年〔571〕
其代者そのしろは耳元宮気弁田…為後宮
〈欽明三十二年〉
⇒〈推古紀九年〉〔辛酉601〕五月。天皇居于耳梨行宮
壬寅年〔582〕
大后大々王〔推古〕池辺皇子〔用明〕二柱同
〈敏達十一年〉
癸卯年〔583〕
始以作櫻井道場
〈敏達十二年〉
⇒〈推古紀二十年〉〔壬申620〕-置桜井而集少年伎学儛
三女出家住其道場〈敏達紀十三年〉〔甲辰584〕-営仏殿於宅東方」し、三尼に彌勒石像を斎させる。
乙巳年〔585〕
他田天皇敏達
〈敏達十四年〉
丙午年〔586〕〈用明元年〉
庚戌年〔590〕〈用明五年〉
 書紀では、百濟王が釈迦像や経論を献上したのは壬申〔552〕だが、 では戊午〔538〕に太子像や経典が渡って来た。しかも、その年を欽明七年としている。 戊午年は書紀ではまだ宣下朝である。
 一般論としては「戊午」が誤写である可能性も考えなければならないが、蘇我稲目が病となった569年頃が「仏法が来て三十年余」とされるから538年は計算が合う。 よって、戊午は誤写ではないと思われる。 書紀と食い違う理由は不明だが、歴史の教科書には一般的に538年の方が採用されている。
《耳元宮気弁田》
 欽明天皇は「大々王之其牟久原後宮者。更無心。終奉於佛共取為自物〔牟久原後宮は自分のものとせず、仏殿として提供せよ〕と詔して、 新たな豊御食炊屋姫の後宮として、耳元宮と、付属の気弁田〔御名代か〕与えられた。
 ところが、推古天皇即位の「…我者小治田宮作」の部分も「今まで住んでいた等由良宮のところに桜井寺を建て、小治田宮に遷った」と読める。 このように、には内容が相異なる別伝が混在している。
 書紀では「皇后即天皇位於豊浦宮」とあるように、即位するまでずっと豊浦宮に住んでいた。 「耳元宮」については、〈推古紀〉九年に、名前が類似する「耳梨行宮」に行幸した記事がある。
《桜井道場》
 池辺癸卯〔583〕年に桜井道場を設置して、三人の尼=善信・禅蔵・恵善を住まわせた。 書紀では、〈敏達紀〉十三年に三尼を置いたとするが、桜井道場ではなく蘇我馬子の家の東の仏殿に置いた。
 「桜井道場」に対応する部分を書紀に探すと、〈推古紀-二十年〉〔620〕まで下る。 つまり、では桜井道場の開始が癸卯〔583〕まで繰り上がっている。これは、書紀ととの大きな相違と言える。
 当時は敏達朝だから、「大后大々王与池辺皇子」のうち「池辺皇子(用明)」の表記は全く適切である。 「大后〔=皇后〕も、豊御食炊屋姫(推古)は、敏達天皇の「嫡后」だから適切である。
《天皇の表記》
 では、基本的に天皇を「天皇」と表記する。
 ここで、『上宮記逸文』を見ると、 継体天皇を「伊波礼宮治天下乎富等ヲホド大公王」と表記している。 『上宮記』は聖徳太子の薨からあまり日を置かずに書かれたと考えられ、 当時は称号「天皇」が存在しなかったのは明らかである。「天皇」に書き直さない形で残った文書は、極めて貴重である。
 継体天皇の称号は「宮殿名+"治天下"+個人名+"大公王"」の構造をしている さらに遡って、〈銀象嵌錯銘鉄剣〉は「治天下獲加多支鹵大王」(雄略天皇;五世紀末)と見られ、 〈銀象嵌錯銘鉄剣〉は「獲加多支鹵大王」(同)である。 したがって、5世紀の時点で北九州から南関東の範囲を統一国家とする概念が確立していて、その統治者としての「治天下」「大王」という表現は少なくともそこまで遡るわけである。
 また、宮殿を天皇名とする書法は〈国造本紀〉の「泊瀨朝倉朝」(雄略)、「難波高津朝」(仁徳)に見られる。 これも古事記の編纂時期には既に一般的で、「坐岡本宮治天下之天皇」(舒明天皇;第242回)の表記がある。
 これらの一般的な表記から見て、のうち自然な書法は、 斯帰嶋宮治天下天国案春岐広庭天皇〔磯城嶋宮治天下押春木天皇;欽明〕である。
 ところが大大王天皇命〔推古天皇〕は、据わりが悪い。 「大王」には、天皇の昔ながらの呼び方という意識が残っていたようで〔万葉集のワガオホキミなど〕、また「天皇命」もスメラミコトミコトがダブる。 つまり「大大王天皇命=オホスメラミコトノスメラミコトノミコト」を意味する奇妙な語となってしまう。
 同じ大大王への表記でも、楷井等由羅宮治天下豊弥気賀斯岐夜比売命〔桜井豊浦宮治天下豊御食炊屋姫命〕は天皇名として適切である。 ところが、ここではなぜか「天皇」ではなく「」のままである。
 「池辺列槻宮治天下橘豊日命」〔用明〕も「天皇」ではなく、「」のままである。
 そこで考えられるのは、の原型は〈上宮記〉の同時期ではないかということである。 それを、「天皇」が使われるようになった時期(690年ぐらい?)に系統的に表記を直したのではないか。
 はもともと「…案春岐広庭大王」であろう。そうすれば『上宮記』との類似性も高まる。 は「大大王命」に「天皇」を挿入した。 は「…豊弥気賀斯岐夜比売命」を「…豊弥気賀斯岐夜比売天皇」に直し切れなかったことが考えられる。 も同じであろう。
 その他、『大日本佛敎全書』版では、しばしば「天王」となっている。 「天皇」の使い始めの頃は、「天王」の表記が混在していた可能性もある。過渡期に改定されたことの一つの表れか。
 なお、「天皇」が使われるようになった時期についての考察は、後の回で改めて述べる。
《大大王》
 は、馬屋門皇子うまやどのみこ(聖徳太子)が自ら執筆したことになっているが、にわかには信じ難い。 ただ、前項の考察により、原形となった文章は『上宮記』と同じぐらいの時期に成立したように思われる。
 その原形の文章で「大大王」なる呼び名が使われていたと考えられる。 当時聖徳太子自身が推古帝に対して、大きな敬意を払って「大大王」と呼んだのだろう。 仮に太子自身が記した文書ではなくとも、その体裁をとって書かれているからこの呼称が用いられるのである。
 オホキミは、天子のほかに有力な御子もそう呼ばれていた。おそらく聖徳太子自身もオホキミだったのだろう。 推古天皇の超越的な地位を表すために、「大」を重ねたと思われる。
 他に例のない呼び名だから訓は不明だが、〈倭名類聚抄〉では平安時代の職名の「大-」が「於保伊」と訓まれる例が多い。 「オホイ」は「オホキ」の音便であるから、「大大王」にはオホキオホキミが、ひとつの訓みとして考えられる。
 の最後に、「聡耳皇子」の名による奏上の中に、推古天皇の仏教振興の功績に対する賛辞がある。 聡耳皇子(聖徳太子)が政治の実権を握っていたが、その上に宗教上の権威を担う推古天皇を戴いていたわけである。 これは古代のヒメヒコ制(第83回)がこの時代に再現されたものとの言える。 聖徳太子=大王、推古天皇=大大王と位置づけられていたのは確定的である。
《元興寺と豊浦寺》
 「元興寺縁起」とは言うが、少なくともについてはほとんどが豊浦寺に関する記事で占められている。 飛鳥元興寺そのものに関する記述は僅かで、587年に豊浦寺の鐘の声が聞こえる距離に「法師寺」の場所を決めさせたところに見える程度である。 そこでは、豊浦寺は尼寺として位置づけられている。
 尾張の方の「聡耳皇子」名による奏上を正しく読むと、建立されたのは三寺である。 三尼の桜井道場が、最初の元興寺である。 新しく元興寺を別のところに建てたが、最初の名前は建興寺である。 高句麗・百済から招いた僧のために建てたのが法師寺で、別名建通寺という。  の尼は、にでかけて行って白羯磨に参加する。が現在の飛鳥寺の場所で、 と同一か、隣接していたのではないだろうか。 が後の向原寺であろう。
 なお「法興皇」は、推古天皇の功績を讃えた文脈の中にある。 既に皇女の時期に後宮を提供して仏教を芽生えさせ、 天皇に即位したきには仏法に通じて建・興・通して大聖の御影を現した功績を示し、 その徳義のままに法興皇と名付けて称えるという文章だから、「法興皇」とは推古天皇のための称号である。
《文書成立時期》
 の内容は、推古帝生誕百年と称する612年までのことである。 それ以後の平城京移転のことはまだ載らない。
 これまで考察したように、この文書の最初の形は6世紀半ばまでに出来上がっており、 以後改定が重ねられたのだろうが、特に690年頃から大幅な書き換えがあり、「天皇」の表記はこのときに加えられたと考えられる。
 ただ、用語法のばらつきを見ると、このときの改定者の腕はあまりよくない。仮に太安万侶が行っていれば、はるかにエレガントで統一性のある文書になっただろう。 だが、それでは元の姿は見えなくなる。不器用な改定の御蔭で、改定前の原型に迫ることができるわけである。

まとめ
 には、全般に表記の不統一が目立つ。ストーリーの一貫性に疑問を覚えたり、意味が取りにくいところもある。 既に最初に複数のソースを繋ぐ段階で、表現の統一が不十分だったのであろう。 さらに、長いに年代に渡って書き加えがあり、脈絡を通しきれていないようにも見える。
 さて、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』なる文書を読み始めたのは、仏教公伝の年が書記と不一致であるからである。 その真相に迫るためには、全体像とての文書の信憑性を判定することが不可欠なのである。
 これまで見たところでは、7世紀初めから8世紀半ばぐらいスパンの中で複数の人の筆が混在し、混乱もある。 ただ"桜井道場"が敏達朝に遡る可能性そのものは、十分に認めてもよいだろう。
 仏教公伝とされる戊午年〔538年〕そのものは、早い時期に書かれて変わっていないと見られる。 しかし、事柄が詳しく年代付きで述べられるのは569年以降である。それまでの31年間は概念的で、 神の祟りや疫病、そして伽藍の焼き討ちなど、容易に頭の中で考え出せる範囲のことである。 事柄の記録としては、事実上空白であろう。
 「538年」については、欽明天皇の即位前後の時期の事柄が年代付きで書かれていて初めて、書紀の対照資料として役立つ。 それでこそ、信憑性の判定が俎上に登るのである。
 それが何もなく、ぽつっと孤立して「戊午年」があるだけでは、 残念ながら「言い伝えのひとつ」に留まる。仏教公伝の時期は、依然として書紀による片肺飛行なのである。